本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





瀧口修造

没年月日:1979/07/01

詩人、美術評論家の瀧口修造は、7月1日肺水しゅのため東京新宿区の河井病院で死去した。享年75。1903(明治36)年12月7日富山県婦負郡に生まれ、富山中学卒業後上京、23年慶応大学予科に入学したが関東大震災のため小樽へ行き、翌年上京再入学し、31年同大学英文科を卒業する。在学中の26年山繭同人となり、この頃文学部教授であった西脇順三郎を知る。また、30年には親交のあった仏詩人アンドレ・ブルトンの『超現実主義と絵画』を翻訳、これが日本のシュール・レアリスム美術書の草分けとなる。32年から5年間PCL映画製作所(東宝の前身)に勤務、39年から日本大学芸術科講師として近代美術論、現代写真芸術論を講じる。この間、現代西洋、ことにフランスの現代詩と美術を研究紹介し、とくにシュール・レアリスム芸術をはじめ前衛芸術運動の推進に尽力、40年に世界初のミロ論を書いたが、1938年戸坂潤の要請で「近代芸術」を出し、41年政府の前衛美術弾圧により検挙され、8ヶ月間拘留され起訴猶予となった。その後国際文化振興会嘱託となり、戦後は50年まで日米通信社参与をつとめる。1951年読売アンデパンダン展開催、若い前衛的な詩人、美術家、音楽家と「実験工房」を結成、タケミヤ画廊企画展に参画し、前衛的な現代美術の展開に大きな刺戟をあたえた。1952年国立近代美術館開設に際し運営委員となり、53年には国際アートクラブ結成に参加する。58年ヴェネツィア・ビエンナーレ展日本代表として渡欧し、ブルトンやダリらと会見する。59年美術評論家連盟会長に就任し、62年までつとめる。60年最初の個展「私の画帖から」を南天子画廊で開催、翌年第2回目の個展を大阪北画廊で、62年第3回個展「私の心臓は時を刻む」を南画廊で催す。63年以降新聞、雑誌への執筆や美術展の審査などに矛盾を感じたとしていっさいやめる。64年マルセル・デュシャン語録私家版刊行の契機となるローズ・セラヴィの名前を架空のオブジェの店のためにあたえられる。65年千円札事件懇談会に加わり、翌年特別弁護人となり、また同年来日中のミロに初めて会う。67年『詩的実験』(思潮社)を刊行、翌年マルセル・デュシャン急死の一ヶ月後にあたる11月語録が完成する。70年ミロとの詩画集『手づくり諺』完成する。この間、69年2月に脳血栓で倒れ入院、翌年は胃の手術を行う。73年マルセル・デュシャン大回顧展に招待され渡米する。75年アントニオ・タピエスとの詩画集『物質のまなざし』、78年ミロとの詩画集『ミロの星と共に』を完成する。 主要著述目録単行図書1937 詩画集『妖精の距離』(阿部芳夫画) 春鳥会1938 『近代芸術』 三笠書房1940 『ダリ』(西洋美術文庫) アトリエ社『ミロ』(西洋美術文庫) アトリエ社1951 『近代芸術』 三笠書房1952 『日本の彫刻』(共著)1955 『今日の美術と明日の美術』 読売新聞社『一六の横顔-ボナールからアルプへ』 白楊社『ピカソ人間喜劇』(アートブック) 講談社1956 『近代芸術の状況』ジャン・カスー(共訳) 人文書院『現代人の眼』(共著) 現代社『シュールレアリスム』(原色版美術ライブラリー) みすず書房『ゴッホ』 みすず書房『ピカソ、戦争と平和』 みすず書房『クレー』リード(訳)(フェーバー世界名画集) 平凡社『シャガール』エアトン(訳) 平凡社1959 『芸術の意味』H・リード(訳) みすず書房『幻想絵画論』 新潮社1960 『エルンスト』(現代美術5) みすず書房1962 『近代芸術』(美術選書) 美術出版社1963 『点』 みすず書房『パウル・クレー』(解説) 草月会出版部1964 『フォンタナ』(解説) みすず書房『ヴォルス』(共著) みすず書房1965 『余白に書く』 みすず書房1962 『滝口修造の詩的実験1927-1937』 思潮社1968 『シュールレアリスムのために』 せりか書房1970 『ダリ』 S・ダリ(訳) 河出書房新社『ジョアン・ミロ-視覚言語としての芸術』 スゥイーニー(共訳) 平凡社『ジョアン・ミローとカタルーニャ』 ペルーチョ(共訳) 平凡社『新しい世界』 ローゼンバーグ 滝口文 みすず書房1975 『シュルレアリスムの世界』 E・クリスポルテイ(共訳) 平凡社定期刊行物1936 サルヴァドル・ダリと非合理性の絵画 みづゑ 374英国に於けるシュルレアリズム みづゑ 381超現実造型論 みづゑ 3791937 超現実主義の現代的意義 アトリエ 14-6前衛絵画批判 アトリエ絵画は何処へ行く?