本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





横山不学

没年月日:1989/03/01

東京文化会館などの設計にたずさわった構造設計家横山不学は、3月1日午前5時14分、肺炎のため東京都新宿区の東京厚生年金病院で死去した。享年86。明治35(1902)年5月22日、東京都文京区に生まれ、昭和3(1928)年3月、東京大学工学部建築学科を卒業。同年4月より13年5月まで日本銀行臨時建築部技師、13年5月より17年6月まで東京市建築部技師、17年6月より20年11月まで内閣技術院参技官をつとめる。戦後は20年11月より23年3月まで戦災復興院計画局技官、のち特許標準局(23年3~8月)、工業技術庁(23年8月~25年1月)を経て、同25年1月に独立し、横山建築構造設計事務所を開設し、その所長となった。東京大学での同級生であった前川国男と組み、東京文化会館、東京海上火災本社ビル、東京都美術館、熊本県立美術館、国立西洋美術館、山梨県立美術館などの構造設計を担当したほか、町田市立国際版画美術館、水戸芸術館の設計にもたずさわった。この間、昭和36年「建築構造設計技術の推進」によって日本建築学会賞受賞。著書に『建築構造設計論:理念の追求と展開』(昭和54年)、『建築構造設計論:世界のランドマークを求めて』(同56年)、『遥かなる身と心の遍歴を求めて』(同57年)などがある。公共建築、特に美術館などの文化事業を目的とする建築の設計に多く参画した。晩年は絵画に興味を抱き、竹林会等に出品している。時に暁と号した。

竹原竹次郎

没年月日:1988/11/05

文化財建造物保存技師竹原竹次郎は、11月5日午後9時15分、肺こうそくのため神奈川県相模原市の北里大学病院で死去した。享年76。大正元(1912)年10月15日富山県に生まれる。昭和6年3月私立帝国工業教育会建築科通信教育課程を修了後、宮大工松井角平に師事。伝統的な社寺建築技術と修理技術を学ぶ。昭和17年株式会社飛島組に勤務し、木造建築の設計施工に携わる。18年海軍施設部に入隊、22年5月復員後、再び宮大工の仕事に戻り、同年6月富山県高瀬神社の増改築を行なう。26年兵庫県斑鳩寺三重塔の保存修理工事に修理助手として携わって以降、同じく修理助手として28年富山県護国八幡宮本殿、29年石川県妙成寺開山堂の保存修理工事を行なう。続いて同29年鹿児島県八幡神社本殿の保存修理工事に工事主任としてあたり、30年から始まった日光二社一寺の昭和大修理では、56年3月まで20数年間にわたって工事主任として工事を指揮。まず30年輪王寺本堂の保存修理工事から始め、36年本地堂調査設計工事、38年同本地堂保存修理工事、以後42年経蔵、鼓楼、鐘楼、五重塔、附鐘舎、上社務所の調査設計工事を経て、44年二荒山神社中宮祠本殿、拝殿、46年経蔵、鼓楼、48年鐘楼、50年五重塔、52年附鐘舎、53年上社務所の保存修理工事をそれぞれ行なった。この間、42年財団法人日光社寺文化財保存会技師となり、56年工事終了まで後継者養成のための技術者講習会の講師として後進の育成にあたっている。57年1月には、財団法人文化財建造物保存技術協会嘱託となった。57年1月以降は、同年1月千葉県新勝寺三重塔、9月竜正院本堂、10月神奈川県関家住宅などの保存修理に工事監督としてあたった。53年6月文化庁創設10周年記念功労者として表彰された。

朝吹四郎

没年月日:1988/09/18

日本建築家協会会員の建築家朝吹四郎は、9月18日午前8時26分、心不全のため東京都新宿区の慶応病院で死去した。享年72。大正4(1915)年10月26日、東京都築地明石町に生まれる。慶応義塾幼稚舎を経て同普通部を昭和8年に卒業。英国に渡り13年ケンブリッジ大学を卒業し建築学士の称号を得る。24年朝吹設計事務所を開設。32年日本建築家協会会員となる。フィンランド大使館のほかビルマ、ベルギー、インド、マレーシア、カンボジア、ニュージーランド等各国の大使館を設計したほか、石橋記念館、ブリヂストン芝浦ビル、富士急ハイランド・リゾート、富士急富士宮ビル等の公共建築、ブリヂストン三河台社宅、三菱銀行賢島荘など公共住宅建築の設計を多く担当する。35年ベルギー国よりシュバリエ・ド・ロルドル・ド・ラ・クーロンヌ勲章を、41年にはカンボジア国よりオフィシエ・ソワタラ勲章を受章する。

