本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)
- 分類は、『日本美術年鑑』掲載時のものを元に、本データベース用に新たに分類したものです。
- なお『日本美術年鑑』掲載時の分類も、個々の記事中に括弧書きで掲載しました。
- 登録日と更新日が異なっている場合、更新履歴にて修正内容をご確認いただけます。誤字、脱字等、内容に関わらない修正の場合、個別の修正内容は記載しておりませんが、内容に関わる修正については、修正内容を記載しております。
- 毎年秋頃に一年分の記事を追加します。
没年月日:1989/02/09 日展会員、日本彫刻会会員の彫刻家原田新八郎は、2月9日午後3時5分、肝不全のため福岡市中央区の浜の町病院で死去した。享年72。大正5(1916)年11月22日福岡県糸島郡に生まれる。昭和9(1934)年東京美術学校彫刻科本課に入学し、在学中の同13年第2回新文展に「若い女」で初入選。以後官展に出品。また、構造社にも参加して斎藤素巌に師事した。同14年東美校を卒業。翌15年の紀元2600年奉祝展に「若き時代」で入選する。同17年8月、東京府立青年学校教諭となる。戦後は郷里福岡に住んで同21年秋の第2回日展から日展への出品を続け、同31年第12回日展に「働く人」を出品して特選、翌32年同展に無鑑査出品した「漁婦」で再度特選を受賞。同35年第3回新日展に「漁婦」を出品して菊華賞を受け、同38年日展会員となる。美術教育にもたずさわり、同28年5月より福岡教育大学講師をつとめ、同37年10月同大助教授、46年7月同大教授となった。同51年福岡教育大学附属中学校校長に就任し、同55年に退官した後、私立近畿大学で教鞭をとった。同41年3月、及び同50年3月に行なわれた福岡博覧会に大作を出品するなど郷里の文化活動に積極的に参加し、同60年福岡市文化賞を受賞する。ブロンズ像を得意とし、労働にいそしむ人の姿など、人生に真摯に向かう人体像を多く制作した。 日展出品歴第2回新文展(昭和13年)「若い女」、紀元2600年奉祝展(同15年)「若き時代」、第5回新文展(同17年)「若き男」、6回「男」、第2回日展(同21年)「布を洗ふ女」、3回「憩へる女」、4回「青年の碑試作」、5回不出品、6回「或る首像」、7回「女」、8回「憩える人」、9回「海女」、10回(同29年)「海女」、11回「語る人」、12回「働く人」(特選)、13回「漁婦」(特選)、第1回新日展(同33年)「午後の陽」、(以下略歴)、5回(同37年)「土の音」、10回(同42年)「筑紫路の人」、第1回改組日展(同44年「憩う人」、5回(同48年)「旅をする人」、10回(同53年)「此処に人あり」、15回(同58年)「野火雲」、20回(同63年)「青い星」
続きを読む »
没年月日:1989/02/09 「鉄腕アトム」「リボンの騎士」「火の鳥」などで日本の漫画史に大きな足跡を残した手塚治虫は2月9日午前10時50分、胃ガンのため東京都千代田区の半蔵門病院で死去した。享年60。昭和3(1928)年11月3日、大阪市に生まれる。本名治。同10年、大阪府立池田師範付属小学校(現、大阪教育大学附属池田小学校)に入学。田河水泡の漫画を好むとともに昆虫に興味を持ち、オサムシという名の虫を知ったことから、同14年頃から「治虫」のペンネームを用いる。同16年同小学校を卒業して大阪府立北野中学(現、北野高校)に入学。美術班と地歴班に属し、昆虫を題材にした漫画など、好んで漫画を描く。同20年北野中学を卒業して大阪大学附属医学専門部に入学。同年敗戦色の濃い中で映画「桃太郎海の神兵」を見、子供向け漫画映画の制作を志す。同21年『少国民新聞関西版』に4コマ漫画「マアチャンの日記帳」を連載し始め漫画家としてデビュー。翌22年酒井七馬原作の長編漫画『新宝島』を刊行し40万部を売りつくす。翌23年単行本『ロスト・ワールド』宇宙編及び地球編を刊行。同25年『漫画少年』に「ジャングル大帝」を連載し始め、同年から毎日放送で「手塚治虫アワー」が連続放送されて放送界をも活動の場とするようになる。また同年島田啓三を中心に馬場のぼるらが東京児童漫画会(児漫長屋)を結成すると同会に参加する。同26年大阪大学医学部専門部を卒業。翌年医師国家試験に合格したのち上京して本格的な制作活動に入る。同年より「鉄腕アトム」を、翌年より「リボンの騎士」を描き始め、爆発的人気を博す。同33年「びいこちゃん」「漫画生物学」で第3回小学館漫画賞受賞。同34年3月からフジテレビで「鉄腕アトム」がドラマ化され放映される。同35年頃自作の停滞感から一時漫画を離れ奈良県立医科大学で医学研究に従事し、36年1月「異型精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究(タニシの精虫の研究)」により医学博士の学位を取得。同年6月、手塚治虫プロダクション動画部を設立、翌年虫プロダクションと改称して「鉄腕アトム」のアニメーション・フィルムの制作を開始する。同38年国産初のテレビアニメシリーズ「鉄腕アトム」のテレビ放映が開始され、高視聴率をあげ、同年アメリカでも放映される。この作品は以後、英、仏、独、オーストラリア、台湾、香港、タイ、フィリピンなどでも放映され、国際的に広く知られるところとなった。また同年、前年に完成した手塚治虫原案、構成の映画「ある街角の物語」で第17回芸術祭奨励賞、第13回ブルーリボン教育文化映画賞受賞。同40年国産初のカラーテレビアニメシリーズ「ジャングル大帝」の放映が開始される。翌41年「ジャングル大帝」で厚生大臣児童福祉文化賞受賞。同年12月、雑誌『COM』が創刊され、同誌に「火の鳥」の連載を開始。