本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





廣田熙

没年月日:1995/02/06

読み:ひろたひろし  古美術販売業壷中居店主の廣田熙は2月6日午前7時40分心不全のため東京都目黒区碑文谷の自宅で死去した。享年85。明治43年6月11日富山県富山市に生まれる。富山県立富山商業学校を卒業し、昭和13(1938)年叔父広田不孤斎が合資会社壷中居を設立するとその代表社員となった。同24年株式会社壷中居を設立して代表取締役社長に就任。古陶磁を主な対象とし、同25年日本陶磁協会理事となるなど、陶磁器研究にも寄与するところがあった。同52年壷中居取締役店主となる。同24年東京美術倶楽部取締役、東京美術商組合理事となり、同組合顧問をもつとめた。

安宅英一

没年月日:1994/05/07

読み:あたかえいいち  元安宅産業会長で、世界有数の東洋陶磁コレクション「安宅コレクション」を収集した安宅英ーは、5月7日午後1時、老衰のため東京都港区の病院で死去した。享年93。明治34(1901)年1月1日、安宅産業の前身である安宅商会の創立者弥吉の長男として香港に生まれる。大正13(1924)年、神戸高等商業学校を卒業して翌年安宅商会に入社し、向年より昭和9(1934)年まで同商会取締役をつとめる。戦後、同20年より22年まで安宅産業株式会社取締役会長をつとめた後、同30年より40年まで再び同役にあり、同40年相談役社賓に退く。この問、同26年に安宅産業株式会社が美術品収集を開始した際、その収集責任者となり、以後、同社が経営危機に陥り美術品収集を停止する同50年までの聞に東洋陶磁を中心とする総数約1000点、うち国宝、重要文化財十数点を含む「安宅コレクション」を築ぎ上げた。同コレクションの東洋陶磁は同52年、安宅産業株式会社が伊藤忠商事株式会社に合併されるのに伴い、エーシー産業株式会社に移管されたが、同57年に住友グループ21社によって大阪市に寄贈され、これを受けて大阪市立東洋陶磁美術館が設立された。美術の他、音楽活動の支援も行い、同12年以降、東京芸術大学音楽学部に奨学金「安宅賞」を拠出して現在に至っている。

油井一二

没年月日:1992/07/21

読み:ゆいいちじ  美術年鑑社社長で美術品蒐集家でもあった油井一二は、7月21日午後7月18分、肝不全のため東京都渋谷区の東海大学病院で死去した。享年82。明治42(1909)年10月30日、長野県北佐久郡に生まれる。大正13(1924)年三井尋常小学校高等科を卒業し、家業の自作農を継ぐが、昭和3(1928)年肋膜炎を患い、療養中に上京を決意。同年5月に上京して神東電業社を経営する義兄のもとで働きつつ、電気学校の夜間部で学んだ。同6年末、東亜美術協会に絵画の出張販売員として入社。同7年釜山、京城などに出張するが、同年4月、仕事に行き詰りを感じて東亜美術協会を退社する。その後、証券会社等へ転職を試みたのち、同8年1月、東洋美術協会に外交員として入社し再び絵画販売に従事する。同9年6月、荒井辰之助、清水栄一郎と共同出資し、日東美術協会を創立。以後、中国東北部、朝鮮半島、台湾等まで販路を広めた。同12年より14年まで、日中戦争に従軍し、同14年10月、日東美術協会を独力で再開。同16年11月、東京・上野広小路に美術店を開いた。戦後、同22年、肖像画の制作依頼を業務の一環として始めた。同23年、山田正道から「美術年鑑」復刊の相談を受け出資。同25年鉄販売、同28年人造米製造などを試みるが、同29年武者小路実篤の助言を得て再び絵画販売を始め、現代日本画を中心に販路を開いて成功をおさめた。同40年「美術年鑑」の権利を創刊者山田正道から買いとり、同年株式会社美術年鑑社を設立してその代表取締役社長となった。同46年「新美術新聞」を創刊。出版、絵画販売の一方で蒐集した作品の一部は郷里佐久市に寄贈し、同58年に開館した佐久市立近代美術館は、約780点の油井コレクションを母体としている。同館には平成2年に油井一二記念館が併設され、没後の同5年7月、同館で「開館10周年記念展「近代日本美術の流れと油井コレクション」が開催された。著書に『美の宝庫』(昭和51年、美術年鑑社)、自伝『風呂敷画商一代記』(同63年)、続風呂敷画商一代記『片目の達磨』(平成2年)等がある。