村田豊

没年月日:1988/02/10

空気膜構造建築の第一人者として知られる建築家村田豊は2月10日午後6時58分、心不全のため東京都千代田区の半蔵門病院で死去した。享年70。大正6(1917)年11月16日新潟市に生まれる。昭和16(1941)年東京美術学校建築科を卒業し、同年坂倉準三建築研究所に入る。32年坂倉建築研究所を退き、フランス政府招聘技術留学生としてパリに留学、ウージェーヌ・ボードワン、ル・コルビュジェに師事。34年に帰国し、同年村田豊建築事務所を開設する。42年万博本部ビル、45年万博フジグループ・パビリオン及び電力館水上劇場を管圧式空気構造で設計、建設し、45年「管圧式空気構造建築技術の開発」により科学技術庁長官賞を受賞する。46年国際空間構造学会議議長をつとめ、国際会議での講演などでも活躍する。56年神戸ポートピア呼芙蓉グループ・パビリオン、62年国際蘭博覧会の為のパビリオンなど、多くのパビリオン建築のほか、公共のスポーツ・娯楽施設を主に制作した。

辻本喜次

没年月日:1987/05/23

建築文化財の修理を手がけた辻本喜次は、5月23日午前3時7分、肺炎のため和歌山県伊都郡の高野山病院で死去した。享年73。大正2年和歌山県に生まれる。真言宗総本山のある高野山を中心に活躍した宮大工として知られ、新築、あるいは再建した建物として、英霊殿、御供所、阿字観道場、記念灯篭堂、孔雀堂、東塔などがある。記念灯篭堂、孔雀堂、東塔などは、59年春に営まれた弘法大師入定1150年御遠忌法会の記念事業として建立されたもので、宮大工の棟梁としてこれにあたった。再建された東塔は、その代表建築として知られている。

今井兼次

没年月日:1987/05/20

日本芸術院会員、早稲田大学名誉教授、日本建築学会名誉会員の建築家今井兼次は、5月20日午後7時43分、急性心不全のため東京都清瀬市の慈生会ベトレヘムの園病院で死去した。享年92。明治28(1895)年1月11日東京市赤坂区に生まれ、同41年青山尋常小学校高等科1年修了。大正2(1913)年日本中学校を卒業し、同8年早稲田大学理工学科建築科を卒業して同科の助手となり翌年助教授に昇任。10年国民美術協会建築部会員となる。13年建築団体「メテウォール」を結成。14年早稲田大学図書館の設計に当たる。翌15年早稲田大学留学生としてソビエトを経て欧米へ渡り近代建築を視察するとともに、13年に依嘱された東京地下鉄道の設置に関する調査を行ない昭和2(1927)年帰国。同年東京地下鉄道浅草-上野駅舎を制作する。同3年帝国美術学校の設立に尽力し、また、ル・コルビジェ、アントニオ・ガウディ、サアリネンなど海外における建築の趨勢について日本建築学会に発表し、我国で初めてこれらの作家を紹介。そののちも同4年近代建築写真展を紀伊国屋で開催し、8年には朝日新聞社で欧州新建築展を開くなど西欧建築の新潮流へと目を開かせた。根津美術館、碌山美術館などを手がけ、34年には千葉県大多喜町役場の設計により日本建築学会賞、37年には長崎の日本26聖人殉教記念館により再度同賞受賞。41年皇后陛下還暦記念ホール桃革楽堂により日本芸術院賞を受け、52年近代建築のヒューマニゼイションによる建築界への貢献に対し日本建築学会大賞が贈られた。53年日本芸術院会員となる。この間、常に母校にあって教鞭をとり、昭和12年教授、40年名誉教授となる。41年より57年まで関東学院大学教授をつとめた。著書も多く『建築とヒューマニティ』(28年)、『芸術家の倫理』(33年)、『現代日本建築家全集5』(46年)、『近代建築の目撃者』(52年)などがあり、芸術としての建築に関する言論活動を展開した。

