本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。
(記事総数 3,120 件)
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没年月日:2019/05/29 読み:かわぐちまもる 構造設計家、川口衞構造設計事務所主宰、法政大学名誉教授の川口衞は5月29日死去した。享年86。 1932(昭和7)年、福井県福井市に生まれる。55年に福井大学工学部建築学科を卒業、同年東京大学大学院数物系研究科建築学専攻に進学、57年に修士課程を修了した後、60年からは法政大学工学部建築学科において講師(後に助教授、教授)に就任し、2003(平成15)年に退任するまで長きにわたって教鞭を執った。また、64年からは川口衞構造設計事務所を主宰し、我が国の建築構造設計の第一人者として国内外を問わず様々な作品を残している。 川口は、シェル構造、テンション構造、スペースフレームなど様々な手法による大空間の構築に関して探求を続けたことでよく知られている。そうした中で最も知られている作品は、国立屋内総合競技場第一体育館(現、国立代々木競技場、1964年)であろう。建築家丹下健三と構造設計家坪井善勝がコンビを組んだこの大作において、川口は東大坪井研究室の一員として、代々木競技場のデザインを特徴づける屋根の構造等を担当している。その後は自らの構造設計事務所の業績として、日本万国博覧会お祭り広場大屋根(1970年、建築設計は丹下健三)、日本万国博覧会富士グループ館(1970年、建築設計は村田豊)、西日本総合展示場(1977年、建築設計は磯崎新)、バルセロナ・オリンピックのために建てられたサンジョルディ・スポーツ・パレス(1992年、建築設計は磯崎新)等を手掛け、構造設計者として世界的な名声を確立した。 また、海外でも数多くの作品を残し、国際シェル・空間構造学会会長(2000~06年)を務め、また01年には同学会のトロハ・メダルを受賞するなど国際的にも広く知られている。後年には木構造も多く手がけたほか、ゲノム・タワー(2002年)のように構造デザインの粋というべき作品を残している。こうした幅広い業績に対して、「シェル・空間構造の設計法の確立と構造に基づく建築デザインに関する貢献」として、日本建築学会大賞を受賞している(2015年)。 彼は、建築構造と造形の関係性を追求し、富士グループ館のように空気膜構造というそれまでにない構造手法を切り開いたほか、サンジョルディ・スポーツ・パレスに代表されるパンタドーム構法のように「つくり方」も含めたデザインも行なった。このように、様々な著名建築家と協働しつつ、単に建築設計者が構想したデザインを構造的に実現するという範疇を超えて、構造設計家としての独自の地位を確立したことに、川口の最大の功績があったというべきであろう。
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没年月日:2019/01/12 読み:ろっかくきじょう 建築家で東京藝術大学名誉教授の六角鬼丈は1月12日、病気療養中のところ東京都内の自宅で死去した。享年77。 1941(昭和16)年6月22日、漆芸家の六角穎雄(号は大壌)の長男として東京市小石川区(現、文京区)に生まれる。本名は正廣。漆芸家で芸術院会員の六角紫水は祖父。都立武蔵丘高等学校を経て東京藝術大学美術学部建築科に進学、同科教授の吉村順三をはじめ、山本学治、天野太郎、茂木計一郎らから建築設計の薫陶を受けた。 65年に卒業、磯崎新アトリエに入り、ユーゴスラビアの「スコピエ都心再建計画」(1966年)や日本万博博覧会の「お祭り広場」(1970年)など壮大な規模の建築構想に携わるとともに、ミラノトリエンナーレ出品の「エレクトリックラビリンス」(1968年)に象徴される磯崎の前衛的な建築思想に関わった。68年、在籍中に手がけた「クレバスの家(自邸)」(1967年)が植田実編集の『都市住宅』(鹿島出版会)創刊号に掲載され、建築家としてデビューを果たす。69年に独立、「八卦ハウス(石黒邸)」(1970年)を発表し、脱近代を志向した新進の建築家として注目された。また設計事務所を営む傍ら、70年代に「自邸計画」と題した自己の内面を追究した概念的かつ個性的な住宅構想の連作を建築専門誌上で立て続けに発表して新世代の建築家の旗手としての頭角を現した。74年以降、生涯の作家名となる鬼丈を号する。 78年、同世代の建築家3人(石山修武、毛綱毅曠、石井和紘)と「婆娑羅」と称する同人グループを結成、80年代にかけて「空環集住器(石河邸)」(1983年)や「樹根混住器(塚田邸)」(1980年、1984年)等、その名が示すとおり身体的感受性に依拠した設計理念と強烈な造形表現を特徴とする創作活動を精力的に展開した。また、この時期には「雑創の森学園」(1977年、1982年)、「金光教福岡高宮教会」(1980年)、「大雪山展望塔」(1984年)、「東京武道館」(1989年)等大型の教育・文化施設を手がけ、当時全盛を迎えつつあったポストモダニズムの建築家の中心的な存在と目されるようになった。中でも「東京武道館」は、設計競技から完成まで5年を費やした労作であるとともに、武道を藝術になぞらえて、水墨画に通じる「雲海山人」と五輪書(宮本武蔵)から着想した「地水火風空」の二語を設計理念に据え、造形的には刀装や家紋を想起させる菱形を構成単位として丹念にまとめ上げた、六角の創作活動の前半を締めくくる重要な作品である。 85年以降、理念的な下地となる東洋思想的な観念と自身が抱える二律背反の〓藤をかけて、自らの創作の姿勢を「新鬼流八道(ジキルハイド)」と称する。 1991(平成3)年、茂木計一郎の退職を受けて母校の教授に着任、同年に開設された取手キャンパス整備の掉尾を飾る「東京藝術大学大学美術館取手館」(1994年)、また上野キャンパスの「東京藝術大学大学美術館本館」(1999年)の設計を手がけるとともに上野キャンパス再編計画の立案に携わり、在職中を通じて同キャンパスの再整備に尽力した。2004年に美術学部長となり、09年に定年退職。教育者としても少数精鋭の学校ならではの濃密な設計指導で手腕を発揮し、大学院の同研究室からは中村竜治、西澤徹夫、宮崎晃吉、中川エリカら、現在多彩な活躍をみせる若手建築家を輩出した。 91年以降、建築家としては「知る区ロード杉並」(1993年)、「立山博物館まんだら遊苑」(1995年)、「感覚ミュージアム」(2000年)等、五感に訴えることを主題とした公園規模の作品に軸足を移す。00年に清華大学客員教授、藝大退職後の09年に北京中央美術学院特任教授に着任し、都市計画規模のプロジェクトを立ち上げるなど中国へも活躍の場を広げた。 79年「雑創の森学園」で吉田五十八賞、91年「東京武道館」で日本建築学会賞作品賞を受賞。作家論・作品集に『日本の建築家3 六角鬼丈 奇の力』(丸善出版、1985年)、『現代建築 空間と方法25 六角鬼丈』(同朋舎出版、1986年)、著作に『新鬼流八道ジキルハイド―叛モダニズム独話』(住まいの図書館出版局、1990年)がある。
