本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





江坂輝彌

没年月日:2015/02/08

読み:えさかてるや  慶應義塾大学名誉教授である考古学者の江坂輝彌は2月8日、老衰のため死去した。享年95。 1919(大正8)年12月23日、現在の東京都渋谷に生まれる。幼少期より考古学に関心を持ち、近隣の畑などをめぐって土器や石器の採集をしていたほか、大学進学以前から研究グループを結成し、活動を行っていた。また、日本における旧石器時代研究の第一人者である芹沢長介とは同年であり、この当時から親交があった。 1942(昭和17)年、慶應義塾大学文学部史学科(東洋史)に入学。同時に陸軍に応召し、敗戦まで中国大陸等で軍務に就いた。その間にも軍当局の許可の下で調査活動を行っており、現地で表面採集した土器を戦後に資料として報告した後、中国浙江省博物館に寄贈している。敗戦後は46年に慶應義塾大学文学部史学科に復学し、55年に慶應義塾大学文学部助手、64年同専任講師、66年同助教授、71年同教授を歴任。85年3月、慶應義塾大学を定年退職と同時に、同名誉教授に就任。その後は、1996(平成8)年まで松坂大学政経学部教授を務めた。 生涯を通して縄文時代を中心とした考古学に深い関心を持ち、全国的な視野をもって各地に自ら足を運び、資料の収集・研究を行った。自らの発掘調査で出土した土器に新たな型式を設定命名することもあり、そのような作業を通して縄文土器の全国的な編年を確立したことの意義は大きい。代表的な業績として山内清男と共著の『日本原始美術第1巻―縄文式土器』(講談社、1964年)が挙げられる。また、82年に提出された学位論文『縄文土器文化研究序説』は、同年に六興出版より書籍として刊行されている。さらに、こういった編年研究を通じて、縄文海進について論じたことも特筆される(「海岸線の進退から見た日本の新石器時代」『科学朝日』14巻3号、1954年)。 このほか、土偶の研究にも精力的に取り組み、『土偶』(校倉書房、1960年)、『日本原始美術』第2巻(共著、講談社、1964年)、『日本の土偶』(六興出版、1990年)などの著作を残している。破損個所がなく完全な例の土偶が全くないこと、すべてが女性をかたどったものであることなどの学説は、現在でも広く受け入れられている。 さらに、先史時代における日本と大陸との交流について研究するなど、その視野や問題意識は国内にとどまらなかった。代表的な著作として『韓国の古代文化』(学生社、1978年)、『先史・古代の韓国と日本』(共編、築地書館、1988年)などが挙げられる。また、そのような研究活動の一環として、国交が正常化する前の66年、韓国の研究者を招いて、熊本県内の貝塚遺跡にて共同調査を実施している。その後も留学生の受け入れなどを通して交流を深め、後進の育成に努めたほか、自身も韓国へ頻繁に赴き、視察などを行っていた。 同じく66年には芹沢長介、坂詰秀一らと月刊誌『考古学ジャーナル』を創刊し、自身も論文だけでなく、動向や講座など多岐にわたる原稿を寄せた。同誌は日本唯一の考古学月刊誌として、2017年7月に第700号を発刊するに至っている。 江坂はそれ以外にも、様々な場所で広範なテーマに関する個別論考を発表したほか、各地の遺跡発掘調査報告書の執筆に名を連ねるなど、その業績は膨大な数にのぼる。また、そのような専門的な調査研究を行う一方で、『縄文・弥生:日本のあけぼの』(共著、小学館、1975年)、『縄文式土器』(小学館、1975年)、『日本考古学小辞典』(共編、ニュー・サイエンス社、1983年)、『考古実測の技法』(監修、ニュー・サイエンス社、1984年)、『考古学の知識:考古学シリーズ1』(東京美術、1986年)など、多くの解説書や入門書の刊行にも関わり、日本における考古学という学問の普及に努めた。

庄司栄吉

没年月日:2015/02/07

読み:しょうじえいきち  日本芸術院会員の洋画家庄司栄吉は肺炎のため2月7日に死去した。享年97。 1917(大正6)年3月20日大阪に生まれる。生家は東南アジアから亜鉛を輸入し、酸化させて白色粉を生産する工場を経営しており、家業の関係で転居が多く、小学校高学年から中学校3年生まで奈良に居住。1935(昭和10)年、大阪外国語学校フランス語部に入学。同校在学中に赤松麟作の主宰する赤松洋画研究所に通い、38年に大阪外国語学校を卒業して東京美術学校油画科に入学。池袋パルテノンと呼ばれた椎名町に下宿し、41年、文展出品を目指していた制作中であった「庭にて」の下絵を見てもらうため、藤本東一良の紹介で寺内萬治郎を訪ねて以後、寺内に師事する。同年第4回新文展に「庭にて」で初入選。42年第5回新文展に「F嬢の像」で入選。同年、第29回光風会展に「M嬢の像」で初入選し、レートン賞受賞。同年10月に美術学校を繰り上げ卒業となり、44年に海軍教員としてセレベス島に派遣される。46年復員し、しばらく大阪に居住。47年寺内萬治郎の勧めで上京し、同年の33回光風会展に「読書」「小児像」を、第3回日展に「バレリーナ」を出品。50年光風会に「室内」「母の像」を出品してO氏賞受賞、翌年同会会員に推挙される。52年、当時の神学の権威であった熊野義孝(1899-1981)をモデルとした「K牧師の肖像」によって日展特選及び朝倉賞受賞。56年第42回光風会展に「画室の女」「青い服の肖像」を出品して南賞受賞。58年藤本東一郎、渡辺武夫、榑松正利らと北斗会を結成し、第一回展を東京銀座・松屋で開催し、以後毎年同展に出品を続ける。58年第1回新日展に「人物」を委嘱により出品。同作品は対象を色面に分割してとらえる方法で描写され、それまでの穏健な再現描写を踏まえた画風の展開が見られる。翌年の第2回新日展出品作「家族」はバイオリンを弾く少女を囲む群像を簡略化した人物描写でとらえており、音楽を奏でる、あるいは聴く人物像というモチーフとともに、晩年まで続く作風を方向付ける作品となっている。67年日展にチェロを弾く男性を描いた「音楽家」を出品して菊華賞受賞。70年日展審査員。71年日展会員。81年第67回光風会展に長いドレスの女性とギターを持つ男性を並立するように描いた「踊子とギタリスト」を出品して辻永賞受賞。86年日展評議員。同年12月資生堂ギャラリーにて個展。87年第19回日展に弦楽カルテットを描いた「音楽家たち」を出品し文部大臣賞受賞。2000(平成12)年3月に日展出品作「聴音」で恩賜賞・日本芸術院賞を受賞し、同年12月に日本芸術院会員となった。赤松麟作、寺内萬治郎を師と仰ぎ、穏健な再現描写を基盤とし、穏やかな色の筆触を重ねて対象を浮かび上がらせる作風で音楽家や踊り子などを描いた。【新文展出品歴】新文展第4回(1941年)「庭にて」(初入選)、第5回(1942年)「F嬢の像」、1943年、44年は不出品【日展出品略歴】第1、2回不出品、第3回(1947年)「バレリーナ」、第4回不出品、第5回(1949年)「室内」、第6回「画室の父」、第7回「坐像」、第8回「K牧師の像」(特選・朝倉賞)、第9回「婦人像」、第10回(1954年)「青衣少女」、第11回「赤い服の女」、第12回「腰掛けた女」、第13回(1957年)不出品【社団法人日展】第1回(1958年)「人物」、第5回(1962年)「耳野先生像」、第10回(1967年)「音楽家」(菊華賞)【改組日展出品略歴】第1回(1969年)「作曲家」、第5回(1973年)「白鳥」、第10回(1978年)「すぺいん舞踊家」、第15回(1983年)「舞踊団の人たち」、第19回(1987年)「音楽家たち」(文部大臣賞)、20回(1988年)「ギタリスト」、第25回(1993年)「ピアニスト」、第30回(98年)「調弦」、第35回(2003年)「ヴィオロニスト」、第40回(2008年)「聴音」、第45回(2013年)「セロ弾き」【改組新日展出品歴】第1回(2014)年「演奏家」、第2回(2015年)「バレエ団の人たち」(遺作)

大倉舜二

没年月日:2015/02/06

読み:おおくらしゅんじ  写真家の大倉舜二は2月6日、悪性リンパ腫のため死去した。享年77。 1937(昭和12)年5月2日、東京市牛込区袋町(現、東京都新宿区袋町)に生まれる。母方の祖父は日本画家川合玉堂。56年独協高校卒業。幼少期より昆虫に興味を持ち、とくに蝶に親しむ。高校在学中、近所に住んでいた画家・植物写真家の富成忠夫に写真の基礎を学び、富成の仕事を手伝う。その成果は後に、富成との共著『蝶』(ぺりかん写真文庫、平凡社、1958年)として刊行された。この経験をきっかけに写真家を志し、高校卒業後、兄の紹介で写真家三木淳の事務所に短期間通い、その後佐藤明の助手を約三年務めた後、60年に独立する。 60年代は主に『装苑』や『婦人画報』などでファッション写真を手がけつつ、『カメラ毎日』などに自らの作品を発表するようになり、71年最初の写真集『emma』(カメラ毎日別冊、毎日新聞社)を刊行。同シリーズから写真集を出した立木義浩や沢渡朔らとともに気鋭の写真家として評価を確立する。一方、60年代末には料理写真に仕事の領域を広げ、日本の料理を、器や配膳、作法など文化的背景もふまえて撮影し、高く評価された。72年、ファッション・料理に関する一連の写真に対し第3回講談社出版文化賞を受賞。その後、78年、『ミセス』誌での連載をまとめた『日本の料理』(文化出版局)刊行。また1993(平成5)年には、前作が料亭などの「ハレ」の料理であったのに対し、日常の和食を対象とした『日本の料理』(セシール)を刊行した。 また70年代の半ばから約10年をかけて日本に生息する24種のミドリシジミ蝶の生態の撮影を重ね、86年『ゼフィルス24』(朝日新聞社)を刊行、これにより87年、第37回日本写真協会賞年度賞を受賞した。他に80年代には、『ONNAGATA 坂東玉三郎』(平凡社、1983年)、『七代目菊五郎の芝居』(平凡社、1989年)など一連の人物写真の他、生け花の撮影など、コマーシャル写真家としての豊富な経験と卓越した技術に裏打ちされた、多彩な仕事を展開した。 90年代後半からは東京をめぐって『武蔵野』(シングルカット、1997年)、『Tokyo X』(講談社インターナショナル、2000年)、『Tokyo Freedom』(日本カメラ社、2005年)の三部作を発表、世紀転換期の東京の様相と社会に対する批判的な視点を提示した。 2002年にはその仕事を振り返る個展「大倉舜二展:仕事ファイル1961-2002」(東京・ガーディアン・ガーデン、クリエイションギャラリーG8)が開催された。

