森本健二
没年月日:1970/01/12第二紀会々員森本健二(旧姓吉沢)は大正2年9月6日奈良県生れ、奈良師範学校卒業ののち東京美術学校(現東京芸大)図画師範科に学び昭和16年卒業した。昭和22年第二紀会創立より同会に参加し鍋井克之に師事、昭和27年受賞、28年同人に推挙され、30年第二紀会委員に推挙された。抽象派の作家。大阪教育大学教授で、昭和32年には沖縄に文部省より美術教育指導者として派遣されている。
本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)
第二紀会々員森本健二(旧姓吉沢)は大正2年9月6日奈良県生れ、奈良師範学校卒業ののち東京美術学校(現東京芸大)図画師範科に学び昭和16年卒業した。昭和22年第二紀会創立より同会に参加し鍋井克之に師事、昭和27年受賞、28年同人に推挙され、30年第二紀会委員に推挙された。抽象派の作家。大阪教育大学教授で、昭和32年には沖縄に文部省より美術教育指導者として派遣されている。
洋画家、一水会運営委員池部鈞は、12月17日午後10時25分、心不全のため療養中の東京都八王子市・永生病院で死去した。享年83歳。19日多摩霊園で密葬、告別式が22日台東区の妙情寺で行なわれた。明治19年東京本所に生まれる。旧姓山下。下谷小学校高等科一年頃、同級生に石井鶴三があり、12才の時(明治31年頃)神田の錦城中学に入学、明治32~3年の頃、白馬会展で展観作品の迫真的な表現に感動し、同35年中学3年の頃、石井柏亭の門をたたいたが断られ、渡部審也を紹介される。明治43年東京美術学校西洋画科を卒業、同窓に藤田嗣治、岡本一平、田中良、近藤浩一路、長谷川昇らがいた。同44年朝鮮京城日報社に入社、大正3年国民新聞に入社して政治、社会、議会、相撲などの漫画を描く、先輩に平福百穂がいて議会スケッチで活躍中であった。大正5年には、漫画誌「トバエ」が創刊され参加し、続いて翌6年には「漫画」の創刊にも参加する。その後も「漫画の畑」(大正11年)、「漫画ボーイ」(大正14年、山田みのる、前川千帆らと共に)などの各創刊号に参加執筆してすっかり漫画界での一人者となり活躍したが、本来の油絵では、大正10年帝展に「大道芸人」を出品、昭和3年9回帝展「少女球戯図」や同5年11月帝展「踊」が特選に挙げられ無鑑査となった。以後引続き官展に出品、昭和13年一水会に会員として参加、市井の人物や生活を対象に観察眼鋭く、端的に要約把握された作風で知られ、のち一水会委員、日展評議員をつとめ、昭和41年芸術院恩賜賞を受賞、翌42年には勲四等旭日小綬章をうけた。主な展覧会出品目録。(帝展)第3回 大正10年 大道芸人第4回 大正11年 夜角力第5回 大正13年 先生と生徒第6回 大正14年 仮装第7回 昭和元年 名古屋万歳第9回 昭和3年 少女球戯図第10回 昭和4年 線路工夫第11回 昭和5年 踊第12回 昭和6年 唄ふ女第13回 昭和7年 孫第14回 昭和8年 子供遊戯図第15回 昭和9年 落花(文展)第4回 昭和16年 島の女第5回 昭和17年 対峙(紀元二千六百年奉祝美術展)昭和15年 鰹(日展)第1回 昭和21年 村の子第2回 昭和21年 風神雷神第4回 昭和23年 闘鶏図第5回 昭和24年 切株第6回 昭和25年 温泉客第7回 昭和26年 姉妹第8回 昭和27年 祭礼第9回 昭和28年 湯治客第10回 昭和29年 祭り天国第11回 昭和30年 漁港第12回 昭和31年 熱演第13回 昭和32年 落花酔態(新日展)第1回 昭和33年 盆踊第2回 昭和34年 浜の長老第3回 昭和35年 畳第4回 昭和36年 温泉第5回 昭和37年 だるま第6回 昭和38年 勝鬨第7回 昭和39年 ふぐ提燈第9回 昭和41年 美人一列第10回 昭和42年 鶏と犬(一水会)第2回 昭和13年 村落の娘 山村の娘 漁夫 母と子第3回 昭和14年 眠れる子 港 東北の娘 小妓 煙草第4回 昭和15年 宵祭 鰹第5回 昭和16年 温泉場 伊豆の海 枯野第6回 昭和17年 釣魚 湯町第7回 昭和18年 海 池第8回 昭和21年 軍鶏を飼う人 甘藷の収穫 村の小学生第9回 昭和22年 作品(一) 作品(二)第10回 昭和23年 学校帰り第11回 昭和24年 花見第12回 昭和25年 舞扇 はらみ猫 老巡査 軍鶏を飼う人第13回 昭和26年 村角力見物 縄飛び第14回 昭和27年 勝負師(闘鶏) 潮風第15回 昭和28年 北海道の子供 浜の祭礼第16回 昭和29年 祭礼 漫才泰平第17回 昭和30年 賑やかな連中第18回 昭和31年 雨あがり おもちゃ屋の娘第19回 昭和32年 花 笠第20回 昭和33年 銀座 浅草公園第21回 昭和34年 盆踊の一隅 七夕第22回 昭和35年 車庫 土用浪
読み:あぶらやたつ 洋画壇の耆宿、油谷達は12月6日午前7時老衰のため、東京都目黒区の自宅で死去した。享年83歳。明治19年11月22日東京日本橋区の国定教科書出版の元祖であり、またコロタイプ印刷図版の先駆をなした「東洋美術」の出版元であった博文堂、原田庄左衛門の次男に生まれた。のち油谷家を嗣ぎ姓が変った。富士見小学校、商工中学を経て東京美術学校西洋画本科(同期生に明治43年3月卒業の藤田嗣治、田辺至、池部鈞らがいた)に入学したが中退した。大正7年から兵庫県川辺郡に移住し、以来昭和41年東京へ帰住するまで、特に戦前、関西在住の官展系有数の洋画家として知られた。大正10年第3回帝展で「初秋の湖畔」が初入選してより、帝展、文展と官展に作品を発表し続け、昭和6年には帝展無鑑査となった。また大正13年3月には、田辺至、牧野虎雄、斎藤与里、高間惣七、大久保作次郎らとともに槐樹社を起し、その会員となって、昭和6年同社解散までは専ら同展により作品を発表した。解散後は同志会員だった人々が旺玄社や東光会など、それぞれ新たに団体をつくったが、そのいずれの会からの誘いをも断って、専ら官展一途に発表を続けた。戦後の晩年は中央画界に作品を発表せず、ただ個展の開催は主に戦前にさかのぼるが終始20回に及んだ。 代表作には、「大阪駅」(大正11年作、第一貴賓室に寄贈)、「夏の日」(大正13年、第5回帝展)、「花畑」(昭和3年、第9回帝展)、「室内」(第10回帝展)、「郊外の或る日」(第12回帝展)、「モデル人形のある静物」(昭和12年、第1回新文展)等がある。
