本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





清家清

没年月日:2005/04/08

読み:せいけきよし  建築家の清家清は4月8日午前10時、肺炎のため東京都大田区の病院で死去した。享年86。清家清は、1918(大正7)年京都市に生まれた。大阪を経て23年父清家正の神戸高等学校教授就任により神戸に移転、25年神戸市立須磨尋常小学校入学。1931(昭和6)年兵庫県立神戸第二中学校入学。36年東京美術学校建築科入学。40年東京外国語学校速成科(伊語)修了。41年東京美術学校卒業、府立高等工業学校講師(43年まで)、東京工業大学建築学科入学。42年アテネフランセ初等科修了。43年東京工業大学卒業、海軍に入る。青島方面特別根拠地隊、海軍施設本部、舞鶴海軍施設部、海軍機関学校(海軍兵学校舞鶴分校)を経て終戦を迎える。終戦時は海軍技術大尉。45年東京工業専門学校講師(~48年)。46年都立工業専門学校講師(~47年)、東京工業大学助手。47年東京工業大学講師、48年同建築材料研究所助教授、50年同建築学科助教授、62年住宅平面の規模についての建築計画的研究で工学博士、東京工業大学教授、74年同工学部長、77年東京藝術大学美術学部に配置換え、79年東京工業大学定年退官、名誉教授。80年東京藝術大学美術学部長、84年放送大学客員教授(~92年)、86年東京藝術大学定年退官、名誉教授。87年デザインシステム設立。札幌市立高等専門学校の設立に尽力し、1991(平成3)年に校長就任(~97年)。作品は住宅を中心とする。障子や畳など和風の要素を用い、日本の伝統建築が持つ線と面のコンポジションの美しさを現代住宅に表現した軽快な作品で知られる。日本の伝統をモダニズムに見事に融合した住宅作家として、戦後日本の現代住宅デザインをリードした。51年森博士の家、52年斎藤助教授の家、53年宮城教授の家、54年私の家、数学者の家。54年これら一連の住宅により日本建築学会作品賞受賞。同年来日した建築家グロピウスが斎藤助教授の家他を見学、その招きで55年渡米、欧州を回って帰国。同年、近年の日本住宅の建築設計により芸術選奨文部大臣賞受賞。その他の主な作品、受賞に60年九州工業大学記念講堂、61年東京国際見本市鉄鋼特設館、62年埼玉農林会館、小原流家元会館(74年神戸市建築文化賞)、島沢先生の家、64年東京オリンピック村メインゲート、久が原の家、66年乃村工藝社東京社屋、黄金の国舞台装置、70年日本万国博覧会国連館ほか、続私の家、東が丘の家、代々木の家、続久が原の家(77年吉田五十八賞)、71年オーストラリア政府文化賞、駒込の家、75年静清総合卸センター組合会館、77年伊豆・三津シーパラダイス(78年沼津市建築賞、79年BCS賞)、82年軽井沢プリンスホテル、89年倅の家、93年八景島シーパラダイス、94年札幌市立高等専門学校など。83年 紫綬褒章。89年勲二等瑞寶章。81~82年日本建築学会会長。89~93年東京建築士会会長。91年日本建築学会大賞、デザイン功労者。著書に、『家相の科学 建築学が発見したその真理』(光文社、1969年)、『日本の木組』(淡交社、1979年)、『やすらぎの住居学 100の発想』(情報センター出版局、1984年)など。 

