本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,073 件)





服部峻昇

没年月日:2018/07/29

読み:はっとりしゅんしょう、 Hattori, Shunsho※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  漆芸家の服部峻昇(本名・俊夫)は7月29日、肺炎のため死去した。享年75。 1943(昭和18)年1月6日、白生地屋を営む父・正太郎と母・うのの三男として、京都府京都市下京区に生まれる。中学校時代の美術教師の勧めで、58年に京都市立日吉ヶ丘高等学校(現、京都市立銅駝美術工芸高等学校)美術工芸課程漆芸科に入学、同校で指導していた漆芸家の水内杏平、平石晃祥らの指導を受ける。61年の卒業作品である漆パネル「佳人」は教育委員会賞を受賞。同年、京都市内の中村デザインスタジオに入り、65年まで勤務の傍ら作品制作を続ける。62年、第14回京展に漆パネル「おんな」で初入選、以後毎年出品を重ねる。63年、第6回新日展に漆パネル「夜の演奏者」で初入選。64年、第17回京都工芸美術展に初出品、以後毎年出品。同年、現代漆芸研究集団「朱玄会」の会員となり、漆パネル「翔」を出品、以後毎年出品。朱玄会を主宰していた番浦省吾に漆芸を学ぶ。65年、上原清に弟子入りし、蒔絵を学ぶ。69年、第22回京都工芸美術展に「漆卓」を出品、優賞受賞。70年、第22回京展に二曲屏風「花象」で市長賞受賞。またこの年、京都で活動する若手の漆芸家によるグループ「フォルメ」を伊藤祐司、鈴木雅也(三代鈴木表朔)らとともに結成、創立同人となる。「フォルメ」では60年代から70年代にかけて隆盛した前衛美術の影響を受けて、とりわけアクリルやカシュー漆などの新素材を漆芸表現に積極的に取り入れた。78年の解散まで、新たな素材との融合から漆工芸のあり方を模索する意欲的な制作を行う。72年、第4回日展で二曲屏風「陽の芯」で特選受賞。75年、文化庁在外研修員として1年間欧米に留学し、スウェーデンのコンストアカデミーやフランスのS.W.ヘイター氏の版画工房などでエッチングを学ぶ。79年、創立第1回日本新工芸展に二曲屏風「パトラスの月」を出品、審査員を務める。80年頃までの作品は、主に太陽や月などをモチーフに、抽象的かつ幾何学的な心象風景と明快な色彩の対比を特徴とした大型のパネルや屏風などの平面作品を中心とした。帰国後は、ギリシャの港町パトラスで見た月夜を題材にした作品シリーズに着手。この一連の作品は、その後「現代の琳派」と評されるようになる作風へと繋がってゆく転換点となる。82年、京都市芸術新人賞を受賞、また第14回日展で飾棚「潮光空間」が特選受賞。服部は以前から螺鈿を用いていたが、この頃より、南方のメキシコやニュージーランドの海で採れる螺鈿(耀貝)を作品制作の主要な素材として用い始める。耀貝のゆらめくような輝きは、波や光、風の移ろいなどの五感に訴える自然現象を表現する際の手法として生かされた。作品は次第に具象的傾向を強め、四季の草花や鳥などのモチーフに耀貝の光沢を組み合わせた情趣豊かな飾棚や飾箱が制作の中心となる。84年、日本新工芸展で耀貝飾箱「曄光」が日本新工芸会員賞受賞。87年、第40回京都工芸美術展で耀貝飾箱「潮文」が大賞受賞。88年、本名の「俊夫」から「峻昇」に改名する。1992(平成4)年、第4回倫雅美術奨励賞(創作活動部門)を受賞。95年、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世に謁見、漆の典書台を献上。97年、京都府文化賞功労賞受賞。98年、紺綬褒章受章。99年、第12回京都美術文化賞受賞。玉虫採集家との出会いから、緑色に光る玉虫の翅を手に入れ、2004年から作品制作に取り入れる。05年、京都迎賓館主賓室の飾棚「波の燦」および調度品を制作。06年、京都市文化功労者。12年、第22回日工会展で文部科学大臣賞受賞。日展理事、日工会代表、京都府工芸美術作家協会理事などを歴任。京都に受け継がれた漆芸の伝統を受け継ぐとともに、さまざまな種類の螺鈿の光沢、さらに晩年は玉虫ならではの独特のきらめきを新たに組み合わせ、漆芸の素材に由来する光や質感を大胆に対比させた装飾性の高い日本的風景に独自の世界観を示し、その表現を追求した。

中島宏

没年月日:2018/03/07

読み:なかじまひろし、 Nakajima, Hiroshi※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  青磁の美と技術を究めた「中島青磁」「中島ブルー」を確立し、青磁の重要無形文化財保持者であった中島宏は、3月7日肺炎のため死去した。享年76。 1941(昭和16)年10月1日、佐賀県杵島郡西川登村大字小田志字弓野(現、武雄市西川登町弓野)生まれ。磁器の窯元に育ち、古窯跡の調査を通して青磁へ傾倒した。69年第16回日本伝統工芸展に初入選。70年、独立し、弓野古窯跡に半地下式穴窯を築窯。73年には第2回日本陶芸展に初入選。77年第24回日本伝統工芸展で「〓白磁壺」奨励賞受賞、文化庁買い上げとなる。81年、第1回西日本陶芸美術展で「粉青瓷線彫文壺」陶芸大賞(内閣総理大臣賞)受賞。83年日本陶磁協会賞を受賞。「中島青磁」と呼ばれる独創的な作品は高い評価を受け、1990(平成2)年佐賀県重要無形文化財認定。96年にはMOA岡田茂吉賞工芸部門大賞を受賞。2005年、第52回日本伝統工芸展に「青瓷線文平鉢」を出品、NHK会長賞を受賞。06年、第65回西日本文化賞受賞、日本陶磁協会創立60周年記念日本陶磁協会賞金賞受賞。07年、青磁で重要無形文化財保持者の認定を受ける。10年、日本工芸会常任理事参与、12年日本工芸会副理事長就任(―2016年)、旭日小綬章を受章するなど、陶芸界の第一線で活躍した。 10代より、佐賀県、肥前地域の古窯跡を歩き物原(割れた焼き物の捨て場)で青磁の陶片に触れ青磁に魅了された。84年には、中国古陶磁研究者訪中団(日中文化交流協会主催)の一員として各地の古窯跡及び博物館を視察。青銅器の造形に感銘を受ける。翌年日本人として初めて、中国官窯の青磁がつくられた浙江省龍泉古窯跡を訪問し陶片調査を実施。自己の青磁創作への姿勢を強く意識し、唯一無二の「中島青磁」へと昇華。他に陶板作品も手がけ、92年NHK福岡放送センターロビーに青瓷釉彩磁器壁画「躍動する自然」、95年国際医療福祉大学(栃木県)に青磁「四季釉彩」磁器壁画を制作する。 また、陶磁研究家であった小山冨士夫を師と仰ぎ、生涯陶磁器の研究と収集を行う。生誕の地である武雄市弓野地区をはじめ、武雄地域の陶器収集を熱心に行った。江戸時代の佐賀藩武雄領で焼かれた古陶磁を「古武雄」と名付けて再評価を行い、収集した作品約600点を佐賀県立九州陶磁文化館に寄贈した。 80年西日本新聞社『中島宏作陶集』、97年日本経済新聞出版『中島宏作陶集―無窮なる青磁』を刊行。作品集のほか、95年には日本経済新聞社より随筆集『弓野[四季釉彩]陶芸家中島宏の世界』を刊行。

