本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





朝比奈文雄

没年月日:1992/08/13

洋画家で日展評議員の朝比奈文雄は、8月13日肺炎と心不全のため東京都新宿区の東京女子医大病院で死去した。享年77。大正3(1914)年10月20日東京都新宿区に生まれる。昭和7年から小絲源太郎に師事し油絵を学び、光風会展に出品した。戦後は光風会展、日展を中心に制作発表を行い、同24年の第5回日展に「画室静物」で特選、同年の光風会展に「お茶時」で岡田賞、同26年の光風会展に「永代橋」で南賞をそれぞれ受けた。同32年、最初の個展を東京・銀座求龍堂で開催する。同35年改組第1回日展に「黒い門」を出品し、第1回菊花賞を受賞。同37年第5回日展に審査員をつとめ、翌年から同39年にかけて渡欧。同39年日展会員となる。のち、日展評議員。

布施悌次郎

没年月日:1992/07/14

洋画家で元太平洋美術会会長の布施悌次郎は、7月14日脳こうそくのため東京都豊島区の長汐病院で死去した。享年90。明治34(1901)年10月1日宮城県仙台市に生まれ、大正14年仙台東亜学院専門部英文学部を卒業、上京後翌年太平洋画会研究所へ通う。太平洋画会展へ出品を続け、昭和3年太平洋画会賞を受け会員に推挙され、同6年には太平洋画会委員となった。戦後の同32年、太平洋画会が太平洋美術会と改称され同会委員、翌年から太平洋美術学校教授をつとめる。のち、太平洋美術会会長。

別府貫一郎

没年月日:1992/07/13

洋画家で新世紀美術協会委員の別府貫一郎は、7月13日東京都青梅市の青梅慶友病院で死去した。享年92。戦後間もなく日本美術会委員長もつとめた別府は、明治33(1900)年6月19日佐賀県藤津郡に生まれた。大正7年台北第一中学校を第四学年で中退、上京後同10年から2年間川端画学校に通い藤島武二の指導を受けた。同15年第4回春陽会展に「淡水」等5点を出品し春陽会賞を受賞する。昭和4年から同8年までイタリアに滞在し、帰国の年の第11回春陽会展に「ヴィルラ・ノォヴァの眺め」等23点の滞欧作が特別陳列され、昭和洋画奨励賞を受けた。同年、春陽会会員に推挙されたが翌9年退会する。同10年から翌年にかけ再渡欧、帰国後滞欧作「フィレンツェ」等10点が特陳され国画会会員となる。同年、文展招待展に出品し、以後新文展にも無鑑査出品した。同15年国画会を退会する。戦後は、同21、22年の日展委員、同25、26年の読売新聞社主催アンデパンダン展委員をつとめたのをはじめ、同26年10月には日本美術会委員長に選出され同28年までつとめた。その後、一線美術会、新世紀美術協会に所属した。

増田正三郎

没年月日:1992/06/22

行動美術協会会員の洋画家増田正三郎は6月22日午前2時43分、肝不全のため兵庫県三田市の平島病院で死去した。享年54。昭和13(1938)年1月15日、兵庫県西宮市に生まれる。兵庫県立鳴尾高校を卒業、河野通紀に師事し、同33年第13回行動展に「建物」で初入選。以後同展に出品を続け、同41年第21回展に「作品う」「作品あ」を出品して奨励賞を受け、会友に推挙される。同50年シェル美術賞展に入選。同53年第33回行動展に「青い画用紙」を出品して会友賞受賞。同54年安井賞展に出品。翌55年第35回行動展に「五つの立方体」を出品してF記念賞を受け、会員に推挙された。同年渡欧。同63年インドへ、翌64年中国へ旅する。同50年代中葉までは、破れた布、紙などをモティーフに写実と空想を織りまぜた画風を示したが、50年代後半から幾何学的構成へと傾斜し、青い色面による「青の世界」のシリーズ等を制作した。平成2(1990)年個展「青の世界」(画廊ぶらんしゅ)を開催。没する同4年には西宮市鳴尾会館に陶板壁画を制作している。西宮美術協会会員で、同会副代表もつとめ、西美芸術文化協会会員でもあった。

