本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





大野玄妙

没年月日:2019/10/25

読み:おおのげんみょう  第6代聖徳宗管長、法隆寺第129世住職の大野玄妙は肺がんのため10月25日に死去した。享年71。 1947(昭和22)年12月22日、大阪に生まれる。父は法隆寺第106世住職を務めた大野可圓。3歳で法隆寺に入り、57年に9歳で得度する。上宮高校を経て70年3月、龍谷大学文学部仏教学科を卒業し、72年3月、同大大学院修士課程を修了。龍谷大学では仏教学の泰斗・武邑尚邦に師事、学部から大学院にかけての研究テーマは『勝鬘経』と、聖徳太子による注釈書『勝鬘経義疏』だった。 82年聖徳宗庶務部長・法隆寺執事補に就任、83年法隆寺執事、1992(平成4)年聖徳宗教学部長・法隆寺保存事務所所長補佐、93年聖徳宗宗務所長・教学部長・法隆寺執事長・法隆寺昭和資財帳編纂所所長、99年4月に聖徳宗第6代管長・法隆寺第129世住職に就任した。 長年にわたって法隆寺に伝わる文化財の保護活動に尽力し、2015年12月には建築史や美術史、保存科学などの専門家によって構成される「法隆寺金堂壁画保存活用委員会」を設立。1949年に火災によって焼損して以来、原則的に非公開であった旧金堂壁画の科学調査を進め、将来的な一般公開を目指す方針を示した。在職中には寺宝である百済観音像を23年ぶりに東京国立博物館での展覧会に出陳する決断を下すなど、文化財の公開によってその意義と保存の必要性を世に訴えた(展覧会は2020年「法隆寺金堂壁画と百済観音」として開催予定だったが長期休館によって中止された)。2002年5月に発足した「文化遺産を未来につなぐ森づくり会議」の共同代表になるなど、伽藍や文化財の修理・保存に関わる木造文化の継承活動にも取り組んでいた。 法隆寺では81年から宝物の目録作成を目的として「法隆寺昭和資財帳」の事業が開始され、全十五巻の冊子が刊行された(『昭和資財帳 法隆寺の至宝』小学館、1985~99年)。97年にはこの事業を継承して「法隆寺史編纂委員会」が発足し、近・現代までを網羅した法隆寺の通史の編纂体制が整えられた。大野は住職に就任して以来、体制強化を図るなど事業に熱心に取り組み、2018年には『法隆寺史 上―古代・中世―』(思文閣出版)が刊行された。

木幡和枝

没年月日:2019/04/15

読み:こばたかずえ  アート・プロデューサーで東京藝術大学名誉教授の木幡和枝は4月15日、上部消化器の多量出血で死去した。享年72。 1946(昭和21)年7月26日、東京都に生まれる。69年に上智大学文学部新聞学科を卒業後、TBSブリタニカ、工作舎での編集者として活動。工作舎で手がけた『スーパーレディ1009』(1977年)での取材が縁で、草間彌生に執筆を促し長編小説『マンハッタン自殺未遂常習犯』(1978年)の刊行となる。70年代より音楽、舞踊の公演や美術展等を企画し、とくに舞踊家の田中泯の海外活動プロデュースに参加。当時の現代美術の動向として、作品の収蔵や保存、売買を目的とせずインスタレーションやパフォーマンス等の場を提供するオルタナティヴ・スペースが出現していたが、これを受けて82年、木幡は東京、中野富士見町に日本のオルタナティヴ・スペースの先駆となるplan-Bを田中泯と設立、アーティストの自主管理による共同スペースとして美術や音楽、演劇といった、あらゆる表現の実験的追求をテーマに実行委員会方式で企画を展開する。また海外でも、オルタナティヴ・スペースの主導者で、70年代より木幡と親交のあったキュレーターのアラナ・ハイスが発足させたニューヨークのP.S.1コンテンポラリー・アート・センター(2000年にニューヨーク近代美術館と提携しMoma P.S.1と改称)の客員キュレーターを85年より務める。88年には、田中泯が身体気象農場として農場と舞塾を開いていた山梨県白州町(現、北杜市)で「白州・夏・フェスティバル」(後に「アートキャンプ白州」、「ダンス白州」と改称)を開始、その事務局長・実行委員を務めた。同フェスティバルは農山村の住民と積極的に交わりながら現地の建物や風景を劇場に、町全体を美術館にする試みで、舞踊、音楽、映像等のプログラムを展開する他、plan-Bの実行委員でもある美術家の榎倉康二、高山登、原口典之らにより町内の各所で野外展示が行なわれた。2000年より東京藝術大学先端芸術表現科教授、03年より同大学美術学部美術研究科修士課程教授を兼任。同大学先端芸術表現科では米の美術家ゴードン・マッタ=クラークの検証プロジェクト等を通して、美術館等の既成のシステムから解き放たれた「場所に拝跪しないアート」を指導。05年の愛知万国博覧会では「地球市民村」のアドバイザリー・プロデューサーを務めた。米国の作家で批評家のスーザン・ソンタグと親交を結び、その著作等、翻訳を多数手がけたことでも知られ、ジャーナリスト、批評家としても幅広く活動した。14年東京藝術大学名誉教授となる。没後の19年9月から10月にかけて、その設立に関わったplan-Bにて木幡を追悼し、高山登展覧会「地下動物園」が開催された。

明珍昭二

没年月日:2018/10/26

読み:みょうちんしょうじ  株式会社明古堂設立者で仏師・修理技術者の明珍昭二は10月26日に死去した。享年91。 1927(昭和2)年7月29日、奈良県奈良市高畑町に明珍家の五男として生まれる。父の明珍恒男は明治から昭和にかけて数多くの仏像修理を手がけ、奈良県美術院主事を務めた。40年3月、恒男が死去。44年3月に大阪府立四条畷中学校(現、大阪府立四条畷高等学校)を卒業し、4月、南満州鉄道株式会社に就職する。45年8月、満州にて終戦を迎え、46年に帰国した。47年4月、東京美術学校(現、東京藝術大学)彫刻学科に入学し、彫刻家・平櫛田中の指導を受ける。52年3月、同大学を卒業。同年7月には鎌倉・覚園寺で美術院が行っていた木造薬師三尊像・十二神将像の修理作業に参加し、修理者としての道を歩むようになる。同じ頃、修理の仕事と並行して世田谷区立中学校(梅ヶ丘・駒留・砧)にて美術の非常勤講師として勤務する。彫刻史研究者の丸尾彰三郎・西川新次らの勧めによって、次第に指定文化財の仏像修理に携わるようになり、64年6月には株式会社明古堂を設立。当初は合成樹脂を用いて仏像などのレプリカ制作を行う会社であったが、第一次オイルショックの影響で原材料の入手が難しくなって以降は仏像修理に専念することになる。 修理技術者として、生涯にわたって数多くの指定文化財の修理を手掛けた。主な修理作品に、千葉・観音院阿弥陀如来坐像(千葉県指定文化財)、東京・浄真寺五劫思惟阿弥陀如来坐像(世田谷区指定文化財)、静岡・桑原薬師堂阿弥陀如来坐像および両脇侍像(重要文化財)、千葉・正延寺五智如来坐像(千葉県指定文化財)、千葉・迎接寺阿弥陀如来坐像及び両脇侍像(千葉県指定文化財)、北海道・宗圓寺五百羅漢像(北海道指定文化財)など。また、神奈川・宝樹院阿弥陀三尊像(神奈川県指定文化財)や、福島・泉竜寺十一面観音菩薩立像(福島県指定文化財)、鎌倉国宝館(旧辻薬師堂)・十二神将立像(神奈川県指定文化財)、神奈川・寶金剛寺不動明王および二童子立像(神奈川県指定文化財)など、明珍が解体修理を行った過程において像内銘記や納入品が発見された作例も少なくない。 1989(平成元)年から90年にかけては、火災に遭った東京・寛永寺開山堂(両大師)天海僧正坐像の修理を行い、「大仏師」の称号を授与された。95年10月、長年の文化財保護の功績により文化庁長官表彰を受ける。

