本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





多木浩二

没年月日:2011/04/13

読み:たきこうじ  評論家の多木浩二は4月13日、神奈川県平塚市の病院で肺炎のため死去した。享年82。 1928(昭和3)年12月27日、兵庫県神戸市に生まれる。57年東京大学文学部美学美術史学科卒業。名取洋之助のスタッフとして『岩波写真文庫』の制作、編集に携わる。59年博報堂に入社。61年編集デザイン事務所ARBO(アルボ)を設立、旭硝子の広報誌『ガラス』の企画、編集、執筆、撮影を行なう。同誌関連での60年代におけるヨーロッパの建築体験が後に建築を考察する基盤となる。 美術評論では、55年第2回美術出版社芸術評論で「井上長三郎論」で佳作入選(『みづゑ』1955年8月号掲載)。その後、『美術手帖』、『デザイン』などに執筆をするようになる。60年代末の活動としては、日本写真家協会が主催した「写真100年展」(『日本写真史1840-1945』平凡社1971年に結実)の仕事を経て、中平卓馬、高梨豊らと68年に刊行した同人誌『PROVOKE―思想のための挑発的資料』(季刊、プロヴォーク社、3号まで)がある。彼らのブレボケ写真は既成のリアリズム写真を批判した。しかし90年代後半からの同誌への過大評価に対して、晩年多木は嫌悪に近い感慨をもっていた。 多木が扱う領域は建築、写真、美術、デザイン、都市と幅がひろい。主に関わった作家たちには、篠原一男、坂本一成、磯崎新、倉俣史朗、桑山忠明、楠本正明、大橋晃朗らの名があがってくるが、ミニマル系の系譜がみえてくる。彼の方向はジャンルを重層的に捉えているが、物と空間、そして社会との関係を深層の域から意識化していくことであった。初期の重要な著作『生きられた家』(田畑書店、1976年)は、初出は篠山紀信の写真集『家』に掲載されたテキストだが、単行本化、改訂を4度行ない、記号論的な思考を深化させていった。さらに『天皇の肖像』(岩波新書、1988年)、『写真の誘惑』(岩波書店、1990年)は、写真の芸術性よりも社会のなかに写真メディアが位置づけられる過程を問い、ベンヤミンを援用して論じていく。80年代に到り、モチーフは広がり、『絵で見るフランス革命』(岩波新書、1989年)で歴史論へと向かい、「やっとここまできた」と述懐していた。40数冊の書籍の多くが、青土社と岩波書店から上梓されており、身体論やキャプテン・クックなどへの広がりは、編集者三浦雅士との信頼関係によるところがある。1994(平成6)年からは八束はじめと季刊誌『10+1』(INAX出版)の編集を始める。美術論では、『神話なき世界の芸術家―バーネット・ニューマンの探究』(岩波書店、1994年)でアメリカ抽象表現主義の絵画を、『シジフォスの笑い―アンセルム・キーファーの芸術』(同、1997年、芸術選奨文部大臣賞)で歴史と絵画について考察した。さらに、60年代からモチーフとしていたデ・ステイルのなかから身体論(例えばリートフェルトの椅子)を含め、20世紀の特異な表象「抽象」について、モンドリアンの絵画をとおして考察していくことが晩年の課題であったが、形にはならなかった。日本近代絵画についての論考としては、靉光論「絵画というものの探求」(『靉光』展図録、練馬区立美術館他、1998年)などがある。教育者としては、67年和光大学助教授就任をはじめ、東京造形大学教授、千葉大学教授などを歴任した。著作目録については『建築と日常・別冊(多木浩二と建築)』(2013年)が参考となる。

鷹見明彦

没年月日:2011/03/23

読み:たかみあきひこ  美術評論家の鷹見明彦は3月23日、群馬県前橋市の病院で肝臓がんのため死去した。享年55。 1955(昭和30)年7月19日、北海道富良野市に生まれる。幼少時は広島で過ごし、10歳頃に東京都立川市に転居。絵を描くのが好きな少年だった。74年桐朋学園高校卒業。80年中央大学文学部哲学科卒業。20代後半から、音楽雑誌『中南米音楽』(後に『ラティーナ』と改称)に音楽、本、美術などの評論を執筆するようになる。84年同人誌『砂洲』を刊行。題字は中央大学在学中に交流をもった小川国夫が書いた。87年、作家の蔡國強と知り合い、『砂洲』に彼のテキスト「硝煙の彼方より」(山口守訳)を掲載する。90年代から、ギャラリー美遊、ガレリアラセンなどの企画に参加し、王新平、渡辺好明らの評論を執筆。90年頃から『美術手帖』に展覧会評を始め、評論活動が活発化する。1997(平成9)年から2000年まで、岩手芸術祭の現代美術部門の審査員を務める。98年、第3回アート公募’99企画作家選出展(天野一夫、西村智弘とともに)の審査に関わり、第6回まで務める。99年から東京藝術大学美術学部の油画科、以後同大先端芸術表現学科、彫刻科などで、また2000年からは茨城大学教育学部の非常勤講師を務める。03年から、表参道画廊の企画に関わり、水野圭介、坂田峰夫らの展覧会を企画する。同年、アートプログラム青梅の企画に参加。04年から07まで、武蔵野美術大学日本画学科の非常勤講師を務める。05年から『ホルベイン アーティスト ナビ』に毎月書評と映画評の連載を始める。鷹見は、環境、自然、神秘といったモチーフをもとに文明論を構想していた。書籍のかたちには至らなかったが、美術評論の数々は、彼と並走していた若い作家たちへのエールであり、その活動は病によって突然切断されてしまった。残された資料の一部は、東京文化財研究所に所蔵された。

瀬木慎一

没年月日:2011/03/15

読み:せぎしんいち  美術評論家の瀬木慎一は3月15日、肺炎のため死去した。享年80。 1931(昭和6)年1月6日、東京市京橋区(現、中央区)銀座に生まれ、豊島区目白台で育つ。生家は銀座で飲食店を営み、父が骨董収集を趣味としたため、近所の骨董屋によく同行した。幼少のころより教会に通い、初歩的な英語を習得する。10歳の時に父が戦死。44年から王子区(現、北区)十条の東京第一陸軍造兵廠で働く。このころ文学書、教養書を多読、特に万葉集や古今和歌集、世界名詩選のようなものに惹かれる。詩作もし、戦後は同人誌などに発表する。47年中央工業専門学校に入学、学制改革に伴い翌々年中央大学法学部に入学する。東宝の契約社員としてアニー・パイル劇場(現、東京宝塚劇場)に派遣され、脚本の翻訳、音楽の訳詩などの仕事に携わる。劇場の横にあったCIE(民間情報局)図書館で数年間アメリカの映画雑誌や美術書を読み、特にニューヨーク近代美術館の叢書などで西洋美術の勉強をする。一方自作の詩を見てもらったことを契機に小説家野間宏の知遇を得、野間の紹介で花田清輝、安部公房らを知る。岡本太郎、花田清輝らの前衛芸術運動「夜の会」に参加。49年「世紀」管理人となり、桂川寛とともにガリ版刷りパンフレット『世紀群』の制作責任者を担う。50年『世紀群』第3号でピート・モンドリアンの著述を翻訳した「アメリカの抽象芸術―新しいリアリズム」を発表。51年「世紀」が解散したのちに結核を患い、2年間秦野で療養生活を送る。大学を中退し、53年から『読売新聞』の展覧会評を執筆、のちに他紙でも執筆する。同年『美術批評』に初めての美術批評論文「絵画における人間の問題」を発表。54年「現代芸術の会」に参加。このころから養清堂画廊、東京画廊などの展覧会企画に携わる。57年渡仏、ミシェル・ラゴン、ハンス・アルプ、ジャン・デュビュッフェらと交友、同年イタリアで開催された国際美術評論家連盟会議に日本代表として参加。75年「現代美術のパイオニア」を『古沢岩美美術館月報』に連載開始、この連載を軸に翌々年東京セントラル美術館で「現代美術のパイオニア展」が開催される。77年東京美術研究所を西新橋・東京美術倶楽部内に創設し(1980年に総美社と社名変更)、『東京美術市場史』(東京美術倶楽部、1979年)の編纂にあたる。1990(平成2)年から『新美術新聞』で「美術市場レーダー」連載を開始(2011年まで)。この他に「今日の新人1955年」展(神奈川県立近代美術館、1955年、作家選出)、「世界・今日の美術」展(日本橋高島屋、1956年、展覧会委員)、シャガール展(国立西洋美術館ほか、1963年、実行委員)、ピカソ展(国立近代美術館、1964年、展覧会委員)、現代日本美術展(1964年から1971年まで、選考委員)、日本国際美術展(1959年から1965年まで、選考委員)、選抜秀作美術展(1966年まで、作品選定委員)、東京国際版画ビエンナーレ(1957年から1964年まで、展覧会委員)、東京野外彫刻展(1986年から1995年まで、選考委員)などの展覧会に携わる。また和光大学、女子美術大学、多摩美術大学、東京藝術大学で教鞭をとった。国際美術評論家連盟会長、ジャポニスム学会常任理事、国際浮世絵学会理事などを歴任。おもな著書に『現代美術の三十年』(美術公論社、1978年)、『戦後空白期の美術』(思潮社、1996年)、『国際/日本 美術市場総観』(藤原書店、2010年)など、総合美術研究所での編書に『全国美術界便利帳』(総美社、1983年10月)、『日本アンデパンダン展全記録1945-1963』(総美社、1993年6月)などがある。現代美術やデザインを論じる一方、社会的・経済的な視点から美術品取引の実態や、美術商・オークションの動向など美術市場を実証的に研究した。2009年日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴによりインタビューが行われ、同団体のウェブサイトに公開された。

