堀友三郎

没年月日:2014/07/07
分野:, (工)
読み:ほりともさぶろう

 染色家の堀友三郎は7月7日、肺炎のため死去した。享年90。
 1924(大正13)年、堀朋近・順の三男として大阪市に生まれる。(本籍は石川県)。1941(昭和16)年関西学院中学部卒業。多摩帝国美術学校(現、多摩美術大学)図案科に入学。3年次より同校図案科染色教室を専攻。木村和一に師事。学生時代には母方の叔父である洋画家の中村研一の自宅で過ごす。もう一人の叔父である洋画家の中村琢二との関わりもあり、制作態度の異なる両叔父に影響を受けながら育つ。
 44年、第31回光風会展に「紅型バラ」を出品し初入選。学徒動員を受け、9月に兵役、金沢へ入隊する。翌年の45年、9月に復員。多摩帝国美術学校図案科染色教室を不在卒業。その後は、師である木村和一主宰の染人社、東京染織作家協会、真赤土工芸会の各会員として活躍する。56年、32歳の時に第42回光風会展に「早春譜」を出品。第12回日展に「瀬戸の潮」を出品し、初入選。後に、同作品はソ連政府の買い上げとなり、レニングラード美術館に収蔵される。58年、第44回光風会展に「海」を出品。光風工芸賞を受賞し、光風会会友に推挙される。同年、第1回新日展に「伊豆の海」を出品。60年、第3回新日展に出品した「造船」(石川県立美術館蔵)が、特選並びに北斗賞を受賞。その後、采匠会展、日本現代工芸美術展でも作品を発表。64年、第50回光風会展に「湖畔の映」を出品。光風工芸会員賞を受賞。67年からは、第53回光風会展、第6回日本現代工芸美術展、第10回新日展で審査員を務める。翌年の68年には日展会員に推挙される。同年、横浜シルク博物館展の審査員も務める。その後も審査員などを歴任し、71年、東京家政大学非常勤講師に就任。75年、51歳の時に第61回光風会展に出品した「雪景」で杉浦非水賞を受賞。翌年からは朝日カルチャーセンター(新宿)の講師に就任。以後、30年にわたり務める。77年には花山研究所講師に就任。78年、現代工芸美術家連盟を脱退し、日本新工芸家連盟を創立、総務委員となる。東京家政大学講師を辞任する。79年、第65回光風会に「語らいを」を出品し、第65回光風会特別記念賞を受賞。同年、妻の紀子が逝去する。80年、『のり染パネル制作』(美術出版社)を出版。81年、社団法人日本新工芸家連盟初代理事に就任。82年、第20回采匠会展に作品を発表。同展を最後に解散。84年、光風会幹事、日展評議員に就任。85年、第7回日本新工芸展に「岩手の山にかゝる虹」を出品、内閣総理大臣賞を受賞。同年、多摩美術大学染織デザイン科主任教授に就任。川徳デパート(岩手・盛岡)やギャラリー・スペース21(東京・新橋)で個展を開催。日本新工芸家連盟脱退。86年、光風会理事に就任。紺綬褒章を受章。87年、東急百貨店本店(東京・渋谷)で個展を開催。『堀友三郎丸紋図案集』(六芸書房)を出版。同書は染につかう型紙を意識して型の繋ぎ目を考えながらデザインをまとめたという。さらに、九谷焼の徳田八十吉の自宅で絵皿に絵付けをしたことを想いだし、丸紋に九谷焼のような縁紋様が加えられている。1989(昭和64年・平成元)年には財団法人中村研一記念美術館初代館長、常任理事に就任。翌年の90年、明日へのかたち展に作品を発表。石川県立美術館で「堀友三郎特別展」が開催される。紺綬褒章を受章(2回目)。93年、財団法人福沢一郎記念美術財団理事就任。95年、多摩美術大学を定年退職し客員教授となる。多摩美術大学付属美術館において退職記念展が開催される。翌年、東急百貨店本店(東京・渋谷)で個展を開催。退職後も、精力的に作品を発表しながら、各展覧会で審査員を歴任する。2000年、ギャリ―白雲(大阪)、ギャラリータマミジアムにて個展を開催。勲四等瑞宝章を受章。国立台湾工芸研究所で講演を行うなど、国内外で活躍をする。01年、東急百貨店本店(東京・渋谷)で喜寿記念展を開催。翌年、脳梗塞で倒れる。以後、失語症のリハビリを続けながら制作を続け、病前同様に審査員も務める。04年、光風会展に「雪凌」を出品。同会を定年退職し、名誉会員となる。第36回日展に「蔵王」を出品。日展参与になる。文芸春秋画廊(東京・銀座)にて個展を開催。05年、杉並より調布に転居する。07年、調布市文化会館にて「堀友三郎展」(調布市文化・コミュニティ振興財団主催)が開催される。09年、『堀友三郎 染色画集』(求龍堂)を刊行。
 堀の作風は50年代中頃から60年代は初期の抽象形態による構成的な作風、その後、80年代前半にかけては具象が曲線を中心とした抽象の中に溶け込む画風、その後、実景の追及に大別されると評されている。毎日デッサンを欠かさず、デザインの発想の根本には「写生」があると学生に諭し、絵描き以上のデッサン力がないと良いデザイナーにはなれないと力説していたという。堀は自らの考えとして、工芸作品はしっかりとしてデザインと優秀な技術が伴わないと良い作品とはならない。いくら発想が良く、デザインの素晴らしいものができても技術的に難点があっては作品にならない。デザイナーであると共に職人でなければいい仕事は望めないという言葉を残している。
 晩年に至るまでの多くの作品は石川県立美術館に所蔵されている。

出 典:『日本美術年鑑』平成27年版(505-506頁)
登録日:2017年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「堀友三郎」『日本美術年鑑』平成27年版(505-506頁)
例)「堀友三郎 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/247368.html(閲覧日 2024-10-05)
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