米坂ヒデノリ
思索的な彫刻を制作し続けた米坂ヒデノリは4月1日、肺炎のため死去した。享年82。
1934(昭和9)年釧路市の母の実家で生まれる。本名英範。北海道立釧路江南高等学校在学中の48年第5回全道展に油彩画「追憶」で入選。翌年の第6回同展に油彩画「思惟の軌跡」で入選。52年江南高等学校を卒業して上京し、蕨研究所を経て阿佐ケ谷美術研究所に学ぶ。53年4月東京藝術大学彫刻科に入学。菊池一雄研究室で学ぶ。56年第11回全道展に「トルス」(彫刻)で入選、また第20回自由美術展に「箝」で初入選。57年3月東京藝術大学彫刻科を卒業。卒業制作は等身大の「裸婦立像」であった。同年、母の死去により釧路市に戻り、北海道在住の彫刻家床ヌプリから木を贈られて木彫を手がけるようになる。全道展に「トルソ」「臥」、第21回自由美術展に「立」を出品。58年第13回全道展に東京藝術大学卒業制作「裸婦立像」を出品して北海道知事賞を受賞して北海道の若手作家として注目される。翌年全道美術協会会員に推挙され、81年に退会するまで同展に出品を続ける。61年第25回自由美術展に「開拓者」「呼ぶ」「妻」を出品して同会会員に推挙される。両手を口に当て、上半身をやや前かがみにした立像「呼ぶ」は峠三吉の詩「人間をかえせ」に触発された作品で、現代社会への批判が込められている。71年第35回自由美術展に一枚の板の上に横たわる抽象化された人体像を表した「北の柩」を出品して自由美術賞受賞。77年釧路短期大学教授となる。同年北海道文化奨励賞受賞。82年第5回北海道現代美術展に「海の詩」を出品して北海道立近代美術館賞を受賞。同年9月釧路市民文化会館で個展を開催し、12月には北海道生活文化・スポーツ海外交流事業により1ヶ月半ほどイタリアに学ぶ。86年北海道立旭川美術館で個展を開催。87年北海道空知管内栗山町に芸術文化推進員として移住し、アトリエ兼美術館「忘筌庵」を開設。晩年は釧路市に戻った。88年栗山町開基100年記念モニュメント「呼ぶ」を設置。1990(平成2)年4月札幌芸術の森美術館にて「米坂ヒデノリ 漂泊する魂の軌跡」展を開催。2005年10月には釧路市立美術館で「art spirit くしろの造形4 米坂ヒデノリ」展が開催され、同展図録に詳細な年譜が掲載されている。同年北海道文化賞受賞。09年道功労賞を受賞し、同年釧路芸術館で「米坂ヒデノリ オーケストラ展」が、14年釧路市民文化会館で個展が開催された。生涯を通じて殉難者や先住者への鎮魂が造形の背景にあり、1970年代前半までの作品には思索的主題を込めた人物全身像が多く、70年代後半からは抽象的な形体への模索がうかがえる。80年代には複数の個体を組み合わせた作品も造られるようになった。初期から野外彫刻も制作し、東京の最高裁判所大ホール「神の国への道」、釧路市民文化会館前の「凍原」、オーケストラの大作「ミュージアム(頌韻)」などで知られる。文章もよくし、新聞等にも連載をしており、著書『彫刻とエッセイ集―間道を行け』(北海道新聞社、1982年)も刊行されている。
登録日:2019年10月17日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)
例)「米坂ヒデノリ」『日本美術年鑑』平成29年版(538頁)
例)「米坂ヒデノリ 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/818696.html(閲覧日 2024-12-02)
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