星忠伸

没年月日:2018/07/14

読み:ほしただのぶ  東京日本橋の一番星画廊の創業者で美術商の星忠伸は癌のため7月14日死去した。享年71。 1947(昭和22)年12月5日、福島県双葉郡広野町に生まれる。福島県立勿来工業高等学校を卒業後、幼い頃から好きだった絵を学ぶため、京都市立芸術大学への入学をめざし京都に移り住む。新聞配達をしながら受験勉強に励んだものの進学に至らず、当時面識を得ていた画家の福田平八郎の助言により、画商として身を立てることを決心し、上京する。67年から銀座の石井三柳堂に勤務し、中川一政をはじめ多くの画家と出会う。72年、自宅営業の美術商として開業する。77年、作家で僧侶の今東光を通じて美術史家の田中一松と知り合う。星と田中はたまたま近所に住んでいたことから、これ以後、星は83年に田中が亡くなるまで、日常的に田中の運転手役を買って出るなど親交を深め、田中から古美術の手ほどきを受け、その後の星の仕事にも大きな影響を与えたという。一番星画廊が関わった山形県酒田市の本間美術館での展覧会の仕事なども、田中が同館の相談役を務めていた機縁によるという。 87年、古美術商の組田昌平の協力のもと、東京日本橋に株式会社一番星画廊を設立し、公立美術館への作品納入を中心に画廊経営をおこなう。屋号の「一番星」は中川一政の命名によるもので、開廊記念として中川一政展を開催した。看板とした墨書「一番星」も中川一政の印象的な書風が今なお輝かしく、画家と画商のあいだの豊かな親交を物語っている。星は、第一線で活躍する画家のスケッチ旅行の運転手としてその制作を手助けする一方、若い駆け出しの画家を温かく励まし支援するなど、星の明るい人柄とやさしさ、機転の利いた行動力をうかがわせるエピソードを数々の画家や美術関係者が伝えている。1996(平成8)年から2010年にかけて、日本画家・小泉淳作による建長寺法堂天井画および建仁寺法堂天井画の雲龍図や東大寺本坊障壁画等の制作プロジェクトに関わった。星は絵をこよなく愛し、自分がほれ込むような絵を描く画家を大切にしてきた。病を得て、入院先の病室でも小品の絵を賞翫していたという。2020(令和2)年2月29日から3月12日に、星を追悼して「よいの明星」展が一番星画廊にて開催され、親交のあった画家や大寺院の僧侶、美術関係者らの追悼文が寄せられた小冊子が発行されている。

福富太郎

没年月日:2018/05/29

読み:ふくとみたろう  美術品蒐集家の福富太郎(本名、中村勇志智)は5月29日死去した。享年86。 1931(昭和6)年10月6日、東京・大井町に生まれる。幼いころから父親と叔父が絵の話をしているのをそばで聞いて育ち、3歳の頃には父親が買って見せてくれた鏑木清方の作品に心打たれる経験をする。小学校時代には小説に興味を持ち、商店であった親戚の家で店員たちが読んでいた本や雑誌の挿絵をとおして、鏑木清方をはじめ、池田蕉園・輝方、北野恒富らを知る。太平洋戦争が勃発すると少年飛行兵を志すようになり、また同じ頃には靖国神社の遊就館で戦争画に触れ、いつか蒐めたいという思いを抱くようになった。43年頃には強制疎開で中延へと移り、44年小学校を卒業すると東京府立園芸学校へ進学する。同年12月父親が亡くなり、翌45年5月24日の空襲で自宅も焼失。このとき父親が大切にしていた清方の絵が焼けてしまい、また残った作品も生活のために手放してしまったという。福富は後年、絵を買うようになった背景には、その贖罪の意識も少なからずあったと語っている。47年秋に園芸学校を中退した福富は、銀座通りでたまたま目にした「カウンター・ボーイ募集」の広告に応募し、ニューギンザ・ティールームという喫茶店で働きはじめる。その後49年9月に新宿のキャバレー、新宿処女林のボーイとなり、57年11月神田今川橋に巴里の酒場(21人の大部屋女優の店)というキャバレーを開店して独立、64年9月には銀座八丁目に銀座ハリウッドをオープン、全盛期には直営店29、チェーン店15を誇ったという。 福富が初めて美術品をコレクションしたのは20歳のとき。勤めていた新宿のキャバレーの支配人に抜擢され、その際の臨時収入で清方の「祭さじき」を購入したのがはじまりであった。福富は美人画について、ただ綺麗なだけの絵には興味がなく、時代時代の世相を反映した、現実の生活を生きているような女性像を蒐めたいと語っている。50年代後半からは浮世絵の蒐集に着手するも、そのころにはすでに浮世絵の流通も落ち着き、思うように蒐集が進まなかったことから、福富は謎の浮世絵師とされていた写楽に目をつけ、その謎解きに邁進。写楽と司馬江漢とを結びつけるアイデアをまとめ、69年10月『写楽を捉えた』(画文堂)を刊行した。その一方で、福富の関心は次第に浮世絵版画から一点ものの肉筆浮世絵、さらには近代美術へと移っていく。63年にはたまたま手に入れた恵比寿と大黒を描いた掛軸が河鍋暁斎のものであったことから、暁斎作品の蒐集に乗り出し、1年で140~150点ほどを蒐めたという。翌64年には鏑木清方の作品を、市場に出たものは一本たりとも逃すまいという気構えで本格的に蒐めはじめる。同じ頃には池田蕉園・輝方夫妻の作品も蒐集しはじめるが、当時はまだその名を知る人も少なく、競争相手はほとんどいなかったという。また明治100年の回顧ブームで明治の洋画を目にする機会が増え、その魅力に惹かれていた福富は、64年に日動画廊がオープンしたのをきっかけに洋画のコレクションを開始、同画廊から吉田博の「笹川流れ」をはじめ、のちの福富洋画コレクションの核となる明治中期の作品を購入した。67年にははじめて鏑木清方を訪問、それまでに蒐めた清方作品を披露する。なかでも「薄雪」は清方自身焼けてしまったと思っていたこともあり、心底驚かれたという。以来福富は清方の作品が手に入ると、持参して披露するようになった。73年12月には岡田三郎助の「あやめの衣」を購入。同作はある銀行へ顧客から持ち込まれたものであったが、女性像は買わないとする銀行の方針によって、福富のもとへ持ち込まれたものであった。「あやめの衣」は切手にもなり、福富コレクションのなかでもよく知られた作品であったが、福富は熟慮の末、この作品を1997(平成9)年に手放している。その背景には、愛蔵する作品は大切に次の世代へ伝えたいという思い、絵という財産は預かっているだけで個人のものではなく、出来るだけ多くの人に見てもらい、絵の管理者として相応しい人物に持っていてもらうべきという思いがあったという。そのため公開にも積極的で、73年1月に「福富太郎コレクション 日本の美人画展」(新宿・伊勢丹)、82年1月に「異色の日本美術展」(東京セントラル美術館)、93年1月に「描かれた美しき女性たち 近代美人画名作展―福富太郎コレクション―」(銀座・松坂屋)、98年1月に「近代日本画に見る 美人画名作展 耽美の時―福富太郎コレクション」(大阪・ナビオ美術館)等を開催している。 著書に『絵を蒐める 私の推理画説』(新潮社、1995年)、『描かれた女の謎 アート・キャバレー蒐集奇談』(新潮社、2002年)等がある。

