小松茂美

没年月日:2010/05/21
分野:, (学)
読み:こまつしげみ

 古筆学研究者の小松茂美は5月21日午後0時53分、心不全のため死去した。享年85。古筆学は、書道史、歴史学、国文学、絵画史を超越する、学際的な新たな学問である。小松はその樹立に、凄まじい情熱を注ぎ、人生のすべてを捧げた。1925(大正14)年3月30日、山口県三田尻(現、防府市)に生まれる。旧制中学を卒業後、広島鉄道局に勤務した。1945(昭和20)年8月6日爆心地から1.8キロメートルという勤務先において被爆した。生死の境界をさまよう病床で、厳島神社の秘宝「平家納経」(国宝、全33巻)を視察中の文化人が披見という記事を読んだ。これを契機に、ひとりの国鉄職員が180度違う学問に目覚めた。学究生活を推し進めるため上京を企図し、運輸省に転勤した。幾多の苦難を乗り越え、53年、待望の東京国立博物館の研究員となる。以降、『後撰和歌集 校本と研究』(誠信書房、1961年)、『校本浜松中納言物語』(二玄社、1964年)と、水を得た魚の如く業績を積み、わずか34歳にして文学博士、『光悦』(共著、第一法規出版、1964年)により毎日出版文化賞特別賞、『平安朝伝来の白氏文集と三蹟の研究』(墨水書房、1965年)で学士院賞、ついには念願の『平家納経の研究』(講談社、1976年)を完成して朝日賞を受賞した。また、従来、絵巻は絵画史からの研究のみであったが、詞書にもスポットをあて古筆学の手法を取り入れて研究する。小松の編集になる『日本絵巻大成』(全27冊、中央公論社、1977~79年)、『続日本絵巻大成』(全20冊、同、1981~85年)、『続々日本絵巻大成』(全8冊、同、1993~95年)は、オールカラーで全巻掲載という画期的な出版であった。いまなお、絵巻の鑑賞、研究の決定版である。さらに、筆者を明らかにする書跡を可能なかぎり所収した小松茂美編『日本書蹟大鑑』(全25冊、講談社、1978~80年)は、書跡や歴史研究の基本台帳として研究者や愛好家に常用されている。また、公私立の博物館・美術館、個人のコレクター所蔵の平安時代から鎌倉時代にかけての歌切や歌論書などの古筆を集大成した『古筆学大成』(全30巻、講談社、1989~93年)は、通常の個人研究の枠では計り知れないもので、小松の公私の人脈を駆使して成し遂げることが出来た空前絶後の偉業である。今日でも、古筆研究に際しては、まず『古筆学大成』所収の有無を確認することからはじめなければならないというほどで、国文学、書道史研究の必須文献の一つである。また、後進の育成にも励み、東京教育大学・東北大学・早稲田大学などの講師も勤めた。86年に東京国立博物館を定年で退職すると、古筆学研究所を設立し、『水茎』などの学術雑誌を発行するほか古筆学の普及に尽力した。1990(平成2)年には、センチュリーミュージアム館長に就任し、以後没するまで古筆学の視点での展示に努めた。98年に、山口県柳井市の名誉市民に選ばれた。この間に上梓した『光悦書状Ⅰ』(二玄社、1980年)、『利休の手紙』(小学館、1985年)は古筆学を駆使した研究で、従来の数寄者的な本阿弥光悦、千利休研究にとどまらず、筆跡研究はもとより、両者の交友人物まで解き明かした名著である。ほかに、古筆、写経、手紙、宸翰などに関する多くの編著があり、研究者だけでなく、多くの人々への啓蒙活動も注目される。こうした著述の主な論文は全33巻にも及ぶ『小松茂美著作集』(旺文社、1995~2001年)に収録されている。ことに晩年の10年は、骨身を削って後白河院の研究に没頭した。文字どおりの古筆学の集大成と意気込み、公卿日記の資料の海から、膨大な記事の抄出と整理を終えていた。研究編を執筆中の逝去であったが、その成果は、2012年5月、『後白河法皇日録』(小松茂美編著 前田多美子補訂、学藝書院)としてまとめられた。今後の後白河研究のみならず、同時代のすべての研究の基盤となる大著である。

出 典:『日本美術年鑑』平成23年版(436-437頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「小松茂美」『日本美術年鑑』平成23年版(436-437頁)
例)「小松茂美 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28493.html(閲覧日 2024-03-29)

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