本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。
(記事総数 3,120 件)
- 分類は、『日本美術年鑑』掲載時のものを元に、本データベース用に新たに分類したものです。
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没年月日:2019/08/28 読み:うながみまさおみ 美術評論家の海上雅臣は8月28日、肝不全のため死去した。享年88。 1931(昭和6)年、東京四谷に新劇の俳優だった父母の三男として生まれる。母方の祖父は平福穂庵に師事し沖縄で活躍した日本画家の山口瑞雨。10代の頃より俳句に関心を持ち、俳人の原石鼎や石田波郷と交流。17~25歳の間は俳名である神林良吉の名で活動した。49年、18歳で棟方志功の版画を購入したのを機に棟方と交流するようになる。50年、上智大学に入学するも9月で中退し、日本信販株式会社に入社。同社の宣伝誌『家庭信販』を担当し、同誌に吉井勇の和歌と棟方志功の木版画を連載する。54年資生堂絵具工業株式会社に転職。同社では国際学童美術研究会を設立し、久保貞次郎や北川民次等が創設した創造美育協会にも参加。一方で54年に棟方志功の文集『板画の話』、56年に『板画の道』を宝文館より刊行、棟方を民芸作家として扱う柳宗悦の見解に対し、その現代美術家としての評価に努める。62年から翌年にかけてパリで遊学、ソニア・ドローネーやマン・レイと交流する。64年、着色料のメーカーである大日精化工業株式会社に入社。同社在籍中に東京銀座5丁目に壹番館画廊を開設(~1971年)、中本達也展や建築家白井晟一の書展等を開催する。68年カラープランニングセンターを設立、大日精化の高橋義博社長を理事長に、自らは専務理事となり、新進デザイナーを理事に招聘して色彩に関する調査やコンサルティングを行なう。72年美術評論家連盟会員となる(2013年退会)。74年に現代美術を支援するプロダクションとしてUNAC TOKYOを設立、会報誌『六月の風』を創刊する。77年にはその7年前に出会って以来、傾倒してきた書家の井上有一の作品集『井上有一の書』をUNAC TOKYOより刊行。85年に井上が亡くなると、その翌年の86年に「生きている井上有一の会」を結成。海上は同会の代表を務め、1999(平成11)年には長野県信濃美術館で開催された「比田井天来と日本近代書道の歩み」展で、井上の作品が芸術観や戦争観の異なる作家の作と展示されることに抗議、裁判に持ち込み、美術館での企画展のあり方に一石を投じた。2000年、井上有一のカタログレゾネ『井上有一全書業』全3巻を十年の歳月を経て完成させる。02年、日本現代藝術振興賞を受賞。 主要な編著書は上記に挙げた書籍の他、下記のものがある。『木内克作品集』(美術出版社、1962年)『八木一夫作品集』(求龍堂、1969年)『定本木内克』(現代彫刻センター、1974年)『棟方志功 美術と人生』(毎日新聞社、1976年)『棟方志功』(保育社カラーブックス、1977年)『バイルレ 都市・集合・エロス トーマス・バイルレ造型美の世界』(サイマル出版会、1982年)『やきものこの現代 八木一夫前後』(文化出版局、1988年)『井上有一全書業』(UNAC TOKYO、1996~2000年)『井上有一 書は万人の芸術である』(ミネルヴァ日本評伝選、2005年)『井上有一書法是万人的芸術』(中国・河北教育出版社、2009年)『現代美術茶話』(藤原書店、2019年)
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没年月日:2019/06/04 読み:さくらいたけし 美術評論家で、熊本市現代美術館長の桜井武は、胃がんのため熊本市内の病院で6月4日に死去した。享年75。 1944(昭和19)年1月2日、静岡県藤枝市に生まれ、66年に慶應義塾大学文学部仏文科を卒業。同年より69年まで、東京画廊に勤務。69年から71年まで、シカゴ・アート・インスティチュートに留学。帰国後、71年から2004(平成16)年まで、英国の公的な国際交流機関であるブリティッシュ・カウンシル(東京事務所)に勤務。アート担当者として、演劇、音楽、美術等の文化事業に従事し、とりわけ英国の近代、現代美術の紹介に尽力した。その功績から在職中の91年には、大英勲章MBEを授与された。2004年に、日本美術評論家連盟会員となり、同年より08年まで、慶應義塾大学大学院の非常勤講師を勤めた。 その間に、『英国美術の創造者たち』(形文社、2004年)を刊行。同書は、それまでに雑誌、カタログ等に寄稿した評論をまとめたものだが、平易な語りで16世紀から1990年代の現代美術までを歴史的に概観した内容となっている。さらに『ロンドンの美術館 王室コレクションから現代アートまで』(平凡社、2008年)は、それぞれの美術館の特色が歴史的な背景とともにコンパクトにまとめられている。 08年4月に、熊本市現代美術館長に就任。09年、「花・風景 モネと現代日本のアーティストたち ―大巻伸嗣、蜷川実花、名知聡子―」展をはじめ、ジャンルや地域、時代にとらわれない同美術館の意欲的な企画展に取り組み先導した。在職中の2016年4月におこった熊本地震では、被災による休館後にいち早く復旧を指揮し、一か月後には再開した。美術館が市民の寛ぎと癒しの場であり、広範な文化活動がコミュニティー復興の契機になったことを実証し注目された。この活動をまとめた報告書『地震のあとで 熊本地震記録集』(熊本市現代美術館、2018年)の巻頭で、桜井は、「熊本市現代美術館は、美術活動を主軸に据え、しばしば美術の領域を超えて、被災した市民県民や他の文化施設と緊密に連携し、創造的復興に繋がるべく、多様なアートの活動の場となってきました。」(「熊本地震と美術館」)と記し、社会における美術館とその役割の重要性に対する確信が述べられている。14年に美術館連絡協議会理事となり、同年熊本県文化協会常務理事等に就任するなど、熊本県、熊本市の文化活動全般に関与した。 長年、英国における美術等の文化活動が、いかに社会に寄与するかを学び、実見してきた経験を背景に、熊本市現代美術館をベースに果敢に活動をつづけた美術館人であった。