山岸享子

没年月日:2018/03/15

読み:やまぎしきょうこ  写真キュレーターの山岸享子は3月15日、大腸がんのため死去した。享年78。 1940(昭和15)年2月8日神奈川県三浦郡三崎町(現、三浦市三崎)に生まれる。旧姓洞外(とうがい)。61年東洋女子短期大学英語科卒業。写真家中村正也のスタジオスタッフを経て、64年より67年まで『カメラ毎日』の編集部に勤務、取材や執筆も含む編集作業に携わる。68年同誌の編集者であった山岸章二と結婚。60年代末より語学力を活かして山岸章二の海外での活動をサポートするようになる。特に「New Japanese Photography」(ニューヨーク近代美術館、1974年)や「Japan:A Self―Portrait」(国際写真センター、ニューヨーク、1979年)など、山岸章二が企画に関わった展覧会に携わることで、美術館がコレクションするなど、写真が芸術の一ジャンルとして扱われ、質の高いオリジナル・プリントによる展示が開催されていたアメリカ写真界の実情に触れるとともに、現地の写真家や写真関係者に広く知遇を得る。 独立して写真プロデューサーとして活動していた山岸章二が79年に死去した後は、その事務所を引き継ぐかたちで、写真展や写真集の企画などを手がけた。中でもアメリカを中心とした海外の写真を紹介する展覧会に数多く携わり、その主なものとして、「20世紀の写真:ニューヨーク近代美術館コレクション展」(西武美術館、東京、1982年)、「リー・フリードランダー展」(有楽町アート・フォーラム、1987年)、「表現としての写真150年の歴史」(セゾン美術館、東京、1990年)などがある。また写真集のプロデュースにおいては、質の高い海外の写真集の出版事情に通じ、その見識を活かした高いクオリティの写真印刷による出版を実現したことで知られる。その代表的なものに江成常夫『まぼろし国・満洲』(新潮社、1995年)、新正卓『沈黙の大地/シベリア』(筑摩書房、1995年)がある。 1990(平成2)年にはJ.ポール・ゲティ美術館より助成を受け、同館にて滞在研究するとともに日本の現代写真に関する講演を行った。93年から武蔵野美術大学映像学科で非常勤講師として現代写真論の講義などを担当(2008年まで)。93年から2008年まで写真の町東川賞審査員を務めた。 多年にわたり日本の写真の海外への発信や海外の同時代の写真の国内への紹介などを通じて日本の写真文化の発展に貢献した功績に対して、12年、第62回日本写真協会賞国際賞を受賞した。

白田貞夫

没年月日:2017/08/12

読み:しろたさだお  シロタ画廊主の白田貞夫は8月12日、都内の聖路加国際病院で肺がんのため死去した。享年84。 1933(昭和8)年6月26日山形県生まれ。学業修了後、日産自動車に務める。もの書きを目指すうち、武蔵野美術大学油絵科卒業の英子夫人と知り合い、66年3月15日、中央区銀座3丁目5番15で開廊。版画は小さなスペースでも数多く扱えるため、版画を中心に扱うこととした。画廊のマークは具体のメンバーでもあった岡田博による。70年、常設展示のスペースを確保するため、銀座7丁目10番8に移転する。以後、国内外の作家が発表を行なってきた地下の空間は、版画家だけでなく、若手を含め多くの作家の寄りどころとなってきた。69年の福地靖の詩画集の刊行以来、2003(平成15)年までプロデュースした版画集は45集にのぼり、美術界に着実な軌跡を残してきた。画廊で発表をしてきた作家に、日和崎尊夫、中林忠良、司修、島州一、黒崎彰、柄沢齊、多賀新、坂東壮一、小林敬生、山中現、丹阿弥丹波子、李禹煥らがいる。特異なところでは現代美術家の加賀谷武の個展を定期的に行なっている。76年日本現代版画商組合が設立されると理事として活動、85年から91年まで同組合理事長を務め、その後も理事、名誉理事として版画界に貢献した。16年6月には作品や記録写真による「シロタ画廊50年の歩み展」が開催された。19年には生前から企画に関わってきた『李禹煥全版画1970―2019』が刊行された。画廊は白田没後、英子夫人とスタッフにより運営されている。

吉井長三

没年月日:2016/08/23

読み:よしいちょうぞう  吉井画廊会長、清春白樺美術館理事の吉井長三は8月23日、肺炎のため死去した。享年86。 1930(昭和5)年4月29日、広島県尾道市に生まれる。本名長蔵(ちょうぞう)。旧制尾道中学在学中、洋画家小林和作に絵を学ぶ。画家を志して東京美術学校入学を目指すが、父親の反対により、48年中央大学法学部に入学。同年、同校予科在学中、絵画修学の夢を捨てきれず、東京美術学校の授業に参加し、伊藤廉にデッサンを、西田正明に人体美学を学ぶ。53年に東京国立博物館で開催された「ルオー展」を見て深い感銘を受ける。同年中央大学法学部を卒業し三井鉱山に入社するが、2年目に退社して弥生画廊に勤める。海外作品を扱う画廊が少なかった当時、フランス絵画を日本にもたらすことに意義を見出し、64年、小説家田村泰次郎の支援を得てパリに渡り、博物館や画廊を巡る。翌年、株式会社吉井画廊を東京銀座に設立。開廊記念展は「テレスコビッチ展」であった。その後、ジャン・プニー、ベルナール・カトラン、アンドレ・ドラン、アントニ・クラーベ、サルバドール・ダリらの展覧会を開催する一方、青山義雄、中川一政、原精一、梅原龍三郎ら日本の現代洋画の展覧会を開催。71年、ルオーの54点の連作「パッシオン」を購入して、同年ルオー生誕百年記念展に出品し、国内外で注目される。73年パリ支店を開設して富岡鉄斎、浦上玉堂ら文人画を紹介し、75年には現代作家展として東山魁夷展を開催。フランスではまだ良く知られていなかった日本美術を紹介して話題を呼んだ。日仏相互の芸術紹介のみならず、芸術家の国際交流の場としての芸術村を構想し、80年山梨県北杜市に清春芸術村を開設して、エコール・ド・パリの画家たちが住んだラ・リューシュを模したアトリエを建てて国内外の芸術家の制作の場とした。また、79年に武者小路実篤から1917(大正6)年に計画した白樺美術館の構想について聞いたのを契機として、83年清春白樺美術館を設立し、白樺派旧蔵の「ロダン夫人胸像」のほか、白樺派の作家たちの作品、原稿、書簡等を所蔵・公開した。1990(平成2)年ニューヨーク支店を開設。99年、郷里尾道の景観を守る目的で尾道白樺美術館を開設。同館は2007年に閉館となったが、翌年、尾道大学美術館として再び開館して現在に至っている。11年清春芸術村に安藤忠雄設計による「光の美術館クラーベ・ギャラリー」を開館。画商である一方で、小林秀雄、井伏鱒二、谷川徹三、今日出海、梅原龍三郎、奥村土牛らとの交遊でも知られる文化人でもあった。フランス現代美術を日本に紹介する一方、日本美術をフランスに紹介する画廊経営者として先駆的な存在であり、99年レジオン・ドヌール・オフィシエ勲章を、07年にはコマンドゥール勲章を受章。著書に『銀座画廊物語―日本一の画商人生』(角川書店、2008年)がある。