春陽会会員の洋画家山川清は、11月9日腸ヘイソクのため阪大病院で死去した。享年66才。明治36年6月14日大阪市に生まれた。大阪府立北野中学在学中から赤松麟作に石膏デッサンの指導を受け、同中学先輩の佐伯祐三につれられて初めて油絵の道具を買いそろえたという。 4年生2学期から兵庫県西宮市今津町に新設された私立甲陽中学に転校し、同校を卒業した。まもなく美術学校受験のため上京、川端画学校に学んだが病気になり中断し、以後滝の川に画室を建て独学した。大正12年大震災を機に東京を引き払い京都山科に住み周辺の古美術に接する。続いて同14年奈良に転居、仏教美術に親しむ。昭和3年5月渡仏し、同9年帰国後春陽会展に穏健な写実的作品を出品しつづけ昭和23年春陽会会員となった。訳著に「ゆもりすと咄(フランス小咄)」がある。
一陽会会員の洋画家、山路真護は、10月4日死去した。本名壱太郎、号真護、逃水亭。山路真護は、明治33年(1900)埼玉県所沢市に生まれ、同町工業学校を卒業、京都絵画専門学校に進んだが中退し、昭和4年第一美術展に入選、昭和5年~7年パリに留学し、アカデミー・ジュリアンに学び、ルーヴルで素描を研究、サロン・ドートンヌに出品入選した。昭和7年第19回二科展に出品入選、以後昭和30年退会するまで、ほとんど毎回出品、昭和18年会友となり、戦後二科展再建に参加して昭和23年会員となった。その間、昭和13年には陸軍航空部隊に従軍、同18年には朝日新聞航空朝日特派員、海軍報道班員としてラバウル、ブーゲンビル島に派遣された。昭和30年野間仁根、鈴木信太郎らと二科会を脱退して一陽会を設立した。昭和41年以降毎年日動サロンで個展を開催した。作品略年譜二科展:昭和7年「マルヌの記念」「マリオネット」「MALSON des OISEAUN」、同8年「ノアジルグロンの思い出」「みなと」「シュマン・ド・フェール・ド・サンチュール」、同9年「ブリー村の7月14日祭」「南遊情趣」「サン・マリタン近くの小鳥を売る店」、同10年「ペナン入港」、同11年「夏の地中海岸」、同13年「灰色の闘士」「夏の夜の構想」、同14年「制空の記録」、同18年「ソロモン画稿より」、同21年「巴里1931年」、同22年「或る性の分離」「花」、同23年「山口村風景」「月の前奏」、同24年「野鳥」「魚族」、同25年「青春」、同26年「白昼」、同27年「漂流」「月に唄う」、同28年「受胎告知」「月を売る」、同29年「サンドニへの思慕」。一陽会展:昭和30年「ピカソ恋す」「受胎告知」「天使と貝殻」、同31年「晩鐘」「ジス・イズ・ジャパン」「白昼」、同32年「追想の果て」「水を汲む人」、同33年「二人の天使」「殉教」、同34年「胎生魚」、同35年「継承のエスプリ」「慕情」、同36年「横臥せる」「トルソ」、同37年「古風な神殿」「王様よ歯医者に行こう」、同38年「白い猫」「泣くなピエロ」、同39年「ANIMAL-1」、同40年「異人」「洋裁師」、同41年「テレビタレント」「靴を磨く」、同42年「忘却の祖国」「夜のコーラス」、同43年「VIVE ROI」「消える栄光」、同44年「赤い帽子」。
洋画家森田元子は、8月12日結腸ガンのため慶応病院で死去した。明治36年東京青山に生れ、大阪ウヰルミナ女学校を卒業した。大正13年女子美術専門学校洋画科を卒業し、その後、岡田三郎助門下として学び、この年渡仏した。滞在3年に及び昭和2年帰国し森田俊彦と結婚、又第8回帝展に出品した「朝」が初入選した。以後官展を発表の場として活躍し、昭和12年「聴書」、同13年「麗日」で特選となり、又岡田賞も得ている。戦後は、昭和35年日展文部大臣賞を贈られ。また22年夫君に死別後は女子美術大学講師として、永く女子美術教育のため後進の育成にあたった。代表作に「チョッキの女」「或るポーズ」などがあり、省略した線描と、形態により、室内の女性を色彩感豊かに描きつづけた。また挿絵も巧みで、その方面でも知られる。日展評議員。光風会理事。女子美術大学客員教授。
独立美術協会会員の洋画家、片山公一は、8月3日午前7時、胆のう炎のため杉並区上荻の駒崎病院で死去した。享年57才。片山公一は、明治43年(1910)、広島県福山市に生まれ、法政大学仏文科予科を中退。昭和6年第1回独立展から出品し、中山巍、小林和作、田中佐一郎に師事する。昭和23年独立賞を受賞し、同25年準会員に推され、同26年会員に推薦された。昭和35~38年ヨーロッパに滞在した。作品略年譜昭和6年「風景」「青年」(1回独立展)、同7年「人物」(2回展)、同8年「みづのとり」、同10年「鱗粉」「くだものなど」(5回展)、同16年「洗濯女」(11回展)、同17年「帽子を持つ女」(12回展)、同18年「張り物する女達」(13回展)、同19年「若き母」(14回展)、同21年「まひる」「風景」(独立自由出品展)、同22年「秋の暮」「縫物する女」、同23年「尾道風景」「浅橋」(16回展、独立賞)、同25年「肱をつく女」「都会風景」(18回展)、同26年「お茶の水風景」「ニコライ堂」「尾道水道」(19回展)、「港町河岸」(5回美術団体連合展)、同27年「横浜風景」「落合風景」(20回展)、同28年「杉と水」「ボート買場」(21回展)、同29年「長崎港」「丘の家」(22回展)、同30年「丘の家」「樹のある風景」(23回展)、同31年「ボート置場」「赤坂附近」「石段のある風景」(24回展)、同32年「家と木と水」(25回展)、同33年「木・海・家」「家」「木のある風景」(26回展)、同37年「フローレンスA」「フローレンスB」「ベニス」「公園」(30回展)、同38年「風景」「人と静物」(31回展)、同39年「家と舟」「海の母子」(32回展)、同40年「風景」「猿を抱く女」(33回展)、同43年「南仏の港」「ルノワールの庭」(36回展)、同44年「ルクサンブルグ公園」「カーニュ風景」(37回展)