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没年月日:2019/06/02 読み:わしおとしひこ 美術評論家で詩人のワシオ・トシヒコは6月2日に死去した。享年75。 1943(昭和18)年12月19日、岩手県釜石市清水町に生まれる。本名は鷲尾俊彦。高校、大学ともに國學院に学び、「ワシオ・トシヒコ」のペンネームで、サークル誌にエッセイや紀行文を発表。66年、岩手県立福岡工業高校で国語科教員となるが、詩集『星ひとつ』(私家版)を上梓したのち、翌67年、教職を辞す。東京に戻り、銀座の詩誌句集専門書店瓢〓堂の店長として働き、季刊雑誌『ピエロタ』(母岩社)を編集する傍らで、金子光晴主宰詩誌『あいなめ』同人となり、詩人として活動。72年、サトー・デザインセンター入社、毎日新聞社出版宣伝部へ出向。渋谷の古書店で矢野文夫編著『野獣派長谷川利行』(芸術社)と出会い、翌年『月刊VISION』に「闇に生き狂う魂:長谷川利行」を発表。74年から毎日グラフ別冊「一億人の昭和五十年史」、その後、毎日新聞社昭和史編集部「一億人の昭和史」シリーズの編集に従事。81年、フリーランスとなり、82年から『毎日グラフ』で美術展評を、翌年から『三彩』で書評を寄稿。これ以降、本格的に美術紙誌に参入し、精力的に執筆活動を展開。83年、美術評論家連盟会員となり、このころからコンクール展や美術家団体の公募展を審査する機会が増える。86年、六本木のギャラリー、ストライプハウス美術館で四方田草炎展を企画したことを契機に、同館で本人曰く「異色物故作家シリーズ」を企画、閉館2000(平成12)年までに高山良策、宮崎喜三、クガ・マリフ、矢野文夫らの回顧展を実施。また同ギャラリーを拠点に発足した公開講座「世紀末大学」で講師を務めた。94年には駿河台大学で、97年には女子美術大学で非常勤講師に赴任。98年、中野市が主催する長野冬季オリンピック大会国際公募「小さな絵画、大きな輪」展を企画立案、審査員を務める。04年、ノー・ウォー美術家の集い横浜展(神奈川県民ホール)に詩の作品を展示、同年結成「アピールに賛同する詩人の輪」、翌年結成の呼びかけ人となる。05年、新人具象画家の登竜門といわれる損保ジャパン美術財団・産経新聞社主催第25回選抜奨励展の審査員長となる。07年、『ワシオ・トシヒコ詩集』(土曜美術社出版販売)上梓。09年、青木繁「海の幸」会の発足に際して理事となる。晩年は、『美術屋百兵衛』で「読解・絵画鑑賞講座」、『月刊美術』で「連載わがまま絵画点評 深見東州の世界」、『月刊ギャラリー』で「評論の眼」等連載を数多くもった。 雑誌メディアが隆盛を極めた昭和の終わりから、雑誌不況といわれた平成の終わりまで、“詩人美術評論家〟のひとりとして、とりわけ異端の画家、夭折の画家の評伝を得意とし、その生き様を多くの美術愛好者に届けた。継続的なフィールドワークによって成立する同時代作家に呼応した執筆活動を展開し膨大な数の著述を残した。 著書に『具象系絵画の現在』(舷灯社、1987年)、『異色画家論ノート』(舷灯社、1989年)、『現代画家へのメッセージ50人』(生活の友社、1995年、MADO美術文庫)、編著書に『画家小泉清の肖像』(恒文社、1995年)、『矢野文夫芸術論集』(舷灯社、1996年)等がある。
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没年月日:2019/01/29 読み:はしもとおさむ 小説、古典文学の現代語訳、日本の文化を縦横に論じた評論等数多くの著述を残し、いずれにおいても軽妙で独特な語り口によって読者を魅了した作家の橋本治は、1月29日、肺炎のため死去した。享年70。 1948(昭和23)年3月25日、東京都杉並区和泉の菓子店に生まれる。67年、東京大学文学部国文学科入学。2年次に駒場祭(学校祭)に発表したポスター「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」で注目される。73年、同学を卒業し、イラストレーターとして活動。77年、小説『桃尻娘』で第29回小説現代新人賞佳作を受賞しデビュー。1996(平成8)年、『宗教なんかこわくない!』で第9回新潮学芸賞を受賞。2002年、『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』で第1回小林秀雄賞受賞。05年、『蝶のゆくえ』で第18回柴田錬三郎賞受賞。08年、『双調平家物語』で第62回毎日出版文化賞受賞。18年『草薙の剣』で第71回野間文芸賞受賞。2021(令和3)年9月には、長編小説『人工島戦記』(ホーム社発行、集英社発売)が未完で刊行された。 また、緻密な図面に基づく編み物にも才能を発揮し、カルト的な人気を誇った。 93年から05年にわたり、『芸術新潮』に「ひらがな日本美術史(1~7)」(全119回、1995~2007年までに単行本全7巻を刊行)を連載。古代から戦後まで、時代順、1回1作品を原則とし、題名の通り肩肘張らない普段着の言葉で自身の選んだ作品について論じた。原稿の半分以上を時代背景の解説に費やすなど博識を披露し、正統的な美術史の語りにも言及しつつ(第7巻の「あとがき」では、研究生として一時期在籍した東京大学美術史学研究室において近世美術史家の山根有三に認められた逸話とともに、学問としての「美術史」との距離の取り方について述べる)、鋭い観察と想像力で作り手像に肉薄し、読者を挑発するような独断をも躊躇なく披露するなど、本著における記述は平明なだけではない。しかしながらこうした多様なアプローチの背後に貫かれていたのは、作品に対して「フィフティ・フィフティでつきあえなきゃいやだ」(「その五十四 そこら辺にあるもの 『柳橋水車図屏風』」『ひらがな日本美術史3』。芸術作品が「自分の物」ならという条件付きで記された言葉である)と「ひらがな」で述べる精神であっただろう。
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没年月日:2018/04/26 読み:ふじえだてるお 批評家、美術史家で武蔵野美術大学名誉教授の藤枝晃雄は4月26日、誤嚥性肺炎のため死去した。享年81。 1936(昭和11)年9月20日福井県武生市(現、越前市)本町生まれ。生家は浄土真宗本願寺派の陽願寺。本名照容(てるかた)。 61年東京藝術大学美術学部芸術学科卒業(在学中は新聞部、卒論は「マルセル・デュシャン」)。67年京都大学大学院美学美術史学専攻修士課程修了(在学中の63年から65年、ペンシルヴェニア大学大学院に留学、修論は「現代アメリカ美術研究」)。69年武蔵野美術大学講師として就任、80年に教授(2006年退任)。75年ニューヨーク近代美術館客員研究員。2002(平成14)年「ジャクソン・ポロック」で文学博士(大阪大学)。 藝大在学中に次代美術会設立に参加し同人誌『次代美術』を創刊、2号(1959年)に「残存の美術評論」を寄稿。60年代半ばから美術雑誌をはじめ、詩誌『VOU』(藝大在学中から参加)、建築雑誌、富士ゼロックスのPR誌『グラフィケーション』等幅広く執筆をはじめる。 著書に、アメリカ抽象表現主義を中心に近現代美術の状況と自らの批評の立脚点を示す『現代の美術9 構成する抽象』(講談社、1971年)。60年代末から70年代半ばまでの評論をまとめた『現代美術の展開』(美術出版社、1977年)。