菊池智

没年月日:2016/08/20

読み:きくちとも  公益財団法人菊池美術財団理事長であり現代陶芸のコレクターであった菊池智は8月20日、肺炎のため死去した。享年93。 1923(大正12)年1月18日、東京築地明石町に生まれ、同地の外国人租借地で幼少期を過ごす。聖心女子大学の前身である聖心女子高等専門学校に進み、国文科を卒業する。陶芸作品との出会いは、第二次世界大戦中、実業家であった父・菊池寛実所有の炭鉱があった茨城県高萩市に疎開した折りであった。寛実は、徴用で来ていた瀬戸の陶工のために登り窯をつくる。智は陶器誕生の現場を見て「土はすべての始まるところであり、また、いつか帰っていくところである。」と語り、土からつくり出される陶器に感銘を受け、1950(昭和25)年代後半より陶芸作品の収集を始める。茶道を学び、古美術や古陶磁の収集から始めたが、次第に現代の作品へと移行していく。 74年よりホテル・ニューオータニのロビー階に内にギャラリー『現代陶芸寛土里(かんどり)』をオープンさせた。東京藝術大学教授であった藤本能道の個展で幕を開けたギャラリーは、その後東京藝術大学をはじめとする若い陶芸作家の発表の場となった。79年、ニューヨークにある百貨店ブルーミング・デールスに寛土里が出店したことをきっかけに、83年2月10日から2ヶ月間、スミソニアン自然史博物館トーマス・M・エバンス・ギャラリーで、菊池智コレクションによる「Japanese Ceramics Today」展を開催する。日本各地の作家を訪ね作品を購入するなど、若手作家を多数紹介し、出品作家100人、作品数およそ300点に及ぶ展覧会となり、好評を博した。また、スミソニアン自然史博物館の展示デザイナーであった、リチャード・モリナロリと出会い、展示デザインが作品鑑賞に与える影響に着眼する。美術館の前身となる菊池ゲストハウスで、85年鈴木藏個展「流旅転生」、1990(平成2)年楽吉左衞門個展「天問」、92年藤本能道個展「陶火窯焔」を開催した際もモリナロリに展示デザインを依頼した。その後、「Japanese Ceramics Today」展はヴィクトリア・アンド・アルバート博物館にも巡回し、日本の現代陶芸を欧米に広く紹介した。 2003年には、現代陶芸の紹介を目的として、東京都虎ノ門に「菊池寛実記念 智美術館」を開館。公益財団法人菊池美術財団の理事長を務めた。敷地内には、西久保ビル(2003年竣工)と大正時代に建てられた西洋館(国の登録文化財)、父・寛実のための持仏堂と和風の蔵がある。隔年で開催する陶芸の公募展「菊池ビエンナーレ」を主幹事業と位置づけ、陶芸作家の育成にも力をいれる。95年からは京葉ガス株式会社代表取締役会長も務めた。

坂本五郎

没年月日:2016/08/15

読み:さかもとごろう  古美術店「不言堂」創設者であり、古美術品の蒐集家としても著名な坂本五郎は、8月15日、脳梗塞により死去した。享年92。 1923(大正12)年8月31日、横浜市磯子区根岸に生まれた。父久蔵は横浜港の税関吏。十人兄弟の五番目なので五郎と名付けられた。生まれた翌日9月1日に関東大震災が発生、母キクは産後の身体にもかかわらず五郎を抱きかかえ、崩壊する家の中から子供たちと怪我を負った夫を引出し助けたという。五郎7歳の頃に父が他界し、坂本一家は八王子に移った。1931(昭和6)年、八王子市立第二尋常小学校に入学、学業のかたわら母の行商を手伝い、商いの心得をも学んだ。小学校卒業後は横浜の乾物問屋に奉公、第二次大戦をはさみ復員後は家族を養うため、古着商をはじめ様々な商売に奔走した。古美術・骨董の世界にも興味を持ち八王子で端師(仲間から買い、仲間に売る商売)を始めるが、やがて知り合いを通じて東京美術倶楽部へ出入りするようになり、本格的に古美術の道に進むようになった。 47年、浜松町に自宅兼店舗を構え、結婚。屋号「不言堂」は、「桃李不言 下自成蹊」(桃や李〔すもも〕は何も言わないが、花や果実を求めて人が集い、その木の下には自然と蹊〔こみち〕ができる)という『史記』の言葉から採ったという。坂本の商売は度胸と行動力に富んだもので、失敗を繰り返しながらもくじけずに勉強を重ね、良いものを求めて全国を回り、茶道具から陶磁器、西洋骨董まで幅広く手がけている。「私は気持ちだけでも、日本一、世界一のものを手がけてみたいといつも念じてきた。朝から晩まで、天下の名品を見つけたい、良いものは欲しい、の一念で生きてきた」(『ひと声千両』)とは本人の述懐である。51年には一流の古美術商が並ぶ京橋・中通りに店を出し、有名コレクターや研究者とも深く付き合い事業を拡大して行く。例えば、当時まだ評価の低かった中国の古代青銅器を手に入れては京都大学の水野清一教授(中国考古学)のもとを訪ね、真贋や時代性の教えを請い学んだ。研究室通いは月に1~2度、幾十年にも及び、ついには日本屈指の中国古代青銅器コレクションを築いている(現在の奈良国立博物館「坂本コレクション」)。60年には日本橋に移転。海外旅行が珍しい当時、早くも海外から古美術を仕入れている。大英博物館収蔵品に連なる古代アッシリア宮殿の有翼聖霊レリーフをロンドンで見出し日本に将来したのは、坂本の眼識と度胸、そして努力による快挙といえよう(現在、岡山市立オリエント美術館蔵)。また、68年には、坂本本人も惚れ込んだ中国・唐時代の加彩陶馬を、台湾の故宮博物院に寄贈して「里帰り」させるなど、商売を超えた「ものへの愛情」もうかがえる。 72年、ロンドンのオークション・クリスティーズで中国・元時代の青花釉裏紅大壺を1億8千万円の中国陶磁史上最高値(当時)で落札。国内外でニュースとなり、坂本は世界的な美術商として評価を高めた。それは資産家の冒険などではなく、すべてを売り払う覚悟でこの壺の獲得に一世一代の勝負をかけた坂本の度胸の勝利であり、また、中国陶磁が国際美術市場でもっと高く評価されるべきとの信念に基づく行動でもあった。その後も中国陶磁の優品を多く獲得するが、中でも元時代の染付魚藻文大壺(現在、大阪東洋陶磁美術館蔵。重要文化財)を高額落札した直後は、大名器を手にした嬉しさから、壺と一緒に風呂に入って汚れを洗い、夜半には幾度も目を覚ましてひとりでそっと壺を見たと懐古しており(『ひと声千両』)、蒐集家の純心さもうかがわれる。 80年に後進に道を譲り業界から引退、2005(平成17)年に小田原に移って隠居生活を送っていたが、2016年8月に突然に亡くなった。小柄で細身の体にスーツと蝶ネクタイ姿が業界のトレードマークだった。古美術商として、弟子には礼儀を厳しく仕込み、優秀な業界関係者を多く世に送り出した。また、多くのコレクションを各地に遺したことも大きな功績である。68年の東京国立博物館東洋館の新設に際し、饕餮文など中国古代青銅器10点を母キク名義で寄贈。02年には奈良国立博物館に約380点の中国古代青銅器を寄贈、さらに没後、九州国立博物館に「古今和歌集・伝藤原公任筆」や〓飾北斎筆「日新除魔図」をはじめ陶磁器や茶釜など約260件を寄贈、幕末の思想家佐久間象山の書画類157点を象山出身地の長野市松代に寄贈するなど、坂本の蒐集品が各地の公共機関に収蔵、活用されている。 著書に『ひと声千両―おどろ木 桃の木「私の履歴書」』(日本経済新聞社、1998年)がある。