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没年月日:2018/06/09 読み:かわさききよし 建築家で京都大学名誉教授の川崎清は入院療養中のところ、6月9日、胃がんのため死去した。享年86。 1932(昭和7)年4月28日新潟県南蒲原郡加茂町(現、加茂市)生まれ、51年に県立三条高等学校を卒業し、京都大学理学部に進学、在学中に工学部建築学科に転じ、建築家で同科講師(1958年助教授、1962年教授)の増田友也に師事した。58年京都大学大学院博士課程を退学して同大建築学科講師に着任、64年助教授、70年大阪大学工学部環境工学科に移り、71年に「建築設計のシステム化に関する基礎的研究-建築設計における情報処理の研究-」により学位を取得、72年教授となった。83年に京都大学に戻り、1996(平成8)年の定年退官後は立命館大学理工学部教授となり、2003年に定年退職するまでのおよそ半世紀に渡って大学に籍を置き、生涯を通じて旺盛であった設計活動と並行して、その大半を教職に献じた。 建築家としては、国立国際会議場競技設計(1963年)や日本万国博覧会会場計画案(1965年)等の論理的かつ挑戦的な提案に加え、後楽園植物温室(1964年)、斐川農協会館、大津柳ヶ崎浄水場(1965年)等先鋭的で凄みのある実作を次々と発表し、早くからモダニズム建築の旗手として注目された。70年に開催された日本万国博覧会(大阪万博)では、丹下健三のもとに大高正人、菊竹清訓、磯崎新、曽根幸一ら気鋭の建築家が集った設計チームに抜擢され、丹下自ら設計したシンボルゾーン(お祭り広場)に池を挟んで対峙する万国博美術館を担当した。万国博美術館は、巨大な三角形のボリュームにコンクリートの量感ある構造と透明性の高いガラスの空間を対比的に統合した、モダニズム建築家としての川崎の初期の設計活動を象徴する建築である。 大阪万博の閉幕後、京都市内に個人事務所(環境・建築研究所)を設立して設計活動を本格化し、建築の大半を地下に埋め込むことで岡崎公園の近代的景観の継承に深い配慮を示した京都市美術館収蔵庫(1971年)、元々敷地にあったスズカケの大樹を手がかりに地形に呼応した幾何学的構成の中に美術館機能をまとめた栃木県立美術館(1972年)と、自身の代表作となる建築を立て続けに手掛けた。その後も自らの事務所名に冠した通り、建築が存在する「環境」に主眼を置いた設計活動を精力的に展開した。川崎の「環境」への視座は、建築周囲の物理的な状態のみに留まらず、風や水などの流動的な自然環境を意識した徳島県文化の森総合公園(1990年)や能動的な市民活動の活性化を意図した京都市勧業館みやこめっせ(1996年)で顕著に示されるように、建築と相互に関連する外的事象の総体に及んでいる。新築の設計のみならず、史跡・重要文化財の旧緒方洪庵住宅(適塾)の修復整備(1981年)や旧京都帝国大学本館(百周年時計台記念館)の保存再生(2003年)など歴史的建造物の改修にも関わり、また信楽町のまちづくりを主導するなど、川崎が生涯に手がけた建築は多彩かつ幅広い。また、関西を中心に多くの建築設計競技の審査員を務め、激しい景観論争を巻き起こしたJR京都駅改築国際設計競技(1989年)では委員長として審査の取りまとめに尽力した。 万国博美術館の日本建築学会万国博特別賞、栃木県立美術館の芸術選奨・文部大臣賞、京都市勧業館みやこめっせの京都デザイン賞・京都市長賞ほか建築関係の受賞多数、2011年瑞宝中綬章。主な著作に『仕組まれた意匠-京都空間の研究』(鹿島出版会、1991年)、『空間の風景-川崎清建築作品集-』(新建築社、1996年)がある。
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没年月日:2017/08/14 読み:やなぎさわたかひこ 建築家の柳澤孝彦は8月14日、前立腺がんのため死去した。享年82。 1935(昭和10)年1月1日、長野県松本市に生まれる。県立松本深志高等学校を経て、54年東京藝術大学美術学部建築科に進学し、吉田五十八、吉村順三、山本学治ら錚々たる教授陣の指導を受けた。卒業後、竹中工務店に入社、28年間一貫して設計部に籍を置き、同社を代表する建築家の一人として活躍した。86年第二国立劇場(仮称、現、新国立劇場)国際設計競技の最優秀賞を機に独立、TAK建築・都市計画研究所を設立し、大型の文化施設を中心に数多くの建築設計を手がけ、1995(平成7)年「『郡山市立美術館』及び一連の美術館・記念館の建築設計」に対して日本芸術院賞が贈られた。 柳澤の仕事はなんといっても新国立劇場(1997年)に象徴される。通商産業省東京工業試験所跡を中心とした工業地に計画された新国立劇場は、大中小の異なるタイプの劇場を総合する難解な設計条件に加え、劇場としての敷地や立地の適性の問題があり、また複雑に絡みあった法規制や多種多様な舞台関係者の存在など、設計競技の段階から建設時の困難が予想されるものであった。完成するまで12年間の紆余曲折を経ながらも、隣接する民間街区の東京オペラシティ(1999年)を含めて「劇場都市」という壮大なコンセプトでプロジェクトをまとめ上げたその手腕は、竹中工務店時代に培われた柳澤の卓越したマネージメント能力の賜物といえよう。 柳澤が手がけた建築はゼネコン出身の建築家らしく、総じて作家性を前面にださない堅実な作風を示すいっぽう、有機的かつ明快な平面計画と重層的かつ濃密な空間構成にきわめて独創的な特徴をもつ。たとえば新国立劇場では、外観は飾り気のないオーソドックスなデザインでまとめながらも、各劇場をつなぐ共通ロビーはリニアな吹抜け空間に大階段やバルコニー、トップライトなどを巧みに配置することで欧州都市の広場的な空間をつくり出し、劇場建築に求められる祝祭性を十二分に獲得している。真鶴町立中川一政美術館(1988年)、郡山市立美術館(1992年)、窪田空穂記念館(1993年)、東京都現代美術館(1994年)、上田市文化交流芸術センター・上田市立美術館(2014年)など、日本芸術院賞を受賞した美術館・記念館建築をもっとも得意としたが、竹中工務店時代の身延山久遠寺本堂(1982年)や有楽町マリオン(1984年)、独立後のひかり味噌本社屋(1997年)や軽井沢プリンスショッピングプラザ・レストラン(2004年)など民間建築の佳作も多い。 吉田五十八賞(真鶴町立中川一政美術館、1990年)、日本建築学会賞(新国立劇場、1998年)ほか建築関係の受賞多数。松本市景観審議会長を務めるなど故郷の振興にも貢献した。 著書に『柳澤孝彦の建築:平面は機能に従い、形態は平面に従い、ディテールは形態に従う』(鹿島出版会、2014年)、共著に『新国立劇場=New National Theatre Tokyo:Heart of the city』(公共建築協会、1999年)がある。
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没年月日:2017/05/20 読み:いけはらよしろう 建築家で早稲田大学名誉教授、日本芸術院会員の池原義郎は5月20日、東京都内にて肺炎のため死去した。享年89。 1928(昭和3)年3月25日、東京都渋谷区に生まれる。51年早稲田大学理工学部建築学科卒業後、同大学院工学研究科建設工学専攻に進学。53年に修了後、山下寿郎設計事務所(現、山下設計)に勤務。56年に早稲田大学理工学部建築学科今井兼次研究室助手、65年同学科専任講師、66年助教授、71年教授。1995(平成7)年の退官まで同大学にて教鞭を執るとともに、88年に株式会社池原義郎・建築設計事務所を設立し、建築家として設計活動にあたった。 アントニオ・ガウディをわが国に紹介したことでも知られる今井兼次に師事する中でその設計思想を継承し、コンクリートと鉄を素材としながら静謐な詩的空間を生み出してきた池原は、機能的合理性への指向や建築理念に関わる言説といった方向性とは異なる近代建築の在り方を作品を通じて提示することに意識的であった。