織田廣喜

没年月日:2012/05/30
分野:, (洋)
読み:おだひろき

 日本芸術院会員で二科会名誉理事長の洋画家織田廣喜は5月30日、心不全のため八王子市の病院で死去した。享年98。
 1914(大正3)年4月19日、福岡県嘉穂郡千手村(現、嘉麻市)に生まれ、17年に隣村の碓井村に転居する。1929(昭和4)年、碓井尋常高等小学校高等科を卒業。麻生鉱業に勤務していた父が病気になったため、家計を助けるため陶器の絵付けなどをして働き、福岡市の菓子店に勤めたのち、碓井村に戻り郵便局員として勤務。31年から同村に住む帝展作家犬丸琴堂(慶輔)に油彩画の指導を受け、同年の福岡県美術展にゴッホの影響を示す「ひまわり」という作品で入選する。32年に上京し34年に日本美術学校絵画科に入学。当時は大久保作次郎が指導しており、後に藤田嗣治林武らにも師事する。在学中、3年ほど美術雑誌『みづゑ』の編集発行を行っていた大下正男のもとで発送作業などを行う。39年日本美術学校西洋画科を卒業。1940年第27回二科展に「未完成(室内)」で初入選。43年、徴用により横川電機製図部に入る。45年の終戦後、進駐軍に雇われ兵舎のホール等に壁画を描く。46年、100号のカンヴァスに3人の着衣の女性の立像を白と黒のペンキで描いた「黒装」を第31回二科展に出品して二科賞受賞。47年第1回美術団体連合展に「憩ひ」を出品。以後、同展には第5回まで出品を続ける。49年第34回二科展に「楽」「立像」「群像」「黄」「静物」が入選し、二科会準会員となる。翌50年第35回同展に「讃歌」「曲」「女」を出品して同会会員に推挙される。「讃歌」は800号の大作で、当時、画力向上のために大画面制作を奨励していた二科会で高い評価を得た。51年、二科会の画家萬宮(まみや)リラと結婚。52年、第1回日本国際美術展(毎日新聞社主催)に「無題」「女」「静物」を出品し、以後も同展に出品を続ける。同年、第37回二科展に「酒場」「風景」「女」を出品して会員努力賞受賞。54年第1回現代日本美術展(毎日新聞社主催)に「群像」「風景」を出品し、以後も出品を続ける。60年に初めて渡仏し、それまで夢見ていたフランスを実見して、現実と想像の差異を認識するとともに、その認識を踏まえた上で想像力をもって描くことの重要性に思い至る。対仏中にサロンドートンヌに出品して翌年帰国。62年にも渡仏し、スペイン、イタリアを訪れて翌年4月に帰国。62年、第1回国際形象展に「パリ祭」「モンマルトル」を招待出品し、以後、同展に出品を続け、72年に同展同人となる。66年4月から9月まで渡欧し、スペイン各地を旅行して制作する。68年第53回二科展で「小川の女たち」「サンドニーの少女」を出品して内閣総理大臣賞受賞。71年第56回同展に「水浴」を出品して青児賞受賞。同年、パリのエルヴェ画廊で初めての個展を開催。70年、73年にも渡仏。80年11月、「パリの女を描いて20年、織田広喜展」が日本橋三越で開催される。82年3月、福岡市美術館で「憂愁の詩人画家 織田広喜」展が開催される。1995(平成7)年3月に前年の二科展出品作「夕やけ空の風景」によって日本芸術院恩賜賞・日本芸術院賞を受賞、同年11月に日本芸術院会員(洋画)に選ばれた。96年碓井町立織田廣喜美術館が開館。2003年フランス政府より芸術文化勲章(シュヴァリエ章)を受章。2006年二科会理事長となり、12年には名誉理事長に就任した。現実そのままを描くのではなく、「想像し嘘をつく」ことが絵の制作には必要であると語り、初期から晩年まで、デフォルメされ浮遊するような女性像を特色とする幻想的な作品を描き、人気を博した。主な画集に『織田広喜画集-作品1940-1980』(講談社、1981年)、『織田広喜』(田中穣著、芸術新聞社、1993年)などがある。

出 典:『日本美術年鑑』平成25年版(414-415頁)
登録日:2015年12月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「織田廣喜」『日本美術年鑑』平成25年版(414-415頁)
例)「織田廣喜 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/204395.html(閲覧日 2024-04-19)

以下のデータベースにも「織田廣喜」が含まれます。

外部サイトを探す
to page top