中原佑介

没年月日:2011/03/03

読み:なかはらゆうすけ  美術評論家の中原佑介は3月3日、死去した。享年79。 1931(昭和6)年8月22日、兵庫県神戸市に生まれる。本名江戸頌昌(えどのぶよし)。神戸市立成徳国民学校、兵庫県立神戸第一中学校を卒業。中学校時代に相対性理論の解説書を読み理論物理学に惹かれる。48年旧制第三高等学校理科に入学、学制改革に伴い翌年京都大学理学部に入学。このころ理論物理学研究のためにロシア語を学び、エイゼンシュタインの映画論やマヤコフスキーの詩に傾倒。また当時「まやこうすけ」というペンネームで詩作もした。53年同物理学科を卒業、同大学院理学研究科に進学、湯川秀樹研究室で理論物理学を専攻。55年修士論文と並行して書いた「創造のための批評」が美術出版社主催第2回美術評論募集第一席に入選、雑誌『美術批評』に掲載される。湯川の紹介で平凡社に就職、『世界大百科事典』嘱託編集部員となるが、一年ほどで退職。上京してまもなく、安部公房に誘われ「現在の会」に参加、のちに「記録芸術の会」に参加。56年から『読売新聞』の展覧会週評を担当。63年「不在の部屋」展(内科画廊)を企画。このころから内科画廊、東京画廊、サトウ画廊、おぎくぼ画廊などの展覧会企画に携わる。66年「空間から環境へ」展(銀座松屋)に参加。68年「トリックス・アンド・ヴィジョン」展(東京画廊・村松画廊)を石子順造と、「現代の空間’68光と環境」展(神戸そごう)を赤根和生と共同企画。70年に第10回日本国際美術展(東京ビエンナーレ)「人間と物質」のコミッショナーを務める。75年から草月流機関誌『草月』に「現代美術入門」を執筆。82年から伊奈ギャラリー企画委員会に参加、その中心となり作家選定、会場構成、リーフレット『INA-ART NEWS』(1985年社名変更に伴い『INAX ART NEWS』と改題)への作家解説の執筆を行う。その他東京国際版画ビエンナーレ(1957年から1979年まで、展覧会委員、実行委員、組織委員)、長岡現代美術館賞(1964年から1968年まで、出品者選考審査員、受賞者選考審査員)、現代日本美術展(1966年から2000年まで、選考委員、ただし12回は除く)、パリ青年ビエンナーレ(1967年、コミッショナー)、サンパウロ・ビエンナーレ(1973年と1975年、日本館コミッショナー)、ヴェネツィア・ビエンナーレ(1976年と1978年、日本館コミッショナー)、現代日本彫刻展(1977年から2011年まで、選考委員、運営委員長、選考委員長)、富山国際現代美術展(1993年と1996年、日本セクションコミッショナー)、越後妻有アートトリエンナーレ(2000年から2009年まで、アートアドバイザー)など現代美術の展覧会にさまざまなかたちで携わる。京都精華大学学長、水戸芸術館美術部門芸術総監督、兵庫県立美術館館長、国際美術評論家連盟会長などを歴任。おもな著書に『ナンセンスの美学』(現代思潮社、1962年)、『現代彫刻』(角川書店、1965年)、『見ることの神話』(フィルムアート社、1972年)、『人間と物質のあいだ』(田畑書店、1972年)、『大発明物語』(美術出版社、1975年)、『80年代美術100のかたち』(INAX、1991年)などがある。2011(平成23)年大地の芸術祭における企画「中原佑介のコスモロジー」として、旧蔵書約3万冊が川俣正によってインスタレーションとして展示された。また同年から現代企画室とBankARTにより『中原佑介美術批評選集』が全13巻の予定で刊行されている。前出の「創造のための批評」では、批評は作家の創作の秘密を説明するにとどまらず、それを変革するためのものであると説き、戦後の美術批評の地平をひらいた。針生一郎、東野芳明と並んで美術批評の「御三家」と称され、若い世代の作家たちを大いに刺激し、晩年まで日本の現代美術界を牽引した。