(訳) アトリエ 14-9詩を書くピカソ みづゑ 385海外前衛美術消息 みづゑ 393近代造型芸術論 上下 ジュディオンウェルカア(訳) みづゑ 390~3911938 造型芸術に於ける主題の拠棄について(訳) みづゑ 405芸術と社会(訳) ハーバード・リード アトリエ 15~3、5~7前衛芸術の諸問題 みづゑ 398写真と絵画の出会ふところ アトリエ 15-171939 影響について 美術 14-11新しい時代について みづゑ 410安全週間 アトリエ 16-10ダリの近況 みづゑ 415ルネ・マルグリット みづゑ 414フロイド主義と現代芸術 みづゑ 419ジェロム・ボォッシュ小論 アトリエ 16-41940 パウル・クレー アトリエ 17-4ルネッサンス芸術の心理 みづゑ 4231941 主題と画因 造型芸術 3-2課題の意味 造型芸術 3-4近代美術の場合 みづゑ 435額椽について 造型芸術 3-3レオナルド展と写真建築 アトリエ 18-2アメリカ現代美術の遠望 アトリエ 18-41947~50 前衛芸術の実態 アトリエ 277新人について アトリエ 282象形と非象形の相剋-阿部展也芸術- アトリエ 286二科会で出会ったもの みづゑ 494クニヨシとノグチ 読売新聞 ’50年8.21イサム・ノグチの世界 みづゑ 537人間像について(福沢一郎個展の感想) アトリエ 24614回新制作派展評 みづゑ 541独立展評 美術手帖 37三角窓-最近のフランス画壇の展望とイタリーの古典美術- アサヒニュース 244最近のピカソとキリコ アトリエ 250シュールレアリスムその後 アトリエ 253ブラックの芸術 アトリエ 260戦後のピカソと制作 アトリエ 264マチスの礼拝堂 アトリエ 275ブラックの立体主義 アトリエ 276前衛絵画の実態 アトリエ 277ヘンリー・ムアとベン・ニコルスン アトリエ 279ミロ現象 アトリエ 285新しきエコール・ド・パリ 美術手帖 26ブラックと東洋思想 美術手帖 33モンドリアンの横顔 美術手帖 34ピエール・ロアとだまし絵 美術手帖 35フォーヴィスムを顧みて マルセル・アストリュック(訳) みづゑ 502フランス絵画の新世代について みづゑ 531ヘンリィ・ムーアの彫刻 みづゑ 535アレクサンダー・コルダー みづゑ 5401951 抽象芸術の論争 アトリエ 295光琳の幻想 みづゑ 550新人の位置 アトリエ 300モダンアートをめぐって 芸術新潮 2-8素朴な画家たち 美術手帖 45サロン・ド・メエを迎えて みづゑ 545日本美術への反省 読売 12.17結晶の造形詩 美術手帖 39造形する植物 美術手帖 44「北斎」シナリオ 美術手帖 50FERNAND LEGER アトリエ 288ピカソの石版画について アトリエ 292アンドレ・マッソンの変貌 アトリエ 301抽象芸術とピューリスム 美術手帖 38ブラックと神話的形態 みづゑ 553映画ブラック 美術手帖 45ピカソの詩 美術手帖 48ダリと「白い恐怖」 美術手帖 511952 芸術と実験 美術批評 5日本におけるフランス美術 ジャン・カスー(訳) 読売夕刊 7.7~8世界から見た日本の画ビエンナーレ国際展出品をめぐって 読売夕刊 9.16ふしぎな芸術の旅行-イサム・ノグチ小論 みづゑ 568或る風景の場合 風間完の絵について アトリエ 306福沢一郎論 みづゑ 560演奏会と造形 美術手帖 61アブストラクト・エージ 芸術新潮 3-5ヴィクトル・ブローネル アトリエ 313ダリ、ミロ、エルンスト 美術手帖 52パウル・クレエ 美術手帖 55ハンス・エルニ 美術手帖 59ブラック小論 美術手帖 62ブラックと本 美術手帖 62ルドンの花など みづゑ 561レオノール・フィニ みづゑ 5621953 国際彫刻コンクール顛末記 芸術新潮4-7瑛九のエッチング 美術手帖 74福田豊四郎(作家訪問) 美術手帖 66わが友アンリ・ルッソォ R・ドロネエ(訳) 芸術新潮 4-3、4クトー偶感 美術手帖 65ピカソ断想 美術手帖 73ホアン・ミロ 曇りのない絵 画ジョルジュ・デュテュイ(訳) みづゑ 570マーク・トビーとモリス・グレーヴス みづゑ 