茨木杉風

没年月日:1976/08/12
分野:, (日)

日本画家茨木杉風は、8月12日胃炎のため中野区の自宅で死去した。葬儀は新宿区信濃町の千日谷会堂で新興美術院葬をもって行われた。享年78。本名芳蔵。明治31(1898)年2月8日滋賀県近江八幡市の海産物問屋梅田屋茨木芳蔵の長男として生れ、八幡商業学校を卒業した。大正9(1920)年3月水墨画に新境地を展開した近藤浩一路に師事し、4月太平洋画会研究所に入学した。大正11年第9回院展に「八木節」が初入選し、昭和5(1930)年日本美術院院友となった。翌年2月渡欧し、エジプト、フランス、スペイン、イタリアなどを巡遊し、この年帰国した。昭和12(1937)年、日本美術院院友を辞して、同志10名、(茨木杉風、小林三季、小林巣居、鬼原素俊、芝垣興生、保尊良朔、吉田澄舟、内田青薫田中案山子、森山麥笑)と、「自由拘束なき新興清新なる芸術を揚達する」目的をもって、あらたに公募団体新興美術院を創立した。以後、同院を主もな発表の場として制作活動をつづけた。戦時中は海軍報導班員として南方に派遣され、海軍記録画「潜水艦の出撃」を制作した。戦後は、戦争のため中絶していた新興美術院を同志8名(旧同人6名に他2名。)で再興、再興新興美術院第1回展を昭和26年6月東京都美術館に開催した。戦後も専らここを舞台に活動をつづけた。代表作に「近江八景」(6曲4双、1943)「南海驟雨」(6曲1双、1944)「しぶき」(4曲1双、1951)などがある。その作品はいづれも写生にもとづく水墨画で、郷里琵琶湖の風景を好んで描いたが、そのほかにも欧洲風物や、京洛風景など幅広く取材され、色彩をほどこした一種粘りのある筆致は、清雅な特有の作風を示した。
略年譜
明治31年(1898) 2月8日、近江八幡市、海産物問屋梅田屋茨木芳蔵の長男として生れる。
大正9年 3月、近藤浩一路に師事。同年4月、太平洋画会研究所へ入学。
大正11年 第9回院展「八木節」入選
昭和5年 日本美術院院友となる。
昭和6年 2月渡欧、エジプト、フランス、スペイン、イタリーを主に西欧美術研究、同年帰朝。
昭和12年 日本美術院院友を辞して同志10名と公募団体新興美術院を創立、その会員となる。
昭和13年 第1回展「漁村冬日」出品。
昭和18年 第6回展「近江八景」6曲4双出品。
昭和18年 6月1日、海軍報道班員として南方に派遣され、海軍省委嘱の記録画作成の写生をなし8月帰還す。
昭和18年 11月末、海軍記録画「潜水艦の出撃」横6.9米、竪2.5米の大作を完成、海軍省納入。
昭和19年 大東南宗院に「奥州平泉桜」(2曲1双)、「三千院の初夏」出品。海洋美術展に「南海驟雨」(6曲1双)出品。
昭和20年 4月、郷里近江八幡に疎開す。11月、郷里に於て紙本小品個展開催。
昭和21年 東京の画室、無事のため3月帰京す。5月、越後与板にて「与板十二景」完成。7月、三越にて同志と小品展を開催。
昭和25年 10月、戦争のため中絶せる新興美術院を同志8名と再興、その創立会員となり、事務所を自宅に置く。
昭和26年 6月、再興第1回新興美術展を東京都美術館にて開催、「しぶき」(4曲1双)出品。同年11月同院秋季展を銀座三越にて開催、「雪晨」出品。
昭和28年 1月、朝日新聞社秀作美術展に「浅草」出品。
昭和30年 12月、社団法人新興美術院の認可あり同法人理事となる。
昭和45年 漱石文学全集(集英社)「我輩は猫である」(第1巻)の挿絵を描く。
昭和51年 8月12日、自宅にて逝去。
昭和51年 10月26日、日本橋三越本店に於て、個展を開催。

出 典:『日本美術年鑑』昭和52年版(283-284頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「茨木杉風」『日本美術年鑑』昭和52年版(283-284頁)
例)「茨木杉風 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9618.html(閲覧日 2024-03-29)

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