杉本亀久雄

没年月日:1992/06/12

洋画家でモダンアート協会創立会員の杉本亀久雄は、6月12日敗血症のため大阪市住吉区の大阪府立病院で死去した。享年71。大正9(1920)年6月19日奈良市で生まれる。大阪府立住吉中学校を経て昭和19年関西学院大学を卒業する。卒業後毎日新聞社に入社、同41年まで在職し、大阪本社学芸部美術記者をつとめたが、同年9月画業に専念するため同社を退社した。この間、はじめ自由美術家協会展に出品し、同24年自由美術家協会会員となったが、翌25年、同協会の村井正誠ら抽象系作家が分離独立して結成したモダンアート協会に創立会員として参加、以後同展への出品を続けた。また、同41年には第1回目の個展を東京・日動サロンで開催、翌年には大阪・梅田画廊で個展を開き、その後隔年おきに日動画廊本・支店で個展を続けた。モダンアート協会展への出品作に「アッシジ遠望」(第15回)、「砂漠」などがある。なお、夫人は作家の山崎豊子。

金光松美

没年月日:1992/05/11

米国ロサンゼルス市居住の洋画家金光松美は、5月11日肺ガンのため同地で死去した。享年69。金光は広島市出身の移民を父に、米国ユタ州オグデン市に生まれ、3歳で帰国し日本で教育を受け、旧制中学校卒業後の昭和15(1940)年再び渡米した。ニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグで国吉康雄らに学び、第二次大戦中は欧州戦線に従事し、レジエなどに師事した。戦後、墨絵と抽象画を融合した独自の画風に向い、1950年代以降抽象表現主義の旗手の一人としてニューヨークで活躍、また、1950-60年代初めにかけてジャックソン・ポロックやデ・クーニングらと交友した。1962年、ニューヨーク近代美術館の「十四人のアメリカ人」展の一人として出品する。1960年代に入り、フランス、イタリア、ハワイ、サンフランシスコと巡り、1965年にロサンゼルスに移り、リトル・トーキョーの自宅を拠点に創作活動を展開した。作風は次第に東洋的、叙情的な抽象画へ向い、また、リトグラフ制作にも力を注いだ。1967年の国際青年美術家展で日本文化フォーラム賞を受賞。代表作に「白と黒」(ニューヨーク近代美術館蔵)などがある。1983年までカリフォルニア州立大学バークレー校で教えた。

菅谷邦敏

没年月日:1992/05/05

読み:すがやくにとし  日展評議員、光風会会員の洋画家菅谷邦敏は、5月5日正午、呼吸不全のため川崎市中原区の病院で死去した。享年79。大正3(1914)年2月2日、栃木県栃木市に生まれる。昭和11(1936)年中央大学法学部を中退。川崎市富士電機株式会社に務めるが、同20年から小絲源太郎に絵を学び、同21年第1回日展に「人形ノアル静物」で初入選。以後日展に出品を続け、同22年第3回展に「飾棚」を出品して特選、同25年第6回日展に「雨」を出品して再び特選を受賞した。また、同22年第33回光風会展に「ギヤマンのある静物」で初入選するとともに光風賞を受け、同年同会会員となった。同36年渡欧し翌年帰国。同年の第5回社団法人日展に「飛行機雲」を出品して菊華賞を受賞。同40年日展会員、同57年同評議員となった。初期には静物画を中心に制作したが、後、風景画を多く制作するようになり、雪景、水のある風景などを描くことを好んだ。