その思考が最も端的に造形されたのが、大地と建築が一体化した彫刻のような「所沢聖地霊園礼拝堂・納骨堂」(1973年竣工、日本建築学会賞(作品))であり、あるいは旋回する上昇性が強調された「早稲田大学所沢キャンパス」(1987年、日本芸術院賞)であろう。幾重にも重ねられた壁やスキップフロアといった、池原が好んで用いた建築言語は、建築に奥行きを与える要素であるとともに、視点を変え歩を進めるごとに異なる風景が立ち現れるという空間体験を喚起する仕掛けでもあった。 その他の主な作品に、白浜中学校(1970年)、西武ライオンズ球場(1979年)、松ヶ丘の家(1986年)、酒田市美術館(1997年)、下関市地方卸売市場唐戸市場(2001年)、軽井沢プリンスショッピングプラザ・ニューイースト(2004年)などがある。 上記以外の主な受賞歴に、88年大隈記念学術褒賞記念賞、02年瑞宝中綬章、16年早稲田大学芸術功労者。 主な著作に『池原義郎 建築とディテール』(彰国社、1989年)、『光跡 モダニズムを開花させた建築家たち』(新建築社、1995年)など。また、作品集として、『池原義郎・作品 1970―1993』(新建築社、1994年)ほかがある。
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没年月日:2016/10/13 読み:こじまかずひろ 建築家の小嶋一浩は10月13日食道癌のため死去した。享年57。 1958(昭和33)年12月1日、大阪に生まれる。82年に京都大学工学部建築学科を卒業後、東京大学大学院修士課程にて原広司研究室で学ぶ。86年、同大学博士課程在学中に、研究室の同級生と建築家集団「シーラカンス」を共同設立(1998年に「シーラカンスアンドアソシエイツ」に改組、2005年に「CAt(シーラカンスアンドアソシエイツトウキョウ)」と「CAn(シーラカンスアンドアソシエイツナゴヤ)」へ更に改組)。個人が設計を指揮するのではなく、集団で議論を重ねながら設計を進めるという「コラボレイション」の方法を取る。 特に学校建築の分野で活躍し、代表作に千葉市立打瀬小学校(1995年)、千葉市立美浜打瀬小学校(2006年)、宇土市立宇土小学校(2011年)、流山市立おおたかの森小・中学校・おおたかの森センター・こども図書館(2015年)などがある。 千葉市立打瀬小学校では、児童が自発的な行為を展開できる空間を生み出すことを試み、教室・ワークスペース・中庭・アルコーブ・パスをひとまとめにした単位を校舎敷地に散りばめ、その間に多様な使い方ができる外部空間を設計した。オープンスクール(個々の生徒の興味・適性・能力に応じた教育制度)の概念を具体化した先鋭的な設計が評価され、1997(平成9)年に日本建築学会賞(作品)を受賞した。 その10年後、同じ幕張新都心地区に計画した千葉市立美浜打瀬小学校では、この概念をさらに発展させ、児童の経路の在り方、音・温熱環境、多様な学習形態、将来の施設転用を重視した設計が行われた。建物は2枚の厚いスラブから構成され、その上に教室・プール・アリーナ・ウッドデッキなどを配置し、流動的で多様な居場所を許容する空間を作り上げた。 熊本県宇土市立宇土小学校では長いスラブにL形の壁を配置することによって開放的な空間を作り上げ、温暖な立地に配慮して、全開可能な開口部を設置するなど、風通しを考慮した設計が行われている。この校舎は2013年に村野藤吾賞、14年に日本建築家協会賞を受賞している。 L形の壁によって作り上げられた流動的な空間構成と開放的な空間を実現する全開可能な開口部という要素は、地域施設との複合である「流山市立おおたかの森小・中学校・おおたかの森センター・こども図書館」で引き続き設計の要点となった。さらに、校舎と隣接する街と森との関係性に配慮した設計が行われ、「建物のどの場所からも、この森や周辺の街並みが感じられるような開放的な空間が実現されていることは、この規模を思えば驚くべきことである」と評価され、16年に日本建築学会賞(作品)を受賞した。 この他、人間の行為と動線を手掛かりにして、多様な使われ方ができる空間を生み出すことを中核の概念として、ビッグハート出雲(1999年)などの公共施設、スペースブロック上新庄(1998年)などの集合住宅の設計を手掛けた。 大学での教育にも尽力し、2005~11年に東京理科大学教授、11年から横浜国立大学大学院Y-GSA教授を務めた。
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没年月日:2016/07/21 読み:さかたせいぞう 建築家の阪田誠造は7月21日、心不全のため死去した。享年87。 1928(昭和3)年12月27日、大阪市に生まれる。大戦末期の45年に早稲田大学専門部工科建築科に入学、48年早稲田大学理工学部建築学科に編入学。51年同卒業後、坂倉準三建築研究所に入所。坂倉のもとで羽島市庁舎(1959年竣工、60年日本建築学会賞(作品)、2003年日本におけるDOCOMOMO100選)、新宿西口駅本屋ビル(1967年)、日本万国博覧会電力館(1969年)などの設計・監理を担当した。69年に坂倉が没した後、西澤文隆らとともに株式会社坂倉建築研究所を設立して同東京事務所長に就任、85~99年同社代表取締役、その後は同社最高顧問を務めた。 主宰アーキテクトの作家性よりも担当スタッフの発想を活かしながら共同作業で設計を練り上げていくことを尊重する姿勢を一貫し、大規模な組織事務所ともいわゆるアトリエ事務所とも一線を画しつつ、洗練されたデザインの良質な建築をコンスタントに生んできた。また、そのもとから独立して活躍する建築家も数多く輩出してきた。 ビラ・セレーナ(1971年)、東京都立夢の島総合体育館(1976年、77年日本建築学会賞(作品))、新宿ワシントンホテル(1983年)、横浜人形の家(1986年)、北沢タウンホール(1990年)、小田急サザンタワー・新宿サザンテラス(1998年、99年建築業協会賞特別賞、都市景観大賞)、聖イグナチオ教会(1999年)など、個人住宅から公共施設、オフィスビルまでを幅広く手掛けた。モダニズムの系譜に連なる一方で、理論よりも個別の敷地の場所性や設計者自らの感性に立脚して建築を作ることを坂倉や西澤から受け継いだと自ら語っている。その意味でも、特に阪田の代表的作品として位置づけられるのが東京サレジオ学園の一連の建築(1990年IV期竣工、89年村野藤吾賞、2014年日本建築家協会25年賞)であろう。スケールを抑えた打放しコンクリートと瓦屋根の園舎群が聖堂を焦点に一つの集落のような小世界を形作る。シャープな造形の外観と静謐な内部空間を併せ持つドンボスコ記念聖堂及び小聖堂は、建築家と施主のみならず彫刻やガラス工芸、家具、テキスタイルなどの芸術作家たちとの類まれな協働の成果でもあり、1989(平成元)年に吉田五十八賞および日本芸術院賞を受賞した。 90~91年新日本建築家協会副会長、93~99年明治大学理工学部建築学科教授を務めるなど、建築界の発展や教育にも貢献した。 共著に、『建築家の誠実-阪田誠造 未来へ手渡す』(建築ジャーナル、2015年)、『阪田誠造:坂倉準三の精神を受けついだ建築家』(建築画報社、2015年)がある。
