本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





松原三郎

没年月日:1999/05/04

読み:まつばらさぶろう  美術史家で文学博士、実践女子大学名誉教授の松原三郎は、5月4日死去した。享年80。1918(大正7)年9月4目、福井県に生まれる。44(昭和19)年東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業。同年同大学院に進み、46年東京大学大学院を修了した。同62年3月には「中国金銅仏及び、石窟造像以外の石仏に就ての研究」により東北大学(亀田孜教授主査)から文学博士号を授与された。70年実践女子大学文学部教授となる。この問、東京大学文学部、同大学院、成城大学、東京女子大学文理学部で講師を兼任する。75年実践女子大学に図書館博物館学講座が設立され主任となる。82年ハーバード大学付属フォッグ美術館客員研究員として招聘される。85年実践女子大学文学部に美術史学科が設立され、学科主任となる。89(平成元)年実践女子大学名誉教授となる。中国仏教彫刻史研究の泰斗として、95年生涯の研究の集大成である『中国仏教彫刻史論』全4冊(吉川弘文館)を上梓した。その研究は、従来石窟寺院中心であった中国仏教彫刻の研究に対して、年記や供養者の姓名、出身地あるいは制作地を示唆する地名などが銘文に記されることの多い単体の石彫像、金銅仏、さらには木彫像について注目し、日本や欧米の美術館・博物館、個人コレクションに所蔵されるそれらの作例を博捜して、仏像様式の地域性と時代性がどのように現れるかを丹念に、しかも繰り返し考察した。学位請求論文となった59年の『中国仏教彫刻史研究』に始まり、その増訂版である66年の『増訂中国仏教彫刻史研究』 (いずれも吉川弘文館)、そして最後の『中国仏教彫刻史論』に至るまで、銘文の解説と作品の真贋に対する検討が続けられた。初期の頃には日本人の誰もが実見することのできなかった中国大陸の作例が多数盛り込まれ、重要な資料を提供したが、同時に、前の出版で掲載されたものでも次の出版ではいくつかが厳しく不採用となった。その修辞法には独特の難解さがあるものの、考察の地域と時代は広範囲におよび、仏像様式の相互の関連や発展の状況が論じられている。この3冊を根幹としながら、初期の雑誌掲載の論文では朝鮮半島の石仏、金銅仏についての研究が行われ、さらにすすんで日本の飛鳥時代の仏像様式との関係を論じている。ついで唐時代と奈良時代の仏像様式の比較検討もおこなった。後半は中国大陸での新発見の報告が増加する中で、積極的に河北省や山東省の作例を調査研究しようとする姿勢が加わった。主な論文に「新羅石仏の系譜―特に新発見の軍威石窟三尊仏を中心として―」 (『美術研究』第250号)、「飛鳥白鳳仏と朝鮮三国期の仏像―飛鳥白鳳仏源流考としてー」(『美術史』68号)、「盛唐彫刻以降の展開」(『美術研究』257号)、「飛鳥白鳳仏源流考(一)~(四) 」(『国華』第931、932、933、935号)、「天平仏と唐様式」(『国華』第967、969号)などがある。また主な著書に上記3冊のほか『Arts of China Buddhist Cave temple』(1969年、講談社インターナショナル)、『小金銅仏 飛鳥から鎌倉時代まで』(田辺三郎助と共著)(1979年、東京美術)、翻訳・解題『埋もれた中国石仏の研究―中国河北省曲陽出土の白玉像と編年銘文―』(楊伯達著)(1985年、東京美術)、『韓国金銅仏研究―古代朝鮮金銅仏の系譜―』(1985年、吉川弘文館)などがある。

光森正士

没年月日:1999/03/31

読み:みつもりまさし  奈良大学教授、奈良国立博物館名誉館員の光森正士は3月31日午後8時、肝不全のため兵庫県尼崎市の病院で死亡した。享年67。1931(昭和6)年5月9日尼崎に生まれる。55年5月大阪学芸大学を中途退学、翌56年4月龍谷大学に入学する。同大学大学院文学研究科博士課程在学中の64年7月奈良国立博物館学芸課工芸室文部技官となる。65年7月学芸課美術室に配属となり、以来彫刻を担当する。66年3月龍谷大学大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。72年11月奈良国立博物館学芸課普及室長、77年4月学芸課美術室長、87年奈良国立博物館仏教美術資料研究センター仏教美術研究室長、91(平成3)年4月学芸課長、93年3月学芸課長を最後に奈良国立博物館を退官した。同年5月奈良国立博物館名誉館員になる。95年奈良大学文学部文化財学科教授になり、文化財学研究法、日本彫刻史、日本文化史等を担当した。この間、奈良市史編集委員(64年から88年まで)、奈良県橿原市文化財審議委員(75年)、大阪府松原市史、美原町史編集委員(78年)、奈良県文化財審議委員(85年)、外務省研修所講師(86年から95年まで) 、鳥取県倉吉市博物館文化顧問(90年)、兵庫県姫路市文化財審議委員(91年)、奈良県御所市文化財審議委員、奈良県斑鳩町文化財委員(92年)、文化庁文化財審議会専門審議委員(96年)等を歴任し、また帝塚山短期大学(79年から81年まで)、神戸大学(83年から88年まで)、龍谷大学(89年から90年までと94年から95年まで)等で非常勤講師として仏教美術史、博物館学等の教鞭をとった。大阪学芸大学では絵画を学び、自身は僧籍にあったという環境と、学生時代以来親しく指導を受けた考古学者石田茂作の強い影響のもと、仏教美術を単なる机上や大学の教室における研究の対象としてのみとらえるのではなく、ほんらいの仏教儀礼実践の場にあるものとして見つめようとする姿勢を貫いた。阿弥陀仏に関する研究、礼拝空間としての仏堂の研究、多種類の仏具、仏教工芸に関する研究など、個性ある成果を残した。また、30年におよぶ奈良国立博物館学芸員として多くの展覧会を手がけ、奈良を中心とする古社寺の紹介と保護に尽力した。主な著作に『阿弥陀仏彫像』 (1975年、東京美術)、『山越阿弥陀図』(1976年、同朋舎出版)、『大和路かくれ寺かくれ仏』(1982年、講談社)、『阿弥陀如来像』(1986年、至文堂 シリーズ日本の美術241)、『仏像彫刻の鑑賞基礎知識』(共著、1993年、至文堂)、『仏教美術論考』(1998年、法蔵館)がある。

