本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





加藤重髙

没年月日:2013/04/09

読み:かとうしげたか  陶芸家の加藤重髙は、4月9日午前10時50分、ぼうこうがんのため自宅で死去した。享年85。 1927(昭和2)年4月26日、愛知県瀬戸市窯神町に加藤唐九郎ときぬの三男として生まれる。15歳になる42年頃から、陶芸家として活躍していた父・唐九郎の助手として作陶を始め、愛知県立窯業学校を卒業した45年頃からは個人作家としての活動をも開始した。陶技は、愛知県瀬戸地域の伝統的な技法である灰釉・鉄釉・志野・織部・黄瀬戸を中心に、信楽や唐津など幅広く、58年の第1回新日展に「織部壺」で初入選を果たし作家としてデビューした。65年には第4回日本現代工芸美術展に入選し、翌年の第5回展では「流れ」を出品し工芸賞を受賞。66年の第9回日展では「刻文方壺」で特選・北斗賞を受賞し、翌年には、前年(昭和41年度)の活躍に対して日本陶磁協会賞を受賞した。またその間、63年から始まった陶芸公募展の第1回朝日陶芸展に「湧く」を出品して入選し、以降、69年の第7回展まで連続入選。65年の第3回展、66年の第4回展、68年の第6回展では受賞を果たし、70年の第8回展では審査員を務めた。68年には広島県宮島町役場に初の陶壁を設置した。71年以降、公募展や団体展の出品をすべてやめて個展を中心とした活動に切り替え、茶碗や花生、水指などの茶陶を中心に発表。とくに86年までは、ほぼ毎年のように陶壁を制作し、数多くの作品を残したことから、陶壁の作家としても知られた。1998(平成10)年、名古屋市芸術特賞を受賞し、翌年には受賞記念の個展を名古屋で開催した。 加藤重髙の活動は、日展を活動の場とした70年までの第1期(日展時代)と、公募展や団体展での発表をやめた71年から父・唐九郎がなくなる85年までの、すなわち唐九郎の作陶活動を支えたアシスタント時代の第2期、唐九郎の没後の86年から亡くなる2013年までの第3期にほぼ大別できる。第1期では公募展や団体展を意識した大形の作品を数多く手がけた。作品は、土を巧みに扱いながら素材感を最大限に生かしたもので、スペインの画家ジョアン・ミロが唐九郎を訪ねた際、唐九郎よりも重髙の作品に興味を示し、その才能を高く評価したというエピソードが残っている。第2期は、自身の創作性を一切おもてに出すことのない助手として父の作陶を支える一方で、個展を発表の場として茶陶を中心に、建築の壁面を飾る陶壁も数多く制作した。そして第3期は、日展時代に培った土への探究をさらに強く打ち出した刻文による表現を確立させて、叩きの技法を用いた迫力ある作品を生み出すとともに、父の影として培った茶陶の造形を独自に発展し展開させた。なかでも、鼠志野に見られる独特の釉色が生み出す独自の世界は、重髙芸術の真骨頂ともいえるものである。また最晩年は、朝鮮唐津にも力を入れて、独自の造形観を見せつけた。

三輪壽雪

没年月日:2012/12/11

読み:みわじゅせつ  萩焼の陶芸家で重要無形文化財保持者(人間国宝)の三輪壽雪は12月11日、老衰のため死去した。享年102。 1910(明治43)年2月4日山口県萩市で生まれる。本名は節夫。生家は代々萩焼を家業とし、旧萩藩御用窯でもあって家督を継いでいた次兄の休和(1970年に重要無形文化財「萩焼」保持者の認定を受ける)を助け、陶技を学んだ。以後、独立までの約30年間、作陶の修業に打ち込み、陶技の基礎を築いている。その期間中ではあったが、1941(昭和16)年には三重県津市に工房を構えていた川喜田半泥子の千歳山窯に弟子入りする機会を得ることがあり、それ以後自己表現としての茶陶の制作を志向するきっかけをつかむこととなった。 55年に雅号を「休」と称して作家活動を開始し、57年には日本伝統工芸展に初出品した「組皿」が入選する。また、60年には日本工芸会正会員となり、十代休雪と並び高い評価を受けている。彼の作風は、萩焼の伝統を受け継ぎながらも独自の感覚を吹込んだもので、因習的な茶陶の作風に新たな展開を示した。とくに釉薬の表現に新境地を開拓し、藁灰釉を活かした伝統的な萩焼の白釉を兄休雪と共に革新させ、いかにも純白に近いような、いわゆる「休雪白」を創造した。「休雪白」のように白釉を極端に厚塗りする技法は古萩にはなく、いかにもモダンなスタイルでもある。この「休雪白」を用いて「白萩手」「紅萩手」「荒ひび手」といった、独特の質感を呈する豪快かつ大胆なスタイルを創成させている。 67年、兄の休雪の隠居後、三輪窯を受け継ぎ十一代休雪を襲名。76年紫綬褒章、82年には勲四等瑞宝章を受章、83年4月13日に重要無形文化財「萩焼」保持者に認定された。兄弟での人間国宝認定は陶芸界で前例の無い快挙とされる。その後も作陶への探究を続け、粗めの小石を混ぜた土を原料とした古くからの技法である「鬼萩」を自らの技法へと昇華させた。2003(平成15)年に長男龍作へ休雪を譲り、自らは壽雪と号を改めた。土練機を用いず土踏みでの粘土作りを続けるなど、全ての作陶過程を自らの手で行う事にこだわりを持ち、晩年まで活動を続けた。壽雪はいわば近代萩焼の革新者であり、それまで注目されなかった桃山時代の雄渾なるスタイルを現代に甦らせることで、現在美術としての萩焼を創出させたのである。その業績は、美濃焼における荒川豊蔵、唐津焼における中里無庵、あるいは備前焼における金重陶陽らに、匹敵するものであろう。しかし、じつのところは、あまり器用な作陶家ではなかったようだ。「不器用は、不器用なりに。茶碗の場合はの。器用すぎてもいかんのじゃ、これは。茶碗の場合はの。器用すぎるほど、土が伸びてしまっていかんのじゃ。やっぱし技術的には稚拙なところが、多少はあるほうが茶陶、茶碗としては、好ましい雰囲気のものになるわけじゃ」と本人は語っている。

大場松魚

没年月日:2012/06/21

読み:おおばしょうぎょ  蒔絵の重要無形文化財保持者(人間国宝)の大場松魚は6月21日午前11時5分、老衰のため石川県津幡町のみずほ病院で死去した。享年96。 1916(大正5)年3月15日、石川県金沢市大衆免井波町(現、金沢市森山)に塗師の和吉郎(宗秀)の長男に生まれる。本名勝雄。1933(昭和8)年3月、石川県立工業学校図案絵画科を卒業、父のもとで家業の髹漆を学ぶ。43年3月、金沢市県外派遣実業練習生として上京し、金沢出身の漆芸家で同年5月に東京美術学校教授となる松田権六に師事。内弟子として東京都豊島区の松田宅に寄宿して2年間修業を積み、松田の大作「蓬莱之棚」などの制作を手伝った。45年3月、研修期間終了のため金沢に帰り、海軍省御用のロイロタイル工場に徴用されるが、徴用中に「春秋蒔絵色紙箱」を制作し、本格的な作家活動に入る。終戦後、同作品を第1回石川県現代美術展に出品して北国新聞社賞を受賞し、金沢市工芸展に「飛鶴蒔絵手箱」を出品して北陸工芸懇和会賞を受賞。46年2月の第1回日展に「蝶秋草蒔絵色紙箱」を出品して初入選。同年10月の第2回日展に出品した「槇紅葉蒔絵喰籠」は石川県からマッカーサー(連合国軍最高司令官)夫人に贈呈されたという。48年の第4回日展に「漆之宝石箱」を出品して特選を受賞。52年6月から翌年の9月にかけて第59回伊勢神宮式年遷宮の御神宝(御鏡箱・御太刀箱)を制作。53年の第9回日展に「平文花文小箪笥」(石川県立美術館)を出品して北斗賞を受賞。このころから後に大場の代名詞となる平文技法を意識的に用い始める。56年の第3回日本伝統工芸展に出品して初入選。57年の第4回日本伝統工芸展に「平文小箪笥」を出品して奨励賞を受賞。同年は第13回日展にも依嘱出品し、これが最後の日展出品となった。58年の第5回日本伝統工芸展に「平文宝石箱」(東京国立近代美術館)、翌年の第6回展に「平文鈴虫箱」を出品して、ともに朝日新聞社賞を受賞。66年11月、金沢市文化賞を受賞。73年の第20回日本伝統工芸展に「平文千羽鶴の箱」(東京国立近代美術館)を出品して20周年記念特別賞を受賞。59年に日本工芸会の正会員となり、64年に理事、86年に常任理事に就き、87年から2003(平成15)まで副理事長として尽力した。60年以降は同会の日本伝統工芸展における鑑審査委員等を依嘱され、また86年から03年まで同会の漆芸部会長もつとめた。64年8月より67年5月まで中尊寺金色堂(国宝)の保存修理に漆芸技術者主任として従事。72年5月から翌年の3月にかけて第60回伊勢神宮式年遷宮の御神宝(御鏡箱・御櫛箱・御衣箱)を制作。こうした機会を通じて古典技法に対する造詣を深めつつ、蒔絵の分野の一技法であった平文による意匠表現を探求して独自の道を開いた。平文は、金や銀の板を文様の形に切り、器面に埋め込むか貼り付けるかして漆で塗り込み、研ぎ出すか金属板上の漆をはぎ取って文様をあらわす技法である。大場の平文は、蒔絵粉に比して強い存在感を示す金属板の効果を意匠に生かす一方、筆勢を思わせるほど繊細な線による表現も自在に取り入れ、これに蒔絵、螺鈿、卵殻、変り塗などの各種技法を組み合わせて気品ある作風を築いたと評される。77年2月に石川県指定無形文化財「加賀蒔絵」保持者に認定され、78年に紫綬褒章を受章、そして82年4月に国の重要無形文化財「蒔絵」保持者に認定された。漆芸作家としての人生を通して金沢に居を構え、多くの弟子を自宅工房に受け入れ、地場の後継者育成に尽力した功績は大きく、研修・教育機関においても、67年4月から輪島市漆芸技術研修所(現、石川県輪島漆芸技術研修所)の講師、88年から同研修所の所長をつとめ、77年4月には金沢美術工芸大学の教授に着任、81年3月の退任後(名誉教授)も客員教授として学生を指導した。