上田浩司

没年月日:2016/06/25

読み:うえだこうじ  MORIOKA第一画廊主上田浩司は6月25日、岩手県盛岡市内で老衰のため死去した。享年83。 1932(昭和7)年9月16日盛岡市に生まれる。岩手高等学校卒業。盛岡画廊は64年医師の高橋又郎によって開廊されたが、66年建物改築のため閉廊になる予定だった。上田は閉廊を惜しみ69年から本格的に運営にあたり、71年にはMORIOKA第一画廊として市内第一書店3階(60坪)へ、88年から1990(平成2)年はMORIOKA第壱画廊画廊と名をかえ中央通りへ、90年から2012年はテレビ岩手の1階に移転し再びMORIOKA第一画廊名で活動した。上田と美術との出会いは、45年盛岡市内の百貨店で松本峻介と舟越保武の2人展を見たことだった。敗戦によって価値観がすべて変わった世の中で美術の普遍性をみた。後に舟越は画廊に併設された喫茶店「舷」の看板文字を描いている。画廊で扱った作家は、東京で初個展を見て作品を購入した相笠昌義、開廊して初めて売れたオノサト・トシノブ、地元出身の小野隆夫や百瀬寿、杉本みゆき、数十年にわたり発表を支援した松田松雄などがいる。吹田文明、木村利三郎、関根伸夫、靉嘔、野田哲也、瑛九らの版画展、舟越保武、桂、直木親子の個展も開催している。若手を育てることを第一として、長い付き合いをする方針をもち、70年代は年間30近い展覧会を行なっていたが、2000年代は年数回になり、2017年8月宇田義久展が最後となった。記録集に『MORIOKA第一画廊 記録1964―2014』(2017年 MORIOKA第一画廊・舷)がある。

石原悦郎

没年月日:2016/02/27

読み:いしはらえつろう  ツァイト・フォト・サロン創設者の石原悦郎は2月27日、肝不全のため死去した。享年74。 1941(昭和16)年11月15日、東京市王子区(現、東京都北区)に生まれる。立教大学法学部卒業。研究生として大学に残り法律の勉強を続けるとともに、少年期より芸術への志向を持ち続け、68年頃にはギャルリー・ムカイに出入りするようになった。70年には同画廊、ついで自由が丘画廊で働きはじめる。71年に語学習得を目的にパリに留学。この時は短期で帰国するが、以後、渡欧を重ね画商としての経験を積む。のちミュンヘンにも語学留学。 70年代半ば、写真家で日本大学芸術学部教授の金丸重嶺らの示唆を得て、写真を専門とするギャラリーの設立を決意。パリに渡り写真家ロベール・ドアノーやアンリ・カルティエ=ブレッソン、写真プリント制作の第一人者ピエール・ガスマンらの知遇を得、作品を購入するなどして準備を進め、78年4月にツァイト・フォト・サロンを日本橋室町に開業した。 日本で初の、写真のオリジナル・プリントの展示・販売を専門とするギャラリーとして、ツァイト・フォトは海外作品の紹介とともに国内の写真家の展示にも力を入れた。植田正治、桑原甲子雄など戦前から活動歴のある作家の展示の他、同時代の一線で活動していた森山大道、荒木経惟、北井一夫らを作品の売買を通じて支え、また80年代以降は新進作家の発掘にもとりくむようになった。そうした写真家には、いずれも後に木村伊兵衛賞を受賞する柴田敏雄、畠山直哉、オノデラユキ、松江泰治、鷹野隆大らがいる。1990(平成2)年には夫人の石原和子をオーナーとするギャラリー「イル・テンポ」が高円寺に開設され、ツァイト・フォトと役割を分担しつつより幅広い写真家の紹介を展開する(イル・テンポは2004年閉廊)。2002年、京橋にギャラリーを移転、展示スペースが拡大したことを機に、写真に加え現代美術作家も手がけるようになった。14年ビルの建替えにともないギャラリーは京橋の別の場所に再移転、16年の石原の死去をうけ、追悼展を開催したのち同年末に展示活動を終了した。 日本において美術館など公的機関による写真作品の評価が確立しない状況下、石原は早くから写真美術館設立を構想し、82年には自身のコレクションで構成した「フォトグラフィ・ド・ラ・ベルエポック:花のパリの写真家たち 1842―1968」を神奈川県立近代美術館で開催した。ついで85年筑波科学博覧会の会期に合わせ、つくば写真美術館’85を開設し「パリ・ニューヨーク・東京」展を開催(採算が合わず会期終了後閉館)。写真史上の主要作を概観する450点で構成された意欲的な内容で、同館のキュレーターチームに参加した飯沢耕太郎、伊藤俊治、金子隆一、谷口雅、平木収、横江文憲はその後、研究者・評論家・学芸員等として日本の写真界を支えることとなった。89年には「オリエンタリズムの絵画と写真」(世界デザイン博覧会、ホワイト・ミュージアム、名古屋、のちひろしま美術館、滋賀県立近代美術館他に巡回)を企画する。仏文学者阿部良雄の助言を得つつ、石原所蔵の19世紀のヨーロッパ絵画や写真におけるオリエンタリズムの傾向を示す作品と、現代の日本の写真家が中東やアラブアフリカで撮影した新作から構成された展覧会で、西洋美術における異文化表象への批評的な視点を提示しただけでなく、石原のサポートにより現地の撮影に赴いた写真家たちの中には、その際の制作が作家活動の転機となるものが出るなど、ユニークな成果を残した。 90年代末以降、石原はたびたび中国に渡航、写真展の開催に協力するなど現地の写真・美術関係者と親交を深めていく。07年には上海美術館でツァイト・フォトのコレクションによる「Japan Caught by Camera」を開催、この機に約400点の写真作品を同館に寄贈した。また幼少期よりクラシック音楽に親しみ、第二次大戦前のSPレコードのコレクターでもあった石原は、06年には上海でレコードコンサート「1930 BERLIN」(ZEIT-FOTO上海事務所・heshan arts)を開催するなど、晩年まで多方面にわたり精力的な活動を展開した。 一連の活動による写真界への貢献に対し、03年日本写真協会賞文化振興賞を受賞。2000年代に入ると、石原自身が日本写真界に果たした役割への評価・検証が進められるようになり、「85/05―写真史:幻のつくば写真美術館からの20年」(せんだいメディアテーク、2005年)展が開催され、粟生田弓・小林杏編『1985/写真がアートになったとき』(青弓社、2014年)が出版された。評伝に粟生田弓『写真をアートにした男 石原悦郎とツァイト・フォト・サロン』(小学館、2016年)がある。

