本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





大下正男

没年月日:1966/02/04

美術出版社社長大下正男は、北海道より空路帰京の途次、全日空ボーイング機の東京湾上での事故により逝去した。享年66才。大下正男は明治33年1月10日、東京市小石川に生れた。父・藤次郎、母はる(春子)の長男、水彩画家として知られる父・大下藤次郎は、明治38年7月、水彩画の普及と発展を意図して水彩画を主とする美術雑誌“みづゑ〟を発行したが明治44年に没し、母の春子が刊行を継続した。(正男11才)。大下正男は、翌45年早稲田中学に進み、大正14年早稲田大学建築学科を卒業、曽根・中条建築事務所に勤務した。構造関係を主として担当し、昭和3年慶大医学部予防医学教室、昭和5年東京計器製作所、昭和10年慶応義塾幼稚舎、昭和11年三井銀行大阪支店、昭和12年慶大三田校舎新館などの建設にあたっている。昭和11年中条精一郎没したため昭和13年岡本馨とともに大下・岡本建築事務所を自宅に設け、家業の“みづゑ〟編集に従事しながら、昭和16年まで建築事務所を経営していた。大下・岡本建築事務所時代の作品には、川端竜子アトリエ、満州国立美術学校東京分校、橿原丸貴賓室・特別室等がある。一方“みづゑ〟も大正末頃から、これ迄大下春子を援けて編集にたずさわっていた水彩画家赤城泰舒に代わって次第に大下正男の編集となり、水彩専門の記事から一般洋画関係に内容は変ってゆく、昭和8年3月、初めて雑誌奥付に大下正男の名をあらわし、母、春子は発行人の名義となる。昭和16年建築事務所を解散し、美術図書出版に専念し、同年美術雑誌の戦時第一次統制に際し、“みづゑ〟は“新美術〟と改題し創刊号を出し、18年の第二次統制に際しては中心となって統合に当たり、藤本韶三とともに日本美術出版株式会社を設立し、“美術〟を19年1月から発行した。戦後、21年9月になって“美術〟を再び“みづゑ〟の名称に戻し、“三彩〟を発行、23年には新たに“美術手帖〟27年には“美術批評〟を創刊、更に美術単行図書の出版にも力を入れ、“美学〟、“ミューゼアム〟など研究雑誌の発行にも協力するなど、美術の普及、美術書の発展などに大きな功績をのこしている。晩年は、編集、出版の国際的交流に先鞭をつけ尽力していた。没後、大下正男編集委員会の下で、詳細な伝記、年譜、追想を収めた「追想・大下正男」(非売品)が同社から刊行されている。

杉栄三郎

没年月日:1965/06/08

東京国立博物館評議員、元帝室博物館総長法学博士杉栄三郎は6月8日文京区の山川病院で死去した。享年92才であった。略年譜明治6年(1873) 1月4日岡山県に生れる。明治33年 7月東京帝国大学法科大学政治科卒業。12月会計検査院検査官補となる。明治35年 清国政府の招聘により同国京師大学堂に赴任。45年満期歸国。大正2年 会計検査院検査官。大正7年 宮内省書記官、帝室制度審議会幹事。大正8年 10月宮内省参事官を兼任。12月法規整理委員。大正9年 帝室林野管理局主事。大正11年 図書頭。大正13年 諸陵頭事務取扱。臨事御歴代史実考査委員会委員。諸陵頭兼任。昭和7年 9月帝室博物館総長。昭和9年 8月同館研究室銓衡委員。昭和14年 5月依願免官。宮中顧問官。昭和26年 9月国立博物館評議員会評議員。昭和34年 9月同会会長。昭和40年 6月7日没。この間法学博士号をうけ、勲一等瑞宝章を授けられ、また昭和18年には正三位となった