575マリー・レーモンとフレッド・クレーン みづゑ 5781954 現代の宗教美術 芸術新潮 5-12詩と絵画の握手のために 時事 6.19抽象と幻想 美術手帖 78現代絵画 芸術新潮 5-1エキゾティズム 芸術新潮 5-8絵画と写真 美術手帖 84画家と街の画廊 読売 6.23絵を描く子どもたち 読売 8.18ジャン・デュビュッフェ 美術手帖 86ピカソとふくろうの物語 みづゑ 588ピカソの戦争と平和 みづゑ 589ウィフレッド・ラムについて みづゑ 591ルソオは生きている みづゑ 5811955 断層の歴史 美術手帖 90銅版画の復活 みづゑ 596書か絵か-東西書の交流 読売 7.22古典芸術の再評価 読売 11.30今井俊満に みづゑ 604小山田二郎の芸術 みづゑ 598鶴岡政男(現代作家小論) 美術手帖 98アンリ・ミショオの「ムーヴマン」 美術手帖 102レジェとル・コルビュジェの近作 美術手帖 92オエィロン・ルドン 美術手帖 92異色作家列伝 芸術新潮 6-1~121956 シュルレアリズムその後 みづゑ 606閉ざされた古典と開かれた古典 美術批評 (一)現代絵画の風刺性 読売 2.20現代絵画と風刺性 国立近代美術館ニュース 24フランスの現代版画 国立近代美術館ニュース 18日本的非具象絵画の一断面 みづゑ 612福沢一郎の近作 みづゑ 616デュシャンのロート・レリーフ 美術手帖 106ミロ 芸術新潮 7-7セザンヌとピカソ 朝日 10.231957 日本に向けられる眼 読売夕刊 9.19記号について (1)(2) みづゑ 620 622朱の世界 芸術新潮 8-11今日のデザイン 読売夕刊 1.29博物誌の余白に-ピカソ素描集をめぐって 芸術新潮 8-12ジャックスン・ポロック 読売 10.22ジョルジュ・マチュー 三彩 92クレエの版画 芸術新潮 8-2ルドンの復活 芸術新潮 8-31958 現代詩と絵画 美術手帖 141実説近代芸術論 芸術新潮 9-5前衛美術の動向 国立近代美術館ニュース 40ヴェニス国際美術展 芸術新潮 9-8福沢一郎 読売夕刊 3.171959 「本」の中の流れている絵画のもう一つの世界 朝日 2.20詩画集・ミロ「ひとり語る」 芸術新潮 10-4フォンターナ訪問記 三彩 213アンドレ・ブルトンの書斎 みづゑ 646ムナーリ 美術手帖 158クレーの生と死 みづゑ 648クレー巡礼 芸術新潮 10-1来日したイタリアの二作家(ガレーリとアセットオ) 美術手帖 164一品制作とマスコミ 読売夕刊 1.13国際交流に根本的施策を 読売夕刊 7.13プレミオ・リソーネと日本の参加 美術手帖 162パリ・コラージュ3人展 みづゑ 652ヴェニス・ビエンナーレ展雑感 国立近代美術館ニュース 59前田常作 芸術新潮 10-9「新人」と共に30年 芸術新潮 10-71960 サド候爵の遺言執行式 みづゑ 664シュルレアリスム国際展をめぐって みづゑ 663日本の超現実絵画の展開 みづゑ 662加納光於(新人) 芸術新潮 11-5斎藤義重の近作 みづゑ 667フォートリエの沈黙の部分 みづゑ 658ムリーナのダイレクト・プロジェクション 現代の眼 62瑛九をいたむ ひとつの軌跡 美術手帖 1731961 公募団体は無用か 読売夕刊 9.20画家岡本太郎の誕生 芸術新潮 12-12クルト・シュヴィッタース 美術ジャーナル 17クルト・シュヴィッタース みづゑ 670アントニオ・タピエス みづゑ 6771962 MIRIORAMA動く芸術 美術手帖 200美術時評上・下 読売夕刊 3.16、171963 白紙の周辺 みづゑ 697クオ・ヴァディス 美術ジャーナル 45百の眼の物語 美術手帖 2161964 カポグロッシの作品について 世界 1ゾンネンシュターン展 芸術新潮 172ナルシスの変貌-ダリ 世界 2真珠論-ダリ(訳) 女の手帖 4-91965 アルプ・詩と彫刻 美術手帖 258ブルーノ・ムナーリ「フォークの言葉」 朝日ジャーナル 4.111966 変貌する家具-ステルピーニとデ・サンクティスの共同作品- 美術手帖 273ダリ現象 芸術新潮 197追悼・アンドレ・ブルトンの窓 みづゑ 743環境について-ある状況からの発言 美術手帖 2751967 編集部への手紙-ふたたび千円札事件をめぐって SD 361970 超現実主義と私の詩的体験 美術手帖 336ルネ・マグリット 芸術生活 248