林美一

没年月日:1999/03/31

読み:はやしよしかず  江戸文芸研究家、時代考証家の林美一は3月31日午後11時5分、パーキンソン病のため神奈川県逗子市の病院で死去した。享年77。1922(大正11)年、大阪に生まれる。大阪市立東商業高校を卒業し、大映京都撮影所宣伝部に勤務。溝口健二監督作品の時代考証を手がける。51(昭和26)年、個人研究誌「未刊江戸文学」を創刊する。同誌の刊行は全17冊別巻7冊にのぼった。59年「江戸文学新誌」を創刊し、同誌6冊を刊行。60年、大映京都撮影所を退社し、江戸文学、浮世絵の研究家として独立する。同年、『艶本研究国貞』を刊行。同書は、散逸している艶本を再現した意義と価値は認められながらも、わいせつ図画販売罪で有罪となった。江戸の艶本研究の第一人者として活躍し、著書に『艶本研究シリーズ』(全14巻、有光書房、1960―76年)、『時代風俗考証事典』(河出書房新社、1977年)、『江戸看板図譜』(三樹書房、1977年)、『江戸の枕絵師』(河出書房新社、1987年)、『江戸枕絵師集成』(全20巻、別巻2巻、内既刊5巻、河出書房新社、1989年―)、『江戸の24時間』(河出書房新社、1989年)、『艶本江戸文学史』(河出書房新社、1991年)、『浮世絵春画名品集成』(全24巻、別巻3、河出書房新社、1995年)などがある。映画、舞台、テレビ番組などの時代考証家としても活躍し、「北斎漫画」「キネマの天地」「近松心中物語」などの映画、演劇の時代考証の業績によって日本風俗学会・江馬賞を受賞した。

宮上茂隆

没年月日:1998/11/16

読み:みやかみしげたか  建築史家の宮上茂隆は11月16日午後7時21分、肺炎のため東京都新宿区の病院で死去した。享年58。昭和15(1940)年7月26日、東京小石川の華道家元の家に生まれる。同39年東京大学工学部建築学科を卒業、同41年同大学院修士課程を修了し、同43年から55年にかけて同学科助手を務める。その間の同54年に『薬師寺伽藍の研究』(私家版 同53年)で工学博士となる。同55年竹林舎建築研究所を設立。同58年、二十年がかりで大阪城本丸設計図を復元完成。平成元年から同5年にかけて掛川城天守閣の復元設計に携わる。 奈良時代の寺院から江戸時代の城郭に至るまで日本建築の研究・復元設計を幅広く手がけた。主要著書に『法隆寺』(西岡常一と共著 草思社 昭和55年)、『大坂城』(草思社 昭和59年)がある。 

小杉一雄

没年月日:1998/10/22

読み:こすぎかずお  美術史家で、早稲田大学名誉教授の小杉一雄は、10月22日午前10時35分、急性肺炎のため東京都杉並区の河北総合病院で死去した。享年90。明治41(1908)年6月4日画家小杉未醒(放庵)の子として東京都本郷区千駄木町に生まれた。昭和2(1937)年第一早稲田高等学院に入学、同4年4月早稲田大学文学部史学科東洋史学専攻入学、同7年4月早稲田大学大学院に進み、会津八一教授の指導を受けた。同14年4月から早稲田大学第二高等学院講師、同20年11月から早稲田大学文学部講師、同24年4月早稲田大学文学部教授になり、同54年3月定年退官。同年早稲田大学名誉教授となった。この間、同32年4月には「中国美術史に於ける伝統の研究」により、早稲田大学より文学博士号を授与された。同55年11月勲三等瑞宝章叙勲。平成5(1993)年2月紺綬褒章受章。  その美術史研究は中国美術における文様史と仏教美術史を根幹とした。文様史の研究においては自身が中国文化の実質的出発期と位置づける殷時代の文様に注目し、この時代の文様がほとんど爬虫類系のものであるという観点から、多様な文様を綿密な考証によって解読し、この文様の流れがその後の数千年におよぶ中国美術、ひいては日本美術の中に脈々として存続し同時にこれらを生育していったという状況を説き明かした。仏教美術の研究においては、南北朝時代の仏舎利信仰と仏塔、天蓋・仏龕・台座という荘厳具、肉身肖像、鬼神形などのテーマを柱としながら、関心を多岐におよぼし、壮大な仏教美術論を展開した。それは図像的考察と文献的考察によって独自の境地を開くものであった。この二つは学位取得論文を構成するもので、その後の論文も合わせて、文様史に関しては『中国文様史の研究―殷周時代爬虫文様展開の系譜』(昭和34年、新樹社)、仏教美術史に関しては『中国仏教美術史の研究』(昭和55年、新樹社)が刊行されている。  その他の主な著作として、『アジア美術のあらまし』(昭和27年、福村書店)、『日本の文様―起源と歴史』(昭和44年、社会思想社)、『中国の美術』(昭和49年、社会思想社)、『小杉一雄画文集』第一輯(昭和60年、自費出版)、『中国美術史―日本美術史の研究』(昭和61年、南雲社)、『小杉一雄画文集』第二輯(昭和63年、自費出版)、『奈良美術の系譜』(平成5年、平凡社)がある。妻瑪里子は美術史家(白梅短期大学名誉教授)、長男正太郎は早稲田大学教授(心理学)、次男小二郎は洋画家。 

三輪福松

没年月日:1998/10/10

読み:みわふくまつ  美術史家の三輪福松は10月10日午後0時12分、心不全のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年87。明治44(1911)年7月6日、静岡県で生まれる。昭和13(1938)年東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業。同大学附属図書館、及び同大学医学部図書室勤務を経て、同24年東京大学助教授となる。同28年よりイタリア政府給費留学生としてフィレンツェ大学文学部に学び、帰国後は多摩美術大学教授(同34~38年)、慶應義塾大学講師(同38~47年)を歴任。同47年より東京学芸大学教授、同50年より弘前大学教授、同55年より群馬県立女子大学教授を務める。また同60年から平成元(1989)年まで清春白樺美術館長を務めた。主要著書に、『ワトオ』(アトリエ社 昭和15年)、『巨匠の手紙』(不二書房 昭和19年)、『ヴユネツイア派』(みすず書房 昭和31年)、『モヂリアニ』(みすず書房 昭和31年)、『イタリア美術夜話』(美術出版社 昭和32年)、『イタリア美術の旅』(雪華社 昭和39年)、『イタリア』(美術出版社 昭和41年)、『エトルリアの芸術』(中央公論美術出版 昭和43年)、『美術の主題物語・神話と聖書』(美術出版社 昭和46年)、『美の巡礼者』(時事通信社 昭和58年)、『美術のたのしみ』(里文出版 平成6年)、また翻訳にフロマンタン『レンブラント』(座右宝刊行会 昭和23年)、フロマンタン『昔の巨匠達』(座右宝刊行会 昭和23年)、マルク・シャガール『シャガールわが回想』(村上陽通と共訳 美術出版社 昭和40年)、L.B.アルベルティ『絵画論』(中央公論美術出版 昭和46年)、B.ベレンソン『ベレンソン自叙伝』(玉川大学出版部 平成2年) がある。