丹下健三

没年月日:2005/03/22

読み:たんげけんぞう  建築家の丹下健三は3月22日午前2時、心不全のため東京都港区の自宅で死去した。享年91。ケンゾウ・タンゲとして日本のみならず世界でもトップクラスの建築家・都市計画家として知られた丹下健三は、1913(大正2)年大阪府堺市に生まれた。父親の転勤に伴って生後まもなく中国に移り、漢口を経て上海へ、20年上海日本人尋常小学校2年生の時に父親の出身地愛媛県今治市へ戻り、26年旧制今治中学入学、30年旧制広島高等学校理科甲類に進学。この旧制広島高校時代に芸術雑誌でみたフランス人建築家の巨匠ル・コルビジェの作品に感動したことが建築家を志すきっかけとなった。1935(昭和10)年東京帝国大学工学部建築学科入学、38年卒業、前川国男建築事務所に入る。41年東京帝国大学大学院入学、46年大学院修了、同年東京帝国大学工学部建築学科助教授。59年工学博士。大学院在学中の42年に大東亜建設記念営造計画コンペ、翌43年に在盤谷日本文化会館計画コンペで続けて一等入選。さらに49年広島市主催の広島平和記念公園コンペでも一等入選(55年完成)。51年ロンドンで開催された第8回CIAM(国際近代建築会議)に招待されて広島の計画を発表、日本を代表する建築家として海外でも知られるようになった。52年東京都庁舎コンペ一等入選(57年完成)、57年倉吉市庁舎、58年香川県庁舎、60年倉敷市庁舎。柱と梁、庇と縁の直線の構成から生まれる美、伊勢神宮や桂離宮などに代表される日本の伝統建築の美しさと力強さをモダニズムに融合させた斬新なデザインを次々と発表し、モダニズムを主導した欧米の建築界でも高い評価を受けてその一翼を担い、戦後日本の建築家の国際社会での地位確保に貢献した。関心は個別の建築デザインに止まらず、都市計画にも及んだ。61年1月「東京計画1960」発表。都市を有機体と考え、東京湾を横断する都市軸上に線上に発展する開いた都市を構想した。機能的アプローチから構造的アプローチへの転換であったと語る。61年丹下健三・都市建築設計研究所開設。64年東京大学工学部都市工学科新設、教授就任。64年東京オリンピック開催、代表作となる代々木の国立屋内総合競技場が完成した。吊り構造という新しい構造形式を採用し、構造力学者坪井善勝の協力を得て生み出された画期的で象徴的な造形の建築は世界の注目を集めた。この頃のテーマは「空間と象徴」であり、同様な造形美を誇る東京カテドラル聖マリア大聖堂、香川県立体育館が同じ年に完成している。67年山梨文化会館では、東京計画1960で試みた構造的アプローチを単体の建築で実現させて、有機的に成長する建築を提案した。70年日本万国博覧会会場マスタープランを手がけて、名実ともに日本の戦後復興と高度経済成長時代を支えた建築家となった。海外では、66年ユーゴスラビア・スコピエ都市再建震計画競技設計一等入選、その後、世界各地で数多くの建築・都市計画を手がける。主なものに、ネパール・ルンビニ釈尊生誕地聖域計画(69年~)、伊ボローニャ・フィエラ地区センター計画(71年~)、アルジェリア・オラン総合大学計画(71年~)、クウェート国際空港(79年)、伊ナポリ新都心計画(80年~)、ナイジェリア新首都都心計画(81年~)、シリア・ダマスカス国民宮殿(81年)、サウジアラビア王国国家宮殿・国王宮殿、同キングファイサル財団本部(82年)、シンガポール、マレーシアでの一連の作品などがある。また最近の作品としては、1991(平成3)年東京都新庁舎、96年フジテレビ本社ビル、05年癌研究会有明病院などが知られ、最後まで建築界に刺戟を与え続けた。74年東京大学定年退官、名誉教授。79年文化功労者。80年文化勲章。94年勲一等瑞宝章。海外では、76年西独プール・ル・メリット勲章、77年フランス国家功労勲章コマンドール、78年メキシコアギラ・アステカ勲章、79年イタリア国家有功勲章コメンダトーレ、83年フランス芸術アカデミー会員、ペルー太陽勲章グラン・オフィシェル、84年イタリア国家有功勲章グラン・オフィシェル、フランス文化芸術勲章コマンドール、89年イタリアサボイア文化勲章、96年フランスレジオン・ドヌール勲章コマンドールなど。また世界中の大学から多くの名誉博士号を受けた。62年ドイツ・シュツットガルト工科大学名誉工学博士、64年イタリア・ミラノ工科大学名誉建築学博士、70年イギリス・シェフィールド大学名誉文学博士、71年アメリカ・ハーバード大学名誉芸術博士、78年アルゼンチン・ベェノスアイレス大学名誉教授、97年中国・清華大学名誉教授、など。 

芦原義信

没年月日:2003/09/24

読み:あしはらよしのぶ  建築家で、文化勲章受章者の芦原義信は、大腸がんのため東京都新宿区の病院で死去した。享年85。1918(大正7)年、東京に生まれる。自身の述懐によれば、両親とも軍医の家系ながら、叔父に藤田嗣治、遠縁に小山内薫、兄は後に音楽舞踏評論家となる芦原英了がおり、芸術への関心がはやくからあったという。1942(昭和17)年、東京帝国大学工学部建築学科を卒業、同年、海軍技術士官として入隊。45年、復員後坂倉準三建築事務所、現代建築研究所等に勤務する。52年米国政府留学生として渡米、イエール大学の講習の後、ハーバード大学デザイン学部大学院に入学。53年同大学院を卒業後、ニューヨークのマルセル・ブロイヤー事務所に入所した。54年、帰国後中央公論ビルを設計、同年法政大学工学部講師となる(59年に同大学教授となる)。60年、中央公論ビルの設計に対して昭和34年度日本建築学会賞受賞。65年、駒沢公園(東京都世田谷区)オリンピック体育館及び管制塔の設計に対して、日本建築学会特別賞、第6回建築業協会賞を受賞、同年法政大学を辞任し、武蔵野美術大学教授建築科主任となる。66年、東京銀座のソニービルを設計、戦後の東京のシンボルとなった。68年、モントリオール日本館の設計に対して、昭和42年度芸術選奨文部大臣賞受賞。70年、東京大学教授となる。79年、『街並みの美学』(岩波書店)を刊行、毎日出版文化賞を受賞。84年、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の設計に対して、日本芸術院賞を受賞。88年、日本芸術院会員となる。日本建築家協会、日本建築学会の会長を歴任。1998(平成10)年、文化勲章受章。モダニズム建築として注目されたが、そればかりではなく単体としての建築ではなく、都市と建築、内部と外部のつながり、そうした関心は、「街並みの美学」として結晶した。それに基づく提言は、日本における町づくり、町の景観への配慮という社会的、行政的な課題としても注目された。