『世界の素描33・マティス』(講談社、1978年)。ライフワークともいえる『ジャクソン・ポロック』(美術出版社、1979年。改訂版、スカイドア、1994年。新版、東進堂、2007年)。マネからモンドリアンまで15名の近代画家を論じた『絵画論の現在』(スカイドア、1993年)。『現代美術の不満』(東信堂、1996年)。『現代芸術の彼岸』(武蔵野美術大学出版局、2005年)。初期からの晩年までの評論のアンソロジーとして『モダニズム以後の芸術』(対談や編者のコラムを含む。東京書籍、2017年)等がある。共著・編著・共編著に『空間の論理 日本の現代美術』(ブロンズ社、1969年)、『芸術的世界の論理』(創文社、1972年)、『ジャズ』(青土社、1978年)、『講座・20世紀の芸術』(岩波書店、1989―90年。3巻芸術の革命、7巻現代美術の状況、8巻現代芸術の焦点、9巻芸術の理論)、『アメリカの芸術』(弘文堂、1992年)、『芸術理論の現在 モダニズムから』(東信堂、1999年)、『西洋美術史への視座』(勁草書房、1988年)、『芸術学フォーラム・西洋の美術』(勁草書房、1992年)、『絵画の制作学』(日本文教出版、2007年)等。編訳書として『グリーンバーグ批評選集』(クレメント・グリンバーグ著、勁草書房、2005年)等。監修に『日本近現代美術史事典』(多木浩二と共監修、東京書籍、2007年)等がある。 企画展に、「絵画の問題展 Art today’80」(西武美術館、1980年)、「今日の作家展」(横浜市民ギャラリー、1980年)、「見ること/作ることの持続 後期モダニズムの美術」展(武蔵野美術大学、2006年)など。現代思想へのコンタクトを常とし、クレメント・グリーンバーグの批評を基軸にフォーマリズムの視点から、作品の質を問うべく徹底的に視る批評を展開、時に舌鋒激しい物言いは他に類がなかった。アメリカや日本の現代美術について鋭い批評を残した。
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没年月日:2018/04/23 読み:みきたもん 美術評論家で、国立国際美術館長などを歴任した三木多聞は、4月23日急性心不全のため没した。享年89。 1929(昭和4)年2月6日、現在の東京都北区中里に生まれる。父は、彫刻家の三木宗策。早稲田大学第二文学部芸術学科を卒業後の52年に開設時の国立近代美術館に採用。以後、82年まで東京国立近代美術館の事業課長、美術課長、企画課長を歴任した。72年9月、同美術館の開館20年を記念して「現代の眼-近代日本の美術から」展が開催され、74年に同展の記念図録を刊行。つづいて73年9月、同美術館において「近代日本美術史におけるパリと日本」展を開催し、75年には同展の記念図録を刊行した。両展とも、当時としては規模も大きく、その中心となって担当して図録の編集執筆にあたったが、前者は日本の近代美術を批評的にとらえなおそうとする試みであり、後者は、ヨーロッパ近代美術の受容史として見なおす内容であった。81年12月、同美術館において「1960年代-現代美術の転換期」展を企画担当し、国内外で活躍する日本の美術家72名を網羅し、日本の現代美術を横断的に俯瞰しようとする画期的な内容であった。 82年、文化庁文化財保護課企画官に異動。86年、国立国際美術館に館長として赴任。同美術館を退職後の1992(平成4)年から97年まで徳島県立近代美術館長。また、徳島県立近代美術館在職中、併任して95年から2000年まで東京都写真美術館長を務めた。01年に勲三等旭日中綬章を受けた。 また、海外での活動としては、75年、アントワープ・ミデルハイム国際彫刻ビエンナーレ展コミッショナー、81年と83年、サンパウロ・ビエンナーレ展コミッショナー、85年、リュブリアナ国際版画ビエンナーレ展審査員などを務めた。 東京国立近代美術館在職中から、勤務の傍ら各種のコンクールの審査員や新聞雑誌、展覧会カタログ等に旺盛に執筆をして、近代、現代彫刻を中心に広く批評活動をつづけた。そうした視野の広さと交友の広さから、70年代から80年代にかけては美術評論の分野で重きを置いていた。90年7月、柏市文化フォーラム104主催で第1回TAMON賞展(会場、〓島屋、千葉県柏市)が開催された。同展は、現代絵画の分野で若手美術家を育成する目的で、三木多聞の単独審査による公募展であった。同展は、95年の第6回展まで三木が審査にあたった。 なお、多くの編著作、ならびにカタログ、新聞雑誌への寄稿があるが、主要な著作は下記のとおりである。 『近代の美術 第7号 高村光太郎』(至文堂、1971年) 共編『現代世界美術全集21 ムンク、カンディンスキー』(集英社、1973年) 共編『現代日本美術全集17 中村彝・須田国太郎』(集英社、1973年) 共編『日本の名画24 岡鹿之助』(中央公論社、1977年) 編著『原色現代日本の美術13 彫刻』(小学館、1979年) 小倉忠夫共著『日本の現代版画』(講談社、1981年) 『近代絵画のみかた:美と表現』(第一法規出版、1983年) 執筆「皇居宮殿の絵画 その画家と作品」(『皇居宮殿の絵画』、ぎょうせい、1986年) 監修・文『寓意像 鶴岡政男素描画集』(PARCO出版、1988年) 編著『昭和の文化遺産5 彫刻』(ぎょうせい、1990年) 編著『自画裸像 或る美術家の手記・保田龍門遺稿』(形文社、1997年) なお、父三木宗策(1891-1945)の作品集『三木宗策の木彫』(アートオフィス星野編、2006年)を自家出版した。また没後、遺族より東京文化財研究所に「三木多聞氏関係資料」が寄贈された。資料は、図書、カタログの他、自筆原稿を含む著述ファイル、展覧会案内状等によるスクラップブック、写真アルバム、手帖等であり、現在同研究所にて公開、活用にむけて整理が進められている。