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没年月日:2016/02/25 読み:みやもとただなが 建築家の宮本忠長は2月25日、胆管腫瘍のため死去した。享年88。 1927(昭和2)年10月1日、長野県須坂市に生まれる。45年早稲田大学専門部建築学科に入学、48年同理工学部建築学科を卒業後、佐藤武夫建築事務所に入所。64年に宮本忠長建築設計事務所を設立し、信州を中心に数多くの建築を手がけた。 宮本の業績のうち最も知られているのは、やはり小布施の町並みにかかる一連の業績(1987年吉田五十八賞、91年毎日芸術賞)であろう。76年の北斎館の設計及び町並修景計画の策定に始まり、今日まで続く息の長い取り組みは、優れた個々の建築デザインのみならず、地域の人々との丁寧な対話、信頼関係に裏打ちされた総合的な作業である。その成果は、現在の魅力溢れる小布施の姿を見れば一目瞭然であろう。 その他にも、長野市立博物館(1981年、82年日本建築学会賞)、信州高遠美術館(1992年)、ケアポートみまき(1995年)、水野美術館(2002年)といった大屋根が印象的な作品を数多く設計しており、現代における和風表現の系譜に位置づけることができる。 小布施の他でも、その作品のほとんどが地域に根ざし、その風土を織り込んだ作風であることが宮本の特徴の一つであるが、同時にその影響力は地域に留まらず、いわば全国区の建築家として活躍したことも特筆すべきである。森鴎外記念館(1995年、島根県津和野町)、北九州市立松本清張記念館(1998年、2000年BCS賞)、キトラ古墳体験学習館(2016年、奈良県明日香村)などがその代表的なものと言えよう。 また、モダニズムの良き継承者としての側面もあり、例えば独立後初期の作品であるあづみ農協会館(1967年)には、当時の時代相を色濃く見ることができる。御代田町立御代田中学校(2011年)や、しなの鉄道中軽井沢駅くつかけテラス(2013年)などに見られる静謐なガラスのファサードと勾配屋根との組み合わせは、単なる和風表現に留まらない宮本の作風の奥深さを示す。そうした系統の集大成が、松本市美術館(2002年、03年建築業協会賞、03年BCS賞、04年日本芸術院賞)であろう。 一方で、THE FUJIYA GOHONJIN(2006年)、蛭川公民館(2008年)など、既存の歴史的建造物の改修、増築も手がけている。 2002年から08年にかけては日本建築士会連合会の会長をつとめ、我が国における建築家を巡る社会情勢が大きく揺らぐ中、建築家・建築士のあるべき職能、地位の向上等についても尽力した。 主な著書に、『住まいの十二か月』(彰国社、1992年)、『森の美術館』(共著、中央公論事業出版、2003年)などがある。
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没年月日:2015/12/09 読み:よしだけいじ 建築家の吉田桂二は12月9日死去した。享年85。 1930(昭和5)年9月16日、岐阜県に生まれる。45年大阪陸軍幼年学校に入学、終戦後岐阜市立中学校へ復学し卒業。47年に東京美術学校(現、東京藝術大学)に入学し、吉田五十八、吉村順三、山本学治らに師事する。52年に建築学科卒業後、建設工学研究会・池辺研究室に入所。57年に吉田秀雄、小宮山雅夫、戎居研造とともに連合設計社を設立する(1959年に連合設計社市谷建築事務所に改組)。戦後、住宅の量産化が進み、プレハブ工法が木造住宅の主流になっていくなかで、日本の風土と伝統文化に根ざした住宅を追及し、伝統木造構法による住宅の設計に従事した。 63年の地中海への旅行を皮切りに日本国内、ヨーロッパ、中東、アジア、アフリカへと、世界の民家、集落を旅する。76年に、居住者が集団離村し廃村になっていた信州の大平宿を初めて訪れ、当時非常勤講師を務めていた日本大学理工学部の学生とともに4年間にわたり調査を行う。飯田市民が主体となっていた保存運動に協力し、80年に観光資源保護財団(現、日本ナショナルトラスト)が実施した調査に参加した他、民家の保存改修事業の設計監理をボランティアとして担当した。83年に「大平の民家とその系譜」と題する論文で日本大学より工学博士号を取得。この活動をきっかけに、全国の町並の調査と保存、町づくり、古民家の再生に携わることになり、保存と創造の両立を以降の課題として自ら実践した。 86年に観光資源保護財団の依頼を受け飛騨古川(岐阜県古川町、現、飛騨市)の調査に参加。この際、かつて町役場が建ち、その後広場となっていた敷地に飛騨の匠の大工道具を展示するための施設・地域集会所を提案。この計画は後に日本ナショナルトラストのヘリテージセンターの一つ、「飛騨の匠文化館」として実現する。これをはじめとする飛騨古川における一連の修景計画の業績により、1991(平成3)年に吉田五十八賞特別賞を受賞した。 同時期には茨城県古河市の町づくりにもかかわり、かつて出城のあった地に町づくりと文化の拠点として古河歴史博物館を設計する。本館はRC造だが、塗屋造りをモチーフに、屋根を瓦葺とし、卯建など古河の町で見られる要素をデザインに取り入れる。また、隣接して建つ鷹見泉石邸を復原し、分館とする。この博物館の設計と周辺の修景における歴史的景観保存への取り組み、地域に密着した設計が評価され、92年に日本建築学会賞(作品賞)を受賞した。 この他、熊川、内子、熊本など日本各地で町並み保存と歴史的景観を活かした町づくりに取り組み、古民家の再生にかかわるとともに、葛城の道歴史文化館(1986年)、坂本善三美術館(1996年)、大乗院庭園文化館(1997年)、おぐに老人保健施設(2000年)、内子町図書情報館(2002年)、高瀬蔵(2005年)など、町づくりの拠点となる多くの地域公共建築を設計した。 2003年から連合設計社市谷建築事務所において「吉田桂二の木造建築学校」を開校し、実務に携わる建築士、地域工務店、大工を対象に木造建築の設計の技術を教えた。 『住みよい間取り』(主婦と生活社、1980年)、『納得の間取り―日本人の知恵袋』(講談社+α新書、2000年)、『木造住宅設計教本』(彰国社、2006年)などの木造住宅設計マニュアル、『保存と創造をむすぶ』(建築資料研究社、1997年)など古民家の再生と町づくりを扱う図書、『日本の町並み探求伝統・保存とまちづくり』(彰国社、1988年)、『旅の絵本 地中海・町並み紀行』(東京堂出版、1997年)ほか表現力に富んだスケッチを収集した絵本など、多数の著書がある。
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没年月日:2015/06/18 読み:あずまたかみつ 建築家で大阪大学名誉教授の東孝光は6月18日、肺炎のため死去した。享年81。 1933(昭和8)年9月20日、大阪市に生まれる。57年大阪大学工学部構築工学科を卒業後、郵政省大臣官房建築部に勤務。60年に坂倉順三建築事務所に入所し、「枚岡市庁舎」(1964年、西澤文隆とともに担当)、「新宿駅西口広場・地下駐車場」(1966年)などの実施設計・監理を坂倉のもとで担当した。 東京都渋谷区神宮前に自邸「塔の家」を設計(1966年竣工)、わずか6坪の変形の土地に建つRC造打ち放しの建物は、6層の内部に一切の仕切りを設けることなくプライバシーを確保して都市における狭小住宅のあり方を明快に提示し、一躍注目を集めた(2003年、「日本におけるDOCOMOMO 100選」に選定)。 67年に独立し、東孝光建築研究所を設立。「粟辻邸」(1971年)、「羽根木の家」(1982年)、「阿佐ヶ谷の家」(1993年)など、長女の東理恵との共同設計作品も含めて100件以上の住宅設計を手掛けた。1995(平成7)年に「塔の家から阿佐谷の家に至る一連の都市型住宅」で日本建築学会賞(作品)受賞。また、「大阪万国博覧会三井グループ館」(1970年)や、「さつき保育園」(1969-76年)、「姫路工業大学書写記念会館」(1995年)などの教育施設の設計も行なっている。 85年に大阪大学工学部環境工学科教授に就任。97年に退官後2003年まで千葉工業大学工業デザイン学科教授を務めた。 主な著書に、『日本人の建築空間』(彰国社、1981年)、『都市住居の空間構成』(鹿島出版会、1986年)、『「塔の家」白書』(住まいの図書館出版局、1988年)、『都市・住宅論』(鹿島出版会、1998年)などがある。
