本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





島あふひ

没年月日:1988/10/30

女流画家協会会員の洋画家島あふひは10月30日、老衰のために死去した。享年91。明治29(1896)年11月3日徳島県小松島市に、石丸桂の二女として生まれる。大正2(1913)年徳島県立高等女学校を卒業し、同年島亮二と結婚。一時、島成園に日本画を学ぶ。12年に上京し翌13年より川端画学校に入る。15年前田寛治の主宰する前田写実研究所に入り、中央美術展、一九三〇年協会展に出品。昭和2(1927)年第14回二科展に「N嬢の像」で初入選し以後12年まで同展に出品する。12年第1回展より一水会展に出品。また同年七彩会を設立する。18年東京・青樹社で個展を開催。戦後は、21年に一水会展に出品して同会会員となるが、翌22年より二紀会に参加。23年女流画家協会が設立されるとその第一回展から出品する。37年第9回同展に「太海」「冬小立」「黄樹」を出品してM夫人賞受賞。同年一水会を退く。38年十一会に入会し以後その同人展に出品を続ける。41、42年東京・資生堂画廊で個展を開き、49年には同画廊で回顧展を開催した。人物、風景を多く主題とし、簡略化された形態と豊麗な色調を示す。女性洋画家の草分けとして活躍した。

渡辺一郎

没年月日:1988/10/27

国画会会員の洋画家渡辺一郎は、10月27日午後7時30分、心不全のため神戸市中央区の神鋼病院で死去した。享年76。明治45(1912)年4月17日、東京に生まれる。東京美術学校に入学し藤島武二に師事。在学中の昭和11(1936)年第1回新文展に「少女座像」で初入選。同12年東京美術学校を卒業ののちフランスへ渡り約2年間滞在。15年第27回光風会展に滞欧作「モレーの寺院」「巴里の裏町」を出品してI氏賞を受賞。また、同年2600年奉祝展に「若き水産学徒の像」を招待出品する。16年第4回新文展に「種蓄場」を出品。戦後は32年より国画会展に出品し、34年同会会友、37年会員となる。戦前は対象に即した写実的作品を描いたが、のち、抽象に転じ、晩年は対象を大胆にデフォルメしたユーモラスで洒脱な具象画を描いた。 国画会展出品略歴第31回展(昭和32年)「工事(コンクリート)」、35回(36年)「建設機械A」「建設機械B」、40回(41年)「作品66-12」、45回(46年)「作品71-J.N.-A」、50回(51年)「Collage歩行者優先」、55回(56年)ちから持ち」

佐藤潤四郎

没年月日:1988/10/23

日本クラフトデザイン協会初代理事長、ガラス工芸研究会初代会長をつとめたガラス工芸家佐藤潤四郎は、10月23日午後6時1分、肺炎のため東京都文京区の順天堂大学附属病院で死去した。享年81。明治40(1907)年9月26日、福島県郡山市に生まれる。昭和2(1927)年福島県立安積中学校卒業。太平洋美術学校を経て東京美術学校工芸科鍛金部に入り、同9年卒業して東京市立小石川高等小学校の図面手工科教員となる。この頃金工界の新鋭であった北原千鹿に誘われ工人社の同人となる。11年各務クリスタル製作所に入社。13年第2回新文展に「硝子花瓶」で初入選し、以後、第3、4回展にも出品。戦後も日展に出品し、22年第3回日展に「クリスタル花器」を出品して特選、27年日展審査員となる。幾何学文様によるモダンなデザインで注目され、また鉄のフレームの中に透明ガラスを吹き込む独自の技法でガラス工芸界に新境地を開いた。29年、アメリカ・コーニング社主催東洋デザインコンテストに「埴輪(人物)」を出品して一等賞受賞。31年日本デザイナークラフトマン協会(現・日本クラフトデザイン協会)の創立に参加し、その初代理事長となる。47年、各務クリスタル製作所を退職し、翌48年茨城県笠間市に「ひつじ窯」を開窯して陶器の製作を始める。50年、ガラス工芸研究会の発足に際し、初代委員長となる。51年、『ガラスの旅』を出版。翌52年、同書の刊行、および永年の業績により財団法人工芸財団より国井喜太郎賞受賞、また、53年には窯業協会より功労賞を受賞する。透明ガラスを主体に、洗練された詩情ある作風を示した。著書に『ガラス-窯と火と風-』(昭和54年)、『比伊止呂造法』(59年)などがある。

市川加久一

没年月日:1988/10/01

旺玄会常任委員の洋画家市川加久一は、10月1日午前10時59分、脳内出血のため大阪府守口市の関西医大病院で死去した。享年82。明治38(1905)年10月17日、三重県鈴鹿市に生まれる。大正14(1925)年三重師範学校を卒業。昭和3(1928)年上京して太平洋画会研究所に入り、高間惣七に師事する。翌4年国際美術協会国内展に出品。6年槐樹社展に出品する。8年東光会が設立されるとその第1回展から参加するが、11年高問惣七らと共に同会を退き主線美術協会の設立に参加する。14年第1回美術文化協会展に出品。17年第5回新文展に「夏の庭」で入選。戦後は25年から旺玄会に出品し、28年第7回展に「二人」「静物」を出品してクサカベ賞受賞、29年第8回展では古橋会賞を受け、同年旺玄会委員に推挙されるとともに、関西旺玄会を設立する。32年三重県立博物館主催による個展を開催する。36年渡欧。58年『市川加久一画集』を刊行する。初期には写実にもとづく具象画を描いたが、戦後間もなくは立体派に学んだ構築的形体把握から簡略化した画面へと転じ、頭部を楕円で表わし目鼻を描かない独自の人物像を組み合わせた群像を多く描いた。