石井和紘

没年月日:2015/01/14

読み:いしいかずひろ  建築家の石井和紘は1月14日、急性呼吸促迫症候群のため死去した。享年70。 1944(昭和19)年2月1日、東京都に生まれる。67年東京大学工学部建築学科卒業、同大学院に進学ののち、72年より米・イェール大学に留学。75年に東京大学大学院工学系博士課程およびイェール大学建築学部修士課程を修了。76年に石井和紘建築研究室(1978年に石井和紘建築研究所に改称)を設立。 東大大学院在籍中に香川県直島町から吉武泰水研究室に依頼された文教地区計画の一環として「直島小学校」(1970年竣工)の設計を担当して町長の目に留まり、以後「直島幼児学園」(1974年、難波和彦との共同設計)、「町民体育館・武道館」(1976年)などを次々と手掛けた。多様性をテーマにした「54の窓(増谷医院)」(1975年、難波との共同設計)でポストモダン建築家として一躍注目を集めた。また同じ頃に、装飾の象徴性を否定した近代建築を批判してポストモダン建築を提唱したロバート・ヴェンチューリ他著『ラスベガス-忘れられたシンボリズム』の翻訳(鹿島出版会、1978年、伊藤公文との共訳)も行っている。 シンボルとしての屋根を記号化した「54の屋根(建部保育園)」(1979年)やファサードが記号化された「ゲイブルビル」(1980年)などを経て「直島町役場」(1983年)で世間にも強烈な印象を与えた。ここでは京都西本願寺飛雲閣の屋根をはじめ、近代も含む日本建築史上の様々な名建築から意匠や形態が直接的かつ強引に引用されており、造形としては相当に破綻しているが、このような時に過剰なまでの諧謔性は石井作品を通底しており、ポストモダニズムがもてはやされた当時の時代の空気と強く共鳴し合う部分でもあった。その究極と言えるのが「同世代の橋」(1986年)で、石井と同世代の建築家13組の特徴的意匠要素がファサードに脈絡なく組み込まれている。 重伝建地区内において既存のRC造公民館を醤油蔵の外観で覆い隠した「吹屋国際交流ヴィラ」(1988年)を経て、続く「数寄屋邑」(1989年、日本建築学会賞(作品)受賞)「清和村文楽館」(1992年)などの作品においては数寄屋や木造といった日本的伝統が大きなテーマとなり、「くにたち郷土文化館」(1994年)や「宮城県慶長使節船ミュージアム」(1996年)では建物のボリュームを地中に埋没させ、主張の強かった初期の作風からは大きく変容を遂げるに至った。 著作に『イェール 建築 通勤留学』(鹿島出版会、1977年)、『数寄屋の思考』(鹿島出版会、1985年)、『私の建築辞書』(彰国社、1988年)などがあり、中期までの作品は『SD』編集部編『現代の建築家 石井和紘』(鹿島出版会、1991年)に収録されている。

江見絹子

没年月日:2015/01/13

読み:えみきぬこ  日本絵画史上、先駆的な抽象表現を試みた女性画家の江見絹子は1月13日、心不全のため死去した。享年91。 1923(大正12)年6月7日兵庫県明石市二見町に生まれる。本名荻野絹子。1940(昭和15)年3月兵庫県立加古川高等女学校卒業。翌年から43年まで、後に二紀会会員となる洋画家伊川寛の個人教授を受け、45年から49年まで神戸市立洋画研究所に学ぶ。この間の48年7月から50年9月まで神戸市立太田中学校に勤務。49年第4回行動展に「鏡の前」で初入選したのを機に神戸市から横浜市に転居。50年第5回行動展に「三裸」「ポーズ」を出品し「三裸」で奨励賞受賞。51年第6回同展に暗い背景の中に群像を描いた「夜の群像」を出品して新人賞受賞、会友推挙。52年第7回行動展に臥裸婦と座す群像を組み合わせた「むれ(1)」「むれ(2)」を出品し「むれ(2)」で行動美術賞受賞。同年女流画家協会展に「むれ(1)」「むれ(2)」を出品し、同会会員となる。53年第8回行動展に「三立婦」を出品し、行動美術協会で初めての女性会員となる。53年11月渡米。54年2月にアメリカ・カリフォルニア州サウサリトで個展を開催し「むれ(2)」等を展示。後、ニューヨークを経てヨーロッパに渡り、55年8月までパリを拠点にヨーロッパに滞在。ルーブル美術館に通い、西欧絵画を研究する一方で、当時パリで隆盛していたアンフォルメル様式や抽象絵画にも触れた。54年南欧を旅行し、ラスコーとアルタミラの壁画を見て衝撃を受け、「芸術とはなんであるか」を深く考えたことを契機として、作風が大きく変化し、対象を簡略化した形体でとらえる半抽象へと向かう。55年秋に帰国。56年8月シェル新人賞展に黄褐色の背景に茶色のフォルムを配した抽象画「生誕」を出品し、シェル美術賞(3等賞)を受賞。58年第2回シェル美術賞展に「象徴」を出品し、シェル美術賞(3等賞)を受賞。同年アメリカ・ピッツバーグのカーネギー研究所で開催された第41回ピッツバーグ国際現代絵画彫刻展に「錘」を出品。60年第4回現代日本美術展に「リアクション1」「リアクション2」を出品、以後、5,6,7,9回同展に出品する。61年第6回日本国際美術展に「作品」を出品し、以後第8回展まで出品を続けた。61年神奈川県女流美術家協会を創立。62年第5回現代日本美術展に「作品Ⅰ」を出品して神奈川県立近代美術館賞を受賞。同年6月第31回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展に杉全直、向井良吉、川端実、菅井汲とともに出品。日本の女性作家として初めての同展参加となった。同展に出品された「作品」「作品1」~「作品7」は、57年頃から行っていた、自作の油絵を池に浸しておき、支持体から剥離した絵具をすりつぶし、ふるいにかけて粒子をそろえて溶剤に浸した絵具を用いる方法で制作され、抑えた色調と重厚なマチエルを持つものであった。ヴェネチア・ビエンナーレ後は鮮やかな色彩が用いられるようになり、75年から86年までカンバス上にテレピン油ないし溶かした絵具を流す技法を取り入れて、画材の性質に委ねる表現を画面に取り込んだ。この頃、江見は「水、火、土、風の四大元素が私の主要なモチーフを形成してきた。今後もそれらを統合したところにあらわれるであろう宇宙的な空間を目指してゆくことになるだろう」(『現代美術家大百科』茨城美術新聞社、1980年)と語っており、形と色によって画面に動きや光が宿る制作を続けた。1991(平成3)年、横浜文化賞受賞。96年3月「江見絹子自選展」(横浜市民ギャラリー)、2004年4月に「江見絹子展」(神奈川県立近代美術館)、10年11月に「江見絹子」展(姫路市立美術館)が開催されており、04年、10年の展覧会図録に詳細な年譜が掲載されている。

木之下晃

没年月日:2015/01/12

読み:きのしたあきら  写真家の木之下晃は1月12日虚血性心不全のため死去した。享年78。 1936(昭和11)年7月16日、長野県諏訪郡上諏訪町(現、諏訪市上諏訪町)に生まれる。55年長野県諏訪清陵高校卒業。日本福祉大学社会福祉学部卒業後、中日新聞社、博報堂に勤務、広告写真などに携わる。音楽好きで演奏会に通ううちに、勤務地の名古屋で開催される音楽演奏会の記録撮影の仕事を得、それをきっかけに、音楽をめぐる写真の撮影を行うようになる。70年『音と人との対話 音楽家 木之下晃写真集』を自費出版、これにより71年日本写真協会賞新人賞を受賞。73年、フリーランスの写真家となる。 初期は主としてポピュラー音楽の演奏会を対象に、広告写真での経験を生かし、ブレやゆがみなどの効果を駆使し「音の映像化」というテーマを追求したが、80年代にはクラシック音楽を対象に、音楽家の演奏中のポートレイトにとりくむ。その後、オフステージの音楽家たちの肖像や、音楽の歴史をたどる紀行、世界各地のコンサートホールや歌劇場など、音楽をとりまく幅広いテーマに仕事の領域を展開し、音楽写真家として国際的に高い評価を受けた。85年、『世界の音楽家』(全3巻、小学館、1984-85年)により第36回芸術選奨文部大臣賞、2005(平成7)年第55回日本写真協会賞作家賞、07年第18回新日鐡音楽賞特別賞を受賞。 上記以外の主な写真集に『SEIJI OZAWA―小澤征爾の世界』(講談社、1981年)、『巨匠 カラヤン』(朝日新聞社、1992年)、『渡邊暁雄』(音楽之友社、1996年)、『朝比奈隆―長生きこそ、最高の芸術』(新潮社、2002年)、『カルロス・クライバー』(アルファベータ、2004年)、『武満徹を撮る』(小学館、2005年)、『マエストロ 世界の音楽家』(小学館、2006年)、『ヴェルディへの旅』(実業之日本社、2006年)、『MARTHA ARGERICH』(ショパン、2007年)、『石を聞く肖像』(飛鳥新社、2009年)、『最後のマリア・カラス』(響文社、2012年)、『栄光のバーンスタイン』(響文社、2014年)など。 個展での発表も多く、06年には茅野市に代表作104点を寄贈したことを記念して「木之下晃写真展 世界の音楽家」(茅野市美術館)が開催された。