ウィラード・G・クラーク

没年月日:2015/11/22

読み:Willard GClark  アメリカの実業家で日本美術収集家のウィラード・G・クラークは、11月22日にカリフォルニアで死去した。享年85。死因は公表されていない。通称のビル・クラークと記されている記事や資料もある。 クラークは1930(昭和5)年10月2日、カリフォルニア州ハンフォードで乳牛飼育業を営む家の5世代目として生まれる。12歳の頃、中学校の地理の授業で日本の地図を見て他のどこの国よりも強い印象を受けたということを、クラークは晩年まで語っており、生涯を通じて日本に対する親愛を寄せていた。48年、カリフォルニア大学バークレー校に入学し、建築を学んだ後、カリフォルニア大学デイビス校農学部に編入し、畜産学の学位を取得した。大学卒業後、クラークは徴兵を受け、ロード・アイランド州のニューポートにある海軍士官学校へ入学。この頃、クラークはニューヨークの近代美術館の庭園で日本の家屋の展示を見て、日本の建築や文化に対して興味を持つようになったという。士官学校後、ハワイでの駐屯時代にクラークは来日し、当時の印象として「日本の土地を初めて踏んだ時、故郷へ戻ってきたような気持になった」と述懐し、前世は日本人であったに違いない、と日本への愛着を語っていたという。海軍退役後の71年、クラークは優秀な乳牛の遺伝子を世界に輸出するワールドワイド・サイアス社を設立し、国際的な事業経営を行った。 クラークはロサンゼルスで行われた展覧会“Birds, Beasts, Blossoms, and Bugs: The Nature of Japan”に基づく同名の書籍(Harold P. Stein, 1976年)や同展に出陳されたプライス・コレクションに影響を受け、自身も本格的に日本美術を蒐集するようになったという。77年にクラークは、専門家の助言を求めるため当時クリーブランド美術館で館長を務めていたシャーマン・リーを訪ね、その後長く親交を持つようになった。リーの助言と尽力により、クラーク・コレクションは次第に形成されていった。 1995(平成7)年、ハンフォードにクラーク財団の美術館を建設し、作品の展示公開をするとともに、若い学生を対象とした学芸員の研修制度や奨学金制度を設け、次世代を担う専門家の育成に貢献した。2002年4月から03年2月にかけて、東京・大阪・大分・愛媛・千葉の全国5か所の美術館を巡回した展覧会「アメリカから来た日本―クラーク財団日本美術コレクション」展が開催され、選りすぐりの絵画89点と彫刻5点が披瀝された。09年4月には、クラークが日本美術の紹介および日米間の文化・教育交流の促進に寄与したことを賞して旭日中綬章が叙勲された。 クラーク・コレクションには、鎌倉時代の大威徳明王像など10数点の仏教彫刻、屏風絵約50点、掛幅約550点、浮世絵約250点、漆工品約50点、現代陶芸作品約300点、その他染織品などの工芸作品など、中世から現代に至る多種多様な日本美術作品が含まれ、作品総数は1700点に及んだ。とりわけクラークは自身の家業とも所縁の深い牛を表した作品を好んで蒐集し、上述の牛の背に座す大威徳明王像のほか、幕末から明治にかけて活躍した望月玉泉による「黒牛図屏風」、三畠上龍「黒牛図」や上田耕冲「牧童図」などの掛幅作品がクラーク・コレクションとして精彩を放っている。クラークは著名な作家や評価の高い作品でなくても、自身の審美眼に叶う作品であれば、ほとんど無名の作家の作品であろうとも積極的に蒐集した。カリフォルニアのカウボーイであるクラーク独自の視点により、純粋に自らの楽しみのために形成された日本美術コレクションと賞賛された。 13年6月、クラークは将来的により広く、安定的に保存公開するために、そのコレクションをミネアポリス美術館に移譲した。このコレクション移譲の経緯は、Willard G. Clark and Matthew Welch, How and Why the Clark Collection Moved to Minneapolis, “Impressions‐The Journal of the Japanese Art Society of America” 35(2014年)にまとめられている。15年2月10日~6月30日にハンフォードのクラーク財団美術館での最後の展覧会“Elegant Pastimes: Masterpieces of Japanese Art from the Clark Collections at the Minneapolis Institute of Arts”が開催された。クラークの歿後、サミュエル・C・モースおよび小林忠による追悼記事が“Orientations” 47, No. 5,(2016年)に掲載されている。

中岡吉典

没年月日:2015/01/01

読み:なかおかよしすけ  東邦画廊主中岡吉典は、1月1日、肺炎のため東京都内で死去した。享年87。 1927(昭和2)年1月5日、愛媛県西宇和郡(現、八幡浜市)に生まれる。41年喜須木尋常高等小学校卒業後、47年家業の指物師から中岡製材所を起こす。この頃、叔父が表具店を営む関係から美術への興味が起こり、前川千帆や畦地梅太郎の版画を収集する。51年広島市に材木商を起業するが、57年製紙工場の倒産の波をかぶり廃業し、58年上京、図書販売業へ転身する。59年、版画家の永瀬義郎、画家の山口長男と知り合う。60年永瀬の紹介もあり、ホテルニュージャパン開業にともないホテル内の画廊に勤めるが、2年後に閉廊となり、64年、山口長男と南画廊の志水楠男の指南を受け、東邦画廊を開廊する。場所は千代田区日本橋通2丁目、当初の案内状に「〓島屋新駐車場裏」とあり、小さな建物の2階へ上がると、画廊主自らが言う「日本一小さな画廊」があった。座るお客にはまずお茶、しばらくすると珈琲がでて、中岡は客とひとしきり話しをするのが常だった。扱う作品は大きなミュージアムピースでなく、それを彼は「見せるもの」とし、自分が扱うのは「売るもの」であり、「銀座の画廊とはちがい場所代を乗せない」とよく言っていた。初期には三岸黄太郎の個展を4回開催し、68年5月、難波田龍起の個展を開催、この出会いで画廊の方向性が見え、難波田も定期的に東邦画廊で個展を開催していく。主に扱った作家に建畠覚造、杢田たけを、深尾庄介、吉野辰海、小山田二郎、大沢昌助、山口長男、平賀敬、谷川晃一、豊島弘尚、馬場彬、橋本正司、建畠朔弥らがいる。展覧会の会期は一回が20日間程度、二つ折りのパンフを出し、良く寄稿したのは針生一郎である。針生が推薦したノルウエーの画家ラインハルト・サビエの個展を1994(平成6)年から定期的に開催、外国作家を扱わない中岡にしては異例のことだった。93年春から、中央区京橋2丁目5番地で営業、さらに99年からは京橋3丁目9番地に移転した。

元村和彦

没年月日:2014/08/17

読み:もとむらかずひこ  出版社邑元舎を主宰し、写真集の出版を手がけた写真編集者の元村和彦は、8月17日に死去した。享年81。 1933(昭和8)年2月11日佐賀県川副町(現、佐賀市)に生まれる。51年佐賀県立佐賀高等学校を卒業後、国税庁の職員となり佐賀、門司、武蔵野、立川、世田谷の各税務署に12年にわたって勤務する。60年、東京綜合写真専門学校に3期生として入学、卒業後引き続き1期生として同校研究科に進み、校長の重森弘淹、教授を務めていた写真家石元泰博らに師事した。 70年、W.ユージン・スミスが日本で取材した際に助手を務めた写真家森永純の紹介で、スミスと知り合い、スミスの写真展「真実こそわが友」(小田急百貨店他)の企画を手がけた。同年秋に渡米、スミスの紹介で写真家ロバート・フランクを訪ね、写真集出版を提案し同意を得る。71年、邑元舎を設立し、72年10月、『私の手の詩 The Lines of My Hand』を刊行。杉浦康平が造本を手がけた同書は、フランクの16年ぶりの写真集として国内だけでなく海外でも広く注目され、後に一部内容を再編したアメリカ版およびヨーロッパ版が刊行された。その後フランクの写真集としては、87年に『花は…(Flower Is…)』、2009(平成21)年には『The Americans, 81 Contact Sheets』を刊行した。邑元舎からは他に森永純写真集『河―累影』(1978年)が出版されている。97年、邑元舎の出版活動に対して、第9回写真の会賞を受賞。 20世紀後半の最も重要な写真家の一人であり、58年の写真集『アメリカ人』が、その後の写真表現に大きな影響を与えたにもかかわらず、映画製作に移行して写真作品を発表していなかったロバート・フランクに、元村は新たな写真集を作らせ、結果的にフランクに写真家としての活動を再開させることになった。これは写真史上、特筆すべきものである。フランクとの親交は生涯にわたって続き、写真集の原稿として提供されたものの他、折に触れてフランクより贈られた作品等により形成された元村のフランク作品コレクションは、元村の晩年、東京、御茶ノ水のギャラリーバウハウスにおける数次にわたる展示で紹介され、その中核である145点の作品が、16年に東京国立近代美術館に収蔵された。