木村東介

没年月日:1992/03/11

美術品蒐集家で古美術店「羽黒洞」の創立者であった木村東介は3月11日午前0時50分、心不全のため東京都文京区の自宅で死去した。享年90。明治34(1901)年4月8日、山形県米沢市に生まれる。米沢商業学校を中退して上京し、一時憲政公論社に入社して侠客となったが、のち美術商を志し、昭和7(1932)年、美術商「羽黒洞」を創立する。同11年東京・湯島に店舗を開く。柳宗悦、吉川英治ら広く文化人と交流し、肉筆浮世絵、大津絵、泥絵のほか、幕末、明治初期の洋画を蒐集。また、長谷川利行、斎藤真一ら異色の画家たちを無名時代から支援した。著書に『奥州げてとランカイ屋』『女坂界隈』『浮世絵渡世』等がある。

石黒孝次郎

没年月日:1992/03/02

古美術品蒐集家で古美術商でもあった石黒孝次郎は3月2日午前6時14分、心筋こうそくのため東京都港区の東京都済生会中央病院で死去した。享年75。大正5(1916)年3月28日東京に生まれる。昭和16(1941)年京都帝国大学法学部を卒業して三井物産に入社。応召を経て戦後の同21年西洋古美術商「三日月」を創立した。同33年高級フランス料理店「クレッセント」を東京芝に開き、同店5階の陳列室で自らの蒐集品を公開した。中近東、オリエントの古美術品を中心に蒐集し、『古く美しきもの2-石黒夫妻コレクション』(昭和62年)等の著書がある。

井口安弘

没年月日:1990/11/12

20数年間にわたってアメリカ・マサチューセッツ州ボストンのボストン美術館で美術品の保存修復に携わってきた同美術館東洋部保存修復室長井口安弘は、現地時間の11月12日午前4時、心臓マヒのため、マサチューセッツ州ブルックラインの自宅で死去した。享年59。昭和6(1931)年3月6日兵庫県尼崎市に生まれる。14才で京都に出て、おじの山川文吾に表具と文化財修理を学ぶ。15年の修業ののち、昭和36年独立。この間、平泉中尊寺の中尊寺経をはじめ、高山寺、南禅寺、本願寺、知恩院、三井寺、高野山、宗像神社、太宰府天満宮など多くの社寺の国宝、重文級の絵画、書籍類の修復に携わり、表装装潢師連盟に所属した。昭和38年ボストン美術館東洋部長の富田幸次郎、ロバート・トリート・ペイン・ジュニアの招請により、同美術館東洋部の保存修復室に室長(conservator)として就任。以後、没時まで20数年にわたって、ボストン美術館の東洋美術品の保存修理にすぐれた手腕を発揮した。昭和47年、ボストン美術館がその所蔵品を日本でも公開するようになって以降、それら優品に施された完璧ともいえる保存の手腕は、広く日本でも知られるようになり、63年宇野宗佑外務大臣から外務大臣表彰を受けている。この間、49年には、アメリカ芸術奨励基金The National Endowment for Artsの許可を得て、台湾の故宮博物院で絵画の伝統的な修復と表装の技術を研究した。近年では、同美術館に収蔵されていた北斎や広重の浮世絵版木の確認と、その日本での展覧会開催にも大きく貢献した。自己に妥協を許さない厳しい仕事と経験に基づく幅広いアドバイスは、多くの人々の尊敬を集め、彼が好んだ民謡とユーモアのセンスは、多くの友人を生んだ。当研究所の研究員をはじめ、アメリカに渡った日本の研究者で彼の厚誼を受けた者も多い。ボストン美術館では平成2年秋、東洋部創設100周年を迎えて大規模な記念展が開催され、また、翌3年には日本でボストン美術館やフェノロサらを紹介するテレビ番組が数度にわたって放映された。その中で彼の仕事もたびたび紹介されたが、そうした海を渡った優品を支えてきた彼の急逝に、多くの人々の哀悼が寄せられた。