折原久左ヱ門

没年月日:2018/02/01

読み:おりはらきゅうざえもん、 Orihara, Kyuuzaemon※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  金工の造形作家折原久左ヱ門は、2月1日心不全のため死去した。享年86。 1931(昭和6)年7月18日、山形県南村山郡南沼原村(現山形市南沼原)の農家に3男7女10人兄弟の7番目、次男として生まれる。46年、山形師範学校予科(現、山形大学教育学部)に入学するが、51年、同校を中退し東京教育大学に入学する。ここで講師として指導にきていた商工省工芸指導所の職員で、クラフトデザイナー、金工作家であった芳武茂介に鉄板の絞り、鍛金技法を学び、一枚の鋼鈑を叩くことによって複雑な形を作り出すことができる鍛造に魅力を見出すようになる。55年、東京教育大学を卒業し福島大学の助手となり、その翌年第12回日展出品の「鉄花器」が初入選する。58年、北海道学芸大学岩見沢分校の助手として北海道に移り、62年、北海道学芸大学(現、北海道教育大学)函館分校の助教授を経て74年、北海道教育大学の教授となる。折原自身この函館が気に入り、東京という中央志向よりも地方での制作や教育を続けることを志向してこの地に定め、新日展、北海道の全道展を中心に作品を発表する。68年からは日本現代工芸美術展への出品を始め、制作の幅を広めていくようになる。56年の日展初入選の鉄花器から60年代初期の作品は折紙の形を取り入れた直線的に折り曲げた構成、また尖鋭感のある造形であり、60年後半からは扁壷のような円形を基調とした花器なども制作するようになる。しかし、長年の金属を打ち叩くという行為は聴覚に障害を及ぼすようになるようになり、70年代から技法を溶接や鋳造へと変えることとなった。粘土から形を作っていくことは鍛金と比べて容易であったと後に述懐し、また溶接は複雑な造形作品を生み出していく。それまで鉄だけであった材料もブロンズ、アルミニウム、黄銅、白銅などと多彩になり、作品の表現の意図によって使い分けるようになる。 84年、第16回改組日展で、「連作―祭跡―」で文部大臣賞を受賞、86年に前年の17回日展出品作「祀跡」で日本芸術院賞を受賞する。その後、制作のテーマは「結の空間」、「接(つなぎ)」、「祀」、「道標」へと展開していく。「結の空間」は人間関係が弱そうに見えても実は強いものであるということを、黄銅を用いて紐を結んだ形で表現したものである。「接」は、社会は単純に一つのことだけで成り立っているわけではなく、いろいろな関係が複雑に絡みあっていることを表現したものであった。「祀」は人がつながり集まる中で、人は安心のよりどころとして心の中でおまつりをするとして、それを造形化したものであった。「道標」は氏自身の設定している人生を進んでいることを表わしたと述べている(「折原久左エ門展 金属造形―創造の軌跡」北海道立函館美術館、2011年)。 また、大形のモニュメント作品も手がけており、「青史の道標」(1988年、函館市千代台公園・1991年、野村證券高輪研修センター)、「祭祀」(1994年、函館市グリーンプラザ)、「波遊」(1993年、洞爺湖ぐるっと彫刻公園)、「北国に躍る友がき」(1975年、富良野)など北海道に多くの作品を残す。

小宮康孝

没年月日:2017/10/24

読み:こみややすたか  江戸小紋の重要無形文化財保持者である小宮康孝は10月24日肺炎のため死去した。享年91。 1925(大正14)11月12日、東京・浅草に生まれる。父(康助)は江戸小紋の初代重要無形文化財保持者(人間国宝)である。1938(昭和13)年、小学校を卒業すると、父のもとで本格的に厳しい修行を始める。42年、関東工科学校電機科に入学。昼は江戸小紋の板場、夜は学校の日々を送る。 45年3月、空襲で住宅と工場が全壊し家業を中断。工場は被害に見舞われたが、型紙は父により持ち出され無事であった。康孝は甲府の連隊に入隊し復員する。2年後の47年、板場を再建する。 50年、使用していた合成染料をさらに質のよいものに切り替え始める。52年、父(康助)が「助成の措置を講ずべき無形文化財」に選定される。この選定の際に文化財保護委員会(現、文化庁)によって江戸小紋という言葉が作られる。3年後、文化財保護法の改正に伴い重要無形文化財の制度が制定され、父は江戸小紋の重要無形文化財保持者として認定される。父のもとで研鑽をつむ。60年、第7回日本伝統工芸展で「江戸小紋 蔦」が初入選。以後、毎年出品をする。61年、父が死去。64年、第11回日本伝統工芸展で「江戸小紋着物 十絣」が奨励賞を受賞。 60年代後半より、和紙製作者らの協力で型地紙の改良を始める。「よい型彫師がいなければ、江戸小紋は滅びる運命だ」という父の言葉に学び、型彫師の喜田寅蔵(1894-1977)等との関わりを大切にしたという。 77年、初の個展「小紋百柄展」(東京・日本橋三越)を開催する。翌年、父についで、重要無形文化財保持者(江戸小紋)に認定される。認定後も江戸小紋の制作、そして普及にも尽力する。84年には工芸技術記録映画「型染め―江戸小紋と長板中形-」(企画:文化庁、製作:英映画社)が製作され、卓越した技術が映像で記録される。85年に東京都文化賞、88年に紫綬褒章を受章。同年、東京国立近代美術館工芸館にて「ゆかたよみがえる」展に出品する。1993(平成5)年、〓飾区伝統工芸士に認定される。97年、第4回かつしかゆかりの美術家展「江戸小紋小宮康助、康孝、康正三代展」を〓飾シンフォニーヒルズで開催する。翌年、98勲四等旭日小綬章を受章。2001年、東京都名誉都民の称号を得る。11年、〓飾区郷土と天文の博物館にて「小宮家のわざと人」展を開催する。さらに4年後の15年にはシルク博物館にて「今に生きる江戸小紋」展を開催する。 康孝は混乱の戦後を乗り越え、父から受け継いだ江戸小紋というわざを受け継ぎ発展させた我が国を代表する染色家といえる。18年、息子康正も江戸小紋の分野で重要無形文化財保持者に認定され、孫も江戸小紋の仕事を手掛けており、脈々と江戸小紋の技は受け継がれている。 作品は、東京国立近代美術館、MOA美術館、シルク博物館などに所蔵されている。

三谷吾一

没年月日:2017/07/12

読み:みたにごいち、 Mitani, Goichi※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  漆芸家の三谷吾一は7月12日、肺炎のため死去した。享年98。 1919(大正8)年2月13日、塗師であった父・忠作の五男として石川県輪島町(現、輪島市)に生まれる。本名・伍市。1930(昭和5)年、輪島男児尋常高等小学校尋常科在学中、赤十字社が募集したポスター展に応募し、パリで開催された世界展に展示される日本代表6名のうちの一人に選ばれる。三谷の家の近くには、後に重要無形文化財「沈金」保持者、いわゆる人間国宝に認定される前大峰が住んでいた。この頃帝展で特選を受賞した前が、三谷の通っていた小学校で講演を行い、その話に感銘を受けたことから三谷は沈金作家を志すようになる。33年、同校高等科卒業後、前大峰の兄弟子であった沈金師の蕨舞洲の下で5年間修行を積む。38年、年季明けの後、さらに2年間前大峰に師事し、41年に独立。翌42年、「沈金漆筥」で第5回新文展に初入選。戦時中の徴用のため、輪島航空工業株式会社に部品検査官として勤務しながらの制作であった。45年、第1回現代美術展に出品し、以後2014年まで毎年出品を重ねる。49年、デンマーク船エルセメルクス号など豪華客船の壁面装飾を制作。戦後は、自身で「スランプ状態」と語るように連続して展覧会に落選するなど、長い試行錯誤の時期を乗り越え、62年に第1回日本現代工芸美術展に初入選。65年、沈金パネル「飛翔」で第4回日本現代工芸美術展で現代工芸大賞・読売新聞社賞を受賞。66年、第9回日展で「集」が特選北斗賞受賞。60年代半ばの作品は、複数の色漆の塗り重ねと沈金の線彫り・点彫りの技法を高度に組み合わせたもので、沈金の技を駆使した抽象的な自然の風景を特徴とした。70年、第2回改組日展で特選北斗賞を受賞。78年、石川県美術文化協会理事となる。83年、日本現代工芸美術家協会理事となる。84年、北國文化賞を受賞。87年、石川県輪島漆芸技術研修所講師となる。88年、第44回日本芸術院賞を受賞。1989(平成元)年、日展理事となる。90年、紺綬褒章受章(以降、5回にわたって受章)。91年、石川県文化功労賞を受賞。93年、勲四等旭日小綬章受章。94年、中日文化賞を受賞。99年、日本現代工芸美術家協会顧問、輪島塗技術保存会会長、日展参事となる。2002年、日本芸術院会員、03年、日展顧問、輪島市名誉市民となる。04年、第60回現代美術展に出品し、第1回展より60回連続出品を果たす。 三谷はとりわけパウル・クレーの抽象的かつ詩情豊かな色彩に影響を受け、色粉の研究に基づく新しい沈金表現を確立したことで高く評価された。黒、朱などの限られた色数の漆に顔料や金銀粉を組み合わせた従来の伝統的な沈金は、色の多彩さという点においては他の漆芸技法に比べて制約が大きい。三谷は繊細な諧調表現を可能にするプラチナ箔、アルミの粉に着色を施したエルジー粉、酸化チタンや酸化鉄を用いて雲母を着色したパール粉など、ややもすると人工的で俗っぽい印象を与えかねない新素材の金属粉を、沈金の絵画的表現に大胆に取り入れた。十数年の研究のうちに、金属粉同士の組み合わせや、線彫りと点彫りを重ねる工程を工夫することで、豊かな中間色による明るく柔らかな表現を行うことが可能となり、油彩とも版画ともまったく異なる、沈金ならではの独自の世界を展開した。そのモチーフには、幼い頃の記憶にある身近な動植物や草花、貝、魚、鳥などが一貫して多く用いられるが、80年代の作品を中心に見られる黒漆による地と着色金属粉による発光するような明るい色彩のコントラストを強調した幻想的な作風は、90年代半ば以降はさらに一つの色面の中でも複雑な色の重なりが彫りによって表され、2000年代後半には切り箔や堆漆板による効果を組み合わせるなど、常に沈金の可能性を拡げ続けた。15年、文化功労者顕彰。没後の17年末、彫刻家である長男の三谷慎の編集により『GOICHI MITANI-三谷吾一作品集』が刊行される。