藤平伸

没年月日:2012/02/27

読み:ふじひらしん  陶芸家で京都市立芸術大学名誉教授の藤平伸は、2月27日老衰のため死去した。享年89。 1922(大正11)年7月25日、京都市五条坂の藤平陶器所を営む藤平政一の次男として生まれる。父政一と五条坂の作陶仲間として昵懇の仲であったのが、陶芸家河井寛次郎であった。じつは「伸」という名前の命名者は、父の畏友である河井寛次郎であったという。父の仕事を見ながら成長し、1940(昭和15)年に京都高等工芸学校(現、京都工芸繊維大学)窯業科に入学したが、二年生の時、結核に倒れて退学。四年間の闘病生活の間、スケッチや読書に明け暮れ、回復後は銅版画教室に通う。この時期の体験が後の作陶に大きな影響を与え、「病気をしていなかったら、いまの自分はなかった」と自ら語るように、死に対峙したことにより、清らかさの漂うメルヘン的な作風が培われたと考えられる。 51年頃、父のもとで陶芸の道に入り、53年に日展初入選。56年、京都陶芸家クラブに入って、六代目清水六兵衛氏の指導を受ける。以後、日展を主舞台に活動し、57年に第13回日展で陶板によるレリーフの「うたごえ」が、特選の北斗賞を受賞。我が国の工芸において富本憲吉、河井寛次郎、八木一夫等と共に近代の京都陶芸史に足跡を残す一人となった。70年に京都市立芸術大学に助教授として招かれ、73年に教授となって88年に退官するまで作陶と後進の指導を行っている。 その陶芸の作風には気負いは全く感じられず、まさに自然体の姿勢が創作への源ともなっていた。轆轤を使わず、手捻りやタタラで成形を行っている。作品は単に器だけでなく、人物(陶人形)や鳥や馬などの動物、建築物などの詩情溢れる陶彫も手掛けている。そのモチーフの多くは、中国・漢代や唐代などの俑に代表される、墓に埋納される明器からの影響を受けていた。器には鳥・花・人物などの具象的なモチーフを線描・刻線・貼り付けなどの技法を用いて、軽妙な作風を示している。それら心温まる陶彫と器の作品群などにより、「陶の詩人」とも呼ばれている。 62年に日展菊華賞、73年に日本陶磁協会賞、1990(平成2)年に京都美術文化賞、93年には毎日芸術賞などをそれぞれ受賞。日展評議員、京都市立芸術大学名誉教授でもあった。“遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子供の聲きけば 我が身さえこそ揺るがるれ”、という平安時代末期に後白河法皇により編まれた今様歌謡(『梁塵秘抄』巻第二)をとくに好み、書にも残している。この歌の精神を持った、まことに京都の文人らしい軽妙洒脱でメルヘンの世界をやきもので表現し、日本の創作陶芸において独自の境地を開拓した陶芸家であった。

細見華岳

没年月日:2012/01/01

読み:ほそみかがく  綴織の重要無形文化財保持者(人間国宝)の細見華岳は1月1日、急性心不全のため死去した。享年89。 綴織は「爪で織る錦」とも称され、かつては天竺織、納錦、綴縷錦、などの字が充てられていた。経糸の下に原寸大の下絵を置き、杼に通した緯糸で経糸を綴りわけ文様を表す。その特長は、文様表現に必要な部分のみ色糸を入れるため、多彩で複雑な絵柄も自由自在に表現できる。綴織の技術者は爪先が櫛状に砥がれ整えられているが、細見華岳の爪も同様に整えられていたという。 綴織は正倉院御物にも確認されるが、日本で織りだされたのはいつ頃かは定かではない。林瀬平が織りだしたという説(『西陣天狗筆記』)や、京都御室にある仁和寺の僧が手内職に綴れを織り始めた、など諸説ある。明治時代に入ると2代川島甚兵衞の尽力もあり室内装飾品として重宝された。戦前までは京都の御室で織られたものが本綴れと称され、御室界隈には綴れを織る機屋が集中した。 細見華岳は1922(大正11)年8月23日、兵庫県氷上郡春日町(現、丹波市)の農家に生まれる。37年、京都西陣の帯の織元、京都幡多野錦綉堂に入所。綴織の技術を習得する。40年に始まる七・七禁令施行時には企業が川島織物などに合併されながらも仕事を続けていたが、43年に徴兵され満州第11国境守備隊に入隊する。敗戦後はシベリアに抑留され、48年に帰国。 帰国後、故郷の丹波へ戻ったが織物の道を再び志し、翌年、綴れの聖地御室に独立して綴織工房をもつ。独立後は羅の重要無形文化財保持者である喜多川平朗、友禅の重要無形文化財保持者である森口華弘などに指導を受けながら日本伝統工芸展を中心に活躍した。喜多川平朗に勧められ出品した第1回日本伝統工芸近畿展に出品し入選。その後、63年には第10回日本伝統工芸展に綴帯「ながれ」を出品し初入選。翌年の日本伝統工芸染織展では綴帯「陶彩」で日本工芸会賞を受賞する。65年、社団法人日本工芸会正会員に認定。68年、日本伝統工芸染織展にて日本工芸会賞受賞。この頃より「よろけ織」への挑戦を始める。75年、近畿支部日本伝統工芸展にて大阪府教育委員会賞受賞。同年、京都府伝統産業新製品作品展にて奨励賞受賞。 76年には、フランス・ポーランド・旧ユーゴスラヴィアで開催された「現代日本の染織展」に出品。84年の第21回日本伝統工芸染織展では紗変織夏帯「渚の月」にて文化庁長官賞受賞。翌年、第32回日本伝統工芸展では綴帯「友愛」にて日本工芸会会長賞を受賞。この作品は日中友好10周年を記念して中国へ行った時に訪ねた動物園の孔雀の美しさに感動し誕生したという。友愛の名はかつて戦った中国の人々が親切だったことに感動してつけられた。87年、第34回日本伝統工芸展では有紋薄物着尺「爽」が保持者選賞を受賞。1990(平成2)年には銀座・和光にて個展「綴と50年」を開催する。 翌年、沖縄県立芸術大学美術工芸学部教授に就任。97年まで学生の指導にあたる。92年、京都府指定無形文化財「綴織」保持者に認定。93年には勳四等瑞宝章を受章。96年銀座・和光にて個展「つづれ織・波と光」を開催。京都市の指定より5年後の97年には重要無形文化財「綴織」保持者(人間国宝)に認定される。98年、式年遷宮記念神宮美術館に綴帯「晨」等を献納。2002年、京都市文化功労者表彰。03年銀座・和光にて個展「-つづれ織・糸の旋律-」を開催。05年、西陣織物館に綴織額を寄贈。翌年、横浜のシルク博物館にて「-綴織に心をこめて-人間国宝 細見華岳展」が開催される。11年には卒寿を記念して「細見華岳展―つづれ織・糸の旋律―」(銀座・和光)を開催。 作品は文化庁、東京国立近代美術館、シルク博物館などに所蔵されている。

早川尚古齋

没年月日:2011/12/07

読み:はやかわしょうこさい  重要無形文化財保持者(竹工芸)の五世早川尚古齋は12月7日、肺炎のため死去した。亨年79。 1932(昭和7)年6月12日、竹工芸家四世早川尚古齋の長男として大阪に生まれる。本名修平。初代は越前鯖江に生まれ、京都で修業したのちに大阪で名を馳せた籃師である。45年大阪空襲で2度の戦災に遭い、京都市右京区に居を移す。51年、京都府立山城高等学校卒業後、父のもとで修業に入る。号は尚坡。見て覚えろと言われ、時には四世の籃をほどいて独習した。その後、早川家に伝わる伝統的な鎧組、そろばん粒形花籃、興福寺形牡丹籃の3種類の形を習得し独立が許され、65年初めての個展を大阪三越で開催する。この時、今東光の命名によって尚篁と改号する。翌年、第13回日本伝統工芸展に「重ね編広口花籃」を初出品し初入選する。 76年、第23回日本伝統工芸展に「切込透文様盛物籃」を出品し日本工芸会奨励賞を受賞する。「切込透」とは早川家の伝統的な鎧組(幅の広い竹材を揃えて組む)を基本として五世早川尚古齋が考案したもので、幅広の材を部分的に細かく削り、幅の広いところと狭いところを組み合わせることにより透かし文様が表れる組み方である。伝統を踏まえた上での新たな試みが評価をされたといえる。77年、父・四世早川尚古齋三回忌を機に五世早川尚古齋を襲名する。同年、大阪美術倶楽部で襲名記念「歴代尚古齋展」を開催し、その後も京都市美術館「現代の工芸作家展―京都を中心とした―」(1978年)への招待出品、大阪大丸や大阪三越で多くの個展を開催する。 82年、50歳の時に第29回日本伝統工芸展ではじめて鑑査委員を務め、その後歴任する。83年、名古屋松坂屋本店で「竹の道30年展」を開催。同年、東京国立近代美術館で「伝統工芸30年の歩み展」が開催され後に同館所蔵となる「切込透文様盛物籃」(第23回日本伝統工芸展、日本工芸会奨励賞受賞作)を出品する。その後も展覧会への出品が続き、「竹の工芸―近代における展開―」(東京国立近代美術館、1985年)や「現代作家15人展」(京都市美術館、1985年)、「心と技―日本伝統工芸展・北欧巡回展」(1990年)や「第7期 現代京都の美術・工芸展」(京都府京都文化博物館、1990年)、「北欧巡回展帰国記念伝統工芸名品展」(大阪、名古屋、東京日本橋三越、1991年)に出品する。1991(平成3)年、以前より審査員などで活躍をしていた日本煎茶工芸協会常務理事に就任する。この頃には組技法の作品を多く出品し「組の早川」と称されるようになる。 92年、京都府指定無形文化財「竹工芸」保持者に認定される。その後も「現代京都の美術・工芸展」(京都府京都文化博物館、1995年)や京都府指定無形文化財保持者9人で開催した合同展覧会「伝統と創生」(京都府京都文化博物館、2000年)などに出品する。96年、第43回日本伝統工芸展に「透文様盛物籃」を出品し、重要無形文化財保持者から選ばれる日本工芸会保持者賞を受賞する。 99年、国際芸術文化賞を受賞する。2001年、初代尚古齋の縁の地にある福井県鯖江市資料館で「竹工芸の技と美―早川尚古齋展」が開催される。02年竹芸の道五十年と古希を記念して『「竹芸の道」五十周年記念 五世早川尚古齋作品集』を刊行する。

