本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





田中千秋

没年月日:2011/09/30

読み:たなかちあき  兵庫県立美術館保存・修復グループリーダーの田中千秋は9月30日に死去した。享年54。 1957(昭和32)年7月5日、鳥取県米子市に生まれる。76年大阪府立千里高等学校を卒業後、77年に早稲田大学第二文学部美術科に入学、西洋美術史を専攻し82年に同大学を卒業。81~83年に老舗額縁店である古径、83~84年に八咫家での勤務を経て、85年に山領絵画修復工房に入り、油彩画修復に携わる。88年からはブリヂストン美術館学芸部で保存修復を担当。2001(平成13)年に兵庫県立美術館に移り、保存修復グループのリーダーとして活躍した。93~98年に女子美術大学、2000年より東北芸術工科大学で非常勤講師を務めている。 ブリヂストン美術館では、86年より進められていた同館所蔵のレンブラント「聖書あるいは物語に取材した夜の情景」(旧題「ペテロの否認」)共同研究プロジェクトに参加。93年には特集展示「隠された肖像―美術品の科学的調査」を担当し、東京国立文化財研究所の協力のもと科学的調査に基づいた油彩画の展観を行なった。95年1月17日に発生した阪神大震災に際しては、全国美術館会議に働きかけて被災地の美術館・博物館への救援隊を結成、所蔵品の救援活動や被害調査を率先して行なう。その後の同会議による被害の総合調査でも保存担当学芸員として中心的な役割を果たし、同年9月と翌96年5月に報告書を刊行。所属するブリヂストン美術館の館報でも、被害調査をふまえた具体的な地震対策を講じている。一方で「日本の美術館、ここが悪い」(『あいだ』53号、2000年)からうかがえるように、その言動は日本の美術館を取り巻く現状への批判的な眼差しに貫かれたものだった。 01年に兵庫県立美術館へ移った後も、所蔵品の保存修復や本多錦吉郎「羽衣天女」(同館蔵)等の光学調査を実施。また11年3月11日に発生した東日本大震災に際しても、全国美術館会議の文化財レスキュー活動に参加、4月には津波の被害を受けた石巻文化センターの絵画・彫刻約200件を移送、応急処置を始める。同じく津波で甚大な被害を受けた陸前高田市立博物館のレスキューでも、救出した作品の応急処置を行なう旧岩手県衛生研究所の環境整備を検討するなど貢献するが、その最中での突然の死は関係者に大きな衝撃を与えた。

藤田慎一郎

没年月日:2011/05/20

読み:ふじたしんいちろう  岡山県倉敷市の大原美術館の館長を30年以上にわたり務めた藤田慎一郎は、5月20日に呼吸不全のため亡くなった。享年91。 大正9(1920)年4月19日に東京都に生まれる。昭和13(1938)年3月、旧制広島県立福山誠之館中学校を卒業。その後結核を患い、療養生活後の47年8月に、親戚にあたる大原総一郎のすすめにより大原美術館に就職。大原美術館は、倉敷紡績株式会社などを経営する実業家大原孫三郎(1880-1943)によって30年11月に開館し、孫三郎の長男総一郎(1909-1968)によって継承発展した。50年11月、同美術館20周年記念行事を開催、梅原龍三郎、安井曾太郎、浜田庄司、河井寛次郎、武者小路実篤、志賀直哉、柳宗悦等を東京から招き、公開の座談会等が行われ、学芸員として諸行事の進行に務めた。以後、大原総一郎の片腕として、展覧会の企画実施、コレクションの拡充のための作品購入にあたった。51年2月、「現代フランス美術展(サロン・ド・メ日本展)」(日本橋高島屋)が開催、戦後のフランス美術が紹介されたことから、その出品作6点を購入したのをはじめとして、以後国内外の現代美術の収集に力を入れるようになり、藤田はその選定と購入につとめた。この現代美術収集は、戦後から現代につらなる国内美術館における先駆的な活動として特筆されるものである。61年7月、同美術館の副館長となり、64年に館長に就任。在職中は、近現代絵画をはじめ、民芸、工芸、古美術等にわたる広範な領域のコレクションの充実につとめるかたわら、展示室の拡大にも積極的にあたり、新館(現在の分館、1961年5月完成)、陶器館(現在の工芸館、同年11月完成)にはじまり、本館増設(現在の本館新展示室、1991年9月完成)まで、現在の同美術館のほぼ全体の施設作りを担当した。1998(平成10)年4月に館長を退任、相談役に就任。2002年に相談役を退任。 91年7月から97年6月まで全国美術館会議の会長を務め、また、ひろしま美術館、財団法人成羽町美術振興財団、倉敷民藝館等の理事などを歴任した。褒賞については、80年11月、フランス政府よりシュヴァリエ芸術文化勲章を受章。翌年11月に文部大臣表彰。88年に第46回山陽新聞賞(文化部門)受賞。89年、平成元年度倉敷市文化連盟賞、91年には文化の向上に貢献したことで第44回岡山県文化賞を受賞。98年10月、公共奉仕の精神をもって地域社会に貢献した者を顕彰する岡山県の第31回三木記念賞を受賞。 編著には、『大原美術館 岡山文庫10』(日本文教出版、1966年)をはじめ、同美術館、ならびにコレクションに関する刊行物についての著述が多い。その中で『大原美術館と私―50年のパサージュ―』(松岡智子編、山陽新聞社、2000年)は、長時間にわたるインタビューをまとめたものであるが、内容は同美術館の戦後からの歴史と同時にコレクションの形成史になっており貴重な証言である。