濱田幸雄

没年月日:2016/10/31

読み:はまださぢお  重要無形文化財「土佐典具帖」の保持者濱田幸雄は、10月31日、すい臓がんのため死去した。享年85。 濱田幸雄は、1931(昭和6)年2月17日高知県吾川郡いの町に生まれ、46年から父・濱田秋吾に師事して伝統的な土佐典具帖紙の製作技術を習得し49年に独立した。72年土佐典具帖紙保存会会員として他の5名の技術者とともに第8回キワニス文化賞を受賞。73年「土佐典具帖紙」が記録作成等の措置を講ずべき無形文化財として選択され、濱田が所属する土佐典具帖紙保存会が関係技芸者の団体として指名される。77年経済産業大臣指定伝統的工芸品「土佐和紙」の伝統工芸士として認定される。80年「土佐和紙(土佐典具帖紙・土佐清張紙・須崎半紙・狩山障子紙・土佐薄葉雁皮紙)」が高知県保護無形文化財に指定され濱田が所属する土佐和紙技術保存会が保持団体に認定される。1991(平成3)年労働大臣表彰(卓越した技能者)93年勲六等瑞宝章を受ける。95~97年土佐和紙工芸村で研修生の指導に携わる。2001年7月12日付けで重要無形文化財「土佐典具帖」の保持者として認定される。 濱田が漉く土佐典具帖紙は、高知県仁淀川流域で生産される良質の楮を原料とし、消石灰で煮熟した後、極めて入念な除塵や小振洗浄をを行い、黄蜀葵の粘液を十分にきかせた流漉の工程では、渋引きの絹紗を張った竹簀とそれを支える檜製漆塗の桁を使用する。紙漉き動作では、簀桁を激しく揺り動かして素早く漉き、楮の繊維を薄く絡み合わせる。漉き上がった紙は「カゲロウの羽」と称されるほど薄く、繊維が均一に絡み合って美しく、かつ強靱なため、タイプライター原紙として大量に輸出され、比類のない極薄紙として知られていた。しかし、昭和30年代以降、機械漉の典具帖紙の普及に押され手漉の需要が減少したため技術者も激減した中で、濱田は土佐典具帖紙に拘り、他種の紙を漉くことを避けていた。現在、典具帖紙に代表される楮の極薄紙は、世界中の美術館博物館で文化財補修用資材として利用されている。なお97年以来製作技術の指導を受けていた孫・濱田洋直が工房を引き継いでいる。

橋本明夫

没年月日:2016/04/20

読み:はしもとあきお、 Hashimoto, Akio※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  鋳金家の橋本明夫は4月23日、食道がんにより死去した。享年66。 1949(昭和24)年12月25日、東京都品川区に生まれる。70年、東京藝術大学工芸科に入学、鋳金を専攻し、西大由、原正樹に師事する。74年同大学を卒業し、その卒業制作がサロン・ド・プランタン賞を受賞する。さらに同校の大学院修士課程に進学し、76年その修了制作である「LANDSCAPE」が大学買上となる。大学院修了後、現在のさいたま市見沼区宮ヶ谷塔に大学院時代に設立した「蜂の巣工房」で作家活動をはじめ、79年、東京赤坂の日枝神社の依頼を受け、鎮座五百年記念の大形の天水桶を制作する。 1991(平成3)年、東京藝術大学の常勤助手に採用され、99年助教授、2005年に教授となる。85年、日本橋三越で開催された、「現代鋳金工芸展」で「高村豊周記念賞」、同年の天理市で開催された第5回「天展」で奨励賞を受賞した。 大学教員になってからは、日本古来の真土型、セラミックシェルモード、フルモールド技法などの鋳造法によって制作を行い、その材質も鉄、ブロンズ、ステンレス、アルミニウムと多種の金属を使用するようになる。あらゆる技法を駆使し、材質の特徴を効果的に引き出して表現した作品には、はなやかさとは対照的に、情緒的で静謐な印象を与えるものが多い。「天と地」、「星月夜」など鉄による気流シリーズの山や雲には気韻が醸成され、「香りの樹」、「VAPOR VASE」のステンレスによる作品には独特の存在感を示すものとなっている。 そうした自身の制作活動以外に力を注いだのが、文化財の修復と復元であった。09年から13年まで、伊勢神宮第62回式年遷宮御神宝の白銅鏡31面を制作するが、それも古代から伝わる惣型と箆押しによる徹底的な在来工法によるものであった。一方、東京国立博物館蔵の荻原碌山の「女」の石膏像からの復元鋳造では、三次元デジタル撮影による原型造を行い、在来と新たな技法の実践的研究に取り組んだ。修復では12年、杉野服飾学園の銅造大形宝塔(江戸時代)に従事した。また港区から受託制作による「品川駅港南2丁目道路アートワーク」では鋳金科の学生とともに、「〓〓の塔」、「ボラード人」、「街路灯」、「方位プレート」などを制作し、公共物に芸術性を取り込んだ町作りを行った。

三浦景生

没年月日:2015/08/28

読み:みうらかげお、 Miura, Kageo※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  染色家の三浦景生は8月28日死去した。享年99。 1916(大正5)年8月20日、父久次郎、母タキの長男として京都市に生まれる。本名景雄。1932(昭和7)年、丸紅株式会社意匠部に染織図案制作の見習いとして入社する。42年、大阪陸軍造兵廠に徴用される。45年、終戦とともに徴用を解かれる。46年、丸紅株式会社意匠部の再建に参加。47年第3回日展に蝋染屏風「池の図」が初入選。同年、丸紅株式会社図案部を退社し、小合友之助を師事。その後、京展や日展に出品を行う。55年には初の個展である「三浦景生染色工芸展」を京都府ギャラリーで開催。59年、第2回新日展にて、「朧」が特選・北斗賞を受賞。この時期の作品から、現像的・無双的な具象表現から知的で鋭い抽象表現に移行したと評される。61年以降、染色作品展(黒田暢、寺石正作、来野月乙、三浦景生)を京都府ギャラリーや養清堂画廊で開催。養清堂画廊では、65年に「三浦景生作品展」、66年には「三浦景生・五東衛(清水九兵衛)展」、77年「三浦景生染絵展」等を開催する。 62年第1回日本現代工芸美術展にて「青い風景」が会長賞・文部大臣賞を受賞。翌年、京都市立美術大学美術学部工芸科染織図案の助教授となる。67年、社団法人日展の会員となる。71年、京都市立芸術大学美術学部工芸科染織専攻の教授となる。78年には第30回京展にて「春の譜(椿と水仙)」が記念市長大賞を受賞。80年には「染と織-現代の動向」展(群馬県立近代美術館)に出品。翌年には「ろう染の源流と現代展」(サントリー美術館)に出品。1982年『三浦景生作品集』(染織と生活社)を出版。同年、京都市立芸術大学を定年退官し、名誉教授の称号を受ける。大手前女子大学が染色科を創設したことに伴い、教授に着任。 83年には「現代日本の工芸展-その歩みと展開」(福井県立美術館)に出品。同年、京都府文化功労者に選ばれる。84年、「京都府企画・三浦景生展」(京都府立文化芸術会館)を開催。同年より染織と生活社刊行の月刊誌「染織α」の表紙絵の担当を始める(1998年4月号まで担当)。さらに、石川県九谷焼技術研修所に出講し、作図の指導を行う。これが契機となり、九谷焼に依る色絵磁器の制作を試みるようになる。同年、京都市文化功労者に選ばれる。 85年には有楽町の阪急百貨店にて「三浦景生の宇宙」展を開催。87年、「1960年代の工芸(高揚する新しい造詣)」展(東京国立近代美術館工芸館)に出品。同年、第9回日本新工芸展にて「きゃべつ畠の虹」が内閣総理大臣賞を受賞。1990(平成2)年、「染の世界・三浦景生展」(高島屋美術画廊/京都)を開催。91年、京都のギャラリーマロニエにて月刊染織αの「表紙絵原画展」を開催。94年には「現代の染め四人展 佐野猛夫、三浦景生、伊砂利彦、来野月乙」国立国際美術館に出品。同年、京都工芸美術作家協会の理事長となる。 95年、第13回京都府文化賞特別功労賞を受賞。96年、『三浦景生作品集』を求龍堂より出版。98年目黒区美術館にて「染の詩-三浦景生展」を開催。99年、芸術選奨文部大臣賞を受賞。2000年、「染・1990-2000 三浦景生展」(エスパスOHARA/東京)を開催。 題材に野菜なども好み、染色家としてのパネルや着物だけでなく、陶板や陶筥も制作している。活動は制作だけでなく、嵯峨美術短期大学や多摩美術大学、京都精華大学等でも講義や講演を行った。 16年には回顧展となる「三浦景生の染め 白寿の軌跡」が京都市美術館で開催された。 作品は東京国立近代美術館や京都国立近代美術館等に所蔵されている。