大森健二

没年月日:2000/04/22

読み:おおもりけんじ  建築家で工学博士の大森健二は4月22日午後10時、肺炎のため京都市の病院にて死去した。享年77。1923(大正12)年4月18日、京都市に生まれる。1949(昭和24)年、京都帝国大学工学部建築学科を卒業して京都府教育委員会国宝保存課に勤務し、大報恩寺本堂や平等院鳳凰堂の修理などを手がけた。56年の滋賀県教育委員会社会教育課をへて61年から京都府教育委員会文化財保護課に勤務、園城寺勧学院客殿や八坂神社本殿など、滋賀県および京都府下の数々の国宝・重要文化財建築の修理を担当した。62年、学位論文「中世建築における構造と技術の発達について」を京都大学に提出し、工学博士号を授与される。65年からは建築研究協会日本建築研究室に勤務し、その常務理事を兼ねる。68年に日本建築学会賞(論文)を、77年に密教学会賞(業績)をそれぞれ受賞している。実証的調査に基づいて建築技法を綿密に分析する研究手法は、中世建築史研究を大きく前進させただけでなく、現在でもひとつの模範とされているところである。また、中世建築技法への深い造詣を活かして、平安神宮社殿(79年)、延暦寺東塔(80年)、新勝寺大塔(84年)、湯島神社社殿(95年)などの設計を担当したことでも知られている。主著に『社寺建築の技術-中世を中心とした歴史・技法・意匠-』(理工学社 98年)がある。著作目録は『建築史学』35号(建築史学会 2000年9月)に掲載されているので、参照されたい。

平島二郎

没年月日:1998/10/20

読み:ひらしまじろう  建築家の平島二郎は10月20日午後11時15分、胸部大動脈瘤破裂のため東京都千代田区の病院で死去した。享年69。昭和4(1929)年6月22日、東京都港区高輪南町に生まれる。同17年森村学園初等科を卒業し、同年麻布中学校に移ったが、同19年に成城学園に転じる。同25年東京芸術大学美術学部建築科に入学。一方で在学中に俳優座養成所舞台技術講習生となり舞台美術コースを同29年卒業、俳優座劇場舞台美術製作所に在籍する。同29年東京芸術大学を卒業するが、卒業設計には当時まだ知る人の少なかったシェル構造を選ぶ。シェル構造からスペインのトローハの作品に注目、さらにヨーロッパとアラブ世界の交流史に興味を持ち、また日本と世界の住宅の歴史を精査、自身の建築設計に独自の風土論を実現することとなる。同29年山脇巌の自邸内の研究室に入室し、バウハウスに留学した山脇夫妻のもと、グロピウス展の展示計画にも加わった。同30年、朝吹四朗建築事務所に就職。同36年スペイン政府名誉留学生に合格、スペイン国立マドリード大学トローハ研究室と、サン・フェルナンド美術学校に一カ年在籍。その間のヨーロッパ各地、また船旅の往路途次ではアジア各地を、帰国時に南米各地、北米合衆国を、建築、とくに住宅について視察した。同38年建築事務所開設。同年母校の講師として同43年まで在職、東京芸術大学図書館ほかの設計に加わった。同41年文部省委託のカッパドキア中世遺跡調査に従事。主な作品にはクレッセント・ハウス(同43年)、奥志賀高原ホテル(同44年)、那須御用邸基本設計(同49年)、葉山御用邸(同53年)、赤坂御用地内東宮仮御所(同57年)。平成10年の遠藤周作文学館の基本設計が遺作となった。著書に『世界建築史の旅』(美術出版社 昭和42年)。

西岡常一

没年月日:1995/04/11

読み:にしおかつねかず  文化功労者で、文化財選定保存技術保持者の宮大工棟梁西岡常ーは、4月11日午前5時55分、前立腺がんのため奈良県生駒郡三郷町の奈良県立三室病院で死去した。享年86。明治41(1908)年9月4目、法隆寺棟梁西岡常吉の孫として、父楢光、母つぎとの聞に生まれた。大正14(1924)年、生駒農学校を卒業、祖父を師に大工見習となる。兵役の後、昭和6(1931)年に橿原神宮拝殿新築工事で父の代理棟梁をつとめた。同年、法隆寺西室修理工事で大工をつとめ、また法隆寺五重塔十分の一の学術模型を制作(東京国立博物館蔵)。同8年、法隆寺昭和大修理のための修理設計実測にあたり、翌年東院礼堂解体修理で初めて棟梁となった。同18年、五重塔の解体調査にあたり、ひきつづき解体部材の復元につとめた。同24年法隆寺金堂全焼にあたり、下層を新材で、上層を解体により難を免れた古材で復元するにあたり、その棟梁をつとめた。同42から50年まで、落雷により焼失していた法輪寺三重塔の再建にあたった。また同45年からは、薬師寺にまねかれ、同寺の伽藍を創建当時の姿に復興する事業に参加、東塔を参考にしながら西塔を復元、またあらたに三蔵院建立にたずさわった。同49年には、父子で吉川英治文化賞を受賞。同52年には、文化財選定保存技術保持者に指定され、平成4(1992)年には、文化功労者に選ばれた。法隆寺に伝わる飛鳥時代の木匠の技を継承する「最後の宮大工」といわれた。