堤清二

没年月日:2013/11/25

読み:つつみせいじ  文化功労者、日本芸術院会員で公益財団法人セゾン文化財団理事長の堤清二は11月25日午前2時5分、肝不全のため東京都内の病院で死去した。享年86。 1927(昭和2)年3月30日、東京に生まれる。48年東京大学経済学部在学中に学生運動に参加し共産党に入党するが、翌年除名。51年に同大学を卒業後、西武コンツェルンの創始者で衆議院議長だった父・康次郎の秘書を経て、54年に西武百貨店へ入社。64年の康次郎没後、西武コンツェルン本体を異母弟の堤義明が継ぎ、東京・池袋の西武百貨店を中心とする流通部門を受け継いだ清二は西友、パルコ等を含む西武流通グループ(後にセゾングループと改称)を創設、生活総合産業を掲げ広く事業を手がけた。しかし拡大路線がバブル崩壊で破綻、1991(平成3)年に同グループ代表を辞任し、一線から退いた。一方で55年より筆名・辻井喬として詩や小説を発表。61年には詩集『異邦人』で室生犀星詩人賞を受賞。84年小説「いつもと同じ春」で平林たい子文学賞受賞。グループ代表退任後は旺盛に創作に取り組み、93年詩集「群青、わが黙示」で高見順賞、94年小説「虹の岬」で谷崎潤一郎賞、2000年長編詩「わたつみ 三部作」で藤村記念歴程賞、01年小説「風の生涯」で芸術選奨文部科学大臣賞、04年小説「父の肖像」で野間文芸賞、06年日本芸術院賞恩賜賞、07年詩集「鷲がいて」で読売文学賞を受賞。07年日本芸術院会員、12年文化功労者となる。 特異な“詩人経営者”としての才能は、美術展をはじめとする文化事業において発揮された。60年に西武百貨店池袋店8階催事場を美術展に用いることを提案し、翌年「パウル・クレー展」を開催。その後も「ジャン・コクトー芸術展」(1962年)、「アーシル・ゴーキー素描展」(1963年)等、百貨店の美術展としては珍しい現代美術を度々取り上げ、75年、池袋店内に常設美術館である西武美術館を開館させる。同館の開館記念展「日本現代美術の展望」の図録に館長として「時代精神の根遽地として」を寄稿、生活意識の感性的表現としての多様な美術および美術館のあり方を示した。さらに78年より美術評論家の東野芳明らの協力のもと、軽井沢に現代芸術の拠点となる新たな美術館創設に向けて準備を始め、81年に軽井沢高輪美術館(現、セゾン現代美術館)が開館、開館記念展として「マルセル・デュシャン展」が開催される。西武美術館は89年にセゾン美術館としてリニューアルオープンし活動を続けるも、バブル崩壊による事業整理により99年に閉館、しかし現代美術を積極的に紹介し、さらに「時代精神の根遽地として」美術の枠を越え文化全般を対象とした展観に取り組んだ姿勢は今なお評価される。一方で87年には私財によりセゾン文化財団を設立し、演劇・美術分野に対して(1991年以降は舞台芸術のみ)助成事業を行なうなど日本の現代芸術の進展を支援。生活意識の中の感性的表現を重視する姿勢は、経営面においてもグラフィックデザイナーの田中一光や石岡瑛子らを積極的に起用した広告戦略に見出せる。時代の先端を行く美術、音楽、演劇、映画等を発信する場を店舗内に併設し、老舗百貨店の客層とは違う若い感性を持つ顧客を開拓することで、“セゾン文化”と呼ばれる個性的なライフスタイルを築き上げた。

鳥山健

没年月日:2013/05/05

読み:とりやまたけし  大阪市にギャラリー白(はく)を開廊し代表取締役を務めた鳥山健は5月5日17時30分、大阪市内の病院で死去した。享年90。 1922(大正11)年11月1日、福岡県筑紫郡那珂村(現、福岡県福岡市博多区)に生まれた。関西学院大学社会学部卒業。大阪市内の自宅で出版社を立ち上げ、高校の国語のサブテキストの製作・販売に携わる一方、1967(昭和42)年、大阪市中央区今橋に開設された今橋画廊の企画責任者となる。今橋画廊では、現代美術家を若手、ベテランを問わず紹介するとともに、デザインや陶芸、染織、書などの分野で新しい表現を模索する作家にも積極的に門戸を開くなど、古くから「ものづくり」が盛んで、美術の概念的枠組みが緩やかな関西の風土に根ざした独自の企画を展開した。 79年10月、有志5名で有限会社ギャラリー白を設立して代表取締役となり、大阪市北区西天満の千福ビル2階に同名の画廊を開設、今橋画廊時代の運営方針をより明確に打ち出す。また、80年代初頭に関西の若い作家の間で台頭しつつあった絵画復権の動き、表現主義的への回帰を敏感に察知し、YES ARTなどの企画展を開催して、ミニマル、コンセプチュアルな方向性に行き詰まり活路を模索していた東京の現代美術界に衝撃を与え、全国的に注目される存在となる。以後、80年代から90年代にかけて、関西の最先端の美術動向のよき理解者、支援者として、多くの才能を東京のみならず国際的な舞台へと送り出した。企画展のテキストの書き手に関西の若い学芸員や研究者を登用し、批評家の育成に心を配ったことも特筆される。 2002(平成14)年2月、ギャラリー白をいったん閉廊するが、同年9月に同じ西天満の星光ビル2階で再開廊。03年9月には3階にギャラリー白3を増設し、最晩年まで関西の現代美術に関わり続けた。逝去した年の11月17日には、大阪キャッスルホテルで「鳥山健さんを偲ぶ会」が催され、関係者約200名が参集して、故人の業績や人柄に思いをはせた。