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没年月日:2017/11/14 読み:いしざきこういちろう 評論家、名古屋造形大学名誉教授の石崎浩一郎は11月14日、喉頭がんで死去した。享年82。 1935(昭和10)年10月7日、広島県生まれ。61年早稲田大学政治経済学部新聞学科卒業。64年日本初の個人映画祭「フィルム・アンデパンダン」を新宿紀伊國屋ホールで足立正生、金坂健二らと開催する。この頃、ギャラリー新宿や内科画廊のグループ展に参加する。67年アジア財団の招聘によりハーバード大学国際セミナー芸術部門修了。68年までニューヨーク大学芸術部門研究員。60年代後半の現代美術シーンをニューヨークからレポートし、後に上梓された『光・運動・空間 境界領域の美術』(商店建築社、1971年)は、ポップアートやキネティックアートなどの日常生活とテクノロジーの間で多様化する美術の動向を捉えている。石崎のこのスタンスは、アメリカを主とした現代美術の紹介者としてながく続き、以下のような出版物に業績が〓れる。 訳書として、『アメリカの実験映画』(アダムス・シドニー編、フィルム・アート社、1972年)、『ポップ・アート:オブジェとイメージ』(クリストファー・フィンチ著、PARCO出版局、1976年)、『ジャクスン・ポロック』(エリザベス・フランク著、谷川薫と共訳、美術出版社・モダン・マスターズ・シリーズ、1989年)、『20世紀の様式:1900―1980』(ヘヴィス・ヒリアー著、小林陽子と共訳、丸善、1986年)。共著として、『現代の美術』(エドワード・ルーシー=スミス、講談社、1984年)。著書として、『映像の魔術師たち』(三一書房、1972年)、バシュラールの著作から導きだされた貝殻や鏡、迷宮、渦巻きといった図像をめぐる『イメージの王国』(講談社、1978年)、『アメリカン・アート』(講談社現代新書580、1980年)、論考に「黒と白の画家」(『画集オーブリー・ビアズリー』、講談社、1978年)、「西欧美術にみる女性美」(『美人画』福富太郎との共著、世界文芸社、2001年)などがある。一方で、日本領域への眼差しも70年代初期からもち、「狂児・織田信長」(『季刊パイディア』、1972夏号)をはじめ、未完となった連載「転換期の美学」(『月刊陶』1981年6月から)などにみられるように、織部などの伝統美への論考も試みていた。 教育歴として、87年から2005(平成17)年まで名古屋造形大学教授、在職中は図書館長も務めた。06年から同大名誉教授。
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没年月日:2017/05/03 読み:やすいしゅうぞう 美術評論家で、しもだて美術館長(茨城県筑西市)の安井収蔵は、肺がんのため西東京市の自宅にて死去した。享年90。 1926(大正15)年9月20日、愛知県名古屋市に生まれる。日本大学予科を修了、1946(昭和21)年、毎日新聞東京本社に入社。事業部を経て文化部に勤務した後、同新聞中部本社に報道部に異動。63年に同新聞東京本社学芸部に移り、美術に関する報道を担当。同紙の美術記事を76年12月まで執筆し、また各美術雑誌にも寄稿した。同年、同社を退社。笠間日動美術館顧問、日動画廊嘱託となる。85年、山形県の酒田市美術館長に就任。2003(平成15)年からしもだて美術館長となる。同館長職は没年まで勤めた。美術館の館長職の傍ら、晩年までジャーナリストの視点から、美術界の事情をとりあげ、『新美術新聞』をはじめ各誌に寄稿を続けた。なお各誌に寄稿した美術に関する記事は、下記の4書にまとめられている。『色いろ調:美術記者のコラム』(美術年鑑社、1985年)『当世美術界事情:コラム「色いろ調」1985-1990』(美術年鑑社、1990年)『当世美術界事情2』(美術年鑑社、2000年)『絵話 諸縁 近頃美術界の話題を掬う』(講談社エディトリアル、2015年)
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没年月日:2017/04/05 読み:おおおかまこと 現代日本を代表する詩人で、美術評論も多数手がけた大岡信は4月5日午前10時27分、誤嚥性肺炎による呼吸不全のため静岡県三島市内の病院で死去した。享年86。 1931(昭和6)年2月16日静岡県田方郡三島町(現、三島市)に歌人・大岡博の長男として生まれる。旧制中学在学中から短歌や詩を書き始め、東京大学文学部国文学科在学中の52年、雑誌『赤門文学』に発表した評論が注目を集める。53年に同大学を卒業、読売新聞外報部記者の傍ら旺盛な創作を進め、川崎洋、茨木のり子、谷川俊太郎らの詩誌『櫂』に参加。63年に新聞社を退社後は65年に明治大学助教授、70年に同大学教授、88年より東京藝術大学教授を務める。『記憶と現在』(ユリイカ、1956年)、『透視図法―夏のための』(書肆山田、1977年)、『春 少女に』(書肆山田、1978年)等清新な実験精神に富む詩集、『紀貫之』(筑摩書房、1971年、翌年読売文学賞受賞)、『うたげと孤心』(集英社、1978年)等日本の古典に根ざした斬新な評論を次々と発表。また連歌・連句という日本古来の集団制作の伝統を現代詩によみがえらせる「連詩」を創始、海外の詩人らと共同制作を重ね、また外国での朗読会、講演等を通じて日本文学の紹介に努めるなど国際的にも活動した。 大岡は詩人としての創作活動の傍ら、50年代から美術評論家としても活躍した。56年に東野芳明や飯島耕一ら東京大学時代の仲間とシュウルレアリスム研究会を立ち上げた後、『美術批評』に初めての美術評論「PAUL KLEE」を執筆。同誌の他『みづゑ』『美術手帖』等で活発な美術論を展開し、数々の美術書の解説も手がける。58年、書肆ユリイカが創立十周年を記念して企画した「ユリイカ詩画展」で、大岡の詩に対して駒井哲郎が銅版画を合作。59年に東京・日本橋の南画廊で開催された「フォートリエ展」カタログ作成に協力したのをきっかけに同画廊主の志水楠男と知り合い、同画廊を通じて国内外の現代芸術家と交流するようになる。加納光於、宇佐美圭司、嶋田しづ、サム・フランシス、ジャン・ティンゲリーといった美術家はもとより、武満徹や一柳慧といった音楽家とも親交を結んだ。なかでも加納光於とは60年の南画廊での個展で大岡が作品を買ったことがきっかけとなって親しくなり、互いの詩作、作品制作にも深く係わり合い、共同制作「アララットの船あるいは空の蜜」(1971―72年)を生み出した。また63年にパリ青年ビエンナーレ詩部門に参加するため渡仏した際に菅井汲と出会い、以後幾度か詩と画のパフォーマンス的共演を行うなど、美術家との共同制作を試みたほか、自ら版画や水彩画の制作にも取り組んだ。 79年から『朝日新聞』に連載したコラム「折々のうた」で80年に菊池寛賞を受賞。日本現代詩人会会長、日本ペンクラブ会長を歴任し、1995(平成7)年には恩賜賞・日本芸術院賞を受け日本芸術院会員となる。2002年に『大岡信全詩集』(思潮社)が刊行。03年文化勲章を受章。翌年には文化交流の功労に対しフランス政府からレジオン・ドヌール勲章(オフィシエ)を贈られる。06年から07年にかけて三鷹市美術ギャラリー他で、芸術家同士の交流を通じて収集された作品を紹介した「詩人の眼・大岡信コレクション」展が開催。長男の大岡玲(あきら)は作家。09年に脳出血で倒れた後は一線を退き、療養に努めていた。 大岡の美術に関する主要著書は下記の通りである。『芸術マイナス1』(弘文堂、1960年)『ポロック』(みすず書房、1963年)『芸術と伝統』(晶文社、1963年)『眼・ことば・ヨーロッパ』(美術出版社、1965年)『肉眼の思想』(中央公論社、1969年)『現代美術に生きる伝統』(新潮社、1972年)『装飾と非装飾』(晶文社、1973年)『ドガ』(新潮社、1974年)『岡倉天心』(朝日新聞社、1975年)『日本の色』(朝日新聞社、1976年)『加納光於論』(書肆風の薔薇、1982年)『ミクロコスモス 瀧口修造』(みすず書房、1984年)『抽象絵画への招待』(岩波書店、1985年)『美をひらく扉』(講談社、1992年)
