本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





登石健三

没年月日:2014/07/30

読み:といしけんぞう  IIC(国際文化財保存学会)名誉会員(Honorary Fellow)、文化財保存修復学会名誉会員、東京文化財研究所名誉研究員、物理科学者の登石健三は肺炎のため7月30日に死去した。享年100。 1913(大正2)年9月5日に広島県の江田島で生まれ、第三高等学校を卒業した後、大阪帝国大学理学部物理学科に進んだ。卒業後、1936(昭和11)年3月に当時の理化学研究所に就職、長岡半太郎博士の助手となり、「本を書くより研究に励め」の長岡の指導の下、分光スペクトルの研究に没頭した。42年に招兵され戦後のシベリア抑留も含めて49年11月に帰国した。50年理学博士(大阪大学)。㈱科学研究所(旧理化学研究所)に復職して高峰研究室に属し、芳野富彌とともに『分光化學分析用基準スペクトル表』(1952年、㈱科学研究所)をまとめた。52年10月に、できたばかりの東京文化財研究所に転職し、文化財保存のための物理学応用研究を始めた。当時の東京文化財研究所は現在の東京国立博物館の地下と通用門近くの木造の小屋にあった。保存科学部長は建築史の関野克で、登石は物理研究室長を務め、コバルト-60など放射性同位元素を用いた文化財の透視調査を始めた。当時の放射線透視調査で有名なものは、中尊寺金堂の巻柱、日光東照宮陽明門の側壁、鎌倉大仏の欠陥調査などがある。中尊寺金色堂のX線調査から、部材それぞれに漆を塗って仕上げたのちに組み立てたものと分かり解体修理が決定したなどの成果を挙げた。また当時は文化財を船便で移動しており、赤道付近で長期間の高温高湿度に曝されカビ発生のおそれがあったが、乾燥剤をある程度湿らせたもの(「科研ゲル」(当時の英語名称はKakew))を密閉容器内に入れて湿度を制御する新しい手法を開発し、『古文化財の科学』や“Studies in Conservation”などの学会誌に研究成果を発表した。調湿剤を用いた密閉容器内の湿度調節は、今日では輸送用の梱包容器や密閉展示ケースなどで日常的に用いられており、この功績に対して78年に紫綬褒章を受けた。また見城敏子と共に打ち立てのコンクリートから発生するアルカリ物質の油絵への影響を世界で初めて指摘し、その研究成果により2004(平成16)年5月にはIIC(国際文化財保存学会)の名誉会員(Honorary Fellow)となった。また、より良い展示・収蔵環境を実現するため、日本の気候風土を考慮した保存環境研究を行い、保存環境整備に努めた。72年の高松塚古墳壁画発見時には保存施設整備に関わり、在職最後は虎塚古墳(茨城県)などの装飾古墳の保存に携わった。75年に61歳で東京国立文化財研究所を退官し、78年に名誉研究員となった。そのほか、75年4月より東海大学講師、国学院大学講師、株式会社寺田倉庫顧問、任意団体日本文化財研究所顧問、76年より千葉県文化財審議会委員、飛鳥保存財団委員、77年より船橋市文化財審議会委員、78年より日本考古学研究所所長、80年より船橋市野外彫刻設置委員会委員、85年には川崎市日本民家園協議会委員を務めた。88年4月から99年3月まで財団法人文化財虫害研究所(現、公益財団法人文化財虫菌害研究所)理事長、87年から99年まで古文化財科学研究会(現、文化財保存修復学会)の会長を務めるなど、文化財保存修復に関する教育、行政への協力、学会の発展に尽力した。84年に勲三等瑞宝章を叙勲し、その逝去にあたり14年8月29日閣議決定で正五位の位記追贈を受けた。職務上での発明として62年 密閉梱包内の相対湿度をほぼ恒常に保つ方法、65年 正規投影撮影装置、66年 被写体の等高線群を各線につき等しい倍率で写す方法などの特許がある(本人著書より)。登石は常にユーモアにあふれた態度で周囲と接し、世の中に対してウィットに富んだ見方を持ち、また自身のことを先人が手をつけなかった分野を研究したハイエナ流の仕事の仕方と表現していたが、現代に生きる我々に対して、周りに同調するのではなく「各人が自分の見識をしっかりと持つこと」が大事である、と最後の執筆である『百年賛歌-登石健三の生涯』(根本仁司編、岩波ブックセンター、2014年)に記している。10年に逝去した山〓一雄と双璧をなした文化財保存科学の黎明期を支えた偉大な研究者であり、その研究成果は文化財を取り巻く環境を制御する基本技術となっている。

永田力

没年月日:2014/07/27

読み:ながたりき  画家の永田力は、7月27日腎臓がんのため死去した。享年90。 1924(大正13)年、長崎県に生まれる。中学卒業後、画家を志し上京、同舟舎に学ぶ。1943(昭和18)年中国東北部に渡りシベリヤ経由でパリをめざすが、一時昭和製鋼所報道班(自筆別文献では「満洲製鉄」とも)に務める内、応召がかかる。敗戦後ソビエトで抑留生活を送る。収容所では馬の毛で筆をつくりロシア兵を描いたという。復員後の48年上京する。53年風間完らと「エンピツの会」を結成、東京の美松画廊で3年続けグループ展を開催。57年日本天然色映画の設立に参加。その後、岩谷書店発行の雑誌『宝石』編集部で働きながら絵画制作を続ける。公募展では、49年第20回第一美術協会展に「街」、「駅前」、「議事堂風景」(第一美術賞受賞)を出品。51年には総会に改革案を提出するも否決されることで退会し、第15回自由美術展に「風景」を出品し会員になる。同展には67年まで出品。この間、メンバーの自由美術家協会から主体美術協会への分裂騒動のなか、自由美術の事務局を担っていたため、退会を遅らした事情がある。その後、アークラブに属し、無所属となる。国際展では57年第1回アジア青年美術家展でフライシュマン賞を受賞。スイスのグレッフェン・トリエンナーレ、ドイツのライプチッヒ世界風刺画ビエンナーレ等に出品。60年『図解された洋画の技法集 別冊アトリエ』64を上梓する。水上勉の小説『飢餓海峡』(62年、『週刊朝日』連載、講談社さしえ賞受賞)の挿絵をはじめ、『オール読物』や『週刊新潮』等でも挿絵を寄稿した。63年、67年、69年、70年、72年、73年、75年、79年と8回東京の南天子画廊で個展を開催。1995(平成7)年に東京のギャラリーミキモトで個展を開催。ピエロや芸人たちをモチーフに、人間の孤独、悲しみの情感を描くことに取り組んだ。96年から芸術研究をジャンル横断的に行なう「東方藝術思潮会」を主催した。

堀友三郎

没年月日:2014/07/07

読み:ほりともさぶろう  染色家の堀友三郎は7月7日、肺炎のため死去した。享年90。 1924(大正13)年、堀朋近・順の三男として大阪市に生まれる。(本籍は石川県)。1941(昭和16)年関西学院中学部卒業。多摩帝国美術学校(現、多摩美術大学)図案科に入学。3年次より同校図案科染色教室を専攻。木村和一に師事。学生時代には母方の叔父である洋画家の中村研一の自宅で過ごす。もう一人の叔父である洋画家の中村琢二との関わりもあり、制作態度の異なる両叔父に影響を受けながら育つ。 44年、第31回光風会展に「紅型バラ」を出品し初入選。学徒動員を受け、9月に兵役、金沢へ入隊する。翌年の45年、9月に復員。多摩帝国美術学校図案科染色教室を不在卒業。その後は、師である木村和一主宰の染人社、東京染織作家協会、真赤土工芸会の各会員として活躍する。56年、32歳の時に第42回光風会展に「早春譜」を出品。第12回日展に「瀬戸の潮」を出品し、初入選。後に、同作品はソ連政府の買い上げとなり、レニングラード美術館に収蔵される。58年、第44回光風会展に「海」を出品。光風工芸賞を受賞し、光風会会友に推挙される。同年、第1回新日展に「伊豆の海」を出品。60年、第3回新日展に出品した「造船」(石川県立美術館蔵)が、特選並びに北斗賞を受賞。その後、采匠会展、日本現代工芸美術展でも作品を発表。64年、第50回光風会展に「湖畔の映」を出品。光風工芸会員賞を受賞。67年からは、第53回光風会展、第6回日本現代工芸美術展、第10回新日展で審査員を務める。翌年の68年には日展会員に推挙される。同年、横浜シルク博物館展の審査員も務める。その後も審査員などを歴任し、71年、東京家政大学非常勤講師に就任。75年、51歳の時に第61回光風会展に出品した「雪景」で杉浦非水賞を受賞。翌年からは朝日カルチャーセンター(新宿)の講師に就任。以後、30年にわたり務める。77年には花山研究所講師に就任。78年、現代工芸美術家連盟を脱退し、日本新工芸家連盟を創立、総務委員となる。東京家政大学講師を辞任する。79年、第65回光風会に「語らいを」を出品し、第65回光風会特別記念賞を受賞。同年、妻の紀子が逝去する。80年、『のり染パネル制作』(美術出版社)を出版。81年、社団法人日本新工芸家連盟初代理事に就任。82年、第20回采匠会展に作品を発表。同展を最後に解散。84年、光風会幹事、日展評議員に就任。85年、第7回日本新工芸展に「岩手の山にかゝる虹」を出品、内閣総理大臣賞を受賞。同年、多摩美術大学染織デザイン科主任教授に就任。川徳デパート(岩手・盛岡)やギャラリー・スペース21(東京・新橋)で個展を開催。日本新工芸家連盟脱退。86年、光風会理事に就任。紺綬褒章を受章。87年、東急百貨店本店(東京・渋谷)で個展を開催。『堀友三郎丸紋図案集』(六芸書房)を出版。同書は染につかう型紙を意識して型の繋ぎ目を考えながらデザインをまとめたという。さらに、九谷焼の徳田八十吉の自宅で絵皿に絵付けをしたことを想いだし、丸紋に九谷焼のような縁紋様が加えられている。1989(昭和64年・平成元)年には財団法人中村研一記念美術館初代館長、常任理事に就任。翌年の90年、明日へのかたち展に作品を発表。石川県立美術館で「堀友三郎特別展」が開催される。紺綬褒章を受章(2回目)。93年、財団法人福沢一郎記念美術財団理事就任。95年、多摩美術大学を定年退職し客員教授となる。多摩美術大学付属美術館において退職記念展が開催される。翌年、東急百貨店本店(東京・渋谷)で個展を開催。退職後も、精力的に作品を発表しながら、各展覧会で審査員を歴任する。2000年、ギャリ―白雲(大阪)、ギャラリータマミジアムにて個展を開催。勲四等瑞宝章を受章。国立台湾工芸研究所で講演を行うなど、国内外で活躍をする。01年、東急百貨店本店(東京・渋谷)で喜寿記念展を開催。翌年、脳梗塞で倒れる。以後、失語症のリハビリを続けながら制作を続け、病前同様に審査員も務める。04年、光風会展に「雪凌」を出品。同会を定年退職し、名誉会員となる。第36回日展に「蔵王」を出品。日展参与になる。文芸春秋画廊(東京・銀座)にて個展を開催。05年、杉並より調布に転居する。07年、調布市文化会館にて「堀友三郎展」(調布市文化・コミュニティ振興財団主催)が開催される。09年、『堀友三郎 染色画集』(求龍堂)を刊行。 堀の作風は50年代中頃から60年代は初期の抽象形態による構成的な作風、その後、80年代前半にかけては具象が曲線を中心とした抽象の中に溶け込む画風、その後、実景の追及に大別されると評されている。毎日デッサンを欠かさず、デザインの発想の根本には「写生」があると学生に諭し、絵描き以上のデッサン力がないと良いデザイナーにはなれないと力説していたという。堀は自らの考えとして、工芸作品はしっかりとしてデザインと優秀な技術が伴わないと良い作品とはならない。いくら発想が良く、デザインの素晴らしいものができても技術的に難点があっては作品にならない。デザイナーであると共に職人でなければいい仕事は望めないという言葉を残している。 晩年に至るまでの多くの作品は石川県立美術館に所蔵されている。

