大谷幸夫

没年月日:2013/01/02
分野:, (建)
読み:おおたにさちお

 建築家で東京大学名誉教授の大谷幸夫は、1月2日午後0時10分、肺炎のため東京都内の自宅で死去した。享年88。
 1924(大正13)年2月20日、東京市赤坂区(現、東京都港区)に生まれる。東京帝国大学第一工学部建築学科を1946(昭和21)年に卒業後、同大学院特別研究生として丹下健三研究室に所属、51年満期退学後も60年まで同研究室にて研修。56~64年東京大学工学部建築学科非常勤講師、64年から同都市工学科助教授、71~84年同教授。83年から千葉大学工学部建築学科教授を兼任、1989(平成元)年同定年退官。この間、61年に設計連合を設立、67年大谷研究室を発足し、その代表として設計活動を行った。
 丹下研究室に所属した15年の間に、広島平和記念公園及び記念館(1955年竣工)、旧東京都庁舎(1957年竣工)など、丹下健三の初期の代表作品にコンペ段階から実施設計・監理までを通じて携わり、その右腕として大きな役割を果たした。
 独立後間もない63年に設計競技で最優秀賞を獲得した国立京都国際会館(1966年第Ⅰ期竣工)では、日本の文化的伝統と現代建築としての国際性の共存、あるいは自然との関係から導き出される建築形態、といった構想のもと、印象深い造形意匠と機能配置の合理性を見事に両立させてみせた。また、その後の四期にわたる増築過程(1971~2001年)をも通じて、基本単位としての建築が集まることで総体としての都市を構成するという大谷の方法論を実践する場となり、2003年には日本におけるDOCOMOMO100選にも選定されている。
 大谷は都市計画家としても数多くのプロジェクトを手掛けたが、川崎市河原町高層公営住宅団地(1972年第Ⅰ期竣工)に見られるように、市民が主体として参画できる都市のあり方を模索すると同時に、課題設定から導かれる必然的形態への指向が顕著であったといえる。このため、沖縄コンベンションセンター(1987年)や、歴史的建造物を内包する千葉市美術館・中央区役所(1995年)のように、時にかなり癖の強い形態意匠も含めて作風の幅が広いことも大谷の特徴である。
 56年に「五期会」を結成して建築設計組織の変革を主張し、のちには「都市政策を考える会」の代表として政策提言を行うなど、社会との関わりにおいても活発に発言・行動した。83年には「金沢工業大学北校地の一連の作品」で日本建築学会(作品)賞を受賞、97年には「建築と都市の総合的把握に基づく一連の設計活動・社会的活動・建築教育における功績」で日本建築学会大賞を受賞した。
 文化財保護審議会専門委員会委員(1974~80年)、厚生省生活環境審議会委員(1978~86年)、建設省建築審議会委員(1981~87年)、日本建築学会理事(1970~72年)、同都市計画委員会委員長(1975~80年)、日本建築家協会理事(1971~76、1984~86年)、日本都市計画学会評議委員(1978~84年)等を歴任。
 上記以外の主な受賞歴等として、2001年勲三等瑞宝章受章、2002年日本建築家協会名誉会員など。主な著作に、『空地の思想』(北斗出版、1979年)、『大谷幸夫建築・都市論集』(勁草書房、1986年)などがあり、代表的設計作品は『都市的なるものへ―大谷幸夫作品集』(建築資料研究社、2006年)に収録されている。

出 典:『日本美術年鑑』平成26年版(447頁)
登録日:2016年09月05日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「大谷幸夫」『日本美術年鑑』平成26年版(447頁)
例)「大谷幸夫 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/236733.html(閲覧日 2024-03-29)

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