松島健

没年月日:1998/02/27

読み:まつしまけん  2月27日午後0時33分、胆嚢ガンのため神奈川県鎌倉市の湘南鎌倉病院で死去。文化庁美術工芸課主任文化財調査官を経て、東京国立文化財研究所情報資料部長を歴任。享年54。日本彫刻史。松島は昭和19(1944)年2月27日、東京で生まれた。慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程において日本彫刻史を専攻。ことに鎌倉彫刻に関心を寄せ、修士論文『運慶の生涯と芸術』を大学に提出する。なお、この修士課程在学中の同43年から2年間、文化庁の調査員に採用されている。同45年4月、同大学院後期博士課程に進学するも5月1日、東京国立博物館学芸部資料課資料室に文部技官として採用され、これにともない大学院後期博士課程を退学する。同46年4月1日付で、学芸部美術課彫刻室併任となり、同48年8月1日付で、文化庁に出向、文化財保護部美術工芸課に転任。同55年10月1日付で文化財保護部美術工芸課文化財調査官に昇任する。同57年12月1日から86年5月31日まで文化財保護部美術工芸課文化財管理指導官を併任し、平成2(1990)年4月1日文化財保護部美術工芸課主任文化財調査官に昇任する。同8年4月1日付で東京国立文化財研究所情報資料部長に昇任した。  松島の日本彫刻史の研究者としての研鑽は文化庁文化財保護部美術工芸課時代に培われたものといっても過言でない。この文化庁時代の松島の仕事は文化財(彫刻)の指定および指定文化財の修理計画の立案と修理指導、保存施設事業計画の立案と実施指導、保存管理、文化財の公開活動など文化財保護行政の多岐にわたった。また職務の一環として中国における鑑真大師像回国巡展(昭和55年4月19日~5月24日)をはじめとして在職中、海外で開催された日本美術の展覧会において自ら日本彫刻の名品の選定に関わりその魅力を海外に伝えた功績は大きい。ことに平成2年、主任文化財調査官に昇任してからは彫刻部門の総括責任者として指定・保存・公開事業に強い指導力を発揮し、一時期中断していた仏像の国宝指定を積極的に推し進め、以後、仏像の国宝指定を再開させた功績は特筆されよう。この松島の文化庁での職務は美術史研究者としての方向性にもおおきく反映し、職務の傍ら現場において実査にもとづく知見に立脚した論を展開させていった。その関心の中心は大学院時代以来、終始一貫して鎌倉彫刻、ことに運慶にあったようで、その意味では同3年にイギリス大英博物館において行われた「鎌倉彫刻展」はかれのこれまでの研究活動に裏打ちされた作品選定がなされており、鎌倉時代の仏像をはじめてまとまった形で海外に紹介した展覧会としても高い評価を得た。また、同5年まで行われた東大寺南大門金剛力士像の本格的解体修理は主任文化財調査官として監督・監修に携わるとともに松島の彫刻史研究者としての生涯において大きな意味を持ち得たようである。この自らのなし得た仕事と金剛力士像・運慶への熱い思いは東大寺監修・東大寺南大門仁王尊像保存修理委員会編『仁王像大修理』(朝日新聞社、同9年)および、松島の死をもってうち切られることとなった産経新聞の紙面上での中世史学者・上横手雅敬との対論「運慶とその時代」(のちに文化庁文化財保護部美術工芸課時代の部下であった根立研介・現、京都大学文学部助教授によって『歴史ドラマランド・運慶の挑戦 中世の幕開けを演出した天才仏師』(文永堂、同11年)としてまとめられた)において窺われる。松島の研究者生活において転機となったのは同8年4月の東京国立文化財研究所へ情報資料部長としての移動であった。文化財の指定・保護という長年の激務から解放され研究者として研究活動に専念、その精力的な調査研究活動は周囲に万年青年ぶりを印象づけた。そのなかで松島が新たに取り組んだのは、ひとつは東京国立文化財研究所での情報資料部長という職掌を念頭においた国宝彫刻のCD-ROM版化であり、いまひとつは勢力的に調査・研究活動を行うなかで自らが見出した長野・仏法紹隆寺不動明王像の運慶作の可能性を探ることである。ことに後者は大学院時代以来のフィールドワークの中心に運慶があったことを窺うに足る。そして、翌同9年10月22日に開催された東京国立文化財研究所美術部情報資料部公開学術講座では、この仏法紹隆寺不動明王像の運慶作の可能性を「新発見の運慶様の不動明王像」と題して講演に及び自説を披露している。しかしながら、その頃、すでに癌は松島の身体を蝕みはじめ、病名について告知を受けながらもあえて延命治療は行わず、力の限り研究に邁進した。おしむらくは松島が最後に取り組んだ研究の内容が活字化をみなかったことである。12月には湘南鎌倉病院に再入院。翌2月27日に東京国立文化財研究所情報資料部長の現役のまま、54歳の生涯を終える。墓所は生前みずから選定した鎌倉・光則寺とする。没後、東京国立文化財研究所時代に立案・監修にあたったCD-ROM版「国宝仏像」全5巻が完成をみる。なお美術史家河合正朝・慶應義塾大学文学部教授は義兄にあたる。編著書『名宝日本の美術5・興福寺』(小学館、昭和56年)、『日本の美術225・紀伊路の仏像』(至文堂、昭和60年)、『日本の美術239・地蔵菩薩像』(至文堂、昭和61年)、『KAMAKURA-The Renaissance of Japanese Sculpture(鎌倉時代の彫刻)』(British Museum Press、平成3年)、『東大寺南大門・国宝木造金剛力士像修復報告書』(東大寺、平成5年)『原色日本の美術9・中世寺院と鎌倉彫刻』(小学館、平成8年)、『大三島の神像』(大山祇神社、平成8年)、週間朝日百科『日本の国宝5・奈良薬師寺』(朝日新聞社、平成9年)、論文「興福寺十大弟子像」(『萌春』200、昭和46年)、「運慶小考」(『MUSEUM』244、昭和46年)、「鞍馬寺毘沙門三尊像について」(『MUSEUM』251、昭和47年)、「鎌倉彫刻在銘作品等年表」(『MUSEUM』296、昭和50年)、「吉祥天像」(『國華』991、昭和51年)、「地方における仏像の素材」(『林業新知識』753、昭和52年)、「立木仏について」(『林業新知識』754、昭和52年)、「千手観音像(旧食堂本尊)興福寺」(『國華』1000、昭和52年)、「慶禅作聖徳太子像・天洲寺」(『國華』1001、昭和52年)、「善導大師像来迎寺」(『國華』1001、昭和52年)、「日応寺の仏像(上・下)」(『國華』1011、1012、昭和53年)、「乾漆像の技法」(『歴史と地理』、昭和55年)、「東大寺金剛力士像(阿形・吽形の作者)」(『歴史と地理』、昭和55年)、「伊豆山権現像について」(『三浦古文化』、昭和56年)、「滝山寺聖観音・梵天・帝釈天像と運慶」(『美術史』112、昭和57年)、「道成寺の仏像―本尊千手観音像及び日光・月光菩薩像を中心にして-」(『仏教芸術』142、昭和57年)、「木造阿弥陀如来及両脇寺侍像」(『学叢』6、昭和59年)、「西園寺本尊考(上)」(『國華』1083、昭和60年)、「仏師快慶の研究」(『鹿島美術財団年報』3、昭和61年)、「地蔵菩薩像」(『國華』1097、昭和61年)、「天神像・荏柄天神社」(『國華』1099、昭和62年)、「奈良朝僧侶肖像彫刻論―鑑真像と行信像―」(『仏教芸術』176、昭和63年)、「石山寺多宝塔の快慶作本尊像」(『美術研究』341、昭和63年)、「円鑑禅師の寿像と造像」(『仏教芸術』181、昭和63年)、「書評と紹介・清水真澄著『中世彫刻史の研究』」(『日本歴史』493、平成元年)、「長楽寺の時宗祖師像」(『仏教芸術』185、平成元年)、「河内高貴寺弁財天像私見」(『國華』1147、平成3年)、「東大寺金剛力士像(吽形)の構造と製作工程」(『南都仏教』66、平成3年)、「東大寺金剛力士像(阿形)の構造と製作工程」(『南都仏教』68、平成5年)、「満昌寺鎮守御霊明神社安置の三浦義明像」(『三浦古文化』52、平成5年)、「興福寺の歴史」(『日本仏教美術の宝庫奈良・興福寺』展覧会図録概説、平成8年)、「臼杵摩崖仏の成立試論」(『國華』1215、平成9年)、随筆「平安初期の仏像―特別展平安時代の彫刻に寄せて」(『萌春』205、昭和46年)、「運慶とその時代(1・3・5・7・9)」(『産経新聞』平成8~9年)、「国宝の旅3・整形された仁王の顔」(『一冊の本』10、平成9年)、「解説薬師寺・藤原京から平城新京へ移転/薬師寺の移転をめぐる論争」(『週間朝日百科・日本の国宝005・奈良薬師寺』、平成9年)、「仁王像は“超大型のプラモデル”」(『一冊の本』15、平成9年)、作品解説「原色版解説・国宝梵天坐像」(『MUSEUM』246、昭和46年)、「原色版解説・家津美御子大神坐像」(『MUSEUM』247、昭和46年)、「原色版解説・毘沙門天立像」(『MUSEUM』248、昭和46年)、「口絵解説・鎌倉初期の慶派仏師の二作例」(『仏教芸術』96、昭和49年)、「千葉県君津市と富津市の彫刻」(『三浦古文化』16、昭和49年)、「国宝鑑賞シリーズ6大仏師定朝と鳳凰堂本尊」(『文化庁月報』182、昭和59年)、「国宝鑑賞シリーズ19木造十一面観音立像(国宝)」(『文化庁月報』195、昭和59年)、「男神坐像・京都府出雲大神宮―新国宝・重要文化財紹介」(『国立博物館ニュース』588、平成8年)、「そして一本の檜材に 寄木造り彫刻の構造と技法」(東大寺監修・東大寺南大門仁王尊像保存修理委員会編『仁王像大修理』朝日新聞社)、対論「運慶とその時代」(『歴史ドラマランド・運慶の挑戦 中世の幕開けを演出した天才仏師』文永堂)、CD-ROM版「国宝仏像」全5巻。 