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没年月日:2015/01/14 読み:いしいかずひろ 建築家の石井和紘は1月14日、急性呼吸促迫症候群のため死去した。享年70。 1944(昭和19)年2月1日、東京都に生まれる。67年東京大学工学部建築学科卒業、同大学院に進学ののち、72年より米・イェール大学に留学。75年に東京大学大学院工学系博士課程およびイェール大学建築学部修士課程を修了。76年に石井和紘建築研究室(1978年に石井和紘建築研究所に改称)を設立。 東大大学院在籍中に香川県直島町から吉武泰水研究室に依頼された文教地区計画の一環として「直島小学校」(1970年竣工)の設計を担当して町長の目に留まり、以後「直島幼児学園」(1974年、難波和彦との共同設計)、「町民体育館・武道館」(1976年)などを次々と手掛けた。多様性をテーマにした「54の窓(増谷医院)」(1975年、難波との共同設計)でポストモダン建築家として一躍注目を集めた。また同じ頃に、装飾の象徴性を否定した近代建築を批判してポストモダン建築を提唱したロバート・ヴェンチューリ他著『ラスベガス-忘れられたシンボリズム』の翻訳(鹿島出版会、1978年、伊藤公文との共訳)も行っている。 シンボルとしての屋根を記号化した「54の屋根(建部保育園)」(1979年)やファサードが記号化された「ゲイブルビル」(1980年)などを経て「直島町役場」(1983年)で世間にも強烈な印象を与えた。ここでは京都西本願寺飛雲閣の屋根をはじめ、近代も含む日本建築史上の様々な名建築から意匠や形態が直接的かつ強引に引用されており、造形としては相当に破綻しているが、このような時に過剰なまでの諧謔性は石井作品を通底しており、ポストモダニズムがもてはやされた当時の時代の空気と強く共鳴し合う部分でもあった。その究極と言えるのが「同世代の橋」(1986年)で、石井と同世代の建築家13組の特徴的意匠要素がファサードに脈絡なく組み込まれている。 重伝建地区内において既存のRC造公民館を醤油蔵の外観で覆い隠した「吹屋国際交流ヴィラ」(1988年)を経て、続く「数寄屋邑」(1989年、日本建築学会賞(作品)受賞)「清和村文楽館」(1992年)などの作品においては数寄屋や木造といった日本的伝統が大きなテーマとなり、「くにたち郷土文化館」(1994年)や「宮城県慶長使節船ミュージアム」(1996年)では建物のボリュームを地中に埋没させ、主張の強かった初期の作風からは大きく変容を遂げるに至った。 著作に『イェール 建築 通勤留学』(鹿島出版会、1977年)、『数寄屋の思考』(鹿島出版会、1985年)、『私の建築辞書』(彰国社、1988年)などがあり、中期までの作品は『SD』編集部編『現代の建築家 石井和紘』(鹿島出版会、1991年)に収録されている。
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没年月日:2014/10/27 読み:おかだしんいち 建築家の岡田新一は10月27日、東京都内にて呼吸不全のため死去した。享年86。 1928(昭和3)年、茨城県水戸市に生まれる。48年旧制静岡高等学校卒業、東京大学工学部建築学科、同大学院に進学し、57年に修士課程修了後、鹿島建設株式会社に入社。同社設計部在籍中にイェール大学建築芸術学部大学院に留学、63年修了後Skidmore Owings and Merrill設計事務所(ニューヨーク)に出向。65年鹿島建設株式会社理事・設計部企画課長。 69年、最高裁判所新庁舎設計競技に参加して最優秀賞を獲得。「法と秩序を象徴する正義の殿堂として、この地位にふさわしい品位と重厚さを兼ね備えると共に、その機能を果たすに足りる内容を持つこと」を要件としたこのコンペには、丹下健三チームをはじめ217点の応募があったが、5年前の国立劇場コンペ(竹中工務店設計部一等当選)に続いて建設会社設計部の案が選ばれたことは、高度成長期における設計組織の台頭を象徴する出来事として、建築界に少なからぬ衝撃を与えた。 コンペの規定に従い独立して株式会社岡田新一設計事務所を設立したのち、74年に竣工した最高裁判所庁舎は、7棟からなる巨大建築で、白御影石貼りの壁がそそり立つ外観が威圧的にすぎるとの批判も巻き起こした。翌75年に日本建築学会賞に選ばれた同庁舎は、岡田の代表作品となるとともに、以後における、警視庁本部庁舎(1980年)、岡山市立オリエント美術館(1981年)、東京大学医学部付属病院(1982年基本計画)といった、大規模な公共建築を中心に設計活動を行う方向性と、石材などを多用した重厚な作風を確立する契機ともなった。JA25 SHIN’ICHI OKADA 特集岡田新一(1997年、新建築社)には、最高裁判所庁舎以来、当時までの代表的作品が収録されており、2008(平成20)年には岡山県立美術館開館20周年特別展として、「建築家岡田新一と岡山県立美術館20年」が開催された。 都市計画や国土計画等の分野でも、審議委員等の立場も含めて発信を行ったほか、「都市を創る」(彰国社、1995年)、「病院建築:建築におけるシステムの意味」(彰国社、2005年)など、設計にあたっての考え方やプロセスを体系化して著述・公開することにも力を注いだ。訳書に、「SD選書11 コミュニティとプライバシィ」(S.シャマイエフ、C.アレキザンダー著、鹿島出版会、1978年)がある。 89年米国建築家協会(AIA)名誉会員、96年には「宮崎県立美術館及び一連の建築設計」に対して日本芸術院賞及び恩賜賞受賞、04年芸術院会員、10年日本建築学会名誉会員。08年には旭日中綬章を受章している。
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没年月日:2013/01/02 読み:おおたにさちお 建築家で東京大学名誉教授の大谷幸夫は、1月2日午後0時10分、肺炎のため東京都内の自宅で死去した。享年88。 1924(大正13)年2月20日、東京市赤坂区(現、東京都港区)に生まれる。東京帝国大学第一工学部建築学科を1946(昭和21)年に卒業後、同大学院特別研究生として丹下健三研究室に所属、51年満期退学後も60年まで同研究室にて研修。56~64年東京大学工学部建築学科非常勤講師、64年から同都市工学科助教授、71~84年同教授。83年から千葉大学工学部建築学科教授を兼任、1989(平成元)年同定年退官。この間、61年に設計連合を設立、67年大谷研究室を発足し、その代表として設計活動を行った。 丹下研究室に所属した15年の間に、広島平和記念公園及び記念館(1955年竣工)、旧東京都庁舎(1957年竣工)など、丹下健三の初期の代表作品にコンペ段階から実施設計・監理までを通じて携わり、その右腕として大きな役割を果たした。 