洋画家坂本繁二郎は、7月14日午後6時37分、福岡県八女市の自宅で老衰のため死去した。享年87才であった。政府は18日の閣議で、従三位、銀盃一組を贈ることを決定した。葬儀は、18日八女市無量寿院で密葬、21日八女市葬として同市立福島中学校において行われた。坂本繁二郎は、明治15年に福岡県久留米市に生まれ、小学校の同級に青木繁がおり、10才のころ、洋画家森三美について手ほどきをうけた。青木繁との交遊は、青木の死まで、相互に刺激し合いながらすすめられた。明治35年上京して小山正太郎の不同舎、つづいて太平洋画会研究所に学び、青木繁、森田恒友、正宗得三郎らと交わり、明治37年の太平洋画会展に初めて作品を発表した。坂本は、当時の洋画界の旧派に属する堅実な写実派の太平洋画会から出発し、しだいに明るい印象主義的作風へと変化し、大正3年二科会創立に参加して以後、牛を題材とした作品を中心としてようやく個性的な画風を形成してきた。大正10年~13年のヨーロッパ留学も、坂本の芸術には本質的な動揺はなく、帰国後は、郷里久留米近郊の放牧馬に取材した題材の作品を多く発表、昭和6年には、九州、八女市に住居を移し、以降その地にあって、寡作ながら馬、果物、野菜などを題材にした作品を発表してきた。戦後は、美術団体に属さず、芸術院会員推挙を辞退し、静かな創作生活を過してきたが、昭和25年眼を悪くして手術、左眼はほとんど視力を失う不幸にみまわれたが、制作は続けられ、昭和29年、毎日美術賞をうけ、同年八女市名誉市民となり、同31年には文化勲章を受章した。 年譜明治15年(1882) 3月2日、旧筑後久留米有馬藩士坂本金三郎の二男として、久留米市に生まれる。母歌子。坂本家は、代々馬廻役として知行百五十石をうけていたといわれ、父金三郎は、江戸詰めのとき勝海舟に造船術を学んでいた。明治19年 3月21日、父金三郎痘瘡に罹り、39才で死去。明治21年 両替尋常小学校に入学。明治24年 両替尋常小学校を卒業。明治25年 久留米高等小学校に入学、同級生に青木繁がいる。久留米市日吉町の森三美をたずね洋画を学ぶ。明治28年 久留米小学校を卒業。以後、明治33年まで自宅で浪人生活をおくる。明治30年 「立石谷」(絹本墨画)を描く。明治31年 「刈入れ」(水彩)を描く。明治32年 「秋の朝日」(油彩)を描く。明治33年 3月15日、三高在学中の兄麟太郎死去する。森三美の尽力により、久留米高等小学校図画代用教員となる。明治35年 徴兵検査を受け乙種となり、このとき帰郷していた青木繁と再会し、その刺激をうけて上京を決意し、8月、青木繁とともに上京、小山正太郎の不同舎に入舎し、石膏、モデルのデッサンなど本格的な洋画の勉強にはいる。11月、青木、丸野豊と信州に写生旅行し、島崎藤村、丸山晩霞をしる。昭和37年 太平洋画会研究所に通う。本郷曙町、神明町に青木繁と同宿する。7月、青木、福田たね、森田恒友と千葉県布良に写生旅行する。第3回太平洋画会展に、「町うら」(油)、「入日」「月夜」「くもり日」「秋陽」「雨後」(以上水彩)を出品する。明治38年 4月、第4回太平洋画会展に「早春」(油)、「景色」(水彩)を出品する。明治39年 夏、森田恒友と伊豆大島に写生旅行する。明治40年 3月、東京府勧業博覧会に前年の旅行時に取材した「大島の一部」を出品し、三等賞をうける。10月に開かれた第1回文展に「北茂安村の一部」を出品する。雑誌『方寸』創刊され、寄稿する。明治41年 北沢楽天の東京パック社に入社し、人生批評的な漫画をかく、同僚に川端滝子、石井鶴三、山本鼎などがいた。明治43年 1月4日、郷里においていとこにあたる権藤薫と結婚。母とともに護国寺亀原台に居住。10月、第4回文展に薫夫人をモデルにした「張り物」を出品、3等賞をうける。明治44年 東京パック社を退社。10月、第5回文展に「海岸」を出品、3等賞。明治45年 千葉県御宿地方に旅行。10月、第6回文展に「うすれ日」を出品、夏目漱石が朝日新聞紙上で批評する。大正2年 雑司ヶ谷鬼子母神わきに転居、4月24日長女栞生まれる。10月、第7回文展に「魚を持ってきてくれた海女」を出品。このころ、詩人グループ青芝会と接触し、前田夕暮、窪田空穂、河井酔茗。三木露風らと交友する。とくに、三木露風の影響をうける。大正3年 10月、二科会創立に参加し、鑑査員となり、第1回展に「海岸の牛」を出品する。同月、国民美術協会第2回展に「人参畑」を出品する。大正4年 池袋に転居。10月、2回二科展に「牧場」「砂村の家」「暑中休暇の校庭」を出品。大正5年 10月、3回二科展に「国道筋」「柿の若木」「母子」(コンテ)を出品。大正6年 9月、4回二科展に「髪を洗う」「緑」を出品。大正7年 9月、5回二科展に「苗木畑」「栴壇樹」「静物」「那古海岸」を出品。大正8年 11月21日、次女幽子生まれる。二科展に不出品。大正9年 9月、二科展に「牛」を出品、日本風景版画集の「筑紫の部」を制作する。大正10年 中島重太郎の協力により半切の日本画を頒布。東京湾汽船社長渡選偟の援助をもうけて、7月31日、クライスト丸にて渡欧する。9月17日マルセイユに上陸、パリの14区エルネスト・クレッソン通18番のアパートに入る。10月10日アカデミー・コラロッシに通う。大正11年 7月21日バルビゾンに遊ぶ。8月17日里見勝蔵とマダム・ピサロをエラニー・バサンクールに訪ねる。大正12年 1月16日、斎藤豊作、正宗得三郎とオーベル・シュール・オワーズのガッセ訪問。3月4日ブルターニュ・キャンペレに赴く。3月11日キャンペレ再遊。3月19日~4月10日クロアジック滞在。6月6日~7月8日ヴァンヌ滞在。「眠れる少女」「帽子を持てる女」をサロン・ドートンヌに出品。大正13年 7月2日パリを出発して帰国の途につく。7月13日~19日オルナンに滞在。7月27日マルセイユを香取丸にて出帆。8月31日門司港 9月10日神戸に上陸。久留米市に仮寓する。大正14年 秋の第12回二科展に滞欧作品に帰国後の作品2点を加え、「老婆」「馬」「家政婦」ほか14点を出品、特別陳列する。大正15年 友人たちによる東京、奈良などへのさそいをしりぞけ、筑後に住みつき、久留米近郊、阿蘇などをめぐり、馬を描く。5月 聖徳太子奉讃展に「松」を出品。昭和2年 第14回二科展に「家政婦」「郊外」「塾稲」「馬」を出品。12月25日母歌子死去する。昭和3年 第15回二科展に「桃」「春郊」を出品。昭和6年 福岡県八女郡の町営住宅に転居し、同郡にアトリエをたてる。昭和7年 第19回二科展「放牧三馬」を出品。昭和8年 清光会に「馬」を出品。昭和9年 第21回二科展に「繋馬」出品。昭和10年 帝国美術院展参与に推されたが、これを拒否し、第22回二科展に「二仔馬」出品。昭和11年 第23回二科展に「放牧二馬」を出品。昭和12年 第24回二科展に「水より上る馬」を出品。昭和13年 第25回二科展に「松間馬」を出品。昭和14年 身辺所産の柿、栗、馬鈴薯などの静物を描きはじめる。昭和16年 1月、草人社により大阪で初めての個展を開催する。3月、屏風制作のため南紀地方を旅行する。第28回二科展に「甘藍」を出品。昭和17年 還暦記念として第29会二科展で特別陳列、東京展21点、大阪展30点。