北村哲郎

没年月日:1998/02/20

読み:きたむらてつろう  元共立女子大学教授、元東京国立博物館学芸部長の北村哲郎は2月20日午後0時35分、肺癌のため千葉県船橋市の千葉徳洲会病院で死去した。享年76。大正10(1921)年9月21日東京に生まれる。昭和19(1944)年10月慶應義塾大学文学部芸術学科を卒業する。同22年2月帝室博物館臨時職員となり、同年6月国立博物館事務嘱託となり陳列課染織室につとめる。同24年6月文部技官となる。同27年7月京都国立博物館学芸課勤務となり同37年8月同館学芸課普及室長となる。同41年1月から7月までアメリカ、カナダでの日本古美術展に随行して両国へ滞在。同43年1月東京国立博物館学芸部資料課主任研究官、翌44年4月同館学芸部工芸課長、同50年4月同企画課、翌51年9月同学芸部長となる。同53年4月文化庁文化財保護部文化財鑑査官となり、同57年退官して共立女子大学家政学部教授となった。服飾・染色史、人形の研究を専門とし、朝廷などの儀式に着用する有職の染織品や能装束の研究家として知られた。著書に『日本の工芸 織』(淡交社 昭和41年)、『日本の美術 人形』(至文堂 昭和42年)などがある。 

友部直

没年月日:1998/02/04

読み:ともべなおし  共立女子大学名誉教授で遠山記念館館長をつとめた美術史家の友部直は2月4日午前7時47分、呼吸器疾患のため東京都板橋区の病院で死去した。享年73。大正13(1924)年10月14日、神奈川県に生まれる。昭和29(1954)年東京芸術大学美術学部芸術学科卒業、同30年同大学助手となる。同31年共立女子大学文芸学部助手、同32年同大学専任講師に就任。同38年から39年までイギリスに留学し、ロンドン大学ウォーバーグ研究所でE.H.ゴンブリッチ教授に、大英博物館ギリシア・ローマ部でR.A.ヒキンズ博士に師事。同39年より共立女子大学文芸学部助教授、同45年より教授に就任、主にエジプト、古代地中海美術、および西欧工芸美術史について研究・執筆を続ける。同53~57年、同61~平成2(1990)年同大学文芸学部部長を、昭和57~61年同大学文学芸術研究所長を務める。平成3年から同9年まで遠山記念館館長に就任。同6年には共立女子大学名誉教授に推挙される。主要著書に『ヨーロッパのきりがみと影絵』(岩崎美術社 昭和54年)、『美術史と美術理論』(放送大学教育振興会 平成3年)、『エーゲ海 美の旅』(小学館 平成8年)、また翻訳にE.H.ゴンブリッチ『美術の歩み』(美術出版社 昭和47、49年)、ニコラウス・ペヴスナー『英国美術の英国性』(蛭川久康と共訳 岩崎美術社 昭和56年) がある。

