田中文男

没年月日:2010/08/09
分野:, (建)
読み:たなかふみお

 大工棟梁として活躍してきた田中文男は肺癌のため8月9日死去した。享年78。1932(昭和7)年千葉県に生まれ、46年尋常小学校高等科を卒業し、千葉県で大工棟梁に弟子入り、53年年季奉公を終えて上京し、重要文化財根津神社修理工事の現場で働く。早稲田大学工業高等学校(定時制)で学びながら、奈良県今井町や秋山郷、滋賀県湖北地方の民家調査に参加。太田博太郎大河直躬など建築史研究者の活動に協力する。58年に田中工務店、次いで62年に株式会社真木建設設立。以後文化財建造物の保存修理工事に請負として携わる。71年重要文化財旧花野井家住宅解体移築修理工事、79年東京都指定有形文化財法明寺鬼子母神堂保存修理工事、82年重要文化財泉福寺薬師堂保存修理工事、83年東京都指定有形文化財武蔵御嶽神社旧本殿保存修理工事など多数の文化財建造物の保存修理工事に功績を残す。一方で工務店経営の傍ら82年には宮沢智士らと「普請帳研究会」を発足させ、建築生産や技術についての調査研究を進め、季刊の機関誌「普請研究」を10年40号にわたって発行した。「普請研究」は技術の実務と学問を橋渡しする田中の姿勢を体現し、建築史研究の深化発展に寄与するとともに多くの技術者や研究者の発表の場となり、後進の育成の場ともなった。1991(平成3)年には建築施工の実務を後進に譲り、有限会社真木設立。佐賀県吉野ヶ里遺跡の北内郭の復元設計などに携わり、95年財団法人国際技能工芸振興財団設立発起人、96年専門学校富山国際職藝学院オーバーマイスター就任、ベトナム・フエ明命帝陵修復プロジェクト現地指導。業績は文化財に止まらず、現代建築の施工にも足跡を残した。初期には60年宮脇檀設計による銀座帝人メンズショップの店舗改装や66年同設計者によるVANジャケット石津謙介の別荘「もうびぃでぃっく」の施工、その後は自身の考案による校倉構法や文化財修理の経験を生かした民家型構法の開発による高品質住宅の提案を行った。一般には肩書きを宮大工と呼ばれることが多く、実際に社寺建築を多く手がけていたが、興味や能力はそこに止まらず、プロデューサー、コーディネーターとして非凡な才能を発揮した。実務を通して培った幅広い知識と理論に裏打ちされた交友関係は分野を越え、建築史研究者、文化財関係者から建築家、ファッションデザイナー、林業家まで非常に幅広かった。豪放磊落さと人を気遣う細心さを併せ持つ希有の人物であった。

出 典:『日本美術年鑑』平成23年版(443頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「田中文男」『日本美術年鑑』平成23年版(443頁)
例)「田中文男 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28502.html(閲覧日 2024-04-24)

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