11月 福岡日日新聞文化賞をうける。昭和18年 第30回二科展に「壁画下図その1」を出品。二科展解散し、以後団体に所属せず。昭和20年 壁画を完成する。昭和21年 秋、日本芸術院会員に推れたが、辞退する。能面を描きはじめる。昭和22年 1月福岡市玉屋百貨店において回顧展を開く。9月大阪・阪急百貨店において梅原龍三郎。安井曽太郎との三巨匠展開催される。昭和23年 1月草人社により福田平八郎との二人展大阪大丸において開催される。昭和24年 九州タイムズ文化賞をうける。昭和25年 2月、眼疾共同性内斜視を手術。6月から東京、大阪、福岡、熊本において自選回顧展開催される。昭和27年 3月草人社により福田平八郎、徳岡神泉との三人展に「馬」の大作を発表する。日本国際美術展に「猩々面」を出品。昭和28年 第2回日本国際美術展に「水より上る馬」を出品。昭和29年 1月、毎日美術賞をうける。4月、八女市名誉市民となる。5月、27回ヴェニス・ビエンナーレ展に岡本太郎とともに出品する。昭和31年 8月久留米石橋美術館において青木繁との二人展開催される。9月「坂本繁二郎文集」(中央公論社)出版される。11月 文化勲章をうける。昭和32年 11月眼疾のため熊本の病院に入院する。昭和33年 1月~3月東京、岡山、福岡、熊本において「馬の素描」展開かれる。昭和35年 5月「坂本繁二郎夜話」出版。昭和36年 11月八女市西公園に銅像建立される。昭和37年 11月東京白木屋において自選回顧展開催される。「坂本繁二郎画集」「坂本繁二郎画談」出版される。昭和38年 1月朝日賞をうける。昭和39年 「月」の制作はじまる。昭和42年 4月~11月西日本新聞に「坂本繁二郎の道」連載される。10月身体の変調をうったえ、前立腺肥大症と診断される。昭和44年 5月~6月日本経済新聞に「私の履歴書」を寄稿。7月14日死去。10月「私の絵私のこころ」出版される。昭和45年 1月~4月 福岡、大阪、名古屋、札幌、東京において追悼展開催される。
洋画家、モダンアート協会運営委員の中村真は、5月14日午後10時52分、腹膜細胞肉腫のため大阪市立大学付属病院で死去した。享年54歳。19日阿倍野斎場で、日本美術家連盟小磯良平関西支部長が葬儀委員長となり告別式が営まれた。大正3年5月30日大阪市で生まれる。本名真三郎。昭和3年から赤松鱗作画塾に学び、昭和6年大阪市立工芸学校工芸図案科を卒業、既に在学中の昭和4年春、関西二科系の有力団体である全関西美術展に入選発表しはじめ、同9年全関西美術協会会員に若くして推された。二科展には、同6年17歳の年少で入選し、天才少年画家の出現として衆目を集めた。以後同12年まで発表を続けた。同12年には東京と大阪で抽象画37点による第2回個展を開き、翌13年自由美術家協会展に「秩序について」他4点を出品参加、同14年同展には「描かれたもの」など15点を大量出品して会員に推挙された。同16年~20年兵役に服し、戦後自由美術家協会再建に参加するとともに、いち早く関西美術界の新動向への推進に中心指導者的な活躍を示した。同25年退会してモダンアート協会創立に参加、会の発展に没前まで尽力した。昭和45年4月、第20回記念モダンアート展では、彼の遺作が特別展示されたが、その出品目録で、「彼の芸術への考え方及び作品は常に進歩的で、世に一歩先きんじていた。画面は清潔で色彩は豊富で形態は簡素であり、然もそのデッサンはしっかりしている。それらの画の内には、特殊な現代人の詩情が秘められていた。」と村井正誠が追惜している。展覧会以外の作品に、「キャバレーハリウッド(昭25)」「梅田ビル壁画(昭30)」「各地朝日ビル及びフェスチバルホール、関西電力等建築レタリング」「大阪冨国ビル・ステンレス製壁画(昭39)」「大阪婦人子供服会館壁画(昭39)」「府立勝山高校壁画(昭39)」などがあり、死去前まで万国博日本政府館展示設計者として努力していた。日本美術家連盟関西支部委員長、大阪芸術大学デザイン科主任教授でもあり、関西美術界で幅広い業績を残した。
洋画家太田三郎は、5月1日、心不全に因り、東京都武蔵野市の自宅で死去した。享年84歳、勲5等に叙せられ、雙光旭日章を授けられた。生誕は、明治17年(1884年)12月24日、愛知県西春日井に於て、枇杷嶋は名古屋向け青物の市場の地、三郎の生家も其の問屋の一つであったが、父が富裕にまかせて風雅に流れ、僊艸の雅号で絵(日本画)をかいたりして、産を破った。文雅と貧窮とを相続して、三郎は、17才で東京に奔り、画業を苦学した。黒田清輝に西洋画を学び、白馬会洋画研究所に通ったが、他方、日本画をも寺崎広業に習った。洋画家として地歩を占めた後も、折々日本画をものし、また洋画に日本画の気味・手法を交へることが有った所以である。日本画には、三郎をもじった「沙夢楼」の号を用いたこともある。洋画は、大正2年(1913)、第7回文部省美術展覧会に『カフェの女』を出品して賞を受け、夙にヨーロッパ留学を企てていたが、世界大戦(第一次)に妨げられて遅れたのを遺憾とした。大正9年(1920)に至り同11年(1922)まで滞欧の念願を遂げ、フォービズムとキュビズムとの影響を受けて帰朝、作風の変化を見せ、爾後、裸婦を主とした作品を官展に発表し、昭和8年(1933)、帝展審査員を命ぜられた。属した美術団体としては光風会を挙ぐべく、又、同郷の和洋画家・彫刻家・工芸家等と共に愛知社を組織したことは愛知県の美術振興に大いに寄与したものである。三郎は、大形作品のほかに、雑誌・新聞等の挿絵に軽妙の筆を揮い、川端康成『浅草紅団』・矢田挿雲『太閤記』のそれなどが代表作である。なお、挿絵類執筆には仮名「君島柳三」を使ったことも有る;之を別人と思う人がままいるのは誤解である。挿絵と共に注目するべきは、明治末・大正初の絵はがき流行の頃、『ハガキ文学』に関係して、スケッチ趣味を世に広めたことである。第二次世界大戦後は、思う所あって中央画壇を去り、郷里に帰住し、地方文化の向上を念として、知事桑原幹根の知遇のもとに、愛知県文化会館の設立に参画し、昭和30年(1955)、同館美術館創設と共に美術館長に任ぜられた。長老として展覧会の割当て等をよく裁いたけれども、同35年(1960)、病いを得て辞任した。むかしスケッチブックを手にして好んで散策した武蔵野のおもかげを僅かに残す玉川上水のほとりに戻り来って閑居、余生十年を得たが、小康の春日、写生に出たのが禍いし、病いを重くして死に至った。