古賀フミ

没年月日:2015/06/07

読み:こがふみ  重要無形文化財「佐賀錦」保持者の古賀フミ(本名:西山フミ)は6月7日に大腸がんのため死去した。享年88。 1927(昭和2)年2月3日佐賀市に生まれる。幼いころから曾祖母、母に佐賀錦の手ほどきを受ける。佐賀錦は和紙を裁って経紙とし、絹を緯糸にした肥前鹿島藩で創始された織物である。江戸時代後期、佐賀錦は御殿に務める女性の嗜みであり、廃藩置県後も制作が続けられた。大正時代に入ると、大隈重信によって広められ、旧華族のあいだで愛好会が結成された。古賀フミの曾祖母は肥前国の竜造家の家老村田家の家臣であり、御殿で佐賀錦の技術を習得したという。曾祖母から母へ、そして古賀フミへ伝授されたものには、平織だけでなく、綾組織も含まれ、古典模様だけでも200種以上に及んだ。古賀家の評判を聞きつけ、民芸運動の柳宗悦や、重要無形文化財保持者の森口華弘らとも交流が生まれる。  その後、森口の勧めもあり、66年に第13回日本伝統工芸展に出品し入選。同年、東京に移住する。67年には日本伝統工芸染織展、日本伝統工芸新作展にも出品を始める。同年、第4回日本伝統工芸染織展に出品した佐賀錦ハンドバックにて東京都教育委員会賞を受賞。本作品は上野公園に落ちていた道端の小さな花から着想を得たという。69年には、第6回日本伝統工芸染織展にて佐賀錦網代文笛袋「暁光」が日本工芸会賞、第16回日本伝統工芸展にて佐賀錦紗綾形文帯「七夕」が日本工芸会総裁賞を受賞。日本工芸会正会員となる。佐賀錦は経紙に用いる紙の大きさに制限を持つため袋などの小物が制作の中心であったが、古賀は森口華弘の励ましもあり帯にも着手する。日本工芸展での受賞はその成果の顕れといえる。 73年以降は、日本伝統工芸新作展や日本伝統工芸染織展の鑑審査委員を歴任。82年には、第19回日本伝統工芸染織展に出品した佐賀錦網代地籠目文笛袋「瑞光」にて日本工芸会賞、第29回日本伝統工芸展に出品した佐賀錦菱襷文帯「玻璃光」にて日本工芸会長賞を受賞。88年には紫綬褒章を受章。1993(平成5)年には福島県立美術館現代の染織展に出品。94年には重要無形文化財保持者「佐賀錦」に認定される。同年、日本橋三越特選画廊にて「佐賀錦古賀フミ自選展」を開催。98年には勲四等宝冠章を受章。 古賀の制作は、曾祖母が残した懐紙入れなどの作品、母が80歳を超えてから織ったという200種以上の織見本、母が織った作品の図案を父が筆で描き起こした模様図案に囲まれながら行われた。素材の和紙や染料などにも探求を深め、染めは植物染料で自ら手がけるようになったという。また、制作に用いる竹箆と網針は主君の西山松之助により作られたものである。 作品は東京国立近代美術館、東京国立博物館等に所蔵されている。

灰外達夫

没年月日:2015/03/14

読み:はいそとたつお  重要無形文化財「木工芸」の各個認定者の灰外達夫は3月14日脳内出血のため死去した。享年74。 1941(昭和16)年1月3日、石川県珠洲市に生まれる。56年に中学を卒業し正院町にて建具の修業を始める。建具の製作に携わる中で、指物、挽曲等の木工芸技法を身につける。 その後、77年、重要無形文化財「木工芸」の各個認定者である氷見晃堂の遺作展に感銘を受け、木工芸の創作を始める。81年、第28回日本伝統工芸展に「欅十六角喰籠」が初入選。 1989(平成元)年には日本伝統工芸展正会員となり、同年、金沢大和画廊アートサロンにて個展を開催。92年、第39回日本伝統工芸展で「神代杉造木象嵌短冊箱」が奨励賞を受賞。 97年には灰外達夫木工芸展をさいか屋(横須賀)で開催。99年には日本橋三越にて個展を開催。石川県立美術館で開催された石川県作家選抜美術展へ出品。 2000年、第9回日本伝統工芸木竹展で「神代杉挽曲造木象嵌箱」が文化庁長官賞を受賞。03年の第50回日本伝統工芸展で「神代楡挽曲造食籠」がNHK会長賞を受賞(文化庁買い上げ)。 07年には第54回日本伝統工芸展で「神代杉造食籠」が保持者賞を受賞。翌年の08年には紫綬褒章を受章。12年、重要無形文化財「木工芸」の各個保持者に認定される。同年、菊池寛実記念智美術館において「茶の湯の現代-用と形-」大賞を受賞。翌年の13年には伊勢神宮式年遷宮献納。14年旭日小綬章を受章。15年には和光ホールにて開催された「北陸発工芸未来派」に出品。 挽曲とは神社の鳥居等に用いられた技法で、木材の薄板に鋸で挽き目を入れ、部分的に曲げて造形する技法である。同技法は挽き目の深さや角度を調整する技術が肝要といえる。灰外は特殊な鋸を用いて挽き目を入れ、精緻な多角形等を正確に表現する。神代杉、神代楡などを素材に用い、柾目の木目を生かした作風といえる。「デザインありきではなく、まず技術ありきであり、技術がデザインを作る」という言葉を残している。 制作は木工芸だけに留まらず、80年には独学で陶芸をはじめ、日本最大の径1,82mの大皿焼き上げに成功し(当時ギネス世界記録)、82年には灰外達夫大皿展を高島屋で開催。1983年には日本最大の陶板焼き上げに成功し、95年には日本陶磁協会賞を受賞している。  自身の製作だけでなく後進の育成にも尽力しており、98年から09年まで石川県立輪島漆芸研究所の講師を務める。また、石川伝統工芸展、日本伝統工芸木竹展、日本伝統工芸展の監査委員なども歴任する。 作品は茶道を嗜む人々等に愛用された他、文化庁、金沢市立中村記念美術館や石川県立美術館に所蔵されている。 参考映像にDVD「シリーズ北陸の工芸作家 石川の匠たち 灰外達夫 道」北陸メディアセンター(2014年)等がある。

