本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





真鍋一男

没年月日:1995/03/28

読み:まなべかずお  横浜国立大学名誉教授、愛知産業大学教授の真鍋一男は3月28日午前4時15分、大腸がんのため東京都中央区の国立がんセンターで死去した。享年71。大正12(1923)年9月15日、愛知県温泉郡道後湯之町甲1416番地に生まれる。東京美術学校師範科に学ぶ。同24年4月神奈川県公立中学校教諭となり、同37年桑沢デザイン研究所教授となる。この間一時新制作協会展に絵画を出品。同39年日本デザイン学会理事。同40年社団法人日本美術教育連合理事、同45年造形教育センター委員長を歴任し、同46年横浜国立大学教育学部教授となって、平成元年に退官、同名誉教授となるまで長く美術教育に当たった。同4年4月より愛知産業大学造形学部産業デザイン学科教授をつとめた。この間、昭和60年日本教育大学協会全国美術部門委員長、同61年文部省教育課程審議会委員、同62年色彩教育研究会副理事長などを歴任。著書に『造形の基本と実習』 (美術出版社)、『ベーシックデザイン 平面構成』(美術出版社)、『マークフォトイラストレーション』(美術出版社)、『色彩教育指導書』(日本色研)、『造形教育体系 全22巻』(開隆堂)などがある。