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没年月日:2017/01/17 読み:むらきあきら 美術評論家の村木明は、1月17日に没した。享年88。 1929(昭和4)年1月11日、岐阜県に生まれる。51年、名古屋外国語専門学校(現、南山大学)フランス語科を卒業。54年、早稲田大学政治経済学部を卒業。71年頃から74年まで、『読売新聞』に美術批評、美術に関する記事を寄稿。また、『みづゑ』に「海外短信」として海外の最新の美術動向を伝える記事を連載し、同時に各美術雑誌に展覧会評などを寄稿した。執筆活動の他、70年代から80年代には「ヴュイヤール展」(西武美術館、1977年)、「ヘンリー・ムーア 素描と彫刻展」(西武美術館、1978年)、「アンドリュー・ワイエス展」(三越、日本橋、1978年)、「ルノワール展」(伊勢丹美術館、1979年)などをはじめとして、東京都内のデパートなどを会場とした美術展の監修にもあたり、カタログへ寄稿した。また、読売新聞社主催の「日本秀作美術展」では、79年の第1回展から2003(平成15)年の第25回展まで、監修、審査にもあたった。 主な編著作、翻訳は下記の通りである。(翻訳)『アメリカン・ノスタルジア2 マックスフィールド・パリッシュ』(PARCO出版局、1975年)(翻訳)『アメリカン・ノスタルジア4 ハワード・パイル』(同前、1976年)(翻訳)『アメリカン・ノスタルジア6 トーマス・ハート・ベントン』(同前、1976年)座右宝刊行会編『現代日本の美術8 国吉康雄・三岸好太郎』(国吉康雄を担当)(集英社、1976年)(翻訳)マドレーヌ・ウール著『名画の秘密 ルーヴル美術館 絵画の科学的探究』(求龍堂、1976年)『アメリカ近代美術の展開 コマーシャル・アートの黄金時代を築いた作家たち』(美術公論社(芸術叢書)、1978年)『現代日本画全集 第10巻 橋本明治』(集英社、1982年)(解説)『中山忠彦画集』(求龍堂、1983年)『展覧会への招待 絵の百科事典』(読売新聞社、1984年)(解説)『平山郁夫 私のスケッチ技法』(実業之日本社、2007年) なお、美術評論家としての活動の傍ら、『おわら囃子が風に乗る』(近代文芸社、1995年)をはじめ、『雪割草』(同前、2006年)、『季節風』(同前、2009年)など小説集も刊行している。
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没年月日:2017/01/07 読み:きたむらよしお 評論家で茅ヶ崎市美術館館長を務めた北村由雄は1月7日、死去した。享年81。奥英了のペンネームもあり。 1935(昭和10)年5月27日東京都生まれ。59年東京芸術大学美術学部芸術学科卒業。在学中の56年『美術批評』の読者欄に「現代日本美術展寸感」(55号)、「美術界と戦争責任の問題」(56号)が掲載される。59年「次代美術会」に参加、『次代美術』1号に「フォートリエ論」、2号に「ピーター・ブリューゲル覚書」を執筆。同会は鶴岡弘康、藤枝晃雄ら7人の同人で、60年には「20代作家集団」に発展、25名の会員からなり、高松次郎、若林奮、村田哲朗らも参加している。北村は同会評論誌『CRIT』1号に「ものと感覚と信念について」を寄稿、アンデパンダン展の在り方から河原温、池田龍雄、利根山光人にふれている。卒業後、59年共同通信社文化部記者となり、美術界の出来事を含め展覧会評を執筆。さらに美術雑誌にも原稿を寄せる機会が多くなる。64年『美術手帖』に「アトリエでの対話」を12回連載、桂川寛や平山郁夫らを扱い領域を広げていく。一方、『日本美術』87号(1972年)の「私の時代を劃した作家たち」では、戦後美術を自分なりに考えて行く契機となった作家として河原温、池田満寿夫、磯辺行久、工藤哲巳、流政之、小畠広志、多田美波、柳原睦夫をあげ、記者としての体験型志向が示されている。81年に上梓された『現代画壇・美術記者の眼1960〓1980』(現代企画室、1983年に増補改訂版)は、60年代初期の前衛的傾向から70年の大阪万博をへて、幅広く画壇の動向などにふれ、一ジャーナリストの視点として記録性が高い。81年にはぺりかん社の「なるにはシリーズ」の内『美術家になるには』を執筆する。1997(平成9)年に茅ヶ崎市美術館初代館長に就任、退任後も茅ヶ崎美術家協会展での講演や2016年の第1回茅ヶ崎市美術品審査委員会委員長を務めるなど、市の美術界に尽力した。教育歴としては96年から多摩美術大学の客員教授を務めた。
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没年月日:2016/08/31 読み:あさひあきら 佐伯祐三、松本竣介研究で知られた美術評論家で、広島市現代美術館副館長だった朝日晃は、8月31日に肺炎のため、東京都内の病院で死去した。享年88。 1928(昭和3)年2月11日に広島市に生まれる。広島市の旧制修道中学校を卒業後、広島県立師範学校に進学して49年3月に卒業。翌年、早稲田大学文学部芸術専修美術科に学び、52年3月に同大学を卒業。54年に神奈川県立近代美術館嘱託に採用される。61年に同美術館学芸員となり、69年に主任学芸員となる。75年より新築された東京都美術館の事業課長に転ずる。同美術館では、「戦前の前衛 二科賞、樗牛賞の作家とその周辺」(1976年)、「靉光・松本竣介そして戦後美術の出発展」(77年)、「写真と絵画 その相似と相異」(1978年)など、日本の近現代美術に関して問題提起するような意欲的な自主企画展を指導する一方、「描かれたニューヨーク展 20世紀のアメリカ美術」(1981年)、「今日のイギリス美術展」(1982年)などの国際展も率先して開催した。85年、広島市現代美術館開設準備事務局長となり、88年より同美術館開設準備室長となる。1989(平成元)年5月開館の同美術館の副館長に就任、翌年3月に退職した。以後、美術評論家として活動した。 監修にあたった佐伯祐三、松本竣介に関する画集等が多くあるが、他に主要な編著作は下記の通りである。『松本竣介』(日動出版部、1977年)『永遠の画家 佐伯祐三』(講談社、1978年)中島理寿共編『佐伯祐三 近代画家資料1』(東出版、1979年)中島理寿共編『佐伯祐三 近代画家資料2』(東出版、1980年)中島理寿共編『佐伯祐三 近代画家資料3』(東出版、1980年)『佐伯祐三-パリに燃えた青春』(NHKブックス、1980年)編集解説松本竣介文集『人間風景』(中央公論美術出版、1982年)『絵を読む 人間風景の画家たち』(大日本絵画、1989年)『佐伯祐三のパリ』(大日本絵画、1994年)野見山暁治共著『佐伯祐三のパリ』(新潮社、1998年)『そして、佐伯祐三のパリ』(大日本絵画、2001年)