河原温

没年月日:2014/06/27

読み:かわらおん  現代美術作家の河原温は、6月27日にニューヨークで死去した。生没年月日は公表されていないが、2015(平成27)年にグッゲンハイム美術館(ニューヨーク)で開催された大規模な個展「河原温――沈黙」の図録に、上記の日付における略歴として「29,771日」と記されており、享年81であったと思われる。 河原温は、1951(昭和26)年に愛知県立刈谷高等学校を卒業して上京し、独学で絵画の制作を開始した。翌52年から56年頃までの約5年間に、日本美術会と読売新聞社のそれぞれの主催による二つのアンデパンダン展、「ニッポン」展、デモクラート美術展などの公募展やグループ展において、またタケミヤ画廊等で開催した何回かの個展を通じて、精力的に絵画作品の発表を行っている。この時期の河原の作品は、ロボットやマネキンを思わせる記号化された人体表現、遠近法を強調した空間表現、不規則多角形の変形カンヴァスや変形紙面の使用を特徴とし、非人間的でSF的な状況を不条理なユーモアとともに描出した具象的な絵画(油彩画および素描)であった。中でも「浴室」シリーズと「物置小屋の中の出来事」シリーズという二つの鉛筆素描連作(いずれも東京国立近代美術館蔵)は、戦後の閉塞した社会状況を象徴し、時代を代表する傑作として高い評価を受けている。油彩画としては「孕んだ女」(1954年、東京国立近代美術館蔵)や「黒人兵」(1955年、大原美術館蔵)などがある。 戦後世代を代表する新進画家として注目を集め、活躍が期待された河原だったが、少数の観客しか目にしない展覧会での作品発表という形式に限界を感じ、より広範な観客が鑑賞できる媒体として、50年代後半から「印刷絵画」の可能性を模索するようになった。これは、作家自身が製版・印刷の工程を監理しながら制作する、オフセット印刷による絵画で、作者自身によって書かれたテクスト「印刷絵画」(『美術手帖』誌155号、臨時増刊「絵画の技法と絵画のゆくえ」、1959年)に詳細が論じられている。 しかしながら、結局のところ河原は、全く新しい展開を求めて59年9月に日本を離れ、メキシコ、ニューヨーク、パリでの滞在を経て、64年秋からはニューヨークに定住することになる。この間の63年以前の作品についてはほとんど知られていないが、64年にパリおよびニューヨークで制作されたドローイングが200点ほど現存する。これらは言語をテーマにした作品やインスタレーション作品のプランが多く、50年代の東京時代の作品とは、すでに全く異なるものであった。65年にニューヨークで制作された作品は、カンヴァス上に文字を描いた作品や暗号を用いた作品であり、そして翌66年1月からは、単色の地のカンヴァスに白い活字体の文字で日付を書いた絵画作品、いわゆる「日付絵画」(「Today(今日)」シリーズ)の制作が始められることになる。 「日付絵画」は、ただ単に日付を描いた絵画ではなく、いくつかの規則に則って制作されているが、そのうち最も本質的なものは、描かれた日付の24時間のうちに制作が開始され、描き終えられなければならないというものである。すなわち、その正式タイトルが「Today(今日)」であることからもわかるように、描いている作家にとって、描かれる日付は常に「今日」でなければならないのであり、描き終えられなかった場合は破棄される。それゆえ、一枚一枚の「日付絵画」は、作家がその日付の日に生存し制作したという、一種の存在証明のようなものとなる。日付は、作家がその日に滞在していた都市における公用語の一つを用いて書かれており、カンヴァスの大きさは、8×10インチから150号大までの8種類の中から選ばれている。画材はリキテックス社のアクリリック(アクリル絵具)で、赤と青は既成の絵具を混色せずに用いているのに対し、ダークグレーに見えるその他の画面の色彩は、その都度絵具を調合して色を出している。それゆえ、一見同じように見えるダークグレーの画面には様々な色調が認められ、「日付絵画」が作家の感情や気分、意識の状態を反映した「絵画」として制作されていることがわかる。絵画は自作のボール紙製の箱に納められ、箱の内側にはその日の新聞が貼り込まれている。「日付絵画」は、文字通り河原ライフ・ワークであり、亡くなる前年の13年までの間に3000点近い数が描かれたと言われる。 「日付絵画」に続き、河原は60年代の後半から、一連の自伝的な作品を制作した。その日に読んだ新聞記事をスクラップした「I READ」(1966年-95年)、起床した時刻をスタンプで記した絵葉書を友人に宛てて送り続ける「I GOT UP」(1968年-79年)、その日に会った人物の名前を会った順にタイプ打ちした「I MET」(1968年-79年)、その日に行った経路をゼロックス・コピーの地図の上に赤線で記録した「I WENT」(1968年-79年)がそれである。 一方、存在証明的な意味が最も強いのは、電報による作品「I AM STILL ALIVE」(1970年-2000年)で、「私はまだ生きている」という意味の英文の電報を間欠的に友人や知人に宛てて打電するものである。とはいえ、発信時点での発信者の存在証明は、受信者の時空におけるその不在を同時に喚起する。受信した時点で本当に「私はまだ生きている」かどうかはわからないのである。この構造は「日付絵画」とも通じるものである。というのも、66年以降、河原は、展覧会のオープニングなど公式の場に姿を見せることはなく、写真も公表していないので、描かれた日付の時点における作者の存在証明は、そのまま「日付絵画」の鑑賞者にとっての作者の不在をあらわにするからである。 「日付絵画」と一連の自伝的な作品のように、河原自身の生と密接に結びついた作品とは異なり、時間と人類を巨視的に捉えた作品が、「100万年」である。1ページに500年分の西暦の年号をタイプアウトし、それを2000ページ、つまり100万年分続けて、10巻からなる年号簿とした書物の形の作品で、過去編(1970年-71年)と未来編(1980年-98年)が制作された。人類そのものの発生から、現在を経て、その消滅までをも包含する時間が可視化されたこの作品は、見る者を超越的で宇宙的な視点に誘う。 晩年の河原温は、「日付絵画」の制作を続ける傍ら、展覧会への参加を極力限定し、最終的には二つのプロジェクトのみが残ることになった。一つは「100万年」の朗読のプロジェクト(1993年-)で、展覧会などの会場で「100万年」の一部を俳優や一般の参加者などが朗読したり、録音して出版したりするものである。もう一つは「純粋意識」(1998年-)と題された「日付絵画」を幼稚園に展示するプロジェクトで、人間に社会性が刷り込まれる以前の幼児期に「日付絵画」を直接的に経験させることを意図して、世界の20カ所以上で実施されてきた。これらはいずれも、他者の意思により、作者の不在のもとでも、おそらくは死後においても、実施することができるプロジェクトである。 「日付絵画」以降の河原温の作品は、文字や数字を用いているため、コンセプチュアル・アートの代表的な作例とされることが多い。しかしながらそれは、日々目覚めては眠りにつく人間の生を意識の明滅と捉え、それを誕生から死までの時間に、さらには人類の発生と滅亡という次元にまで敷衍するもので、個人的なものや日常的なものと普遍的なものや宇宙的なものとを直感的に結びつける、極めて独創的な形式であった。瞑想的な作品は、世界中で高く評価され、大きな影響を与えている。