故人は、また文筆を善くし、著述が少くない。或いは抒情甘美・或いは叙事優雅なる画文兼作の書-『鐘情夜話』・『武蔵野の草と人』の類-は、之を悦ぶ人が少くなかった。作画榻に凭る 大正14年 第6回帝展裸婦 大正15年 第7回帝展コムポジション 昭和2年 第8回帝展群像 昭和3年 第9回帝展三嬌図 昭和4年 第10回帝展ぐるうぷ 昭和5年 第11回帝展蒼穹佼人図 昭和6年 第12回帝展アラベスク 昭和7年 第13回帝展モデルたち 昭和8年 第14回帝展屋上 昭和9年 第15回帝展房州の娘たち 昭和10年 二部展素衣 昭和11年 第11回文展水辺 昭和12年 第2回文展磯 昭和13年 第3回文展鳴弦 昭和15年 紀元2600年奉祝展多産鑽仰 昭和18年 第28回光風会展著述蛇の殻 明治44年 精美堂草花絵物語 明治44年 精美堂ひこばえ 明治44年 精美堂朝霧(妻はま子と共著) 明治45年 精美堂鐘情夜話 大正7年 文陽堂武蔵野の草と人 大正9年 金星堂金髪の影を追うて 大正12年 朝香屋書店世界裸体美術全集 昭和6年 平凡社裸体の習俗とその芸術 昭和9年 平凡社美と善の歓喜 昭和17年 祟文堂爪哇の古代美術 昭和18年 祟文堂東奥紀聞 昭和23年 新紀元社性崇拝 昭和31年 黎明書房風俗おんな往来 昭和35年 新紀元社
新制作協会会員の洋画家鈴木誠は、4月21日、心不全のため東京中野の国立中野病院で死去した。享年71才。鈴木誠は、明治30年(1897)大阪市に生まれ、大阪階行社附属小学校、大阪府立八尾中学校をへて、大正8年東京美術学校西洋画科に入学し、藤島教室に学び、大正11年同校を卒業、直に同校研究科に進んだ。在学中の大正10年、第3回帝展に入選、および同年光風会展に出品して受賞した。大正12年、渡仏し、パリでビシェールに師事、アカデミー・コラロッシにて研修し、イタリアを歴遊して昭和2年帰国した。帰国後は、帝展、槐樹社展に出品し、昭和4年10回帝展では特選となった。また、昭和4年帝国美術学校油画科助教授となり、同10年には引続き多摩帝国美術学校教授となって後身を指導した。 昭和11年、帝展改組、二部会を経て、同志と新制作派協会を結成、以後、会員として同展に主要作品を発表してきた。また、昭和22年多摩美術大学評議員、同28年多摩美術大学油画科主任教授となり、昭和43年定年退職するまで指導にあたった。その他、著書として、『人物画の描き方』(昭和38年・アトリエ社)、『構図の考え方と実際』(昭和41年・アトリエ社)がある。作品略年譜昭和4年10回帝展「新春之写」、同5年11回帝展「トロア・グラース」、同6年12回帝展「文五郎の家庭」、同8年14回帝展「裸体」、同9年15回帝展「春」、同12年2回新制作展「花」「三人」「習作」、(以下、新制作展主要出品作)同13年「習作」、同14年「風雨」「きもの」「浴女」「宵」、同15年「絵を見る女」、同16年「隣組の人々」「光箭」「朝」、同18年「機械と女(その1)」「機械と女(その2)」「若人達」「アイロン掛け」、同21年「裁断師」「窓」「木戸」、同22年「ポートレート」「ヴィオロニスト」、同23年「エスパナ好み」「サボイ好み」「爪を切る」「三面鏡」「顔」、同25年「坐せる裸体」「横臥せる裸体」「黒い帽子」「白い帽子」「鏡のある静物」「Y夫人像」、同26年、「裸体」「母と子供」、同27年「和装」「a Notte」、同28年「横臥裸婦」「白衣像」、同30年「縞のキモノ」「T夫人」、昭34年「失楽園」「賢人達」、同年「室内」「踊子達」、同37年「練習曲」「目白夫人」、同39年「あでやか」、同40年「晴着」、同41年「七五三」「たおやか」、同42年「祭の装い」「黒い着物」、同43年「NU」「祭」。
洋画家、独立美術協会会員の岡部繁夫は、3月10日午後2時25分、心不全のため東京都目黒区の自宅で死去した。享年57歳。明治45年2月25日広島県呉市で生まれた。高畠達四郎、鈴木保徳に師事、独立美術展に出品、昭和25年独立賞を受け、同30年準会員に推薦され、同34年会員となった。昭和22年銀座・松坂屋で第1回個展を開いたのを皮切りに同31年第2回(銀座・村松画廊)、同38年第3回、同41年第6回(銀座・文芸春秋画廊)と毎年意欲的な個展発表を続行し、しかも晩年は、モノクロームのパートの厚い抽象画態の作品を制作し、殊に“プルシャンブルーの中に自己を求め、自己をみつめ、偶然にたよらず、自己表現を最も明確に自己に忠実でありたい”という作家の言葉通りに独特の作風を創案確立して、しばしば秀作展、国際展に選出された。代表作「春の饗宴」「春の譜」「作品R」「作品US」「作品UZ」など。 略年譜昭和34年 独立美術協会会員に推挙。昭和38年 「芸術新潮」ベストテンに挙げらる。昭和39年 朝日新聞社主催、選抜秀作美術展出品。昭和39年 世界現代美術展招待出品。昭和39年 優秀作品政府買上(国立近代美術館所蔵)。昭和40年 朝日新聞社主催、選抜秀作美術展出品。昭和40年 毎日新聞社主催、日本国際美術展招待出品(優秀賞受賞)。昭和40年 第5回個展(銀座文芸春秋画廊)。昭和40年 現代美術の動向展選抜出品(京都国立近代美術館)。昭和40年 今日の作家’65年選抜出品。昭和40年12月 アメリカ・ヒューストンにて個展。昭和41年 朝日新聞社主催、選抜秀作美術展出品。昭和41年3月 カースル・アタミ壁画制作。ニューヨークにて第1回日本芸術祭招待出品、代表使節団員として渡米、メキシコ、ホノルルを経て帰国。昭和41年5月 毎日新聞社主催、現代展招待出品。昭和41年10月 第6回個展(銀座文芸春秋画廊)アメリカにて個展。昭和42年1月 広島県呉市勤労者文化会館壁画制作。昭和42年2月 拓殖大学壁画制作。昭和42年8月 日本ダイナースクラブ壁画制作。昭和42年10月 第2回日本芸術祭招待出品、ニューオリンズ、ヒューストンにて。昭和43年1月 渡米(ニューヨーク)昭和43年5月 第3回日本芸術祭招待出品、メキシコにて。昭和43年10月 国立近代美術館主催、東西美術交流展招待出品。昭和44年 第4回日本芸術祭出品(国際芸術見本市協会会長賞受賞)。