池田遥邨

没年月日:1988/09/26

旅を愛し漂泊の画人といわれた文化勲章受章者の日本画家池田遥邨は、9月26日午前零時55分、急性心不全のため京都市上京区の相馬病院で死去した。享年92。明治28(1895)年11月1日、池田文四郎、鹿代の長男として岡山県浅口郡に生まれ、本名曻一。45年大阪に出て松原三五郎の天彩画塾に入塾、洋画を学ぶ。大正3年第8回帝展に水彩画「みなとの曇り日」が初入選、以後も水彩を描き続ける。一方、この間大正2年小野竹喬を識り、同7年より独学で日本画を研究。同7年第12回文展に6曲1双の屏風「草取り」を出品するが落選する。これを機に、翌8年竹喬を頼って京都に出、竹内栖鳳の画塾竹杖会に入塾する。知恩院に仮寓しながら、「遥村」と号し、同8年の第1回帝展に日本画「南郷の八月」が入選した。引続き、9年第2回帝展に「湖畔残春」が入選。翌10年京都市立絵画専門学校に入学し、この頃よりムンク、ゴヤらの影響を受ける。同年「颱風来」を制作し、12年には鹿子木孟郎とともに関東大震災後の東京を写生。翌13年第5回帝展に大震災を生々しく描写した「災禍の跡」、14年第6回帝展に「貧しき漁夫」など、社会派的な作品を出品するが、ともに落選した。また13年京都市立絵画専門学校を卒業後、同校研究科へ進み、15年修了。13年帝展落選後、1年間の放浪の旅に出、昭和3年には安藤広重の版画に傾倒し東海道を踏破する。同4年にも日本全国を旅行し、それぞれ同7年「東海道五十三次図会」、9年「日本六十余州名所図会」の作品にまとめあげた。この間、昭和3年第9回帝展「雪の大阪」、5年同第11回「鳥城」がともに特選を受賞。次いで7年第13回帝展「大漁」、9年第15回「浜名湖今切」など、独特の鳥瞰図法による明るい色彩の画風へと移行する。戦後、26年第7回日展「戦後の大阪」など一時抽象風の作品を描いたのち、単純化された画面構成の象徴的作風へ移行。34年第2回新日展出品作「波」により、翌年日本芸術院賞を受賞。さらに45年第2回改組日展「寥」、47年同第4回「囁」など、縹渺な作品を制作する。晩年は俳人種田山頭火の世界を好んで題材とし、59年第16回日展「うしろ姿のしぐれてゆくか山頭火」などを発表した。また、昭和11年より24年まで京都市立絵画専門学校(のち京都市立美術専門学校)で教え、11年上村松篁らと水明会、12年浜田観らと葱青社を結成。28年には自ら画塾青塔社を組織し、後進の指導にあたった。27年日展参事、33年同評議員、49年参与、52年顧問に就任。47年初の京都府美術工芸功労者、48年京都市文化功労者となり、58年京都府文化賞特別功労賞を受賞。51年日本芸術院会員、59年文化功労者となり、62年文化勲章を受章した。このほか、48年より奈良教育大学で講師として教え、55年作品、スケッチ489点を倉敷市に寄贈した。著書に53年『池田遥邨随筆』、作品集に48年『池田遥邨画集』などがある。 年譜明治28年 11月1日、鐘ケ淵紡績工務係技手をつとめる池田文四郎と鹿代の長男として岡山県に生まれる。本名、曻一。生まれて間もなく、父の転勤で大阪府北河内郡に一家は移住する。明治31年 この頃、父の転勤に伴い大阪市の天満橋筋あたりに移住する。明治33年 父の転勤に伴い、福岡県大牟田に移住する。明治35年 4月、大牟田尋常小学校に入学する。明治36年 父の転勤に伴い、一家で上海に渡り、本願寺経営の開導小学校2年生に転校する。明治37年 父が鐘ケ淵紡績から福島紡績大阪本社に転じたため日本に帰り、父の姉がいた大阪・堺市に移住、南旅篭尋常小学校3年生に転校する。明治39年 4月、堺市宿院尋常高等小学校に入学する。明治42年 父が福島紡績福山工場長として転勤したため、一家で広島県福山町に移り、福山尋常高等小学校4年生に転校する。明治43年 3月、福山尋常高等小学校を卒業する。4月、広島の中学校を受験の日、スケッチに出かけて試験を放棄する。初夏、忠田嘉一の紹介で、単身大阪に出て松屋町にあった松原三五郎の天彩画塾に入り、洋画の勉強を始める。大正2年 この年、福山で、水彩画約30点による初めての個展を開催する。小野竹喬と出会う。大正3年 10月、第8回文展に水彩画「みなとの曇り日」が初入選。大正5年 10月、兵役中、第10回文展に水彩画「衛戌病院」を出品したが落選。大正7年 10月、日本画に興味を持って独学で制作した、六曲一双屏風「草取り」を第12回文展に出品したが落選。大正8年 4月、小野竹喬をたよって京都に出て竹内栖鳳の画塾に入り、知恩院崇泰院に仮寓する。と号す。10月、第1回帝展に日本画「南郷の八月」を出品し入選。大正9年 10月、第2回帝展に「湖畔残春」が入選。大正10年 1月、小野竹喬の仲人で真塚品子と結婚する。4月、京都市立絵画専門学校別科に入学し、あわせて京都市立外国語学校仏文科(夜間)にも通う。この頃から、ムンクやゴヤの影響を受ける。10月、第3回帝展に「枯れつつ夏は逝く」を出品したが落選。この年、第1回芸術院展に「颱風来」が入選。京都で初めての個展(京都府図書館)を開催。大正11年 3月、朝鮮・慶州、満州・ハルビンに旅行する。10月、第4回帝展に「風景」が入選。この年、京都市立外国語学校を中退する。大正12年 9月、鹿子木孟郎とともに関東大震災後の東京をスケッチしてまわり、約400枚を描く。この年、四国を旅行。大正13年 3月、京都市立絵画専門学校を卒業し、さらに研究科へ進む。10月、第5回帝展に大震災跡に取材した「災禍の跡」を出品したが落選。大正14年 10月、第6回帝展に「貧しき漁夫」を出品したが落選。大正15年昭和元年 3月、京都在住の岡山県出身の画家、小野竹喬、鹿子木孟郎らとを結成、発会式を挙げる。京都市立絵画専門学校研究科を修了。5月、第1回聖徳太子奉讃美術展に「林丘寺」が入選。この頃から画号をからに改める。10月、第7回帝展に「南禅寺」が入選。昭和2年 10月、第8回帝展に「華厳」が入選。昭和3年 4月、東海道写生旅行を決行。10月、第9回帝展に「雪の大阪」が入選、特選となる。昭和4年 6月、パリ(6/1~7/25)及びブリュッセルで開催の日本美術展に「雪の日」を出品。10月、第10回帝展に「京の春宵」を無鑑査出品。昭和5年 3月、2回目の東海道写生旅行をする。第2回聖徳太子奉讃美術展に「錦小路」を出品。7月、翌年1月からベルリンで開催予定の日本美術展国内展に「鴨川春宵」を出品。10月、第11回帝展に「烏城」が入選し、特選となる。昭和6年 3月、帝展推薦となる。8月、10月から11月にかけてアメリカ・オハイオ州トレドで開催予定の日本画展国内展に「閑居」を出品。10月、第12回帝展に「祇園御社」を出品。この年、「東海道五十三次図絵」を完成。昭和7年 10月、第13回帝展に「大漁」を出品。