青山二郎

没年月日:1979/03/28

美術評論と装丁家として知られる青山二郎は、心臓病のため東京渋谷区の自宅で死去した。享年77。少年時代から李朝陶器に関心を寄せ、収集して陶器の図録「鴎香譜」を刊行するなど陶磁器研究でも知られる。また若い頃は文学にも親しみ、小林秀雄、中村光夫、河上徹太郎、中原中也ら文章化や詩人などの交遊があった。著書に「陶経」「眼の引越」があり、戦後小林秀雄とともに創刊した「創元」に梅原龍三郎論、富岡鉄齋論を発表した。また装丁では中原中也「在りし日の歌」をはじめ多くの作品がある。

川勝政太郎

没年月日:1978/12/23

大手前女子大学教授・「史迹と美術」主幹、文学博士川勝政太郎は、12月23日、京都市京大附属病院で肺炎のため死去した。享年73。明治38年5月22日、京都市中京区に生れ、大正12年京都市立第一商業学校卒業。昭和初年頃より天沼俊一博士に師事し、古建築、石造美術を研究。昭和3年9月スズカケ出版を創立し、「古美術史蹟・京都行脚」を出版、23歳の時である。昭和5年11月「史迹美術同攷会」を設立主宰、雑誌「史迹と美術」を発刊した。刊行後50年、没後もなお継続刊行され500号を超える。この間多くの学者が寄稿し、考古、美術史界に貢献した。とくに石造美術研究の分野で学問的体系を確立した川勝の指導を仰ぎ、全国の遺品が紹介され、新たな学問分野の基礎をさらに固めた。昭和12年より14年末まで、重要美術品等認定の関連調査につき、文部省嘱託となる。昭和15年4月、京都大学文学部史学科考古学選科に入学、18年3月卒業、この間梅原末治博士に師事した。昭和18年10月、近畿日本鉄道の嘱託に就任、大和中心の古美術調査研究を行った。昭和20年5月京都市文化課嘱託、昭和29年、財団法人京都史蹟会理事となる。昭和33年平安京の研究により文学博士の称号を受ける。昭和34年大阪工業大学教授に就任。昭和36年2月より41年3月まで文部省文化財専門審議会専門委員(臨時)を委嘱される。昭和44年大手前女子大学教授に就任。48年11月多年に亘る石造美術の研究により紫綬褒章を受章。広範な実地調査に基づく研究の成果は多数の論文として「史迹と美術」誌を中心に発表され、単行図書も多い。主要著書は下記の如くである。古美術・史蹟京都行脚 昭和3. 9 スズカケ出版部京都美術大観の内編 昭和8. 4 スズカケ出版部古建築入門講話 昭和9. 6 スズカケ出版部石造美術概説 昭和10. 3 スズカケ出版部石造美術 昭和14. 2 スズカケ出版部京都古銘聚記(共著) 昭和16. 3 スズカケ出版部燈籠・手水鉢 昭和17. 8 河原書店大和の石造美術 昭和17. 10 天理時報社日本の石仏 昭和18. 6 晃文社梵字講話 昭和19. 2 一條書房石造美術と京都(京都叢書) 昭和21. 5 高桐書院京都古蹟行脚 昭和22. 1 臼井書房古建築鑑賞 昭和22. 8 河原書店京都石造美術の研究 昭和23. 6 河原書店「大和路新書」室生・当麻・南山城・東大寺 昭和27年-29年 綜芸舎史蹟行脚・京都 昭和30. 7 京都出版社日本石材工芸史 昭和32. 1 綜芸舎京都古寺巡礼 昭和39. 4 社会思想社石の奈良 昭和41. 12 東京中日新聞出版局石造美術入門 昭和42. 5 社会思想社歴史と文化・近江 昭和43. 4 社会思想社京都の石造美術 昭和47. 6 木耳社燈籠 昭和48. 2 集英社石造美術の旅 昭和48.10 朝日新聞社石仏の大和路 昭和49. 6 朝日新聞社日本石造美術辞典 昭和53. 8 東京堂出版「近畿日本ブックス」伊賀 昭和54. 2 綜芸舎