独立後間もない63年に設計競技で最優秀賞を獲得した国立京都国際会館(1966年第Ⅰ期竣工)では、日本の文化的伝統と現代建築としての国際性の共存、あるいは自然との関係から導き出される建築形態、といった構想のもと、印象深い造形意匠と機能配置の合理性を見事に両立させてみせた。また、その後の四期にわたる増築過程(1971~2001年)をも通じて、基本単位としての建築が集まることで総体としての都市を構成するという大谷の方法論を実践する場となり、2003年には日本におけるDOCOMOMO100選にも選定されている。 大谷は都市計画家としても数多くのプロジェクトを手掛けたが、川崎市河原町高層公営住宅団地(1972年第Ⅰ期竣工)に見られるように、市民が主体として参画できる都市のあり方を模索すると同時に、課題設定から導かれる必然的形態への指向が顕著であったといえる。このため、沖縄コンベンションセンター(1987年)や、歴史的建造物を内包する千葉市美術館・中央区役所(1995年)のように、時にかなり癖の強い形態意匠も含めて作風の幅が広いことも大谷の特徴である。 56年に「五期会」を結成して建築設計組織の変革を主張し、のちには「都市政策を考える会」の代表として政策提言を行うなど、社会との関わりにおいても活発に発言・行動した。83年には「金沢工業大学北校地の一連の作品」で日本建築学会(作品)賞を受賞、97年には「建築と都市の総合的把握に基づく一連の設計活動・社会的活動・建築教育における功績」で日本建築学会大賞を受賞した。 文化財保護審議会専門委員会委員(1974~80年)、厚生省生活環境審議会委員(1978~86年)、建設省建築審議会委員(1981~87年)、日本建築学会理事(1970~72年)、同都市計画委員会委員長(1975~80年)、日本建築家協会理事(1971~76、1984~86年)、日本都市計画学会評議委員(1978~84年)等を歴任。 上記以外の主な受賞歴等として、2001年勲三等瑞宝章受章、2002年日本建築家協会名誉会員など。主な著作に、『空地の思想』(北斗出版、1979年)、『大谷幸夫建築・都市論集』(勁草書房、1986年)などがあり、代表的設計作品は『都市的なるものへ―大谷幸夫作品集』(建築資料研究社、2006年)に収録されている。
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没年月日:2011/12/26 読み:きくたけきよのり 建築家の菊竹清訓は12月26日、東京都内にて心不全のため死去した。享年83。 1928(昭和3)年、福岡県久留米市に生まれる。44年早稲田大学専門部工科建築学科に入学、50年同大学理工学部建築学科卒業後、(株)竹中工務店、村野・森建築設計事務所勤務を経て、53年に菊竹清訓建築設計事務所を設立。 58年の自邸スカイハウス(日本におけるDOCOMOMO150選)で4枚のコンクリート壁で空中に持ち上げられた正方形の基本空間に生活の変化に応じて様々なユニットや設備を着脱するという建築像を提示して注目を集め、翌年にかけてはこの考え方を都市スケールに展開した「海上都市」「塔状都市」の構想を『国際建築』誌上にて発表した。60年に東京で開催された世界デザイン会議を契機に川添登が呼びかけて若手建築家らが結成したメタボリズム・グループに参加し、機能主義の限界を打破する建築や都市のあり方を提唱した菊竹の思考は、「建築は代謝する環境の装置である」という63年の彼の文章(『建築代謝論 か・かた・かたち』(彰国社、1969年)所収)に集約されている。 そして、自身の方法論を実践した作品として、国立京都国際会館コンペ案(1963年)、出雲大社庁の舎(1963年、日本建築学会作品賞、芸術選奨文部大臣賞、米国建築家協会汎太平洋賞、日本におけるDOCOMOMO100選)、ホテル東光園(1965年、日本におけるDOCOMOMO150選)、都城市民会館(1966年、日本におけるDOCOMOMO150選)などを次々と設計し、70年大阪万博のエキスポタワーでは「塔状都市」、75年の沖縄海洋博アクアポリスでは「海上都市」のアイデアが試みられた。 その後、銀行や商業建築などを手掛けた時期を経て、90年代以降は、江戸東京博物館(1993年)、島根県立美術館(1999年)、九州国立博物館(2005年)など大型の作品が目立つ。 千葉工業大学教授、早稲田大学客員教授などとして後身の指導にあたったほか、菊竹事務所からは伊東豊雄、長谷川逸子、内藤廣ほか、現在の日本を代表する建築家が多数輩出していることも特筆に値する。 1995(平成7)年「軸力ドームの理論とデザイン」で早稲田大学より工学博士号取得。プロデューサーや委員として博覧会等の国家的プロジェクトに積極的に参画したほか、日本建築家協会副会長、日本建築士会連合会会長などを歴任した。 上記以外の主な受賞歴に、78年UIA国際建築家連合オーギュスト・ペレー賞作品部門・方法論部門、79年毎日芸術賞(京都信用金庫の一連の作品)、2000年ユーゴスラヴィア・ビエンナーレ「今世紀を創った世界建築家100人」、06年早稲田大学芸術功労者賞など。06年勲三等旭日中綬章受章。また、71年米国建築家協会特別名誉会員、94年フランス建築アカデミー会員など、諸外国からの顕彰も多い。 他の著作に『人間の建築』(井上書院、1970年)、『海上都市』(鹿島出版会、1973年)、『現代建築をどう読むか―日本建築シンドローム』(彰国社、1993年)などがあり、作品集も多数出版されている。
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没年月日:2011/11/30 読み:はやししょうじ 建築家の林昌二は11月30日、東京都内にて心不全のため死去した。享年83。 1928(昭和3)年、東京市小石川区(現、東京都文京区)に生まれる。45年東京高等師範学校附属中学校卒業。東京工業大学工学部建築学科で清家清に学び、53年に卒業後、日建設計工務株式会社(現、株式会社日建設計)に入社。以後、同社のチーフアーキテクトとして活躍し、73年取締役、80年副社長、1993(平成5)年副会長・都市建築研究所所長を歴任し、2011年3月の退任まで同社顧問を務めた。 55年の旧掛川市庁舎に始まる担当作品は、62年の三愛ドリームセンター(日本におけるDOCOMOMO100選)を経て、代表作となる66年のパレスサイドビルディング(日本におけるDOCOMOMO20選)を生む。戦後日本のオフィスビルとして最高傑作の一つと言えるこの建築では、欧米で主流となっていたセンターコアシステムを採らずにエレベーターや水回りを収めたシャフトを両端部に配する独創的プランを考案し、当時としては最大規模の容積率を充足しながら、新技術に裏打ちされた美しいプロポーションや各所にちりばめられた細やかなディテールなど、五十年近くを経た現在も全く古さを感じさせない。 林は建築誌上等に多くの文章を書いているが、74年に建築史家の神代雄一郎が発表した論考に端を発した、いわゆる「巨大建築論争」では組織設計事務所の立場を代表して「その社会が建築を創る」(『新建築』1975年4月号所収)と反駁しており、総合的技術力が初めて可能にする建築を生み出し続けていることへの強い自負が感じられる。 日本建築学会作品賞を受賞した71年のポーラ五反田ビルや82年の新宿NSビルなど、オフィスビルを最も得意としたが、妻の林雅子と共同設計した自邸「私たちの家」(Ⅰ期1955年、Ⅱ期1978年)も佳作として知られる。 90~92年新日本建築家協会会長。同名誉会員、米国建築家協会名誉会員、日本建築学会名誉会員。80年「筑波研究学園都市における研究および教育団地の計画と建設」で日本建築学会業績賞受賞。 著作に『建築に失敗する方法』(彰国社、1980年)、『私の住居・論』(丸善、1981年)、『オフィスルネサンス インテリジェントビルを超えて』(彰国社、1986年)『二十二世紀を設計する』(彰国社、1994年)、『建築家林昌二毒本』(新建築社、2004年)、『林昌二の仕事』(新建築社、2008年)などがあり、主要作品は『空間と技術 日建設計・林グループの軌跡』(鹿島出版会、1972年)などにも収録されている。