和多利志津子

没年月日:2012/12/01

読み:わたりしづこ  現代美術をはじめ多彩な展覧会活動をつづけているワタリウム美術館長の和多利志津子は、12月1日心不全のため死去した。享年80。 1932(昭和7)年9月23日、現在の富山県小矢部市に生まれる。服飾デザインの仕事を経て、自宅を改装して72年12月、ギャラリーワタリ(現、渋谷区神宮前)を開く。以後、88年10月まで、国内外のアーティストの個展を開催。とりわけ、ドナルド・ジャッド(1978年2月)、ナム・ジュン・パイク(同年5月)、ソル・ルウィット(1980年3月)、ロバート・ラウシェンバーグ(1981年1月)、アンディ・ウォーホル(1982年3月)、ヨーゼフ・ボイス(1984年5月、同展はナム・ジュン・パイクとの二人展)、ジョナサン・ボロフスキー(1986年9月)等、70年代から80年代の欧米の先端的なアーティストを日本に招聘しながら積極的に、また先駆的に紹介した。そうした海外のアーティスト達との交友の一端については、『アイ ラブ アート 現代美術の旗手12人』(日本放送出版協会、1989年)のなかで記されている。なかでも、ビデオ・アートの先駆者であったナム・ジュン・パイク(1932-2006)とは、パイクの生涯にわたり個人的にも深く交友し、現代美術から思想、哲学にわたり語り合うことがあったという。 1990(平成2)年5月、同画廊の敷地にワタリウム美術館が竣工(設計は、スイス人建築家マリオ・ボッタ)。以後、ここを拠点に活動をつづけ、現代美術ばかりでなく、建築家、詩人、写真家等の多彩な人物をとりあげて展覧会を開催した。美術館建設にあたっての経緯や、その後の活動については、和多利恵津子、浩一共著『夢見る美術館計画 ワタリウム美術館の仕事術』(日東書院、2012年)で詳細につづられている。美術館の運営では、創設当初は国際展のキューレターの経験をもつハラルド・ゼーマン、ヤン・フート、ジャン=ユベール・マルタン等をゲストキューレターとして依頼し展覧会を開催して注目され、その後から逝去するまでジャンルを問わず様々な企画を展覧会として開催した。 画廊経営から私設美術館の運営にわたる和多利の一貫した姿勢は、アーティスト等注目した人物その人に直接会って交渉し、話し合いを通じて理解を深めることから始めている点に特色がある。その姿勢は、日本文化への関心から歴史上の人物をとりあげる際にも発揮され、研究者等の助力を得ながらも、長年にわたって独自に調査を重ねながらその人物への理解と共感を深めることで展覧会を開催している。そうしてとりあげたなかには、岡倉天心(「岡倉天心展 日本文化と世界戦略」、2005年2月-6月)、南方熊楠(「クマグスの森 南方熊楠の見た夢」、会期:2007年10月-08年2月)、ブルーノ・タウト(「ブルーノ・タウト展 アルプス建築から桂離宮へ」、会期:2007年2月-5月)等がある。特に岡倉天心については、研究者ばかりではなく、他分野の専門家を招いて独自に研究会を10年間にわたり主宰して準備にあたった。この岡倉天心展にあわせて、同美術館監修により『岡倉天心 日本文化と世界戦略』(平凡社、2005年)が刊行されたが、同書の「あとがき」の冒頭で「もし、今も生きているならば、私は、きっと岡倉天心に恋している、そんな架空な夢をみています」と率直に記していることからも、その人物像を、従来の学術研究とはことなった情熱的な視点から独自に形づくろうとした。既成の評価にこだわることなく、つねに新しいアートとアーティストをはじめとするクリエイティヴな人間に関心を抱きつづけ、自らの美術館という場で紹介したことは評価される。 没後の13年1月23日に同美術館でお別れ会「夢みる 和多利志津子」が開かれ、交友のあった各界から多数の参加者があった。さらに、『アートへの組曲―追悼・和多利志津子』(同美術館企画・発行、2013年9月)が刊行された。なお同書には、国内外の交友のあったアーティストをはじめとする多数の追悼文の他に、ギャラリーワタリ並びにワタリウム美術館の展覧会記録が収録されている。

宇佐美直八

没年月日:2012/10/25

読み:うさみなおはち  江戸時代より続く表具所である宇佐美松鶴堂八代目当主の宇佐美直八は10月25日、肺炎のため死去した。享年86。 宇佐美家は天明年間(1781~88)に初代直八が西本願寺前において同寺直属の表具所として創業。以来、西本願寺御用達として展開した。代々当主は「直八」の名跡を名乗る。その宇佐美家の二男として1926(大正15)年1月27日に誕生、「直行」と命名。立命館大学工学部卒業。七代目「直八」のもとで装潢技術の研鑽に励んだ。1946(昭和21)年、西本願寺国宝襖絵の修理に従事。59年3月、国指定の文化財(絵画)を修復していた7工房が結集し、装潢技術の向上をはかると共にそれらに付帯する事業を行うことを目的として「国宝修理装潢師連盟」が設立された際、これに「宇佐美松鶴堂」として加盟。74年には宇佐美松鶴堂を個人商店から株式会社に移行させて代表取締役に就任。80年には京都国立博物館内に設置された文化財保存修理所の開設にともない、その一角を工房として使用するとともに、運営委員を委嘱される。翌年には桂離宮解体修理工事のうちの表具工事を担当する。この年10月には75年の先代死去のち空き名跡となっていた「直八」を八代目として襲名。82年には京都国立博物館文化財保存修理所修理者協議会会長に就任する(~1993年)。1990(平成2)年3月には(財)京都府文化財保護基金より永年の文化財修理に対して功労賞を受賞。同年11月には地方の文化振興に対する功労で文部大臣賞を受賞する。95年5月、国宝修理装潢師連盟理事長に就任(~1999年5月)。96年4月29日春の叙勲に際し、勲五等双光旭日章の栄誉を受ける。代表的な文化財修理として西本願寺飛雲閣壁画、厳島神社平家納経、建仁寺風神雷神図屏風がある。著書に『京表具のすすめ』(法蔵館、1991年)。

田中三蔵

没年月日:2012/02/27

読み:たなかさんぞう  ながらく朝日新聞東京本社にて、同紙の美術記事を担当したジャーナリスト田中三蔵は、膵臓がんのため2月27日死去した。享年63。 1948(昭和23)年8月2日、神奈川県川崎市に生まれ、幼少期を東京ですごす。67年3月、東京教育大学附属高等学校を卒業。74年、東京藝術大学美術学部芸術学科を卒業、日本彫刻史を専攻した。同年4月、朝日新聞社に入社、高松支局に配属される。79年5月、同社大阪本社学芸部に異動。同社では、家庭面を担当した後、主に娯楽面で落語、漫才を中心とする大衆芸能を担当した。88年10月に東京本社に異動するまでの間、寄席から小さな落語会まで取材にまわり、やがて関西の落語家桂米朝、その一門の落語家たちをはじめ、多くの落語家、漫才師とも親しく交友しながら記事を執筆し、やがて落語家からも一目を置かれるようになった。 東京本社異動後は、はじめ家庭面を担当し、1990(平成2)年1月に雑誌『アエラ』編集部に勤務。91年5月、東京本社学芸部に戻り、文化面にて美術を担当することになる。95年7月に美術担当の編集委員となる。2008年8月2日に定年退職し、引き続き同本社専門シニア・スタッフとなる。病気療養中の10年12月、在職中に執筆した数多くの記事の中から107件を選定してまとめた『駆けぬける現代美術』(岩波書店)を刊行。また、日本大学芸術学部大学院(2002年4月から)、女子美術大学大学院で非常勤講師として教育にあたった。 田中は在職中、とりわけ美術担当記者として同紙に展覧会評、時評、論説等にわたる記事を1500件以上執筆した。90年代から2000年初頭の在職中に執筆した記事の中には、日本の近代美術の見直しと並行して「日本画」概念の再検討と新しい表現の出現のレポート、国立博物館、美術館の独立行政法人化の問題に関する連載、アジア諸地域の経済的な台頭を背景にしたアジアの現代美術のレポート等々、いずれも問題提起をこめた内容であり、現在でも印象に残る。美術ジャーナリストとしての視点は、上記の著作の「後書きにかえて」中で記されているとおり、「美術は進歩しない。拡大する」という認識と「美術の歴史は作家だけではなく、享受者がともに作る」という確信に基づくものであった。その確信は、田中自身「愚直に」を念頭に書いているが、地道な取材をもとに思考しながら書き続けたことから築きあげたものであった。つねに広い視野からの平衡感覚と、目まぐるしく変転する同時代の美術を見ながらも歴史意識をわすれていないために、田中の執筆した多くの記事は、今後も同時代の証言として残ることであろう。没後の12年4月12日、関係者により東京中央区銀座にて「田中三蔵さん お別れの会」が開催され、多くの美術関係者が集まった。

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