京都市立美術大学発足
1950年04月旧京都市立絵画専門学校はこの月から新制の美術大学として出発した。
旧京都市立絵画専門学校はこの月から新制の美術大学として出発した。
緑巷会神津港人は同会を解散して新たに総合美術団体創芸協会を結成した。
日本芸術院では二七日、二四年度芸術院賞受賞者七名と本年度から新設の恩賜賞受賞者一名を決定した。
昨年度の各種展覧会に公表されたものの中から秀作、問題作として話題を投げたものばかりを約一三〇点選び三日より日本橋三越において展観した。
朝日新聞社文化事業団は、中尊寺藤原清衡、基衡、秀衡三代の遺体を調査し保存措置を講ずるため学術調査団を組織して現地に派遣、二十三日調査を開始した。
二科会では杉並区久我山に研究所を開設した。
毎日新聞社主催により二二日より日本橋高島屋で松園の初期より晩年に至る代表的作品を百十数点が展観された。女史の全貌を知るにたる意義ある陳列であつた。
文部省主催現代美術展の出品画が二七日朝運搬途中路上で焼失した。通行人の煙草の火が原因らしいとされた。絵は森田沙伊「カナリヤ」等四点。
上村松園とその芸術展を記念して毎日新聞社では女流作家の向上に寄与するため松園賞を設定した。選考委員には山本丘人、福田平八郎、山口蓬春、上村松篁が当たることになつた。
読売新聞主催第二回日本アンデパンタン展が一八日より都美術館で開かれた。
縄文文化研究の資料として戦前から注目されていた横須賀追浜の夏島貝塚は総司令部ダウンズ中尉の協力により明大考古学教室の手で二〇・二一両日にわたり試掘された。
湯島聖堂内大成殿孔子廟から大正天皇御下賜の孔子像二体が九日窃取され、数日後国電内で発見された。
一二日千葉県印旛郡大森町国宝長楽寺観音堂から出火、同建物を全焼した。
同陳列所は四条通り河原町西入パン・アメリカン二階に新設された。
同館は四条柳馬場東入ル京都貿易館内に開設された。
最近ニユーヨークで十ケ月間にわたり個展を開き好評を博した藤田嗣治は四日英国からル・アーゲル港に到着した。
伊東深水の青衿会、児玉希望の国風会は発展的解消を遂げ、伊東、児玉両名を顧問に両塾の代表作家ならびに各方面の同志を会員として日月社が結成された。
戦前一時中断されていた二科会の前衛派集団九室会が再組織され、機関誌「ニユーアート」を発刊する。
読売新聞社主催により日本の現代絵画を鳥瞰する意味で選ばれた梅原、安井ほか十五作家による展覧会が一六日より高島屋に開催された。