その後も、同42年「展覧会の絵」で芸術祭奨励賞、ブルーリボン教育文化映画賞、劇場版「ジャングル大帝」でベネチア国際映画祭サンマルコ銀獅子賞及びアジア映画祭特別部門賞、同45年「やさしいライオン」で児童福祉文化賞、同50年「ブラック・ジャック」で日本漫画家協会賞特別優秀賞、同55年「火の鳥2772」でサンディエゴ・コミック・コンベンション・インクポット賞、ラスベガス映画祭動画部門賞など次々と漫画、動画の優作を生み出して受賞を続け、「鉄腕アトム」では同40年に厚生大臣による表彰を受けたほか、同60年には東京都民栄誉章受章、同63年、戦後漫画とアニメ界における創造的な業績によって朝日賞を受賞した。戯画、カリカチュアの流れをひく大人向けの漫画に対して子供を対象とする空想、物語の世界を表わした子供漫画の領域を確立し、動感あふれる描法、一貫した物語を追う長編物を打ち出すなど新たな試みを行なって、今日に至るテレビ、映画のアニメーション漫画の隆盛を導いた。没後、漫画家としては初めての公立美術館での個展として東京国立近代美術館で「手塚治虫展」(平成元年7月)が開かれた。(年譜、事蹟、作品刊行などの資料は同展図録に詳しい。)
続きを読む »
没年月日:1989/02/02 京都大学名誉教授の考古学者小林行雄は、2月2日結腸がんのため京都市左京区の吉川病院で死去した。享年77。古鏡研究の権威として知られ、考古学における弥生時代の学問的基礎を確立し、古墳時代研究の基礎を築いた小林行雄は、明治44(1911)年8月神戸市に生まれた。昭和7年神戸高等工業学校建築科(現神戸大工学部)を卒業。在学中から考古学に強く関心をもち、卒業後も独自の調査と研究を進め、京都大学考古学講座の浜田耕作教授に発表論文を認められ、同10年同大学考古学教室の助手に任用された。同14年、『弥生式土器聚成図録』を刊行、膨大な資料を整理、体系化する学問的方法論によった同書で、弥生文化研究の基礎を確立した。同年、田村実造の下で内蒙古ワールインマンハで遼の三皇帝陵『慶陵』の調査に従事し、その報告書『慶陵』で昭和28年度朝日賞、翌29年日本学士院賞恩賜賞を受賞した。同30年、古墳に埋葬された同范鏡、とくに全国から出土する三角縁神獣鏡の分布整理により、古墳の成立、発展を具体的に実証し、古墳時代初めに既に畿内を中心とした広範な政治体制が成立していたことを解明した。この学説は、その後の邪馬台国論争において、邪馬台国畿内説の最大の論拠として用いられた。京都大学では、長く講師の職におり、退官前年の昭和49年教授となった。また、文化財保護審議会専門委員(考古部会長)などを歴任する。著書は他に、『図説考古学辞典』(共著)、『日本考古学概説』など多数がある。
続きを読む »
没年月日:1989/01/29 洋画家で美術評論家の大久保泰は1月29日午後11時10分、再生不良性貧血のため東京都渋谷区の都立広尾病院で死去した。享年83。明治38(1905)年3月28日、愛知県豊橋市に生まれる。本名泰。父が原富岡製絲所に勤務しており、原富太郎の感化で与謝野鉄幹・晶子、島崎藤村、山本鼎らと交遊があった関係で、少年期から文学、美術に興味を抱き、山本鼎に油絵の指導を受ける。大正12(1923)年早稲田第一高等学校に入学し、昭和3(1928)年早稲田大学商学部を卒業。同6年から7年にかけて欧米に渡り、ロンドンで野口弥太郎を知り、のち兄事する。帰国後は児島善三郎にも兄事する。同11年第11回国画会展に「静物」で初入選。翌12年第15回春陽会展に「少女」で初入選し、同14年より独立展へ出品を続ける。同16年、ギリシア彫刻に関する随筆『古式の笑』が春鳥会から刊行され、文筆家としても注目される。同22年第15回独立展に「子供」「黒い羽織」「少女」を出品して独立賞を受賞、24年第17回同展では「裸婦」で岡田賞を受け、25年同会会員となる。同27年新樹会会員となり、同31年まで出品。同38年より同志とレアリテ展を毎年開催する。39年より隔年ごとに渡欧し、フランス、スペイン、イタリアなどの風景を多く描いた。明快な色調、軽妙な筆致を特色とする。文筆活動においても、現代美術随想集『空しき花束』(昭和23年、講談社)、『デュフィの歌』(同24年、毎日新聞社)、『ゴーギャン』(同年、アトリエ社)、『西洋名画の話』(同26年、美術出版社)、『近代絵画の話』(同27年、宝文館)、『宿命の画家達』(同年、中央公論社)、『絵の歴史2』(同28年、美術出版社)、『ファン・ゴッホ フィンセント』(同51年、日動選書)のほか、講談社のアート・ブックス・シリーズの『ゴッホ』『ゴーギャン』『デュフィ』等、後期印象派の画家たちの巻を執筆、西洋近代画家たちを広く世に知らせるとともに、それらの知識にもとづく現代美術評論を行なった。昭和62年「ヨーロッパの輝きと陰り 大久保泰展」(日動サロン)が開かれ、生前最後の個展となった。(年譜は同展目録に詳しい。)
続きを読む »
没年月日:1989/01/25 自然や生命を主題に独創的な活動を続けた木彫家砂澤ビッキは、1月25日午後9時21分、大腸ガン骨髄転移のため札幌市中央区の愛育病院で死去した。享年57。郷里北海道を拠点とし、その自然に執着を抱き続けた砂澤は、昭和6(1931)年3月6日、北海道旭川市近文の近文アイヌのエカシ(長老)の一族として旭川市に生まれた。本名恒雄。アイヌ文化の伝承に積極的に参加していた両親のもとで幼少期から木彫に親しみ、高校卒業後、同27年に上京して作家渋沢龍彦やマンガ家石川球太らと親交しつつ独学で彫刻を学ぶ。同30年第7回読売アンデパンダン展に「夜の動物」「うめき声」を出品。同32年第7回モダンアート展に「もず」「月蝕」「農夫」で初入選し、翌33年第8回同展に「動物」「小動物」「ATAMA2」「動物2」を出品して新人賞受賞。同35年同会会友となる。また、同年第1回集団現代彫刻展にも出品する。同37年モダンアート協会会員となるが同39年には退会して、同42年札幌に帰り独自の制作活動に入った。同53年には札幌から中川郡音威子府村筬島に移住し、小学校の廃校を制作の場とする。