井上正

没年月日:2014/06/14

読み:いのうえただし  日本彫刻史の研究者である井上正は6月14日、肝臓癌により死去した。享年85。 1929(昭和4)年1月12日、長野県飯田町(現、飯田市)箕瀬において井上善一の三男として生まれる。35年飯田尋常高等小学校大久保部入学、41年長野県飯田中学入学、43年海軍飛行予科練入隊、45年終戦により予科練除隊、47年長野県飯田中学四年修了、第四高等学校文科甲類入学、50年東京大学文学部美学美術史学科に入学、53年同大学文学部大学院特別研究生、56年同大学文学部助手、63年文化財保護委員会事務局美術工芸課(文部技官)に着任、67年京都国立博物館学芸課美術室に移動、翌68年同館学芸課資料室長に昇任、79年同館学芸課学芸課長に昇任、87年同館を退職する。京都国立博物館名誉館員。同年、奈良大学文学部文化財学科教授に就任、1989(平成元)年飯田市美術博物館長を兼務、93年奈良大学総合研究所長に就任、95年奈良大学を退職し、佛教大学文学部仏教学科教授に就任、2000年佛教大学を退職し、京都造形芸術大学芸術学部教授に就任、06年京都造形芸術大学を退職、飯田市美術博物館の館長職も退くが、引き続き同館の顧問を引き受ける。 井上は、67年に刊行が開始された『日本彫刻史基礎資料集成』(中央公論美術出版社)の平安時代造像銘記篇、これに続いて73年より刊行がなされた重要作品篇の作例報告に携わり、「善水寺薬師如来坐像」「神護寺薬師如来立像」をはじめとする21件について分担執筆を行うほか、68年から刊行が始まった『奈良六大寺大観』全14巻(岩波書店)では彫刻24件、工芸ならびに文様46件の解説を、続く『大和古寺大観』では2巻・当麻寺(1978年)と6巻・室生寺において彫刻4件、工芸2件の解説を担当するなど、今日に至る日本彫刻史の基礎・基盤研究に大きな足跡を残した。その一方で、井上の研究の対象作品・方向性については、81年に勤務先である京都国立博物館刊行の『学叢』3に発表した「“檀色”の意義と楊柳寺観音菩薩像―檀像系彫刻の諸相」を契機として、その前・後で大きく志向を異にしている。すなわち、それ以前の研究においては平等院鳳凰堂阿弥陀如来像以降の定朝様式の展開を中央・地方に及んで実作例に臨んで研究成果を積み重ねるとともに、定朝の父とされる康尚とその時代の作風の解明に心血を注いだ。代表的な論文として「浄厳院阿弥陀如来像に就いて」『國華』791(1958年)、「法界寺阿弥陀如来坐像」『同』834(1962年)、「遍照寺の彫刻と康尚時代」『同』846(1962年)、「東福寺同聚院不動明王坐像」『同』848(1962年、のち改稿したものを、『不動明王像造立一千年記念誌』に収載)、「浄瑠璃寺九躰阿弥陀如来像の造立年代について」『同』861(1963年)、「関東の定朝様彫刻」『関東の彫刻研究』(学生社、1964年)、「誓願寺毘沙門天像」『國華』907(1967年)、「藤原時代の二王像―旧蓮台寺像を中心に―」『佛教藝術』80(1971年)、「法金剛院阿弥陀如来像について」『國華』940(1971年)、「万寿寺阿弥陀如来坐像について」『MUSEUM』246(1971年)、「皇慶伝説の仏像―池上寺、如願寺―」『日本美術工芸』412(1973年)、「皇慶伝説の仏像―円隆寺―」『同』413(1973年)、「雙栗神社周辺の仏像」『同』414(1973年)、「三つの毘沙門天―京都市中に伝わる」『同』415(1973年)、「童顔の仏・菩薩―本山寺聖観音立像と真如堂阿弥陀如来立像―」『同』417(1973年)、「摂津・安岡寺の千手観音像」『同』418(1973年)、「藤原彫刻のプロポーションについて」『同』421(1973年)、「焼失壬生地蔵尊」『同』422(1973年)、「横川中堂の聖観音像」『同』423(1973年)、「旧巨椋池周辺の仏像」『學叢』1(1979年)、「康尚時代の彫刻作例三種」『同』2(1980年)などをあげることができる。集英社『日本古寺美術全集』所載の「和様彫刻の成立と展開」(15巻・平等院と南山城の古寺、1980年)、ならびに「定朝以後の諸相」(6巻・神護寺と洛北の古寺、1981年)、筑摩書房『日本美術史の巨匠たち(上)』(1982年)に執筆した「定朝」は、いずれもそれまでの研究を集大成した感がある。また、この時期にあっては、これらの研究と併行して工芸ならびに文様研究にも関心があったことが「飛鳥文様の一系列」『美術史』24(1957年)、「春日大社平胡―について―平安工芸の編年的考察 其一」『國華』867(1964年)、「春日神筝考―平安工芸の編年的考察 其二」『同』883(1965年)、「檜扇二種―平安工芸の編年的考察 其三」『同』894(1966年)、「平安時代装飾文様の展開について」『佛教藝術』67(1968年)、「東洋における雲気表現の衰滅」『月刊文化財』149(1976年)などの論文から窺がわれる。 一方、81年に「“檀色”の意義と楊柳寺観音菩薩像―檀像系彫刻の諸相」(上掲)を発表し、ことに「檀色」という概念を深く掘り下げたことで「檀像」の概念を広く捉え直すとともに、それまで基準となる作例との比較・対比が難しく漠然と十世紀頃と認識されることの多かった平安木彫の諸作例について、都鄙を問わず積極的に取り上げて再考を促し、制作年代についても従来漠然と考えられてきた年代より大きく引き上げる試みを行った。その際、これらを「古密教系彫像」「霊木化現仏」「感得」という視点から論じ、檀像研究のありように一石を投じた。この井上の研究により八・九世紀の木彫像研究が以後、活況を呈し、その見方・考え方は後続の彫刻史研究者に少なからず影響を及ぼすこととなった。この時期の代表論文には上掲の論文に続く「観菩提寺十一面観音立像について―檀像系彫刻の諸相Ⅱ」『学叢』5(1983年)、「愛知高田寺薬師如来坐像について―檀像系彫刻の諸相Ⅲ―」『同』6(1984年)、「法華寺十一面観音立像と呉道玄様―檀像系彫刻の諸相Ⅳ―」『同』9(1987年)がそれに当たる。さらに『日本美術工芸』には続々と関係作例の紹介を兼ねた論文が発表された。当時、彫刻史研究者の間で同誌への関心が著しく跳ね上がった。そして、これらの研究を俯瞰するものとして87年には至文堂『檀像(日本の美術253)』が、91年には岩波書店『七〜九世紀の美術 伝来と開花(岩波日本の美術の流れ 二)』が上梓された。なお、『日本美術工芸』に掲載された論文の多くは、のちに『古佛―彫像のイコノロジー―』(法蔵館、1986年)、『続古佛―古密教彫像巡歴』(同、2012年)に収録された。ただし、93年1月から翌年12月にかけて「古仏への視点」の副題のもと集中的に『日本美術工芸』の誌上において在地の古仏紹介を兼ねて発表された諸論文については未収である。すなわち、「和歌山東光寺薬師如来坐像」『同』652、「和歌山法音寺伝釈迦如来坐像」『同』653、「天部か神像か―法音寺・東光寺の例―」『同』654、「和歌山薬王寺十一面観音立像」『同』655、「和歌山満福寺十一面観音立像」『同』656、「島根南禅寺の仏像群(一〜三)」『同』657〜659、「島根禅定寺の仏像群」『同』660、「島根巖倉寺聖観音立像」『同』661、「島根仏谷寺の仏像群」『同』662、「島根大寺薬師の仏像群」『同』663、「島根清水寺十一面観音立像 付・大寺薬師仏像群(続)」『同』664、「滋賀鶏足寺仏像群(一〜二)」『同』665・666、「滋賀黒田観音寺伝千手観音立像」『同』667、「滋賀来現寺聖観音立像」『同』668、「大阪久安寺薬師如来立像」『同』669、「大阪常福寺千手観音立像」『同』670、「新潟宝伝寺十一面観音立像(水保の観音)」『同』671、「岩手天台寺仏像群」『同』672・673、「秋田の霊木化現像(上)―中仙町小沼神社―」『同』674、「秋田の霊木化現像(下)―土沢神社、談山神社、白山神社―」『同』675がそれらに当たる。この一連の研究を踏まえつつ井上の関心が神像彫刻研究へと向かったことは、「神仏習合の精神と造形」『図説 日本の仏教6 神仏習合と修験』新潮社、1989年)、「霊木に出現する仏―列島に根付いた神仏習合―」『民衆生活の日本史・木』(思文閣出版、1994年)、「神護寺薬師如来立像と神応寺伝行教律師坐像―怨霊世界の造形について―」『佛教大学 仏教学会紀要』7(1999年)などから窺がうことができる。 井上の著作を網羅した目録は、『続古佛―古密教彫像巡歴』(上掲)の巻末に収載されているが、あわせて詳細な年譜を付したものが『文化財学報』13(奈良大学文学部文化財学科、1995年)、『佛教大学 仏教学会紀要』7(上掲)、『伊那』1039(伊那史学会、2014年)に収められている。ことに『伊那』には生前、井上の謦咳に親しく接した安藤佳香、櫻井弘人、織田顕行、林英壽によるそれぞれの思い出と追悼文、および、実妹の清水好子による「井上家と兄・井上正のこと」を併載している。

外山ひとみ

没年月日:2014/06/01

読み:とやまひとみ  写真家、ジャーナリストの外山ひとみは6月1日、急性骨髄性白血病のため東京都内の病院で死去した。享年55。 1958(昭和33)年9月1日静岡県富士市に生まれる。静岡県立吉原高校卒業。高校時代に写真部に所属し写真を撮り始める。79年東京写真短期大学(現・東京工芸大学)卒業。この年、自費出版で写真集『家』を刊行。以後、フリーランスの写真家として人物取材を中心に雑誌などに発表する。 さまざまな社会的テーマに取り組み、90年代にはアジアに関心を広げ、1994(平成6)年から95年にかけてはインドシナ半島を小型バイクで縦断してヴェトナムを取材、個展「ヴェトナム・ドリーム」(コニカプラザ、東京、1995年)を開催、97年にはヴェトナムと日本で写真展「ヴェトナム颱風」を同時開催した。 写真および文章による著作を数多く発表、主なものに『MISS・ダンディ―男として生きる女性たち』(新潮社、1999年)、『ヴェトナム颱風』(新潮社、2003年)、『平成の舞姫たち』(モーターマガジン社、2010年)、『ニッポンの刑務所』(講談社、2010年)、『女子刑務所―知られざる世界』(中央公論新社、2013年)、『All Color ニッポンの刑務所30』(光文社、2013年)など。刑務所の取材には20年以上にわたってライフワークとして取り組み、国内数十か所の刑務所や少年院のドキュメンタリーを通じて、受刑者の生活だけでなく、犯罪の背景や司法制度の問題など幅広い観点から日本社会の一面を描き出す仕事として評価された。

市村緑郎

没年月日:2014/04/27

読み:いちむらろくろう  彫刻家で日本芸術院会員、埼玉大学名誉教授の市村緑郎は4月27日、間質性肺炎のため死去した。享年78。 1936(昭和11)年4月21日、茨城県下妻市に生まれる。62年東京教育大学(現、筑波大学)教育学部芸術学科彫塑専攻を卒業。在学中の61年に第4回日展へ「遠碧」を出品、初入選を果たす。62年第38回白日会展に「トルソーⅠ、Ⅱ」が初入選し白日賞を受賞。また同年より東京都立大泉高等学校で教鞭を取る。67年白日会会員に推挙。71年埼玉大学教育学部に助手として着任し、翌年に講師、83年に教授となり、2002(平成14)年に定年退官するまで彫刻実技、彫刻理論を中心に学生を指導、講座運営に尽力する。74年第4回日彫展、76年第6回日彫展で努力賞、77年第7回日彫展で日彫賞を受賞。77年文部省短期在外研究員として渡欧、イタリアを中心にヨーロッパの彫刻と美術教育について研究する。78年改組第10回日展で「腰掛けている人」、翌年第11回展で「腰掛けている女」で特選を受賞。82年第2回高村光太郎大賞展で「バランス」が佳作賞、84年第3回同大賞展で「融化A」が優秀賞を受賞。同賞の受賞をきっかけに屋外彫刻にも積極的に取り組み、86年には高村光太郎大賞の後を受けた第1回ロダン大賞展で「雲」が優秀賞、88年第2回同大賞展で「日は西に―明日へ」が彫刻の森美術館賞を受賞する。この間87年に日展会員に推挙。88年第64回白日会展で「明日に」が吉田賞を受賞、その後も同会の95年第71回展で「記憶」が長島美術館長賞、2002年第78回展で「こしかけているひとⅡ」が中澤賞と受賞を重ねる。89年第3回現代日本具象彫刻展で「森の詩」が大賞を受賞。94年第26回日展で「リラ」が日展会員賞を受賞。01年日展評議員に就任。02年に埼玉大学を定年退官し名誉教授となり、崇城大学芸術学部教授に就任。03年には「空遠く」で第35回日展内閣総理大臣賞を受ける。一貫して塑造による人体像を追究し、強い構築性をベースとした滑らかな肢体が生み出す無駄のない造形性による作品を発表した。また中央での精力的な活躍のみならず、地域への貢献という点でも埼玉県展の審査員や代表委員等の要職を歴任し、市民文化の向上に寄与した。06年、前年の第37回日展出品作である「間」で日本芸術院賞を受賞、08年日本芸術院会員となる。同年日展理事(09年に常務理事)、日本彫刻会理事(12年に理事長)に就任。没後の2016年に『市村緑郎彫刻作品集』(求龍堂)が刊行された。