尾田龍

没年月日:1992/05/01

読み:おだりゅう  国画会会員の洋画家尾田龍は5月1日午前9時12分、急性心不全のため、東京都杉並区の河北総合病院で死去した。享年85。明治39(1906)年8月21日、兵庫県姫路市に生まれる。大正14(1925)年姫路中学を卒業して上京。川端画学校に学び、翌15年に東京美術学校西洋画科に入学するが、当初は文学や演劇に熱中した。昭和3(1928)年より川島理一郎の金曜会に出席する。同4年、進学とともに絵画に専念し、同年の第16回二科展に「朝の聖堂」で初入選。同年1930年協会展にも「虚墟」「工事場」で入選し、第1回国際美術協会展に「雨後」「麦畑」を出品して国際美術協会賞を受けた。翌5年にもこれらの会に出品。同6年東京美術学校を卒業する。同7年東京市一橋高等小学校美術教師となり、以後59歳で姫路西高校を退くまで長く教職にあって画業を続けた。同12年まで二科会に出品したが、翌15年より国画会に参加、同19年同会会友となった。同20年戦火を避けて帰郷。同21年第20回国画会に「塑像」「菩薩像」を出品する一方、姫路市展開設委員となり、その第1回展に「菩薩頭」「明月」「門」を出品して姫路市長賞を受けた。以後、同展と国画会展を中心に活動。同27年国画会会員となる。同28年富士製鉄株式会社(同45年新日本製鉄となる)の季刊誌に表紙絵を依頼されたことから製鉄に取材した作品を描くようになり、同33年第32回国画会展に「製鉄所の人々(熔鉱炉)」「製鉄所の人々(平炉)」を出品して以降「鉄をつくる」を主題に連作を続け、同42年に至った。同42年中近東、ヨーロッパ、同43年ケニア、タンザニアを訪れ、同51年にはソ連を経由して英、西、ベルギー等を旅した。この間、同44年姫路文化賞、同50年兵庫県文化賞を受賞。同48年より同57年まで姫路学院女子短大教授をつとめた。同54年大阪日動画廊で「尾田龍画業50年記念展」、同61年に姫路市立美術館で「画業60年 尾田龍展」、同年姫路のヤマトヤシキ百貨店で「傘寿記念 尾田龍の世界」展が開かれており、画集に『アフリカスケッチ 尾田龍』(昭和45年)、『尾田龍画集1982』(車木工房出版 同57年)、自叙伝に『春風秋雨』(同61年)がある。

岡田淡雅

没年月日:1992/04/18

日本南画院常務理事の日本画家岡田淡雅は、4月18日午後11時15分肝臓ガンのため岡山県倉敷市の病院で死去した。享年78。本名は武一郎。大正2(1913)年12月8日岡山県倉敷市に生まれる。大阪で南画家矢野橋村に内弟子として学び、大阪美術学校日本画科本科を卒業した。昭和40年に師橋村が没したのちは、東京の横尾深林人に師事した。この間、昭和15年大阪毎日新聞・東京日々新聞主催紀元2600年奉祝展に「夕ぐれ」を出品、小室翠雲の主宰になる大東南宗院にも出品した。また昭和35年に再興された日本南画院で師橋村は同年副会長、39年会長となったが、淡雅も同展に出品。文部大臣賞、文化賞、院賞、会長賞、奨励賞などを受賞し、常務理事をつとめた。このほか大阪市展、大潮展にも出品。昭和58年には岡山県美術展の審査員を委嘱された。代表作に「梁川帰舟」「西瓜番」「阿哲残秋」「淡月」などがある。

胡桃沢源人

没年月日:1992/03/23

読み:くるみざわげんじん  日展参与で東光会関西支部長をつとめた洋画家胡桃沢源人は、3月23日午前1時15分、老衰のため長野県松本市の親類宅で死去した。享年89。明治35(1902)年8月6日、長野県松本市に生まれる。本名源市。大阪美術学校西洋画科に学び、同校在学中の昭和3(1928)年第9回帝展に「小犬」で初入選。翌4年同校を卒業ののち斎藤与里に師事した。官展に出品を続ける一方、斎藤与里らが創設した東光会展に同7年の第1回展から参加し、同年同会友、同10年同会員となった。同16年第4回新文展に「秋苑」を出品して特選、翌年第5回同展に「鳥禽舎」を出品して再度特選を受賞。同33年日展会員となる。大阪市立美術研究所講師として後進を指導するとともに、同39年4月に開校した浪速芸術大学の美術科教授をつとめ、美術教育にも尽力。花や小動物をモティーフに、平面性を強調した明るい画風を示した。