村松貞次郎

没年月日:1997/08/29

読み:むらまつていじろう  東京大学名誉教授で博物館明治村館長の建築史家村松貞次郎は8月29日午前5時52分、心不全のため千葉市中央区の病院で死去した。享年73。大正13(1924)年6月30日静岡県清水市の材木屋の次男として生まれる。昭和17(1942)年静岡県立静岡工業学校機械科を卒業。同20年旧制第八高等学校理科甲類を卒業し、同年東京帝国大学第二工学部建築学科に入学した。同23年東京大学第二工学部建築学科を卒業して東京大学大学院(旧制)に入学、特別研究生に選ばれる。同28年3月同大学院を修了し、同年4月から東京大学工学部建築学科助手をつとめる。同36年同大学生産技術研究所助教授となり、同年東京大学より工学博士の学位を授与される。同48年『大工道具の歴史』(岩波新書)を刊行し、これにより毎日出版文化賞を受賞。同49年同大学教授となり、同60年3月に停年退官するまで教鞭を取った。この間、幕末、明治から昭和までの日本近代建築の全国調査に尽力し、その成果を戦前の洋風建築の戸籍台帳にあたる『日本近代建築総覧』(昭和55年)に結実させるとともに、高度経済成長によって消えつつあった近代建築物の保存運動の原動力となった。同59年日本建築学会業賞を受賞。東京大学退官後は同60年4月より法政大学工学部教授となり、引き続き後進の指導にあたった。同年東京大学名誉教授の称号を受ける。また、同56年より博物館明治村評議員をつとめ、同60年財団法人明治村理事となった。同63年明治村賞受賞。平成3年6月から博物館明治村館長となって、建造物の外観保存だけでなく、建築内部の復元展示などの新機軸を打ちだした。また、昭和63年からは迎賓館赤坂離宮顧問を、平成元(1989)年からは竹中大工道具館理事もつとめた。平成6年日本建築学会大賞受賞。同7年法政大学教授を退任する。「手考足思」を提唱し、実地に足を運び、実際の建造物にあたっての調査・研究を進め、また、道具や職人技を重視して『道具曼荼羅 全3巻』(毎日新聞社 昭和51年)、『やわらかいものへの視点』(岩波書店 平成6年)、『道具と手仕事』(岩波書店 平成9年)などを著した。著書にはほかに、『日本建築技術史』(地人書館 昭和34年)、『建築史学』(『建築学大系』37巻 彰国社 昭和37年)、『日本科学技術大系 17巻 建築技術』(第一法規 昭和39年)、『日本建築家山脈』(鹿島出版会 昭和40年)、『日本近代建築の歴史』(NHKブックス 昭和52年)などがある。

衛藤駿

没年月日:1997/08/01

読み:えとうしゅん  慶應義塾大学名誉教授で、茨城県立歴史館長、川崎市民ミュージアム館長をつとめた美術史家の衛藤駿は8月1日午前0時24分、いん頭ガンのため東京都目黒区中根1-3-15-301の自宅で死去した。享年66。昭和5(1930)年12月3日、東京千駄ヶ谷に生まれる。番長小学校卒業後、慶應義塾大学附属普通部に入学するが、戦災にあい、戦後、父の郷里であった大分県に移る。同24年大分県日出高等学校を卒業し、同年慶應大学医学部に入学。在学中、医学部から文学部へ移り、同28年同大学文学部を卒業する。同31年大和文華館研究員となり、同39年同館学芸課長となった。同40年9月米国ロックフェラー三世財団による在欧米東洋美術調査・研究のため欧米に留学し翌41年3月に帰国する。同46年3月、大和文華館を退職して、同年4月に母校慶應大学工学部助教授となり、同52年同大学理工学部教授となる。この間、同37年奈良女子大学非常勤講師として東洋美術史を、同43年には京都市立芸術大学非常勤講師として中国絵画論を講じ、同47年には武蔵工業大学非常勤講師として美術を講じた。同53年成城大学文芸学部大学院非常勤講師、同54年東京大学非常勤講師としてアジアの美術を講じた。同57年から同63年9月まで慶應大学日吉情報センター所長を、同63年からは慶應義塾大学中等部長を兼務、平成2年(1990)10月より慶應義塾大学高等学校長を兼務した。同8年慶應大学を停年退職し、同大学名誉教授の称号を与えられた。同年茨城県歴史館館長となり、翌9年に川崎市民ミュージアム館長となった。主要著書として『相阿弥・祥啓』(集英社 1979年)、『禅と水墨』(共著、講談社、1982年)、『雪村周継全画集』(編著、講談社、1982年)、『解釈の冒険』(共著、NTT出版、1988年)、『美術における右と左』(共著、中央大学出版部、1992年)などがある。

石川陸郎

没年月日:1997/06/28

読み:いしかわりくお  東京国立博物館保存修復管理官の石川陸郎は6月28日午後3時20分、転倒による頭蓋内損傷のため東京都新宿区の病院で死去した。享年61。昭和11(1936)年4月10日、東京池袋に生まれる。同18年東京市池袋第六国民学校に入学するが、戦火による校舎焼失のため同校が廃校になり、同21年より池袋第二小学校に通う。同24年同校を卒業して東京都豊島区立池袋中学校に入学。同27年同校を卒業。同30年東京都立北高校を卒業し、同31年東京理科大学Ⅱ部理学部化学科に入学する。翌32年東京国立文化財研究所技術補佐員に採用され、物理研究室でX線撮影の研究に従事し、同年同所保存科学部の登石健三と共著で「日本魔鏡の一例」(『古文化財之科学』第15号)を発表。同34年から鎌倉大仏修復にともなうガンマー線撮影等に従事し、その後も、各地の古社寺の建造物や所蔵品の光学的調査を行った。同37年4月同研究所保存科学部物理研究室に配置換えとなる。同39年東京理科大学Ⅱ部理学部化学科を卒業。同年7月同研究所保存科学部文部技官に任官される。同41年に博物館の展示照明および博物館環境の研究を開始し、同40年代後半から多くなった美術館博物館の新設に伴い、その環境調査を実施した。同50年赤外線テレビカメラを文化財調査に応用し、これが後の漆紙文書の発見につながった。同54年10月同所保存科学部主任研究官となり、平成5(1993)年4月東京国立博物館学芸部保存修復管理官に任ぜられた。同6年3月末まで東京国立文化財研究所保存科学部と併任した。同年東京国立博物館平成館が着工されると、保存科学の立場から展示室・収蔵庫の保存環境整備設計に関与した。温室度、照明、PHなど多様な観点から理想的な博物館・美術館の保存・展示環境を考察し、130余館へ助言、協力を行った。また、東京国立文化財研究所主催による博物館美術館等保存担当学芸員実習を担当し、保存科学の教育・普及につとめたほか、平成8年から日本大学文理学部非常勤講師として保存科学概論を講じた。平成3年には韓国国立文化財研究所の招へいにより博物館環境に関する研究交流を行うなど、国際的にも活動した。主な調査に、昭和45年国宝如庵の解体移築に伴う解体前の構造および腐朽状態調査、同62年中尊寺金色堂の環境調査などがある。没後、『石川陸郎遺稿集』(石川陸郎遺稿集刊行会 平成10年6月)が刊行されている。