昭和8年 5月、竹杖会ただ一度の塾展となった竹杖会大研究会が開催され、「鴨川」を出品。10月、第14回帝展に「巨椋沼」を出品。 昭和9年 10月、第15回帝展「浜名湖今切」を出品。この年、「日本六十余州名所」の大半が完成。竹杖会の解散に伴い、葱青社を結成。昭和10年 10月、帝国美術院の松田改組により、無鑑査に指定される。昭和11年 5月、京都市立絵画専門学校助教授となる。11月、文展招待展に「日光山」を出品。を結成、日本画壇の革新を目指す。昭和12年 10月、徳岡神泉らと六人会を組織。第1回文展に「江州日吉神社」を出展。昭和13年 3回目の東海道写生旅行をする。7月、京都でが開催される。10月、第2回文展に「日吉三橋」を出品。『東海道五十三次図絵』を芸艸堂から出版。昭和14年 4月、ニューヨーク万国博覧会に「拾翠池」を出品。7月、朝鮮においてを開催。10月、中国に渡り、杭州、揚州、蘇州などをスケッチ旅行する。昭和15年 11月、紀元二千六百年奉祝展に「肇国之宮居」を出品し、宮内省買い上げとなる。秋、目黒雅叙園襖絵揮毫のため竹杖会会員とともに東上、1カ月にわたって制作、遥邨は「東海総行脚」を描く。昭和16年 1月、伊勢神宮から熊野三山を巡拝する。12月、葱青社解散。昭和17年 1月、九州の諸神社を巡拝し、出雲大社に参詣。10月、第5回文展に審査員として「三尾四季之図」を出品、政府買い上げとなる。昭和18年 9月、神社を描いた作品を集めた『池田遥邨作品集』を刊行。10月、第6回文展に「吉野拾遺」を出品。昭和19年 11月、戦時特別文展に「伊勢神宮」を出品。昭和20年 11月、第1回京展に「金閣・銀閣」を無鑑査出品。昭和22年 10月、第3回日展に審査員として「雪の神戸港」を出品。昭和23年 10月、第4回日展に「白鷺城を想う」を出品。昭和24年 7月、京都市立美術専門学校助教授を退職する。10月、第5回日展に「鳴門」を出品。昭和25年 第6回日展に「金閣追想」を出品。昭和26年 10月、第7回日展に審査員として「戦後の大阪」を出品。昭和27年 10月、日展参事となり、第8回日展に「幻想の明神礁」を出品。昭和28年 3月、画塾を結成、主宰する。10月、日展評議員となり、第9回日展に「灯台」を出品。この年、岡山大学教育学部講師となる。昭和29年 10月、第10回日展に審査員として「瀧」を出品。昭和30年 10月、第11回日展に「銀砂灘」を出品。文部省買い上げとなる。昭和31年 10月、第12回日展に「溪」を出品。昭和32年 11月、第13回日展に審査員として「石」を出品。昭和33年 6月、岡山後楽園延養亭の能舞台鏡板に「松竹」を描く。11月、社団法人となった第1回新日展に審査員として「灯台」を出品。昭和34年 11月、第2回新日展に「波」を出品。昭和35年 3月、前年の日展出品作「波」で昭和34年度日本芸術院賞を受賞。11月、第3回新日展に審査員として「沼」を出品。昭和36年 11月、第4回新日展に「大王崎」を出品。昭和37年 11月、第5回新日展に「古刹庭上」を出品。昭和38年 11月、第6回新日展に審査員として「雪庭」を出品。この年、紺綬褒章を受章。昭和39年 11月、第7回新日展に「雪の神戸」を出品。昭和40年 11月、第8回新日展に「飛石」を出品。昭和41年 5月、岡山で小林和作と二人展(金剛荘)を開催し、日本画のほか模写を出品する。11月、第9回新日展に「叢」を出品。昭和42年 11月、第10回新日展に「明星」を出品。この年、大阪市立美術館運営委員となる。昭和43年 11月、第11回新日展に「海底」を出品。昭和44年 11月、日展が改組され、第1回展に審査員として「堤」を出品。昭和45年 11月、第2回改組日展に「寥」を出品。昭和46年 10月、京都市主催に10点が出品される。11月、第3回改組日展に「閑」を出品。昭和47年 3月、この年制定された京都府美術工芸功労者の表彰を受ける。10月、『池田遥邨画集』をマリア書房から刊行する。11月、第4回改組日展に「囁」を出品。この年、岡山大学構師を退職する。昭和48年 6月、紺綬褒章を受章。11月、第5回改組日展に「谿」を出品。京都市文化功労者に選ばれる。昭和49年 7月、『池田遥邨集』(現代作家デッサンシリーズ)が中外書房から出版。11月、日展参与となり、第6回改組日展に「礎石幻想」を出品。昭和50年 11月、第7回改組日展に「群」を出品。昭和51年 10月、第8回改組日展に「影」を出品。12月、日本芸術院会員に選ばれる。昭和52年 10月、日展顧問となり、第9回改組日展に「海鳴り」を出品。11月、勲三等瑞宝章を受章する。昭和53年 7月、紺綬褒章を受章。11月、第10回改組日展に「川」を出品。昭和54年 10月、第11回改組日展に「堰」を出品。昭和55年 9月、岡山県の文化発展に尽くした功績により、第13回岡山県三木記念賞を受賞。10月、郷里倉敷市に作品、スケッチ489点を寄贈。これを記念して、岡山で開催。11月、第12回改組日展に「錦帯橋」を出品。昭和56年 10月、第13回改組日展に「稲掛け」を出品。昭和57年 3~5月、京都、岡山、大阪、東京で開催。10月、第14回改組日展に「朧夜」を出品。11月、『池田遥邨の履歴書 聞き書き・エッセイ』出版(京都書院)。昭和58年 3月、新しく制定された京都府文化賞特別功労賞を受賞。10月、第15回改組日展に「芒原」を出品。紺綬褒章を受章。11月、倉敷市立展示美術館が開館し、遥邨常設展示室で寄贈作品による池田遥邨展開催。昭和59年 4~5月、東京、大阪、京都、岡山(高島屋)において新作個展開催。『池田遥邨画集』が京都書院から出版される。11月、文化功労者の表彰を受ける。第16回改組日展に「うしろ姿のしぐれてゆくか 山頭火」を出品。昭和60年 11月、第17回改組日展に「鉄鉢の中へも霰山頭火」を出品。昭和61年 1月、(愛媛県立美術館)開催。5月、東京で(渋谷東急)開催。11月、京都、神戸、岡山でが開催 第18回改組日展に「雪へ雪ふるしづけさにをる 山頭火」を出品。12月、倉敷市名誉市民となる。不整脈を訴え入院、翌年4月まで病床に臥す。昭和62年 11月、第19回改組日展に「あすもあたたかう歩かせる星が出ている 山頭火」を出品。姫路で(姫路市立美術館)開催。文化勲章を受章。受章後体調を崩し、心臓疾患のため上京区の京都府立医科大学附属病院に再度入院、翌年5月中旬まで病床に臥す。昭和63年 4月、高島屋美術部創設80年記念が京都、東京、岡山で開催。8月、風邪のため制作を中断する。倉敷市に作品、スケッチ211点を寄贈。9月24日みたび入院するが、9月26日午前0時55分、急性心不全のため、京都市上京区の相馬病院で死去する。(『池田遥邨遺作展』1989年京都国立近代美術館図録より抜粋)