針生一郎

没年月日:2010/05/26

読み:はりういちろう  評論家の針生一郎は5月26日、川崎市市内の病院で急性心不全のため死去した。享年84。1925(大正14)年12月1日、宮城県仙台市に生まれる。生家は味噌醤油屋を営んでいた。「学生時代は軍国青年であった」と本人は語り、保田与重郎などの著作に傾倒し、1948(昭和23)年東北大学文学部卒業(卒論は島崎藤村)。49年東京大学美学科特別研究生(旧制の大学院制度、54年修了)。48年頃から、花田清輝、野間宏らの「夜の会」、安部公房らの「世紀の会」、雑誌『世代』の同人に、50年からは岡本太郎らの「アヴァンギャルド芸術研究会」などに参加することで、読書会や現場を主体とした在野の視点を築き、学者でなく批評家の道を歩む方向を見出す。だが、一方では52年美学会の創立に参加、学会誌『美学』の編集に携わる。53年には日本共産党に入党し(61年除名)、日本文学学校に職を得る。また、ルカーチの著作にふれ文学・哲学関連の執筆活動をはじめており、53年に新日本文学会へ入会する。同会は針生が一番長く所属した会であり、『新日本文学』の編集委員や議長を歴任した。さらに同年『美術批評』誌への執筆が、現代美術評論家の出発となった。針生の評論活動の時代は、戦後民主主義の始動、60年・70年安保といった政治的な激動期であった。自身、50年代の基地闘争をはじめ三井三池炭抗闘争へ参加、「政治と芸術」をテーマに、現代芸術と大衆(または生活者)をめぐるダイナミクスを論じることを常としていた。69年から刊行された全6巻の評論集は、戦後の芸術運動を捉え、「大衆のなかから形なき前衛」を望む姿勢を発するものである。対外的には、67年のヴェネチア・ビエンナーレ、77年と79年のサンパウロ・ビエンナーレのコミッショナーをはじめ、アジア・アフリカ作家会議の委員を務めるなど、パレスチナをはじめとする第三世界、国交樹立前の中国や南北朝鮮との文化交流に積極的に参加した。67年からのヨーゼフ・ボイスとの交流は「運動としての芸術」への思いを強くしたという。70年代半ばからは「の理念の崩壊とともに、個々の作家の仕事を同時代人に正確にうけとらせる作家論に力をそそぎ」(引用「自筆年譜」『機關』17号針生一郎特集より)、今井俊満、岡本太郎、香月泰男、桂ゆきなど多くの美術家の展覧会図録や作品集へ寄稿した。80年代から、「退役批評家」と自嘲的に語り、「原稿執筆は喫茶店の梯子」もしなくなったと語っていた。1999(平成11)年に肺がんを発症、入院し抗がん剤で治療をするも、愛用のタバコ「わかば」は離さなかった。2000年の光州ビエンナーレでは「芸術と人権」の特別展示のキュレーター、02年にはアートスポット「芸術キャバレー」の設立に加わった。評論、講演活動を死の直前まで体に鞭打ち行なった「生涯現役の行動する評論家」といえよう。ドキュメンタリー映画に『日本心中 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男』(大浦信行監督、2001年)、出演映画に『17歳の風景―少年は何を見たのか』(若松孝二監督、2005年)がある。1968年から73年まで多摩美術大学教授、74年から96年まで和光大学教授、98年から2000年まで岡山県立大学大学院教授を歴任。また金津創作の森館長、原爆の図丸木美術館館長、美術評論家連盟会長を務めた。 主な著書 『ゴーガン』 『レジェ』(みすず書房・美術ライブラリー、1958年、1959年) 『芸術の前衛』(弘文堂現代芸術論叢書、1961年) 『われらのなかのコンミューン 現代芸術と大衆』(晶文社、1963年) 『現代美術のカルテ』(現代書房、1965年) 『針生一郎評論』(全6巻、田畑書店、1969-70年) 『文化革命の方へ 芸術論集』(朝日新聞社、1973年) 『現代の絵画 別巻今日の日本の絵画』(平凡社、1975年) 『戦後美術盛衰史』(東書選書 1979年) 『言葉と言葉ならざるもの』(三一書房、1982年) 『わが愛憎の画家たち』(平凡社選書、1988年) 『修羅の画家 評伝安部合成』(岩波同時代ライブラリー41、1990年)  主な訳書 『リアリズム芸術の基礎』(ルカーチ著、未來社、1954年) 『バルザックとフランス・リアリズム』(ルカーチ著、男沢淳と共訳、岩波書店現代叢書、1955年) 『ダダ 芸術と反芸術』(H・リヒター著、美術出版社、1966年) 『シュルレアリスム』(ベンヤミン著作集8、野村修と共訳、晶文社、1981年) 『ジョン・ハートフィールド フォトモンタージュとその時代』(H・ヘルツフェルド著、水声社、2005年)  主な編著 『現代絵画への招待』(南北社、1960年) 『現代美術と伝統』(合同出版社、1966年) 『われわれにとって万博とはなにか』(田畑書店、1969年) 『現代の美術Art Now 第10巻記号とイメージ』(講談社、1971年) 

平木収

没年月日:2009/02/24

読み:ひらきおさむ  写真評論家、九州産業大学教授の平木収は2月24日、食道がんのため福岡市内の病院で死去した。享年59。1949(昭和24)年8月7日京都府与謝郡宮津町(現、宮津市)に生まれる。京都市伏見区で幼少期を過ごし68年京都府立桃山高等学校卒業。72年早稲田大学第二文学部に入学、77年卒業(美術史専修)。少年時代より写真に関心を持ち、大学在学中の76年3月に東京綜合写真専門学校研究科の学生であった谷口雅らと新宿百人町に自主ギャラリー「フォトギャラリー・プリズム」を開設、77年10月の活動終了までに二度の個展(「レオナルドにならいて」、1976年、「写真機は文房具かなあ」、1977年)を開催する。大学では写真の芸術性について研究し、二つの個展が写真論的な視点にもとづくものであったことにも表われているように、写真をめぐる理論や歴史研究にも早くから幅広い関心をもち、75年『カメラ毎日』誌(6月号)に初めての評論「フォルカー・カーメン著『芸術としての写真』エネルギッシュな収集、対比の妙」を寄稿、80年『日本カメラ』誌において写真展評の連載を始め、実作から評論・研究へと軸足を移す。以後、同誌や『アサヒカメラ』誌などに多くの写真展評、書評などを寄稿、写真評論家として活動する。その評論活動は写真展や写真集などを丹念に実見するフィールドワークに基づくものであり、78年の初の渡欧以降、晩年に至るまでパリ写真月間、アルル写真フェスティバルをはじめとする写真関連の催しの取材や写真研究のため、欧米やアジア諸国にたびたび渡航するなど、そのフィールドは広く海外にも及んだ。85年にツァイト・フォト・サロンにより期間限定で開館した「つくば写真美術館’85」で開かれた「パリ・ニューヨーク・東京」展(つくば写真美術館’85の会期終了後、宮城県美術館に巡回)では、キュレーター・グループの一員として展覧会の企画・運営に携わり、主として19世紀の写真を担当。87年には川崎市教育委員会市民ミュージアム準備室嘱託となり、川崎市市民ミュージアムの設立準備に従事、88年同ミュージアム開館に際し学芸第二室写真部門担当学芸員に就任、1994(平成6)年同学芸主任を辞するまで同ミュージアム写真部門で「写真家・濱谷浩展」(1989年)、「ルイス・ボルツ 法則」(1992年)など多くの写真展を担当する。退任後も、「ピュリツァー賞写真展二〇世紀の証言」(Bunkamuraザ・ミュージアム他、1998年)など多くの写真展を企画・監修した。81年には東京綜合写真専門学校の非常勤講師となり、以後、日本写真芸術専門学校、武蔵野美術大学、京都造形芸術大学、早稲田大学、同芸術学校、玉川大学、東京藝術大学、東北芸術工科大学などで非常勤講師を務め写真史などを講じる。02年早稲田大学芸術学校客員教授に就任(06年3月まで)。05年には九州産業大学芸術学部教授に就任し、死去の直前まで学生の指導にあたった。原点としての実作者としての活動に始まり、評論家、キュレーター、教育者など、平木の写真に関わる広範な活動は、彼自身の造語「フィログラフィー(画像学)」に見られるように、狭義の写真史・写真研究にとどまらない、より広範な文明史的文脈のなかに写真を位置づけ、また畏敬し、享受しようとする柔軟な態度に貫かれていた。写真への尽きせぬ関心をさまざまな方法で伝え続けたその多面的な仕事を通じて、指導を受けた学生だけでなく、写真家や写真研究者にも平木の薫陶を受けたものは多い。そうした功績に対し、99年に日本写真文化協会功労賞、死去の翌年第60回日本写真協会賞功労賞が授与された。単著に『映像文化論』(武蔵野美術大学出版局、2002年)、遺稿集『写真のこころ』(『写真のこころ』編集委員会〔佐藤洋一、竹内万里子、徳山喜雄〕編、平凡社、2010年)がある。また09年5月に東京・市谷で開かれた「お別れの会」に際して刊行された『平木収 1949―2009』に詳細な年譜、執筆文献リストが収載されている。