井波唯志

没年月日:2011/01/25

読み:いなみただし  漆芸家の井波唯志は1月25日、急性心不全にて死去した。亨年87。 1923(大正12)年3月10日、代々加賀蒔絵を営む二代目喜六斎の長男として金沢市に生まれる。本名忠。1944(昭和19)年東京美術学校附属文部省工芸技術講習所卒業。在学中は漆芸を山崎覚太郎に、陶芸を加藤土師萌と富本憲吉に師事し美術工芸の方向を探求するようになる。その後、父の二代目喜六斎(日本工芸会正会員)より加賀蒔絵の技術を習得するが、活躍の場は日本工芸会ではなく日展や日本現代工芸美術展が中心となる。両展で評価を受けたものの多くが漆屏風や漆芸額であり題材も抽象的でモダンな作風である。 46年、第2回日展で出品した手筥「夏の蔓草」が初入選。以来、連続入選し、第10回日展では漆屏風「彩苑」が第1回改組日展では漆屏風「化礁譜」が特選・北斗賞を受賞する。74年には日展会員に、その5年後には日展評議員に就任する。1994(平成6)年、第26回日展では漆屏風「晴礁」が日本芸術院賞を受賞し、翌年には日展理事に就任している。 一方、日本現代工芸美術展では64年の第3回展に出品した「白日」が現代工芸賞を受賞する。その後も同展での活躍が続き、第5回展出品の「風かおる」や第8回展出品の「湖精」が外務省に、第10回展出品の「海の棹歌」がノルウェー・トロンドハイム美術館買い上げとなる。84年に開催された第23回展では漆芸額「汀渚にて」が内閣総理大臣賞を受賞する。なお、第10回では審査員も務め、75年には現代工芸美術家協会理事に就任する。 これらの活躍と並行し、53年には輪島市立輪島漆器研究所所長に就任する。その後十五年間にわたり漆芸パネルや大型家具の開発など時代に合わせた漆器意匠開発に努める。75年には石川美術文化使節副団長として渡欧。翌年から二年間にかけて横浜高島屋で父子漆芸展を開催し、同展以降は父喜六斎の作品と共に出品されることも多くなる。 その後も「金沢四百年記念国際工芸デザイン交流展」(1982年)や開館記念特別展「現代漆芸の巨匠たち」(輪島漆芸美術館、1991年)、「開館十周年記念特別展 石川の美術―明治・大正・昭和の歩み―」展(石川県立美術館、1994年)、浦添市美術館開館5周年記念「輪島漆芸展」(浦添市美術館)、特別展「輪島の現在漆芸作家」(石川県輪島漆芸美術館、1997年)、「日蘭交流400周年記念日本現代漆芸展」(ヤン・ファン・デルトフト美術館、2000年)、友好提携石川県輪島漆芸美術館10周年記念「漆芸の今、現代輪島漆芸」展(浦添市美術館、2001年)、「現代漆芸作家―輪島の今:開館15周年記念展」(輪島漆芸美術館、2006年)等に出品を重ねる。また、大阪心斎橋大丸や日本橋三越で多くの個展を開催する。 2008年にはイタリア・ローマ日本文化会館で開催されたローマ賞典祭「北陸の工芸・現代ガラス工芸展」に花器「洋々」を出品。長年の活躍の場でもあった第48回日本現代工芸美術展(2009年)に「翔陽」を、そして第42回日展に「宙と海の記憶」(2010年)を出品している。2011年には石川県輪島漆芸美術館「漆、悠久の系譜:縄文から輪島塗、合鹿椀:開館20周年記念特別展」において父喜六齋の「縞模様研出蒔絵宝石箱」とともに第32回日展へ出品した漆屏風「水澄めり」が出品される。 加賀蒔絵の系譜を想起させる伝統的な蒔絵の作品だけでなく、朱漆等が印象的で抽象的な作風も多く見られる。蒔絵粉の粒度や細やかな技法の違いによる表現を検討するため、必ず試験手板を数種類制作した上で作品に用いたという。上記以外にも北國文化賞(1982年)や石川テレビ文化賞(1985年)、輪島漆器蒔絵組合功労賞(1986年)、紺綬褒章(1987年、1990年)、漆工功労者表彰(日本漆工協会、1993年)、石川県文化功労賞(1994年)、勲四等旭日小綬章(1995年)を受賞(章)している。 2013年、石川県輪島漆芸美術館で回顧展でもある「漆革新 井波家四代の足跡」が開催される。作品は石川県立美術館や石川県輪島漆芸美術館に所蔵されている。

永山光幹

没年月日:2010/03/22

読み:ながやまこうかん  刀剣研磨で重要無形文化財保持者である永山光幹は3月22日死去した。享年90。1920(大正9)年3月21日、神奈川県中郡相川村(現、厚木市)の農家に7人兄弟の末子として生まれる。本名永山茂。1934(昭和9)年、14歳のとき東京下谷区黒門町の研師で、鑑定家でもあった本阿弥光遜に入門し、刀剣研磨の道に進む。師の光遜は水戸の本阿弥家の研師であったが、別系統で名人と呼ばれていた本阿弥琳雅に学び、将軍家や大名の所蔵していた刀剣を代々伝承された技で研ぐ家研ぎの継承者であった。44年、兵役に召集され歩兵第49連隊に入営し中国に出征し、現地でも軍刀の研磨に従事した。46年、復員し、ただちに光遜に再入門するが、戦後進駐軍による日本刀の没収、愛好家や旧大名の経済力の低下などにより、本格的な研磨の依頼はほとんどなかったと本人は回顧している。48年に日本刀の保存を目的として設立された日本美術刀剣保存協会が開催した55年の研磨技術発表会で無鑑査に認定され、名実ともに名工との評価を得、同展の審査委員となる。56年神奈川県平塚市で開業、59年中郡大磯町西小磯に転居し、弟子を採り始める。永山の功績の大きなところは、秘伝、奥義といった貴重な成果を隠してはならないとして、技術を開示したことと、後継者を多く養成したことである。68年に平塚の旧宅に「永山美術刀剣研磨研修所」を開設し、月謝制によって研磨の技術を教えたことでも裏付けできる。78年、ユネスコの要請によりベネチアの東洋美術館の所蔵刀剣の調査を行い、帰国後10点を研磨した。研磨した刀剣は春日大社の国宝の金装花押散兵庫鎖太刀、重要文化財の堀川国広はじめ多くの重要文化財がある。また『刀剣鑑定読本』、『日本刀を研ぐ』など刀剣の研磨、鑑定に関する著作もある。1998(平成10)年、重要無形文化財に認定され、2000年勲四等旭日小綬章を受章する。