大河内信威

没年月日:1990/07/12

読み:おおこうちのぶたけ  日本陶磁協会理事長、茶の湯同好会・古今サロン会副会長の大河内信威は、7月12日心不全のため東京都渋谷区のセントラル病院で死去した。享年87。明治35(1902)年7月24日東京・下谷区に生まれる。号は風船子。一時、磯野姓を名のる。父正敏は旧大多喜藩主大河内正質の長男で、東京帝国大学工学部教授ののち、戦前に新興コンツェルン理研産業団を主宰した実業家でもあり、また陶磁器への造詣が深く『柿右衛門と色鍋島』などの著書でも知られる。旧制浦和高等学校卒。戦前は大多喜天然瓦斯を経て、理研産業団各社の専務などをつとめ、戦後は理研科学映画専務ののち、東邦物産嘱託となった。この間。陶磁史、茶道史の研究を深め、なかでも楽茶碗に関しては父子代々のコレクターでもあり、論考、著書を通じ楽焼研究に大きく寄与した。また、実験茶会、陶芸教室などをおこし、自ら作陶もした。その交遊も多彩で、美術家では岩田藤七、近藤悠三、荒川豊蔵、中川一政らがあった。著書に『茶碗百選』(平凡社)、『古九谷』(日本陶磁協会)、『楽茶碗』(河原書店)、『茶の湯古今春秋』等がある。

岡行蔵

没年月日:1990/07/12

装潢師岡行蔵(2代目岩太郎)は、7月12日午後零時16分、心不全のため京都市東山区の京都専売病院で死去した。享年80。初代岩太郎の三男として、明治43(1910)年3月9日京都市で生まれる。昭和10年三重県伊賀上野の重藤芙美と結婚。昭和12年2代目岩太郎を襲名した。昭和22年頃から国宝、重要文化財などの国指定文化財を中心に古文化財の保存修理に従事、多くの名品の修復を手掛けて、昭和58年岩太郎の名跡を長男興造に譲るまで、工房全体の運営を監督していた。その功績は、職人の手技と伝統的美意識を守る一方で、素材の復元開発や美術品の調査記録を積極的に取入れ、伝統的表具師を近代的な絵画修復の専門職として発展させた事である。行蔵の父、初代岩太郎は、新画の表装に携り多くの日本画家と親交を結び、彼らの美意識を吸収することに熱心であったが、昭和5年に開かれたイタリア展のための表装には特別に裂を誂えたり、同年に西本願寺から売り出された三十六人歌集(石山切)の多くを表装し掛軸に仕立て、そのために桐材で太巻添え軸を工夫したり、伊勢集の二頁続きの料紙には両面装丁を工夫するなど、装潢技術の応用に早くから進取の態度を見せるかたわら、前田家から売り出された古裂を求めるなど古画や古裂にも積極的な興味を寄せていた。このような初代岩太郎の、新技術に対する積極性、表装に取り合わせる裂に対する執念に感化された行蔵は、戦後古画の修復を主にするようになってその技量を開花させて行く。まず、絵が描かれた時代に近い雰囲気を持つ裂の復元に取り組む。描かれた時代にはなかった金欄で表具された平安、鎌倉絵画に対する反省から、修理に際しては、長年収集の古裂の中から絵画の製作時に近いと思われる裂を取り合わせ、いわゆる名物裂一辺倒の取り合わせを控え、それぞれの時代に近い装丁を心掛けることを念願としていたのを、いま一歩進めて裂を復元してより理想的な取り合わせを実現し使用した。幸い西陣の広瀬敏夫の協力を得て、綾地綾文の応夢衣、欄地綾文の大燈国師墨蹟関山字号の中廻し裂から始め、昭和58年までには、数十種類の裂を復元し使用している。裏打ちなどに不可欠な手漉和紙についても、吉野や近江の紙漉と協力して、古法による製造の復活や雁皮と楮の混抄紙の開発を行う一方、古画の修復に不可欠な材料についても、絹本絵画の欠失部補修に使用する絵絹の復元を行うかたわら、あたらしい補絹の人工劣化法を開発するため当研究所に支援を求め、その成果として絵絹を原子力研究所の電子線によって人工劣化させる方法を完成した。伝統的素材の科学技術による加工と言う点で画期的な出来事であった。また。絵画や書跡・文書などの修復に、早くからエックス線透過写真、赤外線反射写真、紫外線蛍光および反射写真による調査法を取入れ、美術史研究者と共に修理中しか見ることの出来ない本紙の状態を観察することによって(例えば、来振寺蔵五大尊像の裏面)、赤外線写真でのみ半読可能な銘記が発見されるなど、貴重な発見をしてきた。昭和22年から58年までに修復をした主な美術品天球院方丈障壁画 昭和25年度、真珠庵方丈障壁画 昭和26年度、平家納経 昭和31~34、45~46年度、信貴山縁起絵巻 昭和34年、47~48年度、大燈国師画像 昭和38年度、紫式部日記絵詞 昭和41年度、瓢ねん図 昭和42年度、両部大経感得図 昭和44~46年度、伴大納言絵詞 昭和44~46年度、粉河寺縁起 昭和46~47年度、五大尊像 昭和51~53年度、伝源頼朝像 昭和54~55年度、伝平重盛像 昭和54~55年度、王昭君図 昭和56年度昭和24年から25年まで京都表装文化協会会長昭和33年から39年まで京都表装文化協会副会長昭和38年から昭和47年までと、昭和54年から58年まで国宝修理装潢師連盟理事長昭和51年11月紫綬褒章受章昭和55年から昭和58年まで、京都国立博物館文化財保存修理所 修理者協議会会長昭和56年IIC(国際文化財保存学会)フェロー会員昭和58年勲四等瑞宝章昭和58年京都府文化財保護基金から第1回功労賞