矢崎虎夫

没年月日:1988/09/24

日本陶彫会副会長の彫刻家矢崎虎夫は、9月24日午前2時45分、胸部動脈りゅう破裂のため東京都小平市の自宅で死去した。享年84。明治37(1904)年7月25日、長野県茅野市に生まれ、大正12(1923)年諏訪中学校を卒業して上京、平櫛田中に師事する。昭和4年日本美術院展に初入選。5年第17回同展に「雷鳥」を出品する。6年東京美術学校彫刻科を卒業。9年日本美術院展に「小諸の母」を出品して試作賞受賞。戦後も院展に出品し、28年第38回展に「若き髪」を出品して佳作(白寿賞)、29年には「浴光立女」で、34年には「立女習作」で奨励賞(白寿賞)を受賞する。39年渡欧しオシップ・ザッキンに師事。41年日府展に「雷電像」を出品して文部大臣賞受賞。55年第1回高村光太郎大賞展に「サリーを着た女」を出品して優秀賞、57年同展には「阿修羅」、59年同展には「やまなみ」を出品して同じく優秀賞を受ける。木彫を中心にブロンズ、石膏など多様な素材を使い、仏典や歴史に取材した題材を多く手がける。受賞作のほかに、パリ・バンセンヌ公園の「雲水群像」、川崎大師の「釈迦像」、諏訪湖の「八重垣姫像」、長野市の「大観音像」などの代表作がある。