小野寺久幸

没年月日:2011/03/01

読み:おのでらひさゆき  文化財(仏像)修理技師で、財団法人美術院常務理事であった小野寺久幸は3月1日、肝不全のため死去した。享年81。 1929(昭和4)年5月18日に宮城県本吉郡本吉町(現、気仙沼市)に生まれる。同県本吉郡小泉高等尋常小学卒業。小野寺の文化財(仏像)修理技師としての力量発揮を知らしめたのは、51年、神奈川県鎌倉市覚園寺における重要文化財の木造薬師如来および日光菩薩、月光菩薩の各坐像の保存修理からとみられる。54年には、東京国立博物館内の文化財修理室に勤務。翌年、美術院国宝修理所に就職した。以後、国宝・重要文化財の彫刻作品の修理に専従するとともに、現場において後進の育成に努めた。75年、財団法人美術院国宝修理所所長・常務理事に就任。79年、岐阜県文化財保護審議会委員に、1989(平成元)年には、財団法人川合芳次郎記念京都仏教美術保存財団理事に、91年には、東京藝術大学美術学部保存技術客員教授に、97年には、財団法人仏教美術協会理事に就任する。2000年、財団法人美術院国宝修理所所長を退き、常務理事専務に就任する。この間、88年から5年の歳月をかけて東大寺南大門の国宝金剛力士像二軀の本格解体修理に当って陣頭指揮を行う。その功績により、93年には、東大寺から「東大寺大仏師」の称号が授与された。また、文化庁長官表彰、および、第11回京都府文化功労賞を受ける。翌94年には、宮城県本吉郡本吉町名誉町民となる。95年には、第44回河北文化賞を受賞。96年には、長年にわたる文化財(仏像)修理と後進の育成の功績を認められて紫綬褒章を、03年には、勲四等旭日小綬章の栄誉を受ける。 この間の主な仏像修理は以下の通り。京都・妙法院三十三間堂・重要文化財木造千手観音立像1001軀(昭和48~61、平成2~12年度)、同・国宝木造千手観音坐像(湛慶作、昭和62年~平成元年度)、大分・国宝臼杵磨崖仏(昭和53・55~61、63~平成5年度、同10~12年度)、奈良・法隆寺国宝木造観音菩薩立像(百済観音、昭和55年度)、同・国宝木造観音菩薩立像(救世観音、昭和62年度)、同・国宝銅造薬師三尊像(金堂所在、平成2~3年度)、京都・教王護国寺講堂の国宝を含む諸尊像20軀(平成9~11年度)の本格修理を行う。また、大阪・観心寺如意輪観音像の模造(昭和49~56年度)、京都・寂光院地蔵菩薩立像の模造(平成13~17年度)をはじめ、兵庫・清澄寺大日如来坐像(平成2年度)、東京・長仙寺金剛力士像(同6~9年度)、愛知・鳳来寺薬師如来立像(同10年度)、奈良・桜本坊木造天武天皇坐像(平成19~21年度)の製作を手がけた。仏像修理を通じての知見については、「文化財の保存修理」(『美術院紀要』創刊号、1969年)、「「明月院塑造北条時頼像」の修理について」(『同』2号、1971年)、「群馬県・不動寺の石仏修理について」(『同』3号、1973年)、「文化財の損傷と修理について」(『同』5号、1980年)。「THE REPAIR OF THE WOODEN SCULPTURES」(『International Symposium on the Conservation and Restoration of Cultural Property』東京文化財研究所編、1983年)、「文化財の保存修理」(『日本藝術の創跡2010』世界文藝社、2010年)などがある。

山口侊子

没年月日:2010/01/15

読み:やまぐちみつこ  ギャラリー山口オーナーの山口侊子は1月15日死去した。享年67。1943(昭和18)年5月20日東京市日本橋区(現、東京都中央区)に生まれる。65年早稲田大学教育学部卒業。その後東京都港区で喫茶店を経営するかたわら、ジュエリー制作に取り組み日本ジュウリーデザイナー協会(現、日本ジュエリーデザイナー協会)準会員となる。80年3月銀座3丁目ヤマトビル3階に現代美術を専門とする貸画廊兼企画画廊「ギャラリー山口」を開設。1991(平成3)年4月新木場にオープンしたSOKOギャラリーに入居、ギャラリー山口SOKOを開設し93年頃まで運営。その間、銀座3丁目の画廊と2店舗を経営。以後、ギャラリー山口を、93年8月に銀座8丁目銀座同和ビル1階へ、95年8月に京橋3丁目京栄ビル1階及び地下1階へ移転。ベテランから無名の新人まで美術家の発表の場であり、建畠覚造、野見山暁治、篠原有司男、堀浩哉らの個展を数多く開催。またCONTINUUM ’83・オーストラリア現代美術展(83年7月)、パリ-東京現代美術交流展(84年5月)、ベルリン-東京交流展(88年4月)など海外画廊との交換展にも、日本の代表的な現代美術画廊として参加。氏が逝去した後、ギャラリー山口は1月末で閉廊。同ギャラリーの資料は東京文化財研究所に寄贈された。 