圓堂政嘉

没年月日:1994/09/29

読み:えんどうまさよし  元日本建築家協会会員の建築家圓堂政嘉は平成6年2月より療養中の米国ニューヨーク市ニューヨークホスピタル、コーネルメディカルセンターで、現地時間の9月28日午後9時35分(日本時間29日午前10時35分)、心不全のため死去した。享年73。大正9(1920)年11月30日横浜市南太田町に生まれる。父遠藤政直は工学博士で横浜高等工業高校教授をつとめた。昭和2(1927)年私立精華小学校に入学。同8年県立横浜第一中学校に入学し同13年に卒業する。同15年早稲田大学高等学院に入学。応召の後同20年9月早稲田大学第一理工学部建築学科を卒業する。同21年村野藤吾建築事務所に入学。同24年同事務所を退き、同27年11月圓堂建築設計事務所を設立する。同37年圓堂政嘉と改名。同40年岩手県花巻の「信松園」の設計で建築業協会賞、同41年4月京王百貨店を含む業績一般に対して芸術選奨文部大臣賞を受賞。同5月下関の山口銀行本店で日本建築学会賞を受賞する。同43年より同50年まで日本建築家協会理事をつとめる。同53年西武春日井ショッピングセンターにより商業空間デザイン特別賞受賞。同55年東京大手町の大洋漁業本社により建築業協会賞を受賞する。同55年より57年まで再び日本建築家協会理事、同57年より61年まで同協会会長をつとめる。同62年、長年にわたる日米聞の建築における諸問題解決に対する貢献により、AIA(アメリカ建築家協会)名誉会員となる。同63年東京の広尾ガーデンヒルズにより建築業協会賞、同年岩手県の盛岡市先人文化記念館により同賞を受賞した。平成3(1991)年ニューヨーク市シーグラムビルにニューヨーク事務所を開き、東京とニューヨークを往復しつつ活動を続けたが、同5年末より体調を崩し、同6年2月よりニューヨークで療養中であった。

西山夘三

没年月日:1994/04/02

読み:にしやまうぞう  住宅建築界重鎮で歴史的景観保存に住民の立場から発言を続けた京都大学名誉教授の西山夘三は、4月2日午前2時7分、くも膜下出血、脳動脈りゅう破裂のため京都市左京区の京都大学病院で死去した。享年83。明治44(1911)年3月1日、大阪市比華区西九条に生まれる。昭和5(1930)年第三高等学校理科乙類を卒業。同8年京都帝国大学工学部建築学科を卒業し、同16年住宅営団(現在の住宅・都市整備公団)技師となって大衆住宅の研究を進める。同19年京都帝国大学工学部講師、同年9月同校助教授となる。同22年「庶民住宅の研究」で工学博士となる。同36年京都大学工学部教授となった。同41年『住み方の記』(文芸春秋社刊)で日本エッセイストクラブ賞受賞。「庶民住宅の研究」で同44年度日本建築学会賞受賞。同45年大阪万国博覧会では西山教室として会場整備の基本構想、に参加し、「お祭広場」を設計し、同博覧会跡地利用等、地域・都市計画にも参画した。同48年『これからのすまい-住様式の話』で毎日出版文化賞受賞。同49年京都大学を定年退官し、同名誉教授となる。早くから環境破壊を批判し、人間らしい居住空間としての地域・都市づくりを提唱。「住居学・建築計画学・地域計画学の発展に対する貢献」で同61年度日本建築学会大賞を受賞した。平成に入り、JR京都駅付近の再開発、高層計画をめぐって起きた景観論争で、同計画に反対する住民団体の代表として古都景観の保存を訴えていた。著書には他に『西山夘三著作集』全4巻(昭和44年)、『国民住宅論巧』(伊原書店)などがある。

