中西勝
「芸術家である前にまず人間でありたい」と語り、生命の力強さを見つめ続けた洋画家、中西勝は5月22日、慢性呼吸不全増悪のため死去した。享年91。
1924(大正13)年4月11日、貿易業を営む中西信、一江夫妻の間に、四人兄弟の次男として大阪市城東区野江に生まれる。幼少から絵を好み、中西家所有の貸家に住んでいた日本画家に頼んで制作のようすを見せてもらったりしていたという。1937(昭和12)年3月大阪市城東区榎並小学校卒業。中学でははじめ剣道部に所属したが、級友の勧めで美術部に転部、油絵を描き始める。他方中之島の洋画研究所で田中孝之介等に学び、彫刻家・保田龍門のアトリエへ通いデッサンの手ほどきを受けた。42年3月大阪府立四條畷中学校(現、大阪府立四條畷高等学校)卒業。翌43年東京美術学校(現、東京芸術大学)を受験するもトラブルに巻き込まれ失敗、4月帝国美術学校(現、武蔵野美術大学)西洋画科へ入学する。また川端画学校へも通った。この頃の作品にはさまざまな画風が混在し、多様な西洋の画家から学び試行錯誤していたことが窺われる。44年学徒動員にて中支派遣軍の部隊に配属、任務地となった河南省南部の山奥で過酷な生活を送り、ひそかに陣地を離れるも追手に捕らえられ後方へと送られた。その後病気となり入院、終戦後の45年9月から半年余り湖北省の俘虜収容所で過ごし、46年5月博多港より帰国した。
同年7月大阪・難波の精華小学校内に設置された大阪市立美術館付設美術研究所へ開所当時から通いはじめ、田村孝之介、小磯良平等に指導を受ける(1949年まで在籍)。47年3月帝国美術学校西洋画科卒業。49年4月神戸市立西代中学校の図画教員となり、神戸市垂水区塩屋町に移り住む。同年杉田絹子と結婚。また神戸にて田村孝之介と再会、第二紀会出品を強く勧められ、同年10月第3回二紀展へ絹子夫人をモデルに描いた「赤い服の女」と終戦直後の三宮界隈の闇市場にたむろする戦災孤児等を描いた「無題」を出品、二紀賞を受賞する。以後65年から70年までの世界一周旅行期間中をのぞき、毎回出品。他方、西村功、貝原六一、西村元三朗等神戸洋画界の若手とともに49年に新神戸洋画会(後にバベル美術協会と改称)を結成、年2、3回の発表を行うなど精力的に活動した。50年10月第4回二紀展へ「人間荒廃」「女性薄落」を出品、同人に推挙される。52年10月第6回展へ「去来」「GAOGAO」を出品、同人努力賞。また「去来」にて同年12月第1回桜新人賞受賞。同月7日妻で二紀会同人の絹子が逝去。またこの年、田村孝之介が神戸市灘区の自宅に六甲洋画研究所(後の神戸二紀)を設立。中西は教師として後進の指導に当たった。53年4月神戸森女子短期大学講師(63年神戸森短期大学教授)。54年6月柿沼咲子と結婚する。同年10月第8回二紀展へ「夏・母子」「煙突掃除夫」「人間の対話」を出品、委員に推挙された。56年5月第2回現代日本美術展へ「黒い太陽に於ける群像」「負わされた群像」を出品、第3、4、6回展にも出品する。57年5月第4回日本国際美術展に「祭典」を出品、第5、7回展にも出品した。63年神戸・元町画廊(10月)と東京・文藝春秋画廊(11月)にて個展を開催。同年第1回神戸半どん文化賞を受賞する。50年代から60年代前半にかけ、中西の画風は大きく変化する。初期の作品では、戦後を生きる人々を暗めの色調で表現していたが、徐々にキュビスム風の人物や、デフォルメされた人や魚、鳥などの生き物、さらには抽象的な形態によって画面が構成されるようになっていく。また52年の「去来」以降、中西が数多く残した母子像が描かれはじめる。
65年10月咲子夫人とともに世界一周旅行へ出発。ロサンゼルスに6ヶ月滞在し、翌年4月同地にて個展を開催する。その後車にてアメリカ、カナダ、メキシコ等をめぐり、68年4月渡欧、ヨーロッパ各地を訪れた後にモロッコへ渡り、8ヶ月滞在。「ベルベル族の母子」(1969年)など、たくましく美しい母子像が制作された。その後再びヨーロッパ大陸へと戻り、69年8月リスボンで個展開催。70年4月ロシアに入り、モスクワよりシベリア鉄道にてユーラシア大陸を横断。同月7日に横浜港に到着した。旅行より持ち帰った油絵や水彩、デッサンなどは1000点以上にのぼり、そのすべてが具象画であったという。同月神戸学院大学人文学部美術専任教授となる(1995年名誉教授)。また10月と11月には、「私は外へ出て見た」と題した個展を神戸・相楽園、大阪・梅田画廊にて開催。71年10月第25回二紀展へ「砂漠の黒い男」「大地の聖母子」を出品、黒田賞受賞。さらに「大地の聖母子」で翌年3月、第15回安井賞を受賞した。72年10月第26回二紀展へ「黒い聖母子」「座す」を出品、文部大臣賞受賞。74年兵庫県文化賞、76年神戸市文化賞をそれぞれ受賞。また75年8月には二紀会理事となる。77年4月夫妻でフランスを来訪。この頃より風景や日常の生活の様子を描いた「棲まう」と題した作品が描かれはじめる。80年10月第34回二紀展へ「棲う(帰途)」「棲う(トルテヤを造る女達)」を出品、菊華賞受賞。87年5月同会常任理事となる。80年代半ば頃より、画面が明るく華やかになり、「天の調」(1984年、第38回二紀展)など天空世界を意識した作品が表れはじめる。さらに90年代に入ると、「花歩星歩」(92年、第46回展)など、人物を主体としつつ、「花」や「華」をタイトルにつけた作品が多く描かれるようになる。1992(平成4)年第46回神戸新聞社平和賞。同年11月文化庁地域文化功労者。94年12月には回顧展「中西勝の世界展」(池田20世紀美術館)が開催された。翌95年1月阪神・淡路大震災にて罹災。余震の続く中で制作された「楽隊がやって来た(1.17)」(1995年)は、もともと楽しげな作品として描かれはじめたものであったが、震災に対する不安から、完成作は暗く不気味な画面となった。他方復興募金のためにテレホンカードの原画を描き、緊急支援組織アート・エイド・神戸に副委員長として参加、また兵庫二紀の仲間たちとともに巨大な壁画を制作するなど、復興へ向けて積極的に活動した。2009年「中西勝展」(神戸市立小磯記念美術館)開催。13年二紀会名誉会員となり、15年10月第69回二紀展へ「華まばたき」が出品された。
登録日:2018年10月11日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)
例)「中西勝」『日本美術年鑑』平成28年版(539-540頁)
例)「中西勝 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/809056.html(閲覧日 2024-10-07)
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