朝吹四郎

没年月日:1988/09/18

日本建築家協会会員の建築家朝吹四郎は、9月18日午前8時26分、心不全のため東京都新宿区の慶応病院で死去した。享年72。大正4(1915)年10月26日、東京都築地明石町に生まれる。慶応義塾幼稚舎を経て同普通部を昭和8年に卒業。英国に渡り13年ケンブリッジ大学を卒業し建築学士の称号を得る。24年朝吹設計事務所を開設。32年日本建築家協会会員となる。フィンランド大使館のほかビルマ、ベルギー、インド、マレーシア、カンボジア、ニュージーランド等各国の大使館を設計したほか、石橋記念館、ブリヂストン芝浦ビル、富士急ハイランド・リゾート、富士急富士宮ビル等の公共建築、ブリヂストン三河台社宅、三菱銀行賢島荘など公共住宅建築の設計を多く担当する。35年ベルギー国よりシュバリエ・ド・ロルドル・ド・ラ・クーロンヌ勲章を、41年にはカンボジア国よりオフィシエ・ソワタラ勲章を受章する。

片山行雄

没年月日:1988/09/18

元京都教育大学教授で嵯峨美術短期大学の学長をつとめた工芸史家片山行雄は、9月18日午後零時15分、すい臓がんのため京都市左京区の京大付属病院で死去した。享年79。明治41(1908)年10月12日、三重県三重郡に生まれる。旧姓訓覇。昭和2(1927)年京都市立美術工芸学校を卒業。8年東京美術学校図案科を卒業し、同年森永製果広告課に入社する。14年京都市立美術工芸学校教員となる。22年より京都市立美術専門学校で教鞭をとり同校教授となるが、24年より京都市工芸指導所に勤務する。38年同指導所を退職。翌39年浪速短期大学教授、42年京都教育大学教授となる。47年京都教育大学を停年退官し、同年より嵯峨美術短期大学教授となり、60年より同学学長をつとめた。工芸学、工芸史およびデザイン史を専門とし、長く美術教育に尽力した。京都市円山公園水飲所デザイン等、制作にも従事している。

福井勇

没年月日:1988/09/14

行動美術協会会員、京都精華大学名誉教授の洋画家福井勇は、9月14日午前6時35分、うっ血性心不全のため京都市左京区の日本バプテスト病院で死去した。享年80。明治41(1908)年7月17日、京都府何鹿郡に生まれる。昭和3(1928)年京都府師範学校本科を卒業して京都市立下鳥羽小学校教員となり、以後30年間京都府内の小、中学校教員をつとめる一方で制作活動を行なう。昭和8年関西美術院研究科を修了し、同年第20回二科展に「初夏の水辺」で初入選。以後同展に出品を続け、18年同会解散を前に会友に推挙される。また、同6年より全関西展に、同10年より京都市展に出品し、たびたび受賞する。戦後は行動美術協会の結成に参加。21年第1回同展に「傘亭」他を出品し、また、同年より改めて開設された京都市展に出品し始める。京都市展、大阪市関西総合展、京都洋画総合展などで審査員をつとめ、44年より関西美術院理事となり、院の経営、指導に当たる。また、43年より京都精華短期大学で教鞭をとった。外景と室内の静物とを並置し、実景から離れて構図、色彩を造形的に整えた静物画を多く描いた。日常目にするものに詩情を見出した作品が多い。 行動展主要出品歴第5回(昭和25年)「麦秋ひなげし」「静物(庭)」「静物(室内)」、第10回(30年)「嵐峡の紅葉」「保津峡の黄昏」、第15回(35年)「松の庭」「魚板の壁」、第20回(40年)「黒い樹と果実」「紅い魚板と花」、第25回(45年)「野川の朝霧」「夏の庭」、第30回(50年)「黒い画像と静物」「白い壁の静物」、第35回(55年)「洋灯と西瓜のある庭」「残雪山麓の見える静物」、第40回(60年)「魚板の庭」

高藤鎮夫

没年月日:1988/09/10

日展会員の彫刻家高藤鎮夫は、急性出血性胃カイヨウのため、9月10日午前3時55分名古屋市千種区の市立東市民病院で死去した。享年78。明治43(1910)年7月1日愛知県名古屋市生まれ、本名同じ。昭和6年加藤顕清に師事し、昭和15年紀元2600年奉祝展に「女立像」が初入選する。以後新文展に連年出品し、戦後も日展に第1回より出品。29年第10回日展「抵抗」、33年第1回新日展「脱衣」がともに特選となり、34年同第2回に「無風」を無鑑査出品する。翌36年より3年間委嘱出品したのち、38年同第6回で審査員をつとめ、39年日展会員となる。47年第4回改組日展でも審査員をつとめ、63年同第20回に遺作「なぎさ」が出陳された。日展を中心に、日本彫塑会、MC彫塑家集団などでも活動した。主要作品には、このほか40年「健」、42年「光と線」などがある。 新文展・日展出品略歴昭和15年紀元2600年奉祝展 女立像昭和16年第4回新文展 女立像第二昭和17年第5回新文展 女立像第三昭和18年第6回新文展 振起昭和21年第1回日展 腰掛けた女昭和21年第2回日展 希望昭和22年第3回日展 豊秋昭和23年第4回日展 若い女昭和24年第5回日展 若い女(C)昭和25年第6回日展 若い女(D)昭和27年第8回日展 新晴昭和28年第9回日展 萠昭和29年第10回日展 抵抗(特選)昭和31年第12回日展 伸展昭和33年第1回新日展 脱衣(特選)昭和34年第2回新日展 無風(無鑑査)昭和35年第3回新日展 青春讃(委嘱)昭和36年第4回新日展 ある日若く(委嘱)昭和37年第5回新日展 珠(委嘱)昭和38年第6回新日展 陽(審査員)昭和39年第7回新日展 伊勢湾(会員)昭和40年第8回新日展 のぞみ昭和41年第9回新日展 光昭和42年第10回新日展 道程昭和43年第11回新日展 憩う昭和44年第1回改組日展 花ある道昭和45年第2回改組日展 念昭和46年第3回改組日展 心昭和47年第4回改組日展 黙(審査員)昭和48年第5回改組日展 常昭和49年第6回改組日展 顔昭和50年第7回改組日展 はたち昭和51年第8回改組日展 大地昭和52年第9回改組日展 座(77-N)昭和53年第10回改組日展 展昭和54年第11回改組日展 立女昭和55年第12回改組日展 捧ぐ昭和56年第13回改組日展 気構え昭和57年第14回改組日展 粧意昭和58年第15回改組日展 仰ぐ昭和59年第16回改組日展 遥か昭和60年第17回改組日展 若者昭和61年第18回改組日展 立てひざの女昭和62年第19回改組日展 佇む昭和63年第20回改組日展 なぎさ(遺作)