伊砂利彦

没年月日:2010/03/15

読み:いさとしひこ  染色作家の伊砂利彦は3月15日、肺がんのため死去した。享年85。1924(大正13)年9月10日、伊砂藤太郎、正代の長男として京都市中京区三条猪熊町に生まれる。実家は3代続いた友禅の糊置き業であった。1941(昭和16)年京都市立美術工芸学校彫刻科卒業。44年に海軍二期予備生徒として滋賀海軍航空隊に入隊。45年終戦とともに復員。京都市立絵画専門学校図案科卒業。以後、家業の染色に従事する。戦後の失業者救済事業として、友禅染を元来の分業ではなく一貫作業で行う工房の経営を任される。この経験は、複雑な染色工程や技術を学ぶ機会となった。その後、仕事増加により生活も安定する一方、作品の制作をはじめる。富本憲吉の「模様より模様を作らず」に感銘を受け、同氏が主催する新匠会で活躍することとなる。当初は蝋纈染の作品を制作していたが、その後、型絵染へと表現技法が変化していく。そこには初期の新匠会を牽引し、型絵染で活躍した稲垣稔次郎の存在があったという。53年、第8回新匠会公募展に蝋纈パネル「新芽」を出品、初入選。以後、同展に連続出品する。54年に工房を開設。松、水、音楽や海などをテーマに幅広い作品を制作した。58年新匠会会友となり、翌年には新匠会会員となる。63年京都の土橋画廊で初個展、型絵染「松シリーズ」小品展開催以降、継続的に個展を開催する。71年第26回新匠会展出品の着物「流れ」が富本賞受賞。同年、京都・射手座で安田茂郎と二人展を開催。75年に新匠会が新匠工芸会と改称され、同会の会務責任者となる。80年には「近代の型染」展(東京国立近代美術館工芸館)、「染と織 現代の動向」展(群馬県立近代美術館)に出品。世界クラフト会議ウィーン会場で、着物を展示し日本の着物について講演する。82年には「ろう染の源流と現代展」(サントリー美術館)や「染色展」(西武美術館)に出品。83年「現代日本の工芸―その歩みと展開―」(福井県立美術館)に出品。84年、京都芸術短期大学客員教授となる。85年、第40回新匠工芸会展で型絵染屏風「スクリャービン 焔にむかって」が第40回新匠工芸会記念大賞を受賞。87年『伊砂利彦作品集』(用美社)を出版。88年京都市京都芸術文化協会賞を受賞。1989(平成元)年京都府京都文化功労賞と京都美術文化賞を受賞。同年、沖縄県立芸術大学教授となる。90年フランス政府より芸術文化勲章シュバリエ章を受章。91年「羽衣」パリ公演(世界文化会館、ユネスコホール)の舞台美術を担当。第46回新匠工芸会に型絵染屏風「沖縄戦で逝きし人々にささげる鎮魂歌」等を出品。以降、沖縄を主題とした作品が評価を受ける。92年第47回新匠工芸会展で「海に逝きし人々に捧げる鎮魂歌」で第47回新匠工芸会富本賞受賞。京都市文化功労者となる。93年沖縄県庁舎警察棟の記念碑彫刻と壁面装飾を制作。「現代日本の染織」展(福島県立美術館)に出品。94年「現代の型染」展(東京国立近代美術館工芸館)や「現代の染め―4人展」(国立国際美術館)に出品。95年沖縄県立芸術大学奏楽堂緞帳を制作。99年、フランスのシャルトルステンドグラス国際センターで個展「フランス、パリ―シャルトル」を開催。「京の友禅」展(目黒区美術館)に出品。2001年、京都芸術センターで、特大和紙型絵染「月四部作」を公開制作し、内覧会を開催。03年「音楽による造形のきもの」展(フランス シャルトル―サンテチェンヌ)に出品。04年、京都市美術館別館にて「-傘寿を記念して-伊砂利彦と11.5人展」開催。05年、東京国立近代美術館工芸館にて「伊砂利彦―型染の美」展開催。京都迎賓館に型絵染額装「花」「一文字松」「水の表情12景」を制作。06年、「音と形の出会い―伊砂利彦とドビュッシーをめぐって―」展開催(京都芸術センター)。京都迎賓館に型絵染屏風「ムソルグスキー展覧会の絵」より「リモージュの市場」「キエフの大門」を制作。沖縄県立芸術大学名誉教授となる。同年、『型絵染 伊砂利彦の作品と考え』(用美社)を出版。ここには、40年に亘る作品がまとめられている。08年、福島県立美術館にて「伊砂利彦 志村ふくみ 二人展」開催。同展では両氏による共同制作も行われた。09年、第64回新匠工芸会展では「孫よりの贈りもの バラの園」が審査員特別賞受賞。10年、日本文化藝術財団の第1回創造する伝統賞を受賞。11年には追悼「伊砂利彦回顧展」(福島県立美術館)が開催された。作品は京都国立近代美術館、東京国立近代美術館、福島県立美術館などに収蔵されている。

河合誓徳

没年月日:2010/03/07

読み:かわいせいとく  陶芸家で日本芸術院会員の河合誓徳は3月7日、肺炎のため死去した。享年82。1927(昭和2)年4月3日、大分県東国東郡国見町竹田津の円浄寺住職父坂井誓順、母シゲの二男として生まれる。少年期、考古学の本に掲載された土器に魅せられ陶芸への憧れを抱く。40年、旧制宇佐中学校に入学。43年鹿児島海軍航空隊甲飛13期飛行練習生として入隊、上海海軍航空隊を経て、45年終戦により復員。47年京都にて日本画家山本紅雲に師事。49年国東へ戻されるが、陶磁の道を諦められず単身で佐賀県有田町諸隈貞山陶房に弟子入り。色絵付を学ぶ。51年京都の加藤利昌陶房にて下絵付に従事。52年京都陶芸家クラブに加入、6代清水六兵衛に師事。同年、第8回日展に「花器」を初出品、初入選。以降、入選が続く。53年12月6日、河合栄之助の長女登志子と結婚。河合家の後継者となる。その後、61年設立の日本現代工芸美術家協会にも活躍の幅を広げる。この時期の作品は白磁を中心とした造形性追求の時代と評される。62年日展で「蒼」が特選・北斗賞を受賞。64年第3回日本現代工芸美術展入選の「白磁瓶」が台湾、中南米各国に巡回。以降、日本現代工芸美術展の海外巡回に精力的に参加。66年現代工芸美術家協会会員になる。68年日展で「宴」が菊華賞を受賞。同年、京都工芸美術展審査員を務める。69年第1回改組日展の審査員を務める。71年日本現代工芸美術10回記念展では審査員を務める。同展に「円像」を出品し現代工芸会員賞・文部大臣賞を受賞。72年日展会員となる。75年紺綬褒章を受章。朝日会館において個展を開催。76年現代工芸美術家協会理事に就任。77年、スイス・スピッ芸術協会より文化交流のため招聘され作品展を開催。約1ヶ年に亘り、スイス国内主要都市に於いて作品巡回。「白象」がベルン美術館に保存される。79年日展で「翠影」が会員賞受賞。同年、用の重要性を主張する新日本工芸家連盟を結成し総務委員に就任。第1回日本新工芸展では審査員を務める。同展に「卓上の宴」を出品。この頃より、作品が壺や鉢などの大器から筥などの小さなものへと変化していく。その後、日展と日本新工芸展を中心に活動を行う。80年日展評議員になる。81年個展を高松国立公園屋島山上美術画廊遊仙亭(10月)、大分トキハ(11月)で開催。83年第5回日本新工芸展「木立の道」で内閣総理大臣賞を受賞。7月1日~7日東京銀座和光ホールにおいて個展を開催。85年11月7~12日には「大分トキハ創立50周年記念トキハ会館落成記念河合誓徳陶芸展」を開催。87年「高島屋美術部80周年記念陶筥展」を東京、横浜、大阪、京都で開催。88年、オーストラリア建国200年新工芸10回記念展では実行委員を務め、「釉裏紅富貴」(八角陶筥)を出品。この頃より染付の青や 裏紅の赤で表現する作品を数多く発表。1989(平成元)年、日展で「行雲」が内閣総理大臣賞受賞。高島屋横浜店創業30周年記念「瑞松」展開催。高知とでん西武において陶筥展開催。90年大阪高島屋において「花・草原・雲」展開催。91年、第13回日本新工芸展「草映」で内閣総理大臣賞受賞。2月東急デパートにおいて陶芸三人展(加藤卓男、北出不二雄、河合誓徳)を開催。92年3月、第10回京都府文化賞功労賞受賞。パリ三越エトワール開館記念NHK主催日本の陶芸「今」に「釉裏紅富貴」「草映」(陶筥)出品。11月西武池袋店において「甦る釉裏紅 河合誓徳四十年の歩み展」開催、続いて大分トキハに巡回。93年京都高島屋において「彩象 河合誓徳展」開催。95年日展監事になる。京都高島屋において「香炉展」開催。97年日本芸術院賞受賞、日展理事に就任。東京、横浜、京都、大阪高島屋にて「古稀記念 河合誓徳展」開催。98年京都市文化功労者として表彰される。2000年日本新工芸家連盟副会長に就任。02年大分県立芸術会館にて「河合誓徳展―磁器の新しい表現を求めて」開催。東京・京都高島屋にて「景象の譜 河合誓徳展」開催。日本新工芸家連盟会長に就任。03年、大阪・名古屋・横浜高島屋にて「景象の譜 河合誓徳展」開催。映像資料「日本の巨匠次世代へ伝えたい芸術家二百人の素顔」(第3巻、細野正信監修、日本芸術映像文化支援センター製作・著同朋舎メディアプラン)が発行される。同年、日本新工芸家連盟会長に就任。05年日本芸術院会員、07年日展常務理事、08年日展顧問を務める。