栢森義

没年月日:1992/03/04

読み:かやもりよし  新世紀美術協会創立会員の洋画家栢森義は3月4日午前6時10分、肺しゅようのため東京都小金井市の自宅で死去した。享年90。明治34(1901)年11月9日、新潟県南蒲原郡に生まれる。本名政義。大正10(1921)年新潟県立三条中学を卒業して上京し、本郷洋画研究所に入る。岡田三郎助に師事。同15年第1回1930年協会展に入選。昭和2(1927)年第8回帝展に「浴後」で初入選。同3年第9回帝展に「赤い布を持つ婦人像」,同4年第10回帝展に「ピアニストN嬢」で入選する。同8年第20回光風会展に「食後」「食事」「若き婦人」「肖像」を出品して光風賞受賞。同9年第15回帝展に「K氏座像」で入選。同11年文展鑑査展に「微風」で入選する。新文展には同12年第1回展から出品し、同15年紀元2500年奉祝展に「緑蔭」を出品。この間の同13年光風会会員となる。翌16年の第5回新文展には「緑苑肖像」を無鑑査出品。同17年戦時特別展に「国土豊穣」を出品する。戦後は同22年第3回日展に「窓際」を出品し同24年第5回展まで日展に出品したほか、光風会展にも出品したが、同25年双方から退いた。同31年和田三造、大久保作次郎らが中心となって創立することとなった新世紀美術協会展に第1回展から参加。同34年第4回同展に「眠りオルガン」を出品して黒田賞、同51年第21回展では「いたち」で大久保賞、同53年第23回展では「愁夜曲」で和田賞を受賞した。初期には人物を配して季節の移りゆき等を表わし、写実を重視した作風を示したが、戦後は写実から離れ色や形の面白さを追求した詩的な画風へと展開した。昭和35年頃からガラス絵も描いており、明快な色調、平面的な画面構成の試みがなされている。平成3年、次男で画家の栢森琢也の編集になる『栢森義画集』が刊行された。

深谷徹

没年月日:1992/02/27

洋画家で日展評議員、創元会常任委員の深谷徹は、2月27日東京都千代田区の病院で死去した。享年78。大正2(1913)年11月22日群馬県前橋市に生まれる。本名徹。昭和8年群馬師範学校を卒業し教職に就いたが、その後上京し日本大学へ進み、同15年中退し再度郷里で教職についた。戦後再上京し、同28年渡仏、翌年までパリでグラン・ショミエールへ通い、同29年からはスペインへ転じマドリッド美術学校でフレスコ画を修め、翌30年帰国した。創元会展、日展に出品し、同27年の日展に「とりかごのある静物」で特選となった他、日仏具象派協会を結成し同31年第1回展を開催、また同年国際具象派協会展に参加した。同40年の日展出品作「集落」で日展菊華賞を受賞。風景画、静物画をよくし、晩年は郷里の風景をモチーフに多く描いた。