西和夫

没年月日:2015/01/03

読み:にしかずお  建築史家で神奈川大学名誉教授の西和夫は1月3日、東京都内にて死去した。享年76。 1938(昭和13)年7月1日、東京都に生まれる。武蔵高等学校を卒業後、早稲田大学理工学部建築学科に入学。62年に卒業後、東京工業大学大学院に進学して藤岡通夫に師事、67年に同博士課程を「近世日本における建築積算技術の研究」で学位取得修了。同年日本工業大学助教授。77年神奈川大学助教授、78年より2009(平成21)年まで同教授。 近世日本建築史を専門とし、大学院在籍中から大工文書の解読等に基づいて江戸幕府による造営に関わる生産組織の実態を明らかにする論考を精力的に発表した。一方、書院建築における障壁画への着目に始まって、美術史と建築史を架橋する研究も早くから手掛けている。さらに、81年に神奈川大学に日本常民文化研究所が招致・設立されると、その中心的メンバーであった宮田登や網野善彦とも協力し、芸能に関係する建築や絵図にみられる建築などにも研究対象を拡げた。83年、「日本近世建築技術史に関する一連の研究」で日本建築学会賞(論文)受賞。 学位論文をもとにした『江戸建築と本途帳』(鹿島研究所出版会、1974年)や『工匠たちの知恵と工夫』(彰国社、1980年)などで研究成果をわかりやすく語るとともに、『日本建築のかたち』(彰国社、1983年)や『図解古建築入門 日本建築はどう造られているか』(彰国社、1990年)などで日本建築の構造をビジュアルに説いたことは入門者にも大きな助けとなった。『日本建築のかたち』は『What is JAPANESE ARCHITECTURE』(Kodansha International、2012年)として英訳され、海外の人々の日本建築への理解の増進にも貢献している。 研究のもう一つの柱が既に失われた建造物の復原研究で、これはやがて史跡等における建造物の実物大復原として結実した。西が学術的検討を主導した代表的成果としては、足利学校、佐賀城本丸御殿、出島和蘭商館跡などを挙げることができる。 99年より2年間にわたり建築史学会会長、03年より09年まで文化審議会委員を務めたほか、各地で文化財保護指導委員等として、文化遺産の保存と活用、歴史遺産を活かした町づくり等に尽力した。 最晩年は松江城調査研究委員会の委員長として粘り強い調査から天守の建立年を示す祈祷札の発見を経て国宝指定への道筋を付けたが、その答申をわずか4か月後に控えての急逝であった。 編著作は多数に上り、上記以外の主な著書に『わが数寄なる桂離宮』(彰国社、1985年)、『建築史研究の新視点一~三』(中央公論美術出版、1999~2001年)、『海・建築・日本人』(日本放送出版協会、2002年)、『建築史から何が見えるか 日本文化の美と心』(彰国社、2009年)などがある。

三上晴子

没年月日:2015/01/02

読み:みかみせいこ  アーティストで多摩美術大学美術学部情報デザイン学科メディア芸術コース教授の三上晴子は1月2日にがんのため死去した。享年53。 1961(昭和36)年静岡県に生まれる。高校卒業後、上京。カセット・マガジン『TRA』の編集に携わり、アートの評論も執筆。84年から鉄クズ、コンクリート片などの廃棄物を素材にしたオブジェを用いたパフォーマンスを開始。「ナムジュン・パイクをめぐる6人のパフォーマー」(原宿ピテカントロプス)にナム=ジュン・パイク、坂本龍一、細野晴臣、立花ハジメらとともに出演するなど、東京のアートシーンで華やかな存在として注目を集めていたという。翌年5月、サッポロビール恵比寿工場跡で初個展「滅ビノ新造形」を開催、展覧会終了後に『朝日ジャーナル』の連載「筑紫哲也の若者探検 新人類の旗手たち」に取り上げられる。86年、飴屋法水が主宰する劇団「東京グランギニョル」の最終公演「ワルプルギス」で舞台装置を担当。その後も「BAD ART FOR BAD PEOPLE」(東京・飯倉アトランティックビル、1986年)、「Brain Technology」(東京・作家スタジオ、1988年)で、神経や脳を思わせるケーブルやコンピュータの電子基板を使ったオブジェやインスタレーションを発表。その後、ロバート・ロンゴによるキュレーション展への参加を経て、戦争や情報といった生体を超えるネットワークへの関心を募らせ、それまでのモチーフであったジャンクと合体させ、1990(平成2)年にこの時期の集大成となる「Information Weapon」(1:Super Clean Room 横浜・トーヨコ地球環境研究所、2:Media Bombs 東京・アートフォーラム谷中、3:Pulse Beats 東京・P3 art and environment)を開催。91年に渡米、95年にニューヨーク工科大学大学院情報科学研究科コンピュータ・サイエンス専攻を修了、2000年までニューヨークを拠点とし、欧米のギャラリーやミロ美術館(スペイン)、ナント美術館(フランス)などの現代美術館、またトランス・メディアーレ(ベルリン)やDEAF(ロッテルダム)、アルス・エレクトロニカ(リンツ)をはじめとする世界各国のメディアアート・フェスティバルで発表。国内では、92年、NICAF92で池内美術レントゲン藝術研究所のブースで展示。93年、個展「被膜世界:廃棄物処理容器」(ギャラリーNWハウス、Curator’s Eye ’93 vol.3、キュレーター=熊谷伊佐子)、福田美蘭との二人展「ICONOCLASM」(レントゲン藝術研究所)を開催。コンピュータサイエンスを学ぶなかで、不可視の情報と身体の関係へと興味が移行、90年代なかばからは知覚によるインターフェイスを中心としたインタラクティヴな作品として、視線入力による作品「Molecular Informatics: Morphogenic Substance via Eye Tracking」(キャノンアートラボ、1996年)、聴覚と身体内音による作品「存在、皮膜、分断された身体」(NTTインターコミュニケーション・センター常設作品、1997年)、重力を第6の知覚と捉えた作品「gravicells―重力と抵抗」(山口情報芸術センター、2005年)、情報化社会における身体性と欲望を表現した「Desire of Codes―欲望のコード」(山口情報芸術センター、2010年、第16回文化庁メディア芸術祭アート部門優秀賞)を発表。2000年に多摩美術大学情報デザイン学科に着任。作品集に『ALL HYBRID』(ペヨトル工房、1990年)、『Jae‐Eun Choi, Seiko Mikami』(都築響一編、京都書院、1990年、Art random 34)、『Seiko Mikami Art works: Molecular Informatics』(Diputacion Provincial De Malaga(スペイン)、2004年)、『gravicells:グラヴィセルズ作品集』(山口情報芸術センター、2004年)、『欲望のコード:Desire of Codes作品集』(NewYork Artist Archives and Books、2011年)などがある。没後、浅草橋のパラボリカ・ビスで「三上晴子と80年代」展が開催され、追悼記事として椹木野衣「追悼・三上晴子―彼女はメディア・アーティストだったか」(ウェブマガジン『ART iT』)などが寄せられた。

中岡吉典

没年月日:2015/01/01

読み:なかおかよしすけ  東邦画廊主中岡吉典は、1月1日、肺炎のため東京都内で死去した。享年87。 1927(昭和2)年1月5日、愛媛県西宇和郡(現、八幡浜市)に生まれる。41年喜須木尋常高等小学校卒業後、47年家業の指物師から中岡製材所を起こす。この頃、叔父が表具店を営む関係から美術への興味が起こり、前川千帆や畦地梅太郎の版画を収集する。51年広島市に材木商を起業するが、57年製紙工場の倒産の波をかぶり廃業し、58年上京、図書販売業へ転身する。59年、版画家の永瀬義郎、画家の山口長男と知り合う。60年永瀬の紹介もあり、ホテルニュージャパン開業にともないホテル内の画廊に勤めるが、2年後に閉廊となり、64年、山口長男と南画廊の志水楠男の指南を受け、東邦画廊を開廊する。場所は千代田区日本橋通2丁目、当初の案内状に「〓島屋新駐車場裏」とあり、小さな建物の2階へ上がると、画廊主自らが言う「日本一小さな画廊」があった。座るお客にはまずお茶、しばらくすると珈琲がでて、中岡は客とひとしきり話しをするのが常だった。扱う作品は大きなミュージアムピースでなく、それを彼は「見せるもの」とし、自分が扱うのは「売るもの」であり、「銀座の画廊とはちがい場所代を乗せない」とよく言っていた。初期には三岸黄太郎の個展を4回開催し、68年5月、難波田龍起の個展を開催、この出会いで画廊の方向性が見え、難波田も定期的に東邦画廊で個展を開催していく。主に扱った作家に建畠覚造、杢田たけを、深尾庄介、吉野辰海、小山田二郎、大沢昌助、山口長男、平賀敬、谷川晃一、豊島弘尚、馬場彬、橋本正司、建畠朔弥らがいる。展覧会の会期は一回が20日間程度、二つ折りのパンフを出し、良く寄稿したのは針生一郎である。針生が推薦したノルウエーの画家ラインハルト・サビエの個展を1994(平成6)年から定期的に開催、外国作家を扱わない中岡にしては異例のことだった。93年春から、中央区京橋2丁目5番地で営業、さらに99年からは京橋3丁目9番地に移転した。