守田公夫

没年月日:1997/03/07

読み:もりたきみお  奈良国立文化財研究所工芸室長をつとめた染織史家守田公夫は3月7日午後3時36分、肺炎のため神奈川県厚木市の病院で死去した。享年89。明治41(1908)年2月15日、熊本県に生まれる。昭和2(1927)福岡県立小倉中学校を卒業し、翌3年4月弘前高等学校文科甲類に入学。同6年同校を卒業して東京帝国大学文学部に入学する。同大学在学中の同8年8月、帝室博物館(現・東京国立博物館)研究員となり同館美術課に配属となった。同9年同大学文学部美学美術史学科を卒業。同15年同館研究員を免ぜられるとともに、同館勤務を命じられる。同20年5月、博物館を依願免官となり、戦後は、同23年から同26年まで繊維貿易公団に勤務する。同27年9月、奈良国立文化財研究所美術工芸室勤務となり、同36年同所美術工芸研究室長となった。この間、同30年から奈良女子大学非常勤講師をつとめる。このほか、日本伝統工芸展審査員、滋賀県文化財専門委員、京都府文化財専門委員、龍村美術織物顧問、永青文庫評議員をつとめ、聖母女子大学でも教鞭をとった。同45年奈良国立文化財研究所を停年退官した。著書に『日本の染織』(アルス社)、『日本の文様』(アルス社)、『名物裂』(淡交社)、『日本絵巻物全集 北野天神絵巻」(角川書店)、『日本被服文化史』(柴田書店)などがある。

佐々木静一

没年月日:1997/01/17

神奈川県立近代美術館学芸員、多摩美術大学美術学部教授をつとめた日本近代美術史研究者、美術評論家の佐々木静一は1月17日、肺炎のため死亡した。享年73。大正12(1923)年7月3日、大使館勤務であった父の赴任先のポーランド、ワルシャワに生まれる。昭和26(1951)年3月早稲田大学文学部芸術学美術史専攻課程を卒業。在学中は安藤更正に師事した。同年4月、開館を11月にひかえた神奈川県立近代美術館の学芸員となり、東京国立近代美術館に先だつ初めての日本の近代美術館であった同館の初代学芸員として活躍。初代館長村田良策および2代目館長土方定一のもと、多くの展覧会を担当した。同43年同館を退き、多摩美術大学美術学部教授となって以後、画材、美術技法の東西交流を主要なテーマとする「材料学」の研究に取り組んだ。なかでも、青色顔料であるプルシャン・ブルーの流通、洋風油彩技法やガラス絵、泥絵技法の伝搬に興味を持ち、海外調査を行った。また、画法・技法という視点から日本の近代画法を見ることにより、日本的な絵画表現の例としての文人画、特に多くの油彩画家に関心を抱かれた近代文人画に注目し、論考を加えた。平成3(1991)年同大学を定年退官して同名誉教授となった。昭和61年脳梗塞で倒れ、一時、不随となったが再度著作できるまでに回復し、『日本近代美術Ⅰ』に続く著作集を準備中であった。主要な著書に『ギリシャの島々』(日本経済新聞社 1965年)、『近代日本美術史 1幕末・明治』・『近代日本美術史 2大正・昭和』(有斐閣 1977年)、『現代日本の美術 11鳥海青児・岡鹿之助』(集英社 1975年)、『日本近代美術論』(瑠璃書房 1988年)、『海外学術調査Ⅱ アジアの自然と文化』(共同執筆 日本学術振興会 1993年)などがあり、論文には「ヨーロッパ油彩画の日本土着過程の研究 泥絵、硝子絵」(『多摩美術大学材料学研究室紀要』1976年)、「北斎 小布施町祭舞台天井画竜図」(『多摩美術大学研究紀要』1 1982年)、『近世(18世紀以降の)アジアに於けるブルシャン・ブルーの追跡』 (『多摩美術大学研究紀要』2 1985年)、「インドネシア硝子絵調査Ⅰ、Ⅱ」(『多摩美術大学研究紀要』3 1987年)、「鳥海青児・初期を中心に」(『鳥海青児展』図録、練馬区立美術館 1986年)、「昭和初期の美術」(『多摩美術大学50年史』1986年)などがある。

新藤武弘

没年月日:1996/07/21

読み:しんどうたけひろ  跡見学園女子大学教授で東洋美術史研究者の新藤武弘は、7月21日午後10時、多臓器不全のため千葉県君津市の玄々堂君津病院で死去した。享年62。昭和9年(1934)4月25日、東京に生まれる。同35年(1960)3月、東京大学文学部美学美術史学科を卒業、大阪市立博物館の学芸員となり、翌年京都国立博物館学芸課文部技官、その後、同38年ハーヴァード燕京協会奨学金でアメリカへ留学、ハーヴァード大学でマックス・ラー教授に師事、同41年6月同大学大学院修士課程を修了。翌年、サンフランシスコ・アジア美術館に勤務。同43年には大阪万国博美術館副参事を務める。同49年4月に跡見学園女子大学文学部文化学科の専任講師となり、52年4月に助教授、56年4月から教授。この間、昭和51年(1976)4月から60年3月までは、新潮社嘱託として、現在最も基本的な美術辞典である『新潮世界美術辞典』の編集に関わった。研究対象は幅広く、巨然から石涛・八大山人までについての論攷がある。専門の中国絵画史以外にも、蕪村についての研究があり、詩と歌・中国と日本・夢と現実など様々なものを淵源とするイメージが、俳諧と絵画の中に自在に立ち現れる様を描いている。その視野には、異なるメヂィア・異なる文化の中でのイメージの往来というより大きな問題があった。英語・中国語に堪能で、マイケル・サリバンやジェームス・ケーヒルの主著の翻訳があり、米国・中国でも多彩な研究活動を行った。主要研究業績『山水画とは何か-中国の自然と芸術』福武書店 1989年「八大山人と石涛の友情について」『跡見学園女子大学紀要』9、1976年「巨然について-北宋初期山水画における南北の邂逅」『跡見学園女子大学紀要』17、1984年「都市の絵画-清明上河図を中心として」『跡見学園女子大学紀要』19、1986年「石涛と≪廬山観瀑図≫」『跡見学園女子大学紀要』21、1988年「蕪村小考-計画論的-考察」『日本絵画史の研究』1989年翻訳マイケル・サリバン『中国美術史』新潮社 1973年ジェームズ・ケーヒル「中国絵画における奇想と幻想」『国華』978~980、1975年ジェームズ・ケーヒル『江山四季-中国元代の絵画』明治書院 1980年王概編『新訳芥子園画伝』日貿出版社 1985年ジェームズ・ケーヒル『江岸別意-中国明代初中期の絵画』明治書院 1987年