前川國男

没年月日:1986/06/26

日本建築学会名誉会員、元日本建築家協会会長で日本の近代建築の第一者であった前川國男は、6月26日午前9時50分、心不全のため東京港区の虎の門病院で死去した。享年81。明治38(1905)年5月14日、新潟市に生まれ、昭和3(1928)年東京帝国大学工学部建築学科を卒業。同年4月フランスに渡りパリのル・コルビュジェ建築事務所に入り近代建築を学ぶ。同5年帰国し、東京レーモンド建築事務所に入る。同10年前川國男建築設計事務所を設立して独立。公共建築の分野で近代建築運動を展開し、戦後は31年のブリュッセル万国博日本館、36年の東京文化会館の設計のほか、国際文化会館、京都会館、慶応大学病院、東京海上ビル、熊本県立美術館、福岡市美術館、東京都美術館、山梨県立美術館、国立西洋美術館新館、宮城県美術館などを設計し、28年を皮切りに30、31、36、37、41年の6回にわたり日本建築学会賞を受賞。この間の34年より37年まで日本建築家協会会長をつとめた。37年朝日文化賞、38年国際建築家協会オーギュスト・ペレー賞と受賞を続け、43年「近代建築の発展への貢献」により日本建築学会大賞を受ける。埼玉県立博物館の建築では閑静な樹林の中に劇的な空間を創出したとして高く評価され、46年度第13回毎日芸術賞、48年度日本芸術院賞を受賞、49年、東京海上火災本社ビルの設計に際し皇居前の美観論争をくりひろげて話題となった。自然や人間と調和する建築をめざし、建築材料にも工夫をこらし、タイルで外装した多くの公共建築を手がけた。61年の国立国会図書館増築が最後の仕事となった。

竹原吉助

没年月日:1986/06/23

寺社建築の修理の名工として知られた竹原吉助は、6月23日午前11時40分、消化管出血のため大阪府富田林市の富田林病院で死去した。享年93。明治27年長野県に生まれる。宮大工の工匠に師事し、大工道具の曲尺を使い微妙な曲線を再現しながら寺院や神社の設計図を自在に引く古式規矩術を学ぶ。明治40年、14歳の時より数多くの文化財の修理に携わり、長野県善光寺本堂の修理をはじめとして、法隆寺東大門、同寺五重塔、住吉大社本殿(いずれも国宝)など、百棟以上の建造物の解体修理を手がけた。昭和51年文化庁が初めて行なった選定保存技術の選定に際しては、有形文化財等関係の規矩術(古式規矩)の保持者として全国第1号の選定保存技術保持者に選ばれた。また、大阪府文化財保護審議会委員もつとめていた。

西澤文隆

没年月日:1986/04/16

ホテル・パシフィック東京などで知られる建築家西澤文隆は、4月16日午前9時58分、心不全のため大阪府豊中市の国立刀根山病院で死去した。享年71。大正4(1915)年2月7日、滋賀県愛知郡に生まれ、昭和11年第三高等学校を卒業。同15年東京帝国大学建築科を卒業して坂倉準三建築研究所に入る。同18年フィリピンに渡り、戦後の21年坂倉準三建築研究所に復帰する。42年大阪府青少年野外活動センターの設計により日本建築学会賞受賞、44年11月、坂倉準三死去に伴い坂倉建築研究所を改めて開設しその代表取締役となる。60年6月「神宮前の家(白倉邸)」ほか一連の住宅建築により59年度日本芸術院賞受賞。日本建築学会、日本建築家協会のほか大阪府建築士会、アシカビ会(伊丹市を研究しよくする会)にも所属して活躍し、49年大阪府知事賞、59年伊丹市民文化賞を受賞する。代表作には、他に、前橋市庁舎、円形舞台で知られる兵庫県芦屋市のルナ・ホールなどがあり、著書に『西澤文隆小論集1~4』(昭和49~51)、『伝統の合理主義』(56年)、『家家』(59年)、『西澤文隆の仕事』(63年)がある。

