田島比呂子

没年月日:2014/01/19
分野:, (工)
読み:たじまひろし

 重要無形文化財「友禅」保持者の田島比呂子は1月19日、前立腺がんのため神奈川県藤沢市の介護施設で死去した。享年91。
 1922(大正11)年2月4日東京に生まれる。本名博。幼いころから絵を書くのが好きであった田島は、1936(昭和11)年、兄が亡くなった代わりに東京小石川で友禅模様師をしていた高村樵耕に内弟子として入門。動植物の模写や師が描くのを隣で見て同じように描くなど、日本画の基礎を学ぶ。当時、友禅染の世界は意匠をデザインする模様師と染色を行う染師に仕事が二分されており、田島は前者の模様師として弟子入りをした。これが、後にデザインを考案する作家としての活動におおいに役立ったといえる。
 43年、通信兵として満州へ出征。ツルやサギが何千羽も一斉に舞う姿に心うたれる。3年後の46年、復員。しかし、48年に肺結核を患い千葉九十九里の病院に入院し療養生活を送る。療養中に正岡子規の全集に影響を受け、俳句・短歌を詠みはじめ新聞に投稿する。限られた文字数で推敲を重ねて表現する手法は、丹念に試し染を行う友禅染への制作態度に引き継がれていく。54年、退院し、師事していた高村樵耕の息子である高村柳治の屋敷の隣に移住する。同年、友禅の制作を再開、模様師として独立する。柳治に勧められ、日本伝統工芸展に出品し、作家活動を開始する。同時に、社団法人日本工芸会に入会し、友禅の中村勝馬山田貢との交流がはじまる。田島は作家活動の開始時、「友禅染の着物に携わるのは男子一生の仕事にあらず」という時代の風潮があり、比呂子という雅号を使い始めたという。59年、第6回日本伝統工芸展で「揺影(一)」が初入選。2年後、(社)日本工芸会の正会員となる。66年、44歳の時に第13回日本伝統工芸展で「青東風」が日本工芸会総裁賞を受賞。同年、第6回伝統工芸新作展では「竹あかり」が日本工芸会賞を受賞。その後、東京都北区十条仲原、鎌倉極楽寺と居を移し、70年、48歳の時に結婚し藤沢市鵠沼海岸に転居する。この頃より、妻に生地の縫い合わせや地染めを担当してもらいながらも、その他の工程は全て田島自身が担う制作スタイルとなる。72年、(社)日本工芸会理事に就任する。77年、(社)日本工芸会工芸技術保存事業「茶屋辻帷子の復原」に参加。下図、下絵、伏せ糊、藍彩色、藍線描という茶屋辻の中核である工程を担当する。86年、(社)日本工芸会常任理事に就任、87年、紫綬褒章を受章。1990(平成2)年第2回茶屋辻帷子の復原」に参加。本事業では、指導的立場を担う。93年、勲四等旭日小綬章を受章。98年、第45回日本伝統工芸展に「入江」を出品。日本工芸会保持者賞を受賞。翌年、77歳の時に、「友禅」の分野では8人目の重要無形文化財保持者に認定される。藤沢市の名誉市民となる。2000年藤沢市制60周年記念特別展「田島比呂子・友禅展」を藤沢市民ギャラリーで開催。04年、シルク博物館にて「人間国宝 自然をいつくしむ手描友禅 田島比呂子展」を開催。出品作品54点すべてに田島の短歌が添えられる。09年、87歳の時に記録映画「創作に生きる 友禅作家・田島比呂子」が制作される。
 仕事場には何十冊もの写真集がおかれ、スケッチだけでなく趣味のカメラで撮りためた写真が積み上げられていたという。また、田島はデザイン面だけでなく、技法の面でも高く評価されている。特に、糊の使い方に研究を重ねており、伏せた糊をたんぽで叩き斑を表現する「叩き糊」や、友禅染の特徴ともいえる糸目糊の輪郭線を作らないこともできる「堰出し糊」は、何れも田島比呂子の特徴的な技法に位置付けることができる。
 作品はシルク博物館、東京国立博物館等に所蔵されている。

出 典:『日本美術年鑑』平成27年版(489頁)
登録日:2017年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「田島比呂子」『日本美術年鑑』平成27年版(489頁)
例)「田島比呂子 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/247349.html(閲覧日 2024-04-18)

以下のデータベースにも「田島比呂子」が含まれます。
to page top