翌54年から音威子府中央公民館で「樹を語り作品展」を開催し、没年の第11回展まで毎年出品。同58年、北海道美術派遣員としてカナダ・ブリティッシュ・コロンビア州に渡り、カナダの大自然の中で意欲的に制作。同地で異色作家として注目されImages of British Columbia展を開催した。個展を中心に作品を公にし、同37年の第1回個展から同39年までは、“ANIMAL”を主題に、同40年から50年代にかけては、“TENTACLE”を主題として追求。動物の生態、木の触感の研究は、カナダ渡航を機にさらに展開し、季節や風、大気の生命感を木彫にあらわす作品が登場した。北海道現代美術展(同53~57年)、北海道の美術展(同59、61、63年)のほか、「現代彫刻の歩み“木の造形”展」(神奈川県立県民ホール、同60年)など、企画展にも多く出品している。同63年10月から入院療養中であったが、翌年1月21日から開かれる「上野憲男・砂澤ビッキ・吹田文明展」(神奈川県立県民ホール・ギャラリー)のための制作、準備に自ら当たった。同年、第11回「樹を語り作品展-砂澤ビッキ遺作展」が音威子府公民館で行なわれている。また、用美社から『砂澤ビッキ作品集』(1989年)、『砂澤ビッキ素描 北の女』(1990年)が刊行された。
続きを読む »
没年月日:1989/01/21 日本芸術院会員の日本画家西山英雄は、脳出血のため1月21日午前5時55分、京都市下京区の武田病院で死去した。享年77。明治44年(1911)5月7日、京都市伏見の袋物問屋の長男として生まれる。14歳の時、伯父西山翠嶂に入門し、その画塾青甲社で学ぶ。京都市立絵画専門学校に入学し、在学中の昭和6年第12回帝展に「静物」が初入選。9年第15回帝展で「港」が特選となるなど、頭角を現わす。11年京都市立絵画専門学校を卒業し、以後も官展に出品、次第に風景画を多く手がけるようになる。14年第3回新文展「雪嶺」、18年同第6回「薄暮」などを出品したのち、戦後、22年第3回日展で「比良薄雪」が再び特選となった。25年第6回日展「桜島」、32年同第13回「岩」などを発表し、33年第1回新日展で「裏磐梯」が文部大臣賞を受賞。力強く壮大な構想力の山岳風景を描く”山の画家”として知られた。35年中国に旅行し、同年の第3回新日展に「天壇」を出品、翌36年これにより日本芸術院賞を受賞する。古城シリーズも発表し、また晩年は活火山をスケッチして巡り、51年第8回改組日展「薩摩」、55年同第12回「阿蘇颪」などを発表した。33年日展評議員、44年同理事、54年参事、60年常務理事となっている。この間、29年から44年まで京都学芸大学(現京都教育大学)教授、47年から52年まで金沢美術工芸大学教授(のち名誉教授)として、後進の育成にあたった。また、青甲社幹部をつとめていたが、33年翠嶂の死去に際してはこれを継がず、青甲社は解散となった。49年京都市文化功労者、55年日本芸術院会員となり、60年京都府特別文化功労賞を受賞する。このほか、48年、読売新聞に連載された司馬遼太郎の小説「播磨灘物語」の挿画約200点による「挿画原画展」を開催している。画集に『西山英雄画集』(57年)、著書に『日本画入門』がある。 帝展・新文展・日展出品歴 昭和6年 第12回帝展 静物昭和8年 第14回帝展 曇日昭和9年 第15回帝展 港(特選)昭和11年 文展監査展 廃船昭和12年 第1回新文展 内海風景昭和14年 第3回新文展 雪嶺昭和15年 2600年奉祝展 駱駝昭和16年 第4回新文展 火山の夕昭和17年 第5回新文展 征馬昭和18年 第6回新文展 薄暮昭和21年 第2回日展 聖丘昭和22年 第3回日展 比良薄雪(特選)昭和23年 第4回日展 海潮(委嘱)昭和24年 第5回日展 霞澤岳(委嘱)昭和25年 第6回日展 桜島(審査員)昭和26年 第7回日展 室戸(審査員)昭和27年 第8回日展 夕映(委嘱)昭和28年 第9回日展 山湖(委嘱)昭和29年 第10回日展 外海府(審査員)昭和30年 第11回日展 桜島昭和31年 第12回日展 剣岳(委嘱)昭和32年 第13回日展 岩(審査員)昭和33年 第1回新日展 裏磐梯(文部大臣賞、評議員)昭和34年 第2回新日展 桜島(評議員)昭和35年 第3回新日展 天壇(評議員、審査員)昭和36年 第4回新日展 聖堂の月(評議員)昭和37年 第5回新日展 火山島(評議員、審査員)昭和38年 第6回新日展 アクロポリスの丘(評議員)昭和39年 第7回新日展 剣(評議員)昭和40年 第8回新日展 朝映桜島(評議員)昭和41年 第9回新日展 九竜壁(評議員)昭和42年 第10回新日展 磐梯(評議員)昭和43年 第11回新日展 桜島朝暉(評議員、審査員)昭和44年 第1回改組日展 ペンニヤの丘(理事、審査員)昭和45年 第2回改組日展 富士西湖(理事)昭和46年 第3回改組日展 さい果て(審査員)昭和47年 第4回改組日展 樹林富士昭和48年 第5回改組日展 エアーヅ・ロック(理事、審査員)昭和49年 第6回改組日展 グランドキャニオン(理事)昭和50年 第7回改組日展 白夜(理事、審査員)昭和51年 第8回改組日展 薩摩(理事)昭和52年 第9回改組日展 曜(理事、審査員)昭和53年 第10回改組日展 薩摩雪(理事、審査員)昭和54年 第11回改組日展 野火(参事、審査員)昭和55年 第12回改組日展 阿蘇颪(参事)昭和56年 第13回改組日展 火焰山(理事、審査員)昭和57年 第14回改組日展 残照(理事)昭和59年 第16回改組日展 室戸(理事)昭和60年 第17回改組日展 噴炎(理事、審査員)昭和61年 第18回改組日展 あける桜島(理事)昭和62年 第19回改組日展 雷鳴紫禁城(理事、審査員)昭和63年 第20回改組日展 桜島と連絡船(理事)
続きを読む »