菅沼金六

没年月日:1988/09/09

一水会常任委員、日本水彩画会会員の洋画家菅沼金六は、9月9日午後6時45分、急性心不全のため東京都千代田区の東京警察病院で死去した。享年84。明治37(1904)年7月1日、東京に生まれ、東京高等工業学校附属徒弟学校電気科を経て日本大学社会科に学び、電気技術者としてディスプレイ用照明を手がけ、ディスプレイ・デザイン、グラフィック・デザインのスタジオを経営。昭和8年シカゴ万国博覧会に際し日本からの出品物展示場の設計、施工を依嘱されて渡米し、同会閉会後もシカゴにとどまって、同地にあるアメリカン・アカデミー・オブ・アートに学び、同11年卒業する。帰国後、15年より一水会に出品し、21年会員に推される。24年より日本水彩展に出品して会員となり、28年第9回日展に「バレースタヂオにて」で初入選。以後同展に出品を続け、32年第13回日展に「白鳥の踊り子」を出品して岡田賞を受賞する。35年一水会委員となる。昭和30年代にはバレリーナを主なモチーフとし、その後も室内の女性像を明るい色彩で描くのを得意とした。

水田硯山

没年月日:1988/09/07

日本南画院顧問の日本画家水田硯山は、9月7日午前7時15分、心不全のため京都市左京区の自宅で死去した。享年85。明治35(1902)年12月14日大阪市に生まれ、本名美朗。南画家水田竹圃は兄にあたる。大正6年竹圃に入塾し南画を学び、また藤沢南岳に漢籍を学ぶ。翌7年京都に移ったのち、10年第1回日本南画院展に「雲去来」が入選。11年「山村暁霧」を出品し、日本南画院同人に推挙された。12年中国に旅行し、同地に取材した「紅葉山館」「寒江渡舟」を同展に出品する。また帝展でも、11年第4回帝展に「秋二題」が初入選し特選を受賞。13年第5回帝展に「一路湿翠」「春江暁潮」を出品したのち、14年同第6回帝展「雲散」「水肥」、昭和2年第8回「朝」が再びともに特選となる。翌3年第9回帝展「幽谷」以後、帝展無鑑査となり、帝展に5年第11回「霜林」、7年第13回「桐江新翠」、8年第14回「秋壑雲封」、9年第15回「飛鳳瀑」などを出品。また新文展、日本南画院展にも出品を続けた。南画に後期印象派の画風を加味した山水を得意とした。16年大東南宗院委員となり、戦後日展に依嘱出品する。33年菁々社を創立する一方、35年日本南画院の再興に参加。同展で、同35年「樹」が日本南画院賞、36年「秋」が文部大臣賞を受賞し、35年同院理事、38年監事となった。50年頃より視力が衰え、近年は制作から遠ざかっていた。

宗像逸郎

没年月日:1988/08/30

国画会会員の洋画家宗像逸郎は、8月30日午後4時10分、急性心不全のため兵庫県宝塚市の雲雀丘クリニックで死去した。享年85。明治35(1902)年11月6日、広島県三原市に生まれる。林重義に師事し、昭和7(1932)年第2回独立展に「国道曇り日風景」で初入選し、以後15年第10回展まで同展に出品を続ける。同15年紀元2600年祝奉展に「六甲山」を出品。18年第6回新文展に「紅蓮」を出品して特選となる。また、同17年第17回国画会展に「亀甲模様」「鶏頭」を初出品してより同展に出品を続け、18年第18回展に「蓮(紅蓮)」「蓮(白蓮)」を出品して国画奨学賞、およびF夫人賞を受賞。同年同会会友となり、34年同会会員となる。対象に即した忠実な写実的描写を守り続け、古雅な趣のあるモチーフを好んで選び、静物画を多く描いた。 国画会展出品略歴第20回展(昭和21年)「筑紫野の秋」「渓谷の見える風景」、25回(26年)不出品、30回(31年)「種子と春蘭」、35回(36年)「野仏」「窓」、40回(41年)「はにわ盾」、46年(45回)「冬日(方丈の石仏)」、50回(51年)ガンダーラ仏頭と椿」