太平洋画会委員洋画家大木卓は3月2日死去した。享年70才。明治32年7月4日に都内中央区で大木五臓円本舗の長男として生れ常盤小学校、府立第一中学校を経て、官立千葉医学専門学校を卒業し、薬剤師の免状を受ける。ついで一年志願兵として軍務に服し陸軍三等薬剤官(少尉相当官)に任官して除隊。家業の大木同名会社の副社長時代を経て大木製薬会社取締役会長となったが、かたわら白日会、自主連立展、光風会等へ出品して入選した。とくに太平洋画会では昭和30年(52回)より会員となって出品した。同会出品は昭和27年48回「さつき晴」、49回「凪」「補修船」、50回「湖畔」「外房風景」「照月湖(北軽井沢)」、51回「落之沢二景その一、その二」、52回「越中島橋」、53回「ロンドン郊外セルドンコートホテル」、「チューリッヒ・エンゲチャーチの塔」、「独乙コプレンツ駅前」、「風景」、「モンテカルロにて」、「パリーにて」、「ニースにて」、「香港風景」、54回「二右エ門島」、「五月の伊豆」、55回「海辺(波太)」、56回「蔵のある道」、57回「島の上から」、58回「山湖」、59回「残雪」、60回「清流」、「清潭」、61回「秋色」、62回「寝覚めの床(木曽福島)」、63回「雪の道」、64回「昇仙峡」、65回「静浦風景」、「滝」、「清潭」。
新制作協会会員の宮脇公實は、1月24日午後5時急性心不全のため東京都世田谷区の自宅で急逝した。享年52才。2月8日自宅で新制作協会葬が行なわれた。大正5年10月1日兵庫県小野市に生まれた。昭和11年多摩帝国美術学校に入学、同年春第23回光風会展に入選、また同年11月、新制作派協会の創立第1回展の公募に応じて、「バーの二人」「茶房の女」が入選した。翌12年同美校を中退したが、第2回新制作派展(12月8日~25日)へ出品しながら、召集されて日支事変から大東亜戦争へと、敗戦まで従軍、長期間やむなく製作活動を中断した。戦後、毎年新制作展に出品を重ね、昭和26年同展で受賞し協友となり、同31年会員に推された。戦後まもない22年から自宅で「小さい画家たちの家」を主宰し、児童美術教育に大きな功績を残した。その関係著書として、「絵遊び、作り遊び」(昭和38年、新書館発行)や「造形遊び」などがある。このような実践によって得た糧を自己の画作に活かし、無造作で奔放な子供の落書きを想わせる独自な作風を確立して注目された。朝日秀作美術展、毎日国際展、毎日現代美術展等に度々選抜されたり招待出品した。個展の開催も意欲的で戦後10数回に及んだ。アートクラブ会員(昭和35年入会)でもあった。代表作に、「庭の動物」(昭和31年)、「人間ドラマ」のシリーズ(同33年)、王様シリーズ「ショウチュウは歌う」(同38年)「健康に乾杯」(同39年)などがある。
二紀会会員の洋画家、鍋井克之は、1月11日午後2時30分、壊死性胆のう炎、セン孔性腹膜炎、腸閉そくのため大阪市北区の大阪中央病院で死去した。享年80才。鍋井克之は、大阪に生まれ、大正4年東京美術学校卒業、その年二科展に出品して直に二科賞をうけ、大正7年にも再度二科賞を受賞、ヨーロッパ留学後、二科会会員となったが、敗戦までの大正・昭和と毎年二科展に出品した。大正13年には小出楢重らと大阪市に信濃橋洋画研究所を設立し、関西洋画界の発展に尽力した。戦後は、同志と二紀会を創立し、委員をつとめ、関西洋画壇の指導的地位にあって、昭和25年には日本芸術院賞を受賞、昭和37年には大阪天王寺の民衆駅に壁画「熊野詣絵巻」を制作した。昭和39年には浪速芸術大学芸術学部長に就任。その間にも国内各地を旅行して制作し、重厚な作風でしられたが、演劇を好み、歌舞伎を愛し、また随筆をよくし、著書も多い。年譜明治21年(1888) 8月18日、大阪市に生まれる。父は土佐藩士、田丸良也(当時勇六郎)、母、房。父は、明治元年2月、堺港に上陸したフランス兵と警備にあたっていた土佐藩士と間に起った衝突事件堺事件に連座し、くじにより切腹をまぬがれた9名のうちのひとりであった。明治28年 大阪市西区堀江小学校に入学する。明治29年 本家の鍋井家を相続する。明治36年 大阪府立天王寺中学校に入学する。上級に伊庭孝、折口信夫らがおり、下級に宇野浩二、寺内万治郎、耳野卯三郎、青木大乗、小出卓二らがいた。松波長年につき日本画を学ぶ。明治41年 天王寺中学校を卒業 東京美術学校の受験に失敗し、白馬会洋画研究所に入り長原孝太郎に学ぶ。明治42年 東京美術学校西洋画科に入学、同期に小出楢重、大久保作次郎らがいる。大正2年 巽画会展に「虎の門赤煉瓦風景」出品。大正3年 宇野浩二を通じて広津和郎、葛西善蔵ら早稲田系の文学者、倉橋仙太郎、沢田正二郎ら演劇人と交友する。倉橋、沢田、秋田雨雀らと美術劇場をおこし、有楽座で第1回公演を行なう。そのため卒業は延期されたが、第1回二科展に出品入選する。大正4年 東京美術学校西洋画科を卒業。2回二科展に「秋の連山」を出品して二科賞をうける。宇野浩二の勧めで雑誌『改造』『中央公論』などに小説を発表する。大正6年 平井澄江と結婚する。大正7年 第5回二科展において再度二科賞をうける。大正11年 2月、大久保作次郎、足立源一郎らと同船してヨーロッパに留学。大正12年 5月帰国する。関東大震災のため大阪にとどまる。大正13年 小出楢重、黒田重太郎、国枝金三らと大阪に信濃橋洋画研究所(のちに中之島洋画研究所)を創設する。第11回二科展に滞欧作を出品する。大正15年 中央美術社より『西洋画の理解』出版。昭和3年 東京文啓社書房より、黒田重太郎との共著『洋画メチェー・技法全科の研究』を出版。昭和5年 大阪府豊能郡北轟木村(現、池田市住吉1-12-4)に転居する。昭和8年 東京紀伊国屋で最初の個展を開催する。昭和9年 随筆書『和服の人』(書物展望社)を出版。昭和14年 満州、中国へ4ヶ月間写生旅行、崇文堂より『風景画の描き方』を出版。昭和15年 『富貴の人』(小出書店)を出版。昭和18年 奈良に疎開する。『絵心』(小川書店)を出版。昭和21年 二科会再建に参加せず、中川紀元、黒田重太郎、宮本三郎らと第二紀会を結成する。昭和22年 『寧楽雅帖』(宝書房)を出版。昭和25年 第3回二紀展の出品作「朝の勝浦港」をはじめとする風景作品によって昭和24年度日本芸術院賞をうける。昭和26年 京阪神在住の画家文人、小磯良平、竹中郁らと風流座を結成し、市川寿海の指導によって大阪三越で第1回公演を行なう。以後昭和33年までに6回公演。昭和28年 朝日新聞社より随筆集『閑中忙人』を出版。昭和33年 大阪市民文化賞、なにわ賞をうける。昭和34年 浪速短期大学教授、デザイン美術科長に就任する。『大阪繁盛記』(布井書房)出版。昭和35年 池田市名誉市民となる。昭和37年 国鉄天王寺駅コンコース壁画「熊野詣絵巻」を完成。『大阪ぎらい物語』(布井書房)出版。昭和38年 浪速短期大学壁画「輝やける学園」完成。