中野玄三

没年月日:2014/04/21

読み:なかのげんぞう  嵯峨美術短期大学元学長かつ名誉教授で、仏教美術史家の中野玄三は、4月21日、鼻腔悪性黒色腫のため、京都府城陽市の病院で死去した。享年90。 1924(大正13)年1月1日、佐賀県唐津市に生まれる。翌年の年末に、40代だった父・範一が突然亡くなると、身重の母・てる子は玄三を含め5人の子を引き連れて上京。日中戦争勃発後の1939(昭和14)年12月、予科士官学校に入学。以後、職業軍人の道に進むことを余儀なくされた。43年に陸軍航空士官学校を卒業すると、陸軍少尉に任官してただちに飛行部隊二八戦隊に入隊し、中国東北部の温春に駐屯。その後、千葉県東金飛行場へと戦隊は移動し、そこで敗戦を迎えた。 46年、公職追放令のために公職に就くことができなかった中野は、敗戦時に駐屯していた千葉県東金で農家の下働きをし、その後東京の工場で働くこととなった。幼い頃の最年長の姉や兄弟の死、陸軍士官学校同期生の戦死、敗戦という戦中戦後にかけての体験が中野の心を深くえぐり、脅迫的なまでの死の対する恐怖心が植え付けられることとなり、この観念が中野の研究の基調をなしていた。 将来の展望をもてなかった20代前半のある日、中野は東京国立博物館を訪れてみたという。このふとした訪問が人生の大きな転機となった。その後博物館に足を運ぶようになり、52年4月に開催された博物館友の会主催の第2回「春の旅行」に参加して関西の国立博物館や寺社仏閣をめぐった。このときに「関西の大学に入り直して、本格的に美術の勉強をしてみたい」と心ひそかに思ったという。すでに同年3月に会社を退職しており、大学受験を後押しする条件が内外ともに揃っていた。 持ち前の集中力を発揮して、53年4月に京都大学文学部に入学。貪欲に勉学にいそしみ、人より10年遅れての青春であった。史学科国史学専攻へ進学。 57年に卒業後、京都府教育庁文化財保護課へ就職。後進の美術史研究者に大きな影響を与えた「八世紀後半における木彫発生の背景」(『悔過の芸術』所収、初出は1964年)は、修理のために神護寺薬師如来立像が国宝修理所へと搬出される際に立ち会った経験が端緒となった。生涯にわたって研究の柱の一つとなった『覚禅鈔』などの密教図像に出会うのも京都府時代のことであった。東寺観智院の聖教調査で新義真言宗開祖の覚鑁の著作を発見したことが、60年の「山越阿弥陀図の仏教思想史的考察」に結実。これが学術誌に掲載された最初の論文である。 67年4月、京都府庁から奈良国立博物館へと転職。69年から3年間かけて勧修寺本『覚禅鈔』を調査。平行して『覚禅鈔』諸写本の総合的な調査も精力的に行った。当時、京都市立芸術大学教授であった佐和〓研が主導した密教図像調査に参加し、その成果は69年の『仏教藝術』70号「素描仏画特集号」となり、中野も「覚禅伝の諸問題」ほかを寄稿して覚禅鈔および覚禅に関する基礎的事項を明らかにした。 71年には「社寺縁起絵展」を担当。かねてより縁起絵に関心を寄せていたが、京都府時代の多くの調査経験もまた縁起絵の世界への興味をより一層かきたて、「社寺縁起絵展」の成功へとつながる。また奈良博時代には、仏教美術に関する網羅的な情報の収集と公開をするという『国宝重要文化財 仏教美術』刊行事業を担当。この壮大な事業は、残念ながら中野の配置換えにより未完に終わったが、公刊された巻からは京都府時代に培った調査・研究・編集の能力が如何なく発揮されていることがうかがわれる。 74年4月、奈良国立博物館から京都国立博物館へ配置換え、美術室長となる。以後、84年の退官まで、学芸員が総掛かりで準備する特別展や、個人研究の成果公開の場として重視されていた特別陳列にほぼ毎年のように携わった。折しも京博所蔵になった東寺伝来の十二天画像の研究に取り組み、77年4月に特別展「十二天画像の名作」を開催。奈良博時代以来の『覚禅鈔』調査の成果が79年7月の特別展「密教図像」、同年10月末の特別陳列「不動明王画像の名品」展に結実。あわせて78年11月には金剛峯寺所蔵の「応徳涅槃図」の修理完成披露を兼ねた「涅槃図の名作」展、82年1月には「源頼朝・平重盛・藤原光能像」展。また配置換え当初は近世絵画の担当であったことから80年6月と翌年7月には特別陳列「探幽縮図」展を開催。中野の実に幅広い関心のさまがよく表われている。最後の特別陳列となったのが82年8月の「六道の絵画」展であった。卒業論文以来、一貫して追求してきた六道絵をテーマにした総決算としての特別陳列であった。 84年4月から3年間は京都文化短期大学(現、京都学園大学)、同年4月から1994(平成6)年3月まで嵯峨美術短期大学(現、京都嵯峨芸術大学。91年〜94年は学長)の教壇に立った。この間、名古屋大学や京都大学の非常勤講師も勤めており、中野の謦咳に接した研究者の卵は多かった。擬音語擬態語を用いながら繰り広げられる朴訥とした語り口が魅力的だったという。 この時期には『大山崎町史』『山城町史』など数多くの市町村史の編纂事業に携わったほか、佐和〓研の急逝後中断していた大覚寺聖教調査が中野を団長として91年に再開され、翌年には嵯峨天皇遠忌の記念行事の一環として大覚寺乾蔵収蔵の聖教目録が刊行された。この事業を母体に95年には歴史学の研究者による大覚寺聖教・文書研究会が発足、翌年には歴史学、仏教史学、美術史学の研究者がメンバーである覚禅鈔研究会へと解消発展した。この一連の事業・研究は、聖教が歴史学一般にも有用な史料であることが広く理解されるようになる先駆的な役割を果たすものであった。 「私は研究者同志がお互いに相手を批判する論文を書くことは、研究に活力を与えるよい慣例だと思う」(中野「私と若き研究者との出会い」[中野玄三・加須屋誠・上川通夫編『方法としての仏教文化史』勉誠出版、2010年])と明言するように、病気を押しながらも、中野は、最期まで、反論には再反論でこたえ、真摯に研究に向き合う姿勢を貫いた。 本稿は、中野の生い立ちと人柄、その研究の意義と研究史上の位置づけを、愛情をこめて論じた加須屋誠「中野玄三論」(中野玄三・加須屋誠『仏教美術を学ぶ』思文閣出版、2013年)に多くを負っている。 主な著書は以下のとおり。 『悔過の芸術』(法蔵館、1982年) 『日本仏教絵画研究』(法蔵館、1982年) 『日本仏教美術史研究』(思文閣出版、1984年) 『来迎図の美術』(同朋舎出版、1985年) 『日本人の動物画』(朝日新聞社、1986年) 『六道絵の研究』(淡交社、1989年) 『続日本仏教美術史研究』(思文閣出版、2006年) 『続々日本仏教美術史研究』(思文閣出版、2008年)

内山英明

没年月日:2014/04/14

読み:うちやまひであき  写真家の内山英明は4月14日、脳出血のため死去した。享年65。 1949(昭和24)年12月7日静岡県菊川町(現、菊川市)に生まれる。76年東京綜合写真専門学校中退。日本各地で旅役者や傀儡師を取材、78年の「粧像記」(銀座ニコンサロン)、81年「日本劇場・梅沢家の人々」(新宿ニコンサロン)などで発表し評価される。80年代には自らと同世代である30代の作家や音楽家などの表現者の撮影、また80年代後半からは「迷宮都市」というテーマで世界各地の都市の撮影に取り組んだ。1992(平成4)年から2年にわたり、日本で初めて性行為によるHIV感染を公表した平田豊の支援活動に関わるとともに、彼を取材した『いつか晴れた海で―エイズと平田豊の道程』(吉岡忍との共著、読売新聞社、1994年)を刊行。 93年に東京の未来的な都市空間を撮影する過程で地下施設を取材、これをきっかけに都市の地下空間をテーマとする撮影に着手。それらの仕事をまとめた2000年の個展「JAPAN UNDERGROUND 地下の迷宮 II」展(銀座ニコンサロン、2000年)により、第25回伊奈信男賞を受賞。同年写真集『JAPAN UNDERGROUND』(アスペクト)を刊行。同シリーズはこれ以降08年の第4集まで刊行され、その第3集『JAPAN UNDERGROUND3』および、夜の都市風景をテーマとする『東京デーモン』 (ともにアスペクト、2005年) により、第25回(2006年)土門拳賞、また都市の地下に取材した一連の仕事により、06年日本写真協会賞年度賞を受賞した。 13年には、東日本大震災による福島原発の事故以前から日本各地で原子力関連の実験施設や研究所に取材を重ねていた作品による個展「アトムワールド」(新宿ニコンサロン)を開催するなど、都市やその地下に取材した90年代以降の一連の仕事は、いずれも文明史的なスケールを持ち、同時代に対する鋭い洞察をはらんだ仕事として高く評価された。 上記以外の主な写真集に『等身大の青春―俵万智』(深夜叢書社、1989年)、『都市は浮遊する』(講談社、1993年)、『東京エデン』(アスペクト、2007年)などがある。

田中岑

没年月日:2014/04/12

読み:たなかたかし  画家の田中岑は、4月12日、癌のため神奈川県川崎市内の病院で死去した。享年93。 1921(大正10)年香川県観音寺市に生まれる。現、香川県立観音寺第一高等学校在籍中に美術部を創設する等、制作に興味をもち、山脇信徳に絵を見てもらう体験をする。1939(昭和14)年独立美術協会展に初入選。同年4月東京美術学校油画科予科に入学するも、かねてより私淑していた海老原喜之助の勧めで日本大学芸術学科に編入する。41年グループ「昴」を結成、銀座紀伊國屋でグループ展を開催。42年8月、初個展を油彩とフレスコ画で神戸の済美工芸会館で開催。同年9月に召集され、翌年に中国戦線に派遣、敗戦は大陸で迎え、46年高松に帰郷、同年4月独立展に2点を出品。47年第11回自由美術家協会展に「青年」など3点を出品(以後1949年まで出品)。この頃、木村忠太、土方巽と知り合い、木村や長谷川路可の縁で女性雑誌の編集やカットなどの仕事をする。49年第1回日本アンデパンダン展(読売アンパン)に「室内」を出品。50年第27回春陽会展に「光」、「厨房」を出品、第1回研究賞受賞。以後、同展には2004(平成16)年まで出品を続けた。53年東京のタケミヤ画廊で個展。57年現、千代田区立日比谷図書文化館に壁画「平和の壁」を共同制作する。同年第1回安井賞を「海辺」で受賞。一時のアンフォルメル旋風の後であり、同作をめぐり具象抽象の論議も起きた。田中は最後の安井賞展(第40回、1997年)の審査委員を務めている。また57年には神奈川県立近代美術館喫茶室に壁画「女の一生」を制作。同作は16年3月同美術館鎌倉館が閉館になったおり、葉山館講堂前ホワイエに移設された。 50年代半ばからは、丸善画廊、梅田画廊、兜屋画廊、日動画廊、日本橋三越など洋画を扱う主要な画廊で発表する。60年に渡欧し、滞欧中の木村忠太、岡鹿之助らと交流するなかで、画風を研究する。66年映画「ビーチレッド戦記」のタイトル画制作(採用はされなかった)のためフィリピンのルソン島へ赴く。同年より69年まで女子美術大学で後進の指導にあたる。71年胃潰瘍のため胃を切除し、療養生活をおくるなかで新たに「室内」のモチーフをみつけていく。76年東京のギャラリー・ジェイコで個展(以後、同画廊で個展を10回開催)。78年神奈川県立県民ホールギャラリーで堀内正和と2人展。86年第15回川崎市文化賞受賞。89年香川県文化会館で個展。90年神奈川県立近代美術館で河口龍夫と2人展。02年東京・ギャラリー美術世界で個展(以後、同画廊で個展を2回開催)。12年川崎市市民ミュージアムで個展。文献として、『画家の記録田中岑』(ふるさとを詩う田中岑展目録、1973年、佐々木清一編)、『田中岑作品集いろいろ、そうそう』(求龍堂、2014年、喜安嶺編)が充実している。