村田治郎

没年月日:1985/09/22

財団法人建築研究協会理事長、京都大学名誉教授で東洋建築史学の第一人者村田治郎は、9月22日午前9時50分、脳動脈硬化症のため京都市北区の富田病院で死去した。享年90。明治28(1895)年9月23日山口県大島郡に生まれる。兵庫県立第一神戸中学校、第一高等学校を経て、大正12年京都帝国大学工学部建築学科を卒業。1年間の兵役の後、翌13年南満州鉄道株式会社に入社、南満州工業専門学校教授を命ぜられ、大連市に赴任する。同地滞在中、満州鉄道沿線各地の回教寺院を調査し、昭和5年「満州における回教寺院建築史の研究」を発表。また同4年より11年まで満州の廟、仏塔、陵、宮殿なども幅広く調査し、6年「東洋建築史系統史論」を著し、同論文により7年工学博士の学位を取得する。11年会社より欧米各国の建築歴史、工業教育の調査を命ぜられ、1年間出張。翌12年4月京都帝国大学工学部講師を嘱託され、満州鉄道を退社、京都に移る。同年8月同教授となり、13年より15年まで毎年中国河北省、山西省、山東省に出張調査、16年「支那建築の研究」により建築学会より学術賞を受賞する。18年北京郊外の居庸関雲台保存のための現地調査隊隊長となり、2週間にわたった調査。戦後その資料の整理が進められ、30年、32年の2度にわたって『居庸関』本文編、図版編全2冊を京都大学工学部より出版。その事業の業績に対して、33年日本建築学会より学会賞、34年日本学士院より日本学士院賞が贈られた。この間、中国建築に対する造詣をまとめた大系的著作『東洋建築学』(建築学大系4)を32年に刊行。また日中間の建築文化交流に対する視点から、21年「支那建築史より見たる法隆寺系建築様式の年代」(『宝雲』)を発表、その後も法隆寺に強い関心を持って研究を続け、24年『法隆寺の研究史』、35年『法隆寺』(野上照夫と共著)、40年「二つの法隆寺様式論」、43年「法隆寺創立の研究史」、23年より43年まで前後4編にわたる玉虫厨子に関する論文を著している。また建築の文化財保存にも尽力し、25年に制定施行された文化財保護法下で文化財専門審議会専門委員、25年から31年までの宇治平等院鳳凰堂解体修理の修理委員会修理委員長、47年桂離宮御殿整備工事のため組織された桂離宮整備懇談会座長などをつとめている。滋賀県(32年)、兵庫県・京都府(39年)などの文化専門委員もつとめたほか、28年日本建築学会副会長、33年京都大学退職に伴ない同大名誉教授、37年国立明石工業高等専門学校初代校長、43年日本建築学会名誉会員、58年京都府文化特別功労者となる。没時、京都府文化財保護審議会会長、京都市文化財保護審議会会長、京都市埋蔵文化財研究所理事長、財団法人建築学研究協会理事長、御所離宮懇談会委員、法隆寺文化財保存協議会協議員、東寺奉讃会理事などをつとめていた。

村野藤吾

没年月日:1984/11/26

日本芸術院会員、日本建築家協会終身会員、日本建築学会名誉会員の建築家村野藤吾は、11月26日心筋こうそくのため兵庫県宝塚市の自宅で死去した。享年93。本名藤吉。建築界の重鎮で文化勲章受章者の村野は、明治24(1891)年5月15日佐賀県唐津市で生まれ、その後福岡県八幡市で育った。大正7(1918)年早稲田大学理工学部建築科を卒業し、同年大阪の渡辺節建築事務所に入りアメリカ風の建築実務を仕込まれ、大阪商船神戸支店、大阪ビルディング本店などの設計に参加した。昭和4年独立し村野建築事務所(同24年村野、森建築事務所と改称)を開設、大阪・そごう百貨店、宇部市民会館などを設計し戦前から既に建築界に不動の地位を築いていた。戦後は同28年の広島・世界平和記念聖堂で注目され、名古屋・丸栄百貨店(同29年)、日本生命日比谷ビル(同38年)で建築学会賞を受賞した。また、同28年には日本芸術院賞を受け、同30年日本芸術院会員となり、同42年文化勲章を受章する。その後も箱根樹木園休息所(同47年、建築学会建築大賞)、迎賓館改装(同49年)、日本興業銀行本店(同50年、第16回BCS賞)、小山敬三美術館(同52年、毎日芸術賞)ほか創造力豊かな建築を次々に手がけ、同57年に完成した新高輪プリンスホテルは生涯の総決算的な仕事となった。戦前の折衷主義から近代主義、ポスト・モダンへと旺盛で意欲的な作風は止まるところを知らなかつたが、一貫して現実主義者の姿勢を貫ぬき、その名声は晩年に至って一層高まった感があった。同48年早稲田大学より名誉博士の称号を授与されたのをはじめ、米国建築家協会、英国王立建築学会の各名誉会員でもあった。