大川栄二

没年月日:2008/12/05

読み:おおかわえいじ  財団法人大川美術館の理事長兼館長であった大川栄二は、12月5日、大動脈弁狭窄症のため死去した。享年84。1924(大正13)年3月31日に、群馬県桐生市に生まれる。桐生高等工業専門学校色染化学科を卒業。1948(昭和23)年4月、三井物産株式会社に入社。しかし、49年から52年まで、肺結核のために入院、療養につとめる。その間に、様々な画家が描いた週刊誌の表紙を収集するようになり、大川の回想によれば、これを貼ったスクラップブック作成が、美術コレクションの原点となったという。69年、株式会社ダイエーに入社。76年、マルエツ株式会社(旧サンコー)代表取締役社長に就任。81年、株式会社ダイエー取締役副社長、同年株式会社ダイエーオーエムシー(旧ダイエーファイナンス)代表取締役会長となる。上記のようなサラリーマンの生活を送りながら、美術コレクションをすでにはじめており、コレクターの面では、86年、愛媛県越智郡玉川町(現、今治市玉川町)に、同地出身の実業家徳生忠常が、作品と美術館建設費を町に寄贈して設立された玉川近代美術館の創設にあたっては、大川は作品の収集に協力をおしまなかった。同美術館の創設にあたり刊行された名品選カタログに、大川は寄稿しているが、そこからはコレクターである大川自身の美術館像と美術に対する情熱がつぎのように記され、生活に根ざした美術の価値を深く信じていたことがうかがえる。「よい作品を出来るだけ多く、又、何度もみることが大事です。他のよい美術館とて同じです。公立はいうに及ばず、私立といえど殆んどは財団法人となっている以上、社会的な文化財であり、庶民のものなのです。画廊の高い絵は買えなくとも美術館にある絵を自分のものとして親しく厳しく、たのしく鑑賞し、庶民の文化媒体として精々利用されたら、いい絵は、眼にも心にとっても無限の教育者となり、それにより自然をみる鑑賞力も人をみる判断力も豊かとなり、街並をみることも、くたびれた生活の道具も、果物も、又、街のショーウィンドーの中にすら興味ある曲線や色を感ずるでしょう。そして、そんな価値観が自然と周囲の人間関係を大切にし、他人の痛みが判り、真の教養も生れ、素晴らしい地方文化が生き続けられるのです。」(「付ろく 絵画入門 絵のある生活と人生」より、『玉川近代美術館』、1986年)88年には、同美術館の名誉館長となった。さらに、1989(平成元)年4月、郷里である群馬県桐生市に同市の支援をうけて財団法人大川美術館が開館。同美術館の理事長兼館長に就任した。同美術館のコレクションは、大川が40年以上にわたって収集してきた近代日本洋画を中心に、欧米の近代、現代美術も加えて約6500点によって形成されている。特に、近代日本洋画については、大川が最初に関心をもった松本竣介、野田英夫の作品を核として、この二人と交友のあった画家、もしくは影響を受けた、あるいは影響を与えたと考えられる画家たちの作品が収集されており、美術史の固定化された視点から離れ、大川の鑑賞眼に基づく個人コレクションとしてユニークな内容となっている。翌90年、株式会社ダイエーを退社し、美術館の業務に専念するようになった。95年、群馬県総合表彰、2005年には群馬県文化功労賞を受けた。大川が美術について、あるいは美術館について語るとき、止まることを知らないほど情熱的であった。また、美術コレクターとして、多くの随筆を残しており、主要な著作は、次の通りである。 『美の経済学』(東洋経済新報社、1984年) 『美のジャーナル その投資と常識のウラ』(形象社、1989年) 『父と子のために 絵のみかた たのしみかた』(クレオ、1993年) 『美術館の窓から 僕はこころの洗濯屋』(芸術新聞社、1993年) 『二足の草鞋と本音人生』(上毛新聞社、2003年) 『新・美術館の窓から』(財界研究所、2004年) 