内山武夫

没年月日:2014/04/05

読み:うちやまたけお  元京都国立近代美術館長で美術史研究者の内山武夫は、4月5日胃がんのため京都市の自宅にて死去した。享年74。生前から同人は、西行法師の「ねがわくは 花のしたにて 春しなん そのきさらぎの もちつきのころ」という歌のように逝けたらと話しており、その最後は静かで穏やかであったそうである。また、内山は草花を好み、植物について高い見識を持っており、絵の中や工芸品に描かれている花について美術館のスタッフに詳細に説明することも度々であった。 1940(昭和15)年4月4日に兵庫県伊丹市に生まれる。56年4月私立灘高等学校に入学し、59年卒業後、同年、京都大学文学部哲学科に入学する。63年3月京都大学文学部哲学科を卒業し、同年4月、京都大学大学院文学研究科修士課程に入学、65年3月京都大学大学院文学研究科修士課程を修了し、同年4月1日に国立近代美術館京都分館に研究員として採用された。67年6月に京都分館が独立して京都国立近代美術館となったことにともない、同館に転任となり、75年7月1日に主任研究官に昇任、81年8月1日には学芸課長に昇任した。1994(平成6)年10月16日には、東京国立近代美術館次長に昇任した。また、98年4月1日には、京都国立近代美術館長に昇任し、2001年4月には、美術館の法人化にともない独立行政法人国立美術館の理事に就任、併せて京都国立近代美術館長を兼務し、05年3月31日に任期満了により退職した。 この間、内山は、文化功労者選考審査会委員、文化財保護審議会専門委員、文化審議会(文化財分科会)専門委員、京都美術文化賞選考委員などの委員として幅広く活躍する一方、京都国立博物館、東京国立近代美術館、京都国立近代美術館、国立西洋美術館、国立国際美術館の評議員を兼務するほか、公私立美術館の各種委員として美術館の設立、運営等について適切な指導と助言を行い、40年の永きにわたって、高邁な人格と熱意をもってその重責を全うし、我が国の文化行政・教育研究の推進に貢献した。 内山は、65年国立近代美術館京都分館に研究員として採用されてから約40年、我が国近現代美術と工芸の紹介と発展に尽力し、開館以来継続して開催してきた、「現代美術の動向」展や近代日本画展、近代工芸展に力を注いだ。さらに71年に開催した「染織の新世代展」をはじめ染織や陶芸の新しい動向を紹介する展覧会を数多く開催し盟友の森口邦彦(重要無形文化財保持者)とは工芸の発展に力を注いだ。また、74年9月29日から11月28日の間、文部省在外研究員として「博物館学の研究および欧米における近代美術収集状況の調査」のためアメリカ合衆国、カナダ、連合王国、スペイン、フランス、オランダ、ドイツ連邦共和国、イタリア、ギリシャへ行った。この在外研修は、京都国立近代美術館の後の展覧会に繋がった。81年学芸課長に昇任後は、学芸課の総括として、様々な事業を指揮し運営に力を注いだ。特に、86年10月には新館開館記念特別展「京都の日本画1919―1930」では、展覧会開催の中心的役割を果たし、無事新館を開館させた。物産陳列館として建てられ、京都市から移管された建物の施設・設備の不適正と老朽化から、同館が抱えていた課題である館建物の新営計画には同館学芸課長として積極的に取り組んだ。 86年10月には新館開館を控えて、京セラ株式会社から米国シカゴ在住のアーノルド・ギルバート夫妻の蒐集した近代の写真作品1000余点の寄贈を受けるために館長とともに尽力し、翌年にはその主要作品を紹介する「館コレクションから選んだ写真―近代の視覚・100年の展開―」展を開催して、我が国の美術館における写真蒐集の先鞭を付けた。91年には、京都国立近代美術館の事業を支援する「財団法人堂本印象記念近代美術振興財団」の設立にともない評議員、さらに理事となり、国立美術館に対する支援財団の設立に尽力するとともに、新しい時代に対応する柔軟な美術館運営の道を提示した。また、87年には開館時間を30分繰り上げ、翌年には春から秋までの毎週金曜日を夜間開館として午後8時まで開館時間を延長するなど、観覧者の便宜を考慮して時代のニーズに対応し、館長を補佐し、学芸課長として美術の普及活動に積極的に取り組み、現代の美術館活動の基盤を作り上げた。 94年、東京国立近代美術館次長に昇任した内山は、東京国立近代美術館の総括として館長を補佐し、我が国の美術行政に携わり、日本の美術振興に寄与した。97年に開催した「土田麦僊」展は、内山の長年の研究の集大成として美術の普及活動のみならず、研究活動にも大きな貢献をした。さらに、同展覧会は、京都国立近代美術館にも巡回し、展覧会の質の高さと意義が高く評価された。また、「ウィリアム・モリス 近代デザインの父」展では、英国ロンドンにあるビクトリア・アンド・アルバート美術館と連携してモリスの生誕100年を記念して、日本で始めての大規模な回顧展を京都国立近代美術館とともに開催した。 98年4月に京都国立近代美術館長に就任してからは、同館責任者として館の発展ならびに美術の普及活動、研究活動を積極的に推進し、意欲的な展覧会を開催した。とくに「生誕110年・没後20年記念展 小野竹喬」展は、内山の生涯に渡る研究として展覧会を導き、美術の普及、研究活動に大きく貢献した。 01年京都国立近代美術館が、独立行政法人国立美術館に統合されるに当たって、独立行政法人国立美術館の理事に就任するとともに、京都国立近代美術館長に就任し、05年任期満了のため退職した。この間、国公立の文化行政に関する委員を務め、我が国の文化行政に大きく貢献した。 なお主な文献目録は、以下の通りである。一、単行本Ⅰ単著 『日本の名画18 上村松園』(講談社、1973年) 『日本の名画4 竹内栖鳳』(中央公論社、1977年) 『原色現代日本の美術3 京都画壇』(小学館、1978年) 『現代日本絵巻全集5 山元春挙、橋本関雪』(小学館、1984年) 『現代の水墨画1 富岡鉄斎・竹内栖鳳』(講談社、1984年) 『現代の水墨画5 村上華岳・入江波光』(講談社、1984年) 『日本画素描大観6 土田麦僊』(講談社、1985年) 『土田麦僊画集』(毎日新聞社、1990年) 『名画と出会う美術館8 近代の日本画』(小学館、1992年) 『新潮日本美術文庫25 富岡鉄斎』(新潮社、1997年)Ⅱ共著(監修含む) 『現代日本美術全集4 村上華岳/土田麦僊』(集英社、1972年) 『日本の名画9 鏑木清方、上村松園、竹久夢二』(講談社、1977年) 『巨匠の名画15 土田麦僊』(学習研究社、1977年) 『カンヴァス日本の名画4 竹内栖鳳』(中央公論社、1979年) 『現代日本画全集6 山口華楊』(集英社、1981年) 『足立美術館』(保育社、1986年) 『20世紀日本の美術7 村上華岳・入江波光』(集英社、1987年) 『上村松園画集』(京都新聞社、1989年) 『高木敏子1924-1987』(八木明、1989年) 『富本憲吉全集』(小学館、1995年) 『小野竹喬大成』(小学館、1999年) 『京都国立近代美術館所蔵名品集[日本画]』(光村推古書院、2002年) 『美人画の系譜 福富太郎コレクション』(青幻社、2009年)Ⅲ責任編集『美しい日本 風景画全集6』(ぎょうせい、1988年)『美しい日本 風景画全集7』(ぎょうせい、1988年)二、図録 「陶芸家 八木一夫」『八木一夫展』(日本経済新聞社、1981年) 「甲の契月、乙の契月」『菊池契月展』(京都新聞社、1982年) 「榊原紫峰の人と芸術」『榊原紫峰展』(京都新聞社、1983年) 「京都の日本画1910-1930」『京都の日本画1910-1930』(京都国立近代美術館、1986年) 「山口華楊の芸術」『山口華楊 六代清水六兵衛 遺作展』(朝日新聞社、1987年) 「土田麦僊―清雅なる理想美の世界」『土田麦僊展』(日本経済新聞社、1997年) 「小野竹喬の画業」『生誕110年・没後20年記念 小野竹喬』(毎日新聞社、1999年) 「明治期京都画壇の伝統と西洋」『近代京都画壇と 日本画革新の旗手たち』(京都新聞社、1999年) 「韓国国立中央博物館の近代日本画」『韓国国立中央博物館所蔵 日本近代美術展』(朝日新聞社、2003年) 「現代陶芸の異才―八木一夫」『没後25年 八木一夫展』(日本経済新聞社、2004年) 「画壇の壮士 横山大観」『近代日本画壇の巨匠 横山大観』(朝日新聞社事業本部・大阪企画事業部、2004年)三、逐次刊行物 「上原卓論」『三彩』266号(1970年) 「解説 土田麦僊(特集)」『三彩』307号(1973年) 「新日本画創造の哀しく寂しい影-土田麦僊-その人と芸術」『みづゑ』822号(1973年) 森口邦彦/内山武夫「対談 日本工芸展のこれから(特集 日本伝統工芸展50年)」『月刊文化財』481号(1993年) 「奥田元宋画伯の障壁画」『美術の窓』170号(1997年) 「麦僊と西洋絵画」『美術の窓』170号(1997年) 「富岡鉄斎筆餐水喫霞図」『国華』1250号(1999年) 梅原猛/内山武夫「対談 思い出に残る作家たち」『美術京都』40号(2008年)

門坂流

没年月日:2014/04/03

読み:かどさかりゅう  画家・版画家の門坂流は4月3日、胃がんのため東京都内の病院で死去した。享年65。 1948(昭和23)年5月25日、京都市に生まれる。本名は門坂敏幸。父親は熊本県、母親は滋賀県の人。6歳まで京都で育ち、滋賀県に移住。日野川の清流やかまどの炎、風にたなびく稲穂を眺めたり、日光写真や写し絵をして遊び、また製図用パンタグラフを用いてスターのブロマイドを描き写すことをよくしたという。このような幼少期の経験や、高校時代にフェルメールの画集に感銘を受けたことが絵を志す原点となり、68年東京藝術大学油絵科に入学するが、肌に合わず退学。その後、知人の紹介により、雑誌『ワンダーランド』(のちの『宝島』)に連載された片岡義男「ロンサムカウボーイ」の挿画でデビュー。鉛筆・ペン画で創作活動を始め、数多くの雑誌挿絵や書籍装画などで作品を発表する。85年ころからビュランで銅版を刻む感覚と線の鋭さに惹かれ、エングレービングの技法研究をはじめる。88年自身最初の作品集『風力の学派』(ぎょうせい、文・荒俣宏、池澤夏樹、伊藤俊治)を上梓したのちは、エングレービングが創作活動の中心となる。87年には京橋のINAXギャラリーで個展を開催、以後、ガレリア・グラフィカ、不忍画廊、青木画廊などで多くの個展を開催。1998(平成10)年から翌年まで朝日新聞朝刊小説、高樹のぶ子「百年の預言」の挿絵を担当、ルーマニア、オーストリアを取材し、リトグラフ、ペン画、水彩、あるいは銅版画で発表。「エングレービングの第一人者」とも呼ばれ、シャープな線の積み重ねによる流紋を基本要素として描かれた作品は「自然の内包する生命力の顕在化」ともいわれ、高く評価された。 作品集はほかに『水の光景 ビュランによる色彩銅版画集』(ぎょうせい、1990年)、『門坂流作品集 百年の預言』(朝日新聞社、2000年)、『Ryu KADOSAKA DrawingWorks』(不忍画廊、2006年)、『Engraving』(不忍画廊、2013年)があり、「線の迷宮―細密版画の魅力」(目黒区美術館、2002年)、「森羅万象を刻む―デューラーから柄澤斉まで」(町田市立国際版画美術館、2016年)などの展覧会で版画表現を追究した作家のひとりとして作品が展観された。