谷口鉄雄

没年月日:1995/03/17

読み:たにぐちてつお  美学者、東洋美術史家で、九州大学名誉教授、元北九州市立美術館長、元石橋財団石橋美術館館長の谷口鉄雄は、3月17日午前10時30分、肺がんのため福岡市南区の九州中央病院で死去した。享年85。 谷口は、明治42年11月23日、福岡県八幡市折尾町陣原834番地(現在の北九州市八幡西区陣原)に生まれた。昭和5年3月、旧制福岡高等学校文科を卒業、昭和8年3月、九州帝国大学法文学部哲学科を卒業して、昭和8年5月、九州帝国大学法文学部の副手となった。この後、昭和10年5月に助手、昭和11年5月に副手、昭和13年4月に助手を経て、昭和14年4月、九州帝国大学法文学部講義嘱託となり、美学を講じている。この時期、九州帝国大学法文学部において哲学、美学を講じていたのは、矢崎美盛教授であった。学生、副手、助手の時代を通じて、谷口は矢崎教授の薫陶を強く受けており、昭和23年に矢崎が東京大学教授に転じて5年後、昭和28年4月7日に逝去した時には、「矢崎先生を憶う」と題した追悼の文を4月15日付の毎日新聞に発表した。また昭和60年4月7日、矢崎美盛の三十三回忌を迎えるに当たり、九州大学、東京大学、東北大学の矢崎門下生たちから師を回想する文章を募り、それらを『回想 矢崎美盛先生』という小冊子にまとめて、師の霊前に捧げた。師弟の強い紳を感じさせるとともに、谷口が、哲学、美学、美術史、特にドイツ、オーストリア系の美術史学への強い傾倒と学問に対する厳しい態度を師より受け継いだことが知られる。昭和15年5月、目制の広島高等学校教授に就任し、敗戦後の昭和21年5月、再び九州帝国大学法文学部講義嘱託となり、美学及び美術史を講じた。昭和22年7月講師嘱託、昭和23年4月、九州大学法文学部講師、昭和26年3月、九州大学文学部助教授、昭和30年7月、九州大学文学部教授となり、美学、美術史論、仏教美術、中国の画論・画史、書論・書史を講じて、学生の指導、育成に当たった。昭和37年11月には、九州大学に奉職して20年を経たため、永年勤続者表彰を受けている。昭和40年4月、九州大学評議員となり、昭和40年12月には九州大学文学部付属九州文化史研究施設の併任になった。昭和41年7月から43年6月まで九州大学文学部長に就任した。昭和43年11月に九州大学文学部長事務取扱及び九州大学評議員、昭和44年6月にも九州大学文学部長事務取扱及び九州大学評議員を務め、昭和44年7月から同年12月まで再び九州大学文学部長及び九州大学評議員となった。また昭和44年8月から同年11月までは九州大学学長事務取扱にも就任して、大学に紛争が絶え間なく続いた時期に、その重責を果たした。昭和46年4月、九州大学文学部付属九州文化史研究施設長に就任、昭和46年12月には日本学術会議の第9期会員に選ばれた。昭和48年4月1日付を以て九州大学を定年退職し、昭和48年5月に九州大学名誉教授となった。 九州大学退官後は、昭和48年4月から昭和59年3月まで九州産業大学芸術学部教授に就任し、昭和53年4月には九州産業大学芸術学部長になっている。また、昭和48年4月から昭和53年3月まで北九州市立美術館長を兼ね、昭和49年11月の開館展「漢唐壁画展」や昭和52年秋の開館三周年記念展「中華人民共和国出土文物展」等の企画や準備に自ら当たり、同美術館の礎を築いた。昭和53年4月から昭和57年3月まで、北九州市立美術館の顧問を務めた。その後、昭和57年9月から昭和63年3月まで石橋財団石橋美術館館長に就任した。これ以前にも、昭和31年4月から石橋美術館運営委員、昭和47年12月から石橋財団評議員、昭和52年4月から石橋財団美術館運営委員を務めており、前から同美術館との関わりは深かった。昭和59年6月に石橋財団理事となり、昭和63年4月には館長を辞して、石橋財団石橋美術館顧問となった。 美学会、美術史学会、九州芸術学会、佛教芸術学会などの会員であり、それぞれの学会の委員や常任委員を務め、学会の充実と運営に尽力した。また、九州大学在職中より、福岡県文化財調査委員、福岡県文化財保護審議会専門委員、福岡県文化財保護審議会委員、九州歴史資料館協議会委員、福岡県立美術館協議会委員などを歴任し、九州の文化財の調査、指定、保護、保存、美術館等の運営方針の策定などに指導的な役割を果たした。海外での調査、研究も少なくない。その成果が研究論文や随想にまとめられたものを取り上げると、次の通りである。昭和37年1月10日から4月10日まで、東南アジア諸国、すなわちインド、セイロン(現スリランカ)、パキスタン、アフガニスタン、ビルマ、マラヤ、カンボジア、ベトナム、タイ、台湾、シンガポール、香港へ出張し、伝統的な美術・工芸の視察調査をおこなった。昭和41年8月27日から10月5日までアメリカ合衆国に出張し、サンフランシスコ市のアジア・ファウンデーションにおける国際シンポジウムに出席するとともに、アメリカ各地の美術館が所蔵する東洋美術品を研究した。