山岸信郎

没年月日:2008/11/04

読み:やまぎしのぶお  画廊主で評論家の山岸信郎(ペンネーム真木忍)は11月4日、東京女子医大病院で肺炎のため死去した。享年79。1929(昭和4)年5月9日、宮城県仙台市に生まれる。47年、仙台工業専門学校(仙台工専)から東北大学工学部へ転学。51年、東北大学を中退し、学習院大学文学部仏文科入学、59年卒業、後、同大人文科学研究科哲学専攻・修士博士前期課程に入学、64年まで在籍、富永惣一に学ぶ。62年、銀座の五番館画廊の運営に参加。『三彩』誌で68年1月号から69年7月号まで展評などを執筆する。新制作協会の事務局、日本橋の秋山画廊勤務をへて、69年2月、田村正勝、三浦武男とともに田村画廊を東京都中央区日本橋本町3-5に開設する。73年に画廊は日本橋本町4-15に移転するが、この間、後に「もの派」といわれる一群の作家たちの活気ある発表の場となる。75年日本橋本町4-9に真木画廊を開設する。77年田村画廊を閉廊し、神田西福田町2に新田村画廊(78年田村画廊と名称変更)を開設する。1990(平成2)年田村画廊を閉廊し、91年から真木画廊を真木・田村画廊として2001年まで運営した。日々の運営に関しては妻良枝の力も大きかった。山岸は拠点とした神田界隈の他の画廊、秋山画廊、ときわ画廊とともに70年代以降の貸画廊活動の一時代を築いた。さらに、79年から85年まで駒井画廊(日本橋室町3-1)の運営をし、また、郷里となっていた山形市に77年から画廊大理石を開廊し、移転しながら82年からギャラリールミエール、85年からはルミエール画廊の運営も行った。また、オフミュージアム的な展覧会の企画・運営に数多くあたり、90年代後半からの韓国との交流展をはじめ、草の根的な美術活動を行った点も忘れがたい。ミニコミ美術誌『あいだ』の追悼記事23本(155号から173号まで不定期に掲載)では、故人について数多くの作家、知人が文章をよせている。また、画廊に残された資料は、2010年国立新美術館アートライブラリーに収蔵された。

佐谷和彦

没年月日:2008/05/23

読み:さたにかずひこ  佐谷画廊代表であった佐谷和彦は、食道癌のため、5月23日に死去した。享年80。1928(昭和3)年、京都府舞鶴市に生まれ、第四高等学校を卒業後、京都大学経済学部に進学。53年、農林中央金庫に入社。73年に退社、株式会社南画廊(東京、日本橋)の経営者志水楠男に勧誘されて、同画廊に入社した。77年に同画廊を退社し、翌78年佐谷画廊を東京、京橋に創設した。82年に銀座4丁目に移転。2000(平成12)年に東京荻窪の自宅に移転。佐谷画廊としての活動は、日本人作家としては、池田龍雄、中川幸夫、阿部展也、山口勝弘、駒井哲郎、荒川修作、桑山忠明、松沢宥、清水九兵衛、福島秀子、山田正亮、若林奮、赤瀬川原平、戸谷成雄、辰野登恵子、小林正人等、また海外作家としては、パウル・クレー、エルンスト、マン・レイ、マルセル・デュシャン、ジャコメッティ、クリスト等の展覧会を開催した。とくに詩人瀧口修造と交流のあった作家をとりあげた「オマージュ 瀧口修造」展は、28回開催され、佐谷のこの詩人への敬愛の念がこめられていた。また佐谷の回想によれば、二十年にわたって銀行での勤務の経験があったからこそ、画廊経営、また社会と美術について、冷静な判断と深い認識が培われたと語っている。とくに美術作品を扱う画廊、画商の社会的、文化的な存在意義については、つぎのように明確な考えをもっていた。「美術品という特別な、文化に関わる商品を取り扱っているという認識を持つ必要がある。ところがここがむずかしいところで、文化には商売として成立しがたい要素がある。美術品の絶対的価値と市場流通価値の乖離が、このことを示している。だからといって儲かる作品であれば何でも扱う、というのでは単なるブローカーになってしまう。画廊、画商の主張が見えてこなければ、存在理由はない、と私は思う。もうひとつ言えば、美術品は質の問題に尽きる。質に対する意識がないと、輝いたしごとはできない。文化程度が高い社会とは、質の高い芸術が人びとの周辺に存在する社会のことである。つまり良質の美術品に感応し、感動し、それを理解し、楽しむ境地に達した人間が多く存在することが望ましい。画廊、画商はそのような社会に関わっていることに誇りを持てるような存在でありたい。」(『アート・マネージメント 画廊経営実感論』、平凡社、1996年)さらに画廊が現代美術を扱うことについても、その意義をつぎのように記していた。「現代美術を取り扱う画廊のもっとも重要なしごとは、新しいすぐれた作家を社会に送りだすことである。すぐれた作家は同時代の証言者であり、時代精神を表現している。このような作家を紹介することが、画廊の社会的義務である。」このように単なる画廊経営者にとどまらずに、美術、とりわけ国内外の現代美術に対する理解者、支援者としての活動は、特筆されるべきであろう。造詣が深いからこそ、同画廊で開かれた展覧会のカタログの「あとがき」として、作家論等を数多く寄稿している。また、アート・マネージメントや文化行政に対する発言も多く、これらは、上記の引用著述以外に、下記の著作にまとめられている。 『知命記 ある美術愛好家の記録』(佐谷画廊、1978年) 『私の画廊―現代美術とともに―』(佐谷画廊出版部、1982年) 『画廊のしごと』(美術出版社、1988年) 『原点への距離―美術と社会のはざまで』(沖積舎、2002年) 『佐谷画廊の三〇年』(みすず書房、2007年) 