白浜三段壁に鍋井克之記念碑建てられる。昭和39年 浪速芸術大学教授、芸術学部長に就任する。昭和44年 1月11日死去。1月25日、市立池田小講堂において池田市葬。 作品年譜二科展:大正3年「赤い校舎」、同4年「秋の連山」、同5年「海近き山」「入江の木かげ」、同6年「河岸の家と木」「蓮池」、同7年「せばまりたる海水」「海に沿う丘」「秋」「雪の山」「池畔早春」、同8年「雪の路」「秋の小流」「海辺の断崖」「六月の田園」、同9年「春」「初冬暖日」「曇りの入江」「雪の風景」「夏の池」、同10年「草の中の路」「熱海の早春」「初夏の虎の門女学校」「海岸風景」「晩春の虎の門女学校」、同11年「晩秋の淡路島にて」「池畔の梅林」「静物」「能登の海」「五月の築地河岸」「北国の海岸」、同14年「滝」「山ふところの早春」「庭より見たる春の海」「牛滝山の滝」「伊豆風景」「静物」、同15年「海辺の村」「山麓の村」「海岸の丘より」「入海の風景」「静物」、昭和2年「水車のあるほとり」「春の中之島公園」「隠れた水車」「冬近き風景」「蜜柑山と海」「雪の小停車場」「静物」、同3年「浄山の水車」「谷川の秋」「梅園」「水ぬるむ湖畔」「チューリップ」、同4年「北国の海岸」「湖畔の朝」「伊豆の街道」「春雪」「豹」「夏の山路」「桃」、同5年「弓削島海岸」「汽車の走る風景」「夢殿(法隆寺)」「籠の桃」「海辺夏景」、同6年「北陸勝景」「水際の静物」「春の浜辺」「奈良の月」「湖畔の梅」、同7年「鴨飛ぶ湖畔」「風の日の湖畔」「海水浴場の燈」「滝」「静物」、同8年「春」「虎」「刈田の雨」「水車小屋の富士」、同9年「田鶴の海岸」「田圃の梅」「涼夏山水」、同10年「雪月花(天の橋立の雪、吉野山の花、三笠山の月)」「溪間の流」「芦の湖」「桃」、同11年「榛名湖」「温泉の流れ」「行水」「鮎壺滝の富士」「静物」、同12年「二筋の川のある村」「梅雨時の東郷湖」「牡丹」、同13年「梅薫る」「戦況ニュース」「露の奥日光」、同14年「吟爾浜埠頭公園」「時計屋のある街角(新京三笠町)」「吉林松花江畔」、同15年「時雨るる琵琶湖」「箱根冬の富士」「朝の海」「夏の夜の中之島公園」、同16年「梅雨晴れの野尻湖」「太陽の昇る海岸」「夏季静物」、同17年「湖国のみのり」「風強き日の湖畔」「苺」、同18年「雨来る海岸(志摩安乗)」。 二紀展:昭和22年「風の日の岩角」、同23年「湖上時雪」「花散る湖畔」「白良浜風景」「港の夕映」、同24年「朝の勝浦港」「三段壁」「海近き梅林」、同25年「黒潮」「春の春日野」「海岸の丘より」「白根浜夜景」「静物」、同26年「臨海植物園」「赤目溪谷」「湖岬灯台」「紫陽花と桃」「勝浦千畳敷」、同27年「ヨットのある海岸」「港の夜の雨」「食器と西瓜」「初秋の窓」「燈火静物」、同28年「秋の静物」「夜の窓」「紀伊・勝浦港」「梅林の丘」「南紀東白浜」、同29年「溶樹の庭」「琵琶湖のヨット」「台風のそれる海岸」「名瀬の夕立(奄美大島)」、同30年「雨の海」「秋果静物」「薬師寺」、同31年「月光と海水」「大浦天主堂(内部)」、同32年「梅林の山」「赤い山」、同33年「十二番館の家」「長崎の家(元英国大使館庭内)」「十二番館庭内」「南山手風景(青)」「南山手風景(赤)」「天草灘」「厨房静物」「熊野灘」、同34年「長崎の家(三菱炭鉱クラブ)」、同35年「ツキサップの林檎園」「函館の古き街B」「函館の古き街A」、同36年「南紀の梅林」「北海道行」、同37年「サポッロ北大校庭」「サッポロのリンゴ園」「南紀漁村風景」、同38年「熊野灘」「大内山清雪」「皇居噴水」、同39年「檻野時燈台」「晴れゆく梅林」、同40年「串本」「兜島の熊野灘」、同41年「伊豆熱川海岸」「東本願寺噴水」。
日展会員、日本山林美術協会代表の洋画家、鶴田吾郎(号、玄山人)は、1月6日午後0時35分、胃ガンのため東京信濃町・慶応病院で死去した。享年78才であった。鶴田吾郎は、明治23年(1890)東京牛込区に生まれ、早稲田中学校を中退し、倉田白羊について洋画を学び、同38年赤坂溜池の白馬会研究所に入所、翌39年太平洋画会研究所に移り、中村不折に師事した。大正元年から大正5年までの間に、朝鮮、大連、ハルピンなどに滞在、帰国後は、中村彝、中原悌次郎、堀進二らと交友、大正9年第二回帝展に「盲目のエロシェンコ像」を出品、以後帝展、文展、日展で活躍した。太平洋戦争中は、戦争記録画を描いて知られ、特に「神兵、パレンバンに降下す」は著名。戦後は国内の各地を旅行して国立公園を描き、日本国立公園30点を完成させた。年譜明治23(1890)年 7月8日、東京市牛込区に生まれる。明治36年 倉田白羊に学ぶ。明治38年 赤坂溜池の白馬会洋画研究所に入所。明治39年 太平洋画会研究所に移り、中村不折に学ぶ。明治43年 味の素株式会社広告部に入社。大正1年 京城日報社に入社、京城にて絵画部を担当。大正4年 川端童子とスケッチ倶楽部をつくり、通信教育の講義録を担当する。大正6~9年 大連、ハルピン、シベリアに滞在する。大正9年 帰国。第2回帝展に「盲目のエロシェンコ像」を出品する。以後、官展に出品。昭和3年 第11回帝展に「黒潮に生きる男達」を出品する。昭和5年 シベリア経由でヨーロッパ旅行、フィンランド、スウェーデン、ドイツ、フランスなどを約10ヶ月歴遊する。昭和17年 陸海軍の依嘱をうけて従軍。この年、パレンバンの落下傘部隊を描くため、スマトラへ行く。昭和21年 自宅の画室を開放して「アカデミー美術研究所」を開く。昭和27年 日本国立公園30点の制作に着手する。昭和30年 日本山林美術協会を創立する。昭和37年 インドに旅行、仏跡、ヒマラヤなどを描く。昭和40年 中国対外文化協会の招きにより中国に旅行。昭和44年 1月6日、慶応病院において死去。日展出品作品略年譜昭和26年「朝囀」、同27年「下北半島の杭夫達」、同28年「コンストラクション」、同29年「鷹の巣の雪山」、同30年「ダム・コンストラクション(佐久間)」、同31年「熔鉱炉」、同32年「吾道を行く人々」、同33年「練習中の大交響楽団」、同34年「鳴動」、同35年「颱風」、同36年「夜明け」、同37年「凝視」、同38年「ベナレスの聖牛」、同39年「野鶴」、同40年「存在」、同41年「遶行」、同42年「初転法輪」、同43年「雪後快晴」。
