榮久庵憲司 (えくあんけんじ)

没年月日:2015/02/08
分野:, (デ)

 インダストリアル・デザイナーの榮久庵憲司は、2月8日洞不全症候群のため死去した。享年85。
 1929(昭和4)年9月11日、東京に生まれる。父・鉄念は広島の永久寺の僧侶で、その関係で幼少期をハワイで過ごす。37年帰国。広島の海軍兵学校を出て応召、復員した後に仏教専門学校に入るが中退し、50年東京藝術大学工芸科図案部に入学する。その頃、広島に民間情報教育局のCIE(アメリカ文化センター)図書館が設置され、借り出したウォルター・ドーウィン・ティーグの『デザイン宣言』やレイモンド・ローウィの『口紅から機関車まで』などを翻訳しながら読み込み、インダストリアル・デザインを学んだ。52年同大学工芸科助教授の小池岩太郎(インダストリアル・デザイナー)のもとで、岩崎信治、柴田献一、逆井宏らとGK(Group of Koike)インダストリアル研究室を結成し、毎日新聞社が主催し初めて公募した第1回新日本工業デザインコンペティションに応募するなど、デザイン活動を始める。54年第3回同コンペで特選3席入賞、翌年第4回同コンペでは特選1席、2席、3席を受賞して注目を集めた。55年東京藝術大学を卒業してGK事務所を新宿区下落合に構える。同年ヤマハ発動機が設立され、オートバイ1号機である「YA-1」をデザインし、以降、「VMAX」等のオートバイのデザインを手がける。56年海外貿易振興会(現・ジェトロ)のデザイン留学派遣募集に合格し、ロサンゼルスのアートセンター・カレッジ・オブ・デザインで1年間自動車デザインを学んだ。1957年有限会社GKインダストリアルデザイン研究所を創立して代表取締役所長となり、以降、プロダクトから万博や市街地のサイン計画、「成田エクスプレスN’EX」(2009年)等、実に広域のデザイン分野で活躍するGKデザイングループを世界最大規模へと発展させた。そして、戦後の社会・生活の復興のなかで誰もが美しいデザインを享受できる「モノの民主化」「美の民主化」を原点に唱えて、野田醤油株式会社(現、キッコーマン)「しょうゆ卓上びん」(1961年)をはじめ、多数の一般家庭用の生活用具のデザインに携わる。59年建築家や都市計画家の川添登菊竹清訓黒川紀章らが結成したメタボリズム・グループに参加。60年東京で世界デザイン会議のテーマ実行委員長を務め、62年には日本インダストリアルデザイナー協会(JIDA)理事、70年理事長就任、70年大阪の日本万国博覧会でストリート・ファニチュアの統括責任を担当、1989(平成元)年名古屋の世界デザイン博覧会でも総合プロデューサーを務めるなど、戦後日本の工業デザインの牽引役となりその発展の重要な役割を担った。98年世界デザイン機構を設立し初代会長に就任。著作『道具考』(鹿島研究所出版会、1969年)や『インダストリアル・デザイン』(日本放送出版協会、1971年)を刊行するなど、こころとこと、ものとを三位一体に融合させるデザイン学や道具学といったデザインの領域を押し広げその理論の体系化や推進に尽力した。『デザイン』(日本経済新聞社、1972年)、『日本的発想の原点 幕の内弁当の美学』(ごま書房、1980年)、『道具の思想―ものに心を、人に世界を』(PHP研究所、同)、『モノと日本人』(東京書籍、1994年)等の多数の著作を発表した。人間と道具の関わりへの思いを深めて、2000年に『道具論』(鹿島出版会)を刊行し、未来へ向けたものづくり日本の精神の復権を念じた道具寺道具村建立を掲げて自らのデザイン思考を明らかにした。06年東京新宿・リビングデザインセンターOZONEで「道具寺道具村建立縁起展」開催。13年世田谷美術館「榮久庵憲司とGKの世界――鳳が翔く」展、14年広島県立美術館「広島が生んだデザイン界の巨匠 榮久庵憲司の世界展」を開催。79年国際インダストリアルデザイン団体協議会のコーリン・キング賞や93年JIDA大賞を受賞、97年フランスの芸術文化勲章、00年勲四等旭日小綬章を受章、14年イタリアからデザイン界のノーベル賞といわれるコンパッソ・ドーロ(黄金のコンパス賞)国際功労賞を受賞するなど、戦後日本のデザイン界の発展及びその国際化とともに国際的なデザイン界の振興に尽力した功績が高く評価された。

出 典:『日本美術年鑑』平成28年版(528-529頁)
登録日:2018年10月11日
更新日:2019年01月23日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「榮久庵憲司」が含まれます。
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