岡田新一

没年月日:2014/10/27

読み:おかだしんいち  建築家の岡田新一は10月27日、東京都内にて呼吸不全のため死去した。享年86。 1928(昭和3)年、茨城県水戸市に生まれる。48年旧制静岡高等学校卒業、東京大学工学部建築学科、同大学院に進学し、57年に修士課程修了後、鹿島建設株式会社に入社。同社設計部在籍中にイェール大学建築芸術学部大学院に留学、63年修了後Skidmore Owings and Merrill設計事務所(ニューヨーク)に出向。65年鹿島建設株式会社理事・設計部企画課長。 69年、最高裁判所新庁舎設計競技に参加して最優秀賞を獲得。「法と秩序を象徴する正義の殿堂として、この地位にふさわしい品位と重厚さを兼ね備えると共に、その機能を果たすに足りる内容を持つこと」を要件としたこのコンペには、丹下健三チームをはじめ217点の応募があったが、5年前の国立劇場コンペ(竹中工務店設計部一等当選)に続いて建設会社設計部の案が選ばれたことは、高度成長期における設計組織の台頭を象徴する出来事として、建築界に少なからぬ衝撃を与えた。 コンペの規定に従い独立して株式会社岡田新一設計事務所を設立したのち、74年に竣工した最高裁判所庁舎は、7棟からなる巨大建築で、白御影石貼りの壁がそそり立つ外観が威圧的にすぎるとの批判も巻き起こした。翌75年に日本建築学会賞に選ばれた同庁舎は、岡田の代表作品となるとともに、以後における、警視庁本部庁舎(1980年)、岡山市立オリエント美術館(1981年)、東京大学医学部付属病院(1982年基本計画)といった、大規模な公共建築を中心に設計活動を行う方向性と、石材などを多用した重厚な作風を確立する契機ともなった。JA25 SHIN’ICHI OKADA 特集岡田新一(1997年、新建築社)には、最高裁判所庁舎以来、当時までの代表的作品が収録されており、2008(平成20)年には岡山県立美術館開館20周年特別展として、「建築家岡田新一と岡山県立美術館20年」が開催された。 都市計画や国土計画等の分野でも、審議委員等の立場も含めて発信を行ったほか、「都市を創る」(彰国社、1995年)、「病院建築:建築におけるシステムの意味」(彰国社、2005年)など、設計にあたっての考え方やプロセスを体系化して著述・公開することにも力を注いだ。訳書に、「SD選書11 コミュニティとプライバシィ」(S.シャマイエフ、C.アレキザンダー著、鹿島出版会、1978年)がある。 89年米国建築家協会(AIA)名誉会員、96年には「宮崎県立美術館及び一連の建築設計」に対して日本芸術院賞及び恩賜賞受賞、04年芸術院会員、10年日本建築学会名誉会員。08年には旭日中綬章を受章している。

赤瀬川原平

没年月日:2014/10/26

読み:あかせがわげんぺい  美術家・作家の赤瀬川原平(本名・克彦)は10月26日午前6時33分、敗血症のため都内の病院で死去した。享年77。 1937(昭和12)年3月27日、倉庫会社に勤務する父・廣長の次男として横浜で生まれる。長男の隼彦は作家の赤瀬川隼、三女の晴子は帽子デザイナー。幼少期は、芦屋、門司、大分と転居を繰り返す。41年から高校入学の52年まで過ごした大分では、画材店キムラヤのアトリエで活動していた「新世紀群」に出入りする。そこには、磯崎新、吉村益信らがおり、赤瀬川の進路に決定的な影響を及ぼす。高校入学直後に、名古屋にある愛知県立旭丘高等学校美術科に転校。同級には、荒川修作、岩田信市などがいた。55年、武蔵野美術学校(現、武蔵野美術大学)油画科に進学。サンドイッチマンのアルバイトをしながら生活するものの、貧困のうちに大学を中退。57年から日本アンデパンダン展、58年から読売アンデパンダン展に出品。58年には道玄坂にある喫茶店コーヒーハウスで初の個展を開催。このころには、社会主義リアリズムの影響を脱し、アフリカ原始美術に触発された絵画を制作していた。 59年4月、十二指腸潰瘍のため名古屋へ帰り、手術を受ける。60年、吉村と篠原有司男を中心とした「ネオ・ダダイズム・オルガナイザー」結成の呼びかけに応じて東京に戻る。このグループには、大分出身の吉村益信、風倉匠、名古屋時代の級友・荒川修作らがいた。彼らは、磯崎新設計による吉村のアトリエ「ホワイトハウス」を根城として活動したが、同年末には事実上活動を停止。この時期の赤瀬川は、廃物を利用したオブジェを制作していた。その後も、ネオ・ダダのメンバーと共に、62年8月15日、ヨシダ・ヨシエ発案による国立公民館での「敗戦記念晩餐会」などに参加。「敗戦記念晩餐会」の報告者として参加した雑誌『形象』の座談会で、「山手線事件」をおこなった高松次郎、中西夏之と知り合い、翌年、彼らと共にハイレッド・センターを結成。三人の他に、第四の公式メンバーである和泉達、非公式メンバーとして、グループ音楽の刀根康尚、小杉武久、『形象』編集者の今泉省彦、川仁宏、映画作家の飯村隆彦なども参加し、グループの匿名性を高める。赤瀬川個人の作品としては、梱包作品や模型千円札がある。後者は、同時期に起きた偽札事件「チ―37号事件」との関連で警察の目に留まり、65年11月に「通貨及証券模造取締法違反」で起訴される。このいわゆる「千円札裁判」は、芸術と法との関係を問う「芸術裁判」へと発展し、注目を集める。70年4月、上告が棄却され、懲役3月執行猶予1年の有罪が確定する。この時期には、「模型千円札」を理論的に正当化することも含めて様々な文章を執筆しており、70年に『オブジェを持った無産者』としてまとめられる。 68年に燐寸ラベルを収集する「革命的燐寸主義者同盟」、宮武外骨の著作などの珍本を集める「革命的珍本主義者同盟」、翌年には「娑婆留闘社」を結成して「獄送激画通信」を発行するなどの活動をおこなう。70年、今泉が代表を務める美学校の講師となる。赤瀬川教場からは、南伸坊、久住昌之らを輩出。同年、雑誌『ガロ』に初めての劇画「お座敷」を発表。また、69年から『現代の眼』(現代評論社)で連載を開始した「現代野次馬考」シリーズや70年から『朝日ジャーナル』に連載を開始した「野次馬画報」(のちに「櫻画報」と改題)など、いわゆるパロディ・ジャーナリズムに70年代半ばまで取り組む。78年、最初の小説「レンズの下の聖徳太子」を雑誌『海』に発表。79年、尾辻克彦名義で執筆した「肌ざわり」が中央公論新人賞を受賞。同年に「肌ざわり」が、翌年に「闇のヘルペス」が芥川賞候補作品となり、81年、「父が消えた」で芥川賞受賞。83年、『雪野』で野間文芸新人賞受賞。これら小説家尾辻克彦としての活動と並行して多くのグループを結成・活動しており、美学校の生徒たちとの「ロイヤル天文同好会」(1972年)や「超芸術探査本部トマソン観測センター」(1982年)、そこから発展した「路上観察学会」(1986年)のほか、「脳内リゾート開発事業団」(1992年)、「ライカ同盟」(同年)、「縄文建築団」(1997年)などがある。1998(平成10)年、『老人力』がベストセラーとなり、広く一般にその名を知られることとなる。 初期の絵画から、ネオ・ダダの廃品芸術、ハイレッド・センターでの模型千円札や梱包芸術という前衛的な美術作品だけではなく、パロディ漫画や小説、エッセイ、さらには路上観察学会のような非芸術にも目を向けるなど、その活動は多岐にわたり、いわゆる芸術家や画家といった枠組みに収まりきらない作家であった。これらの活動は、「赤瀬川原平の冒険――脳内リゾート開発大作戦――」(名古屋市美術館、1995年)、「赤瀬川原平の芸術原論展」(千葉市美術館他、2014年)といった展覧会でまとめられた。赤瀬川自身の経歴については、松田哲夫とのインタビュー形式による自伝『全面自供!』(晶文社、2001年)がある。また、読売アンデパンダン展周辺を描いた『いまやアクションあるのみ! 「読売アンデパンダン」という現象』(筑摩書房、1985年)、ハイレッド・センターの活動を描いた『東京ミキサー計画』(PARCO出版局、1984年)などは、戦後美術の状況を描写した資料として重要な役割を果たしている。