朝倉摂

没年月日:2014/03/27

読み:あさくらせつ  画家・舞台美術家の朝倉摂(本名、富沢摂)は3月27日、都内の病院でくも膜下出血のため死去した。享年91。 1922(大正11)年7月16日、彫刻家・朝倉文夫の長女として東京に生まれる。妹は後に彫刻家となった朝倉響子。当時東京美術学校(現、東京藝術大学)で教鞭をとっていた父・文夫の、「他人の子を育てている自分が、自分の子供を育てられないことはあるまい」という考えから、学校へは一切通わず家庭教師より教育を受けた。小学校の課程は東京美術学校師範科卒業生が担当し、女学校の課程は一課目にひとりずつの先生がつけられ、二年間ほどで全課程を終了。この頃には文学や哲学関係の本を乱読し、十歳の頃にはマルクスの『資本論』をわからないながらも読んだという。また、伊東深水に日本画を学び、1940(昭和15)年には深水を中心に結成された青衿会の第1回展へ椅子に腰掛けた女性を描いた「麗日」を出品、以後も出品を続け、第3回展(1942年)では「街頭に観る」で後援会賞となる。一方、41年5月には第4回新美術人協会展へ「九官鳥」を出品。同会は34年に新日本画樹立を目指して福田豊四郎、吉岡堅二、小松均、岩橋英遠等によって結成された新日本画研究会が発展したもので、朝倉は翌年の第5回展へも「更紗の室」を出品している。さらに41年10月には第4回文部省美術展覧会へトマトの鉢植えが並ぶ温室内の看護師ふたりを描いた「小憩」を出品、42年の第5回展、43年の第6回展へは、ともに3人の女性像からなる「晴晨」と「歓び」をそれぞれ出品した。戦後の日展へは、第2回展(1946年)へ砂浜にいる水着姿の男女の群像を描いた「沙上」を出品、以後第4回展(1948年)まで出品を続けた。その間、47年には劇作家・木下順二らの結成した劇団・ぶどうの会が、演出家・岡倉士郎の演出によって行った木下作「暗い火花」の試演会において舞台美術を手がけた。このときの経験から舞台美術、とりわけ新劇の装置に興味を持つようになったという。翌48年には、当時進駐軍に接収されていたアーニー・パイル劇場(現、東京宝塚劇場)で上演されたドナルド・リチー作「パーティー」の舞台美術を手がけている。 同年、福田豊四郎、山本丘人、上村松篁、吉岡堅二、秋野不矩等は、「我等は世界性に立脚する日本絵画の創造を期す」とし、創造美術を結成。朝倉は翌49年に開催された第2回創造美術展へ「ノアール」と「反映」の二点を出品、50年の第3回展では「群像」が奨励賞を受賞し、51年5月の第3回春季創造展へは準会員として「男」を出品する。同年創造美術は新制作派協会と合流、新制作協会日本画部となり、9月に第15回新制作展が開催された。朝倉は「裸婦A」「裸婦B」「裸婦C」の三点を出品、会員に推挙される。翌52年の第16回展へは「働らく人」を出品、同作は日本画のレアリズムを異なった面から追究しているとして、53年に第3回上村松園賞を受賞した。アトリエの下の道路工事をする人々を描いたという同作のように、朝倉は社会の中に生きる人間像に関心を寄せ、労働者などをテーマにした作品を多く手がけている。また、49年には生家から独立、以後はバーのアルバイトや看板絵などを描いて生計を立てていたという。50年4月には北荘画廊で初の個展を開き、同年のサロン・ド・プランタン第2回展では「自画像」で日本画一等となる。52年10月には、日本橋の丸善画廊にて村尾絢子との二人展を行っている。 53年の第2回日本国際美術展へは「働く人」を出品、以後67年の第9回展まで毎回出品、54年には第1回現代日本美術展へ「母」を出品し、64年の第6回展まで毎回出品した。一方、53年9月には第17回新制作展へ「夫婦」と「寮」を出品、以後67年の第31回展まで出品を続けているものの、徐々に絵画というものに対する本質的な疑問を抱くようになり、61年の第25回展へは不出品、65年頃には一年間に描く絵の数よりも舞台装置を手がける数のほうが多くなっていたといい、70年には新制作協会を退会した。また、50年代のはじめ頃より、朝倉の描く人物像には抽象化の傾向が見られるようになるが、60年代に入ると画題じたいの変化とともに、その画面もより抽象化されていった。この間、54年にファッションデザイナーの桑沢洋子によって創立された桑沢デザイン研究所にて教鞭を執り、同所を母体に66年に設立された東京造形大学においても教壇に立った。55年5月にはサエグサ画廊にて佐藤忠良、中谷泰との三人展を開催。翌56年からは会場を村松画廊に変更し、同じメンバーによる三人展を58年までに4回行っている。57年1月にはサエグサ画廊にて朝倉摂デッサン展を、3月には三原橋画廊にて堀文子、秋野不矩、広田多津とともに四人展を開催、58年10月にはみつぎ画廊にて小畠鼎子、横山操との三人で素描展を行っている。また、57年には岩波映画勤務の富沢幸男と結婚、翌年12月には長女・亜古が誕生した。59年にはウィーンで開かれた第7回世界青年学生平和友好美術展に日本代表団のひとりとして参加、このときに見た中国の京劇を通じて、伝統芸術の問題と現代絵画の問題をさらに深く感じたという。60年には安保反対デモに参加。63年6月には海老原徳造、小野具定、菊地養之助、渡辺学の4名とともに、スルガ台画廊にて五人展を開催、65年まで同画廊にて毎年開催した。67年には渡辺学とともに、銀座・松屋にて作品展を行っている。また、松本清張『砂の器』(1960〜61年、読売新聞)や山本周五郎『季節のない街』(朝日新聞、1962年)などの挿絵を描き、水上勉『弥陀の舞』(1969年)や澤野久雄『失踪』(1970年)などの装丁を手がけた。68年には講談社さしえ賞を受賞、翌69年には挿絵画家、デザイナー、漫画家の集団である日本イラストレーター会議(NIC)の発足に参加する。70年には講談社絵本賞を受賞。そのほか、松本俊夫の映画『薔薇の葬列』(1969年)において美術を担当するなど、幅広い創作活動を行った。 70年の1月から4月まで、ロックフェラー財団からの招待で渡米、ニューヨークに拠点を置いて前衛劇を中心に70本近くの芝居を見て回る。滞米中にはミンチョー・リーなどの舞台美術家を訪ね、ジャック・スミスの芝居小屋を訪れた際には舞台に飛び入りで出演したという。72年9月には池袋パルコのトック・ギャラリーにて朝倉摂のさしえ展が開催。このときの展示では、朝日新聞にて連載された堀田善衛の新聞小説『19階日本横丁』の挿絵全162点が絵巻状に並べられた。73年7月に上演された井上ひさし作「藪原検校」では、縄を使って四次元の世界を表現した美術を制作する。76年4月にはギャルリーワタリにて朝倉摂作品展が開催、同年9月に渋谷のジャンジャンで上演された富岡多恵子作の「人形姉妹」では美術とともに演出も手がけた。80年には第7回テアトロ演劇賞を、さらに映画「夜叉ヶ池」の美術で日本映画アカデミー賞を受賞。翌81年7月、和光ホールにて朝倉摂絵本原画展が開催。82年には映画「悪霊島」の美術で第5回日本アカデミー賞優秀美術賞を、86年には蜷川幸雄が演出を行った「にごり江」の美術で第40回芸術祭賞を受賞。87年には紫綬褒章を授与される。1989(平成元)年1月、昭和63年度の朝日賞に選ばれ、同年「つる―鶴―」の美術で第12回日本アカデミー賞優秀美術賞を受賞。90年7月、和光ホールにて朝倉摂展―ねこと居る―開催。95年には「泣かないで」、「オレアナ」、「エンジェルス・イン・アメリカ」の美術で第2回読売演劇大賞最優秀スタッフ賞を受賞、2006年には文化功労者に選ばれた。10年9月には横浜のBankART Studio NYKにて個展「朝倉摂展 アバンギャルド少女」が開催、会場には実際に舞台が組まれ、舞台そのものが展示された。 若い頃から一貫して、「芸術家の行為はレジスタンスです」、「すべてに闘わないとだめ」といった姿勢を貫いた朝倉は、常に若々しいエネルギーに満ちた前衛の人であった。

大和智

没年月日:2014/03/21

読み:やまとさとし  日本建築史(特に近世住宅史)の研究者であると同時に、文化財保護行政の専門家。定年退職を控えた3月21日、深夜発生した交通事故で急逝した。享年60。 1953(昭和28)年11月18日静岡県沼津市に生まれる。77年東京工業大学工学部建築学科卒業、84年同大学理工学研究科建築学専攻博士課程中退。86年東京工業大学工学部建築学科助手(平井研究室)を経て、87年より文化庁文化財保護部建造物課勤務。1990(平成2)年文化財調査官(修理指導部門)、95年文化財調査官(修理企画部門)、98年主任文化財調査官(修理企画部門)、2000年主任文化財調査官(調査部門)を経て、06年筑波大学大学院人間総合科学研究科教授。08年文化庁に文化財部参事官(建造物担当)として復帰、11年同部文化財鑑査官の要職を務める。 大学院在学中、桂離宮御殿(京都)の昭和大修理事業に工事調査員として関わったのを皮切りに、文化財建造物の保存に関する調査研究の道を歩む。文化庁時代には、修理企画・指導部門の調査官として正法寺本堂(岩手)、勝興寺本堂(富山)、唐招提寺金堂(国宝、奈良)などをはじめ多数の全国各地に所在する国宝・重要文化財建造物の保存修理事業の指導に当たる。特に、95年阪神淡路大震災で倒壊した旧神戸居留地十五番館(兵庫)は居留地復興のシンボルと位置づけ、その復旧に奔走した。また98年の台風による倒木被害を受けた室生寺五重塔(国宝、奈良)の災害復旧に関して迅速な行政対応を行った。 調査部門の主任文化財調査官としては、文化庁が近年特に力を入れている近代の建造物の保護にも尽力し、東京駅丸ノ内本屋、旧東京帝室博物館(東京国立博物館)等の記念的大建築、天城山隋道(静岡県)、梅小路機関車庫(京都)等の交通関係遺構のほか、田平教会堂・旧出津救助院(長崎)等のキリスト教関連遺構、さらには旧日光田母澤御用邸(栃木)、諸戸家住宅(三重)等の近代和風建築等の指定に関わった。このほか、文化庁が77年から約12年かけて全国の都道府県で行った近世社寺建築緊急調査が終了し、その成果を受けて重文指定された社寺建築について、文化史等の観点から総合的に評価し特に優秀な遺構を国宝に指定する行政課題に対して中心的存在となって知恩院本堂、同三門(京都)、長谷寺本堂(奈良)、東大寺二月堂(奈良)などの秀品を国宝指定に導いた。 また、国際経験も豊かで、文化庁が90年から始めたアジア・太平洋地域等文化財建造物保存技術協力事業にも早くからかかわり、98年からはインドネシアを担当、同国の木造文化財建造物の保存修復事業を指導してその技術移転を推進した。さらに、日本がユネスコの世界遺産条約を批准した92年から、世界遺産登録を始めたが、推薦第1号である姫路城や法隆寺等の推薦書の作成作業に積極的に加わったほか、日本の木造文化財保存修理に対する理解を深めるため94年に奈良で開催された世界遺産奈良コンフェレンスにおいても「奈良宣言」の起草に深く関わった。このほか、ICCROM共催事業としてノルウェーで開催された木造文化財の保存技術に関する国際研修の講師として数度にわたり日本の木造文化財の保存に関する講義を受け持ったほか、03年からICCROMの理事を4期8年にわたって務めるなど国際的にも活躍した。 11年3月の東日本大震災では、被災した多くの文化財の救援事業を指揮し、特に被災建造物に関して日本建築学会や日本建築家協会など関係団体の協力を得て保全ならびに復旧に関する技術支援を行う「文化財ドクター事業」を立ち上げたのをはじめ、海外の財団からの復興資金提供の相談窓口となるなど復興事業に奔走した。 文化庁在職中の昭和末年以降からは文化財建造物の業務の範囲が、近代化遺産、近代和風建築の保存から文化財建造物の防災対策など飛躍的に拡大した時期にあり、特に阪神淡路大震災を機に重点施策となった耐震対策を重視しつつ、一方で文化財の活用による地域再興といった近年の行政課題に対して、その中心的役割を担う要職にあったが、その突然の逝去は今なお内外の多くの人々に惜しまれている。 著書に『日本建築の精髄桂離宮-日本名建築写真選集19巻』(新潮社、1993年)、『歴史ある建物の活かし方』(共著、学芸出版社、1999年)、『城と御殿-日本の美術405号』(至文堂、2000年)、『文化財の保存と修復5-世界に活かす日本の技術―』(共著、クバプロ 2003年)、『東アジアの歴史的都市・住宅の保存と開発』(共著、日本建築学会、2003年)、『鉄道の保存と修復Ⅱ―未来につなぐ人類の技4』(共著、東京文化財研究所、2005年)など多数。