光陽会々長、洋画家多々羅義雄は12月10日、心不全のため東京神田の同和病院で逝去した。享年74歳。多々羅義雄は明治27年9月18日福岡県能古ノ島に生まれた。同44年佐賀に出て青木繁に師事。45年上京、満谷国四郎に学び、また太平洋画会研究所に入った。そのご本郷研究所にも学んだ。大正2年第7回文展に「南の海」が初入選となり、第8回展に「夕陽の村」「伊豆の海辺」が入選、9回展で「海岸の山」が褒状となり、第12回展で「上総の海」が特選となった。文展から帝展へと出品をつづけ第11回帝展から無鑑査待遇となっている。昭和4年から太平洋美術学校教授として約4年間勤め25年太平洋画会代表となった。29年新に光陽会を創立、会長として晩年を送った。41年光陽会第14回展出品作に対し、文部大臣奨励賞、光陽会功労賞をうけている。昭和10年前後、毎年朝鮮、中国、満州、台湾方面に旅行、写生をつづけた。
独立美術協会会員の洋画家、熊谷登久平は、11月24日、午後4時45分、東京駿河台・日大病院で食道ガンのため死去した。享年67歳。熊谷登久平は、明治34年(1901)10月2日、岩手県東盤井郡に生まれ、大正14年中央大学商学部を卒業、学生時代に川端画学校に入り、大正13年修了、昭和元年、白日会展に入選、このころ長谷川利行を識り、親交を結ぶ。昭和2年、白日会会員に推されたが、昭和4年には「気仙沼風景」「赤松と水車小車」を二科展に出品入選、翌5年には「海」「落日」を出品した。昭和6年、独立美術展第1回展に入選、その後、毎回出品して、昭和8、10年の出品作で海南賞を受賞し、昭和11年独立美術協会会友に推薦され、同16年会員となった。昭和37年以後、41年まで毎年、東京日本橋三越で個展を開催し、同38年にはヨーロッパに旅行した。また、著書に「初等図画練習帳」(5巻)、「熊谷登久平画集(絵と文)」(昭和16年、美術巧芸社)などがある。作品略年譜昭和6年「教会堂」「噴水のある風景(浜町公園)」 同7年「風景」「秋」「夏山」「静物」 同8年「画架と雉子」「鳥離室」「月夜」「風景」 同9年「山百合と娘」「菜園」 同10年「夕月」「五月幟」「朝顔」 同11年「七夕」「風景」「雲雀」 同12年「港」「Ballet Cauhaval」「春の朝」 同13年「古都と噴水」「パラシュート」「美しき海」 同16年「太鼓」「笛」 同17年「母子」「鳩」 同22年「十字架のある風景」「修道女」 同23年「聖書頌歌」 同24年「朝の港」「裸婦」 同27年「寿美子の乳房」「うすれ日」 同29年「ふるさと」 同30年「白い町」 同31年「夏去りし海」 同34年「河口」「古き灯台」 同38年「ナイル河」「サワラ砂漠」 同39年「NICEの宿」「斗牛士」 同40年「ローマの碑」 同41年「愛も武力も十字架も(殉教)」 同42年「裸女」「木の間」
二科会会員の洋画家、阿部金剛は、11月20日午後10時25分、心筋コウソクのため東京逓信病院で死去した。享年68歳。阿部金剛は、明治33年6月26日、岩手県盛岡市において、元東京府知事阿部浩の長男として生まれた。母は、梅花と号した書家であった。東京府第一中学校を卒業、慶応義塾大学文学部予科に入学したが、岡田三郎助に師事して絵画を学び、大学を中途退学して、大正15年(1926)フランスに留学、アカデミー・ジュリアン、アカデミー・ランソンに入って学び、専らビシェールの指導をうけた。そのほか、藤田嗣治、キスリングなどの影響をうけ、昭和2年(1927)に帰国、昭和4年16回二科展に「Girleen」「Rien」が初入選し、以後二科展に超現実主義風の作品を発表、昭和17年二科会会友に推挙された。その間に、「超現実主義絵画論」(天人社版)「阿部金剛画集」(第一書房)の著書を刊行した。戦後派、再建された二科会に参加、昭和22年会員となり、「Rein」の連作を発表したが、昭和35年(1960)から昭和42年(1967)までメキシコ、アメリカに滞在、帰国して前夫人三宅艶子のもとで病没した。寿延、寿廷散士の号がある。作品略年譜昭和4年「Girleen」「Rien」16回二科展、同5年「Amazonne」「Rien」(二科展)、同6年「P氏の修辞学第二」「スエズの碇泊」(二科展)、同8年「意志と肉体と化学」(二科展)、同9年「貿易風」「バビア・ブランカ」(二科展)、同10年「美しき音の世界」(二科展)、同15年「月夜」(二科展)、同16年「習作」「習作」(二科展)、同22年「イヴ」(二科展)、同24年「オダリスク」「美しき対立」、同25年「ネプチューン」「月」、同26年「Lady」、同27年「レダ」「シジフの神話」、同28年「Rein」2点、同29年「Rein」三部作、同30年「黒猫」、同32年「Rein1・2」、同33年「Rein H.J.G.I」、同34年「Rein A-1、B-1、C-1」、同35年「作品1・2・3」、同36年「作品603」「作品602」
太平洋美術会会員の川村信雄は、11月18日午前7時50分、横浜市立医大附属病院にて脳軟化症のため死去した。享年76才。川村信雄は、明治25年(1892)9月18日熊本市に生まれ、東京富士町小学校をへて、東京開成中学校に進んだが病気のため中退し、明治41年太平洋画会研究所に入り洋画を学ぶ。この頃、川上涼花ら『紫紅』という廻覧雑誌をつくり、約150号続け、また展覧会を開催した。大正元年、斎藤与里、高村光太郎、岸田劉生らとフュウザン会を結成、第1回展に「女と瓦斯の光」「真夏の日」「肖像」「トマトとバナナと」「静物」「別れ」「ダリヤ」「百合花」を出品、翌2年の第2回展に「伊豆の冬」「冬」「静物」「伊豆山」「自画像」「風景」を出品した。フュウザン会解散後は、大正5年斎藤与里、硲伊之助らと日本美術家協会をつくり展覧会を開催、また大正3年から文展、帝展に出品した。大正8年横浜美術協会創立に参加したが、大正12年大震災の直後、横浜貿易新報社長三宅磐の依頼をうけて、川端童子、石井柏亭、岡田三郎助らを招き、横浜桜木町駅前興産館(現、市民ギャラリー)で展覧会を開催した。大正14年横浜弘明寺に川村画塾を開設。昭和8年満州に旅行し、朝日新聞神奈川版に画報紀行を寄稿、同13年横浜市の使節として北中国地方の傷病兵を慰問旅行する。昭和13年太平洋画会会員となり、戦後も太平洋画会委員、神奈川県美術家協会会員として活躍し、昭和40年には横浜文化賞を受賞した。主要作品:「葡萄棚のある家」(帝展出品)「養蜂園」(帝展)、太平洋画展出品作品:「山村の春」昭和27年、「夏の静物」同28年、「芍薬」同29年、「塔」同32年、「奈良の家根」同35年、「浄瑠璃寺曼荼羅」同36年、「桜島」同38年、「早春の唐松」同40年など。