水谷頴介

没年月日:1993/02/04

神戸市の「六甲アイランドCITY」の都市計画等にたずさわった建築家水谷頴介は2月4日午後0時15分、胃ガンのため福岡市中央区の済生会福岡総合病院で死去した。享年57。昭和10(1953)年2月14日、東京都に生まれる。兵庫県立芦屋高校を卒業して神戸大学工学部建築学科に学び、大阪市立大学大学院で工学研究科都市計画を専攻して修士課程を修了した。在学中の昭和31年日本建築学会競技設計で集合住宅が入選。同年尼崎記念館競技設計で第一次入選を果たし頭角をあらわす。同34年久米建築事務所に入る。翌年より同45年まで大阪市立大学工学部助手をつとめ、この間の同40年、鈴蘭台地区開発基本計画によって日本都市計画学会石川賞を受賞した。同45年より同56年まで都市・計画・設計研究所で活躍し、また同47年より61年まで社会システム研究所理事・所長をつとめた。同61年からは株式会社コー・プランの監査役であった。後進の指導にもつくし、同44年より55年まで大阪芸術大学講師、同44年より58年まで九州芸術工科大学講師、同54年より神戸大学講師、平成3年より神戸芸術工科大学講師として教鞭をとった。主要作品としては、都市計画に大阪湾総合開発(同40年)、神戸のアーバンデザイン(同41年)、福岡シーサイドももち市街地計画(同52年~)、都市設計に大阪既製服縫製近代化協同組合枚方工場団地基本計画・設計監理(同36年)、神戸市白川土地区画整理事業基本設計(同41年)、神戸港ポートアイランド基本設計(同45年)、板宿地区未来像計画(同49年)、建築設計に西川造園設計事務所(同40年)、グインホーム(同41年)、太陽工業枚方工場、住宅設計に垂水の家「高田邸」(同49年)、塚口の家「木川田邸」(同51年)等がある。論文、著作も多く、著者には『地域・環境・計画』(SD選書、同47年)、『家家』(共著、学芸出版社 同59年)がある。ルイス・カーン、村野藤吾を高く評価し、都市と自然、文化伝統などに配慮した都市計画・設計を特色とした。

森京介

没年月日:1992/06/10

茨城県歴史館等の建築設計を手がけた建築家森京介は6月10日午後5時38分、肺炎のため東京都新宿区の慶応大学病院で死去した。享年66。大正14(1925)年7月3日、東京都新宿区で生まれる。外交官であった父新一の任地仏領インドシナの幼年時代を過ごし、昭和18(1943)年東京市立第一中学校を卒業。同22年旧制水戸高等学校を卒業し、同24年には旧制成城高等学校を卒業した。その後東京工業大学に入り建築学科に学んで同28年に卒業。同年山田守建築事務所に入る。同31年同社を退社し、翌32年に森京介建築設計事務所を設立。同年東京荻窪東宝劇場等の建築設計にあたり、同36年後楽園箱根ロッジ、同38年東京オリンピック軽井沢総合馬術競技場の建築に従事した。同38年森京介建築設計事務所を株式会社森京介建築事務所に改める。同40年熱海後楽園、同46年茨城県歴史館、同54年栃木厚生年金休暇センター、琉球大学教養学部、同55年持田製薬名古屋支店、同60年清川カントリークラブ、61年札幌勤労者職業福祉センター、平成2年西那須野町庁舎、同3年KKR HOTEL OSAKA等を手がけ、昭和57年長年の功績に対し日本建築士会会長賞を贈られた。晩年、洋画家伊藤清永と出会ったのが契機となり、少年期に志しながら遠ざかっていた洋画家への夢を捨てがたく、洋画を描き始め、昭和60年第61回白日会展に「花のある空間」で初入選、同62年第63回展に「光の中の娘」を出品して会友に推され、平成2年第66回展に「花萌」を出品して白日会準会員に推挙された。日本消防会館、和三紫ビル、吉備高原カントリークラブの壁画も制作。著書に『商業建築企画設計資料集』『ホテル業の現状と将来』などがある。

木島安史

没年月日:1992/04/27

千葉大学工学部教授の建築家木島安史は4月27日午後0時24分、心不全のため東京都新宿区の社会保険中央総合病院で死去した。享年54。昭和12(1937)年5月9日、現在の朝鮮民主主義人民共和国黄海南道海州市に生まれる。同31年東京教育大学付属高校を卒業。同37年早稲田大学第一理工学部建築学科を卒業し、同年インド・チャン・ディガール市大学設計事務所を経てスペイン・マドリッド市アントニオ・ラメラ建築事務所につとめる。この間同年9月よりスペイン・マドリッド高等工業エドアルド・トロハ研究所に留学。同41年早稲田大学大学院理工学研究科修士課程を修了して、丹下健三都市・建築設計研究所に入る。翌42年エチオピア・アジスアベバ市ハイレセラシェ1世大学講師となる。同45年芝浦工業大学非常勤講師となり、翌46年YAS都市研究所を設立するが、同年より熊本大学工学部助教授となり、同研究所を退く。同57年熊本大学工学部教授、平成3年千葉大学工学部教授となった。この間、昭和46年ザ・デザインハウス・蓼科、同49年ザ・デザインハウス・松下、同50年上無田神社公民館、同55年熊本市白川公園久世寿等の建築設計を行ない、同59年球磨村森林組合球泉洞森林館の建築では同年の日本建築学会賞を受賞。同63年瀬戸大橋記念博覧会空海ドーム、同64年アジア太平洋博覧会九州電力館等パヴィリオン建築をも手がけ、平成元年熊本県立東稜高校の建築により村野藤吾賞を受けた。また没後の同5年、小国町西里小学校によりくまもと景観賞、第7回いらか賞を受けている。