多田美波

没年月日:2014/03/20

読み:ただみなみ  アクリルやアルミニウムなどの新しい素材を用い、環境や建築と調和する光あふれる造形を試み続けた多田美波は、3月20日、肺炎のため死去した。享年89。 1924(大正13)年7月11日、鉱山関係の役人であった父の職の関係で台湾の高雄市に生まれる。4歳の時、父の転任地である韓国に移り、京城師範付属小学校、京城第一高等女学校に学ぶ。同校での担任で女子美術専門学校出身者であった教師から個人的に油彩画の指導を受ける。1940(昭和15)年、第19回朝鮮美術展覧会西洋画の部に「朝鮮の古物」を、43年第22回同展西洋画部に「風景」「習作」を出品。41年女子美術専門学校西洋画科に入学、44年9月に同科を繰り上げ卒業する。同校在学中に、伊原宇三郎の個人指導を受ける。56年、第41回二科展に「変電所」(油彩)を初出品。57年、第9回読売アンデパンダン展に油彩画「変電所R」「変電所L」を出品。同年、東京炭労会館にレリーフ「炭鉱」を制作し、立体作品に移行し始める。58年第43回二科展彫刻部に「OPUS―0」を、第10回読売アンデパンダン展に油彩画「変電所」を出品。59年、第44回二科展彫刻部に「OPUS―1」を、60年、第45回同展に蝋型ブロンズによる「発祥」「虚」を、同年の第12回読売アンデパンダン展に油彩画「ある一つの邂逅」「作品X」を出品。61年、第46回二科展彫刻部に「作品1」「作品2」を、第13回読売アンデパンダン展彫刻部に「非」を出品。62年、多田美波研究所を設立。この頃から、建築装飾や照明器具などの製作も行うようになる。63年、第15回読売アンデパンダン展にアルミニウムを素材とする「周波数37303011MC」を「かけら」と題して出品し、以後、「周波数」シリーズが続く。64年頃からアクリル樹脂による立体造形を試みる。65年、第8回日本国際美術展に「周波数37306505MC」を出品して優秀賞を受賞。同年、第1回現代日本彫刻展(宇部市)に「周波数37306560MC」を、66年、第7回現代日本美術展に「周波数37306633MC」を、67年、第9回日本国際美術展に「周波数37306776MC」を出品。68年EXPO’70(大阪万博会場)に「Laptan No.1」を制作し、同年第8回現代日本美術展に「Laptan No.2」を出品して優秀賞を受賞する。また同年の第1回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に「空」を出品。また、同年、皇居新宮殿「春秋の間」ほかに光造形、ペンダント、照明器具等を制作する。69年、第3回現代日本彫刻展に「Aufheben」を出品。同年の第9回現代日本美術展に「Phase Space 6943」を出品して神奈川県立近代美術館賞を受賞。70年の大阪万博に際しての万国博覧会美術展には「Epicycle No.2」を出品。同年の第2回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に「Aufheben」「ルミナス・ボックス」「Epicycle」と神戸市美術愛好家協会賞を受賞した「地球の光、北緯34°39’東経135°7’15’’」を出品。71年、第4回現代日本彫刻展にアクリルと鉄を素材とし、正方形の表面を対角線上に湾曲させた「超空間」を出品して大賞受賞。72年、新潮社主催の第4回日本芸術大賞を受賞。同年第3回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に「Space Eye」「Laptan No.2」「Epicycle No.2」を出品して「Space Eye」で朝日新聞社賞受賞。73年、第1回シドニー・ビエンナーレ展に「Pole」を出品。74年に湾曲した金属鏡面による銀座Leeビルのファサードデザインを、新宿住友ビルに三角形をモチーフとした天井と床の造形を制作する。75年、第6回「現代日本彫刻展―彫刻のモニュマン性」に透明なアクリル壁の上部を半円状にたわませた「天象」を出品して宇部興産賞受賞。76年、第5回「神戸須磨離宮公園現代彫刻展―都市公園への提案」に透明なアクリル板による円錐形で構成した「透明」を出品して大賞・神戸市長賞受賞。同年照明学会創立60周年記念功労者賞受賞。77年、第3回彫刻の森美術館大賞展に「透明」を出品して特別賞を受賞。同年第7回現代彫刻展に「双極子」を出品して宇部興産賞受賞。また、同年ワシントンに一ヶ月滞在し、在米日本国大使館公邸に光造形を制作した。78年、第6回「神戸須磨離宮公園現代彫刻展―都市彫刻への提案」に湾曲させた透明な強化ガラス板を複数林立させて構成した「旋光」を出品し、国立国際美術館賞受賞。同年6月ブラジル・ブラジリアの日本国大使公邸で光造形の制作を行い、その後、ペルーのナスカなどを旅する。79年、第1回ヘンリー・ムーア大賞展に「極」を出品して大賞受賞。同年の第8回現代日本彫刻展に「Chiaroscuro」を出品し、東京国立近代美術館賞受賞。80年、第21回毎日芸術賞受賞。同年の第7回「神戸須磨離宮公園現代彫刻展―都市景観の中の彫刻」に「時空」を出品し、神奈川県立近代美術館賞受賞。81年、第9回現代日本彫刻展に「時空No.2」を出品し特別賞・宇部市制施行60周年記念賞受賞。同年第6回吉田五十八賞受賞。82年4月、オーストラリア・ニューカッスル市美術館前庭に「時空No.2」を設置するために同地に滞在。同年、三重県立美術館に陶板によるレリーフ「曙」を制作する。83年、芸術選奨文部大臣賞受賞。同年、帝国ホテル光の間他に光造形を制作する。1989(平成元)年5月、東京・有楽町アートフォーラムで「多田美波展―超空間へ」、90年、愛知県碧南市文化会館で「多田美波展」、91年には三重県立美術館、東京都渋谷区立松濤美術館で「多田美波展」が開催された。年譜や文献目録は同展図録に詳しい。同年、新東京都庁舎都議会議事堂に「澪」を、93年、東京都江戸東京博物館に天井造形「翔彩」を制作。97年、長野オリンピック冬季大会競技会場エムウェーブ外庭に彫刻「Velocity」を設置。2001年から翌年には台湾の高雄市立美術館、台北市立美術館にて個展を開催し、02年に台湾総督府官邸に彫刻「時空’89」を、翌年には交流協会台北事務所に「周波数373004MC」を、雲林県古坑サービスエリアに彫刻「伸」を設置した。09年10月、彫刻の森美術館40周年記念「多田美波展―光を集める人」、10年2月には中国・上海月湖彫塑公園で個展を開催した。 戦後、工業技術の発達によって登場した新たな素材と技術を用い、表面を鏡のようにしたり、透明な素材を用いることにより、作品にその周囲、あるいは鑑賞者の動きを取り込み、量塊性を重視した古典的彫刻概念に変革を迫った。また、建築空間と調和し、デザイン性と造形性を併せ持つ作品を数多く制作した点も特筆される。90年に画集『多田美波』(平凡社)が刊行されている。逝去の年の5月30日に、多田が内部装飾を手がけた東京都千代田区の帝国ホテルにおいて多田美波研究所主催による「しのぶ会」が開かれた。

安西水丸

没年月日:2014/03/19

読み:あんざいみずまる  都会的で温かみのある画風で知られたイラストレーターの安西水丸は3月17日午後2時頃、神奈川県鎌倉市内の自宅兼アトリエで執筆中に倒れ、病院で治療を受けていたが同月19日午後9時7分、脳出血のため死去した。享年71。 1942(昭和17)年7月22日、東京都港区赤坂で生まれる。本名渡辺昇。生家は祖父の代から建築設計事務所を営んでいた。3歳の頃に重い喘息を患い、母の郷里である千葉県南房総の千倉町へと移住、中学校を卒業するまでの多感な時期を過ごす。61年日本大学芸術学部美術学科に入学、グラフィックデザインを専攻し65年に卒業。在学中にベン・シャーンの作品から強い影響を受ける。卒業後は電通へ入社し、国際広告制作室で「日本ビクター」等の輸出広告を担当。電通では写真家の荒木経惟と同僚だった。69年に同社を退社して渡米、ニューヨークのADアソシエイツ(デザインスタジオ)で働く。71年に帰国して平凡社に入り、子供向け百科事典や自然史雑誌のアートディレクターとして活躍。同社で編集者の嵐山光三郎と知り合い、勤めの傍ら、74年頃から嵐山の勧めにより漫画雑誌『ガロ』に漫画を描き始める。南房総での幼少期を題材にした連載「青の時代」は高く評価され、それらをまとめた漫画集(青林堂、1980年)は安西の代表作となる。なおペンネームの「安西」は嵐山から「あ」がつく名前がいいと言われて祖母の苗字から取り、「水丸」は子供の頃から「水」という漢字が好きだったことから名付けた。80年に平凡社を退社し、翌年安西水丸事務所を設立、本格的にフリーのイラストレーターとなる。またこの時期、小説家の村上春樹と出会い、『中国行きのスロウ・ボート』(中央公論社、1983年)の装丁以後、「村上朝日堂」シリーズ等でイラストレーションを担当するなど、装丁、挿絵、共著と息の合った仕事を重ねることになる。85年には東京ガスの新聞広告により準朝日広告賞、毎日広告賞を受賞。広告、装丁等多方面で活躍する一方で『がたん ごとん がたん ごとん』(福音館書店、1987年)等の絵本を手がけ、また小説『アマリリス』(新潮社、1989年)やエッセイ集『ぼくのいつか見た部屋』(ケイエスエス、1998年)等の文筆活動も盛んに行なった。2001(平成13)年には高校時代から憧れの存在だったイラストレーター和田誠と二人展を開催、二人で一枚の作品を仕上げる取り組みを行ない、安西の亡くなる年まで続けられる。後進のイラストレーターの育成にも力を注ぎ、91年より母校である日本大学芸術学部デザイン学科にて講師を務め、また青山で05年にコム・イラストレーターズ・スタジオ、13年に山陽堂イラストレーターズ・スタジオを開講。05年にはイラストレーターの組織である東京イラストレーターズ・ソサエティの理事長に就任。作品集に『イラストレーター 安西水丸』(クレヴィス、2016年)がある。