河合弥八

没年月日:1960/07/21

文化財保護委員会委員長河合弥八は、かねて胆のう炎のため東京医科歯科大学附属病院に入院中閉塞性黄疸を併発し、7月21日逝去した。明治10年静岡県に生まれ、同37年東京帝国大学法科大学政治学科を卒業後、文部省に入り、のち佐賀県内務部学務課長、貴族院書記官、法制局参事官、貴族院書記官長等を経て、内大臣秘書官長、更に侍従次長、皇后太夫、帝室会計審査局長等を歴任した。昭和13年には勅選により貴族院議員に任ぜられ、同22年には静岡地区より参議院議員に選ばれ、同28年には参議院議長となった。政界引退後、同31年文化財保護委員会委員長となり、欧州に於ける日本古美術展、国立劇場建設準備等に手腕をふるった。政府はその逝去に当り、その生前の功を讃えて、従二位に叙し、併せて勲1等旭日桐花大綬章を贈り、天皇陛下より勅使の差遣があった。

北原鉄雄

没年月日:1957/03/28

株式会社アルス社長北原鉄雄は五反田逓信病院で心臓麻痺で逝去した。享年70歳。自宅世田谷区。明治20年9月北原白秋の実弟として福岡県柳川市に生れた。大正4年慶応義塾理財科を中退、「阿蘭陀書房」を創立、同6年阿蘭陀書房を「アルス」と改称した。大正初期、森鴎外、上田敏、谷崎潤一郎、志賀直哉、白秋などにより文芸復興運動の先駆をなした芸術雑誌「ARS」を刊行するとともに、詩歌を中心とした文芸書、美術書、写真、児童図書の出版に足跡を残した。ことに写真部門においては、最初の写真雑誌「CAMERA」を創刊し、また写真講座、技術書の発行など早くから未開拓の分野をきりひらき写真の普及啓蒙に大きな貢献をした。日本写真協会副会長でもあつた。

池長孟

没年月日:1955/08/25

旧池長美術館館長池長孟は、8月25日神戸市の自宅で胃潰瘍のため逝去した。享年64歳。明治24年11月24日神戸市兵庫に生れた。第三高等学校を経て京都帝国大学法科を卒業し、のち暫く文科に学んだ。大正11年米、英、仏、瑞、伊、墺、独、白の8ケ国を巡遊し、翌年帰国した。同12年私立育英商業学校の校主兼校長となつた。この前後から「荒つ削りの魂」「開国秘譚」等の戯曲を著し、また大正9、10年頃から蒐集した南蛮美術を収載した豪華版「邦彩蛮華大宝鑑」を出版した。同15年神戸市に池長美術館を設立し、多年にわたる南蛮美術を収蔵陳列し、これを公開した。昭和23年第1回兵庫県文化賞を受けたが、同26年美術館並びに収蔵美術品を神戸市に委譲した。これ今日の神戸市美術館である。近世以降の洋風美術を蒐集し、その散佚を防いだ功績は没し難いものがある。

後藤真太郎

没年月日:1954/01/27

株式会社座右宝刊行会取締役社長後藤真太郎は、腎臓炎で杏雲堂病院に入院加療中のところ、1月27日逝去した。享年60歳。明治27年5月28日、京都府に生る。京都絵画専門学校にて日本画を学んだが、この頃小出楢重と親交を結び、同じ頃「白樺」に刺戟され、また武者小路実篤の「新しき村」運動に参加した。およそ1年ののち昭和2年東京へ出た。この頃から白樺派の作家達と交つた。志賀直哉が「座右宝」(大正15年刊)を刊行したのち、同刊行会刊、岡田三郎助編纂の「時代裂」を手伝い、のち同会を引き継ぎ主宰者となる。以後、美学、美術史、建築、考古学関係の書籍及び画集等の専門的出版社として特異な存在となつた。此の間、日満文化協会評議員として中国・満洲方面へ毎年渡り、両国文化交流に出版面に於いて貢献した。又、昭和8年に創立した美術小団体「清光会」は、その会員にわが国の代表的な美術家を揃え、昭和29年の第19回展にいたるまで殆ど連年展覧会を開いて注目された。一方東西古美術品を愛し、陶器の蒐集家としても知られた。 主な刊行図書は、先の「座右宝」についで「聚楽」、「纂組英華」、「時代裂」、「Garden of Japan」、「熱河」、又、「考古学研究」を始めとする浜田青陵全集全4巻、伊東忠太の「支那建築装飾」(全9巻内6巻までで、博士死去のため未完成)水野清一・長広敏雄の「龍門石窟の研究」、池内宏「通溝」等である。戦後、雑誌「座右宝」を創刊したが、19号にして廃刊のやむなきに至つた。更に昭和26年より、水野・長広による「雲崗石窟」全15巻及び、田村実造・小林行雄の「慶陵」全2巻の刊行が始まり、両書共、夫々昭和27年、29年の朝日文化賞及び、日本学士院恩賜賞を受けた。自編著としては、「時代裂」(岡田三郎助共編)「華岳素描」「旅順博物館図録」等がある。