児玉幸雄

没年月日:1992/02/20

西欧の広場を描いた作品で知られる洋画家児玉幸雄は2月20日午後9時5分、心不全のため東京都港区の前田外科病院で死去した。享年75。大正5(1916)年8月9日、大阪市に生まれる。関西学院大学の美術部弦月会に参加し田村孝之介に師事。昭和11(1936)年全関西洋画展に初入選し、翌12年第24回二科展に「赤い背景の人形」で初入選。その後二科展には連年入選。同14年関西学院大学経済学部を卒業したのち入隊。同15年紀元2600年奉祝展には二科会から推薦されて「戦線風景」を出品した。戦後は同22年に創立された二紀会に第1回展から参加し、同年同会同人となる。同25年第4回二紀展に「家族」「夏の庭」を出品して同人賞を、同27年第6回同展に「黒い上衣」「画室の親子」「働く家族」を出品して同人優賞を受賞。同年同会委員となる。同31年東京に転居。同32年渡欧し、同34年日本橋三越、大阪阪急百貨店で渡欧作品展を開いた。その後、同40年に欧州、アメリカ、メキシコを巡遊したほか、同44年に渡欧。同46年以降は平成3年まで毎年渡欧して、欧州各地、特にフランスの広場、市場の情景を主に描き、二紀会のほかに日動画廊、梅田画廊等での個展で制作を発表して人気を博した。同51年病をえて二紀会を退会。その後は個展を中心に作品を発表していた。初期には人形や着衣の婦人像を多く描いたが、渡欧後は異国の人々の生活感と活力がみなぎる広場を主なモティーフとし、堅牢なマチエルとさざめくような色面による画面構成で、具象画界の実力派として認められていた。著書に石版画集『フランスの四季』『パリーの街角』(昭和56年)、石版画集『素顔のパリー』(同58年)等がある。

赤星亮衛

没年月日:1992/02/20

読み:あかぼしりょうえ  行動美術協会会員の洋画家で、絵本作家としても知られた赤星亮衛は、2月20日午前5時5分、心不全のため千葉県松戸市の東葛クリニックで死去した。享年70。大正10(1921)年11月22日、熊本県玉名市高瀬に生まれる。本名亮一。郷里の先輩である海老原喜之助に師事し、昭和27(1952)年第16回自由美術展に「裸婦」で初入選。あかね書房刊「ふしぎなランプ」で初めて挿絵を担当し、同41年サンケイ児童文化賞を受けた。同43年「森のメルヘン」で第23回行動美術展に初入選。同47年27回同展に「涅槃の時」「悟の時」を出品して行動美術奨励賞を受け、同48年同会会友となる。同60年第40回同展に「トレモスの謝肉祭」を出品して柏原記念賞を受賞。同64年同会会員となった。こうした油絵は、社会への風刺を潜めながらも明るく童画風である。その画風をいかし、「三びきのおばけ」「ぷっぷみみずく」などの絵本、「緑の電車は飛んだ」などの童話等、約500冊の本に挿絵を描いて好評を博した。

三谷十糸子

没年月日:1992/02/11

読み:みたにとしこ  女子美術大学学長もつとめた代表的な女流日本画家の一人三谷十糸子は、2月11日午前6時31分、ジン不全のため東京都杉並区の河北病院で死去した。享年87。明治36(1903)年7月28日兵庫県加古郡(現高砂市)に生まれ、本名敏子。大正11年兵庫県立第一高等女学校を卒業し、女子美術専門学校(現女子美術大学)に入学する。同14年同校を首席で卒業後、京都に移り、西山翠嶂の青甲社に入塾。昭和3年第9回帝展に「少女」が初入選し、翌年同第10回「露店」、5年第11回「独楽」、6年第12回「おとめ達」と出品した。7年第13回帝展で「女」が特選となり、それまでの暗い色調から澄んだ色調へと移行。翌8年第14回帝展で「朝」が再び特選を受賞し、9年同第15回展出品作「夕」は政府買上げとなった。戦後、昭和26年東京に移り、翌27年から母校女子美術大学で教授として教え、46年から50年まで学長をつとめる。この間、33年日展会員となり、39年第7回新日展で「若人の朝」が文部大臣賞を受賞、44年には前年の第11回新日展出品作「高原の朝」によって日本芸術院賞を受賞した。裕福な医者の家に一人っ子として育ち、少女時代に文学と詩にあこがれた三谷の作品は、モチーフに好んで少女を描き、厚く柔らかな色彩によるモダンで詩的な世界を展開した。40年日展評議員、48年理事、52年参事となり、日展のみならず女流日本画家の代表的作家の一人として活躍した。長女の三谷青子(日展会員)、さらにその長女の曽田朋子も、日本画家として活躍している。帝展・新文展・日展出品歴昭和3年第9回帝展「少女」、4年10回「露店」、5年11回「獨楽」、6年12回「おとめ達」、7年13回「女」(特選)、8年14回「朝」(特選・無鑑査)、9年15回「夕」(推薦)、12年第1回新文展「朝」(無鑑査)、13年2回「蟻」(無)、14年3回「月の暈」(無)、15年紀元2600年奉祝展「山家の雨」、17年第5回「風車咲く朝」、19年戦時特別展「豆の秋」、22年第3回日展「蓮」、23年4回「湯屋」(依嘱)、24年5回「草原」(依)、25年6回「花と娘」(依)、26年7回「鱒」(依)、27年8回「杜」(審査員)、29年10回「月の小徑」(依)、30年11回「私の夢」(依)、31年12回「三人の裸婦」(依)、32年13回「夜の海」(依)、33年第1回新日展「池畔有情」(会員となる)、34年2回「蝶」(審査員)、35年3回「少女と森」、36年4回「少女と森」、37年5回「野の花」、38年6回「秋の流れ」、39年7回「若人の朝」(審査員、文部大臣賞)、40年8回「若人の夏」、41年9回「小さな花束」、42年10回「夕」、43年11回「高原の朝」、44年第1回改組日展「夕」、45年2回「白い鳩笛」、46年3回「花野の朝」、47年4回「青い実」(審査員)、48年5回「爽やかな朝」、49年6回「朝野」、50年7回「夕」、51年8回「野」(審査員)、52年9回「野」、53年10回「棕櫚草の小径」、54年11回「林の朝」(審査員)、55年12回「山の花咲く」、56年13回「夕」、57年14回「月の出を待つ」、58年15回「笛の音」、59年16回「暮れ行く」、61年18回「暮れ行く」