没年月日:1989/01/12 熊本大学名誉教授、モダンアート協会会員の洋画家、美術教育者の岡周末は、1月12日心不全のため熊本県下益城郡城南町の城南病院で死去した。享年80。明治41(1908)年1月16日、熊本県菊池郡隈府町で生まれた。昭和6年東京美術学校西洋画科を卒業後、鹿児島県第一師範学校教諭に赴任し、同20年熊本県第一師範学校に転じた。同24年新制大学発足に伴い熊本大学教育学部助教授となり、同28年教授となった。同48年同大学を定年退官するまでの間、美術教育に携わったほか、教育学部長(同44~47年)、学長事務代理(同45年)などの要職を歴任した。制作活動においては、昭和7年第13回帝展に入選したのをはじめ、翌8年から同14年までは光風会展、同15年から26年までは独立美術展に出品したのち、同27年からはモダンアートに制作発表を行い、同34年モダンアート協会会員となった。主要作品としては、熊本県立美術館所蔵の「機」「兆」「律」がある。
続きを読む »
没年月日:1988/12/30 世界的な彫刻家として活躍した日系米人イサム・ノグチは、12月30日午前2時半(日本時間同日午後4時半)肺炎のため入院中のニューヨーク大学付属病院で死去した。享年84。1904(明治37)年11月17日、英米詩壇にヨネ・ノグチとして知られた詩人野口米次郎とアメリカの女流作家レオニー・ギルモアの長男として、ロサンゼルスに生まれる。1906(明治39)年家族とともに帰国、少年期を過ごし、小学校卒業後1918(大正7)年渡米する。1919年(以下西暦で略記)より翌年にかけて彫刻家ガストン・ボーグラムに彫刻を学び、25年ナショナル・スカルプチャー・ソサエティの会員となる。同22年ニューヨーク・コロンビア大学に入学、薬学を学び、27年卒業する。この間、在学中の24年よりレオナルド・ダ・ヴィンチ芸術学校に学び、27年コロンビア大学卒業後、グッゲンハイム奨学金を得て渡仏。ブランクーシに師事しそのアトリエに出入りする一方、パリのグラン・ショーミエール、アカデミー・コラロッシに学ぶ。翌28年いったん帰米し、ニューヨークのユージン・シェーン・ギャラリーで初個展を開催。30年再渡仏、さらに日本、北京、ベルリン、モスクワを経て31年帰米する。この間、日本で宇野仁松に陶芸、北京で斉白石に水墨を学ぶ。帰米後、35年マーサ・グラハム舞踏団の舞台装置を制作。同35年から翌年にかけてメキシコに滞在し、41年にはアーシル・ゴーキーとアメリカを横断旅行している。38年AP通信ビル玄関に設置するステンレス・スティールのレリーフ・コンペで1等賞を受賞、一躍名を知られる。戦後51年女優山口淑子と結婚(55年離婚)。52年広島市の依頼により設計した平和記念碑が、抽象的すぎることなどを理由に採用を拒否されるといったこともあったが、54年の「あかり展」は、紙、竹、鉄による彫刻として話題を集める。56年から58年にかけてパリ・ユネスコ本部の日本庭園、61年から64年にかけニューヨーク・チェイス・マンハッタン銀行の庭、70年大阪万博噴水、77年シカゴ・アート・インスティテュート噴水、82年カリフォルニアの彫刻庭園「カリフォルニア・シナリオ」の設計、84年フィラデルフィア・ベンジャミン・フランクリン記念のための「ライトニング・ボルト」などを制作。舞台美術からインテリアデザイン、石彫と幅広く活躍する。National Institute of Arts and letters,American Achademy of Arts and letters,American Achademy of Arts and Science,Architectural Leagueなどの会員でもあった。61年ニューヨークのロングアイランドにアトリエを構え、85年にはクィーンズ区ロングアイランドシティに「イサム・ノグチ・ガーデン・ミュージアム」を完成。マンハッタン・イースートサイドの自宅マンションから同館へ通い、同館と香川県木田郡牟札町に設けたアトリエを拠点に世界を飛び回る多忙な生活を送った。当初、その活動は日米の中間で定位置を確保できなかったが、終戦直後ニューヨーク近代美術館で行なわれた「14人のアメリカ人展」に選ばれ世界的に名を知られるようになり、86年のヴェネツィア・ビエンナーレにはアメリカを代表して出品。68年ホイットニー美術館で回顧展、80年には同美術館50周年記念イサム・ノグチ展を開催している。東西両洋を融合させた作品は「三次元に書かれた書」とも評され、晩年の石彫は自然の性質を生かし枯淡の妙味を示した。代表作は上記のほか、広島の平和大橋、イスラエルのエルサレム国立美術館(60-65年)、メキシコ市の浮き彫り記念碑(35-36年)などがあり、著書に『イサム・ノグチ ある彫刻家の世界』(69年)がある。86年第2回京都賞精神科学・表現芸術部門賞、88年春の叙勲で勲三等瑞宝章、87年レーガン大統領より国民芸術勲章を受賞している。88年12月初めよりイタリアのティエトラ・サンタ市のアトリエで制作し、ニューヨークに戻った16日、疲労による肺炎のためニューヨーク大学病院に入院。23日から悪化し集中治療を受けていた。没後89年2月大阪ガレリア・アッカでブロンズによる新作展が開催された。晩年はマンハッタンのマンションに一人住まいだったが、東京に実弟の写真家野口ミチオ、アメリカ・ニューメキシコ州サンタフェに妹のアイリス・スピンデンがいる。
続きを読む »
没年月日:1988/12/28 二科会評議員の洋画家加藤孝一は、12月28日午前11時25分、肺がんのため愛知県瀬戸市の陶生病院で死去した。享年80。明治41(1908)年12月8日愛知県瀬戸市に生まれる。瀬戸窯業学校を卒業。昭和13(1938)年第25回日本水彩画会に「花」で初入選。19年第9回新制作派展に初入選する。戦後、21年北川民次に師事し、同年第31回二科展に「瀬戸物作り」で初入選。以後同展に出品をつづけ、32年同会会友、45年会員となる。54年第64回二科展に「通り裏の風景」を出品して会員努力賞を受賞。59年二科会評議員となる。実景に取材しながら、その再現描写にとらわれず、遠近、大小関係を自在に変化させ幾何学的形体に簡略化したモチーフにより明快でユーモラスな作風を示した。