福田朝生

没年月日:1984/10/18

日本建築協会会長、双星設計社長の福田朝生は、10月18日午前2時30分、肝臓ガンのため兵庫県西宮市の県立西宮病院で死去した。享年67。大正6(1917)年4月29日、京城に生まれる。昭和15(1940)年3月、京都帝国大学工学部建築学科を卒業し、同年4月より同大工学部講師をつとめる。同年12月より同22年3月まで応召。同年9月京都工業専門学校講師となり、同24年5月、同校教授となる。同24年7月、学制改革により京都工芸繊維大学講師となり、同26年同校助教授となって建築計画を講ずる。同31年3月、同校を退職し、双星社竹腰建築事務所(現称双星設計)に入り、同41年4月より同事務所社長をつとめる。昭和36年の大阪市立中央図書館、同45年万国博お祭り広場大屋根(共同設計)、同53年姫路聖マリヤ病院、同56年箕面市立病院、同57年金蘭会学園千里短大・中学・高校校舎、同58年石川県立中央病院などを手がけたほか、日本建築協会会長、日本建築家協会理事、日本建築学会評議員、大阪府建築士会理事をつとめ、日本の建築学の向上にも寄与した。

堀口捨己

没年月日:1984/08/18

元明治大学教授で日本芸術院賞、日本建築学会賞などを受賞した建築家堀口捨己は1984年8月18日に享年89で死去していたことが、平成7年1月28日に行われた「生誕100年記念シンポジウム」で報告された。本人の意志と家族の意向により死去は11年間公表されず、シンポジウムを機会に弁護士が戸籍を調べて明らかになった。茶室の研究と設計で知られた堀口は明治28(1895)年、1月6日に岐阜県本巣郡席田村上ノ保に生まれた。岐阜中学校、第六高等学校を経て、東京帝国大学工学部建築科を卒業した。大正8(1919)年9月に中国を訪れる。同9年、西欧の新しい建築運動を学んで同志とともに「分離派建築会」を結成。同12年渡欧し、フランス、オランダ、イギリス、ドイツ、オーストリア、チェコ、ハンガリーなどを訪れ、イタリアに同13年まで滞在した。帰国後は日本の伝統建築の研究に向かい、書院造り、数寄屋建築、茶室などを対象に調査し論考を行い、また名古屋市の旅館、「八勝館、御幸の間」を同25年に設計するなど、設計、建築にも当たった。同年6年より同8年まで帝国美術学校教授、同年16年より同21年まで東京女子高等師範学校講師をつとめ、同31年に明治大学工学部建築科教授となったほか東京大学工学部講師として教鞭を執った。日本建築学会のほか関連団体に多数参加し、日本茶道文化研究会理事、日本庭園協会理事、日本陶磁協会理事、文化財保護委員会専門委員などをつとめた。歌人として皇居歌会始めの召人をつとめたこともあり、文筆にも優れ、同24年『利休の茶室』で北村透谷文学賞、同28年『桂離宮』で毎日出版文化賞を受賞した。他の主要な著書に『現代オランダ建築』『住宅ト庭園』『利休の茶』などがあり、建築の代表作には大島測候所、サンパウロ日本館などがある。

松本才治

没年月日:1984/08/01

文化財建造物修理技術者、元奈良県文化財保存事務所主任技師の松本才治は、8月1日午後6時30分、肺しゅようのため京都府相楽の精華病院で死去した。享年86。明治31(1898)年3月10日、京都府相楽郡に生まれる。京都工業高校を中退後、大正11(1922)年、奈良県教育課社寺係古社寺修理技師となり、昭和12(1937)年法隆寺五重塔解体修理、同28年長谷寺五重塔新築にたずさわったほか、金峯山寺蔵王堂、文殊院白山堂、談山神社権殿、石上神宮拝殿、法隆寺夢殿、当麻寺本堂、長弓寺本堂、興福寺北円堂、岡寺仁王門などの修理、室生寺仁王門の新築等、多くの古社寺の修理、保存に尽力した。同40年黄綬褒賞、同43年勲五等瑞宝章を受章。