柳亮

没年月日:1978/07/15

美術評論家、トキワ松学園女子短期大学長の柳亮は、7月15日肺ガンと食道ガンのため東京都品川区の昭和大学付属病院で死去した。享年75。本名伊藤義治。明治36年3月20日名古屋市に生まれ、大正11年日本美術学校を卒業。同14年渡仏し、パリ大学、ルーヴル美術館付属研究所ポール・ジャモ教室などにおいて西洋美術史を学び、昭和7年に帰国した。この間、フランス滞在中、パリ日本美術家協会理事長をつとめ、海老原喜之助、児島善三郎ら在パリ日本人画家との親交があった。帰国後、彫刻などの実作から美術評論に転じ、美術理論研究会黎明会を起して新進作家の指導にあたり多くの影響を与えた。また『世界美術全史』などの著作を発表、かたわら桂離宮の研究を行った。同14から19年までは日本大学芸術科美術部長をつとめる。戦後の同24年に『近代絵画史―ドラクロアよりピカソまで』(美術出版社)を刊行、同36年には外務省文化使節として渡欧、イギリス、ドイツ、フランス、イタリアの美術館及び大学で日本文化の紹介にあたり、翌37年帰国に際してローマ法王ヨハネス23世より金メダルを贈られた。同40年には、永年の研究の成果である『黄金分割』(美術出版社)を刊行した。また、同41年トキワ松学園女子短期大学創設に際して、造形美術科長主任教授として迎えられ、同43年からは同学学長をつとめた。同46年紫綬褒章を受章、同52年には勲四等旭日小綬賞を受けた。著書は他に、『日本美の創生』、『近代絵画の百年』『構図法』『桂大図巻』などがある。

宮川淳

没年月日:1977/10/21

美術評論家、成城大学助教授宮川淳は、10月21日肝臓がんのため東京世田谷区の厚生会玉川病院で死去した。享年44。昭和8年3月13日東京市大森区で生まれ、同12年外交官であった父の任地モスクワへ赴き同14年帰国、同20年4月には同じく父の任地哈爾浜へ伴われ哈爾浜日本中学校に転入、同21年引揚帰国後、東京都立大学付属高校を経て、同30年東京大学文学部美学美術史学科を卒業した。同年日本放送協会に就職したが、同38年4月評論「アンフォルメル以後」で美術出版社の第4回芸術評論賞を受賞し、同40年日本放送協会を退職した。同年4月成城大学講師となり西洋美術史を担当、同44年助教授となった。また、同43年7月に最初のヨーロッパ研究旅行に出かけたのをはじめ、同45年、48年、51年にも主にパリを中心にヨーロッパ各地を旅行したが、同51年2月から4月にかけて、パリ滞在中発病し、入院手術を行い帰国した。また、この間同46年には東京大学教養学部非常勤講師、翌47年から49年まで東京都立大学人文学部非常勤講師をつとめた。西洋美術史研究とともに前衛美術評論で活躍し、著書に『セザンヌとスーラ』(美術出版社1961年)『マティス』(平凡社世界名画全集別巻、1962年)『鏡・空間・イマージュ』(美術出版社1967年)、『紙片と眼差とのあいだに』(エディシオンエパーヴ、1967年)『引用の織物』(筑摩書房1975年)、『美術史の言説』(中央公論社1978年)があるほか、訳書に『イヴ・ボンヌフォア詩集』(思潮社)などがある。なお、没後成城大学教授となった。