米倉守

没年月日:2008/02/25

読み:よねくらまもる  美術評論家で、多摩美術大学教授、松本市美術館長であった米倉守は、下咽頭癌のため、東京都三鷹市の病院で死去した。享年70。1938(昭和13)年、三重県津市に生まれる。関西学院大学を経て、関西大学文学部を卒業。卒業後、朝日新聞社に入社、同社大阪本社学芸部、ついで東京本社学芸部で美術を担当した。その後、編集委員となった。1994(平成6)年に多摩美術大学教授となり、同大学造形表現学部長を務めた。また2002年に開館した長野県の松本市美術館の館長を歴任した。新聞記者時代から、展覧会等の批評記事を数多く執筆した米倉であるが、そこには一貫して「現場」(画廊での個展、創作のアトリエ等)に対するこだわりがあった。そして書かれた美術批評は、また一貫して「一般読者」に向けられていた。その点は、米倉の批評の姿勢であり、新聞社を退いた後に書かれた、つぎのような一節からも了解される。「私は画家に呼びかける文体をとったとしても、作家自身に直接向かって書いたことは一度としてない。どうとられようと対象は一般の人たちである。もし何らかの影響が作家側にあるとすれば、一般人、一般読者に投影して、そのはるか反映が作家の制作に影を落とすやもしれない場合に限るだろう。評論家と作家の間に大きな位置を占めている一般読者という存在こそすべてである。評論家の願望を描き、作家、作品を一般大衆に語る自由はあるからだ。(中略)美は壊れやすく滅びやすく、はかない。そして事実滅びてゆくけれど、それを語り描くことが評論だと思っている。」(「靴を隔てて痒きを掻く」、『美術随想 夢なら正夢―美の賑はひに誘ふ一〇〇章』、求龍堂、2006年)米倉は、美術を「現場」から見つめつづけ、「一般読者」に向かって「批評」として発信をつづけたジャーナリストであった。上記引用した著書以外の主要な著書は、下記のとおりである。 『中村彝 運命の図像』(日動出版部、1983年) 『個の創意―現代美術の現場から』(形象社、1983年) 『評伝有元利夫 早すぎた夕映』(講談社、1986年) 『ふたりであること 評伝カミーユ・クローデル』(講談社、1991年) 『美の棲家1 東洋編』(彩樹社、1991年) 『美の棲家2 西洋編』(彩樹社、1991年) 『流産した視覚 美の現在・現代の美術』(芸術新聞社、1997年) 『両洋の眼・21世紀の絵画』(瀧悌三共著、美術年鑑社、1999年) 『非時葉控 脇村義太郎 全人翁の美のものさし』(形文社、2002年) 

桑原住雄

没年月日:2007/12/15

読み:くわばらすみお  武蔵野美術大学名誉教授で、美術史研究、美術評論家であった桑原住雄は、病のため長らく療養中であったが、12月15日、心不全のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年83。1924(大正13)年、広島県広島市に生まれ、幼少時に家族とともに台湾に渡り、旧制台北高等学校を卒業、東京帝国大学文学部に進む。戦中期に応召したが、戦後に復学し美術史を専攻、さらに同大学大学院を修了。東京新聞社、朝日新聞社に勤務。その間の1963(昭和38)年に、アメリカ国務省の人物交流計画と称されたプログラムにより招聘され、ニューヨークをはじめ、アメリカ各地を訪れた。当時は、抽象表現主義の隆盛から、ポップアートが誕生する時代で、アメリカの現代美術に直にふれ、また、19世紀以来のアメリカ美術の歴史のなかにリアリズムの底流があることに強い関心を抱き、以後、アメリカ美術も研究テーマのひとつとなった。77年4月に筑波大学芸術学系に転じて教授として82年3月まで後進の指導にあたった。ついで82年4月から1995(平成7)年3月まで、武蔵野美術大学教授として務め、退任後同大学名誉教授となった。生前の研究、評論活動は、19世紀から現代までのアメリカ美術の歴史、及び古今の日本美術史に及び、旺盛な評論活動を行った。とりわけアメリカ美術については、1886(明治19)年に来日したアメリカ人画家ジョン・ラファージ(1835―1910)の残した滞日記録『画家東遊録』の翻訳(久富貢との共訳)と、同書に付した論文「ラファージと日本美術」に示されたように、それまで日本において紹介されることのなかったアメリカにおけるジャポニスム研究、及び日米の美術交流史研究が特筆される。また、日本美術については、前田青邨、東山魁夷、髙山辰雄、岩橋英遠、荻須高徳、宮本三郎から現代作家まで、多数にわたる作家論、評論を残した。主要な業績は、下記にあげる単行書、翻訳書にあるとおりであるが、なかでも古希を記念して刊行された『桑原住雄美術論集 日本篇、アメリカ篇』(沖積舎、1995・96年)には、生前の研究、評論の成果が集約されている。 編著書: 『東京美術散歩』(角川書店、1964年) 『日本の自画像』(南北社、1966年、改訂版沖積舎、1993年) 『日本画の内景』(三彩社、1974、76年) 中山公男、中森義宗共著『モナ・リザ』(朝日ソノラマ、1974年) 『現代日本の美術5 東山魁夷』(集英社、1974年) 『現代日本の美術7 東山魁夷』(集英社、1976年、普及版) 『アメリカ絵画の系譜』(美術出版社、1977年) 『日本の名画15 前田青邨』(中央公論社、1977年) 『カンヴァス日本の名画15 前田青邨』(中央公論社、1979年) 『東山魁夷の世界』(講談社、1981年) 『東山魁夷ビブリオテカ』(美術出版社、1982年) 『現代日本画全集 第9巻 岩橋英遠』(集英社、1982年) 『日本の近代絵画 伝統と創造(NHK市民大学)』(日本放送出版協会、1985年) 田中穣共編『20世紀日本の美術 アート・ギャラリー・ジャパン16 東郷青児/宮本三郎』(編著担当「宮本三郎」、集英社、1986年) 『東山魁夷』(講談社、1995年) 『桑原住雄美術論集 日本篇』(沖積舎、1995年) 『桑原住雄美術論集 アメリカ篇』(沖積舎、1996年) 『広場の芸術』(日貿出版社、1998年) 桑原住雄詩、香月泰男画『夢マンダラ』(日貿出版社、2002年)  翻訳書: 翻訳バーバラ・ローズ著『二十世紀アメリカ美術』(美術出版社、1970年) 翻訳ハロルド・ローゼンバーグ著『荒野は壷にのみこまれた 大衆状況のなかの美術』(美術出版社、1972年) 翻訳(桑原未知世共訳)エイブラハム・A・デイビッドソン著『アメリカ美術の歴史』(PARCO出版、1976年) 翻訳(下山肇共訳)マヌエル・ガッサー著『巨匠たちの自画像』(新潮社、1977年) 翻訳(久富貢共訳)ジョン・ラファージ著『画家東遊録』(中央公論美術出版、1981年) 翻訳バーナード・ブリソン・シャーン著『ベンシャーン画集』(リブロポート、1981年) 翻訳監修『ワイエス画集3』(リブロポート、1987年) 翻訳監修『ワイエス画集4』(リブロポート、1988年) 翻訳(斎藤泰嘉共訳)ハーリー・F・ゴーグ著『モダン・マスターズ・シリーズ ウィレム・デ・クーニング』(美術出版社、1989年) 