白井晟一

没年月日:1983/11/22

深い思索に裏付けられた独自の様式をうちたてた建築界の巨匠白井晟一は、11月22日午後11時、脳内血シュのため、京都市東山区の京都第一赤十字病院で死去した。享年78。明治38(1905)年2月5日京都市に生まれ、青山学院中学を経て京都高等工芸学校を卒業。22才でドイツへ留学し、ハイデルベルク大学、ベルリン大学で哲学、美術史を学ぶ。ハイデルベルク大ではヤスパースに師事。帰国後の昭和10年ころから建築設計を始め、独学。処女作河村邸をはじめ、歓喜荘などドイツ住宅の伝統をひく住宅建築を戦前には多く手がける。戦後は同36年第4回高村光太郎賞を受けた東京浅草の善照寺ほか群馬県松井田町役場、秋田県雄勝町役場など公共施設の建築設計をよくし、佐世保の親和銀行本店では西欧のロマネスク建築を思わせる安定した量感の中に高い精神性を盛りこみ、同43年日本建築学会賞、翌44年毎日芸術賞、同55年日本芸術院賞をうけた。この様式は、建築物の機能と周囲の景観に適応しつつ、単なる様式上の西欧の模倣や、機能のみを重視する方向を否定する形で展開し、若い建築家たちに強い刺激と影響を与えた。晩年の代表作には、同55年の東京都渋谷区松涛美術館、同56年の芹沢銈介美術館がある。書もよくし、顧之昏元と号して『顧之居書帖』を出版している。

大竹康市

没年月日:1983/11/20

象設計集団代表のひとりであった建築家大竹康市は11月20日、サッカー試合中にクモ膜下出血で倒れ急逝した。享年45。同年同月初め死去した建築家渡辺洋治は大竹の長兄にあたる。昭和13(1938)年5月2日宮城県仙台市に生まれる。同37年東北大学工学部建築学科を卒業し早稲田大学理工学部建築学科大学院に入学、吉阪隆正に師事する。同39年同科を修了した工学修士となり、U研究室に勤務する。同年一級建築士の資格を取得。同47年、富田玲子、樋口裕康らと株式会社象設計集団を設立し代表取締役に就任する。ル・コルビジェのモダニズムに第三世界の視点を加えた吉阪の思想を受け継ぎ、主に沖縄を舞台に前衛的な活動を展開、同47年象グループを結成する(同53年Team Zooと改称)。同51年今帰仁村公民館で芸術選奨文部大臣賞新人賞、同年沖縄県北部のムラづくりマチづくり計画で日本都市計画学会賞、名護市庁舎で同54年全国公開設計競技第一位、同56年日本建築学会賞を受賞する。また、同53年アメリカの10都市で開催された「日本建築の新しい波展」、同56年デンマークで開かれた「ポストモダニズム展」に出品。同46年から早稲田大学専門学校講師をつとめていた。建築だけでなく、環境を考慮した地域計画をも国内外で手がけ、幅広く活動する。中、高、大学でサッカー部キャプテンをつとめるほどのサッカー愛好家であった。

渡辺洋治

没年月日:1983/11/02

渡辺建築事務所所長の建築家渡辺洋治は、11月2日午前9時18分、クモ膜下出血のため、東京都千代田区の日大駿河台病院で死去した。享年60。大正13(1924)年6月14日、新潟県直江津市に生れる。昭和16年同県立高田工業学校を卒業し、22年まで日本ステンレス株式会社に勤務、同19年より船舶兵として従軍する。同22年久米建築事務所へ移り、同30年より33年まで早稲田大学理工学部建築学科吉阪(隆正)研究室助手を務め、同33年渡辺建築事務所を開設する。この間同27年、一級建築士の資格を取得。同34年より没年まで早稲田大学講師を務めた。代表作には糸魚川市善導寺をはじめ常識破りの鉄の造形で国際的にも注目された東京新宿の第3スカイビル、龍の砦などがあり、最高裁判所庁舎設計コンペで第2位(優秀賞)、万国博覧会本部ビル設計コンペで第2位、北海道百年記念塔競技設計で佳作を受賞している。「反乱を試みる異色の建築家」と呼ばれた。