石子順造

没年月日:1977/07/21

美術評論家、漫画評論家石子順造は、7月21日肺がんのため東京都豊島区の都立大塚病院で死去した。享年48。本名木村泰典。昭和4年東京都に生まれ、東京大学経済学部を卒業後、大学院で美術史を専攻。戦後の前衛、アングラ芸術、デザイン、漫画の思想史など各方面で評論活動を展開し、庶民文化に独自の見解を示した。著書に「俗悪の思想」「マンガ芸術論」「戦後マンガ史ノート」などがある

阪本勝

没年月日:1975/03/22

兵庫県立美術館館長の阪本勝は、3月22日午後4時3分、食道ガンのため芦屋市の自宅で死去した。享年75歳。阪本勝は、明治32年(1899)10月15日、尼崎市に生まれ、明治45年(1912)大阪府立北野中学校(現・北野高等学校)に入学、のちに洋画家となった佐伯祐三と同級生であった。大正9年3月第二高等学校を卒業、東京帝国大学経済学部にすすみ、大正12年(1923)3月卒業。東大時代には新人会に加入した。大正12年4月~同13年3月まで福島県立福島中学校で英語教師をつとめ、大正13年4月大阪毎日新聞社に入社、学芸部記者となった。大正15年3月新聞社を退職し、昭和2年4月から8月には関西学院大学講師、そのころ麻生久、河上丈太郎らの日本労働党に参加し兵庫県議会議員に立候補した。また、処女作の戯曲『洛陽餓ゆ』(福永書店、昭和2年)を発表し、昭和3年から2年間、ヨーロッパに留学した。帰国後、戯曲『資本論』(日本評論社、昭和6年)を発表、また兵庫県議会議員から、昭和17年4月には衆議院議員となっている。その後尼崎市長(昭和26~29年)、兵庫県知事(昭和29~37年)を経て、昭和45年6月、兵庫県立近代美術館創立と同時に館長に就任した。戯曲、詩歌、書、絵画と多彩な活動をみせたが、美術関係の著作活動では、訳書『裸体芸術社会史』(ハウゼンシュタイン原著)、友人佐伯祐三の評伝『佐伯祐三』(日動出版、昭和45年)がある。

水澤澄夫

没年月日:1975/02/13

町田市立郷土資料館館長水沢澄夫は、2月13日午前1時45分、心不全のため町田市立中央病院で死去した。享年69歳。明治38年8月14日、栃木県に生れた。昭和2年3月第四高等学校文科乙類を卒業。昭和6年3月京都帝国大学文学部哲学科(美術専攻)を卒業した。その年から1年余は柳宗悦の民芸運動に共鳴して参加し、東京京橋に諸国民芸の店をひらいた。また同7年から9年にかけて美術雑誌「宝雲」の編輯に従事、一方同8年から10年までは東京帝大大学院に在籍し日本美術史(特に絵巻物について)を攻究した。同8年から鉄道省国際観光局に勤務、海外に日本文化紹介のため«ツーリスト・ライブラリー»の編集にあったが、同17年5月より財団法人国際文化振興会に勤務を転じた。同20年3月戦況苛烈に伴い山口県宇部市に疎開、8月終戦を迎えた。戦後は主として美術評論をめざし、その一方、森村学園専攻科、実践女子大等の講師を勤めた。昭和33年には、尾形光琳生誕300年にあたり世界平和評議会の顕彰で光琳がえらばれ、中国で光琳展開催につきその準備に努め、日本代表の一人として訪中。光琳画集出版。翌34年には、エジプト美術展を日本で開催の交渉のためエジプトへおもむき、2ヶ月間滞在した。さらに同37年には再度エジプトへ行き、ヨーロッパ各地をまわった。以後約10年気管支拡張症の悪化と胃潰瘍のためたびたび入院をくりかえし殆んど闘病生活をおくった。昭和48年より創設に関与した町田市立町田郷土資料館(現町田博物館)の初代館長に就いていた。主要著書―鉄斎(1939、アトリエ社・東洋美術文庫)、美術覚書(1941、昭森社)、弘仁彫像考(1947、美術出版社・制作3号)、近代画の歩み(1952、美術出版社・みづゑ文庫)、エジプトの美術(1963、社会思想社)、エジプト美術の旅(1963、雪華社)、浄瑠璃寺(1964、中央公論美術出版)、広隆寺(1965、同前)、秋篠寺(1968、同前)、安田靭彦(1974、講談社・日本の名画)。