嘉門安雄

没年月日:2007/01/05

読み:かもんやすお  西洋美術史研究、美術評論家で、東京都現代美術館名誉館長であった嘉門安雄は、1月5日、肺炎のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年93。1913(大正2)年、石川県に生まれる。1937(昭和12)年、東京帝国大学文学部美術史学科を卒業。西洋美術史研究者の児島喜久雄教授の助手を務めた。戦後の1947年に東京国立博物館に採用され、同館の表慶館で開催されたマチス展、ブラック展、ルオー展等を担当した。59年開館の国立西洋美術館に転じ事業課長となり、また56年からブリヂストン美術館の運営委員となり、76年12月から1995(平成7)年5月まで同美術館長を長年務め、同美術館のコレクションの収集、各種の展覧会開催の中心として活動した。その間に、東京都現代美術館の設立準備のための諮問委員会委員となり、94年から2000年まで同美術館長を務め、同年4月から同美術館名誉館長となった。また、全国美術館会議の会長、ジャポニスム学会長等も歴任した。戦後の美術復興、そして近年までの美術館人としての活動、美術書刊行による著述活動、美術ジャーナリズムにおける評論活動等、その活動は多岐にわたっていた。しかも、その学術的な関心の領域は、西洋美術史全般、日本の近代美術にまで及んでいるが、なかでもレンブラントを中心にルネッサンス期からバロック、ロココ様式の16、17世紀に広がり、さらに印象派、ファン・ゴッホまで実に広範であった。また戦後から1990年代までの長きにわたるその著述活動を示すために掲出した、下記にあげる著述等の主要業績の一覧は、嘉門安雄個人にとどまらず、一面で戦中期から近年までの日本における「西洋美術研究」史、及び美術評論等の出版の歴史を示すものとなっている。 主要著述・翻訳等一覧:(書名の前に断り書きがないものは故人による単著である。その他は、翻訳、解説、監修等を付し、刊行年順に列記した)。 『西洋美術文庫 第34巻リューベンス』(アトリヱ社、1940年)    『ナチス叢書 ナチスの美術機構』(アルス、1941年)    石井柏亭、嘉門安雄解説『マネ』(鶴亀屋、1942年)    『レムブラント』(侑秀書房、1947年)    翻訳『ブルクハルト著作集 第1巻 チチエローネ.古代篇』(筑摩書房、1948年)    『西洋の名画』(筑摩書房、1950年)    奥平英雄、大久保泰共編著『絵の歴史』(美術出版社、1952-53年)    編著『絵画の見方』(河出書房、1955年)    『図説文庫 第20巻 世界美術物語』(偕成社、1955年)    編集解説『講談社版アート・ブックス 第8巻 レンブラント』(大日本雄弁会講談社、1955年)    編集解説『講談社版アート・ブックス 第12巻 レオナルド』(大日本雄弁会講談社、1955年)    編集解説『講談社版アート・ブックス 第21巻 リューベンス』(大日本雄弁会講談社、1955年)    座右宝刊行会編『現代日本美術全集 第6巻』(執筆担当「硲伊之助」、角川書店、1955年)    座右宝刊行会編『現代日本美術全集 第8巻』(執筆担当「荻須高徳」、角川書店、1955年)    座右宝刊行会編『現代日本美術全集 第9巻』(執筆担当「東山魁夷」、角川書店、1956年)    解説『原色版美術ライブラリー 第9巻 北方ルネッサンス』(みすず書房、1956年)    解説『原色版美術ライブラリー 第10巻 北方バロック』(みすず書房、1956年)    責任編集『西洋美術史要説』(吉川弘文館、1958年)    『角川新書 北欧の美神』(角川書店、1959年)    河北倫明等著『近代の洋画人』(執筆担当「満谷国四郎」、中央公論美術出版、1959年)    編著『大原美術館作品選』(大原美術館、1960年)    監修『西洋美術史』(美術出版社、1961年、改訂増補72年)    翻訳ロバート・ゴールドウォーター著『ポール・ゴーガン』(美術出版社、1961年)    編著『講談社版日本近代絵画全集 第5巻 岸田劉生』(講談社、1962年)    編著『講談社版日本近代絵画全集 第6巻 安井曽太郎』(講談社、1962年)    編著『世界美術大系 第19巻 オランダ・フランドル美術』(講談社、1962年)    『少年少女図説シリーズ 第15巻 世界美術物語』(偕成社、1962年)    編著『世界美術全集 第33巻 西洋(9)近世Ⅰ』(角川書店、1963年)    嘉門安雄、河北倫明、町田甲一編『世界の美術』第1~8巻、別巻(講談社、1963-65年)    富永惣一、今泉篤男、嘉門安雄編『世界の名画』第1~12巻(学習研究社、1964-66年)    『日経新書 美術を見る眼』(日本経済新聞社、1964年)    編著『カラーコンパクト ルーヴル美術館』(集英社、1965年)    編著『世界の美術館 第24巻 パリ国立近代美術館』(講談社、1966年)    編著『世界美術全集 第1巻 ダ・ヴィンチ,ラファエロ/嘉門安雄執筆』(河出書房新社、1967年)    『旺文社文庫 ゴッホ:炎の人、太陽の画家』(旺文社、1967年)    『レンブラント』(中央公論美術出版、1968年)    『ヴィーナスの汗:外国美術展の舞台裏』(文芸春秋社、1968年)    編著『世界の美術館 第17巻 ロンドン国立絵画館』(講談社、1969年)    解説『ファブリ世界名画集 第13巻 ペーター・パウル・ルーベンス』(平凡社、1969年)    日本語版監修C.V.ウェッジウッド著『Time life books.巨匠の世界 ルーベンス:1577-1640』(タイムライフインターナショナル、1969年)    日本語版監修ロバート・ウオレス著『Time life books. 巨匠の世界 レンブラント:1606-1669』(タイムライフインターナショナル、1969年)    責任編集『大系世界の美術 第18巻 近代美術1 ロマンティスムの時代』(学習研究社、1971年)    富永惣一先生古稀記念会〔編〕『富永惣一先生古稀記念論文集』(掲載論文「レオナルドの『最後の晩餐』とレンブラント―レンブラント芸術成立に対する一考察」、天心社刊行会、1972年)    解説『現代世界美術全集 第16巻 モディリアーニ・ユトリロ』(集英社、1971年、普及版72年)    河北倫明、嘉門安雄解説『現代日本美術全集 第7巻 青木繁・藤島武二』(解説担当「藤島武二」、集英社、1972年、普及版73年)    責任編集『大系世界の美術 第15巻 ルネサンス美術3 北方ルネサンス』(学習研究社、1973年)    解説『ファブリ世界名画集 第81巻 ムリリョ』(平凡社、1973年)    編著『新潮美術文庫 9 レンブラント』(新潮社、1974年)    日本語版編集『リッツォーリ版世界美術全集 第10巻 レンブラント』(集英社、1974年)    日本語版編集『リッツォーリ版世界美術全集 第19巻 ゴッホ1』(集英社、1974年)    日本語版編集『リッツォーリ版世界美術全集 第20巻 ゴッホ2』(集英社、1974年)    日本語版編集『リッツォーリ版世界美術全集 第23巻 ピカソ』(集英社、1974年)    編著『ファブリ研秀世界美術全集 第14巻 ヴァン・ゴッホ』(研秀出版、1975年)    解説『世界美術全集 第12巻 ルーベンス』(集英社、1975年、普及版78年)    編集解説『双書版画と素描 第12巻 レンブラントの素描』(岩崎美術社、1975年、改訂版86年)    編著『ファブリ研秀世界美術全集 第16巻 モロー、ルドン、ムンク、アンソール、キルヒナー』(研秀出版、1976年)    解説『世界美術全集 第7巻 ラファエルロ』(集英社、1976年、普及版78年)    監修『西洋の美術:Deluxe gallery』第1~4巻(旺文社、1976-77年)    嘉門安雄、河北倫明監修『巨匠の名画』第1~9巻(学習研究社、1976-77年)    解説、林忠彦写真『日本の画家108人』(美術出版社、1978年)    編著『安井曽太郎』(日本経済新聞社、1979年)    『A&Aブックス 巨匠の横顔:モネからピカソ』(日本経済新聞社、1981年)    解説、岡村崔撮影『ミケランジェロヴァティカン宮殿壁画』(講談社、1981年)    『ゴッホの生涯』(美術公論社、1982年)    『北方の画家:大地の祈り』(美術公論社、1982年)    監訳ヒド・フックストラ編著『画集レンブラント聖書 新約篇』(学習研究社、1982年)    監訳ヒド・フックストラ編著『画集レンブラント聖書 旧約篇』(学習研究社、1984年)    『朝日選書:304 ゴッホとロートレック』(朝日新聞社、1986年)    嘉門安雄、島田紀夫共訳R.J.M.フィルポット著『River books ファン・ゴッホ』(西村書店、1989年)    翻訳ロバート・ゴールドウォーター著『BSSギャラリー 世界の巨匠 ゴーガン』(美術出版社、1990年、新装版1994年)    監修(門田邦子訳)セルジュ・ブランリ著『美の再発見シリーズ モナ・リザの微笑』(求龍堂、1996年。同シリーズは、1998年まで13冊刊行され、いずれも監修にあたっている)。    『人物文庫 ゴッホの生涯』(学陽書房、1997年) 