星野昌一

没年月日:1991/11/24

東京大学名誉教授の建築家星野昌一は、11月24日午後2時30分、肺炎のため東京都港区の赤坂病院で死去した。享年83。明治41(1908)年5月20日、京都府舞鶴に生まれる。昭和6(1931)年、東京帝国大学工学部建築学科を卒業して同科助手となる。同13年同助教授、同17年同教授となり、同44年停年退官するまで長きにわたり、後進の指導にあたった。同44年より61年までは東京理科大学教授として教鞭を取る一方、同44年に設立した星野研究室一級建築士事務所代表取締役として活躍。千葉県庁舎(昭和36年)、千葉市役所(同37年)、松阪市庁舎(同44年)、オリンピック記念青少年センター体育館(同46年)、安田火災本社ビル(同51年)、同社大阪ビル(同57年)、同社千里ビル(同60年)、同社北海道ビル(同62年)、東京工芸大学(平成2年)等、公共建築を多く手がけ、機能と美観を融合させた新たな方向を示した。

浅野清

没年月日:1991/08/19

法隆寺昭和大修理に参加したことで知られ、元興寺文化財研究所長をつとめた建築学者浅野清は、8月19日午前10時55分、多臓器不全のため、愛知県瀬戸市陶生病院で死去した。享年86。明治38(1905)年、名古屋市に生まれ、大正15(1926)年名古屋高等工業学校建築科を卒業。昭和9(1934)年、法隆寺国宝保存工事事務所技手となり、法隆寺建築物の復元、修理に尽力する。同20年、同事務所所長、同23年国立博物館奈良分館勤務となり、同27年より奈良学芸大学助教授と奈良国立文化財研究所研究員を併任した。同28年奈良学芸大学教授、同31年大阪市立大学教授、同43年大阪工業大学教授、同48年愛知工業大学教授として、古建築の復原調査・研究を後進に指導。同57年元興寺文化財研究所所長兼副理事長、平成2(1990)年同理事長兼所長となった。この間、昭和26年に「上代建築の復原的研究」で日本建築学会賞受賞、同27年「奈良時代を中心とする日本建築遺構の復原的研究」で京都大学より工学博士の学位を受ける。また、同60年には「建築遺構ならびに遺跡にたいする実証的研究方法の確立と復原研究による日本建築史学および関連史学への貢献」で日本建築学会大賞を受賞。社寺建築のみならず、民家研究でも知られ、著書に『奈良時代建築の研究』(中央公論美術出版、昭和44年)、『法隆寺の建築』(同、同59年)、『大阪府の民家』1~3(大阪府文化財調査報告、大阪府教育委員会)などがある。その業績、著作については「建築史学」18号(平成2年3月)、『浅野清著作目録作品集』(近畿大学理工学部建築学科建築史研究室・愛知工業大学建築学科建築意匠研究室編 昭和60年)、『協会通信 特集号 浅野先生を偲ぶ』(財団法人文化財建造物保存技術協会 平成3年10月)に詳しい。

坪井善勝

没年月日:1990/12/06

東京代々木の国立屋内競技場、東京カテドラル聖マリア大聖堂などの構造設計を担当した東京大学名誉教授の建築学者坪井善勝は、12月6日午前3時15分、呼吸不全のため東京都新宿区の東京医科大付属病院で死去した。享年83。建築構造学の世界的権威として知られた坪井は明治40(1907)年5月27日、東京都渋谷区に生まれた。昭和7(1932)年東京大学工学部建築学科を卒業。同12年九州大学工学部講師、同15年同助教授となり、同17年東京大学教授となって、同43年定年退官するまで長く教鞭をとった。この間、同34年東京国際貿易センター2号館を設計してその後世界的に普及することとなる鉄骨ラチスシェル式の構造の作例を示したほか、同39年東京カテドラル聖マリア大聖堂、国立屋内競技場などの構造設計を担当。同43年東大名誉教授となるとともに日本大学教授、早稲田大学客員教授、足利工業大学顧問教授となった。同49年、清水建設技術顧問、国際シェル構造学会名誉会員、建築工学研究会理事長となり、同55年株式会社坪井研究室を設立してその代表取締役となった。同61年構造学会長となり、同62年「曲面構造の研究と大空間建築構造への適用」に対して日本学士院賞が贈られた。吊り屋根など大空間構造の理論を数理解析、力学的洞察によって形成し、実用面に応用したとされ、同55年大阪で開かれた日本万博お祭り広場の大屋根などの新工夫でも評価されている。現代の公共建築に不可欠な大空間の建築に安全性と品位をそなえた構造設計を示した。