吉岡常雄

没年月日:1988/08/25

大阪芸術大学名誉教授の染色家吉岡常雄は、8月25日午後7時55分、心不全のため京都市伏見区の蘇生会総合病院で死去した。享年72。大正5(1916)年京都で三代続いた染屋に生まれ、日本画家吉岡堅二は兄にあたる。昭和11年桐生高等工業学校(現群馬大学)染織別科を卒業。戦後31年頃より染色作家を志し、走泥社の作家とともに染料を研究、前衛的作品を制作する。33年モダンアート協会会友となるが、35年頃正倉院展で古代染織品に感銘を受け、以後古代染織と天然染料の研究へと向かう。41年帝王紫(貝紫)への関心の高まりを受けて奄美大島を訪ね、節子の浜で貝紫に使用するアクキ貝科の棲息を確認。翌42年同地でアクキ貝科の「ヒロクチイガレイシ」を採集し、貝紫の染色実験に成功する。43年帝王紫の研究のため渡欧し、ナポリ湾で貝を採集、帝王紫の復元に成功する。またレバノンのシドンで帝王紫の染織に使った貝の貝塚を発見する。44年メキシコ・オアハカ州ドン・ルイス村を訪ね、46年同村を再訪、また同州タナパラで今なお海岸で行なわれている貝紫染を見る。47年にはドン・ルイス村でも岩場での染色を確認、同村へは50年、57年、58年にも訪れている。この間、42年大阪芸術大学講師(染色材料学)、44年同教授に就任。また50年正倉院爽纈を復元し、以後55年京都祇園祭南観音山の見送りに使われていた貞享元年(1684)銘の古渡インド更紗、59年京都国友家伝来徳川家康拝領辻ケ花小袖、62年阿武山古墳副葬品大織冠をそれぞれ復元する。一方、50年東大寺、薬師寺などの古儀式の染織を奉納して以降、55年東大寺大仏殿昭和大修理落慶法要に際し大幡(兄堅二と共同制作)・伎楽面・伎楽装束一式、60年法隆寺昭和大修理完成落慶法要に際し幡・八部衆装束、62年、1400年ぶりに再現された奈良飛鳥寺盂蘭盆会法要に際し幡および復元法衣、63年奈良県吉野郡多武峰談山神社に冠・装束を、それぞれ奉納した。著書として、48年『伝統の色』、57年『工程写真によるやさしい植物染料入門』、58年長年の研究成果をまとめた『帝王紫探訪』『日本の色・植物染料のはなし』などを刊行。63年『別冊太陽』創刊60号記念では、「源氏物語」「延喜式」の記述に基づき当時の染料、技法による源氏物語の色を再現した。63年京都・龍谷大学で西域仏教文化研究会が発足した際は、メンバーの一人として大谷探険隊将来裂の染織技法と色彩の究明に着手していた。54年東京銀座ミキモトホールで「日本の色」展を開催。また没後平成元年6月奈良県立美術館で回顧展が開催された。

金子博信

没年月日:1988/08/17

一水会常任委員の洋画家金子博信は、8月17日肺炎のため東京都中野区の慈生会病院で死去した。享年90。明治31(1898)年6月5日福岡県久留米市に生まれ、県立中学明善校を経て大正13年東京美術学校西洋画科を卒業する。昭和3年第17回二科展に初出品。以後同展へ出品を続けたが、同11年一水会創立後は同会に所属し、同16年「下町の小学校」「屋上より見た市街」を出品し一水会賞を受賞、のち同会会員、常任委員として活躍した。また、新文展無鑑査展へも出品した。戦後も一水会に制作発表を行う。代表作に「高架電車」(第19回二科展)、「屋上の子供」(第4回一水会展)等がある。

森大造

没年月日:1988/08/05

彫刻家集団創型会創立同人の彫刻家森大造は、8月5日心不全のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年88。明治33年(1900)4月15日滋賀県阪田郡に生まれる。昭和2年東京美術学校彫刻科を卒業。同6年第12回帝展に木彫「うらら」で初入選し、以後戦前の官展出品作に「工場の午后」(木彫、第15回帝展特選)、「若き建男」(昭和11年文展招待展)、「海束之正気」(セメント、第4回新文展)などがある。また、新文展発足とともに無鑑査となった。戦後は同25年第6回日展に「不動明王」を出品したが、翌年同志とともに創型会を創立し第1回展に「竜形地蔵」を発表、以後同展に制作発表を行うとともに、同29年には仏教美術協会を組織した。木彫を主とし、後半期は仏教的題材を多く手がけた。

木下繁

没年月日:1988/08/04

日本芸術院会員の彫刻家木下繁は、8月4日午前11時50分、肝不全のため東京都新宿区の社会保険中央総合病院で死去した。享年80。明治41(1908)年4月25日、和歌山県布田郡に生まれる。昭和3(1928)年東京美術学校彫刻科に入学し建畠大夢に師事し、のち清水多嘉示に師事する。在学中の5年第11回帝展に「女の顔」で初入選。8年東美校を卒業し研究科に進学、10年に研究科を修了する。14年第3回新文展に「れいめい」を出品して特選、22年第3回日展出品作「裸婦」、26年第7回日展出品作「裸婦」でも特選を受賞し、以後たびたび日展審査員をつとめる。44年第1回改組日展に「裸婦」を出品して文部大臣賞、48年第5回日展に「裸婦」を出品して48年度日本芸術院賞を受賞し、52年日本芸術院会員となる。塑像を得意とし、裸婦を好んで制作する。39年より46年まで白色セメント野外彫刻展に出品する。47年より武蔵野美術大学教授をつとめ、56年同名誉教授となった。また、53年より日展常務理事、日本彫刻会常務理事を務めた。 帝展・新文展・日展出品歴昭和5年第11回帝展「女の顔」、6年(12回)「髪」、7年(13回)「A Purple Maiden」、8年(14回)「光に立ちて」、9年(15回)「水のほとり」、11年(文部省展覧会)「生」、12年(第1回新文展)「空のふかみ」、13年(2回)「さわやか」(特選)、14年(3回)「れいめい」(特選)、16年(4回)不出品、17年(5回)「習作」、18年(6回)不出品、21年(第1、2回日展)不出品、22年(3回)「裸婦」(特選)、23年(4回)「裸婦」、24年(5回)「裸婦」、25年(6回)「裸婦」、26年(7回)「裸婦」(特選)、27年(8回)「裸婦」、28年(9回)「裸婦」、29年(10回)「裸婦」、30年(11回)「腰かける女」、31年(12回)「裸婦」、32年(13回)「裸婦」、33年(第1回社団法人日展)「裸婦」、34年(2回)「裸婦」、35年(3回)「裸婦」、36年(4回)「裸婦」、37年(5回)「裸婦」、38年(6回)「裸婦」、39年(7回)「裸婦」、40年(8回)「裸婦」、41年(9回)「裸婦」、42年(10回)「裸婦」、43年(11回)「裸婦」、44年(第1回改組日展)「裸婦」、(文部大臣賞)、45年(2回)「裸婦」、46年(3回)「裸婦」、47年(4回)「裸婦」、48年(5回)「裸婦」、49年(6回)「裸婦」、50年(7回)「裸婦」、51年(8回)「裸婦」、52年(9回)「裸婦」、53年(10回)「裸婦」、54年(11回)「裸婦」、55年(12回)「裸婦」、56年(13回)「裸婦」、57年(14回)「裸婦」、58年(15回)「THE PREVAILING WESTER LIES」、59年(16回)「東風」、60年(17回)「腰かけた女」、61年(18回)「おんな」、62年(19回)「おんな2」