仲田定之助

没年月日:1970/11/11

美術評論家仲田定之助は、11月11日急性肺炎のため東京都大田区の自宅で死去した。享年82歳。明治21年日本橋に生れ、日本橋城東小学を卒え、錦城中学中退後、実業界に入り高田商会に入社した。大正11年ドイツに留学し新興美術に興味をもった。バウハウスには日本人として最初の訪問者となり、美術雑誌にその紹介記事を載せた。昭和3年画廊九段に、創立者中原実と協力で、クレー、カンデンスキーの絵画を展示した。晩年は活動を一時中止していたが、昭和45年明治下町風俗を記録した著書「明治商賣往來」でエッセイスト・クラブ賞を受けた。なお、往年は批評のほか、彫刻作家としての活動もあり、三科の一員として「ブーベンコップのヴィナス」「男の首」「女の首」などがある。

木村重夫

没年月日:1967/06/14

美術評論家、詩人の木村重夫は、6月14日、肺結核のため東京都中野区江古田の武蔵野療園で死去した。享年67才。筆名遠地輝武(おんちてるたけ)。木村重夫は、明治34年(1901)兵庫県姫路市に生まれ、大正12年日本美術学校西洋画科を卒業。大正15年からは詩作と美術批評に専心し、昭和4年以後はプロレタリア美術運動に参加し、昭和6年にはプロレタリア美術運動の理論機関誌「プロレタリア美術」「美術新聞」などの編集に参加した。戦後は、昭和27年頃から肺結核にたおれ、闘病生活のなかから昭和33年からは「近代美術研究」を主宰・発行してきた。美術関係の著書には「現代日本画家論」「国画の形成」「美と教養」「川端竜子論」「レオナルド・ダ・ヴィンチ」「新鋭の日本画家」「日本近代美術史」「小杉放庵」「生々流転の研究」「現代絵画の四季」などがある。その他、詩集に「遠地輝武詩集」「千光前町二五番地」などがあり、詩評諭に「石川啄木の研究」「近代日本詩の史的展望」「現代詩の体験」などの著書がある。

船戸洪吉

没年月日:1966/09/05

美術記者、評論家船戸洪吉は、9月5日腸閉塞のため東京築地の国立がんセンターで逝去した。享年49才。大正5年10月21日朝鮮江原道洪川に生れる。昭和19年2月青山学院英文科中退後、毎日新聞社に入社、サンデー毎日の編集を経て学芸部に移り、美術関係を担当した。27年3月から9月迄欧州に美術見学のため留学し、帰国後は美術批評、評論に筆をとり、32年には「画壇」を美術出版社から出版している。36年毎日新聞副参事、37年学芸部副部長の職にあり、また39年からは事業部兼務となり、同年、国際美術展の作品収集並びに調査のため欧米に派遣され、同展はじめ各展覧会事業に尽力していた。

春山武松

没年月日:1962/08/22

朝日新聞社客員、美術研究家春山武松は8月22日老衰のため芦屋市で逝去した。享年77才。明治18年7月15日姫路市に生れた。明治43年第一高等学校卒業、東京帝国大学文学部哲学科に学び、美術を専攻したが途中兵役のため遅れ大正3年卒業した。7年迄大学院に在籍したが、同年東京朝日新聞社客員として入社、8年大阪朝日新聞社社員に転じ学芸部美術担当となり、其後は関西に定住して、大正15年12月、美術研究の為印度、爪哇へ特派された。この間「宗達と光琳」「光悦と乾山」の著書があり、大正7年から昭和19年まで朝日新聞に美術批評を掲載している。昭和15年7月朝日新聞社を停年退職し、その後は客員となっていた。戦後の著書は、「法隆寺の壁画」(22年)、「蛍光灯下の法隆寺」(23年)「日本上代絵画史」(24年)、「平安朝絵画史」(26年)「日本中世絵画史」(28年)等がある。