小高根太郎

没年月日:1996/04/28

読み:おだかねたろう  日本美術史家、富岡鉄齋研究者で元鉄齋研究所所長、鉄齋美術館名誉館長の小高根太郎は、4月28日午前11時56分、心不全のため、東京都世田谷区内の病院で死去した。享年87。小高根は明治42(1909)年4月23日、福岡県久留米市に生まれた。本籍は東京都世田谷区世田谷4の656。旧制東京府立第一中学校から、父の転勤に伴って昭和2(1927)年旧制大阪府立北野中学校卒業。昭和5年旧制大阪高等学校卒業。昭和8年東京帝国大学文学部美術史科を卒業して同大学院に進み、昭和10年6月文部省所管、帝国美術院美術研究所(現・東京国立文化財研究所)嘱託となり、同17年5月まで勤めた。その後、文部省国民精神文化研究所、さらに同研究所の改編により教学錬成所(現・国立教育研究所)に勤務した。戦後は東京都立大山高校教員のかたわら、東京国立近代美術館調査員、東京工業大学非常勤講師を勤めた。また、昭和50年4月から同58年3月まで鉄齋研究所長を勤め、平成5年2月から没するまで鉄齋美術館名誉館長であった。早くから富岡鉄齋の研究に取り組み、美術研究所時代に「富岡鉄齋・公私事歴録」(『美術研究』65号、昭和12年5月)、「富岡鉄齋詩文集上・下」(『美術研究』70、71号、昭和12年10月、11月)、「富岡鉄齋の旅行記について 富岡鉄齋旅行記 公刊」(『美術研究』82号、昭和13年10月)を発表し、昭和19年2月には、今も鉄齋研究の基本文献である『富岡鉄齋の研究』(藝文書院)を刊行した。その後も、『富岡鉄齋』(養徳社 昭和22年)、『人物叢書・富岡鉄齋』(吉川弘文館 昭和35年)、『鉄齋』(朝日新聞社 昭和48年)、『鉄齋大成』全5巻(講談社 昭和51年)など生涯に鉄齋に関して約40点の編著書、論文を著わした。中でも昭和44年から没するまでの28年にわたって『鉄齋研究』(全71号)に、鉄齋作品約2000点について、賛文を読み起こし、その出典を和漢の浩瀚な書籍を博捜して明らかにし、訓読し解釈した作業は、鉄齋研究における金字塔であり、余人の追随できないもので、その業績は永く鉄齋研究の基礎となるものである。その作業を通じて、小高根は鉄齋旧蔵の稀観書を少なからず発見し、それらの一部は鉄齋研究所の収蔵に帰した。また、小高根は鉄齋作品の鑑識にもすぐれ、清荒神清澄寺法主坂本光聡、富岡鉄齋嫡孫富岡益太郎とともに鉄齋作品の再発見に貢献した。主要編著書・論文富岡鉄斎「公私事歴録」 『美術研究』65(昭和12年5月)富岡鉄斎詩文集 上      『美術研究』70(昭和12年10月)富岡鉄斎詩文集 下      『美術研究』71(昭和12年11月)従軍画家としての寺崎廣業『美術研究』75(昭和13年3月)富岡鉄斎の旅行記に就いて富岡鉄斎の旅行記 公刊 『美術研究』82(昭和13年10月)菱田春草 (美術資料第九輯)(美術研究所 昭和15年3月)アーネスト・エフ・フェノロサの美術運動    『美術研究』110(昭和16年2月)アーネスト・エフ・フェノロサの美術運動(二) 『美術研究』111(昭和16年3月)富岡鉄斎 (養徳社 昭和22年3月)平福百穂 (東京堂 昭和24年8月) 无声会の自然主義運動   『美術研究』184(昭和31年4月)富岡鉄斎 人物叢書56 (吉川弘文館 昭和35年12月 新装版 昭和60年11月)富岡鉄斎 (日本美術社 昭和36年8月)富岡鉄斎・日本近代絵画全集第14 (講談社 昭和38年3月)鉄斎 (座右宝刊行会編 集英社発行 昭和45年5月)鉄斎(共著) ( 朝日新聞社 昭和48年12月)鉄斎・文人画粋編第20巻 (中央公論社 昭和49年10月)富岡鉄斎・日本の名画   (中央公論社 昭和50年5月)菱田春草 (大日本書画 昭和51年1月)鉄斎大成:全5巻(共編著) (講談社 昭和51年9月―57年6月)富岡鉄斎・現代日本絵巻全集第1巻 (小学館 昭和57年1月)鉄斎研究・全71号  (鉄斎研究所 昭和44年12月―平成8年6月

神吉敬三

没年月日:1996/04/18

読み:かんきけいぞう  上智大学教授で美術評論家の神吉敬三は4月18日午前9時2分、肺ガンのため埼玉県伊奈町の埼玉県立がんセンターで死去した。享年63。昭和7(1932)年5月8日、山口県下関市長府町松小田に生まれる。同14年下関市名池小学校に入学するが同年9月、旧国鉄職員であった父の職務の関係で東京池袋高田第二小学校に転入する。同17年静岡市森下小学校に転入し、同20年同校を卒業して静岡県立静岡中学校に入学する。同年9月岐阜県立第二中学校に転入し同22年4月、埼玉県立浦和中学校に転入。同23年同校を卒業し同県立浦和高校に入学して、同26年同校を卒業した。同27年上智大学経済学部商学科に入学。同30年4月、聖イグナチオ教会で受洗し、クリスチャンとなる。同31年、上智大学を卒業してスペイン政府給費留学生としてスペイン国立マドリード大学哲文学部に留学。翌32年6月、同大学スペイン学コースを卒業して7月にドイツ美術研究のためドイツを訪れる。同年9月マドリード大学哲文学部美術史コースに学ぶ。同33年7月パリ・カトリック協会給費生としてフランス、ベルギー、オランダに遊学。翌34年8月イタリア美術研究のためイタリアに渡るが、同年9月上智大学の帰国要請によりマドリード大学を中退して帰国し、上智大学外国語学部イスパニア語学科助手となる。同36年上智大学外国語学部イスパニア語学科専任講師、同40年同助教授となり、同44年同教授となった。同48年より翌年までスペイン政府の招聘によりスペイン高等科学研究所美術部門(ベラスケス研究所)で研究したほか、同50年スペイン王立サン・フェルナンド美術アカデミー客員、同52年スペイン王立サンタ・イザベル・デ・ウングリア美術アカデミー客員となるなど、スペインでの研究活動も積極的に行い、その内容は気候、風土、生活習慣などの体験的理解にもとづくものであった。また、同47年よりしばしば国立西洋美術館購入委員をつとめた。同52年より地中海学会初代事務局長となったほか、日本イスパニア学会理事をもつとめるなど、学会活動にも寄与した。同60年日本スペイン協会より会田由賞受賞。平成9年地中海学会賞受賞。平成3年より大塚国際美術館創設のプロジェクトのひとつとして、エル・グレコの大祭壇衝立の復元に取り掛かり、没するまでこれに従事した。著書に『ゴヤの世界』(講談社原色写真文庫 1968年)、『ゴヤ』(ヴァンタン版 原色世界美術全集 集英社 1973年)、『グレコ』(新潮社美術文庫 1975年)、『ベラスケス』(世界美術全集 集英社 1976年)、『ピカソ』(現代世界美術全集 講談社 1980年)、『青の時代』(ピカソ全集1 編・著 講談社 1981年)、『バラ色の時代』(ピカソ全集2 編・著 講談社 1981年)、『キュビスムの時代』(ピカソ全集3 編・著 講談社 1982年)、『幻想の時代』(ピカソ全集5 編・著 講談社 1981年)など、また、翻訳書にフォンタナ著『白の宣言』(現代芸術25 1964年)、ホセ・オルテガ・イ・ガゼット著『大衆の反逆』(角川書店 1967年)、ホセ・オルテガ・イ・ガゼット著『芸術論集』(オルテガ著作集3 白水社 1970年)、エウヘニオ・ドールス著『バロック論』(美術出版社 1970年)、エウヘニオ・ドールス著『プラド美術館の三時間』(美術出版社 1973年)などがあり、16世紀以降のスペインの巨匠について幅広く研究するとともに、日本でのスペイン美術紹介に尽力した。上智大学のほかに東京大学、東北大学、慶応義塾大学、学習院大学などでもスペイン美術史を講じ、後進の指導にも尽くした。没後、著作集『巨匠たちのスペイン』(毎日新聞社 1997年)が刊行され、年譜・著作目録は同書に詳しく掲載されている。