城所祥

没年月日:1988/07/22

日本版画協会会員の版画家城所祥は、7月22日午前7時31分、急性心不全のため東京都八王子市の多摩相互病院で死去した。享年53。昭和9(1934)年12月2日、東京都八王子市に生まれる。八王子市立第五中学校、東京都立川高校を経て早稲田大学に入学し、同32年同大学第一商学部を卒業する。34年養精堂画廊で個展を開いて木版画家としてデビューし、36年日本版画協会会員となる。39年東京国際版画ビエンナーレに出品し、以後40年スイス木版画展、パリ青年ビエンナーレ、42年サンパウロ国際版画ビエンナーレなど国際展にも多く出品。42年鑿の会を結成し、木口木版画集「のみ」の制作に参加する。また、同年文化庁在外研究員として渡欧し、パリ、ジュネーヴに滞在する。美術教育にもたずさわり、43年より52年まで武蔵野美術大学講師、47年より63年まで武蔵野美術学園講師、53年より63年まで金沢市立美術工芸大学講師をつとめたほか、日本美術家連盟版画工房の嘱託もつとめた。果物や花を主要なモチーフとする室内静物画を多く制作し、黒をアクセントとする明快な色面によって画面を構成する。代表作に、三好豊一郎の詩による詩画集『黙示』(昭和42年)、版画集『鳥』(46年)、東京八王子市喜福寺襖絵(46年)などがある。

矢橋六郎

没年月日:1988/07/04

モダンアート協会創立会員の洋画家矢橋六郎は、7月4日午前6時20分、脳出血のため岐阜県大垣市の大垣市民病院で死去した。享年82。明治38(1905)年11月16日、岐阜県不破郡に生まれる。県立岐阜中学校を経て大正15(1926)年東京美術学校西洋画科に入学し、昭和5(1930)年に同校を卒業。梅原龍三郎に師事し、梅原らの創立になる国画会に参加。滞欧中も同展に出品を続け7年に同会会友となる。8年、帰国。同年国画会を退会する。11年、山口薫、村井正誠らと自由美術家協会を創立。14年生家の家業である矢橋大理石商店に勤務することとなるが画業もつづけ、25年村井らと共にモダンアート協会を創立する。モザイク作家としても知られ、「海」(37年、大名古屋ビル)、「彩雲流れ」(40年、新東京ビル)、「日月と東海の四季」(名古屋駅新幹線口)、「松と海」(新大阪駅貴賓室)などを制作している。晩年にはステンドグラスも制作。美術教育にも尽くし、武蔵野美術大学、東京芸術大学で教鞭を取ったほか、44年には岐阜県教育委員長をつとめ郷里の振興に寄与した。41年中日文化賞を受賞、53年東京セントラル美術館で「矢橋六郎画業50年展」が開催された。 モダンアート展出品略歴第5回展(昭和30年)「無花果」「田植の頃」「桃果」「麦刈」「メヌエット」、10回(35年)「田園の冬」「ベニスの橋」、15回(40年)「田園冬日」、20回(45年)「春」、25回(50年)「サンジオルジオベニス」、30回(55年)「ポルトガルの夏」、35回(60年)「砂丘」、38回(63年)「ローマのテラス」

山本孝

没年月日:1988/06/09

東京画廊を設立し日本の現代美術の展開に寄与した山本孝は6月9日午後6時35分、肺しゅようのため東京都中央区の国立がんセンターで死去した。享年68。大正9(1920)年3月12日、新潟県村上市に生まれる。昭和4(1929)年上京。東京市池袋第二小学校高等科を卒業し、8年、骨董商平山堂商店につとめる。戦後、同20年再び平山堂商店に入り、23年独立して数寄屋橋画廊を設立。25年に同画廊を解散し翌26年東京画廊を設立する。33年斎藤義重展を開催し、その後前衛的な現代作家の作品を次々と紹介。桂ゆき、白髪一雄、高松次郎、前田常作、豊福知徳、川端実、李禹煥などの個展を開き、また、フンデルト・ワッサー、イブ・クラインなど海外の作家の紹介にもつとめた。33年日本洋画商協同組合の創立に参加し、53年より60年までその理事長を務める。数寄屋橋画廊時代の同僚、志水楠男らとともに現代美術を対象とする画廊の創成期をになった。

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