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没年月日:2010/08/20 読み:おおたかまさと 建築家の大高正人は、8月20日午後6時35分、老衰のため死去した。享年86。1923(大正12)年9月8日、福島県田村郡三春町に生まれる。44年旧制浦和高等学校を卒業後、東京大学工学部建築学科に入学。47年に卒業後、同大学院に進み、49年修了。同年に前川國男建築設計事務所入所。62年に独立して大高建築設計事務所を設立、同代表取締役。81年から1991(平成3)年まで計画連合代表取締役。60年に東京で開催された世界デザイン会議に向けて川添登を中心に結成された「メタボリズム・グループ」に参加、59年に発表した「海上帯状都市」などの提案を行った。日本建築学会都市計画委員会に62年に設置された人工土地部会での検討にも参加し、その成果は、大高の設計により68年に第1期工事が竣工した「坂出人工土地」として結実した。コンクリートの人工地盤を設けて下部を駐車場と商店街などに利用し、上部に住宅団地とオフィス、歩行者空間を設けるというこの再開発計画は、戦後日本が直面していた都市の諸問題を解決する画期的手法として67年に日本都市計画学会石川賞を受賞した。その後も、原爆によって生じた木造スラムの再開発計画である「広島市基町・長寿園高層アパート」(1972~76年竣工)の設計を手掛け、ここでも人工地盤や屋上庭園といった計画手法や建設コスト削減のための工夫を試みている。これらの実験的計画は結局、経済効率の悪さや法制度との不整合などから一般解とはなりえなかったものの、メタボリズムの建築家たちによる都市計画的提案の大半が構想のみに終わった中で大高の計画が長年をかけて実現に漕ぎつけたことは、その地道な問題解決能力のなせる技であっただろう。一方、単体の建築作品としては公共建築を得意とし、千葉県文化会館(1968年、日本建築学会(作品)賞)や栃木県議会議事堂(1969年、芸術選奨文部大臣賞)、群馬県立歴史博物館(1980年、毎日芸術賞)をはじめとする数多くの建物を設計した。その活動には、他のメタボリストのような派手さこそなかったが、大高の作品から、「坂出人工土地」のほか、「千葉県立中央図書館」(1968年)、「花泉農協会館」(1965年)の計3件が、代表的な現存の近代建築として日本におけるDOCOMOMO150選に選出されていることが示すように、戦後日本の一時代を画した建築家の一人ということができる。中央建築審査会委員(1974~82年)、建築審議会委員(1975~93年)、日本建築学会理事(1976~77年)、都市計画委員会委員長(1980~82年)、日本建築士会連合会副会長(1988~98年)等を歴任。上記以外の主な受賞歴等として、88年紫綬褒章。2000年日本建築学会名誉会員。03年日本建築家協会名誉会員。同年旭日中授章受章など。著作に、川添登と共編による『メタボリズムとメタボリストたち』(美術出版社、2005年)がある。
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没年月日:2010/08/09 読み:たなかふみお 大工棟梁として活躍してきた田中文男は肺癌のため8月9日死去した。享年78。1932(昭和7)年千葉県に生まれ、46年尋常小学校高等科を卒業し、千葉県で大工棟梁に弟子入り、53年年季奉公を終えて上京し、重要文化財根津神社修理工事の現場で働く。早稲田大学工業高等学校(定時制)で学びながら、奈良県今井町や秋山郷、滋賀県湖北地方の民家調査に参加。太田博太郎や大河直躬など建築史研究者の活動に協力する。58年に田中工務店、次いで62年に株式会社真木建設設立。以後文化財建造物の保存修理工事に請負として携わる。71年重要文化財旧花野井家住宅解体移築修理工事、79年東京都指定有形文化財法明寺鬼子母神堂保存修理工事、82年重要文化財泉福寺薬師堂保存修理工事、83年東京都指定有形文化財武蔵御嶽神社旧本殿保存修理工事など多数の文化財建造物の保存修理工事に功績を残す。一方で工務店経営の傍ら82年には宮沢智士らと「普請帳研究会」を発足させ、建築生産や技術についての調査研究を進め、季刊の機関誌「普請研究」を10年40号にわたって発行した。「普請研究」は技術の実務と学問を橋渡しする田中の姿勢を体現し、建築史研究の深化発展に寄与するとともに多くの技術者や研究者の発表の場となり、後進の育成の場ともなった。1991(平成3)年には建築施工の実務を後進に譲り、有限会社真木設立。佐賀県吉野ヶ里遺跡の北内郭の復元設計などに携わり、95年財団法人国際技能工芸振興財団設立発起人、96年専門学校富山国際職藝学院オーバーマイスター就任、ベトナム・フエ明命帝陵修復プロジェクト現地指導。業績は文化財に止まらず、現代建築の施工にも足跡を残した。初期には60年宮脇檀設計による銀座帝人メンズショップの店舗改装や66年同設計者によるVANジャケット石津謙介の別荘「もうびぃでぃっく」の施工、その後は自身の考案による校倉構法や文化財修理の経験を生かした民家型構法の開発による高品質住宅の提案を行った。一般には肩書きを宮大工と呼ばれることが多く、実際に社寺建築を多く手がけていたが、興味や能力はそこに止まらず、プロデューサー、コーディネーターとして非凡な才能を発揮した。実務を通して培った幅広い知識と理論に裏打ちされた交友関係は分野を越え、建築史研究者、文化財関係者から建築家、ファッションデザイナー、林業家まで非常に幅広かった。豪放磊落さと人を気遣う細心さを併せ持つ希有の人物であった。
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没年月日:2010/03/27 読み:こばやしあきお 屋根瓦の製作者であり、国の選定保存技術保持者であった小林章男は、膀胱癌のため奈良市の病院で3月27日死去した。享年88。1921(大正10)年12月7日、江戸時代文政年間からつづく瓦匠、屋号「瓦宇」(かわらう)の当主の長男として奈良県奈良市に生まれる。1938(昭和13)年、家業の瓦製造業に就き、以後数多くの国宝、重要文化財等に指定された建造物の屋根瓦の製造及び修理事業に携わる。81年、奈良県瓦葺高等職業訓練学校(奈良県天理市)校長に就任、88年まで務める。82年、「現代の名工」として労働大臣表彰を受ける。84年、株式会社瓦宇工業所代表取締役に就任。同年、「鬼瓦づくり」で第4回伝統文化ポーラ賞(ポーラ伝統文化振興財団)の特賞を受賞。88年、国宝「法隆寺五重塔」をはじめとして、本瓦葺の建造物の修理で捕捉される役瓦(巴瓦、鬼瓦、鯱、鴟尾等)の製作技術が高く評価され、「屋根瓦製作(鬼師)」として国の選定保存技術保持者に認定される。1991(平成3)年、瓦職人の集まりである「日本鬼師の会」の会長に就任(95年まで)。同年、日本伝統瓦技術保存会の設立にあたり会長となる(97年まで)。また勲六等瑞宝章を受章。2002年、株式会社瓦宇工業所の会長に就任。代表的な仕事としては、昭和の東大寺大仏殿の瓦葺替工事を棟梁として成し遂げた。ほかに古建築瓦葺替工事は、近畿、中国、四国を中心に全国に及んでいる。この間、古代、中世から近世にわたるまで、瓦の様式、製法等を、全国にわたる調査と製作という実践を通じて蓄積された経験、技術、知見は、建築史、歴史考古学等の学界に多大に寄与した。また、多くの著作を残しており、主要な著作は下記のとおりである。『対談・鬼瓦その他』(大蔵経済出版、1980年)、『鬼瓦』(大蔵経済出版、1981年)、中村光行共著『鬼・鬼瓦(INAX BOOKLET)』(INAX、1982年)、『生きている鬼瓦』(石州瓦販売協業組合、1985年)、『獅子口を探る』(小林章男、1995年)、山田脩二共著『瓦―歴史とデザイン』(淡交社、2001年)、日本鬼師の会、京都府大江町共編『鬼瓦(棟端飾瓦)造り 鬼瓦読本』(日本鬼師の会、2004年)。なお、『史迹と美術』(史迹美術同攷会)における連載「鬼瓦百選」(第1回は721号)は、生前に原稿がすべて準備されていたため、同誌820号(2011年12月)において100回をもって完結した。
