三橋節子

没年月日:1975/02/24
分野:, (日)

創画会に出品していた日本画家、三橋節子は、2月24日午前0時40分、転移性肺腫瘍のため京都府立病院で死去した。享年35歳。三橋節子は、昭和14年(1939)3月3日、大阪・パルナバ病院に生まれる。当時から両親の住居は京都市で京都で育っている。父三橋時雄、母珠の2男2女の長女として生まれ、母珠の従兄弟に長谷川海太郎(小説家林不忘、または牧逸馬)、長谷川潾二郎(画家)、長谷川四郎(小説家)などがいた。北白川小学校、近衛中学校をへて昭和29年鴨沂高校を卒業、同年京都市立美術大学日本画科(現・京都市立芸術大学)に入学、主として秋野不矩に師事した。昭和36年(1961)同大学を卒業したが、その前年の35年の新制作春季展に「立裸婦」が入選、同年24回新制作展に「立像」が入選となった。以後、新制作展日本画部(のち創画会展)、京都日本画総合展などに出品し、昭和40、42、44の新制作春季展で受賞、昭和42年末から45年初めにかけて京都美大同窓会美術教育研究会主催の旅行団に参加してインド、カンボジアに旅行し、昭和43年11月、同じ新制作展出品作家で陶芸家の鈴木靖将と結婚し大津市に新居をもった。昭和44年、第33回新制作展に出品した「カルカッタの少年達」「ベナレスの物売り」で新作家賞をうけ、さらに、昭和46年第35回新制作展では「土の香」「炎の樹」で2回目の新作家賞を受賞した。昭和48年(1973)「湖の伝説」を制作したあと鎖骨腫瘍のため京大病院に入院して右腕切断の手術をうけ、以後は左手で制作、昭和49年滋賀県展に出品され「花折峠」で滋賀県芸術祭賞をうけ、同50年京都日本画総合展出品「余呉の天女」(絶筆)は京都府買上げとなった。
作品略年譜
昭和35年(1960) 「立像」(24回新制作展)。
昭和39年 「樹」「白い影」(新制作春季展)、「樹1」(28回新制作展)。
昭和40年 「柳桜」(新制作春季展)。
昭和41年 「池畔」「池苑」(30回新制作展)。
昭和42年 「吾木香」(筍々会3人展)、「疎林の中に立つ」(新制作春季展)、「白い樹」(31回新制作展)。
昭和43年 「野草」(京都日本画総合展)、「アネモネ」(新制作春季展)、「インドの子供達」「カンチプラムの路上」(33回新制作展)。
昭和44年 「牛頭骨のある静物」(京都日本画総合展)、「土のぬくもり」「乾いた土とサリー」(新制作春季展)、「ベナレスの物売り」「カルカッタの少年達」(33回新制作展)。
昭和45年 「とわの土」(京都日本画総合展)、「路上」(新制作春季展)、「カンボジアの子供達」「カンボジアの村」(34回新制作展)、「クサマオとカラスウリ」(京都日本画総合展)。
昭和46年 「土の詩」(京都同時代展)、「よだかの星」「おきなの星」(新制作春季展)、「炎の樹」「土の香」(35回新制作展)。
昭和47年 「裏山の収穫」(京都日本画総合展)、「土の子」(京都同時代展)、「どこへゆくの」(新制作春季展)・「千団子さん」(新制作研究会展)、「登り窯」(京都百景展)、「鬼子母」「鬼子母神」(36回新制作展)、「インドの少年達」「石の詩」「こがらしの詩」「あめ屋さん」「なずな」「あけびの頃」「いとこたち」(2人展)。
昭和48年 「湖の伝説」(京都日本画総合展)、「田鶴来」「三井の晩鐘」(37回新制作展)。
昭和49年 「羽衣の伝説」(滋賀県美術協会展)、絵本原画「湖の伝説<雷の落ちない村>」13点、「花折峠」「雷獣」(1回創画会展)、「鷺の恩返し」「花折峠」(27回滋賀県展)。
昭和50年 「余呉の天女」(京都日本画総合展)。

出 典:『日本美術年鑑』昭和51年版(292頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「三橋節子」『日本美術年鑑』昭和51年版(292頁)
例)「三橋節子 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9628.html(閲覧日 2024-04-25)

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