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没年月日:2016/08/25 読み:はやしきいちろう 美術評論家で、新潟市美術館長、池田20世紀美術館長を歴任した林紀一郎は、心不全のため8月25日死去した。享年86。 1930(昭和5)年4月23日、鹿児島県出水群三笠村(現、阿久根市)に生まれる(本名林喜一郎)。幼少年期を中国北東部(当時の満州国)に過すごし、44年、牡丹江中学校2年時に帰国。53年、上智大学文学部英文科を卒業。57年から60年まで、なびす画廊(中央区銀座1丁目)にて個展を開催、また58年から60年までモダンアート展に出品。60年代から美術評論などの執筆活動をはじめ、雑誌等に幅広く寄稿をつづけた。84年4月、新潟市美術館準備室長に就任。翌年4月、同美術館開館に伴い館長に就任。1995(平成7)年3月まで在任し、同年4月から2009年3月まで同美術館顧問、また95年4月から05年3月まで、同美術館資料選定委員を務めた。同美術館在任中は、初代館長として国内外の近現代美術、郷土出身美術家の作品収集につとめ、コレクションの形成に尽力し、また後進の育成につとめた。92年から05年まで、公益財団法人池田20世紀美術館(静岡県伊東市)の館長を務め、在任中52回にのぼる企画展を開催した。幅広い美術家との日常的な交友をもとに、各作家の人柄や個性を視野に入れ、さらに創作をめぐる作品論を展開するなど、平易に論評する軽妙なスタイルで、晩年まで評論活動をつづけた。監修、解説等にあたった主要な著作は下記の通りである。分担執筆『加山又造 装飾の世界』(京都書院、1979年)共著『世界版画美術全集 第8巻 エルンスト/ミロ』(講談社、1981年)共著『現代美術入門』(美術出版社、1986年)瀧口修造共訳『アラカワ/マドリン・H・ギンズ 「意味のメカニズム」』(1979年に国立国際美術館で開催された「荒川修作の世界・意味のメカニズム」展カタログに掲載)『もの書き・恥かき・半世紀 -美の領分・交友録-』(自家出版、2014年)『続 もの書き・恥かき・半世紀 -海外作家編-』(林幸子発行出版、2017年)
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没年月日:2016/01/10 読み:みなみしまひろし 美術評論家の南嶌宏は、1月10日、脳梗塞のため松本市内の病院で死去した。享年58。 1957(昭和32)年10月4日、長野県に生まれる。本名は南島宏。兄は彫刻家の南島隆。長野県立飯田高等学校、筑波大学芸術専門学群芸術学専攻卒業。インド放浪を経て、いわき市立美術館に赴任。85年、自身最初の展覧会として「もうひとつの美術館―解体を巡って」を企画。87年、広島市現代美術館に赴任。30代の始めからは青山・スパイラル、佐賀町エキジビット・スペースなど、所属する美術館の外での展覧会もいくつか手掛ける。1990(平成2)年に広島市現代美術館を退職、東京に拠点を移す。のちに熊本市現代美術館設立準備室に籍を置くまでインディペンデントとして活動し、この間にライフワークともいえるテーマ、「東欧の美術」「女性アーティスト」「いけばな」など現代美術が扱うことのなかった分野をじっくりと育む。93年、カルティエ現代美術財団奨学生としてパリへ留学。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のなか、戦場に近い東欧全域を訪問。またこの留学中に中国人キュレーター、ホー・ハンルーと知遇を得る。留学の成果のひとつとして97年「分析と解釈 中央ヨーロッパの現代美術」(資生堂ギャラリー)を企画。2000年から熊本市現代美術館の運営に参画し学芸課長兼副館長、館長を歴任。同館では「ATTITUDE 2002 心の中の、たったひとつの真実のために」(2002年)、「生人形と松本喜三郎 反近代の逆襲」展(2004年)、「ATTITUDE 2007 人間の家:真に歓喜に値するもの」(2007年)などを企画、美術を通したハンセン病への社会的偏見に対する活動や、生人形や見世物文化の価値を再発見する取り組みを行った。08年に熊本市現代美術館館長を退任、女子美術大学芸術学部芸術学科教授に就任。同年、第1回プラハ国際芸術トリエンナーレ国際キュレーター。09年第53回ベネチア・ビエンナーレ日本館コミッショナー。全国美術館会議理事、国際美術評論家連盟など歴任。第3回西洋美術振興財団学術賞受賞(2008年)。単著に『ベアト・アンジェロ 天使のはこぶもの』(トレヴィル、1992年)、『サンタ・マリア』(トレヴィル、1993年)、『豚と福音』(七賢出版、1997年)、共著に『現代美術入門』(美術出版社、1986年)、『日本藝術の軌跡』(夏目書房、2003年)、『美術批評と戦後美術』(ブリュッケ、2007年)など。歿後、2月28日に杉並区の女子美術大学杉並キャンパス110周年記念ホールでお別れ会が催された。
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没年月日:2016/01/04 読み:よしだよしえ 美術評論家のヨシダ・ヨシエは1月4日、埼玉県鶴ケ島市の病院で脳梗塞のため死去した。享年86。 1929(昭和14)年5月9日、東京都千代田区麹町に生まれる。本名吉田早苗、父は逓信省の官吏だった。2歳のとき母と死別。番町小学校、鎌倉臨海学園に学ぶ。父の転勤にともない新潟中学へ転校、その後、現在の神奈川県立湘南高校に在籍中に敗戦。しばらくは家出をし、上野の浮浪者と生活を送る。その後、小林秀雄や林達夫ら鎌倉文化人を知り、地域雑誌『緑地帯』の発行に関わり、3号まで刊行。50年頃、片瀬目白山に在住の丸木位里・俊夫妻を尋ね、藤沢の旅館で「原爆の図」を展示する。以後3年間、丸木夫妻らと「原爆の図」5部作の全国巡回展示を行う。52年劇団前進座に参加。56年詩集『風と夜と』(私家版250部、吉留要画)をヨシダ・ヨシエ名で刊行。同年「小山田二郎の芸術」(『美術批評』、8月号)で美術評論デビュー。58年詩画集『ぶるる』(岡本信二郎画、亜紀社)。61年「瀧口修造覚え書き」(『現代芸術』、5.6~9月号)では、瀧口の戦中期の活動について論述。62年「靉光伝」(『AVECART』、58号から9回連載)は、ヨシダのこの頃の中心的なテーマ「戦争と美術」が展開される。