続きを読む »
没年月日:1988/12/20 文学博士、元奈良国立博物館学芸課長、元竜谷大学教授の小野勝年は12月20日午後9時45分、急性心不全のため奈良市高畑本薬師寺町626の自宅で死去した。享年83。明治38(1905)年12月1日、長野県上伊那郡辰野町大字小野に生れる。県立松本中学校、松本高等学校を経て、昭和2年に京都帝国大学文学部史学科に入学、この後病気の為2年間休学し昭和8年論文「両税制度の一考察」を提出し卒業。同年京都帝国大学大学院に入学、研究テーマを支那中世文化に据え、同年より昭和18年5月まで同大学文学部副手を務めた。この間昭和12年10月より、同15年3月まで、外務省在支特別研究員として中国に留学し、華中・華北・東北・蒙古等の史蹟の調査を行い、中国美術・考古の研究を進め、その後も昭和20年6月の現地召集まで華北交通株式会社嘱託や華北綜合調査研究所員として中国史蹟の調査・研究を継続した。 戦後は一時、郷里長野県の日野青年学校教官、日野中等学校教諭を務め、昭和23年8月から昭和42年3月の退官に至るまで奈良国立博物館で過した。奈良国立博物館においては昭和27年8月に学芸課工芸室長兼資料室長となり、昭和36年4月に学芸課考古室長、昭和39年9月より学芸課長を任ぜられ、考古室長事務取扱を兼務した。この奈良博時代には、研究の関心が中国と日本の接点にまで拡げられ、円仁を中心とする入唐僧の研究を中心に成果が発表された。この間、昭和18年に村田治郎(『日本美術年鑑昭和61年版』参照)を隊長として行なわれた北京郊外の居庸関雲台保存調査の結果である『居庸関』(京都大学工学部)の「第5章雲台浮彫細部の意匠」を担当し、『居庸関』に対して昭和34年5月に学士院賞を受け、昭和37年3月には京都大学より『円仁入唐求法の研究』によって文学博士の学位が授与された。そして奈良博時代の締め括りとして、昭和41年に中心となって担当した「大陸伝来仏教美術展」は大きな反響を呼んだ。 奈良博退官後、昭和42年4月から昭和55年3月に至るまでは龍谷大学及び大学院で東洋史学、博物館学とその実習の指導に当った。後進の教育には、奈良博時代より力を尽し、奈良女子大学・京都大学・京都大学大学院・関西大学・関西大学大学院・京都女子大学・大阪大学・大阪学芸大学・奈良教育大学・愛知学院大学・追手門学院大学・大阪女子大学など多くの大学・大学院で東洋文化史・博物館学を講じた。また、昭和36年から奈良県文化財保護審議会委員などを務め、文化財保護行政にも貢献した。これらの業績に対して、昭和51年11月には勲四等旭日小授章を授与され、没後の平成元年1月には正五位に叙せられた。 研究業績は多く、先に述べた分野の他、書道史・芸能史・工芸史・考古学にまで及んでいる。以下、主要な著書・編書をあげておく。○『北支那に於ける古蹟・古物の概況』(共著) 興亜宗教協会刊 昭和16年3月○『五台山』(共著) 座右宝刊行会刊 17年10月○『蒙疆陽高縣漢墓調査略報-蒙疆陽高縣古城堡漢墓調査略報-』(共著) 大和書院刊 18年11月○『金城堡-山西臨汾金城堡史前遺蹟-』 北京華北綜合調査研究所刊 20年6月○『蒙疆考古記』(共著) 学芸社星野書店刊 21年11月○『法隆寺の壁畫とその模写事業』 国立博物館奈良分館刊 24年9月○『下高井-下高井地方の考古学的調査-』 長野県教育委員会刊 28年12月○『高句麗の壁畫』(『中国の名画』) 平凡社刊 32年6月○『世界美術全集』第15巻中国4隋・唐 角川書店刊 36年11月○『入唐求法巡札行記の研究』第1巻~第4巻 鈴木学術財団刊 39年~44年○『請来美術』 奈良国立博物館刊 42年11月○『石像美術』(『日本の美術』第45号) 至文堂刊 45年2月○『慶州と奈良』 奈良市刊 45年4月○『阿倍仲麻呂とその時代-日中友好の先覚者-』 奈良市刊 53年10月○『龍門二十品』(『書迹名品集成』第4巻) 同朋舎刊 56年7月○『褚遂良・雁塔聖教序』(『書迹名品集成』第7巻) 同朋舎刊 56年7月○『入唐求法行歴の研究-智證大師円珍篇-』上・下巻 法蔵館刊 57年○『中国隋唐長安寺院史料集成』 平成元年2月尚、詳細な業績等に関しては、喜寿を機に編まれた『小野勝年博士頌寿記念東方学論集』を参考にされたい。
続きを読む »
没年月日:1988/12/16 文化勲章受章者、日本芸術院会員、東京芸術大学名誉教授の小磯良平は、12月16日肺炎のため神戸市東灘区の甲南病院で死去した。享年85。戦前戦後を通じ、清潔、典雅で気品ある婦人像を描き続け、独自の写実の世界を拓いた小磯は、明治36(1903)年7月25日神戸市に貿易商岸上文吉の次男として生まれた。大正14年小磯吉人の養子となり小磯姓を名のる。兵庫県立第二中学校在学中から上級の田中忠雄らと交わり油彩画や水彩画に親しんだ。詩人の竹中郁も同級の友人であった。大正11年東京美術学校西洋画科に入学、同期には荻須高徳、牛島憲之、山口長男らの俊秀が揃い、翌年から藤島武二教室に学んだ。在学中の同14年第6回帝展に「兄弟」が初入選、翌年の第7回帝展では「T嬢の像」で特選を受けるなど早くから画才を発揮し、昭和2年西洋画科を首席で卒業した。卒業制作は中学の同級竹中をモデルにした「彼の休息」であった。卒業の年、同期生らと上杜会を結成、第1回展に「裸婦習作」等を発表した。昭和3年から同5年の間渡仏し、パリでグランド・ショミエールへ通った。この間、山口、荻須、中村研一らと交友、ヨーロッパ各地をしきりに旅行し、制作より美術作品の見学に多く時間を費した。作家では、ドガの作品に啓示を受けたのをはじめ、ロートレック、セザンヌ、マティス、ドランに関心を示した他、古典にも多くを学んだ。同4年、サロン・ドートンヌに「肩掛けの女」が入選。