矢部友衛
戦前の前衛絵画に大きな影響を与えた洋画家矢部友衛は、7月18日老衰のため東京都田無市の第一病院で死去した。享年89。1892(明治25)年3月9日、新潟県岩船郡に生まれ、1918(大正7)年東京美術学校日本画科を卒業する。卒業の年アメリカへ渡航、翌19年パリへ渡り、はじめアカデミー・ランソンでモーリス・ドニに学ぶが、その後キュビスムをはじめ当時の新傾向の絵画に影響を受けて22年に帰国。同年の第9回二科展に立体派の画風による裸婦「習作 其一」「習作 其二」を発表するとともに、神原泰、中川紀元、古賀春江ら二科の前衛作家13名によるグループ「アクション」結成に加わった。24年に「アクション」分裂後「三科造型美術協会」創立に参加、翌年同協会解散後は浅野孟府、岡本唐貴らと「造型」(28年、未来派ロマンチシズムを駆遂し、ネオ・リアリズムを旗印とする「造型美術家協会」に再編)を創立した。26年から翌年にかけてモスクワを訪れ、プロレタリア美術を研究するとともに、「新ロシア美術展」(朝日新聞社主催で27年5-6月に東京、大阪で開催)開催に尽力した。29年にはナップ成立に伴い、日本プロレタリア美術家同盟創立(PPのちJAP)に参加し委員長に就任する。40年に再渡米しニューヨークで個展を開催、この時東西文化の全面的交流による綜合リアリズム運動を提唱する。44年神奈川県湯河原に疎開、ここで「農民百態」シリーズ(生前50態余を制作)を計画する。戦後の46年、岡本唐貴との共著『民主主義と綜合リアリズム』を出しその運動を提唱、同年旧JAPのメンバーと「現実会」を結成した。48年には日本共産党に入党、68年には郷里村上に画室を設け「農民百態」の連作をつづけた。80年に米寿記念『画集 矢部友衛』を刊行する。作品は、滞欧中の「裸婦」(1920)をはじめ、三科出品の「私の名はネオ・ロマンチストです」、プロレタリア美術大展覧会出品の「職場帰り」(1928)、「労働葬」(1929)、「音」(1930)、「凱歌」(1931)などがある。
出 典:『日本美術年鑑』昭和57年版(279頁)登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)
例)「矢部友衛」『日本美術年鑑』昭和57年版(279頁)
例)「矢部友衛 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10153.html(閲覧日 2024-12-13)
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