昭和45年6月17日から6月25日まで台湾へ出張し、故宮博物院の開館を記念して6月18日から24日まで開催された中国絵画の国際シンポジウムにおいてチェアマンを務めた。(Proceedings of the International Symposium on Chinese Painting,N ational Palace Museum,Republic of China,1972)九州大学退官後の昭和48年秋の中国訪問、昭和49年夏の中国訪問は、北九州市立美術館開館展「漢唐壁画展」の準備のためであった。昭和51年3月から4月にかけて、ロンドン、パリ、アムステルダム、ミュンヘンを視察し、この折に、その前年に傷つけられたレンプラントの「夜警」の修理作業を見学している。(「レンプラント『夜警』の修理をみて」『美術の森』7号、北九州市立美術館、昭和51年5月)また、昭和52年夏の中国訪問は、北九州美術館開館三周年記念展「中華人民共和国出土文物展」の議定書調印のためであったが、この時に国立北京図書館に秘蔵される四庫全書の中の歴代名画記の調査を果たした。(「四庫全書本のマイクロフィルム-北京図書館での感激」『ひろば北九州』、昭和54年5月)昭和61年12月初旬、広東省韶関市曹渓の南華寺、広州市の光孝寺の六祖慧能石刻像碑を調査するため、中国を訪れた。(「広東の六祖慧能石刻像について-曹渓の南華寺と広州の光孝寺」『仏教芸術』178号、昭和63年5月) 谷口は、中国の画論・画史、書論・書史の研究に大きな功績を残した。しかし、研究の領域はそれらにとどまらず、絵巻、宗達、雪舟、仏教美術、石仏、美学・美術史の基礎理論など、多岐にわたった。助手時代の昭和14年に書いたものであるという「伴大納言絵詞小考」(『清閑』15冊、昭和18年3月)「信貴山縁起絵巻に於ける同一構図の反復について」)(『清閑』19冊、昭和19年1月)は、発表こそ遅れたが、最も古いものである。美学・美術史の基礎理論の確立は、美術史学の実証的な研究と哲学的理論とを媒介するとともに、両者を兼ね備えた研究のために大きな土俵を用意することをめざしていた。奉職の地が九州であったため、九州の仏教美術を論じたものも少なくないが、それらは理論に基づく美術史の実践であった。画論、更に画論の背景にある書論へと研究を進め、それらに現われた中国の思想や概念を究めようとした。この時期、九州大学では、目加田誠教授を中心に六朝芸術論の総合研究がおこなわれており、荒木見悟教授、岡村繁教授など互いに啓発し合う同僚にも恵まれていた。谷口の研究はきわめて精密であることを特徴とし、その最も顕著な例が、『校本歴代名画記』 (中央公論美術出版、昭和56年4月)である。詳しい脚註を付した校本で、今日望み得る最も詳しい索引を備えており、今後長く、歴代名画記の標準的なテキストとして利用されるであろう。谷口の学聞に対する姿勢は厳しく、還暦の折に『羊欣古来能書人名(六朝の書論1)』を自費出版し(昭和46年4月)、九州大学の退官時には『東洋美術論考』(中央公論美術出版、昭和48年1月)を刊行して、それぞれの節目を自ら祝ったのも、彼の学問に対する姿勢であった。 谷口は多くの後進たちを孕み、産みだしている。また、九州における現代美術の動向に対して積極的に発言し、その真撃な批評態度によって、多くの美術家たちに慕われていた。谷口が九州の美術界や学界に残した功績は大きい。著書日本の石仏(朝日新聞社、昭和32年4月)臼杵石仏(臼杵石仏保存会、昭和38年初版)観世音寺(中央公論美術出版、昭和39年9月)臼杵石仏(中央公論美術出版、昭和41年9月)石仏紀行(朝日新聞社、昭和41年9月)羊欣古来能書人名(六朝の書論1)(自費出版、昭和46年4月)東洋美術論考(中央公論美術出版、昭和48年1月)中国古典文学大系54・文学芸術論集(共著)(平凡社、昭和49年6月)校本歴代名画記(中央公論美術出版、昭和56年4月)西日本画壇史-近代美術への道-(西日本文化協会、昭和56年4月)美術史論の断章(中央公論美術出版、昭和58年7月)回想  矢崎美盛先生(編著) (非売品、昭和60年4月)蘭亭序論争訳注(共編)(中央公論美術出版、平成5年2月)東洋美術研究(中央公論美術出版、平成6年11月)論文 『図像紗』の編纂過程について『哲学年報』1輯(昭和15年3月)我が国に於ける仏教図像集の編纂-特に『図像紗』について-日本諸学振興委員会第六編「芸術学」(昭和15年3月)伴大納言絵詞小考『清閑』15冊(昭和18年3月)リーグル「自然の作品と芸術の作品(翻訳)『皆実』29号(広島高等学校、昭和16年2月)(再録)『美術史学』79号(昭和18年7月)信貴山縁起絵巻に於ける同一構図の反復について『清閑』19冊(昭和19年1月)宗達雑考『美術史学』85・87号(昭和19年1・4月)玉虫厨子の所謂「多宝塔図」について『哲学年報』9輯(昭和25年7月)上代彫刻の光背に関する二・三の問題『哲学年報』10輯(昭和25年12月)筑紫観世音寺の梵鐘(共同執筆)『哲学年報』12輯(昭和28年2月)筑紫観世音寺の大黒天(共同執筆)『哲学年報』14輯(昭和28年2月)リーグル研究 