上野アキ

没年月日:2014/10/12

読み:うえのあき  美術史家で東京文化財研究所名誉研究委員の上野アキは、10月12日、癌のため、死去した。享年92。 1922(大正11)年9月15日に生まれる。父上野直昭は、京城帝国大学教授、大阪市立美術館長、東京藝術大学学長等を歴任した美術史家、母ひさは、大正3年に音校のヴァイオリンを卒業したヴァイオリニストであった。姉のマリは、美術史家吉川逸治の妻となった。24年から1927(昭和2)年までの約2か年半、父がドイツに留学したため、鎌倉の祖父母の家に預けられた。その後、父が京城帝国大学教授となったので、27年8月から38年10月まで、京城で暮らした。この間に、父と共に慶州や仏国寺等を訪れ、石窟庵など見学した。 40年3月、私立桜蔭高等女学校を卒業。同年4月に東京女子大学高等学部に入学し、42年9月に同校を第3学年で繰り上げ卒業した。41年2月に大阪市立美術館長となった父が、この時期、夙川のアパートメントに住んでいたので、卒業後、1か月あまり、ここに居候し、寺や美術館などを見て歩いた。当時進められていた法隆寺の壁画模写を見学し、聖林寺の聖観音、新薬師寺の香薬師等を観た。 42年11月に美術研究所の臨時職員に採用された。当時の所長は、前年の3月に京城帝国大学を定年退職した田中豊蔵であった。43年までは資料室に属し、その後、資料室を離れて、美術研究の編集を担当した。そのうち戦争が激しくなったため、美術研究所は、黒田清輝作品などを疎開させねばならなかった。44年8月に黒田清輝作品とガラス原板を東京都西多摩郡小宮村及び檜原村に疎開させた、また、45年5月末に、図書、焼付写真、その他の資料を山形県酒田市に疎開させ、さらに7月、牧曽根村、松沢世喜雄家倉庫、観音寺村村上家倉庫、大沢村後藤作之丞家倉庫に分散し、疎開させた。上野は、東京に残留し、黒川光朝とともに美術研究を担当し、紙の手当や印刷所探しなどに追われた。 終戦直後は、美術研究所の復興に忙しかった。46年4月4日、図書、焼付写真が研究所に戻り、同年4月16日に黒田清輝作品、写真原板が研究所に戻った。職員が総出で整理に当たり、同年5月20日に美術研究所の復興式を挙行した。上野は、48年4月に国立博物館附属美術研究所の常勤の事務補佐員となり、49年4月に国立博物館附属美術研究所の研究員(文部技官)となった。51年1月に文化財保護委員会附属美術研究所資料部に配属、52年4月に東京文化財研究所美術部資料室に配属された。60年、高田修編『醍醐寺五重塔の壁画』(1959年3月刊行)によって、第50回日本学士院賞恩賜賞を共同研究者として受賞した。62年以降、『東洋美術文献目録』(1941年刊行)に次ぐ目録の編纂事業が始まり、上野は、辻惟雄、永雄ミエ、江上綵、関口正之らとともにこの事業に参画した。69年3月に『日本東洋古美術文献目録 昭和11〜40年』が刊行された。69年4月に東京国立文化財研究所美術部主任研究官となり、76年4月に東京国立文化財研究所美術部資料室長となった。77年4月、東京国立文化財研究所情報資料部の創設に伴い、文献資料研究室長となった。84年3月に辞職し、東京国立文化財研究所名誉研究員となった。 上野の研究テーマの一つは、中央アジア古代絵画史研究である。当初、上野は大谷探検隊の収集品について研究を進め、とりわけ新疆ウイグル自治区トルファン地区の遺跡出土品の研究を、ヨーロッパや中国の報告書をもとに行った。68年に東京国立博物館に東洋館が開館し、大谷探検隊収集品が収蔵、展示されたことにより。上野の研究に拍車がかかった。73年には、「中央アジア絵画における東方要素とその浸透についての検討」のテーマで科学研究費を受け、国内所在の中央アジア絵画及び模本類の調査を進め、かつ敦煌絵画研究の成果を踏まえて、中央アジア絵画に見られる東方要素の考察を進めた。また、龍谷大学や天理参考館が所蔵する伏羲女媧図を外国所在の類品と比較して、墓葬画としての特質を抽出した。上野は、海外の美術館や博物館が所蔵する中央アジア関連遺品や現地調査も積極的に行った。66年7月から9月にかけて、大英博物館、ギメ東洋美術館、ベルリン国立美術館(インド美術館)の所蔵品、さらにニューデリーの国立博物館が所蔵するスタイン資料の調査を行った。76年10月から12月には、文部省の在外研究員として、アメリカとヨーロッパの美術館や博物館を訪ね、中央アジアの遺品を調査し、とくにドイツ探検隊のル・コックの手元を離れた壁画断片類の所在地、現状、元位置等を詳細に研究した。79年にはトルファン、80年には敦煌を訪ね、中央アジア絵画の研究を深めた。 上野の研究のもう一つのテーマは、高麗時代の仏画の研究である。上野は、76年から2か年、科学研究費による研究「朝鮮の9〜16世紀の仏教美術に就ての総合的研究―特に日本国内の所蔵品調査を中心として―」に参画し、高麗時代の仏画を重点的に調査して、高麗仏画独特の表現や技法を解明した。77年10月に韓国芸術院で開催された第6回アジア芸術シンポジウムに参加し、「日本所在の韓国仏画」と題して成果の報告を行い、大きな関心を集めた。研究成果は、その後、81年刊行の『高麗仏画』収載の論文や作品解説にまとめられた。主な著作「西域出土胡服美人図について」『美術研究』189(1957年)「装飾文様」高田修編『醍醐寺五重塔の壁画』(吉川弘文館、1959年)「喀喇和卓出土金彩狩猟文木片」『美術研究』221(1962年)「トルファン出土彩画断片について」『美術研究』230(1963年)「古代の婦人像―正倉院樹下美人図とその周辺」『歴史研究』13-6(1965年)「トユク出土絹絵断片婦人像」『美術研究』249(1967年)「敦煌本幡絵仏伝図考(上)」『美術研究』269(1970年)「エルミタージュ博物館所蔵ベゼクリク壁画誓願図について」『美術研究』279(1972年)『東洋美術全史』(共著、東京美術、1972年)「敦煌本幡絵仏伝図考(下)」『美術研究』286(1973年)「アスタナ出土の伏羲女媧)図について(上)」『美術研究』292(1974年)「アスタナ出土の伏羲女媧図について(下)」『美術研究』293(1974年)「アスターナ墓群」『中国の美術と考古』(六興出版、1977年)「キジル日本人洞の壁画―ル・コック収集西域壁画調査(1)」『美術研究』308(1978年)「キジル第3区マヤ洞壁画説法図(上)―ル・コック収集西域壁画調査(2)」『美術研究』312(1980年)「キジル第3区マヤ洞壁画説法図(下)―ル・コック収集西域壁画調査(2)」『美術研究』313(1980年)「高麗仏画の種々相」『高麗仏画』(朝日新聞社、1981年)『西域美術―大英博物館スタインコレクション― 第1巻』(翻訳)(講談社、1982年)『西域美術―大英博物館スタインコレクション― 第2巻』(翻訳)(講談社、1982年)Spread of Painted Female Figures around the Seventh and Eighth Centuries, Proceedings of the Fifth International Symposium on the Conservation and Restoration of Cultural Property -Interregional Influences in East Asian Art History, Tokyo National Research Institute of Cultural Properties, 1982. 10.「絵画作品の諸問題」 龍谷大学三五〇周年記念学術企画出版編集委員会編『佛教東漸 祇園精舎から飛鳥まで』(龍谷大学、1991年)「父上野直昭のこと」財団法人芸術研究振興財団・東京芸術大学百年史刊行委員会編『上野直昭日記 東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第三巻 別巻』(ぎょうせい、1997年)「アスターナ出土の絵画と俑」『エルミタージュ美術館名品展―生きる喜び―』新潟県立近代美術館 2001.7.6〜9.5、ATCミュージアム(大阪市) 2001.9.15〜11.4

澤村仁

没年月日:2014/10/04

読み:さわむらまさし  建築史家で九州芸術工科大学名誉教授の澤村仁は、10月4日15時26分肺炎のため死去した。享年86。 1928(昭和3)年11月16日、東京都に生まれる。49年旧制静岡高等学校理科卒業後、東京大学工学部建築学科に入学。54年同学科卒業後、東京大学数物系大学院建築学コースに進学、指導教官である太田博太郎博士や藤島亥治郎博士の薫陶を受けながら、当時社会的な課題とされた農民の生活改善の一環で始められた農家住宅に関する建築学的調査に参加するとともに、四天王寺(大阪)や毛越寺(岩手)などの古代寺院の伽藍の発掘調査にも加わり、検出遺構について現存する古社寺との比較研究と合わせ、出土瓦の類型に関する分析を行うなど考古学的研究にも強い関心を持った。 59年同大学院博士課程単位取得満期退学後、浅野清博士の勧めもあって大阪市難波宮址顕彰会に入会し、山根徳太郎博士の指導の下、難波宮跡の発掘調査研究に従事した。会では、これまでに培った都城や寺院など古代遺跡の調査の経験から遺構配置の計画性を見抜き、測量技術を駆使して調査範囲の異なる区域の検出遺構等断片的なものを図上で繋ぎ、後期難波宮大極殿、内裏回廊基壇など重要遺構の性格を明らかにするなど大きな成果を上げ、同遺跡の調査研究ならびに保存に大いに貢献した。これらの業績によって、70年、「難波宮跡発掘調査の業績」として山根徳太郎博士らと昭和44年度日本建築学会賞(業績賞)を共同受賞した。 62年、平城宮の調査研究が本格化し始めた時期に奈良国立文化財研究所に入所、以後平城宮跡の発掘調査はもとより全国の主要遺跡の発掘調査に参加し、当時始まったばかりの大規模発掘調査の手法確立に貢献するなど遺跡研究にも精通した建築史学者の一人として活躍する。63年「延喜木工寮式の建築技術史的研究ならびに宋営造法式との比較」により東京大学より工学博士号が授与される。64年から平城宮跡発掘調査部第三調査室長等を歴任、70年同部遺構調査室長となる。 73年7月、九州芸術工科大学(現、九州大学)環境設計学科教授に就任し、1992(平成4)年3月退官するまで日本建築史及び都市史等の講座を担当した。この間、九州、山口地方の民家や町並み、近世社寺建築の調査など精力的に行ったほか、文化財保護行政にも積極的に関わり、調査委員として鹿児島県の民家調査や福岡・佐賀・大分等の近世社寺建築調査を担当した。さらには城下町長府(山口県下関市)、英彦山宿坊(福岡県添田町)、城下町秋月(福岡県甘木市)、有田町(佐賀県)などの町並調査では主任調査員を務めた。そして、祁答院家、二階堂家住宅や善導寺本堂ほか(福岡)、薦神社神門(大分)等近世社寺建築など重要な建築遺構や秋月城下町や有田焼の生産で知られる有田の町並などの保存にも尽力し。退官後は名古屋に転居し、93年4月愛知みずほ大学教授に就任、99年まで教鞭をとった。 澤村は、教育者であるとともに、研究者として建築史と考古学の狭間とも言うべき研究領域に立って、70年代後半以降急速に拡大した地域開発事業にともなう発掘調査等にも積極的に従事し、検出した建築遺構の平面形式や出土部材の分析などから上部構造を推定し遺跡の性格等について総合的に考察したほか、検出遺構の復元模型の製作にあたっても建築史家として指導的な役割を果たした。調査研究に関わった主な遺跡に、前述の遺跡のほか大宰府政庁、鴻臚館などがある。後者ではともに主要遺構の復元模型製作を手がけ、後の遺跡の調査研究にあたって大きな足跡を残したことでも知られる。 主な著書として、『薬師寺東塔』(奈良の寺10 岩波書店、1974年)、『日本建築史基礎資料集成4 仏堂Ⅰ』(共著、中央公論美術出版、1981年)、『民家と町並み 九州・沖縄』(日本の美術290 至文堂、1990年)、『日本古代の都城と建築』(中央公論美術出版、1995年)、『日本建築史基礎資料集成5 仏堂Ⅱ』(共著、中央公論美術出版、2006年)など多数ある。