加藤貞雄

没年月日:2014/03/17

読み:かとうさだお  評論家で目黒区美術館館長、茨城県近代美術館長を務めた加藤貞雄は、3月17日肺がんのため死去した。享年81。 1932(昭和7)年5月14日生まれ(本籍は千葉県船橋市)。55年早稲田大学第一法学部卒業。同年9月毎日新聞社大阪本社に入社する。65年から毎日新聞社東京本社学芸部に異動。主に70年代、80年代の公募・団体系の展覧会評を担当した。78年から学芸部編集委員、80年から学芸部長、82年から学芸部編集委員兼論説委員を務め、87年同社を退職する。87年10月より、日本人作家が海外で制作した作品を収集することを方針の柱とする目黒区美術館長に就任。1995(平成7)年から2007年まで茨城県近代美術館長を務め、同館の展覧会図録で、福王寺法林、下保昭、川崎春彦、加山又造らについて論述している。また『荻太郎』(日動出版部、2004年)収載の作家論「人間愛の“精神造型”」では、画家の70年にわたる画業を精密に記述している。94年、96年、98年には文化功労者選考審査委員、93年、94年、97年、98年には芸術選奨選考審査委員、91年、93年には安井賞選考委員を務めた。ほかに現代日本彫刻展、昭和会展、中村彝賞などの選考委員を務めた。

近藤幸夫

没年月日:2014/02/14

読み:こんどうゆきお  美術評論家で、慶應義塾大学理工学部准教授の近藤幸夫は、2月14日死去した。享年63。 1951(昭和26)年2月9日、愛知県岡崎市に生まれる。71年3月、慶應義塾高等学校を卒業後、慶應義塾大学商学部に進学。75年4月に同大学文学部哲学科美学美術史専攻に学士入学。77年4月、株式会社小田急百貨店に入社。80年1月に同社を退職し、同年4月、慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程に入学、83年3月に修了。80年10月、東京国立近代美術館の研究員に採用。1991(平成3)年に同美術館主任研究員となる。同美術館在職中は、「現代美術における写真」展(1983年)、「モディリアーニ展」(1985年)、「近代の見なおし:ポストモダンの建築1960-1986」展(1986年)、「手塚治虫展」(1990年)等を担当した。なかでも、「モディリアーニ展」は、国内で紹介されることが少なかった彫刻作品を含めて作品の質、出品点数において比類のない大規模な展覧会であった。また調査研究においては、大学、大学院時代からのテーマであったコンスタンティン・ブランクーシの研究をすすめ、その成果を論文等にまとめるとともに、現代美術における立体表現、写真へと研究領域を広げていった。こうした研究を基盤にした評論活動においては、『美術手帖』の展覧会評「ART84」の連載(1984年2月-12月)や「かわさきIBM市民ギャラリー」での企画展をはじめ、各種の雑誌への寄稿やギャラリーでの企画、作家展に積極的に参加協力した。 96年4月、慶應義塾大学理工学部助教授となり、日吉校舎の美術研究室に勤務、総合教育等を担当した。在職中は、教育指導の傍ら、とりわけ2004年6月に同大学日吉キャンパス内の施設「来往舎」のギャラリーにて「来往舎現代藝術展」を学生有志と共に企画運営した。同展は、その後も様々なアーティストを招き、また時宜にかなうテーマに基づき開催、近藤は13年10月の第10回展まで中心となって携わった。美術評論家としては、その評論をふりかえると、単に完成した作品を前にして批評するというよりも、作家、作品から創作の過程、創作をめぐる思考までを丹念にたどりながら、親しく寄り添うように批評する態度が一貫していたことが理解される。そうした批評の基点には、現代美術のめまぐるしい変転を視野に入れつつ、アーティストへの敬意と深い共感があったからであろう。没後の14年3月24日、原美術館(東京都品川区)のザ・ホールにて「近藤幸夫さんにお別れをする会」が開かれ、多数の関係者が参集した。なお同会のために作成された冊子「KONDO YUKIO 09.02.1951-14.02.2014」には、詳細な研究業績及び活動履歴が掲載され、30年以上にわたる活動が記録されている。 主要な翻訳、編著書『ブランクーシ作品集』(ラドゥ・ヴァリア著、小倉正史との共訳、リブロポート、1994年)『カラー版20世紀の美術』(分担執筆、美術出版社、2000年)『Fuji Xerox Print Collection』(監修、全解説執筆、富士ゼロックス株式会社、2002年)

田口榮一

没年月日:2014/02/12

読み:たぐちえいいち  美術史家の田口榮一は、2月12日大腸がんのため死去した。享年69。 1944(昭和19)年8月16日、新潟県に生まれる。小学6年で川崎市に移り、63年神奈川県立湘南高等学校を卒業。一時は建築家を志したというが、東京大学文学部に入り、68年同大学文学部美術史学科卒業。同大学大学院人文科学研究科美術史専攻修士課程を経て、71年6月同大学大学院博士課程中退。続いて同年7月東京大学文学部助手(美術史研究室)となる。78年東京藝術大学美術学部芸術学科講師(日本美術史)。85年同学科助教授、2005(平成17)年同学科教授。10年東京芸術大学附属図書館長を併任。12年同大学美術学部芸術学科教授を定年退官。 修士論文のテーマは平等院鳳凰御堂扉絵であり、仏教絵画、特に来迎図の研究に力を注いだ。単著として『平等院と中尊寺』新編名宝日本の美術9(1992年、小学館)があり、鳳凰堂扉絵の詳細な図版を紹介しつつ、「阿弥陀九品来迎図の系譜―平等院鳳凰堂扉絵を中心として」として一編をたて、その描写の詳細な紹介をしつつ、「九品来迎図の起源」の章では敦煌壁画を視野にその変遷を考察している。「鳳凰堂のことを詳しく調べ、その中から来迎表現がどういうふうに生まれてきたのか、その鍵を探そうとするのが私の前からのテーマ」(同月報インタビュー)と述べている。「鳳凰堂九品来迎図調査報告―両側壁画の現状と来迎聖衆の図様及びその表現」上・下『仏教藝術』141・143も同様の題材を追及した長編であるが、単なる図様、図像の研究に留まらず、その表現性やマチエールの問題にまで詳細に踏み込んだものである。 この絵画の表現性に関わるマチエールの研究はもう一方の重要な業績のひとつで、「分光学的方法による顔料、特に有機色料およびその調合色の判定について―近世初期狩野派粉本「源氏物語五十四帖絵巻」を例として―」(田口マミ子と共著 『古文化財之科学』20・21、1977年)のように早くから関心を示し、『X線コンピュータ断層撮影装置を用いた木造彫刻の構造および造像技法の調査』(長沢市郎・籔内佐斗司・田口マミ子と共著、『古文化財之科学』29、1987年)などX線分析をはじめ科学的技法を用いた作品研究に力を入れた。また自らも写真技術を使いこなし、多くの画像資料を蓄積した。 研究対象は来迎図や仏画に限らず、やまと絵、近世絵画、また敦煌絵画にまで広くおよび、中でも源氏物語絵の造詣が深く、編著書および単行図書所載文献中の論文・解説も数多い。鳳凰堂扉絵に関して「よいことをすれば阿弥陀さんが迎えに来ますよという意図以前の、絵も彫刻も建築もそれ自体の存在だけを第一義にした世界に惹かれますね」(前述月報)という言葉に科学的手法さえ単なる科学分析にとどまらなかった美術作品への愛着、作品観があらわれていよう。 白百合女子大学、共立女子大学、学習院大学等多くの大学の非常勤講師をも勤めた。 仏教美術の研究に対し、第2回北川桃雄基金賞受賞(1976年)。 その略歴、著作をまとめたものに、退官時に製作された『田口榮一先生略歴・著作目録』(東京藝術大学美術学部芸術学科日本東洋美術史研究室編、2012年)がある。

岡村崔

没年月日:2014/02/04

読み:おかむらたかし  写真家の岡村崔は2月4日、肺がんのため死去した。享年86。 1927(昭和2)年12月13日、東京府下吉祥寺に生まれる。5歳の頃、両親の故郷静岡県に転居。幼少期は相良、その後静岡市内に移り、45年静岡県立静岡中学(現、静岡高校)卒業。48年に芝浦工業専門学校(現、芝浦工業大学)を卒業し、日本大学工学部(現、理工学部)建築学科に入学(のち中退)。中学在学中より登山を始め、山岳風景の写真にも取り組むようになる。58年、登山の国際大会に参加するため初めて渡欧。この頃より専攻した建築から関心を広げ、ロマネスクの彫刻などヨーロッパの文化、美術に興味を持ち、渡航を重ねる。65年にはローマに移住、ヨーロッパ各地の美術作品や教会建築などの撮影を中心に美術写真の専門家として活動するようになった。高所作業が必要な建築装飾や壁画の撮影を、登山の経験を生かして数多く手掛け、とくにヴァティカン市国システィナ礼拝堂のミケランジェロによるフレスコ画「天地創造」をはじめとした壁画の撮影は、80年から約20年に渡って行われた修復作業の前後およびその過程において、細部にわたって壁画全体を精密に記録したもので、美術史家ケネス・クラークが「ミケランジェロのベールを剥がした」と記すなど国際的に高く評価された。1995(平成7)年に帰国後は静岡に暮らした。 国内外の多くの美術書のための撮影に携わり、その主なものに『大系世界の美術』(全20巻、学習研究社、1971-1975年)、『世界彫刻美術全集』(全13巻、小学館、1974-1977年)、鹿島卯女編『ローマの噴水』(鹿島出版会、1975年)、高階秀爾編『受胎告知』(鹿島出版会、1977年)、『ミケランジェロ・ヴァティカン壁画』(アンドレ・シャステル解説、講談社、1980年)、『ミケランジェロ ヴァティカン宮殿壁画』(嘉門安雄解説、講談社、1981年)、M.パロッティーノ他『エトルリアの壁画』(青柳正規他訳、岩波書店、 1985年)、フレデリック・ハート他『ミケランジェロ・システィーナ礼拝堂』(若桑みどり監訳、日本テレビ放送網、1990年)、『NHKフィレンツェ・ルネサンス』(全6巻、日本放送協会出版、1991年)、ピエールルイージ・デ・ヴェッキ他『最後の審判』(若桑みどり監訳、日本テレビ放送網、1996年)、ピエールルイージ・デ・ヴェッキ他『システィーナ礼拝堂 甦るミケランジェロ』(若桑みどり監訳、日本テレビ放送網、1998年)などがある。 また「ミケランジェロのヴァティカン壁画」(西武美術館他、1980年)、「ヴァティカン宮ラファエロの壁画」(大丸ミュージアム、大阪他、1987年)、「ボッティチェリ ヴィーナスの誕生・春」(大丸ミュージアム、大阪他、1989年)などの展覧会でもその仕事が紹介された。 システィナ礼拝堂の撮影などに対し81年日本写真協会賞年度賞、『NHK フィレンツェ・ルネサンス』に対し92年第15回マルコ・ポーロ賞(監修者他との共同受賞)など、多数の賞を受けた。

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