堀友三郎

没年月日:2014/07/07

読み:ほりともさぶろう  染色家の堀友三郎は7月7日、肺炎のため死去した。享年90。 1924(大正13)年、堀朋近・順の三男として大阪市に生まれる。(本籍は石川県)。1941(昭和16)年関西学院中学部卒業。多摩帝国美術学校(現、多摩美術大学)図案科に入学。3年次より同校図案科染色教室を専攻。木村和一に師事。学生時代には母方の叔父である洋画家の中村研一の自宅で過ごす。もう一人の叔父である洋画家の中村琢二との関わりもあり、制作態度の異なる両叔父に影響を受けながら育つ。 44年、第31回光風会展に「紅型バラ」を出品し初入選。学徒動員を受け、9月に兵役、金沢へ入隊する。翌年の45年、9月に復員。多摩帝国美術学校図案科染色教室を不在卒業。その後は、師である木村和一主宰の染人社、東京染織作家協会、真赤土工芸会の各会員として活躍する。56年、32歳の時に第42回光風会展に「早春譜」を出品。第12回日展に「瀬戸の潮」を出品し、初入選。後に、同作品はソ連政府の買い上げとなり、レニングラード美術館に収蔵される。58年、第44回光風会展に「海」を出品。光風工芸賞を受賞し、光風会会友に推挙される。同年、第1回新日展に「伊豆の海」を出品。60年、第3回新日展に出品した「造船」(石川県立美術館蔵)が、特選並びに北斗賞を受賞。その後、采匠会展、日本現代工芸美術展でも作品を発表。64年、第50回光風会展に「湖畔の映」を出品。光風工芸会員賞を受賞。67年からは、第53回光風会展、第6回日本現代工芸美術展、第10回新日展で審査員を務める。翌年の68年には日展会員に推挙される。同年、横浜シルク博物館展の審査員も務める。その後も審査員などを歴任し、71年、東京家政大学非常勤講師に就任。75年、51歳の時に第61回光風会展に出品した「雪景」で杉浦非水賞を受賞。翌年からは朝日カルチャーセンター(新宿)の講師に就任。以後、30年にわたり務める。77年には花山研究所講師に就任。78年、現代工芸美術家連盟を脱退し、日本新工芸家連盟を創立、総務委員となる。東京家政大学講師を辞任する。79年、第65回光風会に「語らいを」を出品し、第65回光風会特別記念賞を受賞。同年、妻の紀子が逝去する。80年、『のり染パネル制作』(美術出版社)を出版。81年、社団法人日本新工芸家連盟初代理事に就任。82年、第20回采匠会展に作品を発表。同展を最後に解散。84年、光風会幹事、日展評議員に就任。85年、第7回日本新工芸展に「岩手の山にかゝる虹」を出品、内閣総理大臣賞を受賞。同年、多摩美術大学染織デザイン科主任教授に就任。川徳デパート(岩手・盛岡)やギャラリー・スペース21(東京・新橋)で個展を開催。日本新工芸家連盟脱退。86年、光風会理事に就任。紺綬褒章を受章。87年、東急百貨店本店(東京・渋谷)で個展を開催。『堀友三郎丸紋図案集』(六芸書房)を出版。同書は染につかう型紙を意識して型の繋ぎ目を考えながらデザインをまとめたという。さらに、九谷焼の徳田八十吉の自宅で絵皿に絵付けをしたことを想いだし、丸紋に九谷焼のような縁紋様が加えられている。1989(昭和64年・平成元)年には財団法人中村研一記念美術館初代館長、常任理事に就任。翌年の90年、明日へのかたち展に作品を発表。石川県立美術館で「堀友三郎特別展」が開催される。紺綬褒章を受章(2回目)。93年、財団法人福沢一郎記念美術財団理事就任。95年、多摩美術大学を定年退職し客員教授となる。多摩美術大学付属美術館において退職記念展が開催される。翌年、東急百貨店本店(東京・渋谷)で個展を開催。退職後も、精力的に作品を発表しながら、各展覧会で審査員を歴任する。2000年、ギャリ―白雲(大阪)、ギャラリータマミジアムにて個展を開催。勲四等瑞宝章を受章。国立台湾工芸研究所で講演を行うなど、国内外で活躍をする。01年、東急百貨店本店(東京・渋谷)で喜寿記念展を開催。翌年、脳梗塞で倒れる。以後、失語症のリハビリを続けながら制作を続け、病前同様に審査員も務める。04年、光風会展に「雪凌」を出品。同会を定年退職し、名誉会員となる。第36回日展に「蔵王」を出品。日展参与になる。文芸春秋画廊(東京・銀座)にて個展を開催。05年、杉並より調布に転居する。07年、調布市文化会館にて「堀友三郎展」(調布市文化・コミュニティ振興財団主催)が開催される。09年、『堀友三郎 染色画集』(求龍堂)を刊行。 堀の作風は50年代中頃から60年代は初期の抽象形態による構成的な作風、その後、80年代前半にかけては具象が曲線を中心とした抽象の中に溶け込む画風、その後、実景の追及に大別されると評されている。毎日デッサンを欠かさず、デザインの発想の根本には「写生」があると学生に諭し、絵描き以上のデッサン力がないと良いデザイナーにはなれないと力説していたという。堀は自らの考えとして、工芸作品はしっかりとしてデザインと優秀な技術が伴わないと良い作品とはならない。いくら発想が良く、デザインの素晴らしいものができても技術的に難点があっては作品にならない。デザイナーであると共に職人でなければいい仕事は望めないという言葉を残している。 晩年に至るまでの多くの作品は石川県立美術館に所蔵されている。

田島比呂子

没年月日:2014/01/19

読み:たじまひろし  重要無形文化財「友禅」保持者の田島比呂子は1月19日、前立腺がんのため神奈川県藤沢市の介護施設で死去した。享年91。 1922(大正11)年2月4日東京に生まれる。本名博。幼いころから絵を書くのが好きであった田島は、1936(昭和11)年、兄が亡くなった代わりに東京小石川で友禅模様師をしていた高村樵耕に内弟子として入門。動植物の模写や師が描くのを隣で見て同じように描くなど、日本画の基礎を学ぶ。当時、友禅染の世界は意匠をデザインする模様師と染色を行う染師に仕事が二分されており、田島は前者の模様師として弟子入りをした。これが、後にデザインを考案する作家としての活動におおいに役立ったといえる。 43年、通信兵として満州へ出征。ツルやサギが何千羽も一斉に舞う姿に心うたれる。3年後の46年、復員。しかし、48年に肺結核を患い千葉九十九里の病院に入院し療養生活を送る。療養中に正岡子規の全集に影響を受け、俳句・短歌を詠みはじめ新聞に投稿する。限られた文字数で推敲を重ねて表現する手法は、丹念に試し染を行う友禅染への制作態度に引き継がれていく。54年、退院し、師事していた高村樵耕の息子である高村柳治の屋敷の隣に移住する。同年、友禅の制作を再開、模様師として独立する。柳治に勧められ、日本伝統工芸展に出品し、作家活動を開始する。同時に、社団法人日本工芸会に入会し、友禅の中村勝馬や山田貢との交流がはじまる。田島は作家活動の開始時、「友禅染の着物に携わるのは男子一生の仕事にあらず」という時代の風潮があり、比呂子という雅号を使い始めたという。59年、第6回日本伝統工芸展で「揺影(一)」が初入選。2年後、(社)日本工芸会の正会員となる。66年、44歳の時に第13回日本伝統工芸展で「青東風」が日本工芸会総裁賞を受賞。同年、第6回伝統工芸新作展では「竹あかり」が日本工芸会賞を受賞。その後、東京都北区十条仲原、鎌倉極楽寺と居を移し、70年、48歳の時に結婚し藤沢市鵠沼海岸に転居する。この頃より、妻に生地の縫い合わせや地染めを担当してもらいながらも、その他の工程は全て田島自身が担う制作スタイルとなる。72年、(社)日本工芸会理事に就任する。77年、(社)日本工芸会工芸技術保存事業「茶屋辻帷子の復原」に参加。下図、下絵、伏せ糊、藍彩色、藍線描という茶屋辻の中核である工程を担当する。86年、(社)日本工芸会常任理事に就任、87年、紫綬褒章を受章。1990(平成2)年第2回茶屋辻帷子の復原」に参加。本事業では、指導的立場を担う。93年、勲四等旭日小綬章を受章。98年、第45回日本伝統工芸展に「入江」を出品。日本工芸会保持者賞を受賞。翌年、77歳の時に、「友禅」の分野では8人目の重要無形文化財保持者に認定される。藤沢市の名誉市民となる。2000年藤沢市制60周年記念特別展「田島比呂子・友禅展」を藤沢市民ギャラリーで開催。04年、シルク博物館にて「人間国宝 自然をいつくしむ手描友禅 田島比呂子展」を開催。出品作品54点すべてに田島の短歌が添えられる。09年、87歳の時に記録映画「創作に生きる 友禅作家・田島比呂子」が制作される。 仕事場には何十冊もの写真集がおかれ、スケッチだけでなく趣味のカメラで撮りためた写真が積み上げられていたという。また、田島はデザイン面だけでなく、技法の面でも高く評価されている。特に、糊の使い方に研究を重ねており、伏せた糊をたんぽで叩き斑を表現する「叩き糊」や、友禅染の特徴ともいえる糸目糊の輪郭線を作らないこともできる「堰出し糊」は、何れも田島比呂子の特徴的な技法に位置付けることができる。 作品はシルク博物館、東京国立博物館等に所蔵されている。

