対馬調査団帰る
1950年07月八学会連合対馬調査団中の考古学団は多くの収穫を得て二四日福岡に帰つた。
八学会連合対馬調査団中の考古学団は多くの収穫を得て二四日福岡に帰つた。
二日京都鹿苑寺の国宝三層楼金閣から出火、同閣および閣中に安置された国宝義満像はじめ古美術品などを全焼した。原因は同寺徒弟林養賢の放火によるものであつた。
目黒区上目黒の都立駒場高校に建設中の故牧野虎雄記念館が完成し八日落成式を行つた。
懸案中の都美術館の破損修理は二五〇万円の予算で一〇月から一ヶ月の予定で着手した。
九州で孤高の画業をつゞける坂本繁二郎の回顧展が一日から日本橋三越に開催され注目をひいた。
日仏会館主催フランス現代ポスター展が一日から日本橋三越でひらかれた。
梅原竜三郎は国画会員を退き名誉会員となり会の運営には関与しないことになつた。
この月平凡社から世界美術全集が出版された。
ユネスコでは戦災地域諸国の図書館の要求に応ずるため絶版となつて定期刊行物を複製することに第四回総会で決定した。
会の統制を乱すという理由で太平洋画会では吉田ふじを、吉田遠志、小泉秀松を除名したが三名は理由承服できず自ら脱会声明を発した。
四ヶ国画家の子供を主題とする絵画のほか世界各国のBBS運動の資料や保護少年たちの作品が二〇日から三越本店で公開された。
米国西部学童の作品四〇点と全国小中学校作品一千余点の図画展が二七日から新宿三越で開かれた。
彫刻家川村吾蔵の遺作五〇余点、デツサン二〇〇点が一七日から三越本店において展観された。
芸術院第一部会において第一部長に推薦された川合玉堂は都合で辞退、当分高橋院長が兼任することになつた。
第六回日展規則書および審査員が五日日展運営会理事会で決められた。
昭和一六年来のフランス政府給附留学生が九日決定、美術関係では美術研究所員秋山光和(美術史学)が選ばれた。
芸術院第二部長は久保田万太郎、第三部長は信時潔に決定した。
戦後最初の建築学会学術賞と技芸賞の受賞者が決定し、学術賞は「利休の茶室」の研究によつて堀口捨巳に、技芸賞は「慶応義塾大学四号ホール」と「藤村記念堂」の建築によつて谷口吉郎に授与された。(工学技術的なものは省略。)
石井鶴三は一日日本芸術院会員に任命された。