澤柳大五郎

没年月日:1995/11/03

読み:さわやなぎだいごろう  東京教育大学名誉教授で早稲田大学でも教鞭を取った西洋美術史家澤柳大五郎は11月3日午前6時4分、心不全のため東京都小平市の公立昭和病院で死去した。享年84。明治44(1911)年8月23日東京都豊島区目白町に生まれる。昭和10(1935)年東北大学法文学部を卒業。美学美術史学を専攻し、同年より同13年3月まで同学部美学美術史学研究室助手をつとめる。同年11月より同18年10月末日まで文部省日本文化大観編集会嘱託となり、同年11月より帝国美術院附属美術研究所嘱託となった。同24年東京教育大学助教授となり、同28年同大学教授となった。ギリシャ、ローマ古代美術、特に葬礼に関する視覚資料を中心に調査・研究。同34年文部省在外研究員として渡欧し同36年帰国する。また、同41年レバノン、トルコ、ギリシャ、イタリアを訪れている。同43年東京教育大学を停年退職し、同大名誉教授となる。同年より早稲田大学文学部教授となって同57年停年退職するまで同大学で教鞭を取った。

河北倫明

没年月日:1995/10/30

読み:かわきたみちあき  美術評論家で文化功労者の河北倫明は10月30日午前3時45分心不全のため、東京都文京区の順天堂病院で死去した。享年80。大正3(1914)年12月14日福岡県浮羽郡山春村に生まれる。久留米市立篠山尋常小学校を経て、昭和6(1931)年福岡県立明善校を修了。同10年旧制第五高等学校を卒業して京都帝国大学文学部に進学し、同13年同大哲学科を卒業して同大学院に進学する。同18年帝国美術院付属美術研究所(現・東京国立文化財研所)助手となり、日本近代画家の調査・研究に取り組む。戦後、同23年ころより日本近代美術史に立脚した現代美術評論活動を盛んに行うようになった。同23年同郷の洋画家青木繁の調査・研究成果として『青木繁』(養徳社)を刊行。また、同年『近代日本画論』(高桐書院)を刊行して、個々の作家、作品についての調査・研究に基づぎながら、史的流れのうえにそれらを位置づける日本近代絵画史の新たな方向を提起した。同27年国立近代美術館(現・東京国立近代美術館)事業課長となり、日本で最初の近代美術館の運営に尽力。また、美術評論の分野でもその活性化と相互の連絡を目的として同29年美術評論家連盟を結成し、事務局長に就任した。同38年3月東京国立近代美術館次長となる。同42年5月美術交流展覧会のためソヴィエト連邦を訪れる。以後も、美術による国際交流のため中国、西欧、アメリカ、南米等を訪れる。同44年2月京都国立近代美術館館長となって、関西方面の美術館活動にも深く関わるようになり、同45年大阪万博では同博覧会美術館委員をつとめた。同57年美術館連絡協議会理事長に就任し、歿するまで全国の美術館運営、学芸員の調査・研究の奨励に寄与した。同61年10月より平成6(1994)年まで美術評論家連盟会長をつとめる。昭和61年京都国立近代美術館館長を退き、京都芸術短期大学の設立に尽力して翌62年6月同大学学長となった。平成元(1989)年1月より同4年6月まで横浜美術館館長をつとめ、この間同3年より同7年3月まで京都造形芸術大学学長をもつとめた。また、平成元年私財を投じて全国の若手の美術館学芸員、美術研究者の活動を支援すべく「倫雅美術奨励賞」を創設。同5年より式年遷宮記念神宮美術館館長、同7年より京都造形芸術大学名誉学長となった。主要著書に『日本の美術』(昭和33年 社会思想研究社出版部)、『大観』(同37年 平凡社)、『村上華岳』(同44年 中央公論美術出版)、『坂本繁三郎』(同49年 中央公論美術出版)、『河北倫明美術論集』全5巻(昭和52-53年 講談社)、『近代日本絵画史』(高階秀爾と共著 昭和53年中央公論美術出版)、『河北倫明美術時評集』全5巻(平成4-6年 思文閣出版)がある。

福山敏男

没年月日:1995/05/20

読み:ふくやまとしお  日本学士院会員、京都大学名誉教授の建築史家福山敏男は5月20日午後6時13分、肺炎のため京都府長岡京市の済生会京都府病院で死去した。享年90。明治38(1905)年4月1日福岡県柳川市大字本城町27に生まれる。昭和2(1927)年京都帝国大学工学部建築学科を卒業。同年より造神宮使庁に勤務。同14年5月京都帝国大学より工学博士の学位を受ける。同15年『神宮の建築に関する史的調査』(造神宮使庁刊)を刊行。同17年文部技師として宗教局に勤務。同18年『日本建築史の研究』(桑名文星堂)を刊行。同22年東京国立博物館附属美術研究所(現・東京国立文化財研究所)に勤務となり、同26年同所資料部長、同29年より同所美術部長をつとめ、同34年京都大学教授となった。同43年に同大を退官した後は京都府埋蔵文化財調査研究センター理事長をつとめた。古代仏教寺院や神社建築の調査・研究にあたり、出雲大社、大阪四天王寺、九州観世音寺などの調査発掘を指導して創建当時の事情や建築構造を明らかにして、日本建築史学の基礎を築いた。奈良県天理市の石上神宮の七支刀の銘文解釈等、金石文の研究でも知られる。同62年日本学士院恩腸賞を受賞し、平成2年日本学士院会員となった。同57年『寺院建築の研究』(上・中・下 福山敏男著作集1-3) 、『神社建築の研究』(福山敏男著作集4) 、『住宅建築の研究』(福山敏男著作集5) 、『中国建築と金石文の研究』(福山敏男著作集6)を中央公論美術出版から刊行。著作については『文建協通信』22所載の「福山敏男先生著作目録」に詳しい。

to page top