辰野登恵子

没年月日:2014/09/29

読み:たつのとえこ  画家で、多摩美術大学教授の辰野登恵子は、9月29日、転移性肝癌のため死去した。享年64。 1950(昭和25)年1月13日、長野県岡谷市に生まれる。68年3月、長野県諏訪二葉高等学校を卒業、同年4月東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻に入学。72年3月、同大学を卒業、同年4月同大学大学院美術研究科油画専攻に進む。74年3月、同大学院修士課程修了。 在学中から、ポップアート、ミニマルアートの隆盛に敏感に呼応しながら、無機的なフォルムの連続のなかに不意にあわわれる差異や断絶を表現した作品(シルクスクリーン等)を発表していた。その後、1980年代から絵画表現に取り組み、絵画の平面性を意識しつつ、断片的で、かつ具体的なフォルムに依拠しながら現代「絵画」の可能性を切り開いていった。その表現とは、当時のニュー・ペインティングの流行とは一線を画して、ミニマルアート以後硬直化した平面表現に、「絵画」を構成する線やフォルム、色彩の持つ本来の豊かさと深さを提示するものであり、新鮮な衝撃をもって注目されるようになった。84年11月、東京国立近代美術館の「現代美術への視点 メタファーとシンボル」展に出品。(同展は、国立国際美術館に巡回)。1989(平成元)年、ゲント市立現代美術館(ベルギー)で開催の「ユーロパリア ’89ジャパン現代美術展」に出品。94年2月、ゲストキューレターにアレクサンドラ・モンローを迎え、企画された横浜美術館の「戦後日本の前衛美術」展(Japanese Art after 1945:Scream against the Sky)に出品(同展は、米国ニューヨークのグッゲンハイム美術館、並びにサンフランシスコ現代美術館を巡回。)同年、第22回サンパウロ・ビエンナーレ(日本側コミッショナー:本江邦夫)に遠藤利克、黒田アキとともに出品。95年9月、東京国立近代美術館にて「辰野登恵子 1986-1995」展を開催。10年間にわたる絵画作品39点等による個展を開催し、現代における「絵画」表現のひとつの指針を示すものとして評価された。翌年、第46回芸術選奨文部大臣新人賞を受賞。2003年、多摩美術大学客員教授となり、翌年から同大学教授となる。12年8月、国立新美術館にて「与えられた形象 辰野登恵子 柴田敏雄」展を開催。翌年、第54回毎日芸術賞受賞。 90年代以降、華やかな色彩と重厚なテクスチャーに支えられた大画面の空間に、球体、矩形、波形等、きわめてシンプルなフォルムの連環を大胆に描き続けていたが、その背後にはプライヴェートなイメージの増幅、変容ばかりではなく、現代美術、あるいは平面表現の動向に対する批判的、戦略的な造形思考と意図がこめられていたといえる。しかも新作においては、つねに新しい試みが示され、今後の可能性を大いに期待されていた。没後、追悼する展示が、下記にあげるように辰野作品を所蔵する公立美術館等で数多く開催された。こうした現象は、美術関係者にとどまらず多くの人々が、辰野の作品に現代における「絵画」表現の可能性を見出しつつ、現在の美術の側から問い直しを促したものであり、いかにその早逝が惜しまれたことがわかる。「辰野登恵子追悼展」(市立岡谷美術考古館、長野県岡谷市、2015年3月6日-5月10日)「トリコロール 辰野登恵子展」(Red and Blue Gallery、東京都中央区、同年9月1日-10月17日)「所蔵作品展 辰野登恵子がいた時代」(千葉市美術館、同年7月7日-8月30日)「MOMASコレクションⅢ 特集展示 辰野登恵子-まだ見ぬかたちを」(埼玉県立近代美術館、同年10月10日-2016年1月17日)「辰野登恵子 版画1972 1995」展(ギャラリー・アートアンリミテッド、東京都港区、2015年12月5日-2016年1月15日)「MOTコレクション コレクション・オンゴーイング 特別展示:辰野登恵子」(東京都現代美術館、2016年3月5日-5月29日)「辰野登恵子 作品展」(ツァイトフォトサロン、東京都中央区、同年3月15日-5月7日)「辰野登恵子の軌跡 イメージの知覚化」展(BBプラザ美術館、兵庫県神戸市、前期同年7月5日-8月7日、後期8月9日-9月19日)「宇都宮美術館コレクション展 特集展示 辰野登恵子 愛でられた抽象」(宇都宮美術館、同年7月31日-9月4日)

河田貞

没年月日:2014/09/17

読み:かわだ さだむ  奈良国立博物館名誉会員の河田貞は9月17日、急性心筋梗塞で死去した。享年79。 1934(昭和9)年12月3日、宮城県に生まれる(本籍は多賀城市)。63年に東北大学大学院文学研究科美術史学修士課程修了ののち、東北大学文学部助手、サントリー美術館学芸員を経て、67年(昭和42)7月1日付で奈良国立博物館に着任、73年4月工芸室長となる。87年4月に学芸課長に昇任。1990(平成2)年3月に奈良国立博物館を辞すまで同館の工芸担当者として正倉院展ほかの重責を担うとともに、同館を研究活動の拠点とした。奈良国立博物館名誉会員。91年より92年まで帝塚山大学教養学部教授を務めた。 河田の専門は日本古代・中世の漆工・螺鈿研究が中心であるが、関連分野としての文様研究はもとより、日本に留まらず広く東アジアを見据えた研究を行った。学術研究の成果として、単著には『絵馬(日本の美術92)』(至文堂、1974年)、『根来塗(同120)』(1976年)、『螺鈿(同211)』(1983年)、『仏舎利と経の荘厳(同280)』(1989年)、『黄金細工と金銅装(同445)』(2003年)、共著に『大和路―仏の国・寺の国 日本の道(1)』(毎日新聞社、1971年)、『弘法大師』(講談社、1973年)、『六大寺大観 西大寺』(岩波書店、1973年)、『春日大社釣灯籠』(八宝堂、1974年)、『日本の旅路 奈良 大仏造立―華麗な天平の遺宝』『同 正倉院の宝物―絹の道のロマン』(千趣会、1975年)、『当麻町史』(同町教育委員会、1975年)、『大和古寺大観4 新薬師寺・白毫寺・円成寺』(岩波書店、1977年)、『同5(秋篠寺・法華寺ほか)』(1978年)、『同7(海住山寺・岩船寺・浄瑠璃寺)』(1978年)、『同2(当麻寺)』(1978年)、『経塚遺宝』奈良国立博物館編(1977年)、『鎌倉室町の美術』(大日本インキ化学工業株式会社、1978年)、『法華寺(古寺巡礼)』(淡交社、1979年)、『新薬師寺(同)』(1979年)、『当麻寺(同)』(1979年)、『西大寺(同)』(1979年)、『興福寺(同)』(1979年)、『東大寺(同)』(1980年)、『法華経の美術』(佼正出版社、1981年)、『高野山のすべて』(講談社、1984年)、『仏舎利の荘厳』(同朋社、1983年)、『高麗・李朝の螺鈿』(毎日新聞社、1986年)、『法華経―写経と荘厳』(東京美術、1988年)、『釈尊の美術(仏教美術入門2)』(平凡社、1990年)、『御物 皇室の至宝』9(毎日新聞社、1992年)などがある。論文も多岐に及んでおり、「牛皮華鬘雑考―旧教王護国寺蔵品を中心として―」『MUSEUM』213(1968年)、「紫檀塗について」『同』318(1977年)、「春日宮曼荼羅舎利厨子と携帯用舎利厨子について」『同』335(1979年)、「正倉院宝物に関連する近年の新羅出土遺物」『同』369(1981年)「忍辱山円成寺の如法経所厨子―如法堂における十羅刹女・三十番神併座方式をめぐって―」『元興寺仏教民俗資料研究所年報』4(1971年)、「春日大社蒔絵笋の意匠」『染織春秋』61(1976年)、「日本における蓮文様の展開」『日本の文様』25(1976年)、「春日大社本殿の絵馬板について」『国宝・春日大社本殿修理工事報告書』(1977年)、「復元太鼓の彩色文様」『春日』20(1977年)、「春日赤童子と稚児文殊と」『同』25(1979年)、「仏舎利荘厳具編年資料(稿)」『一般研究(C)仏舎利荘厳具の研究 報告書』(1979年)、「正倉院宝物とシルクロード」『染織の美』7(1980年)、「称名寺の朱漆塗大花瓶台について」『三浦古文化』28(1980年)、「高麗螺鈿の技法的特色」『大和文華』70(1981年)、「慕帰絵詞にみる調度と器物」『慕帰絵(日本の美術187)』(1981年)、「正倉院宝物とシルクロード―多彩なる西域の影―」『太陽(正倉院シリーズ1)』(1981年)、「「根来」の美」『古美術』59(1981年)、「漆芸における切箔・切金技法」『サントリー美術館二十周年記念論文集』(1982年)、「仏舎利の荘厳・経の荘厳」『仏具大辞典』(1982年)、「和紙文化と仏教」『別冊太陽』40(1982年)、「X線透過写真による漆芸品の考察―仏教関係螺鈿遺品を中心として」『漆工史』3(1982年)、「神馬図絵馬について―春日大社本社神殿絵馬板を中心として―」『悠久』12(1983年)、「弘法大師ゆかりの工芸品」『古美術』67(1983年)、「韓国新安海底発見の遺物から―和鏡・漆絵椀・紫檀材―」『同』70(1984年)、「特別鑑賞 シルクロ-ド大文明展 シルクロ-ド・仏教美術伝来の道」『同』87(1988年)、「天平写経軸弘考」『日本文化史研究』7(1984年)、「二つの片輪車蒔絵螺鈿手箱」『國華』1098(1986年)、「法隆寺法会の楽器―聖霊会関係用具を中心に―」『法隆寺の至宝』10(小学館、1989年)、「長谷寺能満院に伝わる尋尊の四方殿舎利殿」『佛教藝術』86(1972年)、「法華経絵意匠の展開―平家納経経箱の装飾文を中心として―」『同』132(1980年)、「わが国上代の写経軸」『同』162(1985年)、「わが国仏舎利容器の祖形とその展開」『同』188(1990年)、「納経厨子と経櫃」『日本美術工芸』374(1969年)、「藤原時代のガラス(瑠璃)」『同』409(1974年)、「酒器「太鼓樽」」『同』512(1981年)、「シルクロ―ドの残英「金銀花盤」―今年の「正倉院展」から―」『同』614(1989年)、「天平の精華(2)―金銀鈿荘唐大刀と螺鈿紫檀琵琶― 第四十二回正倉院展にちなんで」『同』626(1990年)、「特集・正倉院展(下) 螺鈿紫檀五絃琵琶の語るもの」『同』638(1991年)、「特集・正倉院展(下)称徳天皇奉献の「狩猟文銀壷」」『同』650(1992年)、「正倉院「木画紫壇棊局」雑考」『同』662(1993年)、「「紫檀金鈿柄香炉」をめぐって」『同』674(1994年)、「高台寺蒔絵と桃山の室内装飾」『日本のルネッサンス(下)草月文化フォーラム』(1990年)、「Histolical Background of Japanese Urushi Techniques」『International Symposium on the Conservation and Restoration of Cultural Property - Conservation of Urushi Objects-』(1995年)、「古墳時代の馬具 朝鮮半島から倭国へ」『日本の国宝(週刊朝日百科)』35(1997年)、「瑞巌寺蔵水晶六角五輪塔仏舎利容器について」『東北歴史博物館研究紀要』1(2000年)、「藤原道長による金峯山埋経の荘厳」『帝塚山芸術文化』5(1998年)、「正倉院宝物にやどる国際性」『同』9(2002年)、「法華経の工芸」「高麗美術館研究講座・抄録 法隆寺再建時の仏教工芸品にみる百済・新羅の余映」『高麗美術館館報』87(2010年)など。このほか研究報告として、「調査報告1 玉虫厨子の調査から」『伊珂留我』2(1984年)、「上代における請来仏具の研究(中間報告)」『鹿島美術財団年報 平成2年度』(1991年)がある。また、奈良国立博物館外の展覧会に際して図録に総論・概説・特論を多く執筆している。すなわち「法華経の荘厳」『法華経の美術』(頴川美術館、1978年)、「山王信仰の美術」『山王信仰の美術』(同、1982年)、「西域のいぶき」「さまざまな供養具」『法隆寺 シルクロード仏教文化展』(1988年)、「シルクロードの息吹―法隆寺濫觴期の仏教工芸―」『法隆寺の世界 いま開く仏教文化の宝庫 開館10周年記念展』(大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料、1991年)、「法隆寺における聖徳太子信仰遺品と江戸出開帳の霊仏・霊宝」『法隆寺秘宝―再現・元禄江戸出開帳―展』(サントリー美術館、1996年)、「国宝 梵鐘」『比叡山延暦寺の名宝と国宝梵鐘展』(佐川美術館、1999年)、「金色堂の荘厳」『国宝中尊寺 奥州藤原氏三代の黄金文化と義経の東下り』(同、2004年)、「中国国家博物館所蔵 盛唐期の工芸品と正倉院宝物」『中国国家博物館所蔵 隋唐の美術 正倉院宝物の故郷を辿る展』(同、2005年)などがそれである。そして、14年には愛知県陶磁美術館の企画展「高麗・李朝(朝鮮王朝)の工芸―陶磁器、漆器、金属器―」(会期8月23-10月26日)を監修し、好評を博したが、その開催中の他界となってしまった。