翌5年帰国後、全関西洋画展に滞欧作を特別出品、第11回帝展に「耳飾」を発表、また光風会会員に迎えられた。同7年第13回帝展に「裁縫女」で特選を受け、同9年には帝展無鑑査となったが、同10年の帝展改組に際してはこれに反対する第二部会に所属し、翌11年新文展発足とともに光風会、官展を離れて、同年猪熊弦一郎、脇田和らと新制作派協会(のち新制作協会)を創立、第1回展に「化粧」などを発表した。同13年陸軍報道部の依嘱により中村研一らと上海へ赴き、その後も中国、ジャワなどに従軍し戦争画を描いた。同15年、前年作の「南京中華門の戦闘」で第11回朝日賞を受賞、同17年には前年作「娘子関を征く」で第1回芸術院賞を受けた。同20年6月5日の神戸空襲でアトリエを失い、以後再三の転居を余儀なくされたが、同24年現在の神戸市東灘区住吉山手7-1に住居とアトリエを新築した。戦後は、同25年東京芸術大学講師、同28年同教授となり、翌29年神奈川県逗子市新宿4-1696にアトリエを構えた。制作発表は新制作展の他、日本国際美術展、現代日本美術展へもそれぞれ第1回展から出品し、同33年第5回現代日本美術展に「家族」で大衆賞を受賞した。また、東京芸術大学版画教室の新設(同33年)にも尽力し、同39年には自ら銅版画展を開催した。同46年東京芸術大学を退官、同大学名誉教授の称号を受け、翌47年住居を神戸市に移した。同48年愛知県立芸術大学客員教授となる。同年、赤坂迎賓館の壁画制作を依嘱され、「絵画」「音楽」を主題に制作着手し翌年完成を見た。同54年文化功労者に選任され、同57年日本芸術院会員となる。翌58年文化勲章を受章した。的確な線描と知的な構成、清澄な色調と静謐典雅な作風を打ち立て、洋画壇で最も人気を集めた作家でもあった。作品は他に、「踊り子」(昭和13年)、「斉唱」(同16年)、「三人立像」(同29年)、「舞妓」(同36年)、「働らく女」(同43年)、「黒い衿の女」(同52年)などがある。また、戦前から石川達三、舟橋聖一らの新聞小説挿絵を手がけ、戦後も山崎豊子『女の勲章』などの挿絵を描いた。国立国際美術館評議員をつとめ、神戸市名誉市民でもあった。同63年8月兵庫県立近代美術館に「小磯良平記念室」がオープンした。存命中の画業展としては、昭和62年1月から兵庫県立近代美術館他で開催した「小磯良平展」が最も新しく、かつ内容の充実した展観としてあげられる。葬儀は、12月19日神戸市の日本基督教団神戸教会で執行された。
続きを読む »
没年月日:1988/12/14 庭園文化研究所長、元奈良国立文化財研究所建造物研究室長森蘊は、12月14日午後10時48分、急性ジン不全のため奈良県天理市の天理よろづ相談所病院で死去した。享年83。数年前に軽い脳梗塞で倒れ、回復後、この3月に再び倒れていた。明治38(1905)年8月8日、東京都立川市に生まれる。一高卒業後、昭和7年東京帝国大学農学部林学科を卒業し、同大学院に進学、9年修了する。この間、昭和8年5月内務省衛生局嘱託となり、13年1月より厚生省体力局施設課に勤務、国立公園を担当するこの部局で、庭園などにも関する実務の基礎を築く。また昭和7年頃より京都、鎌倉、平泉などの庭園や遺跡を調査し、昭和13年「京都に残る平安期の庭園遺跡を訪ねて」(『庭園』20-3)、「枯山水」(『宝雲』23)を発表。14年1月発足した『建築史』に同人として参加し、「法金剛院の庭園について」(第1巻1号、2号)をはじめ、19年の終刊まで執筆を続ける。また14年「平安時代前期庭園に関する研究」(『建築学会論文集』13、14)、14~16年「泉殿、釣殿の研究1~3」(『宝雲』)など、建築と一体化した庭園史研究を進める。16年厚生省から転じて東京市技師となり、19年井之頭公園自然文化園園長に就任。20年1月には海軍技師となり、ボルネオ民政部員として南ボルネオ地方の原始住居や農業園芸などの調査にあたる。21年5月復員後東京都の農事試験場に勤務。22年5月より一時東京植木株式会社に研究部長として勤めたのち、同年8月国立博物館嘱託となり、修理課で文化財保護に携る。25年文化財保護法成立により文化財保護委員会が設立され、修理課は同委員会の建造物課となった。この間、20年7月戦前の庭園研究の集大成として『平安時代庭園の研究』を刊行。戦後は桂離宮の研究に取り組み、25年「桂離宮古書院について」(『建築史研究』3)、26年「桂離宮古図について」(同8)、26年『桂離宮』(創元選書)などを発表する。27年奈良国立文化財研究所が新設され、建造物研究室の初代室長に就任。奈良に移って以後、桂離宮、修学院離宮のより精密な研究を進め、29年『修学院離宮の復元的研究』(奈文研学報第2冊)、30年「修学院離宮造営に利用された建物と地形について」(『文化史論叢』奈文研学報第3冊)を発表、両離宮の研究により、29年東京工業大学より工学博士号を授与され、34年には日本建築学会賞を受賞した。その後も庭園と建築を一体化させた研究を進め、旧興福寺大乗院についてまとめた34年『中世庭園文化史』(奈文研学報第6冊)、37年『寝殿造系庭園の立地的考察』(同学報第13冊)、近世庭園についても41年『小堀遠州の作事』(同学報第18冊)などを著す。42年奈良国立文化財研究所を退官したのち、京都市に庭園文化研究所を設立。浄瑠璃寺、忍辱山円成寺、法金剛院、白水阿弥陀堂、平泉毛通寺、和歌山城紅葉溪などの庭園を発掘、復元したほか、唐招提寺、薬師寺などの庭園の設計も行なった。49年『庭ひとすじ』で毎日文化賞を受賞し、このほか46年『奈良を測る』、61年『作庭記の世界』などを刊行している。
続きを読む »