橋本兵藏

没年月日:1990/06/23

画材店「月光荘」の創業者橋本兵蔵は、6月23日冠不全のため東京都文京区の日本医科大学付属病院で死去した。享年96。明治27(1894)年6月10日、富山県中新川郡に生まれた。大正6年、東京・銀座で画材店を創業、店名の「月光荘」は与謝野鉄幹・昌子の名付けによるもので、ヴェルレーヌの詩の一節「大空の月の中より君来しや ひるも光りぬ 夜も光りぬ」に由来するという。以来、自ら本名をすて「月光荘おじさん」と自称し続けた。昭和15年、コバルト・ブルーの製作技法を発見し純国産絵具を誕生させたのをはじめ、戦後の同46年には世界油絵具コンクールにおいて、自家製のコバルト・バイオレット・ピンクで一位になり、ル・モンド紙に「フランス以外の国で生まれた奇跡」との評を得るなど、生涯にわたり画材の創案工夫につとめ特許製品も数多い。一方、梅原龍三郎、藤田嗣治、猪熊弦一郎、脇田和など多彩な画家たちが「月光荘」に出入し親しんだことでも知られる。

粟津慈朗

没年月日:1989/12/10

粟津画廊社長、元東京美術商協同組合理事の粟津慈朗は12月10日午後零時24分、肝硬変のため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年76。大正2(1923)年に北海道札幌市に生まれ、昭和5(1930)年、京都市山内春静堂美術店に入る。翌年同店東京店に移り、同15年独立。19年応召し、20年に復員して下北沢で開業。同22年日本橋で営業を始め、41年株式会社粟津画廊として組織改革を行ないその社長となった。二朗とも号す。戦後間もない時期から現代日本画を中心に作家に活動の場を提供しその振興に寄与した。

松岡清次郎

没年月日:1989/03/20

松岡美術館館長で美術蒐集家の松岡清次郎は、3月20日午後4時31分、呼吸不全のため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年95。明治27(1894)年1月8日、東京都京橋区に生まれる。同45年中央商業学校を卒業して銀座の貿易商に勤務し、数年後に独立。雑貨輸出入業に従事し、第一次世界大戦時に不動産業、冷蔵倉庫業、ホテル業など多角的に事業を拡大。昭和7(1932)年、松岡創業を開設する。一方、古美術品蒐集を始め、初期には日本画を、戦後は中国陶磁を中心に蒐集。昭和49年6月「青花双鳳草虫図八角瓶」を落札して注目されたほか、「青花龍唐草文天球瓶」の入手、昭和55年シャガールの「婚約者」、同61年「釉裏紅牡丹蓮花文大盤」の落札などで話題となった。同50年11月、コレクションの公開のために東京都港区新橋5-22-10の自社ビル内に松岡美術館を設立。中国陶磁、日本画、西欧絵画、インド仏教彫刻など幅広いコレクションが展観されている。