中島徳博

没年月日:2014/08/28

読み:なかじまのりひろ  漫画家の中島徳博は、8月28日、大腸がんのため神奈川県横浜市の病院で死去した。享年64。 1950(昭和25)年7月12日、鹿児島県鹿児島市に生まれる。小学校のとき赤塚不二夫の少女マンガに感動し、漫画家を志す。鹿児島実業土木科2年次在学時に貸本マンガでデビュー。69年に卒業後、大阪にでて看板製作会社に住み込みで働きながら制作を続け、70年「悪友伝」が『週刊少年ジャンプ』(以下『ジャンプ』)の新人賞に準入選し、上京する。『ジャンプ』に72年39号より、遠崎史朗の原作を得て「アストロ球団」の連載を開始、76年26号まで続いた(全5巻、1999年、太田出版)。「超人」たちが繰り広げる「1試合完全燃焼」試合ではクライマックスが毎週のように続く。本作は、「巨人の星」以後の野球漫画に描かれてきた「スポ根」の系譜だが、次第に超人たちの奇想天外なプレイが熱狂的な読者を獲得し、70年代初期の「ジャンプの傑作」である。その後、77年から79年まで、『ジャンプ』に四国土佐を舞台に男気を描いた学園もの『朝太郎伝』(全11巻、集英社、1978年)、77年から79年まで、『月刊少年ジャンプ』にはみ出し刑事のコンビのアクション劇『バイオレンス特急』(全5巻、同、1979年)を発表。青年漫画誌『週刊プレイボーイ』に「バイオレンス・ロマン」をキャッチに九州男児の喧嘩道を描いた『がくらん海峡』(全5巻、集英社、1979年)等を手がけた。中島の漫画は決して洗練された描画とはいえないが、勢いのある画風が特色で、特にアクションシーンのスピード表現における線の重層的な黒さが持ち味である。

米倉斉加年

没年月日:2014/08/26

読み:よねくらまさかね  俳優、演出家で絵本作家としても知られた米倉斉加年は8月26日午後9時33分、腹部大動脈瘤破裂のため福岡市内の病院で死去した。享年80。 1934(昭和9)年7月10日、福岡市に生まれる。戸籍上の本名は米倉正扶三(まさふみ)だが、小学校時代から斉加年を名のる。57年に西南学院大学英文科を中退して上京、劇団民藝の水品演劇研究所に入所し宇野重吉に師事する。59年に劇団青年芸術劇場(青芸)を結成して活躍したが、64年に退団して民藝に戻る。66年にベケット「ゴドーを待ちながら」等の演技で第1回紀伊国屋演劇賞を受賞、74年の金芝河の「銅の李舜臣」以来演出も手がける。88年にも「ドストエーフスキイの妻を演じる老女屋」での演技で第23回紀伊国屋演劇賞を受賞。商業演劇の世界でも、舞台「放浪記」で林芙美子の友人白坂五郎役を長年にわたり演じた。2000(平成12)年に劇団民藝を退団後、07年に劇団海流座を立ち上げ、代表を務めた。映画「男はつらいよ」シリーズやNHK大河ドラマ「国盗り物語」「風と雲と虹と」「花神」等にも出演し、存在感のある演技で広く知られた。 演劇活動の傍ら、生活費の助けとして元々好きだった絵を描くようになり、69年から翌年にかけて月刊誌『未来』に絵と雑文を連載。これが注目され、野坂昭如『おとなの絵草紙 マッチ売りの少女』(1971年)をはじめとする絵本の仕事に携わるようになる。75年には奥田継夫の童話『魔法おしえます』(偕成社)の絵を担当し、翌年のボローニャ国際児童図書展・子供の部でグラフィック大賞を受賞。さらに同年出版、自作の文と絵による『多毛留』(偕成社)が77年の同展・青少年の部でグラフィック大賞を受賞する。竹久夢二の大衆性を愛し、市井に生きる“絵師”を自任、その作風は繊細な描写の中に諷刺の毒を効かせたものであり、英国の画家ビアズリーのそれを髣髴とさせる。画集に『憂気世絵草紙』(大和書房、1978年)、『masakane 米倉斉加年画集』(集英社、1981年)、『おんな憂気世絵』(講談社、1986年)がある。