蓮田修吾郎

没年月日:2010/01/06

読み:はすだしゅうごろう  日本芸術院会員で文化勲章を受章した金属造型作家の蓮田修吾郎は1月6日午後10時24分、敗血症のため神奈川県鎌倉市の湘南鎌倉総合病院で死去した。享年94。1915(大正4)年8月2日石川県金沢市野田町に父修一郎、母つぎの長男として生まれる(幼名「修次」)。1928(昭和3)年石川県立工業学校図案絵画科へ入学、卒業制作「藤下遊鹿」で御大典記念奨学資金賞を受賞。1933年東京美術学校工芸科鋳金部予科へ入学、翌34年同校の工芸科鋳金部へ入学。この年から母の命名により「修吾郎」と呼称する。36年同人と工芸新人社(翌年に工芸青年派と改称)を設立、作品を発表(~39年)。38年東京美術学校工芸科鋳金部を卒業するに際し優等証書及び銀時計(陸奥宗光伯爵奨学資金賞)を拝受。在学中高村豊周の指導を受け、実在工芸美術展に出品し入選を重ね、38年第3回展では卒業制作の鋳白銅浮彫「龍班スクリーン」で実在工芸賞を受賞。39年から45年まで軍役をつとめ、46年に復員して金沢に帰る。48年金沢市在住の同人とR工芸集団を設立し作品を発表(~49年)。49年第5回日展に鋳銅「水瓶」を出品(~2009年)、初出品初入選。同年上京して東京都板橋区に住む。51年第7回日展に鋳白銅「鷲トロフィー」を出品、特選、朝倉賞を受賞。52年同人と創作工芸協会を設立し作品を発表(~59年)。53年第9回日展に鋳銅浮彫「黒豹スクリーン」を出品、北斗賞を受賞。57年日ソ展招待出品に際し鋳銅「氷洋の幻想」がソ連政府買上となる。59年第2回日展(新日展)に黄銅浮彫「野牛とニンフ」を出品、文部大臣賞を受賞し金沢市に寄贈。同年東京芸術大学美術学部非常勤講師となる。60年同人と工芸「円心」を設立し作品を発表(~69年)。61年第4回日展に鋳銅浮彫「森の鳴動」を出品、日本芸術院賞を受賞。同年現代工芸美術家協会の設立に際し常務理事に就任、東京芸術大学美術学部助教授(鋳金研究室主任)となる。62年鋳銅浮彫「仁王の印象」(1955年第11回日展出品作)と青銅方壺「方容」が日本政府買上となり、前者は西ドイツ首相に、後者はメキシコ大統領に献上される。同年より開催の日本現代工芸美術展に出品(~2006年)。65年西ドイツのベルリン芸術祭使節として渡欧、中近東各国を視察。同年「修吾郎」の呼称が法的に認可され戸籍上の名前となる。66年紺綬褒章を受章。同年第1回個展を日本橋高島屋で開催。67年に鎌倉へ住居を移しアトリエを新築する。69年社団法人日展が改組、理事に就任。70年第2回個展を銀座石井三柳堂で開催。71年神奈川県工芸会の会長に就任。72年神奈川県と静岡県在住の工芸作家による現代工芸美術家協会神静会の設立に際し会長に就任。1973年第3回個展を日本橋高島屋で開催。74年日展(改組日展)の常務理事に就任。75年東京芸術大学美術学部教授、日本芸術院会員となる。76年現代工芸美術家協会の副会長に就任。同年4月に東京芸術大学美術学部教授を退任、12月に日本金属造型研究所(東京都銀座7丁目)を設立し理事長に就任。77年独日文化協会会長の招聘により訪独し、西独をはじめ欧州各地を視察する。78年美術雑誌『ビジョン』に欧州紀行を執筆(連載)。同年第1回日本金属造型作家展を開催、以後毎年西独の金属造型作家を招待して日独文化交流展とする。79年『黄銅への道』を出版。80年日本金属造型作家展ドイツ巡回展に同行(ハンブルグ美術工芸博物館をはじめ7都市)。81年現代工芸美術家協会の会長に就任、日本金属造型振興会が財団法人として国に認可され理事長に就任。同年『蓮田修吾郎・金属造型』を出版。この年の9月27日、79年から総理府と北方領土対策協議会の制作依頼を受けた根室ノサップ岬の北方領土返還祈念シンボル像「四島のかけ橋」が完成し、以降、山梨県清里の森モニュメント「森の旋律」(87年)、金沢駅西広場モニュメント「悠颺」(91年)をはじめとする野外のモニュメント等の公共性の高い作品を日本金属造型振興会を拠点に数多く手がける。82年ドイツ連邦共和国功労勲章一等功労十字章を受章。同年『公共の空間へ』を出版。86年東京芸術大学名誉教授となる。同年「今日の金属造型展-日本とドイツの作家たち-」を開催(石川県立美術館ほか3館巡回)。『環境造形への対話』を出版。87年文化功労者となり、1991(平成3)年文化勲章を受章する。92年石川県名誉県民、金沢市名誉市民となる。96年日展の顧問に就任。98年に現代工芸美術家協会の最高顧問に就任。03年鎌倉生涯学習センター市民ギャラリー「蓮田修吾郎の世界展」開催、07年鎌倉市名誉市民となり、09年鎌倉市鎌倉芸術館で「金属造型の世界 鎌倉市名誉市民 蓮田修吾郎展」が開催される。「用即美」という工芸理念を掲げ35年に設立された実在工芸美術会の展観に出品した戦前の活動を経て、戦後は日展を中心に出品しつつ、用を度外視した「純粋美」の探求と創造を主張する日本現代工芸美術協会をはじめ創作工芸協会や工芸「円心」等の新しい工芸団体の設立に関わり出品活動を展開した。戦後の作品は大別すると、「方壺」に代表される立体造型の追求と浮彫による壁面装飾的な心象風景シリーズの展開の二系列が際立つ。ここに彫刻的、絵画的な要素を消化した金属造型の在り方が模索され、構想され、やがて工芸と建築、公共空間との接点が加味されるに至り、後年の日本金属造型振興会を拠点とする金属による環境造型の制作活動が展開された。没後、作品と資料等が金沢市に寄贈され、2012年に金沢21世紀美術館市民ギャラリーで「蓮田修吾郎展」が開催されている。

大隅俊平

没年月日:2009/10/04

読み:おおすみとしひら  刀匠で日本刀の重要無形文化財保持者である大隅俊平は10月4日、胃がんのため自宅で死去した。享年77。1932(昭和7)年1月23日、群馬県新田郡沢野村富沢(現、太田市富沢町)に生まれる。本名貞男。1946年、沢野尋常小学校を卒業。52年7月、長野県埴科郡坂城町の刀匠宮入昭平(昭和38年重要無形文化財認定)に師事する。57年刀剣類作刀承認を文部省から得る。翌58年、財団法人日本美術保存協会主催の新作技術発表会に初出品した刀が最優秀賞を受賞する。60年、師昭平への師事を終え、太田市富沢町に帰り制作を始める。59年から64年まで作刀技術発表会で毎年優秀賞および入選を重ねる。65年、財団法人日本美術保存協会主催の第1回新作名刀展(作刀技術発表会を改変)出品の太刀で努力賞、翌年の第2回でも努力賞を経て、67年の第3回から69年の第5回展で連続して特賞である名誉会長賞を受賞し、その後も文化庁長官賞、毎日新聞社賞受賞を続け、72年、新作名刀展無鑑査となる。74年に出品の太刀が重要無形文化財保持者、無鑑査からの出品作品を含めた全作品の中から最優作として正宗賞を受賞し、名実ともに最も優れた現代刀匠の一人と認められるに至った。77年、群馬県指定重要無形文化財保持者に認定され、翌78年には新作名刀展において2度目の正宗賞を受賞した。1997(平成9)年、国の重要無形文化財に認定された。作品は太刀、刀、短刀で、太刀には3尺(90㎝)を超える大太刀もある。理想とした作風は鎌倉時代後期の京都の来派(らいは)や備中の青江派(あおえは)で、太刀は反りの高い優美な姿を見せている。鍛えは小板目肌で、刃文は来国俊や来国光にみる小沸(こにえ)のついた直刃に小互の目が交じり、小足(こあし)の入ったものと、青江派の匂口が締った直刃に逆足が入ったものが多い。また初期には互の目乱れや丁字刃の刃文を焼いた作がある。代表作は2回の正宗賞受賞の直刃の太刀や、東京国立博物館蔵の太刀、太田市の3尺7寸(112cm)の大太刀で、このほか伊勢神宮の遷宮のための直刀や、高松宮殿下、同妃殿下、高円宮殿下のお守り刀などの制作を行なっている。

増田三男

没年月日:2009/09/07

読み:ますだみつお  彫金家で彫金の無形文化財保持者である増田三男は、9月7日、老衰のため自宅で死去した。享年100。1909(明治42)年4月24日、埼玉県北足立郡大門村に父伸太郎、母チカの7人兄弟の三男として生まれる。1924(大正13)年、埼玉県立男子師範附属尋常小学校を卒業、埼玉県立浦和中学校を経て、1929(昭和4)年、20歳で東京美術学校(現、東京藝術大学)金工科彫金部に入学する。大学では清水亀蔵(南山)、海野清らに学ぶ。34年、彫金部を卒業し、さらに同美術学校金工科彫金部研究科にすすみ、36年同研究科を終了する。在学中の33年、第14回帝展に「壁面燭台」が初入選する。研究科終了後は同校資料館で国宝をはじめとする文化財の模造制作に従事し、また個人的には柳宗悦が主宰した民芸運動に関心をいだき民芸論を研究した。この頃の工芸関係の公募展は帝展が最高権威であり、また国画会展の工芸部も有力であった。当時国画会工芸部は民芸派の作家が多く活躍しており、帝展の美術品としてのレベルの高さや技術力よりも、実際に生活の場で使える工芸作品が出品されていて、増田自身は師である清水南山らが出品していた帝展(のちに文展)と、国画会工芸部の両方に出品した。36年、11回国画会に出品した「筥」2点が初入選をはたしている。この国画会における工芸部門の創設に尽力した陶芸家富本憲吉に図案の指導を受け、以後増田は富本憲吉を生涯の師と仰ぐようになる。39年には第3回新文展出品の「銀鉄からたち文箱」が特選、42年の第17回国画会展では「野草文水指」が国画奨励賞を受賞した。戦時中はとくに金属使用の規制や奢侈品等製造販売禁止令などが発布されて金工作家はとくに苦境におちいったが、第3回新文展出品の「銀鉄からたち文箱」が入賞したことにより金属材料の配給を受け、その技術保存の立場から制作を続けることができた。第二次世界大戦中の44年、中学のときの母校である浦和中学の美術講師となり、以後76年に退職するまで30年以上にわたって木工芸の授業を担当した。62年、第9回日本伝統工芸展に初出品した「金彩銀蝶文箱」が東京都教育委員会賞を受賞したのを期に、その活躍の場を日本伝統工芸展とするようになり、69年、同展出品の「彫金雪装竹林水指」が朝日新聞社賞を受賞、1990(平成2)年、「金彩銀壺 山背」が保持者選賞を受賞した。91年、82歳で重要無形文化財「彫金」の保持者(人間国宝)に認定される。増田の作品は初期の第14回帝展「壁面燭台」(うらわ美術館蔵)や煙草セット(1937年・東京国立近代美術館蔵)等は、鉄の廃材を利用した当時としてはモダンな作品であった。40年代後半からは古文化財の模造によって培われた日本伝統の自然をイメージした小作品を生涯にわたって制作した。箱、壺、水指などを、銀をはじめ素銅、真鍮を打ち出し成形し、そこに菟、鹿や鴛鴦、蝶、梅や柳などの身近な動植物を意匠として、それを蹴彫、切嵌象嵌、布目象嵌によって表し、地には魚々子や千鳥石目を施した作が多い。また金や銀の鍍金による彩金の技法によって季節感、自然感を豊かに表現した。