没年月日:1988/11/28 古代絹織物“羅”の復元や宮中の儀式などに使う有職織物の第一人者で人間国宝の喜多川平朗は、老衰による呼吸不全のため、11月28日午後6時27分京都市左京区の自宅で死去した。享年90。明治31(1898)年7月15日京都市に生まれ、本名同じ。応仁の乱後、京都西陣に集まった織屋の中でも由緒ある機家俵屋に生まれ、17代目を継いだ。同家は江戸末期には有職織物も手がけており、また父喜多川平八も西陣の名匠であった。初め画家を志望し、大正10年京都市立絵画専門学校日本画科を卒業。卒業後兵役につき、同12年除隊後家業を継ぐことを決意、父平八のもとで修業を始める。同時に染織史や染織技術史の研究を志す。当事、有職織物製織の俵屋と装束調達の高田が有名だったが、その高田義男も大正末年頃より古代染織の研究を志し東京のほか京都にも織工場を新設したため、昭和初年より自らも自営、高田と協力して研究を始める。昭和3年昭和天皇即位大典儀式用の装飾、装束織物を製織し、翌4年第58回伊勢神宮式年遷宮の御神宝織物、6年新築された国会議事堂衆議院、貴族院の玉座や装飾織物などを製織。宮中や神宮、神社への調達用の織物も数多く手がける。また昭和初年より10年代にかけて帝室博物館が行なった古代染織品の復元模造事業でも、調査製作監督高田義男とともに製織主任としてこれに携わる。主な復元模造作品は次のものである。 正倉院裂数10点、国宝・鎌倉鶴岡八幡宮女衣五領、国宝・熊野速玉大社神服類38点、国宝・熱田神宮一ノ御前及び四ノ御前神服類各一具・装束類7点、重文・伝護良親王鎧直垂一領、毛利家伝来鎧直垂、重文・高台寺蔵太閣所用陣羽織一領、東寺舎利会装束二領、手向山八幡宮伝来新靺鞨の袍一領、重文・高野山天野社伝来水干一領、重文・宇良神社蔵肩裾縫箔一領等。 第2次大戦激化による応召、復員ののち数年間は不遇の時期が続いたが、28年第58回伊勢神宮式年遷宮の御神宝装束織物を制作。31年には、中国古代の織物で奈良~平安期に織られ室町以降衰微した「羅」(網目状の透けたからみ織りの薄地の絹織物)の再現による人間国宝に認定、さらに35年には「有職織物」によっても人間国宝に認定され、2つの技術保持者となった。42年西陣織工業組合による西陣五百年記念式典に際して文化功労者賞を受賞。43年キワニス文化賞を受賞し、45年京都市文化功労者となる。49年には文化庁により記録映画「有職織物・喜多川平朗の業」が撮影された。また日本伝統工芸会会員でもあった。
続きを読む »
没年月日:1988/11/19 平和を祈願する一連の梵鐘づくりで知られる鋳金家で、重要無形文化財保持者(人間国宝)の香取正彦は、11月19日午後1時10分、じん不全のため東京都新宿区の国立医療センターで死去した。享年89。明治32(1899)年1月15日、鋳金家香取秀真の長男として東京小石川区に生まれた香取は、大正5(1916)年より9年まで太平洋画会研究所で洋画を学ぶが、同9年東京美術学校鋳造科に入学して鋳金に専念し、14年同校を卒業。昭和3(1928)年第9回帝展に「魚文鋳銅花瓶」で初入選。同5年第11回帝展に「鋳銅花器」を出品して特選、翌6年第12回帝展では「蝉文銀錯花瓶」で再度特選を受賞し、また同年の第18回商工省工芸展に「銀錯直曲文花瓶」を出品して商工大臣賞二等賞を受賞する。同7年第13回帝展に「金銀錯六方水盤」を出品して3年連続特選となり、同年の第19回商工省工芸展でも一等賞を受賞。戦後も日展に出品し、27年第8回日展出品作「攀竜壷」で翌28年日本芸術院賞を受賞。一方、戦時下に多くの鐘が金属供出のため破壊されたことに衝撃を受け、25年より父秀真と共に平和を祈願する梵鐘づくりを始め、33年米国サンディエゴ市に贈る「友好の鐘」、38年比叡山延暦寺阿弥陀堂の梵鐘、39年池上本門寺の梵鐘、42年広島原爆記念日使用の「広島平和の鐘」など150鐘を越す鐘を制作。また、34年ビルマ国へ贈る仏像を制作してビルマへ渡ったのをはじめ、35年栄西禅師像、43年鎌倉瑞泉寺本尊金銅釈迦牟尼仏など仏像、仏具の制作にもあたり、奈良薬師寺薬師三尊、鎌倉大仏などの修理も手がけた。52年重要無形文化財保持者に認定され、63年には芸術院会員に選ばれる。中国を含む広い古典に学び、伝統にもとづいた端正な形体の中に、モダンなデザイン感覚を生かした清新な作風を示した。
続きを読む »
没年月日:1988/11/19 日本近世建築史の調査研究および復元、保存に尽力した建築家、建築史学者の藤岡通夫は、11月19日午後7時40分、胃がんのため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年80。明治41(1908)年7月31日、東京都文京区に生まれる。父は美術史家の藤岡作太郎。昭和7(1932)年東京工業大学建築学科を卒業して同科助手、14年同助教授となる。戦中、東南アジアを訪れて建築を調査し、18年に『アンコール・ワット』(彰国社)『アンコール遺跡』(三省堂)を刊行。24年、東京工業大学に「天守閣建築の研究」を提出して博士号を受ける。戦後は、26年東京工業大学教授となり教鞭をとる一方、文化財保護委員となり、城郭、遺構研究の蓄積をもとに和歌山城(33年)、小田原城(35年)、熊本城(35年、56年)ほかの外観復元を行なうなど建造文化財の保護に尽力する。研究分野では、京都御所の調査を中心に近世の内裏建築、近世住宅史研究に取り組み、『京都御所』(彰国社、31年、新訂版、中央公論美術出版、62年)、『角屋』(彰国社、30年)、『三溪園』(三溪園事務所、33年)、『桂離宮』(美術文化シリーズ、中央公論美術出版、40年)などを刊行する。東京工業大学を停年退官して同校名誉教授となるとともに日本工業大学建築学科で教鞭をとり、のち同学学長をつとめた。この時期には、ネパール王宮建築を主要な研究対象とした。自ら設計も行ない、昭和33年以降建造文化財の復元、保存に主にたずさわる以前は、東京都内を中心に寺院建築の設計を手がけている。東京都文京区本郷真浄寺本堂は、平屋根、椅子式の合理的寺院建築の先駆的な例として注目される。(詳細な業績・著作目録は1989年9月刊『建築史学』13号に掲載されている。)
続きを読む »