靉光については、77年から82年まで『デフォルマシオン』で「わたしの内部の靉光」を長期連載する。 65年目白駅近くにモダンアートセンター・ジャパンを設立、展示や出版を手掛ける活動を開始するも、半年あまりで解散した。68年ギャラリー新宿の機関誌『反頭脳』を編集。71年尾崎正教や小本章と人間と大地の祭り展(代々木公園)を企画。72年『戦後前衛所縁荒事十八番』(ニトリア書房、同書は82年『解体劇の幕降りて』として増補版が造形社より刊)刊。74年コスモス展(サンパウロ大学現代美術館)を組織。75年アーティスト・ユニオンに参加。77年より日本・アジア・アフリカ・ラテンアメリカ美術家会議に参加。同年『琉氓の解放区』(現代創美社)刊。83年松沢宥『プサイの函』(造形社)の監修。86年より原爆の図丸木美術館評議委員(1994年まで、95年から97年まで常務理事)を務める。同年『エロスと創造のあいだ』(展転社)刊。1989(平成元)年『手探る・宇宙・美術家たち』(樹芸書房)刊。91年より池田20世紀美術館評議委員(1994年まで、以後2007年まで理事、10年まで評議委員)を務める。93年『修辞と飛翔』(北宋社)刊。96年ライフワーク的な『丸木位里・俊の時空・絵画としての「原爆の図」』(青木書店)刊。2005年『ヨシダ・ヨシエ全仕事』(芸術書院、全著述が収録されてはいない)刊。08年細江英公による写真集『原罪の行方 最後の無頼派ヨシダ・ヨシエ』が刊行される。ヨシダの評論活動はファインアートだけでなく舞踏や人形、人類学、サブカルチャーへ幅広い領域にわたる。没後、舞踏関連を中心に蔵書の一部が、アメリカ、ロサンゼルスのUCLAに寄贈され、「ヨシダ・ヨシエ文庫」として開設されている。
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没年月日:2015/07/09 読み:かわぞえのぼる 建築評論から民俗学に至る分野で活躍した建築評論家の川添登は7月9日肺炎のため死去した。享年89。 1926(大正15)年2月23日東京駒込染井に生まれる。早稲田大学専門部工科(建築)、文学部哲学科を経て、1953(昭和28)年、理工学部建築学科卒業。同年より新建築社勤務。53年より『新建築』の編集長を務めていたが、1957年に独立して建築評論家となる。60年世界デザイン会議日本実行委員。69年大阪万博博覧会テーマ館サブプロデューサー。70年京都に加藤秀俊などとともにシンクタンクの株式会社CDI(コミュニケーションデザイン研究所)を設立し、所長を務めた。72年日本生活学会を設立し、理事長・会長を歴任した。81年つくば国際科学技術博覧会政府出展総括プロデューサー、87年から1999(平成11)年まで郡山女子大学教授、93年より96年まで早稲田大学客員教授、99年より2002年まで田原市立田原福祉専門学校校長。日本生活学会・日本展示学会・道具学会名誉会員。 川添が残した日本建築界への多大な功績のうち、特筆すべきは1950年代から60年代にかけて建築界の言説を牽引し、建築批評と建築評論の両面から建築ジャーナリズムを確立していったことが挙げられる。川添が編集長を務めていた『新建築』の中で建築家に論考を促し、建築の背景にある思想を記述させた。また、50年代半ばには紙面にて集中的に伝統論をテーマにするよう仕掛け、言説を煽った。これは「日本建築のルーツはなにか」、さらには「日本建築をどう表現すべきか」を問うものであった。さらには、編集のみに留まらず川添は「岩田知夫」のペンネームで、新建築および他の建築雑誌『国際建築』と『建築文化』にも寄稿して議論を盛り上げ、建築ジャーナリズムを通して、現代に通じる日本建築とは何かを日本の建築家に問い続けた。 また、特筆すべきは中心メンバーとしてメタボリズム運動を生み出し、牽引したことである。60年に開催された世界デザイン会議においては実行委員の中心メンバーとして参画し、他国から著名な建築家を招聘するだけではなく、それを迎え撃つように、菊竹清訓、大高正人、槇文彦、黒川紀章らとメタボリズムの概念を練りあげ、『METABOLISM 1960 都市への提案』(美術出版社、1960年)を出版し、日本発の世界的な建築理念を発表するに至った。50年代当時において、海外ではオリエンタリズムの観点から形態について述べられるに過ぎなかった日本の現代建築を、現代建築思想の観点を含めて世界的な建築批評の壇上に持ち上げることに成功した。 このように川添は建築の実作をつくらずして、日本の建築思想を牽引し、日本の建築家の作品や考え方に影響を与え続けた。 川添は生涯に渡り、数多くの著作を執筆した。受賞歴として、60年『民と神の住まい』により毎日出版文化賞、82年『生活学の提唱』により今和次郎賞、民間学である生活学を体系したことで97年南方熊楠賞を受賞している。主要著書:『現代建築を創るもの』(彰国社、1958年)、『伊勢 日本建築の原形』(丹下健三、渡辺義雄と共著、朝日新聞社、1962年)、『メタボリズム』(美術出版社、1960年)、『民と神の住まい大いなる古代日本』(光文社、1960年)、『建築の滅亡』(現代思潮社、1960年)、『日本文化と建築』(彰国社、1965年)、『建築と伝統』(彰国社、1971年)、『生活学の提唱』(ドメス出版、1982年)、『象徴としての建築』(筑摩書房、1982年)、『「木の文明」の成立』(上下 NHKブックス、1990年)、『木と水の建築 伊勢神宮』(筑摩書房、2010年)など多数
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没年月日:2015/03/19 読み:むらたけいのすけ 川崎市岡本太郎美術館名誉館長で、美術評論家の村田慶之輔は、3月19日に死去した。享年84。 1930(昭和5)年10月11日に生まれる。56年3月、早稲田大学第一文化学部を卒業。59年11月に神奈川県教育委員会職員となる。64年、神奈川県立博物館準備室の学芸員となる。69年4月に文化庁文化部芸術課専門職員に転ずる。74年7月に文化庁文化部文化普及課の国立国際美術館設立準備室主幹となる。77年5月、国立国際美術館開館にともない学芸課長となる。1991(平成3)年3月に定年退官。同美術館在職中には、福井県立美術館運営委員会、西宮市大谷記念美術館運営委員会、愛知県美術館協議会、和歌山県立近代美術館協議会の委員を務め、また高知国際版画トリエンナーレ、安井賞、現代日本美術展、吉原治良賞の審査員も務めた。教育面では、愛知県立芸術大学、静岡大学等で非常勤講師として教鞭をとった。92年4月、高岡市美術館準備室長となるが、翌年3月に退職。99年4月に川崎市岡本太郎美術館館長となる。在職中は、岡本太郎をはじめとする各種の企画展の企画、監修などにあたった。2012年4月に同美術館名誉館長となる。また同時期に、軽井沢ニューアートミュージアムの名誉館長にも就任した。幅広い視野から、縦横に美術を語り、批評しつづけた美術館人であった。