徳田八十吉

没年月日:2009/08/26

読み:とくだやそきち  彩釉磁器の重要無形文化財保持者(人間国宝)の徳田八十吉は8月26日午前11時04分、突発性間質性肺炎のため石川県金沢市下石引町の金沢医療センターで死去した。享年75。1933(昭和8)年9月14日、石川県能美郡小松町字大文字町(現、小松市大文字町)に二代徳田八十吉の長男として生まれる。本名正彦。生家は、祖父の初代徳田八十吉(1873―1956)、父の二代徳田八十吉(1907―97)と続く九谷焼の家系で、初代八十吉は1953年に「上絵付(九谷)」の分野で国の「助成の措置を講ずべき無形文化財」に選定されている。古九谷再現のための釉薬の研究と調合に取り組んだ祖父と陶造形作家として日展を中心に作品を発表し富本憲吉にも学んだ父のもとで育った徳田は、52年4月に金沢美術工芸短期大学(現、金沢美術工芸大学)陶磁科へ入学、54年3月に同大学を中退し、父・二代八十吉の陶房で絵付技術を学び、55年の秋、病に倒れた祖父・初代八十吉から上絵釉薬の調合を任されて翌年2月祖父が亡くなるまでの数ヶ月間に釉薬の調合を直接教わった。本格的に陶芸の道に進む意志を固めたのは57年のこと。すでに1954年から日展に出品していたが、9度の落選を経験した後、63年第6回日展に「器「あけぼの」」を出品して初入選(以後6回入選)。初入選作品は鉢型の器の外面を口縁に沿って上から下に青、黄、緑、紺と色釉を塗り分けたもので、色釉のグラデーションを初めて試みたという点で重要である。しかし、後に代名詞となる「燿彩(ようさい)」に見られる自己の様式、すなわち特有の透明感のある色調と段階的な色彩の変化を確立するまでには、ここから80年代前半にいたる上絵釉薬の調製法と絵付・焼成法に関する研究、技の錬磨を必要とした。焼成法に関する大きな変化は電気窯の使用である。当初は父の薪窯(色絵付)で焼成をしていたが、薪窯の温度を上げることに限界を感じ、69年に独立して小松市桜木町に工房兼自宅を構えた際、電気窯による高温焼成を始めた。素地は1280度で固く焼き締めた薄い磁器を用い、色釉の美しさを効果的に見せるため、研磨の工程では器表面の微細な孔なども歯科医の用具にヒントを得た独自の手法で全て整えて平滑な素地を実現した。上絵付の焼成は1040度に達する上絵としては極めて高い温度で行い、ガラス釉の特質を活かした高い透明感と深みのある色調を表出した。色釉は古九谷の紫、紺、緑、黄、赤の五彩のうち、赤はガラス釉でないため使わず、残りの四彩を基本とし、少しずつ割合を変えて調合することで200を超える中間色の発色が可能になったという。こうした技術の昇華を経て生まれたのが「燿彩」という様式である。それは花鳥をはじめとする描写的な上絵付による色絵の世界を超えて、九谷焼が継承してきた伝統の色そのものの可能性を広げたいという探求心が結実した色釉のグラデーションによる抽象表現の極みであり、83年から「光り輝く彩」の意を込めたこの作品名を使うことが多くなった(2003年の古希記念展の後は「耀彩」と表記)。71年の第18回日本伝統工芸展に初出品して「彩釉鉢」でNHK会長賞を受賞、翌年に日本工芸会正会員となる(以後38回入選)。77年の第24回日本伝統工芸展に「燿彩鉢」を出品して日本工芸会総裁賞、81年の第4回伝統九谷焼工芸展に「彩釉鉢」を出品して優秀賞、1983年の第6回伝統九谷焼工芸展に「深厚釉組皿」を出品して九谷連合会理事長賞、84年の第7回伝統九谷焼工芸展に「深厚釉線文壺」を出品して大賞、85年に北国文化賞、86年に日本陶磁協会賞、同年の第33回日本伝統工芸展に「燿彩鉢「黎明」」を監査員出品して保持者選賞、88年に第3回藤原啓記念賞、1990(平成2)年に小松市文化賞、同年の’90国際陶芸展に「燿彩鉢「心円」」を出品して最優秀賞、1991年の第11回日本陶芸展に「燿彩鉢「創生」」を推薦出品して最優秀賞(秩父宮杯)、93年に紫綬褒章、97年にMOA岡田茂吉大賞などを受賞。86年に石川県九谷焼無形文化財資格保持者、97年に国の重要無形文化財「彩釉磁器」保持者に認定された。94年6月に日本工芸会理事(~2004年6月)、98年4月に日本工芸会石川支部幹事長(~2006年4月)、2004年6月に日本工芸会常任理事(~2008年6月)に就任。97年には小松市の名誉市民に推挙された。05年に九谷焼技術保存会(石川県無形文化財)会長、07年1月に小松美術作家協会会長、同年3月に財団法人石川県美術文化協会名誉顧問に就任。海外展への出品も多く、91年に国際文化交流への貢献が認められ外務大臣より表彰された後も07年の大英博物館「わざの美 伝統工芸の50年展」にともなって「私の歩んだ道」と題する記念講演を行うなど最晩年まで貢献を続けた。没後の10年7月22日から9月6日に石川県立美術館で「特別陳列 徳田八十吉三代展」(同館主催)、11年1月2日から12年1月29日に横浜そごう美術館、兵庫陶芸美術館、高松市美術館、MOA美術館、茨城県陶芸美術館、小松市立博物館、小松市立本陣記念美術館、小松市立錦窯展示館で「追悼 人間国宝 三代徳田八十吉展―煌めく色彩の世界―」(朝日新聞社・開催各館主催)が開催された。

高橋敬典

没年月日:2009/06/23

読み:たかはしけいてん  鋳金家で茶の湯釜の重要無形文化財保持者である高橋敬典は6月23日、慢性腎不全のため自宅で死去した。享年88。1920(大正9)年9月22日、山形市銅町に父高橋庄三郎、母ちよの一人息子として生まれる。本名高治。1938(昭和13)年、父の営んでいた鋳造業「山正鋳造所」の家業を継ぐ。始めは様々な鋳物を制作していたが、50年に漆芸家結城哲雄の招きで鋳造の制作指導に山形に来た初代長野垤至に師事し、この頃から和銑(わずく)を用いた茶の湯釜制作を行なう。51年、第7回日展に初出品した「和銑平丸釜地文水藻」が入選し、以後も日展に出品を続け入選を重ねた。その後発表の場を日本伝統工芸展に移し、63年の第10回日本伝統工芸展で「砂鉄松文撫肩釜」が奨励賞を受賞し、76年には「甑口釜」でNHK会長賞を受賞する。師であった長野垤至が芦屋釜、天明釜などの茶の湯釜を歴史的に研究したため、敬典もこうした古作の表現法を研究するとともに、材料の鉄も砂鉄から製鉄した和銑にこだわり、また地元の馬見ケ崎川で採集した川砂や土を用いて鋳型作りを行なった。作風は古作を研究したといっても、芦屋釜の真形(しんなり)、天明の形にはまった作はほとんどなく、垤至の進めた斬新な造形を受け入れ、肌はきめ細やかな絹肌か、あるいは砂肌とした綺麗なものが多い。また地文は肌の美しさを強調するため施さないものが多いが、波や松、竹などを全面ではなく控えめに配した作、あるいは細い筋を入れた作を残している。1992(平成4)年、勲四等瑞宝章を受章、96年、茶の湯釜で国の重要無形文化財に認定された。代表作に文化庁買上の「波文筒釜」(1971年・東京国立近代美術館)、「平丸釜」(1999年・東京国立博物館)。