大島清次

没年月日:2006/11/23

読み:おおしませいじ  栃木県立美術館、世田谷美術館の館長を歴任した、美術評論家、美術史研究者であった大島清次は、11月23日、肺炎のため栃木県下野市の病院で死去した。享年82。1924(大正13)年11月13日、栃木県宇都宮市に生まれる。1951(昭和26)年に早稲田大学文学部を卒業。その後、栃木県立高等学校教諭、法政大学文学部講師となり、栃木県立美術館の副館長、館長となった。86年に世田谷美術館の館長となり、2003(平成15)年3月31日まで同館長を務めた。その間、多数の西洋近代美術を中心にした翻訳、著述、評論活動があり、80年に刊行した『ジャポニスム:印象派と浮世絵の周辺』(美術公論社)は、今日までのジャポニスム研究にあって先駆的で本格的な研究業績であった。また、美術評論家連盟の常任委員を務め、82年には全国の公立美術館35館と読売新聞社、日本テレビ放送網が参加した美術館連絡協議会設立に尽力した(現在、同連絡協議会には124館が加盟している)。美術館長時代には、国内美術館の問題点を現場から指摘し、その改善策を積極的に提言した。美術館人としての一連の発言は、後に『美術館とは何か』(青英舎、1995年)にまとめられた。さらに美術館問題に端を発したこうした提言は、同書の続編として刊行された『「私」の問題:人間的とは何か』(青英舎、2001年)でもつづけられており、文化史、文明史的な視点から人間、美術、自然、経済活動にわたるまで、ひろく論じられ思索が深められていったことがわかる。上記の著作以外に主な翻訳、著作書は、刊行年順にあげると下記の通りである。 翻訳ジャン・ヴェルクテール著『古代エジプト』(白水社、1960年)翻訳フランソワ・フォスカ著『美術名著選書 文学者と美術批評:ディドロからヴァレリーへ』(美術出版社、1962年)翻訳ピエール・フランカステル著『絵画と社会』(岩崎美術社、1968年)解題『双書・美術の泉 ロートレックのデッサン』(岩崎美術社、1970年)『ドガ』(岩崎美術社、1970年)編集『日本の名画12 青木繁』(中央公論社、1975年)共著『世界の名画3 アングルとドラクロワ:新古典派とロマン派』(中央公論社、1972年)編著『世界の素描19 ミレー』(講談社、1978年)翻訳サミュエル・ビング編『芸術の日本:1888~1891』(美術公論社、1981年)編集・解説『25人の画家:現代世界美術全集6 マネ』(講談社、1981年)翻訳アンドレー・ケイガン著『モダン・マスターズ・シリーズ マルク・シャガール』(美術出版社、1990年)翻訳ロベール・レー著『BSSギャラリー 世界の巨匠 ドーミエ』(美術出版社、1991年)翻訳フレデリク・ハート著『BSSギャラリー 世界の巨匠 ミケランジェロ』(美術出版社、1992年)

柳生不二雄

没年月日:2005/12/17

読み:やぎゅうふじお  美術評論家の柳生不二雄は12月17日、死去した。享年80。1925(大正14)年8月10日、東京府豊多摩郡大久保町に生まれる。1948(昭和23)年学習院高等科文科を卒業。50年慶応義塾大学法学部を卒業。平凡社での『世界美術全集』編集を機に知り合った美術評論家の土方定一に誘われ、51年日本で最初の公立近代美術館として新設をひかえた神奈川県立近代美術館に勤務、副館長の土方らと開館に尽力し、59年まで在職。その後彫刻家の関敏の紹介で、63年から70年まで日本橋で開廊していた秋山画廊の運営に中川杏子と携わり、当時画廊で扱われることの稀だった彫刻(立体造形)、とりわけ抽象彫刻を主体とした展覧会を企画、土谷武、若林奮、堀内正和、江口週、最上寿之といった作家を取り上げた。74年から85年まで神奈川県立県民ホールでギャラリー課長として勤務。持ち前のバランス感覚を発揮し、絵画や版画、彫刻の領域で活躍する中堅から大家クラスの個展を集めて行う「現代作家シリーズ」や、県在住の版画家を母体に無審査、無償制度の「神奈川版画アンデパンダン展」、工芸の中でも美術的な傾向の強い工芸家と地元の工芸家による作品展にギャラリー側の企画を組み合わせる「日本現代工芸美術展」を三本柱に展覧会を開催。特に彫刻に関しては開館5周年記念「現代彫刻の歩み」展を企画、彫刻の県民ホール・ギャラリーという美術界の評判を印象づけた。また秦野や小田原、平塚で県市共催の野外彫刻展の運営や審査に携わった。83年から1993(平成5)年まで美術雑誌『三彩』に「彫刻のあるまちづくり」を連載、大企業や自治体、再開発地域や商店街などが彫刻・立体造形を屋内外に盛んに設置するようになる中で、全国を歩き野外彫刻の試みを伝えた。85年から87年まで横浜市市民文化室、87年から財団法人横浜美術振興財団に勤務。その傍ら86年から2005年まで『神奈川新聞』の「美術展評」を担当。97年に発足した屋外彫刻調査保存研究会にはその準備段階から参加し、04年まで初代会長を務めて研究会の方向性を作り上げた。著書に『ルネ・ラリック』(PARCO出版 1983年)がある。 

東野芳明

没年月日:2005/11/19

読み:とうのよしあき  美術評論家で、多摩美術大学名誉教授の東野芳明は、1990(平成2)年に病に倒れて永らく療養していたが、11月19日午後0時15分、東京都杉並区の病院で急性心不全のため死去した。享年75。1930(昭和5)年9月28日東京に生まれ、54年東京大学文学部を卒業、同年「パウル・クレー論」により第1回『美術評論』新人賞を受賞。57年には、『グロッタの画家』(美術出版社)を刊行。58年、60年にヴェネツィア・ビエンナーレのアシスタントとして渡欧、その折の欧米での見聞をもとに『パスポート No.328309 アヴァンギャルドスキャンダルアラカルト』(三彩社、1962年)を刊行した。60年代には、既成の表現をはなれた現代美術の動向を「反芸術」と名づけ、議論をまきおこした。抽象表現主義以後のアメリカ現代美術を中心とする紹介と旺盛な美術評論活動のかたわら、67年から多摩美術大学において教鞭をとり、同大学において新しい芸術の受容層の育成のために芸術学科創設に尽力し、それは81年に開講した。その間、78年から80年にかけて、マルセル・デュシャン本人の許可のもと、彼の代表作である「花嫁は彼女の独身者たちによって裸にされて、さえも」(1915-23年、フィラデルフィア美術館蔵)のレプリカ制作を東京大学と共同で行うプロジェクトの中心として、「東京ヴァージョン」(東京大学教養学部美術博物館蔵)として完成させた。60年代から80年代にかけて、その評論活動は、同時代の欧米美術の紹介にとどまらず、混迷する現代美術の状況を音楽、演劇等広く文化史的な視野からとらえつつ思索をつづけ、つねに今日的な問題を提起しつづけたことは特筆に値するものであった。翻訳、画集等の編集は数多く、また評論集等の主な著作は下記のとおりである。『現代美術―ポロック以後』(美術出版社、1965年)、『ジャスパー・ジョーンズ そして/あるいは』(美術出版社、1979年)、『裏切られた眼差:レオナルドからウォーホールへ』(朝日出版社、1980年)、『曖昧な水 レオナルド・アリス・ビートルズ』(現代企画室、1982年)、『ロビンソン夫人と現代美術』(美術出版社、1986年)、『ジャスパー・ジョーンズ アメリカ美術の原基』(美術出版社、1986年)、『マルセル・デュシャン「遺作論」以後』(美術出版社、1990年) 