阿部広司

没年月日:1992/02/03

水彩画家で日本水彩画会理事、示現会理事の阿部広司は、2月3日心不全のため東京都港区の病院で死去した。享年81。明治43(1910)年3月28日、現在の福島県いわき市に生まれ、福島県立磐城中学校、東京府青山師範学校を経て、昭和9年東京高等師範学校図画手工専修科を卒業した。卒業後、群馬県立高崎中学校、東京女子高等師範学校などで教え、戦後は東京都教育委員会に奉職、公立中学校校長などを経て、同45年からは日本女子体育短期大学教授をつとめた。この間、はやくから水彩画を専門とし、戦後の同24年に日本水彩画会会員、翌年には示現会会員となって制作発表を行った。また、同23年から日展にも連続入選し、同28年の日展出品作「東京駅八重洲口」は「週刊朝日」の表紙を飾った。作品は他に「大島の秋色」(同37年)、同49-52年間の連作「漁港」などがある。

山川輝夫

没年月日:1992/01/20

洋画家で東京芸術大学助教授の山川輝夫は、1月20日胆管閉塞のため東京都千代田区の東京警察病院で死去した。享年51。昭和15年東京に生まれる。同39年東京芸術大学油画科を卒業、卒業制作は「無いものねだり」で、大橋賞を受賞した。同41年同大学大学院を修了。同44年から49年まで女子美術短期大学非常勤講師をつとめたのち、同56年東京芸術大学助教授に就任した。同61年から翌年にかけて、文部省在外研究員としてイギリスで研修を行った。国際形象展、十騎会展、黎の会展、杜の会展などのグループ展と個展で制作発表を行い、平成4年にはみゆき画廊で瀧徹との二人展を開催した。没後、平成4年4月に東京芸術大学芸術資料館で、山川輝夫遺作展が開催され、卒業制作から近作のシリーズに至る30余点が出品された。

堀忠義

没年月日:1991/12/31

一水会会員の洋画家堀忠義は、12月31日脳出血のため金沢市の伊藤病院で死去した。享年86。明治37(1904)年11月13日石川県金沢市に生まれ、県立金沢第二中学校を経て、昭和4(1929)年文化学院美術科を卒業した。在学中の同3年第15回二科展に「茶亭の見える風景」で初入選し、以後同展へ6回入選した。同7年から翌年にかけて渡仏、サロン・ドートンヌ(1932年)に出品した。同12年、第1回一水会展以来同展に所属し戦後の同21年一水会会員に推挙された。日展へも第1回から出品し、同25年の第6回展に「犀川春好日」で岡田賞を受賞した。この間、同8年から18年まで母校の文化学院美術部に勤務し、同19年金沢へ疎開し以後同地で制作活動を行った。一水会展への出品作に「青い馬車」(2回)「多摩川初秋」(7回)「大浦天主堂」(19回)などがあり、犀川を題材にした作品も多い。