林宗毅

没年月日:2006/04/03

読み:はやしむねたけ  実業家で、中国書画の収集家としても知られる林宗毅は、病気療養中のところ、4月3日、東京にて死去した。享年83。林宗毅は、台湾三大名家の第一に挙げられる板橋林本源家の嫡流として、1923(中華民国12)年4月22日、台北の板橋鎮に生まれた。字を志超といい、定静堂と号した。原籍は福建省漳州府龍渓県。1778(乾隆43)年、五代の祖である林應寅の代に台湾に移り、のちに應寅の子林平侯が居を台北県新荘鎮に定め、土地の開墾・塩の専売・貿易等によって財を築いた。1846(道光26)年から1853(咸豊3)年の間に、平侯の二人の子、林國華・林國芳が板橋鎮に移居し、林國華・林國芳それぞれの屋号である本記・源記を合わせて、林家は林本源と総称するようになった。福建の造園技術の粋を集めて築造した林本源園邸は、現在も台北県の古跡として一般に公開されている。定静堂をはじめ、来青閣、方鑑斎、汲古書屋等の別号は、いずれも林本源園邸の楼亭や書斎の名称に由来している。1944(中華民国33)年、台北帝国大学医学部に入学するも、翌年終戦のため退学。1948(中華民国37)年、国立台湾大学文学院外国文学系を卒業。1953(昭和28)年、東京大学大学院(旧制)文学部英文学科を修了。1973(昭和48)年、日本に帰化した。長らく、台湾・日本・アメリカなどで実業家として活躍するかたわら、30歳の頃から中国書画の収集に心を砕き、約1000件のコレクションを形成した。それらの収蔵品は、一般に公開して研究に役立てたいとの考えから、『定静堂中国明清書画図録』(求龍堂、1968年)・『定静東方美術館開館記念展目録』(凸版印刷、1970年)・『近代中国書画集』(中央公論事業出版、1974年)を編修発行、一方では林家にまつわる貴重な文献を『定静堂叢書』として刊行した。収蔵品は、台北の国立故宮博物院(1983・1984・1986・2002年)、東京国立博物館(1983・1990・2001・2003年)、和泉市久保惣記念美術館(2000年)に寄贈し、それにより紺綬褒章を受章(複数回)、中華民国教育部文化奨章(1984)、国立故宮博物院栄誉章(1986年)、中華民国総統奨状扁額(1986年)、中華民国行政院文化建設委員会「第6回文馨奨」の「金奨特別奨章」(2003年)を受章した。『定静堂清賞』(東京国立博物館、1991年)、『林宗毅先生捐贈書画目録』(国立故宮博物院、1986年)、『近代百年中国絵画』(和泉市久保惣記念美術館、2000年)等があり、三館に寄贈した収蔵品から名品を選んだ『定静堂中国書画名品選』(財団法人林宗毅博士文教基金会・国立故宮博物院、2004年)がある。1983(中華民国72)年、中華学術院名誉哲士。1987(中華民国76)年、中国文化大学名誉文学博士。

吉田清

没年月日:2006/01/26

読み:よしだきよし  東京美術倶楽部代表取締役の吉田清は1月26日、肺炎のため死去した。享年78。1927(昭和2)年2月11日、東京都に中村嵩山の四男として生まれ、吉田家養子となる。44年電機高校を中退。古美術商水戸幸に入店し、56年有限会社赤坂吉田を設立して同社代表取締役となる。58年、同社を有限会社赤坂水戸幸と改称。61年から63年まで東京美術倶楽部青年会理事長をつとめ、この間、第二次大戦で行方や消息が不明であった佐竹本三十六歌仙絵を一堂に集めた「佐竹本三十六歌仙展」を開催して注目された。東京美術倶楽部にあっては、81年に監査役、83年に取締役、1995(平成7)年に取締役副社長、97年に代表取締役となった。また、東京美術商協同組合にあっては、66年に理事、77年に専務理事、91年に理事長となり、99年全国美術商連合会会長となった。宗翠と号して茶の湯をよくし、79年財団法人小堀遠州顕彰会理事、84年光悦会役員、86年財団法人MOA美術館光琳茶会役員、2000年大師会理事となり、東都茶道界の重鎮であった。著書に『佐竹本三十六歌仙図録』(共著、東京美術青年会、1962年)、『古筆手鑑梅の露』(書芸文化院、1964年)、『写経手鑑紫の水』などがある。

三谷敬三

没年月日:2005/12/18

読み:みたにけいぞう  元株式会社東京美術倶楽部社長の三谷敬三は、12月18日午前6時56分、心不全のため川崎市内の病院で死去した。享年89。1916(大正5)年11月20日に生まれ、1934(昭和9)年3月に東京府立工芸学校を卒業後、自動車製造株式会社(現在の日産自動車株式会社)に入社。戦後同社を退社、戦時中休業していた家業の美術商三渓洞を継ぎ、営業を再開した。47年には株式会社三渓洞に組織変更し、代表取締役に就任。一方、51年には東京美術商協同組合の専務理事になり、59年には同組合の理事長、75年には顧問に就任した。また、53年に株式会社東京美術倶楽部の鑑査役、57年に同社常務取締役、69年に代表取締役社長、87年から1995(平成7)年まで代表取締役会長を勤めた。その間、77年から82年まで東京美術倶楽部鑑定委員会委員長を務め、また69年から87年まで五都美術商連合会の代表を務め、斯界において長年にわたり取りまとめ役に精励した。その業績に対して、80年11月に藍綬褒章を受章、87年11月には勲四等旭日小綬章を叙勲した。 

