三浦景生
染色家の三浦景生は8月28日死去した。享年99。
1916(大正5)年8月20日、父久次郎、母タキの長男として京都市に生まれる。本名景雄。1932(昭和7)年、丸紅株式会社意匠部に染織図案制作の見習いとして入社する。42年、大阪陸軍造兵廠に徴用される。45年、終戦とともに徴用を解かれる。46年、丸紅株式会社意匠部の再建に参加。47年第3回日展に蝋染屏風「池の図」が初入選。同年、丸紅株式会社図案部を退社し、小合友之助を師事。その後、京展や日展に出品を行う。55年には初の個展である「三浦景生染色工芸展」を京都府ギャラリーで開催。59年、第2回新日展にて、「朧」が特選・北斗賞を受賞。この時期の作品から、現像的・無双的な具象表現から知的で鋭い抽象表現に移行したと評される。61年以降、染色作品展(黒田暢、寺石正作、来野月乙、三浦景生)を京都府ギャラリーや養清堂画廊で開催。養清堂画廊では、65年に「三浦景生作品展」、66年には「三浦景生・五東衛(清水九兵衛)展」、77年「三浦景生染絵展」等を開催する。
62年第1回日本現代工芸美術展にて「青い風景」が会長賞・文部大臣賞を受賞。翌年、京都市立美術大学美術学部工芸科染織図案の助教授となる。67年、社団法人日展の会員となる。71年、京都市立芸術大学美術学部工芸科染織専攻の教授となる。78年には第30回京展にて「春の譜(椿と水仙)」が記念市長大賞を受賞。80年には「染と織-現代の動向」展(群馬県立近代美術館)に出品。翌年には「ろう染の源流と現代展」(サントリー美術館)に出品。1982年『三浦景生作品集』(染織と生活社)を出版。同年、京都市立芸術大学を定年退官し、名誉教授の称号を受ける。大手前女子大学が染色科を創設したことに伴い、教授に着任。
83年には「現代日本の工芸展-その歩みと展開」(福井県立美術館)に出品。同年、京都府文化功労者に選ばれる。84年、「京都府企画・三浦景生展」(京都府立文化芸術会館)を開催。同年より染織と生活社刊行の月刊誌「染織α」の表紙絵の担当を始める(1998年4月号まで担当)。さらに、石川県九谷焼技術研修所に出講し、作図の指導を行う。これが契機となり、九谷焼に依る色絵磁器の制作を試みるようになる。同年、京都市文化功労者に選ばれる。
85年には有楽町の阪急百貨店にて「三浦景生の宇宙」展を開催。87年、「1960年代の工芸(高揚する新しい造詣)」展(東京国立近代美術館工芸館)に出品。同年、第9回日本新工芸展にて「きゃべつ畠の虹」が内閣総理大臣賞を受賞。1990(平成2)年、「染の世界・三浦景生展」(高島屋美術画廊/京都)を開催。91年、京都のギャラリーマロニエにて月刊染織αの「表紙絵原画展」を開催。94年には「現代の染め四人展 佐野猛夫、三浦景生、伊砂利彦、来野月乙」国立国際美術館に出品。同年、京都工芸美術作家協会の理事長となる。
95年、第13回京都府文化賞特別功労賞を受賞。96年、『三浦景生作品集』を求龍堂より出版。98年目黒区美術館にて「染の詩-三浦景生展」を開催。99年、芸術選奨文部大臣賞を受賞。2000年、「染・1990-2000 三浦景生展」(エスパスOHARA/東京)を開催。
題材に野菜なども好み、染色家としてのパネルや着物だけでなく、陶板や陶筥も制作している。活動は制作だけでなく、嵯峨美術短期大学や多摩美術大学、京都精華大学等でも講義や講演を行った。
16年には回顧展となる「三浦景生の染め 白寿の軌跡」が京都市美術館で開催された。
作品は東京国立近代美術館や京都国立近代美術館等に所蔵されている。
登録日:2018年10月11日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)
例)「三浦景生」『日本美術年鑑』平成28年版(549頁)
例)「三浦景生 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/809216.html(閲覧日 2024-11-14)
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