平野政吉

没年月日:1989/03/13

美術品蒐集家、平野政吉美術館館長の平野政吉は、3月13日午後7時2分、心筋こうそくのため秋田市の中通病院で死去した。享年93。明治28(1895)年12月5日秋田県秋田市に生まれる。米穀商から広大な田畑を所有する大地主となった初代政吉を祖父に、家業を継ぐ一方金融業をもとにした「平野商会」を設立した二代政吉を父に、その長男として生まれ、幼名精一。明徳小学校卒業後、秋田中学に入学するが中退。20歳頃から飛行機に興味を持ち、日本帝国飛行協会の小栗常太郎の主宰する小栗飛行学校に5年間ほど学ぶなど、新奇なものに逸早く傾倒。一時、画家を志すなど美術にも興味を持ち、昭和4(1929)年、洋画家藤田嗣治の帰国展を見、同9年の二科展で藤田の知遇を得、その作品に強くひかれ蒐集を始める。同12年には藤田を秋田に招き大壁画「秋田の行事」の制作を依頼するなど、藤田嗣治のコレクターとして知られるようになる。同13年、私立美術館設立に着手するが、第二次世界大戦下の資材不足のため頓坐し、戦後の42年5月5日、財団法人平野政吉美術館を開館してその館長となった。藤田嗣治のコレクションのほか、郷里に関連する秋田蘭画を中心とした初期洋風画、西洋絵画など幅広く蒐集、公開を行ない、豪胆放逸な人柄とともに広く世に知られた。

鄭詔文

没年月日:1989/02/23

美術品蒐集家、財団法人高麗美術館理事長の鄭詔文は、2月23日午後2時、肝不全のため京都市東山区の京都第一赤十字病院で死去した。享年70。大正7(1918)年11月2日、朝鮮半島慶尚北道に生まれる。同14年、両親と共に来日。働きながら小学校を卒業し、戦後、飲食店などを経営する一方、朝鮮半島の美術品を蒐集。また、昭和44年から56年まで朝鮮文化社から季刊雑誌「日本の中の朝鮮文化」を刊行した。同63年10月25日、蒐集した高麗青磁、李朝白磁などの陶磁器、仏像、書画、家具など1700点あまりを所蔵する高麗美術館を自宅のあった京都市北区紫竹上ノ岸町15に設立し、財団法人とした。在日韓国人一世としての自己の体験から、美術品を通して故国の文化を理解、顕彰し広く共感を分かとうとしたもので、朝鮮考古・美術の調査、研究もあわせて行ないたいとの遺志を汲んで、現在は「高麗美術研究所」があわせて設立されている。

山本孝

没年月日:1988/06/09

東京画廊を設立し日本の現代美術の展開に寄与した山本孝は6月9日午後6時35分、肺しゅようのため東京都中央区の国立がんセンターで死去した。享年68。大正9(1920)年3月12日、新潟県村上市に生まれる。昭和4(1929)年上京。東京市池袋第二小学校高等科を卒業し、8年、骨董商平山堂商店につとめる。戦後、同20年再び平山堂商店に入り、23年独立して数寄屋橋画廊を設立。25年に同画廊を解散し翌26年東京画廊を設立する。33年斎藤義重展を開催し、その後前衛的な現代作家の作品を次々と紹介。桂ゆき、白髪一雄、高松次郎、前田常作、豊福知徳、川端実、李禹煥などの個展を開き、また、フンデルト・ワッサー、イブ・クラインなど海外の作家の紹介にもつとめた。33年日本洋画商協同組合の創立に参加し、53年より60年までその理事長を務める。数寄屋橋画廊時代の同僚、志水楠男らとともに現代美術を対象とする画廊の創成期をになった。