樺山愛輔

没年月日:1953/10/21

日米協会長、国際文化振興会顧問、国際文化会館理事長樺山愛輔は、10月21日神奈川県の自邸で脳動脈硬化症に気管支肺炎を併発死去した。享年88歳。慶応元年故海軍大将伯爵樺山資紀の長子として鹿児島に生れ、若くしてアメリカ、ドイツに留学、壮年時代は実業界で活躍した。のち貴族院議員、枢密顧問官となり、また国際文化振興会、東洋美術国際研究会等の理事長として日本文化の海外紹介に尽し、戦後は社会教育事業のためグルー基金の創設や国際文化会館の建設に尽力した。また、黒田清輝の縁故者として美術研究所(現東京国立文化財研究所美術部)の創立と発展につくした。

大塚稔

没年月日:1951/10/13

美術印刷業者として著名だつた大塚巧芸社々長大塚稔(号、鈍重)は病を得て10月13日伊豆網代の療養先にて逝去した。享年64歳。明治21年1月1日長野県浅間山麓に生れ、幼にして両親を喪い、12歳にて単身上京、具さに辛酸を嘗めつつ克苦勉励、写真技術及びコロタイプ印刷術を習得した。大正8年神田裏に大塚巧芸社を創業、同年日本美術院関係の出版物一切の依嘱を受けた。続いて宮内省、内務省、文部省等より美術印刷物及び貴重な文献類多種の複製を下命され、同18年文部省より技術保存証を受領した。同16年より3年を費し、郷里上田郊外に独力にて信州夢殿を建立し宝蔵の国宝救世観音像を安置した。美術を深く愛好し、名画の複製、美術図書の出版多数に亘つた。戦後株式会社大塚巧芸社を復興し、没後なほ遺業が続けられている。

芳川赳

没年月日:1951/07/09

美術出版界に名のあつた芳川赳は7月9日脳溢血のため豊島区の自宅で逝去した。享年55歳。明治28年10月20日長崎県島原市に生れ、県立島原中学を経て明治大学卒業、出版界に入り各種の著書を発行したが、雑誌「美術春秋(月刊)」「日本画傑作年鑑」等の編輯発行者として知られ、戦後は「美術鑑賞」を発行した。

飯田新太郎

没年月日:1951/05/03

高島屋取締役飯田新太郎は5月3日京都市に於て逝去した。享年67歳。明治17年飯田新七の長男として京都市に生れた。同42年早稲田大学商科を卒業、家業に就き、大正15年取締役に就任、同年より2ケ年の間欧米を巡遊した。晩年居を京都に定め、美術工芸の技術向上に意を用い、斯界に貢献した。

松方幸次郎

没年月日:1950/06/27

かつて世界的に有名であつた松方コレクシヨンの主松方幸次郎は、6月27日鎌倉市の自宅で逝去した。享年84。公爵松方正義の三男で川崎造船社長、松方日ソ石油社長、衆議院議員として実業界、政界に活躍した。第一次世界大戦後ヨーロツパ各国に於て、多くの西洋絵画及び彫刻、工芸品を購入し、松方美術館を計画したが、完成を見ずその蒐集品は四散した。しかし、わが近代美術の発達に与えた功績は極めて大きい。又彼の蒐集した浮世絵は戦時中帝室へ献上し今日国立博物館に移管されて、その量と質に世界有数のものとして知られている。