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没年月日:2014/03/17 読み:かとうさだお 評論家で目黒区美術館館長、茨城県近代美術館長を務めた加藤貞雄は、3月17日肺がんのため死去した。享年81。 1932(昭和7)年5月14日生まれ(本籍は千葉県船橋市)。55年早稲田大学第一法学部卒業。同年9月毎日新聞社大阪本社に入社する。65年から毎日新聞社東京本社学芸部に異動。主に70年代、80年代の公募・団体系の展覧会評を担当した。78年から学芸部編集委員、80年から学芸部長、82年から学芸部編集委員兼論説委員を務め、87年同社を退職する。87年10月より、日本人作家が海外で制作した作品を収集することを方針の柱とする目黒区美術館長に就任。1995(平成7)年から2007年まで茨城県近代美術館長を務め、同館の展覧会図録で、福王寺法林、下保昭、川崎春彦、加山又造らについて論述している。また『荻太郎』(日動出版部、2004年)収載の作家論「人間愛の“精神造型”」では、画家の70年にわたる画業を精密に記述している。94年、96年、98年には文化功労者選考審査委員、93年、94年、97年、98年には芸術選奨選考審査委員、91年、93年には安井賞選考委員を務めた。ほかに現代日本彫刻展、昭和会展、中村彝賞などの選考委員を務めた。
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没年月日:2014/02/14 読み:こんどうゆきお 美術評論家で、慶應義塾大学理工学部准教授の近藤幸夫は、2月14日死去した。享年63。 1951(昭和26)年2月9日、愛知県岡崎市に生まれる。71年3月、慶應義塾高等学校を卒業後、慶應義塾大学商学部に進学。75年4月に同大学文学部哲学科美学美術史専攻に学士入学。77年4月、株式会社小田急百貨店に入社。80年1月に同社を退職し、同年4月、慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程に入学、83年3月に修了。80年10月、東京国立近代美術館の研究員に採用。1991(平成3)年に同美術館主任研究員となる。同美術館在職中は、「現代美術における写真」展(1983年)、「モディリアーニ展」(1985年)、「近代の見なおし:ポストモダンの建築1960-1986」展(1986年)、「手塚治虫展」(1990年)等を担当した。なかでも、「モディリアーニ展」は、国内で紹介されることが少なかった彫刻作品を含めて作品の質、出品点数において比類のない大規模な展覧会であった。また調査研究においては、大学、大学院時代からのテーマであったコンスタンティン・ブランクーシの研究をすすめ、その成果を論文等にまとめるとともに、現代美術における立体表現、写真へと研究領域を広げていった。こうした研究を基盤にした評論活動においては、『美術手帖』の展覧会評「ART84」の連載(1984年2月-12月)や「かわさきIBM市民ギャラリー」での企画展をはじめ、各種の雑誌への寄稿やギャラリーでの企画、作家展に積極的に参加協力した。 96年4月、慶應義塾大学理工学部助教授となり、日吉校舎の美術研究室に勤務、総合教育等を担当した。在職中は、教育指導の傍ら、とりわけ2004年6月に同大学日吉キャンパス内の施設「来往舎」のギャラリーにて「来往舎現代藝術展」を学生有志と共に企画運営した。同展は、その後も様々なアーティストを招き、また時宜にかなうテーマに基づき開催、近藤は13年10月の第10回展まで中心となって携わった。美術評論家としては、その評論をふりかえると、単に完成した作品を前にして批評するというよりも、作家、作品から創作の過程、創作をめぐる思考までを丹念にたどりながら、親しく寄り添うように批評する態度が一貫していたことが理解される。そうした批評の基点には、現代美術のめまぐるしい変転を視野に入れつつ、アーティストへの敬意と深い共感があったからであろう。没後の14年3月24日、原美術館(東京都品川区)のザ・ホールにて「近藤幸夫さんにお別れをする会」が開かれ、多数の関係者が参集した。なお同会のために作成された冊子「KONDO YUKIO 09.02.1951-14.02.2014」には、詳細な研究業績及び活動履歴が掲載され、30年以上にわたる活動が記録されている。 主要な翻訳、編著書『ブランクーシ作品集』(ラドゥ・ヴァリア著、小倉正史との共訳、リブロポート、1994年)『カラー版20世紀の美術』(分担執筆、美術出版社、2000年)『Fuji Xerox Print Collection』(監修、全解説執筆、富士ゼロックス株式会社、2002年)
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没年月日:2013/06/20 読み:むらせまさお 美術評論家、日本画家の村瀬雅夫は6月20日死去した。享年74。 1939(昭和14)年1月16日、東京市世田谷区(現、東京都世田谷区)経堂に生まれる。間もなく、千葉県に移住し、幼年期、少年期を千葉市で過ごす。千葉県立第一高等学校を卒業後、59年、東京大学文学部入学。在学中に横山操、石崎昭三に師事して日本画を学ぶ。61年、62年に青龍社展に出品したという。63年東京大学文学部東洋史学科卒業、読売新聞社に入社。福島支局勤務を経て、長く本社文化部で美術担当記者として務める。85年から読売新聞夕刊で連載「美の工房」(全50回)を担当。在職中から無所属の日本画家として、銀座・飯田画廊、ニューヨーク・日本クラブギャラリー、東京セントラル画廊などで生涯18回の個展を開催した。1989(平成元)年、50歳の年に、読売新聞社の文化次長で定年退職を迎える。明治大学講師、福井県立美術館館長、渋谷区立松濤美術館館長を歴任。著書に『野のアトリエ』(桃源家、1989年)、『美の工房―絵画制作現場からの報告』(日貿出版社、1988年)、『横山操』(芸術新聞社、1992年)、『「芭蕉翁月一夜十五句」のミステリー 『おくのほそ道』最終路の謎』(日貿出版社、2011年)、『庶民の画家南風』(南風記念館、1977年)、編著書に『川端龍子 現代日本の美術13』(集英社、1976年)、『川端龍子 現代日本の美術4』解説(集英社、1977年)、『現代日本画全集 第14巻 奥田元宋』(集英社、1983年)、『20世紀日本の美術 アート・ギャラリー・ジャパン 5 平山郁夫/前田青邨』(瀧悌三と責任編集、集英社、1986年)がある。
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