1の1・1の2『哲学年報』14・15輯(昭和28年2月・29年3月)ヴァフィオの盃-リーグルの古代美術史論に対する疑問-『美学』14号(昭和28年9月)隋代彫刻銘文集録 上・下(共同執筆)『哲学年報』17・18輯(昭和30年3・11月)豊後高田市の熊野石仏(共同執筆)『仏教芸術』30号(昭和32年1月)臼杵石仏案内『仏教芸術』30号(昭和32年1月)九州石仏一覧表『仏教芸術』30号(昭和32年1月)延久二年銘の梵字石碑『大和文化研究』4巻3号(昭和32年1月)ヴェルフリンのペシミズム『美学』35号(昭和33年12月)歴代名画記索引『哲学年報』22輯(昭和35年3月)中国の自画像 -越岐の場合-「美学」46号(昭和36年9月)張彦遠の品等論にみえる「自然」について『哲学年報』23輯(昭和36年9月)「合作」の意味について『仏教芸術』50号(昭和37年12月)天開図画楼記について『仏教芸術』54号(昭和39年5月)顧愷之の佚文『美術史』56号(昭和40年3月)顧愷之と瓦官寺『九州大学文学部四十周年記念論文集』(昭和41年1月)書の品等論の成立について-虞龢の「論書表」を中心に-『美学』64号(昭和41年3月)On the historical position of the “Yamato.e” in the far eastern history of art. (Lecture at the Asia Foundation,S an Francisco,U .S.A.,1966.8.30)羊欣の伝記とその書論-「天然」の概念の発生について『仏教芸術』69号(昭和43年12月)羊欣『古来能書人名』附羊欣伝『哲学年報』28輯(昭和44年8月)デューラーの芸術論『美学』80号(昭和45年3月)一隻眼の大鑑禅師像『仏教芸術』76号(昭和45年7月)対馬・壱岐の美術調査について『仏教芸術』95号(昭和49年3月)対馬の仏教美術『対馬風土記』12号、対馬郷土研究会(昭和54年3月)禅宗六祖印像について-豊後・円福寺本を中心に『仏教芸術』155号(昭和59年7月)特健薬『デアルテ』2号(昭和61年3月)王義之の生卒年の一資料『デアルテ』3号(昭和62年3月)顧愷之の生卒年『デアルテ』4号(昭和63年3月)張延賞と元の雑劇『デアルテ』4号(昭和63年3月)広東の六祖慧能石刻像について-曹渓の南華寺と広州の光孝寺『仏教芸術』178号(昭和63年5月)西田直養『金石年表』について『デアルテ』5号(平成元年3月)王羲之「蘭亭序」の説話『デアルテ』6・7号(平成2年3月・3年3月)劉世儒筆「墨梅図」と「雪湖梅譜」『仏教芸術』201号(平成4年4月)随想、美術批評など 『芸術史の課題』-植田寿蔵著に寄せて- 九州帝国大学新聞、140号、昭和10年12月22日シュマルゾー逝く 九州帝国大学新聞、148号、昭和11年5月22日デューラーとロダン -造形芸術における運動の表現について- 九州帝国大学新聞、166号、昭和12年6月20日絵画の近代性について 九州帝国大学新聞、179号、昭和13年5月1日北斎と印象派 夕刊フクニチ、昭和23年4月15日ブルトゥス違い 「若人」1巻2号、不二出版社、昭和24年2月ピカソとハト 朝日新聞、昭和27年1月22日矢崎美盛先生を憶う 毎日新聞、昭和28年4月15日学問の流れ -美学- 朝日新聞、昭和31年6月18日ピカソ版画展をみて 朝日新聞、昭和32年7月22日現代美術と歴史 朝日新聞、昭和32年9月20日「ルオ-展」に想う 朝日新聞、昭和33年4月23日西日本画壇史(連載) 朝日新聞、昭和34年1月20日~35年8月31日王義之の自画像 「石橋美術館ニュース」3、昭和35年8月私の見たエジプト美術 朝日新聞、昭和38年6月5日今日からみたフォーブ 朝日新聞、昭和40年10月22日「黄金のマスク」の芸術 朝日新聞、昭和40年12月9日日本美の二つの祖型 朝日新聞、昭和41年5月28日ピカソ芸術の語るもの 毎日新聞、昭和45年1月12日デッサン -画家の詩心の軌跡- 朝日新聞、昭和46年7月7日レンブラント「夜警」の修理をみて 「美術の森」7号、北九州市立美術館、昭和51年5月世説新語と王義之・顧愷之 『新釈漢文大系』季報44、明治書院、昭和51年6月発生期の書論 -画論との対照から 『中図書論大系』月報1、二玄社、昭和52年7月ドガの色彩と線 読売新聞、昭和52年1月12日四庫全書本のマイクロフィルム -北京図書館での感激『ひろば北九州』昭和54年5月『校本歴代名画記』の索引 『書誌索引展望』6の2、昭和57年5月法隆寺薬師如来像の台座絵 日本最古の沙羅双樹の絵か 西日本新聞、昭和63年1