浅田孝

没年月日:1990/12/04

自然と都市の共存を提唱した都市計画家、浅田孝は12月4日午後9時54分、心不全のため東京都渋谷区の都立広尾病院で死去した。享年69。大正10(1921)年3月19日、愛媛県松山市に生まれる。旧制松山高等学校理科甲類を経て、昭和18(1943)年、東京帝国大学工学部を卒業する。戦後、同21年から東京大学大学院で都市計画、地域計画を学び直す一方、丹下健三助教授と協力して丹下研究室を創立する。同26年東京大学大学院特別研究生を終了し、丹下研究室の主任研究員として広島平和記念公園施設、香川県庁舎などの設計監理を担当する。翌27年、早稲田大学講師となる。同31年、日本建築学会南極特別委員会委員兼設計部会主任となり、南極昭和基地のオペレーション計画、携行建物のシステム設計、製作監理などにたずさわる。同34年、世界デザイン会議運営財団を発足させ、翌35年世界デザイン会議を実施、運営する。また、同35年、「こどもの国建設推進委員会」委員となり、「こどもの国」の総括設計者としてその設立に尽力。同36年、地域開発・環境問題の調査研究のため株式会社環境開発センターを設立、主宰し、香川県観光総合開発計画など大規模な地域開発、施設計画等を行なう。同42年、日本都市計画学会より「坂出市人工土地計画の実施」に対して石川賞を贈られる。同47年、通産省・沖縄海洋博覧会「事業企画」「会場計画」委員としてその開催に尽力した。戦後の都市化、地域開発の設計、実施に力を注ぐ一方、文筆による方法論の提起も活発に行ない、昭和30年、『新建築』に「原爆下の戦後10年-日本人の建築と建築家」の特集を組んで戦後復興の方向についての世論を呼びおこし、同39年『都市問題』に「都市と開発のヒューマン・リニューアル」を発表して都市建設のあり方を提言するなど、時代の変化に応じた有効で豊かな都市計画への指針を示し続けた。著書に『天・地・人の諸相をたずねて』(昭和57年)、『地域社会の豊かさを求めて』(共著、同60年)などがある。

天野太郎

没年月日:1990/11/15

東京芸術大学名誉教授の建築設計家天野太郎は、11月15日午前2時37分、心不全のため、神奈川県鎌倉市の聖テレジア病院で死去した。享年72。大正7(1918)年7月27日、広島県呉市に生まれ、昭和20年早稲田大学工学部建築学科を卒業する。同年より同30年まで鹿島建設株式会社設計部に勤務。この間の同24年より26年まで遠藤新建築創作所にも勤務し、同27年フランク・ロイド・ライトのタリヤセン・フェローシップによりタリヤセンに遊学する。同28年、米国を経由して帰国。同30年工学院大学建築学科助教授となる。同34年より37年まで、有限会社天野太郎研究室を設立、運営。同36年中近東工科大学客員教授としてトルコ、アンカラに赴任し、ひき続いて文部省在外研究員として欧州の建築事情を視察した後帰国する。同37年工学院大学を退き東京芸術大学美術学部建築学科助教授となり、同39年より58年まで同教授として教鞭をとった。同58年退官にあたり名誉教授の称号を授与される。フランク・ロイド・ライトの建築理論を日本に紹介し、長く教職にあって後進を指導したほか、昭和38有限会社天野・吉原設計事務所顧問となって、公共建築を中心にその理論の実際例を示した。代表作に新花屋敷ゴルフクラブ、嵐山カントリー・クラブ、東京芸術大学図書館、同絵画科教室、同彫刻陳列館、長野国際会館などがある。著作もよくし、『フランク・ロイド・ライト』(共著)、『建築の発想』(共著)、『日本建築家全集』などを著した。

増澤洵

没年月日:1990/10/12

成城大学新図書館などの設計で知られる増沢建築設計事務所社長の建築家増澤洵は、10月12日午後10時21分、心不全のため、東京都台東区の下谷病院で死去した。享年65。大正14(1925)年5月5日、東京都港区に生まれ、昭和22(1947)年、東京大学工学部建築学科を卒業。卒業後はアントニン・レーモンドに師事して設計の実際を学んだ。戦後間もない資材不足の時期にあって、合板を用い左官手間を省くなど時代に応じた最小限住居の設計、建設を試みるなど積極的な活動を展開。この時期の代表作に原邸がある。同31年増沢建築設計事務所を設立。伊東邸、大下別荘などの個人住宅や、成城学園、沼津市民文化センターなど学校、文化施設を中心に設計し、同53年日本建築学会賞を受賞している。施工主、材料、職人に誠実な建築家として知られ、入札には応じない建築の会を設立するなどして信望を集めた。同39年より40年まで東京大学工学部講師、同45年ハワイ大学客員教授となったほか、同51年より53年まで日本建築家協会理事をつとめた。著書に『体育施設』『集合住宅』などがある。