田中穣

没年月日:2005/04/25

読み:たなかじょう  美術評論家の田中穣は、4月25日午前4時57分、胃がんのため東京都文京区の病院で死去した。享年80。1925(大正14)年3月25日、神奈川県平塚市に生まれる。1949(昭和24)年3月、早稲田大学文学部英文科を卒業、同年読売新聞社に入社、社会部、文化部を経て、主に美術関係の記事を多く執筆するようになる。同社在職中に『藤田嗣治』(新潮社、1969年)を刊行、同年の直木賞候補となった。また、78年12月には、同紙掲載の「日本の四季」の企画執筆に対して同社長賞を受けた。81年に同社を退社、文筆活動に入ることとなった。広範な調査にもとづく画家の評伝等の執筆が多く、業績には単行書に『三岸好太郎』(日動出版、1969年)、『日本洋画の人脈』(新潮社、1972年)、『近代日本画の人脈』(新潮社、1975年)、『心淋しき巨人 東郷青児』(新潮社、1983年)、『一水会五十年史』(1989年)、『評伝 奥村土牛』(芸術新聞社、1989年)、『評伝 山本丘人』(芸術新聞社、1991年)等数多くあり、ほかに旅行記、随筆等も多く執筆した。 

中村敬治

没年月日:2005/03/24

読み:なかむらけいじ  美術批評家の中村敬治は、東京都北区の病院で、3月24日胃癌のため死去した。遺志により、同26日、家族のみで密葬。享年68。1936(昭和11)年5月10日、山口市に生まれる。55年同志社大学文学部文化学科美学芸術学専攻に入学。59年同大学を卒業後、同大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程に入学、62年同課程修了。同大学文学部助手を経て、66年より86年まで専任講師を務めた。その間、72年アメリカ国務省の招聘によりアメリカの現代美術を視察、76年~78年フランス政府給費研修員としてパリに留学、82年ドイツ学術交流会(DAAD)によりドイツで滞在研修。同志社大学の助手、専任講師時代から、恒常的に同時代の美術動向に触れながら、新聞や雑誌に現代美術や実験映画の批評を執筆するかたわら、京都市内の画廊で現代美術の企画展を開くなどの活動を開始、フランスから帰国後の78年以降は、読売新聞夕刊に継続的に展評を執筆した(86年まで)ほか、『美術手帖』を中心に現代美術の批評やアンディ・ウォーホルやジャスパー・ジョーンズ等の作家論を執筆、精力的に評論活動を展開した。86年4月に、大阪の万博公園にあった国立国際美術館(2004年に、大阪・中之島に移転)に主任研究官(一時期、学芸課長)として転出してからは、「近作展2-野村仁」(87年7月)、「近作展7-今村源/松井知惠」(89年11月)、「芸術と日常-反芸術/汎芸術」展(90年10月)、「パナマレンコ展」(92年8月)、「彫刻の遠心力-この十年の展開」(92年10月)等を担当したほか、パリ留学時代から親交の深かった工藤哲巳の仕事を振り返る「工藤哲巳回顧展-異議と創造」(94年10月)を開いた後、95年3月に同館を退職。同年4月に、新設準備段階にあったNTTインターコミュニケーション・センターに転出、97年4月に開館後は、同センター副館長・学芸部長として、「ビル・ヴィオラ ヴィデオ・ワークス」展(97年11月)、「荒川修作/マドリン・ギンズ展」(98年1月)、「『バベルの図書館』-文字/書物/メディア」展(98年9月)、「『針の女』-キム・スージャのヴィデオ・インスタレーション」展(2000年5月)等を企画した。01年3月に同センターを退職後は、特定の組織に属さず、より自由な立場で批評活動を続けた。01年の8月から03年3月まで『新美術新聞』に連載した「新美術時評」では、意表をつく見出しと奥の深い諧謔に溢れた批評で読者を楽しませた。大学教員から美術館を去るまでの関西での30年、そして「芸術の方が技術に盲従している場合がやたら多い」(「メディア・アートのあやうさ」『読売新聞』2001年4月11日夕刊)ことを百も承知で勤めたメディア・アートの現場(ICC)を拠点とした東京での10年。その間、国内外の美術の現場を飽くことなく(というより飽き果てるまで)渉猟し、独自の嗅覚で特異な資質の美術家たちを発掘すると同時に、洞察に富んだ鋭い批評を残した。実験映画やヴィデオ・アートについては、その草創期から詳しく、関連の上映会に足しげく通って丁寧な分析を行った。最晩年は、関東圏の若手の画家たちと自由闊達な勉強会をしばしば開いて互いを刺激しあい、亡くなる直前には「横浜のデュシャン-展示について」(『新美術新聞』2005年3月1日)と題した展評を病床で執筆、最後までその厳しい筆鋒は衰えなかった。著書として、『現代美術/パラダイム・ロスト』(書肆風の薔薇、のち水声社に改名、1988年8月)、『現代美術/パラダイム・ロストⅡ』(水声社、1997年8月)、『現代美術巷談』(水声社、2004年7月)がある。これら三冊に、70年代半ば以降の著述のほとんどが網羅されている。

矢口國夫

没年月日:2004/08/20

読み:やぐちくにお  元東京都現代美術館学芸部長で、美術評論家の矢口國夫は、8月20日脳出血のため東京都小平市の病院で死去した。享年57。1947(昭和22)年7月11日に栃木県宇都宮市に生まれる。66年に栃木県立宇都宮高校を卒業し、同志社大学文学部に入学。71年に同大学を卒業し、同年西武百貨店に入社。翌年4月、栃木県教育委員会に転出し、同年11月開館の栃木県立美術館開設準備にあたった。同美術館開館後、「清水登之」展(1973年2月)、「青木繁福田たねのロマン」展(1974年8月)、「阿以田治修」展(1976年2月)、「川島理一郎」展(1976年9月)、「小杉放菴」展(1978年2月)等、近代日本美術を中心にした企画展を担当した。79年1月に国際国流基金に転任、同基金において日本の近現代美術を海外に紹介する展覧会等を企画担当し、またヴェネツィア・ビエンナーレも担当し、日本の現代美術紹介にも積極的に参画した。1992(平成4)年4月には、東京都現代美術館開設準備に学芸部長として転任、95年3月の同美術館開館後からは、「アンディ・ウォーホル展」、「ポンピドー・コレクション展」等の企画展を担当した。98年、同美術館在勤中、病に倒れ自宅療養中であった。美術史研究ばかりではなく、国内外の美術の動向にも視野を広げ、活動した美術館人であった。没後、『矢口國夫美術論集―美術の内と外』(「矢口國夫美術論集」刊行委員会編、美術出版社、2006年3月)が刊行され、同書によって生前の研究及び評論等がまとめられた。

田中幸人

没年月日:2004/03/26

読み:たなかゆきと  熊本市現代美術館長で、美術評論家の田中幸人は、3月26日すい臓癌のため死去した。享年66。 1937(昭和12)年、福岡県久留米市に生まれる。54年、佐賀県立伊万里高校から福岡県立修猷館高校に編入学。56年に同校卒業、翌年九州大学文学部に入学。61年に同大学文学部哲学科を卒業、同年毎日新聞社に入社。同社西部本社報道部に配属、大牟田通信部、西部本社報道部を経て65年に学芸課に転出した。以後、美術を中心に記者生活を送る。当時、菊畑茂久馬等の「九州派」といわれた福岡と中心とする現代美術の新しい動向に対して共感をもって精力的に取材を重ねて記事とした。81年には、同僚記者であった東靖普と連載記事をまとめて『漂民の文化誌』(葦書房)を刊行。この後、同社東京本部に転勤し、以後10年間美術担当編集委員として同新聞に美術批評を執筆した。東京での批評活動では、従来の公募団体展中心から画廊等で開催される中堅、若手の個展へと対象を一変させ、そこから書きつづけられた膨大な批評記事は、視野の広さと鋭い視点に裏付けられた同時代の良質のドキュメントとなっているといってよい。1991(平成3)年に同新聞社を退社、同年埼玉県立近代美術館長に就任、2000年まで勤める。同美術館時代には、積極的に現代美術の企画展に参画した。2000年、熊本市現代美術館設立のために招かれ、02年4月から初代同美術館長となり、その在任中の死去であった。没後、遺稿集として『感性の祖形―田中幸人美術評論集』(「田中幸人遺稿集」刊行委員会編、弦書房、2005年3月)が刊行された。装飾古墳壁画をはじめ民俗学、人類学にも造詣が深く、そうした幅広い視点と現場での取材に徹した現代美術批評として特色があり、また後年は美術館人としても、近年の美術館をめぐる厳しい状況に対して真摯で提言的な発言を最後までつづけていた。