安達健二

没年月日:1988/03/12

元文化庁長官、前東京国立近代美術館館長、文化庁顧問の安達健二は、3月12日肺炎のため東京都千代田区の東京警察病院で死去した。享年69。文化行政全般に多大の功績のあった安達は、大正7(1918)年12月22日愛知県春日井市に生まれ、昭和20年東京大学法学部政治学科を卒業、同年文部省に入省した。終戦直後の同省で教育基本法、文化財保護法などの制定を手がけた。同28年文化財保護委員会無形文化課長となり、国指定重要無形文化財、いわゆる「人間国宝」制度をつくった。以後、初等中等教育局教科書課長、大臣官房人事課長、社会教育局審議官、文化局審議官、文化局長等を歴任し、同43年文化庁次長となり、同47年今日出海に継ぐ第二代文化庁長官に就任、同50年9月まで在任した。同51年1月東京国立近代美術館館長となり、61年3月退官、4月文化庁顧問となった。東京国立近代美術館館長在任10年の間、極めて精力的に同館の運営にあたった。同52年旧近衛師団司令部庁舎跡利用に関し、室内の改装を施し東京国立近代美術館工芸館として開館したのをはじめ、本館の収蔵庫増築を行い、同61年には東京国立近代美術館フィルムセンター相模原分館の竣工をみた。さらに、京橋の同館フィルムセンター建て替え計画も軌道にのせた。一方、同館は開館以来日本近代美術作品の収集を基本としていたが、今世紀の海外作品を含む国際的コレクションとする収蔵方針を打ちたて、ピカソ、ベーコン等の作品を在任中収蔵した。これに関連し海外展の開催にあたっても自ら尽力し、シャガール展(同51年)、マチス展(同56年)、ピカソ展(同58年)、退官後の展観となったゴーギャン展(同62年)等、国内で行われたこれらの作家の展覧会としては最も充実した内容に富む企画展に関与した。また、同52年にはアメリカから日本人画家による戦争画の一括返還を受け、これらを美術作品として部分的に公開する途を開いた。この間、大英勲章(同51年)、フランス芸術文化勲章(同52年)、イタリア共和国勲章(同53年)、世田谷区制55周年特別文化功労章(同62年)等を受章する。没後勲一等瑞宝章受章。著述に『教育基本法の解説』『中等教育の基本問題』『文化庁事始』『悠々閑々 画家の素懐』(日本画家編)などがある。

菱田春夫

没年月日:1987/01/14

菱田春草の長男で日本美術院理事・前事務局長の菱田春夫は、1月14日午後3時39分、心不全のため東京都目黒区の東京国立第2病院で死去した。享年84。明治35(1902)年1月17日東京府下谷区に、日本画家菱田春草の長男として生まれる。春草が明治44年36歳で死去したのち、大正8年横山大観に師事して日本画を学び、のち日本美術院研究会員となる。大正14年日本美術院の事務を委嘱され、昭和17年財団法人岡倉天心偉績顕彰会の設立に伴い、その事務も兼任した(27年まで)。以後、日本美術院の運営の任にあたり、33年日本美術院が財団法人となるに際し主事(54年3月まで)となった。また、36年日本美術院評議員、54年同理事となるなど、斎藤隆三を継いで日本美術院運営の大任にあたった。春草の画集『菱田春草』(大日本絵画巧芸美術、昭和51年)の編集などのほか、「父春草の思い出」(『ゆうびん』3-10、昭和26年10月)や、数々の春草の図書、展覧会図録の序文などを書いている。春草の作品の鑑定家としても知られた。

北原義雄

没年月日:1985/11/11

雑誌『アトリエ』を創刊し、アトリエ出版社長として美術図書の刊行に尽力した北原義雄は、11月11日午前3時7分心不全のため東京都中野区の小原病院で死去した。享年89。明治29(1896)年1月31日福岡県柳川市に生まれる。詩人北原白秋の実弟。旧制麻布中学校卒業。義兄山本鼎と美術雑誌『アトリエ』を企画し大正13年にアトリエ社を創立。月刊誌『アトリエ』のほかゴッホ、ルノアール、セザンヌらの画集を翌14年に刊行して以来、西洋美術画集、油絵、水彩、パステルなどの各種技法書、個人作家画集など多くの美術書を編集、出版する。戦時中、雑誌統合のため実兄北原鉄雄が社主となっていたアルス社と合併し北原出版株式会社とするが、戦後の昭和26年アトリエ社を復活し月刊『アトリエ』を復刊。同誌は『みづゑ』『中央美術』とならぶ美術専門雑誌として作家を啓発するところが大きく、また、同社は美術書を専門とする出版社として確かな位置を占めた。

杉山司七

没年月日:1985/09/02

元東京都美術館館長の美術教育家杉山司七は9月2日午前9時30分、老衰のため東京都練馬区の自宅で死去した。享年90。明治28(1895)年7月28日富山市に生まれ、大正4(1915)年同県師範学校本科を卒業。同8年東京美術学校師範科を卒業して、郷里の神通中学校、県立商業学校図画教師となり、以後、和歌山県立中学、山口県師範学校、同高等学校、高等女学校、帝国美術学校等で教鞭をとる。この間の昭和12(1937)年国際美術教育会議出席のため渡欧し、1年間欧米の美術教育を視察。同15年には朝鮮、満州の美術教育を視察する。同20年美術教育奨励事業、美術教科書編纂に携わる。同25年より30年まで東京都美術館館長を務め、同52年には太平洋美術学校校長となった。教育者の立場から美術関係の著述にも力を注ぎ『クレヨン画の描き方』『綜合美術史要』『現代特選図案集』などを刊行して制作およびその鑑賞の指導に尽力した。