森田慶一

没年月日:1983/02/13

京都大学名誉教授、東海大学工学部教授の森田慶一は2月13日早朝死去した。享年97。明治28(1895)年4月18日三重県に生まれる。県立三重第一中学校、第三高等学校を経て、大正9年東京帝国大学工学部を卒業、同年、芸術革新運動を唱う分離派建築会に参加する。同10年内務大臣官房都市計画課に入り、翌年京都帝国大学助教授となり建築材料学、設計製図の指導にあたる。昭和3年「月刊建築学研究」に「ヴィトルヴィウスの10のカテゴリーに対するヨルレスの説」を発表し、ウィトル=ウィウスを紹介するとともに建築論の礎を築く。同9年工学博士となり京都帝国大学教授に昇格、同33年退官し名誉教授となるまで長く同大で後進の育成に尽くし、同38年から54年までは東海大学工学部教授として教鞭をとる。同49年日本建築学会大賞を受賞。『ウィトル=ウィウス建築書』の日本語訳、『西洋建築史概説』『建築論』他の著書があり、京都大学の農学部正門と楽友会館の設計を手がけている。

山下寿郎

没年月日:1983/02/02

工学博士、日本建築士事務所協会連合会名誉会長の建築家山下寿郎は、2月2日午後2時45分、肺炎のため、東京都文京区の自宅で死去した。享年94。明治21(1888)年4月2日、山形県米沢市に生まれる。同45年東京帝国大学工科大学建築学科を卒業。同年三菱合資会社技師となり、芝浦製作所、三井合名会社の建築事務嘱託を経て昭和3年山下寿郎建築事務所を創立。同23年株式会社山下寿郎設計事務所に組織変更し同社長となり、同34年取締役会長となる。同49年同事務所を株式会社山下設計に再び組織変更し同最高顧問となり、同56年同名誉顧問となった。この間、大正6年アメリカ、カナダに渡り、同39、42年欧米を、同46年オーストラリアを、翌年アメリカを訪れる。また、東大工学部(1920~48年)、秋田鉱山専門学校(1925~27年)で講師として教鞭をとる。同26年一級建築士、同39年工学博士となる。通産省日本工業標準調査会委員、建設省中央建築士審議会委員、日本建築設計監理協会々長、日本建築士会連合会理事をつとめ、日本建築学会名誉会員となる。同47年勲三等旭日中綬章受章。代表作には宮城県民会館、両羽銀行千葉寮(以上1964年、日本科学防火協会優秀防火建築賞)、東北学院大学七北田学生寮(1967年、同賞)、仙台市庁舎(1967年、建築業協会賞)、日本初の超高層霞ケ関ビル(1969年、同賞及び日本建築学会賞)、岡山市庁舎(1970年、建築業協会賞)、高槻市庁舎(1972年、同賞)、NHK放送センター(1972年)などがある。また、『報酬加算式建築施工契約制度』(1966年、彰国社)を著している

江国正義

没年月日:1982/05/22

元横浜国立大学学長、同大名誉教授の建築家江国正義は、5月22日午前9時51分、肝臓ガンのため東京都武蔵野市の武蔵野日赤病院で死去した。享年88。1894(明治27)年3月24日、岡山市に生まれる。1919年東京帝国大学建築学科を卒業し、20年同科助教授となる。27年田中正義建築事務所を開設して独立し、東京・服部時計店本店、九段会館等の設計を担当する。戦後は事務所を閉鎖し、49年横浜国立大学の発足に際し同大建築科教授となり、工学部長を経て53年同大学長に就任する。59年学長を退任し、同大名誉教授となる。退官後、国建築事務所を自営。構造設計を専門とし、『建築構造基準』『鉄筋コンクリート経済設計法』などの著書がある。法政大学、帝国ホテル新館、神奈川県立博物館、神奈川県立婦人総合センター等の設計を手がけた。

to page top