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没年月日:2007/10/12 読み:くろかわきしょう 建築家の黒川紀章は10月12日午前8時42分、東京女子医科大学病院にて心不全のため死去した。享年73。1934(昭和9)年、愛知県名古屋市に生まれる。53年東海高校卒業後、京都大学工学部建築学科に進学。57年に卒業後、東京大学大学院に進み、64年同博士課程単位取得退学。在学中の62年に株式会社黒川紀章建築都市設計事務所を設立、死去まで同社代表取締役。東大大学院では磯崎新らとともに丹下健三研究室に所属し、この時期からスケールの大きい都市計画構想を発表し始める。とくに、世界デザイン会議が60年に東京で開催されるにあたり、その企画に関わった他の若手建築家らとともに結成したメタボリズム・グループによる『METABOLISM/1960―都市への提案』で、建築界の枠を超えて注目を集めた。「メタボリズム」とは新陳代謝を意味し、高度成長期の激変する社会状況を受けて、その変化に有機的に対応しうる都市と建築の在り方を提唱しようとする建築運動であった。黒川は、菊竹清訓と並んで、この思想を最も直截的に具現化した建築作品を設計した。工場生産された交換可能なユニットが縦動線や設備を収納したコンクリートシャフトに挿し込まれた中銀カプセルタワービル(1972年)がその代表例である。丹下の全体構想のもと、黒川たち門下生が多くのパビリオン設計を担った70年の大阪万博を最後に、このような未来志向的な巨大都市構想は現実社会から受け入れられずに終わるが、近代主義の超克はその後も黒川の問題意識の核心にあり、「共生の思想」と言葉を変えて、社会に向け発信され続けた。持続的発展の必要性が共通認識となった昨今、彼らの運動の先駆性を再評価する動きもみられる。黒川紀章は、ある時代において日本人に最も知られた建築家であった。女優若尾文子との再婚など、華やかな「建築家」のイメージがメディアを通じて流布され、日本におけるこの職能の認知に果たした役割は大きい。その一方で、保守政治との接近なども手伝って、プロフェッショナルな建築界からは厳しい評価を浴びることも多く、むしろ海外での評価が高かった。手掛けた建築作品は数多いが、一貫して大規模な公共施設を得意とした。80年代からは、広島市現代美術館(1990年、日本建築学会作品賞)、奈良市写真美術館(1992年、日本芸術院賞)など、博物館や美術館を次々と設計している。また、90年代からは海外プロジェクトに積極的に参画し、クアラルンプール新国際空港(1998年)やゴッホ美術館新館(アムステルダム、1999年)など単体の建築にとどまらず、国際コンペで優勝したカザフスタンの新首都計画や中国広州市の珠江口地区都市計画など、若き日に実現できなかった壮大な都市構想を追い求め続けた感がある。上記以外の主な受賞歴に、86年フランス建築アカデミーゴールドメダル、1989(平成元)年フランス芸術文化勲章など。98年日本芸術院会員、2006年文化功労者。また、英国王立建築家協会国際フェロー、米国建築家協会名誉会員など、諸外国からの顕彰も多い。『都市デザイン』(紀伊国屋書店、1965年)、『メタボリズムの発想』(白馬出版、1972年)、『共生の思想』(徳間書店、1987年)、『建築論Ⅰ・Ⅱ』(鹿島出版会、1985・90年)、『新・共生の思想』(徳間書店、1996年)など、著作多数。
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没年月日:2006/07/15 読み:しのはらかずお 建築家の篠原一男は7月15日午後1時13分、神奈川県川崎市の病院で死去した。享年81。篠原一男は、1925(大正14)年4月2日静岡県に生まれた。1947(昭和22)年東京物理学校を卒業後、東北大学数学科を経て東京工業大学建築学科入学。53年卒業後、同大図学助手。62年東京工業大学助教授。67年「日本建築の空間構成の研究」にて工学博士。70年東京工業大学教授。84年イェール大学客員教授、86年東京工業大学定年退官、同名誉教授、ウィーン工科大学客員教授。同年篠原アトリエ設立。1995(平成7)年より99年まで神奈川大学大学院特任教授。建築を学んだ東工大では若き清家清に師事し、卒業後まもなくから日本の伝統建築の空間性を近代的表現に転化した住宅作品の設計を手がけた。同時に、早い時期から「住宅は芸術である」などの言説を通じても注目を集め、建築は社会的要請に応えるべきものであるとの当時の建築界の支配的風潮に真っ向から挑んだ。54年の久我山の家に始まる住宅作品は、62年から傘の家、66年白の家といった日本建築の伝統を明瞭に感じさせる作風から、70年未完の家、71年直方体の森、73年東玉川の住宅等を経て、76年上原通りの住宅に代表される幾何学形態をもつ抽象空間へと突き進み、84年ハウス・イン・ヨコハマに見られる前衛的表現に至る。一貫して架構システムを建築表現の中心に据えるとともに、はじめ数学者を志した経歴もあり、作品からは幾何学への強い志向が感じられる。住宅以外の作品としては82年日本浮世絵博物館、87年東京工業大学百年記念館、90年熊本北警察署等があるが、いずれも幾何学的形態操作と大胆な構造による外観が強い印象を与える。60年代以来、「プログレッシヴ・アナーキィ」や「ランダム・ノイズ」といった概念を打ち出しながら日本の都市を語るとともに、自らの作品群を「非統一的構造体」と命名したが、東京工業大学百年記念館はその集大成と言える。自ら言う「即物的な結合」から生み出された造形は、そのあまりのインパクトの強さから賛否両論を呼んだが、80年代を代表する建築の一つとなった。また、東工大篠原研究室からは多くの現代建築家が輩出しており、「シノハラ・スクール」として知られる。88年アメリカ建築家協会名誉会員(HFAIA)。72年「「未完の家」以後の一連の住宅」にて日本建築学会賞(作品賞)。89年「東京工業大学百年記念館」にて芸術選奨文部大臣賞。90年紫綬褒章。97年毎日芸術賞特別賞。2000年勲三等旭日中綬章。05年日本建築学会大賞。著書に、『住宅建築』(紀伊国屋書店、1964年)、『住宅論』(鹿島出版会、1970年)、『超大数集合都市へ』(A.D.A Edita Tokyo、2001年)、『篠原一男経由 東京発東京論』(鹿島出版会、2001年)など。
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