福島繁太郎

没年月日:1960/11/10

美術評論家福島繁太郎は11月10日熱海市の自宅で動脈硬化症のため逝去した。明治28年(1895)東京生れ。大正10年(1921)東大政治学科卒業後すぐに英国に留学(1922年まで)、つぎにはフランスに定住(1923~34)し、やがてドラン、ルオー、ピカソ、マチス等現代絵画の大作家たちの優れた作品の蒐集に向い、一時それは100点以上に達した。これがいわゆる福島コレクションで、その特色は何よりも精選された作品よりなるところにあった。この大部分は日本にもたらされたため、日本現代美術史上無視しえない大きな影響を与えたと思われる(1955年4月「みづゑ」臨時増刊「旧福島コレクション」には76点掲載されている)。また彼はパリで評論家ワルドマー・ジョルジュを主幹とした高級美術雑誌「フォルム」を昭和3年(1928)から数年発行し、新人を発見することに努めたが、これは戦後銀座で画廊フォルムを経営し有望な新人を育成したことに連なるものである。なお美術評論家として新聞雑誌で活躍したが、「印象派時代」(石原求竜堂、初版昭和18年)「エコール・ド・パリ」Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ(新潮社昭和23~26年)「フランス画家の印象」(毎日新聞社昭和25年)「ピカソ」(新潮社昭和26年)「近代絵画」(岩波書店・岩波新書昭和28年)「ルオー」(講談社・アートブックス昭和29年)「ルオー・原色版画集」(新潮社昭和33年)等がある。

金井紫雲

没年月日:1954/01/19

元都新聞美術記者金井紫雲は、1月19日狭心症のため急逝した。享年66。本名泰三郎。明治21年1月2日埼玉県高崎に生れた。同35年上京、独学にて研鑚、この間坪内逍遙、田村江東等の薫陶を受けた。同42年中央新聞杜へ入社、社会部に勤務、大正10年都新聞社に移り、学芸部長となつて主に美術記者として活躍し、勤続15年に及んだ。その趣味はきわめて広く、美術だけでなく盆栽、花、鳥等にも専門的な研究を企て、多くの著書を遺した。主なものに「盆栽の研究」(大正3年)、「花と鳥」(大正14年)、「花鳥研究」(昭和11年)、「東洋花鳥図攷」(昭和18年)、「鳥と芸術」(同23年)、「東洋画題綜覧」(同16-18年)、「芸術資料」(48巻、同11年-16年)等がある。

田沢田軒

没年月日:1952/11/08

美術記者界の長老、産業経済新聞社美術部主任田沢田軒(本名良夫)は、11月8日港区の自宅で没した。享年67歳。明治18年2月23日東京都港区に生る。中学校卒業後軍隊生活を送り、大正5年東京毎夕新聞社に入社、美術部を創設して美術部長となり、昭和12年以降同社の外交部長を経て編輯局長となつた。同15年同社を辞し、北京の東亜新報社に入つて東京支社駐在員として美術及び学芸方面の記事を担当した。同25年産業経済新聞社に入社、美術部主任となつた。

斎田元次郎

没年月日:1951/12/15

日本画専門雑誌の発行者として知られた斎田元次郎(号素州)は12月15日肺炎にて渋谷区の仮寓先で逝去した。享年58歳。明治26年8月17日兵庫県多紀郡に生れ、国学院大学師範部を出、はじめ新聞社社会部美術記者として大正8年より昭和6年末まで、やまと新聞、時事新報、読売新聞の各社に勤めた。昭和7年より雑誌「塔影」や「国画」を編輯発行し、美術ジャーナリズムの一方向を堅持し、戦後「純美」を主宰した。

石川宰三郎

没年月日:1947/03/26

美之国社々長石川宰三郎は3月26日死去した。享年57。明治24年栃木県に生れ、大正2年早稲田大学文学部を卒業した。在学中より美学及美術史を専攻し、大正3年2月より美術雑誌「審美」の編輯主任となつた。同14年3月美之国社を創設、美術雑誌「美之国」を発刊、主幹として編輯の任に当つた。その間報知新聞、都新聞、やまと新聞等の美術記者として批評等を執筆、又早稲田美術学会幹事、東京都美術館評議員、「離騒社」幹事等をつとめた。著書に「明治大正昭和日本絵画史」がある。

大蔵雄夫

没年月日:1946/01/24

美術評論家大蔵雄夫は1月24日死去した。享年60才。号風明。明治20年石川県に生れ44年東京美術学校彫刻本科を卒業したが、実技家として立たず彫刻専門の批評家として活動、主として雑誌「美の国」「日本美術」「美術新報」へ寄稿していた。

仲田勝之助

没年月日:1945/12/25

美術評論家仲田勝之助は12月25日狭心症で逝去した。享年60。明治19年東京に生れ、早大英文科卒業後、読売新聞及び朝日新聞の記者として活躍した。

尾川多計

没年月日:1945/10/12

美術批評家尾川多計は交通事故の為10月12日逝去した。享年39。明治39年東京に生れ、川端画学校洋画部に学び、美術雑誌「アルト」「中央美術」「エコー」等の編集をなし後、毎日新聞社に入り文化部嘱託として美術評論を担当していた。

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