齋藤明

没年月日:2013/11/16

読み:さいとうあきら  鋳金で重要無形文化財保持者である齋藤明は11月16日、老衰のため死去した。享年93。 1920(大正9)年3月17日、東京都西巣鴨に鋳金家齋藤鏡明の長男として生まれる。鏡明は佐渡出身で、佐渡の本間琢斉に学び、1909(明治42)年頃に東京に移り巣鴨に工場を設立している。1935(昭和10)年、父に鑞型鋳造の技法を学んだが、38年、18歳の時父が急逝し、鋳物工場を引き継いだ。この工房には佐々木象堂、2代宮田藍堂ら蠟型を得意とした佐渡の鋳金家が冬の間制作場としたため、彼らから技術指導を受ける機会に恵まれた、50年、高村光太郎の弟で鋳金家の高村豊周に師事し、豊周が72年逝去するまでその工房の主任をつとめた。工房では高村光太郎の彫塑原型のブロンズ鋳造を多く手掛けた。豊周に師事した年、第6回日展に「鋳銅」蝶両耳花瓶」を出品し初入選した。68年、第13回日本茶器花器美術工芸展で青銅大壺「跡」で文部大臣賞を受賞した。73年、浅草寺五重塔の建立にあたって、塔納置の舎利容器を制作する。75年、日本伝統工芸展に「蠟型朧銀流水壷」を初出品、初入選し、以後日展から伝統工芸展に移った。87年、第17回伝統工芸日本金工展に「蠟型朧銀花器」を出品、東京都教育委員会賞を受賞する。1993(平成5)年、国の重要無形文化財保持者に認定され、95年勲四等瑞宝章を受章した。 作品は縄文や弥生土器にみられえるような装飾性を抑えた簡素な造形を好み、日展時代には四分一や青銅、緋色銅を用いた作が多いが、伝統工芸展で新たに吹分(ふきわけ)の技法を発表する。吹分は、青銅に真鍮、青銅に銅など異なる金属を鋳型に流し込んで、色彩的な変化を付けるとともに、その境界の金属の交じり合う微妙な融合の美を追求したものので、明治時代以前には全くなかった技法である。日本鋳金家協会顧問・東京芸術大学美術学部非常勤講師なども勤め、金工界にも尽力した。

鈴木雅也(三代鈴木表朔)

没年月日:2013/10/07

読み:すずきまさや、 Suzuki, Masaya※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  漆芸家の鈴木雅也は10月7日午後10時47分、京都市左京区の病院で死去した。享年81。 1932(昭和7)年2月26日、父貞次(二代表朔)の長男として京都市中京区に生まれる。生家は祖父の初代表朔(1874-1943)、父の二代表朔(1905-1991)と続く京塗師の家系。幼い頃から父に塗りの基本を学び、44年に京都市立美術工芸学校(現、京都市立銅駝美術工芸高等学校、学制改革のため卒業時の校名は京都市立日吉ヶ丘高等学校)漆工科に入学。卒業制作では第1席(学校賞)を受賞。50年に同校を卒業後、東京芸術大学美術学部に入学。漆芸科では松田権六らの指導を受け、家業である伝統的な塗りの仕事とは異なる表現を学ぶ。53年、卒業制作の「こでまり草の図・棚」を第9回日展に出品し、在学中に初入選を果たす。さらに専攻科に進み55年修了、日展を中心に出品、入選を重ねる。64年第3回日本現代工芸美術近畿展で京都府知事賞、66年京展で市長賞を受賞。68年、漆の新たな表現の可能性を目指し、京都にて伊藤祐司、服部俊夫(現、峻昇)らとともに若手の漆芸作家によるグループ「フォルメ」を結成、実験的な創作に取り組む。72年第11回日本現代工芸美術展で「オブジェ 連鎖するかたち」が現代工芸賞、翌73年の第5回日展で「連鎖するかたち」が特選となる。凹凸をつけた透明なアクリル樹脂の胎に不透明な漆を塗り重ね、両方の素材の特性を活かしたもので、新素材による斬新な視覚効果をねらった漆造形は高く評価された。77年、明日をひらく日本新工芸展で「森の函」が箱根彫刻の森美術館賞を受賞、翌78年には京都市芸術新人賞を受賞。この頃から抽象的な造形作品は、次第に自然を題材にした具象的な作品へと変化し、古典的な画題を現代の感性で再解釈し新たな表現を追求した。明るい色調の彩漆を何度も塗り重ねた上に、蒔絵、螺鈿、卵殻を組み合わせ、光や波、咲き誇る花々などを大胆にデザイン化した作品が多い。一方で棗や香合などの伝統的な器物や道具類の制作も続けた。88年京都府立文化博物館の新築にあたり、歴史展示室の造形演出作品の企画および制作を担当。1989(平成元)年には30年間の代表作を収録した『繚乱の漆芸 鈴木雅也作品集』(ふたば書房)を出版。92年三代表朔を襲名。93年第3回日工会展に「透胎 こすもすのはこ」を出品、内閣総理大臣賞を受賞。同年、圓山記念日本工藝美術館にて「繚乱の漆芸・鈴木雅也の世界展」を開催。96年に京都府文化賞功労賞、98年に京都市芸術功労賞を受賞。2011年第43回日展で「函・風光る」が内閣総理大臣賞となる。日展参与、日工会代表、京都工芸美術作家協会理事長などを務め、後進の育成にも尽力した。主な所蔵先は東京国立近代美術館、京都国立近代美術館、ヴィクトリア&アルバート美術館(イギリス)、シアトル美術館(アメリカ)など。

天田昭次

没年月日:2013/06/26

読み:あまだあきつぐ、 Amata, Akitsugu※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  日本刀で重要無形文化財保持者である天田昭次は6月26日死去した。享年85。 1927(昭和2)年8月4日、新潟県北蒲原郡本田村本田(現、新発田市)に刀匠天田貞吉の長男として生まれる。本名誠一。37年、父貞吉は死去したが、父の3回忌に訪れた東京の刀匠で日本刀復興運動の提唱者でもあった栗原彦三郎昭秀の誘いを受け、40年小学校卒業するとすぐに上京し、昭秀が設立した日本刀鍛錬伝習所に入門する。最初の作刀は52年、第二次世界大戦後、制作を禁じられていた日本刀の復興を図るため、昭秀が日本政府から許可された「講和記念刀」のうちの3口で、その1口に「昭聖」と銘を切った。その頃伊勢神宮の式年遷宮御神宝大刀の制作依頼が兄弟子にあたる宮入昭平にあり、その助手として奉仕した。54年、文化財保護委員会から日本刀の制作承認を受け、新制度のもとで作刀を行うようになる。55年、財団法人日本美術刀剣保存協会が主催した第1回作刀技術発表会に出品、93名出品中の8位で優秀賞を受賞、57年の第3回、58年の第4回展でも優秀賞を得ている。58年、それまで使用していた鉄では理想としていた相州正宗や貞宗など鎌倉時代の古名刀の域には達しないとして、その元となる製鉄から行わなければならないと考え、自家製鉄の本格的な研究に取り組んだ。しかし60年病により作刀、研究活動は停滞することとなる。68年恢復して作刀を開始し、自家製鉄による作品を第4回新作名刀展(作刀発表会から改称)に出品し、奨励賞を受賞した。70年、第6回展では名誉会長賞、72年に同展の無鑑査に認定され、財団法人日本美術刀剣保存協会より小形製鉄炉の研究で第1回薫山賞を受賞した。77年第13回新作名刀展に無鑑査として出品し、無鑑査を含むすべての出品者の最高賞である正宗賞を受賞した。78年、新潟県無形文化財保持者に認定され、85年、新作名刀展で2度目の正宗賞を受けた。1990(平成2)年、全日本刀匠会理事長に就任し、現代刀匠の技術向上、育成に努めた。97年、国の重要無形文化財保持者に認定され、99年、勲四等旭日小綬章を受章する。 天田昭次の作品は太刀、刀、脇指、短刀で、伊勢神宮神宝では直刀も製作している。特に鍛えは自家製鉄による鍛肌の美しさを強く出し、刃文は相州伝の明るく冴えた大乱れが多く、また山城伝の直刃を得意としており、正宗賞受賞作も直刃であった。また理論家としての著述も多く、76年、「自然通風炉による古代製鉄復元法実験」(『鉄と鋼』)、2004年『鉄と日本刀』(慶友社)の著書を発表している。