村越伸

没年月日:2005/12/17

読み:むらこしのぶる  村越画廊社長の村越伸は12月17日午後6時26分、心不全のため東京都内の自宅で死去した。享年83。1922(大正11)年1月1日、横浜市に生まれる。父は商船の機関長。横浜の本町尋常高小卒業後、母の知己を頼り14歳で古物商の芝・本山幽篁堂に丁稚奉公に入り、主人の本山豊実のもと古美術の基礎を身につける。また本山の知人だった吉田幸三郎の知遇を得、その義弟である速水御舟や、村上華岳、横山大観らの作品に惹かれ、日本画を中心とした新画商の道を志す。1943(昭和18)年に兵役につき、復員後の48年に銀座で画商として再出発。51年旧友の山本孝、志水楠男とともに東京画廊を拠点として営業、サム・フランシス、フンデルトワッサー等、現代美術をも扱う。56年銀座8丁目の並木通りに村越画廊を開設。59年横山操、加山又造、石本正の三作家による日本画のグループ展轟会(後に平山郁夫が参加)をスタートさせ、74年まで16回開催し、美術界に新風を吹き込んだ。71年日本画商相互会の会長(82年再選)、83年東京美術商協同組合理事長に就任。78年には評論家吉村貞司の提案により、多摩美術大学で横山操、加山又造の教えを受けた小泉智英、中野嘉之、松下宣廉、米谷清和によるグループ野火を発足させ、88年まで毎年開催した。1990(平成2)年藍綬褒章を受章。92年パリのギメ美術館に対する尽力を評価され、フランス政府からシュバリエ勲章を授与される。95年勲四等瑞宝章受章。著書に自叙伝『眼・一筋』(実業之日本社、1986年)がある。 

徳川義宣

没年月日:2005/11/23

読み:とくがわよしのぶ  徳川美術館館長で尾張徳川家21代当主の徳川義宣は11月23日午前5時5分、肺炎のため東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院にて死去した。享年71。1933(昭和8)年12月24日、伯爵堀田正恒の六男正祥として東京都渋谷区上智町に生まれる。尾張徳川家20代当主義知の長女三千子と結婚して徳川家の養子となり、義宣と改名した。56年、学習院大学政経学部経済学科を卒業し、東京銀行に就職。57年からは財団法人徳川黎明会の評議員、60年から同会理事を歴任。61年には東京銀行を退職し、62年から徳川黎明会徳川美術館担当理事、67年から同会専務理事をつとめた。この間東京大学農学部林学科研究生として林業を学ぶかたわら、東京国立博物館研究生となって美術史を学んで学芸員資格を取得した。76年からは徳川美術館館長を兼務、93年からは没した義父にかわって徳川黎明会会長をつとめた。そのほか日本工芸会顧問、東京都重要文化財所有者連絡協議会会長、全国美術館会議副会長、漆工史学会副会長、日本博物館協会理事、愛知県博物館協会理事、日本陶磁協会理事、茶の湯文化学会理事、東洋陶磁学会常任委員などをつとめた。徳川美術館に伝えられた尾張徳川家コレクションの保存に尽力するにとどまらず、研究を美術館活動の中心に据え、旧大名家コレクションを収集して館蔵品を増強し、87年には地元政財界の協力のもと展示室と研究室を充実させる美術館の増改築を実現させるなど、徳川美術館を個性の際立つ日本有数の私立美術館に育てあげた手腕と実績は特筆される。私立美術館博物館の地位向上ひいては日本の博物館活動の振興に寄与するところが多く、91年には博物館法制定40周年文部大臣表彰と日本博物館協会顕彰を、2002年には文化庁長官表彰をうけた。美術史学や歴史学など幅広い分野に造詣が深く、とくに源氏物語絵巻と徳川家康文書の研究で第一人者として知られた。なお、93年までの履歴と著作は『徳川義宣氏略歴 著作目録』(徳川義宣氏の還暦に集う会編集発行、1994年)に詳しい。 

木村定三

没年月日:2003/01/21

読み:きむらていぞう  美術品収集家の木村定三は1月21日午前7時7分、肺炎のため名古屋市中区の病院で死去した。享年89。1913(大正2)年3月1日、名古屋の肥料米殻仲買を生業とする家に生まれる。1929(昭和4)年、旧制熱田中学校を卒業、第八高等学校文科甲類に入学し、32年同校を卒業、東京帝国大学法学部に進む。同大学在学中の35年に高級官僚への道が約束される高等文官試験行政科に合格するも、翌年法学部政治学科を卒業すると直ちに名古屋に戻り家業に従事する。66年には新納屋橋ビルを建設し、大名古屋建物株式会社の社長に就任した。その美術好きは書画骨董に関心を寄せた父と兄の影響とみられ、コレクションの幅は中国北魏の彫刻から現代の作品にまで及んだが、とりわけ38年に名古屋丸善の画廊で開かれた熊谷守一の日本画の個展で強い感銘を受け、以後熊谷の芸術を賞揚し続けた。“法悦感”と“厳粛感”を第一義とする独特の芸術観を持ち、両者を兼ね備えた画家として熊谷を、また前者を代表する画家として小川芋銭、次いで池大雅を、後者の画家として浦上玉堂を第一とし、与謝蕪村がそれに続くとした。晩年には与謝蕪村「富嶽列松図」、浦上玉堂「山紅於染図」等の重要文化財、また熊谷守一、小川芋銭の作品を含む近世・近代の作品140点、北魏石仏等古美術品16点、考古工芸資料177件を愛知県美術館に寄託、さらには寄贈することを決め、これを記念し同館にて2003(平成15)年「時の贈りもの―収蔵記念 木村定三コレクション特別公開」展が行なわれるが、その開催を目前にしての逝去であった。同館では展覧会開催後も木村定三コレクション室を設け、寄贈品を常時公開している。