中里逢庵

没年月日:2009/03/12

読み:なかざとほうあん  陶芸家で日本芸術院会員の中里逢庵は3月12日午後1時31分、慢性骨髄性白血病のため唐津市内の病院で死去した。享年85。1923(大正12)年5月31日、佐賀県唐津町で父重雄(重要無形文化財「唐津焼」保持者・12代中里太郎右衛門)、母ツヤの長男として生まれ、忠夫と命名される。小学校を出ると、「絵の描けない陶工は出世できん。美術学校に入って絵を習え。そのために有田工業よりも唐津中学の方がよかろう」という親の意見で、県立唐津中学を経て官立東京高等工芸学校工芸図案科(現、千葉大学工学部)に学んだ。1943(昭和18)年、宮崎の航空教育隊に入営。45年5月頃、所属した中隊は台湾の台北空港に展開、終戦後は台中に帰り、捕虜生活を送った。46年に台湾より復員。その年、陶芸家の加藤土師萌が北波多村の岸岳古窯跡の調査に来唐、加藤から作陶の基本を学ぶ機会を得た。また、度々父とともに桃山時代の古唐津の古窯跡の調査を行い、古唐津を再現した父の後を受け、古唐津の叩き・三島・鉄絵の技法などの陶技を習得、さらには古唐津風の作風から飛躍した独自のスタイルの模索へと向かった。父・無庵(12代太郎右衛門)は途絶えてしまっていた古唐津の技法を、古窯跡から出土する古陶片に学ぶことにより、現代によみがえらせている。そして、昭和初期の頃まで唐津焼の主流だった京風の献上唐津を一変させ、現代での唐津焼のスタンダードというべき桃山時代の古唐津風のスタイルを確立した。その功績が認められ、76年に無庵は重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受けている。忠夫と弟の重利、隆の三兄弟は、いわば再興された古唐津を受け継ぐ第二世代であった。第一世代の父・無庵は古唐津再興によって高く評価された。第二世代は古唐津を再興した父からバトンを受け、次なる新たな唐津焼の創造という宿命を背負わされていたのである。51年、第7回日本美術展で忠夫の陶彫「牛」が初入選。以降、日本美術展を舞台に連続十回の入選を果たす。56年の第12回日本美術展で「陶・叩き三島壺」が北斗賞を受賞。57年、第8回日本美術展入選の陶彫「羊」がソ連文化庁買い上げ、58年、第1回日展にて叩き壺「牛」が特選を受賞した。61年、第3回日展入選の「壺」が社団法人日本陶磁協会賞を受賞。65年、現代工芸美術協会ベルリン芸術祭視察団の一員として外務省派遣となり、ヨーロッパ、中近東諸国を40日間歴訪、その見聞をもとに昭和40年代にはトルコブルーの青釉による「翡翠唐津」の作風を創作した。69年、父12代中里太郎右衛門の得度により、13代中里太郎右衛門を襲名。この頃より韓国、台湾、タイ、マレーシア、インドネシアなどの海外を視察し、各地から出土する唐津焼や叩きの技法を調査し始める。71年にはタイ北部、チェンマイ市郊外のカンケオ村で作陶し、1996(平成8)年までいわゆる「ハンネラ」スタイルの水指・花生等をつくった。81年の第13回日展に出品した「叩き唐津三島手付壺」が内閣総理大臣賞、84年の第15回日展に出品した「叩き唐津手付瓶」も第40回日本芸術院賞を受賞、85年には日展理事に就任する。92年に佐賀県重要無形文化財に認定される。また、作陶の傍ら唐津焼の起源を精力的に研究したことでも知られ、東南アジアなど各地を踏査して叩き技法のルーツを調査し、『陶磁大系13唐津』(平凡社、1972年)、『日本のやきもの14唐津』(講談社、1976年)、『日本陶磁大系13唐津』(平凡社、1989年)などに論文を積極的に発表、2004年には博士論文「唐津焼の研究」を京都造形芸術大に提出、博士号を取得した。07年に日本芸術院会員になったほか、日本工匠会会長なども務めた。02年には京都・大徳寺で得度、「太郎右衛門」の名跡を長男忠寛(14代)に譲り、以後は「逢庵」として制作を続けていた。中里逢庵の一生を振り返ると、古唐津再興をなした父・無庵の跡を継ぎ、伝統ある中里家を維持していくために古唐津スタイルを堅持しながらも、芸術性の高いモダンな唐津焼を求めていった。生業と芸術の間を揺れ動き、陶芸家および陶磁研究者としても粉骨砕身した一生と言えよう。

青木龍山

没年月日:2008/04/23

読み:あおきりゅうざん  陶芸家で文化勲章受章者の青木龍山は4月23日午後11時10分、肝不全により死去した。享年81。1926(大正15)年8月18日佐賀県西松浦郡有田町外尾山の青木兄弟商会(陶磁器製造販売会社)を経営していた父重雄、母千代の長男として生まれる。1933(昭和8)年、外尾尋常小学校入学、13歳で卒業、父から将来焼き物で身をたてようと思うなら佐賀県立有田工業学校(現、佐賀県立有田工業高校)に進学した方がいいとの助言を受け、同学に入学。4年間、図案科にて日本画、デザイン、陶画を学ぶ。当時、1学年上級に第14代今泉今右衛門がおり、交流を深めたという。43年、卒業と同時に東京美術学校を受験した際に、身体検査で胸部疾患と診断され不合格となる。徴兵検査も不合格となり兵役を免れる。胸部疾患も健康的な生活を送るうちに治癒し、47年、東京多摩美術大学(現、多摩美術大学)日本画科に入学。51年卒業すると同時に、神奈川県の法政大学第二高等学校および法政大学女子高等学校の美術教師となり勤務する。2年後、祖父の興した青木兄弟商会に入る。父の経営する同商会は戦後の混乱から経営状態が厳しく、新しい時代に適応した経営感覚と技術の導入が必要と考えた父に呼び戻された。この際、勢いよく、大きく躍動する龍にあやかりたいとの願いを込めて龍山を名乗る。会社では絵付けを担当し、ベストセラー商品にも携わる。この頃より有田焼の香蘭社の9代深川栄左衛門の女婿であった水野和三郎に師事。同時期、佐賀県は窯業の振興のため後継者育成事業として轆轤の実技指導を行う。龍山もこの事業で、磁器大物成型の轆轤で記録措置を講ずべき無形文化財に選択された初代奥川忠右衛門に轆轤技術を学ぶ。帰郷した同年、有田陶磁器コンクールで1等受賞。翌年には同展で知事賞を受賞する。そして秋に第10回日展に染付「花紋」大皿を初出品し入選。55年、田中綾子と結婚し、夫婦での作陶生活が始まる。56年、青木兄弟商会は有田陶業と改名するも倒産し、会社の窯が使えなくなる。以降、63年に伯父の資金協力を得て自宅に念願の窯を持つまで仮窯生活を送る。その後は、フリーの陶磁器デザイナーとして生計を立てながら日展入選を目指し、個人作家として生きる道を決意する。当初は染付、染錦の作品での出品が多いがその後制作の重心を天目へと定めていく。日展へは毎年出品し、入選、特選候補となるが特選とならずに創作活動に悩む。71年、第3回日展において「豊」が特選。翌年より日展に出品する作品は天目による「豊」シリーズが多くなる。73年、第12回日本現代工芸美術展で「豊延」が、会員賞および文部大臣賞受賞。81年、社団法人日本現代工芸美術家協会理事に就任。81年、社団法人日展会員。88年、第27回日本現代工芸美術展で天目「韻律」が、文部大臣賞受賞。同年、社団法人日展評議員に就任。翌年、横浜高島屋にて「青木龍山・清高父子展」を開催。1991(平成3)年、第22回日展出品作「胡沙の舞」にて日本芸術院賞受賞、日展理事に就任する。東京高島屋において、第30回記念日本現代工芸美術秀作展及び選抜展に出品。フランクフルト工芸美術館(ドイツ)における海外選抜展に父子ともに出品が決定する。佐賀県政功労者文化部門にて知事表彰、佐賀新聞社芸術部門の佐賀新聞文化賞を受賞。93年には博多大丸において個展を開催、日本芸術院会員に就任。第52回西日本文化賞受賞。社団法人日本現代工芸美術家協会副会長、及び社団法人日展常務理事に就任する。博多大丸にて日本芸術院会員就任記念「青木龍山回顧展」を開催。同年、日展審査員を委嘱、翌年には日本橋三越特選画廊にて個展を開催。95年、『日本芸術院会員 青木龍山 ひたすらに』を佐賀新聞社より刊行。97年、三越にて「青木龍山作陶展」開催。99年、文化功労者となる。2000年、佐賀大学文化教育学部美術工芸科客員教授に就任。大英博物館で開催された佐賀県陶芸展に天目「春の宴」と油滴天目「茶盌」を出品。同年、『陶心一如青木龍山聞書』(荒巻喬、西日本新聞社)を刊行。05年、佐賀で初めて文化勲章を受章する。

辻清明

没年月日:2008/04/15

読み:つじせいめい  陶芸家の辻清明は4月15日肝臓がんのため東京都内の病院で死去した。享年81。1927(昭和2)年1月4日東京府荏原郡(現、東京都世田谷区)に生まれる。少年の頃より陶芸に興味を持ち、11歳のときより轆轤を学ぶ。41年、14歳の時には姉・輝子とともに辻陶器研究所を設立し、倒焰式窯を築く。また、この頃から富本憲吉や板谷波山のもとで学ぶ。43年、高島屋でやきものの文房具類を常設展示。徴用で立川の日立航空機の工場で働く。48年、富本憲吉を中心とする新匠美術工芸会展に出品。同年、札幌の北海道拓殖銀行ロビー、丸井デパートで個展を開催。49年、新たにガス窯を築き低火度色釉を施した作品の試作に成功。51年、同志と「新工人」会を設立し、以後約十年にわたって活動する。52年、第一回新工人展を開催。同年、光風会展に出品し、2年連続で光風会展出品工芸賞受賞。53年、1月和田協子(協)と結婚。漆工芸家であった協子も新工人のメンバーであった。55年多摩市連光寺の高台に辻陶器工房を設立し、3室の登窯を築窯。信楽土で自然釉の掛かった作品を作り始める。同年、現代生活工芸協会賞を受賞。56年、朝日新聞社主催現代生活工芸展審査員、62年妻の協子とともに、辻清明・辻協新作陶芸展を日本橋三越で開催し、以降たびたび二人展を行う。翌年から画廊現代陶芸代表作家展等に出品する(75年まで)。63年、五島美術館にて個展を開催、アメリカ合衆国・ホワイトハウスに「緑釉布目板皿」を納める。64年、日本陶磁協会賞を受賞、現代国際陶芸展招待出品。65年日本陶磁協会賞受賞作家展に出品する。以降2006年まで毎年出品する。同年にはアメリカ・インディアナ大学美術館に「信楽自然釉壺」を納める。67年、米国ペンシルバニア州立大学美術館に「信楽窯変花生」が所蔵される。68年には京都国立近代美術館および東京国立近代美術館主催「現代陶芸の新世代」展に招待出品。69年、三越日本橋店にて「辻清明陶芸二十五周年展」を開催する。翌年、京都国立近代美術館に「信楽壺」が所蔵される。70年、東京国立近代美術館に「球と方形の対話」が買上、京都国立近代美術館主催「現代の陶芸展―ヨーロッパと日本―」展に招待出品。翌年より2005年まで毎日新聞社主催「日本陶芸展」に招待出品、第1回、第2回海外巡回展に選抜される。73年西ドイツのヘニッシ画廊にて個展を開催、イタリア・ファエンツァ陶芸博物館に「茶盌」を納める。その年より75年まで「現代選抜陶芸展」に出品、74年には迎賓館が作品を買上、「ファエンツァ国際陶芸展」に招待出品。76年、「作陶三十五周年記念 辻清明」展を日本橋壺中居にて開催。78年、小田急百貨店画廊にて個展を開催。翌年、日本経済新聞社主催「信楽展」に実行委員として関わり、自身も出品。80年、日本経済新聞社主催「現代陶芸百選展」出品。「炎で語る日本のこころ―辻清明作陶展」を新宿・小田急百貨店にて開催。82年、西武美術館主催の作陶四十五周年記念「炎の陶匠 辻清明」展を開催する。83年日本陶磁協会賞金賞を受賞。86年、作陶五十年記念『辻清明作品集』(講談社)を刊行。87年、多摩の工房が周囲の開発により仕事への支障が懸念されたため長野県穂高町に工房と登り窯を完成させる。しかし、2年後に工房と母屋が蒐集した工芸品・書籍と共に焼失。1990(平成2)年、藤原啓記念賞を受賞する。91年、「辻清明の眼 ガラス二千年展」(清春白樺美術館)では江戸切子などのガラスコレクションを展観、同年自身で制作したガラス器展を銀座の吉井画廊で開催。93年、NHK教育テレビの趣味百科「やきものをたのしむ」に夫婦で出演。96年、『焱に生きる 辻清明自伝』(日本経済新聞社)を刊行。2003年ドイツ・ハンブルクダヒトアホール美術館開催の「日本―写真と陶芸―伝統と現代」展に招待出品。06年、東京都名誉都民となる。翌年、「美の陶匠 辻清明傘寿展」を大阪梅田阪急にて開催。精力的な活動は没後の10年刊行の『独歩 辻清明の宇宙』(清流出版株式会社)に詳しい。女性で初めて日本陶磁協会賞を受賞した妻、協子も08年、7月8日肝臓がんのため死去。享年77。