海老原一郎

没年月日:1990/05/07

憲政記念館や霞が関ビル設立以前には日本で最も高いビルであったディック・ビルの設計で知られる日本芸術院会員の建築家海老原一郎は、5月7日午前10時15分、急性心不全のための東京都品川区の自宅で死去した。享年84。明治38(1905)年8月4日、東京都墨田区に生まれ、大正13(1924)年に東京美術学校建築科に入学。山口文象と知り合い分離派運動に加わる。昭和5(1930)年東京美術学校を卒業して石本建築設計事務所に勤務し始める。同13年海老原建築設計事務所を設立し、同28年それを株式会社に改組してその代表取締役となった。同33年尾崎記念会館(現、憲政記念館)設計競技に応募し、美校時代から持ち続けた前衛的造形思考をモダニスム建築としてあらわして注目され一等に当選する。同46年、尾崎記念館等一連の作品により戦後のモダニズム建築に先鞭をつけた業績を認められ日本芸術院賞を受賞、同51年より55年まで日本建築家協会会長をつとめた。同56年、日本芸術院会員となる。他の代表作に大日本インキ化学総合研究所、川村記念美術館などがあり、晩年には昭和57年より61年まで母校の東京芸術大学で客員教授として教鞭をとり、同58年より全国の建築家、建築学者の組織「核兵器の廃絶を求める建築人の会」代表をつとめるなど、技術面、思想面で後進への指針を示した。

武藤清

没年月日:1989/03/12

日本最初の超高層建築、霞が関ビルを設計し日本の「超高層建築の生みの親」と言われた東大名誉教授の建築家、武藤清は、3月12日午前8時30分、急性心不全のため東京都新宿区の自宅で死去した。享年86。明治36(1903)年1月29日、茨城県取手市に生まれる。大正14(1925)年東京帝国大学工学部建築学科を卒業。同科在学中の大正12年に関東大震災を経験し、耐震建築の研究を始める。昭和10(1935)年東京帝国大学教授となり、さらに本格的に耐震構造や地震工学に取り組み、木造五重塔の耐震性に注目して、地表の震動を建築構造内で吸収する「動的設計法」を打ち立て、また、構造物の振動解析を行なう「耐震計算法」を生み出すなど、地震国日本では不可能とされていた超高層建築を可能とする柔構造理論を打ち立てた。同38年東京大学を退官して同大学名誉教授となり、のち、鹿島建設副社長に就任。同43年には、当初15、6階建てで計画されていた霞が関ビルを36階建てに自ら構造設計し、日本最初の超高層建築を実現させた。のち、新宿三井ビル、世界貿易センタービル、新宿京王プラザホテル、サンシャイン60、赤坂プリンスホテル新館など超高層ビルの構造設計を担当。東京都庁新庁舎の構造設計も手がけた。この間、日本建築学会会長、国際地震工学会会長などをつとめ、昭和39年日本学士院賞恩賜賞受賞、50年日本学士院会員、54年文化功労者となり、58年文化勲章を受けた。日本の伝統建築をもとに、その地理国土に適した新しい構造によって超高層を可能とし、高度経済成長期以降の都市景観を大きく変化させ、また国際的にも、地震多発地域の耐震建築法を提起して、多大な影響をおよぼした。

大江宏

没年月日:1989/03/03

日本芸術員会員、法政大学工学部名誉教授の建築家大江宏は、3月3日午前11時25分、肺炎のため東京都中央区の聖路加国際病院で死去した。享年75。大正2(1913)年6月14日、建築家大江新太郎を父に秋田市に生まれる。昭和13(1938)年、東京帝国大学工学部建築学科を卒業。同15年三菱地所建築部技師となり、21年大江新太郎建築事務所を継承する。同23年法政大学工業専門学校教授、25年法政大学教授となり、28年同大学大学院の設計を行なったのを皮切りに、30年には同大55年館、33年には58年館、37年には62年館と、法政大学ならびにその関係施設の建築設計を行ないインターナショナル・スタイルの一連の作例を発表。43年には、窓により大幅に外光を取り入れた普連土学園、53年には和洋を折衷させた角館伝承館、58年には日本の伝統建築を新しい時代の要請の中で生かした国立能楽堂を設計し、多様な中にも独創的な個性を感じさせる作家とされた。法政大学校舎で昭和33年度日本建築学会賞および34年度文部大臣賞芸術選奨を受け、35年建築業協会賞、49年毎日芸術賞、56年丸亀武道館で日本芸術院賞、60年国立能楽堂で再度建築業協会賞を受賞。同年日本芸術院会員となる。63年日本建築学大賞を受賞。64年の三渓記念館、大塚文庫の設計が最後の仕事となった。著書に『建築を教えるものと学ぶもの』(昭和55年、鹿島出版会)、『新建築学大系・第一巻・建築概論』(同57年、彰国社)、『歴史意匠論』(同59年、南洋堂)などがある。(なお、作品歴、作風については「建築文化」6に詳しい。)

to page top