西大由

没年月日:2013/06/20

読み:にしだいゆう  鋳金家の西大由は6月20日、急性心不全により死去した。享年90。 1923(大正12)年5月25日、福岡県築上郡に生まれる。1941(昭和16)年、東京美術学校工芸科鋳金部入学、高村豊周、丸山不忘、内藤春治に師事する。在学中の43年から45年まで兵役に就き、戦後学校に復帰する。47年東京都練馬区石神井町にアトリエを構え、同年「春之意香炉」を第3回日展に出品、初入選する。48年同校を卒業し、岐阜県多治見市の多治見製作所鋳金技師となる。53年、東京藝術大学美術学部助手となり、同年から薬師寺東塔水煙及び月光菩薩台座の修理に従事する。55年、第11回日展で「青銅壺」が特選、翌年無鑑査となった。61年社団法人第4回新日展で「泪羅に立つ」が菊華賞を受賞し、翌年会員に推挙される。63年第6回高村光太郎賞を受賞する。69年、東京藝術大学美術学部助教授、78年に教授となる。作品の公募展での発表は51年の第7回日展から、88年の改組第20回日展まで、日展が中心であったが、1989(平成元)年から日本伝統工芸展に出品するようになる。その間、79年には日本新工芸連盟創設に参加し、86年まで出品している。86年には、日本丸、海王丸の船首像を制作した。91年に東京藝術大学を定年退官し、同大学名誉教授となる。 作家としての制作活動のほか、日本金工の歴史、古代鋳造技術の研究も行い、64年から80年まで東大寺大仏の鋳造と補修に関する技術的研究を続け、同校の紀要にその成果を発表した。また88年、文化庁文化財保護審議会専門委員を務める。2000年、勲三等瑞宝章を受章した。 作品は青銅あるいは朧銀による壺や花入れなど伝統的な形象に、色上げの工夫を行い、また鳥や動物、果実など自然からのモチーフを抽象化して表現し、極限まで単純化した造形には独特の抒情性を醸成している。

十四代酒井田柿右衛門

没年月日:2013/06/15

読み:さかいだかきえもん  陶芸家で色絵磁器の重要無形文化財保持者の十四代酒井田柿右衛門は、6月15日午前8時45分、転移性肝腫瘍のため佐賀市内の病院で死去した。享年78。 1934(昭和9)年8月26日、佐賀県西松浦郡有田町に、酒井田渋雄(のちの十三代酒井田柿右衛門)とツネの長男として生まれる。襲名までの本名は正(まさし)。多摩美術大学日本画科に進み、絵画的な構想力や描画技術の基礎を習得。58年に卒業すると帰郷し、祖父・十二代柿右衛門と父が復興させた「濁手(にごしで)」の製陶技術とともに、とくに祖父からは絵具の調合と絵付け技術を、父からは素地の成形と焼成技術を受け継いだ。作品としての発表は66年からで、一水会と西部工芸展に入選し、陶芸家としてデビューした。翌年には一水会で一水会会長賞を受賞。68年からは日本伝統工芸展にも入選を果たし、その後も日本伝統工芸展をはじめ、一水会や西部工芸展、さらには佐賀県展や九州山口陶磁展等で実績を積む。70年にはヨーロッパに旅行して各国の美術館や窯業地を視察。また、柿右衛門初期におけるオランダ貿易と東西交通や、在欧作品と〓製品についても見聞を重ねた。71年日本工芸会正会員。この年、柿右衛門製陶技術保存会の「柿右衛門(濁手)」技法が重要無形文化財の総合指定を受け、76年には技術保持団体として認定。同年、東京で初の個展を開催した。82年7月、父・十三代柿右衛門の死去にともない柿右衛門製陶技術保存会の会長に就任、同年10月には十四代柿右衛門を襲名した。84年日本陶磁協会賞受賞。86年には第33回日本伝統工芸展で「濁手山つつじ文鉢」が日本工芸会奨励賞を受賞した。この頃より海外において十四代柿右衛門展の開催機会が増え、「濁手」と呼ばれる独特の白素地に、赤絵を基調として草花を描いた作品の評価が高まりをみせる。1992(平成4)年の第39回日本伝統工芸展では「濁手蓼文鉢」が二度目となる日本工芸会奨励賞受賞し、色絵磁器の陶芸家としての地位を確固たるものとする。翌年には国際陶芸アカデミー(IAC)名誉会員となる。60歳を過ぎたころより、地元陶芸団体等において要職に就き、後進の指導とともに、地域の陶磁文化発展のために力を注ぐ。98年、長年にわたる国際文化交流の功績により外務大臣表彰、99年には濁手の伝統的技法の伝承に努め、地域の文化発展と向上に貢献したことにより文部大臣賞表彰を受ける。その後も、作家として濁手を中心とした創作活動と、技術保存会会長として様式美の継承の両立をはかり、2001年には父も受けることがなかった重要無形文化財「色絵磁器」の保持者に認定された。05年、旭日中授章受章。06年には有田町名誉町民の称号を受けた。十四代柿右衛門は、柿右衛門家の当主として、祖父と父が再興を成し遂げた「濁手」の技術を継承する。と同時に、独特の白地と柿右衛門伝統の赤絵を効果的に用いた優美な絵付と模様構成により独自の作風を築き上げ、濁手の新たな境地を切り拓いた陶芸家であった。

加藤重髙

没年月日:2013/04/09

読み:かとうしげたか、 Kato, Shigetaka※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  陶芸家の加藤重髙は、4月9日午前10時50分、ぼうこうがんのため自宅で死去した。享年85。 1927(昭和2)年4月26日、愛知県瀬戸市窯神町に加藤唐九郎ときぬの三男として生まれる。15歳になる42年頃から、陶芸家として活躍していた父・唐九郎の助手として作陶を始め、愛知県立窯業学校を卒業した45年頃からは個人作家としての活動をも開始した。陶技は、愛知県瀬戸地域の伝統的な技法である灰釉・鉄釉・志野・織部・黄瀬戸を中心に、信楽や唐津など幅広く、58年の第1回新日展に「織部壺」で初入選を果たし作家としてデビューした。65年には第4回日本現代工芸美術展に入選し、翌年の第5回展では「流れ」を出品し工芸賞を受賞。66年の第9回日展では「刻文方壺」で特選・北斗賞を受賞し、翌年には、前年(昭和41年度)の活躍に対して日本陶磁協会賞を受賞した。またその間、63年から始まった陶芸公募展の第1回朝日陶芸展に「湧く」を出品して入選し、以降、69年の第7回展まで連続入選。65年の第3回展、66年の第4回展、68年の第6回展では受賞を果たし、70年の第8回展では審査員を務めた。68年には広島県宮島町役場に初の陶壁を設置した。71年以降、公募展や団体展の出品をすべてやめて個展を中心とした活動に切り替え、茶碗や花生、水指などの茶陶を中心に発表。とくに86年までは、ほぼ毎年のように陶壁を制作し、数多くの作品を残したことから、陶壁の作家としても知られた。1998(平成10)年、名古屋市芸術特賞を受賞し、翌年には受賞記念の個展を名古屋で開催した。 加藤重髙の活動は、日展を活動の場とした70年までの第1期(日展時代)と、公募展や団体展での発表をやめた71年から父・唐九郎がなくなる85年までの、すなわち唐九郎の作陶活動を支えたアシスタント時代の第2期、唐九郎の没後の86年から亡くなる2013年までの第3期にほぼ大別できる。第1期では公募展や団体展を意識した大形の作品を数多く手がけた。作品は、土を巧みに扱いながら素材感を最大限に生かしたもので、スペインの画家ジョアン・ミロが唐九郎を訪ねた際、唐九郎よりも重髙の作品に興味を示し、その才能を高く評価したというエピソードが残っている。第2期は、自身の創作性を一切おもてに出すことのない助手として父の作陶を支える一方で、個展を発表の場として茶陶を中心に、建築の壁面を飾る陶壁も数多く制作した。そして第3期は、日展時代に培った土への探究をさらに強く打ち出した刻文による表現を確立させて、叩きの技法を用いた迫力ある作品を生み出すとともに、父の影として培った茶陶の造形を独自に発展し展開させた。なかでも、鼠志野に見られる独特の釉色が生み出す独自の世界は、重髙芸術の真骨頂ともいえるものである。また最晩年は、朝鮮唐津にも力を入れて、独自の造形観を見せつけた。