森口華弘

没年月日:2008/02/20

読み:もりぐちかこう  友禅の重要無形文化財保持者(人間国宝)である森口華弘(本名平七郎)は2月20日午後4時50分、老衰のため京都市左京区の病院で死去した。享年98。1909(明治42)年12月10日、滋賀県野洲郡守山町に父周次郎、母とめの三男として生まれる。本名は平七郎。1921(大正10)年3月、守山尋常小学校(現、守山市立吉身小学校)を卒業。24年、母の従兄坂田徳三郎の紹介で友禅師・三代中川華邨に師事し、その一方、華邨の紹介で疋田芳沼に就いて日本画を学ぶ。1934(昭和9)年、師の華邨の作風をひろめるという意味を込めて坂田徳三郎により名付けられた雅号「華弘」を用いる。2年後、1月8日に林智恵と結婚、中川家を出て一家を構え、39年1月には独立して工房をもつ。これに前後して華弘の代表的な技法である「蒔糊(まきのり)」の着想が生まれる。「蒔糊」の技術は、東京国立博物館で目にした江戸時代の撒糊技法が施された小袖と漆蒔絵の梨子地から、江戸時代より伝わる撒糊技法と漆芸の蒔絵技法と組み合わせることを着想したという。41年には丸川工芸染色株式会社に取締役・技術部長として勤務。しかし、戦争下、贅沢品禁止令、企業整備令の施行や社員の軍事工場への徴用の中、友禅の仕事は続けられなくなる。戦後、友禅の仕事を徐々に再開し、49年には市田株式会社主催の柳選会に参画、52年には京都工人社に加わり伝統工芸の保護・育成にも携わる。55年、第2回日本伝統工芸展に蒔糊を施した友禅着物「おしどり」「早春」「松」を出品し、全作入選。そのうち「早春」は朝日新聞社賞を受賞。56年、第3回日本伝統工芸展で友禅着物「薫」が文化財保護委員会委員長賞を受賞し、日本工芸会正会員となる。翌年から同展鑑査員に就任。58年には第1回個展を東京日本橋三越にて開催(以後毎年開催)。翌年、全国絹製品競技大会で通産大臣賞を受賞。60年、京都新聞文化賞を受賞。この頃から社団法人日本工芸会理事として活躍。62年には常任理事となる。翌年、「現代日本伝統工芸展」(オランダ・西ドイツ)に出品。67年、57歳の若さで国の重要無形文化財保持者に認定される。同年、「近代日本の絵画と工芸」展(京都国立近代美術館)に出品。70年には社団法人日本工芸会副理事長就任。翌年、紫綬褒章を受章、その後73年には第20回日本伝統工芸展に友禅着物(梅華文様)を出品、20周年記念特別賞を受賞。同年、「現代日本の伝統工芸展」(中国展観記念)に出品。翌年、京都市文化功労賞受賞後、「京都近代工芸秀作展」「現代日本の伝統工芸展」(ポルトガル・オーストリア・イタリア・スペイン)等に出品。76年『友禅―森口華弘撰集』(求龍堂)を刊行、「森口華弘五十年」(東京・京都 日本経済新聞社主催)を開催。80年、勲四等旭日小綬章を受章。同年、「染と織―現代の動向」展、翌年、「現代工芸の精華―京都作家秀作」展に出品。82年には「友禅・人間国宝 森口華弘展」(石川県立美術館)が開催。「人間国宝展米国展」(ボストン・シカゴ・ロサンゼルス)にも出品。翌年からも多くの作品を展覧会に出品し、「伝統工芸30年の歩み」展(東京国立近代美術館)、「現代日本の工芸―その歩みと展開」展(福井県立美術館)、「京都国立近代美術館所蔵 近代京都の日本画と工芸」展(群馬県立近代美術館)等に出品。特に85年「現代染織の美―森口華弘・宗廣力三・志村ふくみ展」(東京国立近代美術館 日本経済新聞社主催)、翌86年「人間国宝・友禅の技 森口華弘展」(滋賀県立近代美術館)と森口の歴史を振り返るような内容の展覧会も開催される。87年、京都府文化特別功労賞を受賞。その後も、「近代の潮流・京都の日本画と工芸」展(京都市美術館)、「人間国宝・友禅 森口華弘」展(守山市民ホール)、「染織の美―いろとかたち―」展(新潟市美術館)等に出品。1994(平成6)年には「伝統と創生 友禅の美 森口華弘・邦彦展」(大阪・京都大丸、読売新聞社主催)において父子の作品を一堂に展観する。翌年、滋賀県守山市の名誉市民第一号の称号を受ける。98年にはポーラ文化賞を受賞。翌年からも「京友禅―きのう・きょう・あした」展(目黒区美術館)、「開館30周年記念展Ⅰ工芸館30年のあゆみ」(東京国立近代美術館工芸館)等に出品。2007年、息子森口邦彦が友禅の重要無形文化財保持者に認定され、父子ともに友禅の重要無形保持者となる。没後の09年4月、「森口華弘・邦彦展―父子、友禅人間国宝」が滋賀県立近代美術館、東京日本橋三越にて開催される。

羽田登喜男

没年月日:2008/02/10

読み:はたときお  友禅の重要無形文化財保持者(人間国宝)の羽田登喜男は2月10日午後10時22分、肺炎のため京都市上京区の病院で死去した。享年97。1911(明治44)年1月14日、石川県金沢市に造園師・羽田栄太郎の三男として生まれる。1925(大正14)年、隣家の南野耕月に加賀友禅を学ぶ。1931(昭和6)年、京都にて同郷の曲子光峰に京友禅を学ぶ。以降、羽田は生涯にわたり京都で制作を行う。金沢では加賀友禅の下絵、糊置き、色挿し等一連の作業の基礎を習得し、京都では京友禅のみならず、美術工芸品の鑑賞など文化に触れることの重要性を学んだという。一般的に京友禅は工程が分業されているが、羽田はすべての工程を自身で行う制作態度をとった。43年には政府認定の京都友禅技術保存資格者となり、戦中も作品を制作。55年、第2回日本伝統工芸展において訪問着「孔雀」が初入選。翌年出品した友禅訪問着「雉子」「鴛鴦」で初めての連作が試みられる。その後も春秋をテーマに連作を残す。57年には社団法人日本工芸会正会員となり、62年には理事に就任。71年、日本伝統工芸展審査員に就任。76年には第23回日本伝統工芸展で「白夜」が東京都教育委員会賞を受賞。同年、藍綬褒章を受章。78年、京都府美術工芸功労者表彰を受ける。79年に紺綬褒章、82年に勲四等瑞宝章を受章。同年、祇園祭蟷螂山の前掛「瑞祥鶴浴之図」を制作。84年にも祇園祭蟷螂山の胴掛2面「瑞光孔雀之図」と「瑞苑浮遊之図」を制作する。86年、京都府より英国王室ダイアナ皇太子妃に贈られた振袖「瑞祥鶴浴文様」を制作。88年、友禅の重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受ける。同年、社団法人日本工芸会参与。90年、京都府文化功労賞特別賞受賞、京都市文化功労者表彰を受ける。翌年、祇園祭蟷螂山見送り「瑞苑飛翔之図」を制作。92年より翌年にかけて「友禅 人間国宝 羽田登喜男」展を石川県立美術館と京都市美術館にて開催。初期の作品から最近作までの約70数点が展観された。96年、フランスのリヨン染織美術館にて「羽田家のキモノ」展が開催。99年には祇園祭蟷螂山水引「吉祥橘蟷螂図」を制作、献納。2004年、祇園祭蟷螂山後掛「瑞兆遊泳之図」を献納し全懸装品を制作完納する。これらの制作には後継者である息子羽田登も携わり、その技術伝承に努める。07年10月10日、高齢のため制作活動を終了。羽田は、「着物は身につけて初めて完成するもので、主役である女性をいかに美しくひきたたせるかが大切」と常々語り、着装を意識した制作を心がけたという。著作に『羽田登喜男作品集』(八宝堂、1966年)、『春秋雅趣』(フジアート出版、1981年)、『春秋雅趣 二』(フジアート出版、1989年)、『遊於芸』(フジアート出版、1992年)などがある。

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