浅尾丁策

没年月日:2000/01/29

読み:あさおていさく  額縁制作、絵画修復家の浅尾丁策は、1月29日午前9時55分老衰のため自宅で死去した。享年92。1907(明治40)年9月27日、東京市下谷区に生まれる。家業は、浅尾払雲堂として、父の代からはじめた洋画用の筆を製造。1924(大正13)年、東京商業学校を卒業後、一時保険会社に勤務するが、その後神田神保町の画材店竹見屋に勤める。1927(昭和2)年、独立して画材一般を扱う浅尾払雲堂を経営する。42年、戦中の物資不足を補うために、洋画家たちの賛同を得て油彩材料研究会を設立。49年には、プールヴーモデル紹介所を設立。83年労働大臣表彰。1996(平成8)年、油彩画修復家として台東区より指定無形文化財となる。生涯にわたり、額縁制作、絵画修復などによって美術界に貢献した。父祖の代からの自叙伝として、『金四郎三代記 谷中人物叢話』(86年)、『続 金四郎三代記〔戦後篇〕 昭和の若き芸術家たち』(芸術新聞社 96年)がある。

萬野裕昭

没年月日:1998/03/04

読み:まんのやすあき  萬野美術館館長の萬野裕昭は3月4日午前3時55分、肺炎のため兵庫県西宮市の病因で死去した。享年91。明治39(1906)年8月17日大阪府泉北郡忠岡村(現・忠岡町)で生まれる。父は土木建築請負業の萬野組を経営していた。大正14(1925)年父より萬野組を引き継ぎ、昭和6(1931)年には合名会社南海鉄筋混凝土(コンクリート)工務店を設立、煙突建設請負業を始める。同15年株式会社萬野組を設立。戦後は不動産業を志し、その他にも船舶、運輸、外食産業、レジャーと多くの事業を手がける。その古美術収集については、青年時代に骨董類に興味を持ち、茶碗、香炉、徳利などを収集。戦時中は一時途絶えるものの、戦後しばらくして財閥・富豪が所持していた伝世品が流出しだすと、中国陶磁と茶道具を主に収集を再開し、琳派・肉筆浮世絵等の絵画、書蹟、さらには金工、刀剣・甲冑から染織へと範囲を拡大、東洋古美術に関しては仏像等直接信仰の対象となるもの以外は全てコレクションとして網羅されていると自負するまでに至る。その収集方法についても、美術館の展覧会を企画するかのようだともいわれるほど、各ジャンルにわたり系統的だったものであった。また収集を通じて細見良ら関西のコレクターや山根有三ら美術史家とも親交が深かった。もっともそのコレクションが国宝・重要文化財を含み一千点を超える屈指の収集家になっても表に出ず、好事家の間で「謎のコレクター」といわれたが、同57年所蔵する「佐竹本三十六歌仙斷簡 源公忠」がテレビで放映され、収集家としての存在が世間に知られるようになる。この頃にはすでに美術館建設の構想を固め、同62年財団法人萬野記念文化財団の設立が文化庁より認可、翌年大阪御堂筋沿いに萬野美術館を開館させた。平成元(1989)年文化芸術関係功労者として大阪府知事表彰を、また地域文化功労者として文部大臣賞を受ける。同6年には自伝『事業と美術と』を出版した。

岡村辰雄

没年月日:1997/08/20

読み:おかむらたつお  額装店岡村多聞堂の創業者で全国額縁組合連合会初代会長の岡村辰雄は8月20日午後4時36分、前立せんガンのため東京都新宿区の病院で死去した。享年92。明治37年10月31日長野県上田市に生まれる。大正元(1912)年、一家で上田から上京、深川門前仲町で時計屋を営むが、書画の売買を業としていた伯父の影響もあって表具師の仕事に惹かれていき、同6年伯父の仲介で表具店の原清廣堂に入門。昭和5(1930)年5月、多門堂を港区南佐久間町に創業。同11年、表装について記した『表装備考』を上梓、これを機に多く聞くことの尊さを知り従来の堂号“多門堂”を“多聞堂”に改める。同25年、表具の仕事を一切放棄し額装の製作に専念、とくに日本画額装の嚆矢となり、ステンレスなど新素材を積極的に取り入れ、建築様式の変化に対応した展示方法を開拓した。27年有限会社岡村多聞堂を設立。以後、東宮御所、新宮殿、吹上御所、国立劇場の装飾画の額装を手がける。30年、額に関する記録をまとめた『額装の話』を出版し、同年にブリヂストン美術館で「多聞堂額装展覧会」を開催、また全国額縁組合を創立。同42年より法隆寺金堂壁画再現に従事。同57年、自らの回想を綴った『如是多聞』を出版。同63年、額縁研究と製作による建築、美術界に対する功績に対し、第13回吉田五十八賞特別賞を受賞した。