水島清

没年月日:1991/12/17

独立美術協会会員の洋画家水島清は、12月17日午前10時、胃がんのため横浜市の国立横浜病院で死去した。享年84。明治40(1907)年7月、新潟県水原町に生まれる。大正13(1924)年東京京華中学校を卒業、昭和2(1927)年に東京美術学校西洋画科に入学した。同4年第16回二科展に「女の像」で初入選。同年より林武に師事し、1930年協会にも出品する。翌5年にも二科展に出品するが同6年の第1回展から独立展に参加し、出品を続ける。同8年東京美術学校を卒業。同9年応召し同21年に復員。戦後も独立展に参加し、同28年「海郷」「水中花」を出品して独立賞を受賞、同30年同会会員に推される。同36年に渡欧。同41年第34回独立展に「横たわる裸婦」を出品してG賞を受けた。強く激しい筆致、緊迫した構図、コントラストの強い色彩を用い、フォーヴィスムを強く意識した画風を示し、独自の空間構成を論じた。同56年インド、ネパールを旅し、西洋的空間のとらえ方から東洋の生命のエネルギーに触発された空間把握へと移行。この頃よりパーキンソン症候群にかかり、闘病しつつ制作を続けた。死去の数日後の12月22日から、東京の望月画廊で「水島清エスキース展」が開かれた。

彼末宏

没年月日:1991/10/27

東京芸術大学名誉教授で国画会員でもあった洋画家彼末宏は10月27日午前4時15分、呼吸不全のため東京都港区の慈恵医大付属病院で死去した。享年64。暗色の地に明るく鮮やかな色点がきらめく独自の画風で知られる彼末は、昭和2(1927)年8月31日、東京で生まれたが、その後北海道へ移り、同20年北海道立小樽中学校を卒業。陸軍士官学校へ進むが、志望を転向して翌21年東京美術学校に入学し、梅原龍三郎に師事する。同26年梅原が退官すると、久保守に師事。同27年同校を卒業。同29年同校油画科助手となる。同31年第30回国画会展に「森」を初出品。同32年には「CIRQUE」で国画会賞を受賞し,翌33年同会会友となった。また、同年西欧学芸研究所から奨学金を受けて渡欧する。同35年第34回国画会展に「城跡」を出品して国画会会友賞を受け、同会会員に推される。同37年国際具象派美術展(朝日新聞主催)、同40年「具象絵画の新たなる展開」展(東京国立近代美術館)に出品する。同44年東京芸術大学助教授、同55年同教授となり、同63年退官して名誉教授となるまで長く教鞭をとって後進の指導にあたった。この間、同38年サヱグサ画廊で個展、同53年及び57年には高島屋で個展を開き、同60年有楽町アートフォーラムで「彼末宏展」、平成3年には東京芸術大学資料館で退官記念展が開催された。初期から写実を離れた詩的な具象画を描き、戦後の抽象絵画、アンフォルメル運動の中で、対象の形態を明瞭に表わさず、色彩のハーモニーに重点を置いて画面を構成する抽象画とも見まごう制作を展開。同47年6月には国画会を退き、無所属となって活動した。 国画会展出品歴第30回(昭和31年)「森」、31回「CIRQUE」、32回「昔の戦争」、33回不出品、34回「城跡」、35回(同36年)「船」、36回「画室」、37回「花」、38回「工場のある街」、39回「原始時代」、40回(同41年)「黄色いサーカスのための音楽」、41回不出品、42回「天馬」、43回不出品、44回「NOIR」、45回(同46年)不出品、46回不出品

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