弦田平八郎

没年月日:2001/02/15

読み:つるたへいはちろう  神奈川県立近代美術館館長、横浜美術館館長を歴任した美術評論家の弦田平八郎は2月15日午前11時55分、肺がんのため横浜市金沢区の病院で死去した。享年72。1928 (昭和3)年7月3日、東京都大田区新井宿4丁目994に生まれる。麻布中学校、旧制第四高等学校を経て東北大学文学部に入学し、美学西洋美術史学科に学んで美学を専攻し、52年3月に同科を卒業した。その後一時白木屋に勤務する。59年8月から60年7月まで白木屋の用務によりアメリカハワイ州に滞在。67年に神奈川県立近代美術館学芸員となる。当時の同館の構成は、土方定一館長のもと、佐々木静一、朝日晃、酒井忠泰、副島三喜男、そして弦田が学芸員として勤務していた。明治百年をむかえた68年前後から高まった日本近代美術の再評価を背景に、日本で最初に設立された近代美術館であり、日本近代美術史について確固たる独自の視点を有した土方定一の牽引する企画で注目された同館の学芸員として、弦田は様々な展覧会に関わるとともに、当時さかんになった日本の近現代美術を紹介する全集その他の出版物に筆をふるった。85年3月から1992(平成4)年3月まで同館館長、92年4月から翌年まで横浜美術館館長をつとめた。 主要編著書 著書 『龍のおとし話』1、2 (自費出版 1999年)  編著  『日本の名画 21 土田麦僊』(講談社 1973年)    『池上秀畝画集』(信濃毎日新聞社 1984年)    『小阪芝田画集』(信濃毎日新聞社 1986年)(矢島太郎と共編・共著)    『日本素描大観10』(講談社 1983年)    責任編集 『加山又造全集 4』(学習研究社 1990年)    『昭和の文化遺産 2 日本画』(ぎょうせい 1991年)    『現代の日本画 6 片岡球子』 (学習研究社 1991年)  解説  『現代絵巻全集 7 富田渓仙・今村紫紅』(小学館 1982年)    『現代日本の美術 2 平福百穂・富田渓仙』(集英社 1975年)    『現代日本の美術 14 速水御舟』(集英社 1977年)  共編  『20世紀日本の美術』1~18 (集英社 1986~1987年)    『明治・大正・昭和の仏画仏像』(小学館 1986~1987年)

白洲正子

没年月日:1998/12/26

読み:しらすまさこ  能や美術工芸についての執筆活動で知られる白洲正子は12月26日午前6時21分、肺炎のため東京都千代田区の病院で死去した。享年88。明治43(1910)年1月7日、樺山伯爵家の二女として東京で生まれる。4歳から梅若宗家に能を習い、14歳で女人禁制だった能楽堂の舞台に女性として初めて立った。大正13(1924)年学習院女子部初等科を修了後、米国に留学。昭和3(1928)年に帰国しその翌年、実業家で後に吉田茂首相の側近となる白洲次郎と結婚。同18年、志賀直哉や柳宗悦らに勧められ『お能』(昭和刊行会)を処女出版。この頃から終戦直後まで細川護立に中国古陶磁の鑑賞の仕方を教わり、数々の骨董屋を紹介される。戦後は美術評論家の青山二郎を中心とした文化人グループの中で、小林秀雄、河上徹太郎らから文学や骨董の指導を受け、美に対する情熱と鋭い鑑識眼で、芸術・芸能を大胆に論じた随筆、紀行文を数多く残した。同30年、銀座の染織工芸店「こうげい」の開店に協力、翌年より同45年まで直接経営にあたり、多くの染織作家を発掘する。同39年『能面』(求龍堂)、同47年『かくれ里』(同46年 新潮社)で二度読売文学賞を受賞。美術工芸に関する著作としては、他に『十一面観音巡礼』(新潮社 昭和50年)、『日本のたくみ』(新潮社 昭和56年)、『白洲正子 私の骨董』(求龍堂 平成7年)。

植村鷹千代

没年月日:1998/02/26

読み:うえむらたかちよ  美術評論家の植村鷹千代は2月26日午前0時42分、肺気腫のため東京都新宿区の病院で死去した。享年86。明治44(1911)年11月2日、奈良県高市郡高取町の旧華族の家に生まれる。昭和7(1932)年大阪外語学校仏文科を卒業。その後日本外事協会、南洋経済研究所に勤務、南方古美術の研究を担当するかたわら、同14年より評論活動を開始、美術評論の草分け的存在として活躍する。同18~20年同盟通信社に勤務。この時期、「決戦下における生産美術の指命について」(『画論』27号)など戦意高揚のための評論を執筆する。同22年、モダンアートの幅広い結束を求めて結成された日本アバンギャルド美術家クラブに代表員として参加、翌24年3月の『アトリエ』には「レアリテとレアリズム」を掲載し、いわゆる“リアリズム論争”に加わって前衛美術擁護の論陣を張った。同40年より日本大学芸術学部講師となるが、この頃から伝統や風土への復帰への論調が目立つようになった。同46年美術愛好会サロン・デ・ボザール会長に就任。同52年紫綬褒章受章。同57年から10年間文化勲章・文化功労者選考委員を務めた。主要著書に『現代美の構想』(生活社 昭和18年)、『現代絵画の感覚』(新人社 昭和23年)、『幻想四季』また翻訳に、ドラクロワ『芸術論』(創元社 昭和14年)、ハーバード・リード『芸術と環境』(梁塵社 昭和17年)、アルフレッド・H.バー・ジュニア『ピカソ 芸術の50年』(創元社 昭和27年)、ハーバード・リード『芸術による教育』(水沢孝策と共訳 美術出版社 昭和28年)、ハーバード・リード『今日の絵画』(新潮社 昭和28年)、ガートルード・スタイン『若きピカソのたたかい』(新潮社 昭和30年)がある。 

竹田道太郎

没年月日:1997/12/10

読み:たけだみちたろう  美術評論家で元女子美術大学教授の竹田道太郎は12月10日午前2時58分、肺炎のため川崎市幸区の病院で死去した。享年91。明治39(1906)年11月6日新潟県柏崎市に生まれる。早稲田大学文学部独逸文学科を卒業後、昭和7(1932)年4月、都新聞第二部(社会部)に入り警視庁、裁判所詰めを経て文部省クラブに所属、金井紫雲のあとをうけて美術記者を務めた。同10年帝展改組の折には改組反対の立場から精力的に記事を書き、なかでも小杉放庵の芸術院会員辞退の特ダネを抜き、注目された。同11年2月より朝日新聞社会部、学芸部、雑誌編集室(週刊朝日)で美術関係を担当。昭和36年11月定年退職以後、武蔵野美術大学教授、女子美術大学教授を務める。主要編著書『新聞における美術批評の変遷』(朝日新聞調査研究室報告 昭和30年2月)『日本画とともに 十大巨匠の人と作品』(鈴木進と共著 雪華社 昭和32年12月)『画壇青春群像』(雪華社 昭和35年4月)『美術記者30年』(朝日新聞社 昭和37年7月)『日本近代美術史』(近藤出版社 昭和44年)『小林古径』(集英社 昭和46年12月)『続日本美術院史』(中央公論美術出版 昭和51年1月)『今村紫紅とその周辺』(至文堂 昭和51年11月)『大正の日本画』(朝日新聞社 昭和52年9月)『原三溪』(有隣新書 昭和52年11月)『巨匠達が生れる迄』(真珠社 昭和60年6月)『安田靫彦』(中央公論美術出版 平成元年10月)

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