内山正

没年月日:1996/09/29

読み:うちやまただし  元国立西洋美術館長、元文化庁次長の内山正は、9月29日午後10時28分、肺炎のため川崎市宮前区の病院で死去した。享年79。大正6(1917)年4月1日、佐賀県に生まれる。東京大学を卒業後、昭和25(1950)年大分県教育委員会、同29年岡山県教育委員会を経て、同35年文化財保護委員会無形文化課長、同38年文部省調査局国語課長となる。同42年に同省文化局審議官、同43年文化庁文化財保護部長、同47年奈良文化財研究所長、同49年文化庁次長、同51年国立劇場理事となる。同54年には国立西洋美術館長に就任、同57年まで務めた。同62年勲二等瑞宝章受章。

坂本光聡

没年月日:1995/10/22

読み:さかもとこうそう  真言三宝宗管長、清荒神清澄寺法王で鉄斎研究家の坂本光聡は10月22日午前9時15分、心不全のため自宅である兵庫県宝塚市米谷清シIの清荒神清澄寺で死去した。享年68。昭和2(1927)年10月22日清澄寺内に藤本元一の長男として生まれる。本名清一。同15年12月清澄寺第37世法主、坂本光浄に随い得度し、坂本家に入籍して坂本光聡と改名する。同22年種智院大学を卒業。同27年真言三宝宗宗務長・清澄寺副住職に就任する。先代法主が傾倒した富岡鉄斎の研究と作品収集を続け、同40年『世界の鉄斎』を刊行。同44年12月研究誌「鉄斎研究」を創刊した。同45年清澄寺境内に鉄斎作品の収蔵庫「蓬莱庫」を築造し、同50年4月には同じく境内に鉄斎美術館「聖光殿」を開館。同45年より、日本各地で鉄斎展を開催し、その作品紹介に努め、同61年には中国巡回「鉄斎展」を開催するのに伴い、上海、北京に赴いた。また、同63年ベルギーで開催された「ユーロパリアジャパン ’89」に参加して鉄斎展を開くなど、圏内にとどまらず、国際的に鉄斎作品の紹介を行った。陶芸にも造詣深く、荒川豊蔵の作品収集でも知られる。

中根金作

没年月日:1995/03/01

読み:なかねきんさく  大阪芸術大学長、浪速短大学長を務めた造園学者の中根金作は3月1日午後6時5分、心室粗動のため、京都府城陽市の病院で死去した。享年77。大正6(1917)年8月28日、静岡県磐田市下岡田170番地に生まれる。昭和10(1935)年静岡県立浜松工業学校図案科を卒業。同13年旧制東京高等造園学校(現・東京農業大学)造園学科に入学し、同17年11月戦時特令により同校を卒業する。同18年8月より京都府園芸技手として勤務するが同19年6月より21年2月まで戦地に赴く。同21年11月より技師として京都府に勤務。同27年10月京都府文化財保護課記念物係長となる。同37年同府教育委員会文化財保護課課長補佐となるが、同40年4月に依願退職し、京都大学工学部建築協会内日本建築庭園研究室主幹となる。翌41年9月中根庭園研究所を開設して日本庭園研究に従事するとともに、同44年4月より大阪芸術大学建築科教授として教鞭を取った。同46年4月より同大学環境計画学科長、同62年12月より同大学学長となり、翌63年5月からは浪速短期大学学長を兼務した。主要作品に京都の城南宮楽水苑庭園他神苑、足立美術館庭園、シンガポールのジュロン日本庭園、アメリカのジミー・カーター大統領センター内日本庭園、アメリカのボストン美術館日本庭園天心園などがあり、昭和49年に開催されたウィーン万博やドイツ連邦庭園博覧会などに日本庭園を出品した。日本造園学会評議員、日本造園修景協会理事、京都府文化財保護基金調査委員等をもっとめ、伝統的日本庭園の研究、保存に尽力した。

有光次郎

没年月日:1995/02/22

読み:ありみつじろう  元文部次官、前日本芸術院長の有光次郎は2月22日午後O時10分、脳こうそくのため東京都東久留米市の老人ホームで死去した。享年91。明治36(1903)年12月15日高知県高知市に生まれる。東京大学法学部を卒業して昭和27年に文部省に入り、戦後の混乱期に教科書局長、47年に文部事務次官に就任。6・3制を定めた教育基本法、学校教育法の起草をめぐりアメリカ側との折衝にあたるなど日本の教育・文化の振興に尽力した。同48年に退官したのち、社会教育協会理事長、映倫委員長、国語審議会会長、日本棋院理事長などを歴任したほか、東京家政大学長、武蔵野美術大学長などもつとめ、同54年から平成2年まで10年余にわたり日本芸術院院長として日本の芸術・文化の振興に尽くした。著書に『宗教行政』『戦後教育と私』『有光次郎日記」などがある。

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