没年月日:1988/11/15 長板中形の重要無形文化財保持者(人間国宝)の染色家清水幸太郎は、11月15日午後7時40分、心不全のため葛飾区の自宅で死去した。享年91。明治30(1897)年1月28日、長板中形の型付師であった清水吉五郎を父に、東京本所に生まれる。同43年本所堅川尋常高等小学校を卒業後、父のもとで家業の修得にあたり、昭和11(1936)年、父の死去によりその号であった松吉を襲名する。同27年東京長板本染中形協会主催の競技会に出品し、金賞および銀賞を受賞。同29年第1回日本伝統工芸展に出品し、以後第15回までほぼ毎年出品を続ける。長板中形は、型付けに長板を用い、布地の表裏両面に染色するもので、表裏の文様を合わせる修練が必要なうえ、小紋と比較して二倍手間がかかり、かつ木綿という素材の性格から普段着として普及し高価なものとはならなかったため、職人の数が減少した。その中にあって伝統技法を守り、昭和30年重要無形文化財保持者に認定された。長板中形京追掛網代小松文浴衣、長板中形京追掛朱竹文浴衣などが東京国立近代美術館に所蔵されている。
続きを読む »
没年月日:1988/11/12 独立美術協会会員の洋画家今井憲一は、11月12日午前4時22分、心不全のため京都市中京区の京都民医連中央病院で死去した。享年80。明治40(1907)年11月13日、京都市に生まれる。昭和3(1928)年津田青楓洋画塾に入り、翌4年第16回二科展に「東山一隅」「百合の花」で初入選し、同8年まで同展に出品する。津田青楓塾が東京へ移るに際し、8年独立美術京都研究所を北脇昇らと共に創立する。10年第5回独立展に「山蔭の杜」で初入選。以後同展に出品を続ける。15年第10回展に「湿地帯」を出品して独立美術協会賞を受賞し23年同会会員となる。京都市展にも出品し、10、13、14年に受賞する。戦前、戦後を通じて京都にあって活躍し、38年より48年まで京都美術大学教授、49年より52年までPL学園女子短大教授をつとめ、52年京都府美術工芸功労者として顕彰される。戦前から超現実主義的作風を示し、風景と静物を組み合わせて独自の画風を示す。
続きを読む »
没年月日:1988/11/05 文化財建造物保存技師竹原竹次郎は、11月5日午後9時15分、肺こうそくのため神奈川県相模原市の北里大学病院で死去した。享年76。大正元(1912)年10月15日富山県に生まれる。昭和6年3月私立帝国工業教育会建築科通信教育課程を修了後、宮大工松井角平に師事。伝統的な社寺建築技術と修理技術を学ぶ。昭和17年株式会社飛島組に勤務し、木造建築の設計施工に携わる。18年海軍施設部に入隊、22年5月復員後、再び宮大工の仕事に戻り、同年6月富山県高瀬神社の増改築を行なう。26年兵庫県斑鳩寺三重塔の保存修理工事に修理助手として携わって以降、同じく修理助手として28年富山県護国八幡宮本殿、29年石川県妙成寺開山堂の保存修理工事を行なう。続いて同29年鹿児島県八幡神社本殿の保存修理工事に工事主任としてあたり、30年から始まった日光二社一寺の昭和大修理では、56年3月まで20数年間にわたって工事主任として工事を指揮。まず30年輪王寺本堂の保存修理工事から始め、36年本地堂調査設計工事、38年同本地堂保存修理工事、以後42年経蔵、鼓楼、鐘楼、五重塔、附鐘舎、上社務所の調査設計工事を経て、44年二荒山神社中宮祠本殿、拝殿、46年経蔵、鼓楼、48年鐘楼、50年五重塔、52年附鐘舎、53年上社務所の保存修理工事をそれぞれ行なった。この間、42年財団法人日光社寺文化財保存会技師となり、56年工事終了まで後継者養成のための技術者講習会の講師として後進の育成にあたっている。57年1月には、財団法人文化財建造物保存技術協会嘱託となった。57年1月以降は、同年1月千葉県新勝寺三重塔、9月竜正院本堂、10月神奈川県関家住宅などの保存修理に工事監督としてあたった。53年6月文化庁創設10周年記念功労者として表彰された。
続きを読む »
没年月日:1988/11/04 国画会会員の洋画家福留章太は、11月4日、急性肺炎のため鳥取県立厚生病院で死去した。享年75。大正元(1912)年12月3日高知市に生まれる。本名福留五郎。昭和27年より山崎姓となる。昭和7(1932)年北神商業学校を卒業し、8年東京美術学校油画科に入学する。南薫造に師事し、13年同校を卒業。15年第15回国画会展に「真鶴風景」で初入選。18年第18回同展に「風景」「蓮」を出品して褒状受賞。22年第21回同展に「ゼリスト」「ゆあみ」「池畔」「茶山花」を出品して国画奨学賞を受賞し、24年同会会員となる。22年より鳥取県に居住し、国画会展のほか県展、市展に出品を続ける。45年欧米を巡遊。46年より61年まで鳥取女子短期大学幼児教育学科教授をつとめた。代表作に「構える」「増幅する」「アントロポス」のシリーズがある。
続きを読む »
没年月日:1988/10/31 太陽美術協会会長の洋画家二重作龍夫は、10月31日午前5時45分、肺炎のため静岡県富士宮市の国立療養所富士病院で死去した。享年72。大正5(1916)年1月8日、茨城県水戸市に生まれる。熊岡美彦の主宰する画塾に学び、熊岡らの創立になる東光会に出品。昭和11年帝展に「静物」で初入選。14年東光会展で東光賞を、17年国画会展で褒状を受賞する。32年第13回日展に「裸婦と二匹の仔犬」を出品して特選となる。44年ル・サロン展銅賞、ニース・フランス国際展グランプリ賞金メダル、ニューヨーク国際展金賞、45年ル・サロン展銀メダル、46年同展金メダル、47年同展芸術院賞、フランス国際展国際芸術絵画大賞、とフランスを中心に欧米で受賞を続ける。「ベニスの馬」「ベニスの船」「ベニスの宮殿」などベニスに取材した作品で評価され、この他、ドン・キホーテや富士なども好んで題材とする。フランス国際展副会長をつとめ、フランス政府よりシュバリエ・レジオン・ドヌール勲章を受けた。
続きを読む »