尾川藤十郎

没年月日:1950/04/24

東京都美術館長尾川藤十郎は東京杉並の自宅で4月24日脳溢血のため死去した。享年64。明治20年群馬県に生れ、大正3年東京美術学校師範科を、更に広島高等師範学校教育科を卒業した。東京都美術館主事を経て館長をつとめた。

野上豊一郎

没年月日:1950/02/23

能楽研究家として知られた野上豊一郎は2月23日東京世田谷の自宅で脳出血のため死去した。享年68。明治16年大分県に生れ、同41年東大文学部英文科を卒業、法政大学教授を経て昭和21年法政大学総長となつた。「能・研究と発見」「幽玄と花」等の著書があり、能の海外紹介に活躍した。能面に関する造詣も深く、重要美術調査委員会の嘱託であつた。

芝田徹心

没年月日:1950/02/06

元東京美術学校長芝田徹心は2月6日三重県の自宅で心臓弁塞のため死去した。享年82。明治12年三重県に生れ、同36年東大哲学科を卒業、八高校長 女子学習院長等を歴任した。昭和11年から15年迄東京美術学校長をつとめた。

田中松太郎

没年月日:1949/03/10

美術印刷に功労のあつた田中松太郎は3月10日死去した。享年87。号を半七・★籟といい、文久3年富山県に生れた。印刷研究のために西洋を巡り、日本の印刷技術及び三色版印刷に一進歩をもたらし、昭和16年毎日新聞社から印刷功労賞を受けた。パンの会の会員でもあつた。

牧野伸顕

没年月日:1949/01/25

元内大臣牧野伸顕は1月25日千葉県葛飾郡の自宅に於て逝去。享年89。維新の元勲大久保利通の次男として生れ、外務書記官を出発点として官界に入り、内政外交の要職を経て、第一次大戦後講和全権委員、宮内大臣、内大臣を歴任した。美術行政にも関心を持ち、明治39年西園寺内閣の文相に任ぜられかねての抱負に従い、美術行政家、美術家とはかつて同40年文部省に美術審査委員会を創立し、文部省美術展覧会を開設して美術の発展に貢献した。また大正13年黒田清輝の逝去に際し、その遺言執行人となり久米桂一郎、正木直彦、矢代幸雄等と協議して、わが国唯一の美術研究所(現在文化財保護委員会所管)を創立した。

小島烏水

没年月日:1948/12/13

浮世絵版画の研究と蒐集家として知られた小島烏水は12月13日東京杉並の自宅で脳溢血のため死去した。享年74。本名を久太といい、明治8年高松市に生れ横浜商業を卒業後銀行員となつて外地にも勤務した。日本山岳会長として日本アルプスの紹介、紀行文の発表などと共に浮世絵の研究に努め、大正4年雑誌「浮世絵」を発刊主宰した。美術関係著書の主なものに「浮世絵と風景画」「江戸末期の浮世絵」等がある。

清水澄

没年月日:1947/09/25

帝国芸術院長清水澄は9月25日熱海で死去した。享年80。明治元年金沢市に生れ、同27年東京帝大法学部を卒業した。法学博士で行政学の権威であり枢密院議長をつとめた。昭和13年初代帝国芸術院長となり、芸術振興にも力を尽した。

飯田新七

没年月日:1944/02/03

高島屋前社長飯田新七は2月3日京都東山区呉竹庵本邸で逝去した。享年86。安政6年京都に生れ、高島屋四代目の当主として呉服貿易業に専念、今日の隆盛をなし、我国の染織業の指導者として大いなる功績を残した外、社会事業にも貢献する所が多かつた 第4回内国勧業博覧会に審査官となつて以来、しばしば各種博覧会の委員となり、昭和10年から大礼記念京都美術館の評議員でもあつた。

大原孫三郎

没年月日:1943/01/18

大原孫三郎は1月18日狭心症のため倉敷市の自宅で逝去した。享年64。明治13年に生れ早稲田大学専門部を卒業、実業界に重きをなしたほか、社会問題研究所、労働科学研究所、美術館を創立し、文化事業にも大きい功績があつた。その西欧絵画の蒐集品は大原コレクシヨンとして知られるが、また児島虎次郎その他美術家のよい後援者でもあつた。

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