三輪壽雪

没年月日:2012/12/11

読み:みわじゅせつ、 Miwa, Jusetsu※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  萩焼の陶芸家で重要無形文化財保持者(人間国宝)の三輪壽雪は12月11日、老衰のため死去した。享年102。 1910(明治43)年2月4日山口県萩市で生まれる。本名は節夫。生家は代々萩焼を家業とし、旧萩藩御用窯でもあって家督を継いでいた次兄の休和(1970年に重要無形文化財「萩焼」保持者の認定を受ける)を助け、陶技を学んだ。以後、独立までの約30年間、作陶の修業に打ち込み、陶技の基礎を築いている。その期間中ではあったが、1941(昭和16)年には三重県津市に工房を構えていた川喜田半泥子の千歳山窯に弟子入りする機会を得ることがあり、それ以後自己表現としての茶陶の制作を志向するきっかけをつかむこととなった。 55年に雅号を「休」と称して作家活動を開始し、57年には日本伝統工芸展に初出品した「組皿」が入選する。また、60年には日本工芸会正会員となり、十代休雪と並び高い評価を受けている。彼の作風は、萩焼の伝統を受け継ぎながらも独自の感覚を吹込んだもので、因習的な茶陶の作風に新たな展開を示した。とくに釉薬の表現に新境地を開拓し、藁灰釉を活かした伝統的な萩焼の白釉を兄休雪と共に革新させ、いかにも純白に近いような、いわゆる「休雪白」を創造した。「休雪白」のように白釉を極端に厚塗りする技法は古萩にはなく、いかにもモダンなスタイルでもある。この「休雪白」を用いて「白萩手」「紅萩手」「荒ひび手」といった、独特の質感を呈する豪快かつ大胆なスタイルを創成させている。 67年、兄の休雪の隠居後、三輪窯を受け継ぎ十一代休雪を襲名。76年紫綬褒章、82年には勲四等瑞宝章を受章、83年4月13日に重要無形文化財「萩焼」保持者に認定された。兄弟での人間国宝認定は陶芸界で前例の無い快挙とされる。その後も作陶への探究を続け、粗めの小石を混ぜた土を原料とした古くからの技法である「鬼萩」を自らの技法へと昇華させた。2003(平成15)年に長男龍作へ休雪を譲り、自らは壽雪と号を改めた。土練機を用いず土踏みでの粘土作りを続けるなど、全ての作陶過程を自らの手で行う事にこだわりを持ち、晩年まで活動を続けた。壽雪はいわば近代萩焼の革新者であり、それまで注目されなかった桃山時代の雄渾なるスタイルを現代に甦らせることで、現在美術としての萩焼を創出させたのである。その業績は、美濃焼における荒川豊蔵、唐津焼における中里無庵、あるいは備前焼における金重陶陽らに、匹敵するものであろう。しかし、じつのところは、あまり器用な作陶家ではなかったようだ。「不器用は、不器用なりに。茶碗の場合はの。器用すぎてもいかんのじゃ、これは。茶碗の場合はの。器用すぎるほど、土が伸びてしまっていかんのじゃ。やっぱし技術的には稚拙なところが、多少はあるほうが茶陶、茶碗としては、好ましい雰囲気のものになるわけじゃ」と本人は語っている。

大場松魚

没年月日:2012/06/21

読み:おおばしょうぎょ、 Oba, Shogyo※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  蒔絵の重要無形文化財保持者(人間国宝)の大場松魚は6月21日午前11時5分、老衰のため石川県津幡町のみずほ病院で死去した。享年96。 1916(大正5)年3月15日、石川県金沢市大衆免井波町(現、金沢市森山)に塗師の和吉郎(宗秀)の長男に生まれる。本名勝雄。1933(昭和8)年3月、石川県立工業学校図案絵画科を卒業、父のもとで家業の髹漆を学ぶ。43年3月、金沢市県外派遣実業練習生として上京し、金沢出身の漆芸家で同年5月に東京美術学校教授となる松田権六に師事。内弟子として東京都豊島区の松田宅に寄宿して2年間修業を積み、松田の大作「蓬莱之棚」などの制作を手伝った。45年3月、研修期間終了のため金沢に帰り、海軍省御用のロイロタイル工場に徴用されるが、徴用中に「春秋蒔絵色紙箱」を制作し、本格的な作家活動に入る。終戦後、同作品を第1回石川県現代美術展に出品して北国新聞社賞を受賞し、金沢市工芸展に「飛鶴蒔絵手箱」を出品して北陸工芸懇和会賞を受賞。46年2月の第1回日展に「蝶秋草蒔絵色紙箱」を出品して初入選。同年10月の第2回日展に出品した「槇紅葉蒔絵喰籠」は石川県からマッカーサー(連合国軍最高司令官)夫人に贈呈されたという。48年の第4回日展に「漆之宝石箱」を出品して特選を受賞。52年6月から翌年の9月にかけて第59回伊勢神宮式年遷宮の御神宝(御鏡箱・御太刀箱)を制作。53年の第9回日展に「平文花文小箪笥」(石川県立美術館)を出品して北斗賞を受賞。このころから後に大場の代名詞となる平文技法を意識的に用い始める。56年の第3回日本伝統工芸展に出品して初入選。57年の第4回日本伝統工芸展に「平文小箪笥」を出品して奨励賞を受賞。同年は第13回日展にも依嘱出品し、これが最後の日展出品となった。58年の第5回日本伝統工芸展に「平文宝石箱」(東京国立近代美術館)、翌年の第6回展に「平文鈴虫箱」を出品して、ともに朝日新聞社賞を受賞。66年11月、金沢市文化賞を受賞。73年の第20回日本伝統工芸展に「平文千羽鶴の箱」(東京国立近代美術館)を出品して20周年記念特別賞を受賞。59年に日本工芸会の正会員となり、64年に理事、86年に常任理事に就き、87年から2003(平成15)まで副理事長として尽力した。60年以降は同会の日本伝統工芸展における鑑審査委員等を依嘱され、また86年から03年まで同会の漆芸部会長もつとめた。64年8月より67年5月まで中尊寺金色堂(国宝)の保存修理に漆芸技術者主任として従事。72年5月から翌年の3月にかけて第60回伊勢神宮式年遷宮の御神宝(御鏡箱・御櫛箱・御衣箱)を制作。こうした機会を通じて古典技法に対する造詣を深めつつ、蒔絵の分野の一技法であった平文による意匠表現を探求して独自の道を開いた。平文は、金や銀の板を文様の形に切り、器面に埋め込むか貼り付けるかして漆で塗り込み、研ぎ出すか金属板上の漆をはぎ取って文様をあらわす技法である。大場の平文は、蒔絵粉に比して強い存在感を示す金属板の効果を意匠に生かす一方、筆勢を思わせるほど繊細な線による表現も自在に取り入れ、これに蒔絵、螺鈿、卵殻、変り塗などの各種技法を組み合わせて気品ある作風を築いたと評される。77年2月に石川県指定無形文化財「加賀蒔絵」保持者に認定され、78年に紫綬褒章を受章、そして82年4月に国の重要無形文化財「蒔絵」保持者に認定された。漆芸作家としての人生を通して金沢に居を構え、多くの弟子を自宅工房に受け入れ、地場の後継者育成に尽力した功績は大きく、研修・教育機関においても、67年4月から輪島市漆芸技術研修所(現、石川県輪島漆芸技術研修所)の講師、88年から同研修所の所長をつとめ、77年4月には金沢美術工芸大学の教授に着任、81年3月の退任後(名誉教授)も客員教授として学生を指導した。

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