宮脇愛子

没年月日:2014/08/20

読み:みやわきあいこ  彫刻家の宮脇愛子(本名、磯崎愛子)は8月20日、膵臓がんのため横浜市内の病院で死去した。享年84。 1929(昭和4)年9月20日に生まれる。幼い頃から身体が弱く、戦時中の勤労動員でも自宅療養することが多かったという。また、丈夫になるようにと幾度か名を変えており、幼稚園の頃には貴子、女学校時代までは幹子という名前だった。46年3月小田原高等女学校(現、神奈川県立小田原高等学校)卒業、52年3月日本女子大学文学部史学科卒業。卒業論文では桃山美術を扱った。学生時代には義理の姉であった画家の神谷信子を介して知り合った洋画家・阿部展也のもとへ通っていたというが、親戚に絵描きはひとりでたくさんだといわれていたことから、描いた作品を発表しようという考えはなかったという。53年には文化学院にて阿部に学び、一方で同じく義姉を通じて知り合った美術家の斎藤義重に作品を発表することの意義を諭され、作品は人に見せなければ駄目だと考えるようになる。57年、アメリカへ短期留学し、カルフォルニア大学ロサンゼルス校とサンタモニカ・シティ・カレッジにて絵を学ぶ。59年12月、東京の養清堂画廊にて初の個展を開催。個展には1点を除き同年に制作された作品19点が展観され、絵具にエナメルや大理石の粉末をまぜて作り上げた色面に描線を刻み込む表現は、レリーフや鎌倉彫のようだと評された。同年夏にはインドを経由してウィーンを訪れ世界美術家会議に参加、その後ミラノに滞在した。ミラノでは阿部の紹介でエンリコ・バイが保証人になったといい、フォンタナら若い芸術家グループと親交を持ったという。61年ミラノのミニマ画廊にて個展開催、翌62年1月には日本での2度目となる個展を東京画廊にて行った。絵具に大理石の粉を混ぜ、同じようなパターンをパレットナイフで画面に並べていくという方法で描かれた作品は、このとき来日していたフランスの画商、アンドレ・シュレールの目に留まり、宮脇はシュレールと契約、1年間パリに滞在して作品制作と個展を行った。パリではマン・レイらと交際し、63年、パリからの帰国に際して立ち寄ったニューヨークにそのまま滞在、66年帰国した。この間、64年にはニューヨークのベルタ・シェーファー画廊にて個展を開催、そのときのカタログにはマン・レイが序文を寄せている。66年11月には銀座・松屋で開かれた「空間から環境へ」展へ出品、このとき初めて磯崎新と知り合う。展覧会へは三角形を重ね合わせ、平面における遠近法を立体で表現したような作品を出品。また、同じ頃より真鍮のパイプを用いた作品の制作を開始、67年3月には東京画廊にて個展を行った。真鍮の角筒や円筒を組み合わせ、人工照明ないしは自然光による光の効果を演出した作品には、油彩により平面に光が分布する状態を捉えようとしていたという以前の作品からの立体への展開が見られるとされた。同年10月にはアメリカのグッゲンハイム美術館で開催されたグッゲンハイム国際彫刻展へ出品、真鍮の角筒を組み合わせた作品は美術館買い上げ賞に選ばれる。翌68年11月、第5回長岡現代美術館賞展へ音の出る作品「振動」を出品、70年5月には60年代の総決算となる個展をポーランドのウッジにて開催した。また、この頃宮脇は素材によってテーマを決めて制作をしていたといい、ガラスの透明感を損なわないため切るのではなく割るという方法を採った「MEGU」シリーズや、三角形の金属や石の板に展覧会をする国の言葉で「Listen to your portrait」と刻んだ「Listen to your portrait」シリーズを制作している。72年、建築家の磯崎新と結婚。同年、辻邦生『背教者ユリアヌス』で初めて装丁を手がけた。76年9月には東京のギャラリー・アキオにおいて個展を開催、翌77年には第7回現代日本彫刻展へ三角柱を三つに割り、距離をとって三角形に配置した「MEGU-1977」を出品、北九州市立美術館賞を受賞。またこの頃には、精神的な行き詰まりから写経をするような気持ちで描いていたという「スクロール・ペインティング」シリーズが制作されている。78年10月には磯崎新の指揮の下、パリのルーヴル宮殿内にある装飾美術館で開催された「日本の時空間―」へ参加、「うつろい」をテーマとした部屋で、後に「A Moment of Movement」と題された、真鍮の屏風のような作品を展示した。その後、ニューヨークのポート・オーソリティから彫刻のコンペティションに招待されたのを機に、虚空に線を描くかのようにのびのびとした自由な魂、中国語でいう「気」を表したいと実験的な制作を繰り返し、79年12月の東京画廊における小品展へその模型を出品、翌80年3月、愛知県一宮市の彦田児童公園に、後に宮脇の代名詞ともなる「うつろひ」シリーズの第1作目となった「UTSUROI」が設置された。このときの作品は2本のパイプを撓わせたもので、工場であらかじめつくったものを設置したという。5月には名古屋のギャラリーたかぎで「宮脇愛子1960-1980」が開催、新作として、ステンレスワイヤーで先の「UTSUROI」とほぼ同じ形の作品を展示する。このときには素材をワイヤーに変更したため、設置は会場において宮脇自身の手で行われた。81年7月、第2回ヘンリー・ムア大賞展へ12本のワイヤーからなる「うつろい」を出品、エミリオ・グレコ特別優秀賞受賞。82年には第8回神戸須磨離宮公園現代彫刻展にて「うつろい」で第1回土方定一賞を、86年には第2回東京都野外現代彫刻展にて「うつろひ」で東京都知事賞をそれぞれ受賞。85年にはパリのジュリアン・コルニック画廊で個展を開催する。この個展をきっかけに、ラ・デファンス地区のグランダルシュ(新凱旋門)そばの広場に「うつろひ」を設置することとなり、1989(平成元)年に完成。翌90年には、92年のバルセロナオリンピックへ向けて磯崎新の設計で建てられたサンジョルディ・スポーツ・パレス前の広場にも「うつろひ」が設置された。94年には磯崎新の設計による岡山県の奈義町現代美術館に、荒川修作、岡崎和郎とともに作品を設置。97年、突然病に倒れるが、翌98年に神奈川県立近代美術館で開催された個展には、「うつろひ」を新たに水墨で表現した連作を制作、出品する。2001年には奈義町現代美術館において「墨によるうつろひドローイング 宮脇愛子展」が開催された。12年にはギャラリーせいほう、ときの忘れものの二会場にて59年から70年代の作品に焦点を絞った個展を開催、14年3月にはカスヤの森現代美術館にて個展を開き、初期の作品から最新の絵画作品までが展観された。 絵画から彫刻へ、油彩から真鍮、ガラス、スチールワイヤーへとその技法や素材をさまざまに展開させた宮脇だが、「しつこいくらいに一生貫き通す自分の思想がなければ、アーティストとはいえないでしょうね。」と語っているように、一貫して同じコンセプト、宮脇のいう「あらぬもの」を見ようとする姿勢で制作を続けた。

元村和彦

没年月日:2014/08/17

読み:もとむらかずひこ  出版社邑元舎を主宰し、写真集の出版を手がけた写真編集者の元村和彦は、8月17日に死去した。享年81。 1933(昭和8)年2月11日佐賀県川副町(現、佐賀市)に生まれる。51年佐賀県立佐賀高等学校を卒業後、国税庁の職員となり佐賀、門司、武蔵野、立川、世田谷の各税務署に12年にわたって勤務する。60年、東京綜合写真専門学校に3期生として入学、卒業後引き続き1期生として同校研究科に進み、校長の重森弘淹、教授を務めていた写真家石元泰博らに師事した。 70年、W.ユージン・スミスが日本で取材した際に助手を務めた写真家森永純の紹介で、スミスと知り合い、スミスの写真展「真実こそわが友」(小田急百貨店他)の企画を手がけた。同年秋に渡米、スミスの紹介で写真家ロバート・フランクを訪ね、写真集出版を提案し同意を得る。71年、邑元舎を設立し、72年10月、『私の手の詩 The Lines of My Hand』を刊行。杉浦康平が造本を手がけた同書は、フランクの16年ぶりの写真集として国内だけでなく海外でも広く注目され、後に一部内容を再編したアメリカ版およびヨーロッパ版が刊行された。その後フランクの写真集としては、87年に『花は…(Flower Is…)』、2009(平成21)年には『The Americans, 81 Contact Sheets』を刊行した。邑元舎からは他に森永純写真集『河―累影』(1978年)が出版されている。97年、邑元舎の出版活動に対して、第9回写真の会賞を受賞。 20世紀後半の最も重要な写真家の一人であり、58年の写真集『アメリカ人』が、その後の写真表現に大きな影響を与えたにもかかわらず、映画製作に移行して写真作品を発表していなかったロバート・フランクに、元村は新たな写真集を作らせ、結果的にフランクに写真家としての活動を再開させることになった。これは写真史上、特筆すべきものである。フランクとの親交は生涯にわたって続き、写真集の原稿として提供されたものの他、折に触れてフランクより贈られた作品等により形成された元村のフランク作品コレクションは、元村の晩年、東京、御茶ノ水のギャラリーバウハウスにおける数次にわたる展示で紹介され、その中核である145点の作品が、16年に東京国立近代美術館に収蔵された。

高村規

没年月日:2014/08/13

読み:たかむらただし  写真家の高村規は、8月13日心不全のため死去した。享年81。 1933(昭和8)年5月15日東京市本郷区駒込林町(現、文京区千駄木)に生まれる。父は鋳金家高村豊周、祖父は彫刻家高村光雲、彫刻家で詩人の高村光太郎は伯父。58年日本大学芸術学部写真学科卒業。在学中の56年に高村光太郎が死去、翌年開催された「高村光太郎遺作展」(三越日本橋本店)のために、初めて光太郎の彫刻作品を撮影する。同じく57年に刊行された彫刻写真集『高村光太郎』(高村豊周他編、筑摩書房)の写真を担当、筑摩書房嘱託となり、雑誌『太陽』のグラビア撮影などを担当する。大学を卒業した58年より伊藤憲治デザインルームに勤務、59年よりフリーランスとなる。広告やファッションなど幅広い仕事を手掛ける一方、日本広告写真家協会には設立初期より加わり、後に同協会副会長(1985-89年)、会長(1998-2002年)を歴任、日本写真協会理事(1999-2003年)を務めるなど写真業界団体における活動にも尽力した。また71年より長く金沢美術工芸大学で非常勤講師として教鞭を執った。 美術作品の撮影にも取り組み、とくに全作品の撮影を担当した『高村光太郎彫刻全作品』(六耀社、1979年)や『光太郎と智恵子』(共著、新潮社、1995年)などの高村光太郎・智恵子夫妻に関する写真の仕事の他、父、祖父の仕事を集成する『高村豊周作品集 鋳』(筑摩書房、1981年)、『高村規全撮影 木彫 高村光雲』(中教出版、1999年)などの写真集を上梓、また「高村光太郎 彫刻の世界」展(銀座和光、1981年)、「光太郎の巴里」(キヤノンサロン、東京、大阪、福岡他、1989年)、「木彫 高村光雲」(文京シビックセンター、2003年)などの個展を開催するなど、高村家の芸術家をめぐる撮影をライフワークとして数多く手掛け、75年以来、高村光太郎記念会理事長も務めた。 2004(平成16)年旭日小綬章を受章。また同年文京区区民栄誉賞を受賞した。

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