久保惣太郎

没年月日:1984/06/09

東洋古美術品のコレクションで知られる大阪府の和泉市久保惣記念美術館の名誉館長久保惣太郎は、6月9日午前6時10分頃、大阪府和泉市の自宅で縊死しているのを家人に発見された。享年57。7年前より脳血栓により入退院を繰り返していた。大正15(1926)年8月26日和泉市に生まれ本名英夫。昭和19年、織物の特産地大阪・泉州で織物業を営んできた老舗久保惣株式会社の三代目として取締役社長に就任する。久保惣は明治17年初代久保惣太郎(文久3~昭和3)が創業した地場繊維業のトップクラスで、初代の蒐集になる富岡鉄斎の泉州滞在期の三幅が久保惣コレクションの嚆矢であった。その後、茶を好んだ二代目(明治23~昭和19)と三代目を中心に昭和初期から戦後にかけて意欲的な蒐集を行ない、国宝2点、重要文化財28点を含む絵画、書跡、陶磁、金工、漆工など約500点の東洋古美術品を蒐集した。会社は昭和53年政府の構造不況業種に対する転廃業指導に則り転廃業の止むなきに至ったが、52年8月郷土への感謝と文化振興のためコレクションを和泉市に寄贈、美術館用地と建物の寄贈も行ない、57年10月和泉市久保惣記念美術館が発足した。発足と同時に同美術館名誉館長に就任、没後60年11月和泉市名誉市民に推称された。

西脇順三郎

没年月日:1982/06/05

現代詩人の最長老、慶應義塾大学名誉教授の西脇順三郎は、6月5日急性心不全のため新潟県小千谷市の小千谷総合病院で死去した。享年88。昭和初年以来現代美術の動向にも大きな影響を与えた西脇は、明治27(1894)年1月20日新潟県北魚沼郡に生まれた。少年時代から英語と絵を好み、同44年中学卒業後画家を志して上京、藤島武二の内弟子となり、また、黒田清輝に許されて白馬会に入りデッサンを学び、洋画研究を目的にフランス留学を望むが、父の死などによりやがて画家志望を断念する。大正6年慶應義塾大学理財科を卒業。同9年荻原朔太郎の『月に吠える』に接し衝撃を受け、自らも口語自由詩をつくることを決意する。同11年から14年まで英国に留学、オックスフォード大学で古代中世英語・英文学を学び、この間、芸術家との交友でモダニズムの洗礼を受け、印象派絵画に接し、また、イギリス人画家マジョリ・ビットルと結婚(のち離婚)する。同15年慶大文学部教授に就任、当時の文科の学生、佐藤朔、滝口修造らと親交をはじめ、日本におけるキュビスム、ダダ、シュール・レアリスム、イマジスムなど、新芸術運動の中心となり、「三田文学」を執筆の拠点とする。昭和2年、日本最初のシュール・レアリスム・アンソロジー「馥郁タル火夫ヨ」を刊行、その後、詩論を次々に発表して芸術革命の実践に入った。同4年『超現実主義詩論』を刊行、同8年には第二詩集『Ambarvalia,あむばるわりあ』を刊行し評価を決定づけ、新詩運動の中心的存在となる。戦後は、膨大な作品を発表し詩人の真面目を発揮、同31年の『第三の神話』で翌年度第8回読売文学賞を受賞、同36年日本芸術院会員(第二部文学)となり、同46年には文化功労者に選ばれる。この間、はやくから美術論も執筆したが、晩年は飯田善国との合作詩画展(「クロマトポイエ」南天子画廊、同47年)の開催、池田満寿夫との合作詩画集、(『Gennaio A Kyoto』『traveller’s joy』同47年)の刊行などのほか、同43年には文芸春秋画廊で「西脇順三郎展」(南天子画廊主催)を、同56年には草月美術館で回顧展「西脇順三郎の絵画」展を開催し、「詩人の余技」の域をこえた本格的な絵画作品として話題となった。詩画集に『籜』(同47年)、画集に『西脇順三郎の絵画』(同57年)がある。

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