小川光晹

没年月日:1995/01/12

読み:おがわこうよう  同志社大学教授、環太平洋学会長の美術史家小川光晹は1月12日午前1時15分、脳こうそくのため京都市左京区の石野病院で死去した。享年69。大正15(1926)年1月3日奈良市登大路59番地に生まれる。父は美術写真家の草分けのひとりで飛鳥園を営んだ小川晴晹。奈良県立師範学校附属小学校、奈良県立郡山中学校を経て、昭和19(1944)年8月第二早稲田高等学院文科を卒業。早稲田大学文学部に入学するが、同21年3月に中退。同志社大学文学部に入学し、同25年に同大学を卒業する。在学中は思想史家、石田一良に師事した。同24年東山高等学校教諭となり、翌年奈良県立奈良高等学校へ移ったが、同26年同志社大学文学部助手となり、同29年専任講師、同34年助教授、同40年教授となった。同41年5月より11月まで外遊し、主に米国ボストン美術館で調査・研究にあたった。主要論文に「法隆寺夢殿救世観音像」(『文化史学』3号、昭和26年)、「白鳳彫刻の成立」(『文化学年報』第6 昭和32年)、「古墳と埴輪」(『文化学年報』第7 昭和33年)、「美術史と時代区分」(『文化史研究』9号 昭和34年)、「古代の肖像彫刻に現われた歴史意識』(『日本における歴史思想の展開』至文堂 昭和36年)、「天平様式の成立について」(『日本文化史論集』 昭和37年)、『奈良美術史入門』(飛鳥園 昭和34年)などがある。文化史的観点から仏像等を中心に日本美術史を論じ、晩年は環太平洋地域という新たな視野での調査・研究に従事したほか、博物館学的見地からの論考も多数ある。著作目録は『博物館学年報』27 号(1995年12月)に詳しい。

吉岡道隆

没年月日:1995/01/02

読み:よしおかみちたか  筑波大学名誉教授、東京家政学院大学教授のデザイン家吉岡道隆は1月2日午後10時20分肺がんのため東京都港区の病院で死去した。享年70。大正13(1924)年4月22日新潟県高田市大手町250番地に生まれる。昭和21(1946)年東京美術学校工芸科漆工科を卒業して同研究科に進学。同22年第3回日展に「柳文文具飾箱」で初入選、同23年第4回日展には「棚」、同24年第5回日展には「金属漆器盛器」、同25年第6回日展には「漆器装飾壁面」、同27年第7回日展には「PORTABLE RADIO」、同27年第8回日展には「装飾壁面ノ部分 昼と夜」を出品した。また、同22年4月より30年5月まで東京国立博物館学芸部工芸課漆工室に勤務。この間同26年4月より同30年5月まで文化財保護委員会無形文化課工芸技術部員をもつとめる。同29年5月渡米しクランプルック・アカデミー・オブ・アーツに入学して同30年に同校を卒業。同年米国シカゴのイリノイ工科大学大学院で工業デザインを学び、同33年6月同校より工業デザインの修士号を受ける。同34年千葉大学工業短期大学部助教授となり、同35年同大工学部助教授となる。同年11月より翌36年5月までイタリアに滞在してイタリア共和制百年記念国際博覧会日本館の展示にあたる。同37年同大工学部教授となり機器意匠学を担当する。同38年7月より11月まで中国に滞在して同地の工業デザインについて調査し、同40年『中華民国に於ける産業開発と工業意匠の教育の計画』を刊行する。同51年筑波大学芸術学研究科教授となり生産デザインについて講ずる。同63年同大を退職し、同名誉教授となり、また同年より東京家政学院大学人文学部工芸文化学科教授となった。同40年から51年まで日本インダストリアル・デザイナー協会理事、同49年以降日本デザイン学会理事をつとめ、同46年から58年までは優良デザインに与えられるGマーク商品審査をつとめた。

匠秀夫

没年月日:1994/09/14

読み:たくみひでお  日本近代美術史研究者で、現代美術の評論においても幅広く活動した茨城県近代美術館館長の匠秀夫は、9月14日食道がんのため東京都文京区の順天堂病院で死去した。享年69。日本近代洋画史の研究で著名であった匠は、大正13(1924)年11月28日北海道夕張郡夕張町字住初社宅19号-2 (現夕張市)に生まれ、幼少時から札幌で養育され、北海道庁立札幌第一中学校を経て、昭和19年京都帝国大学文学部選科へ進んだが、翌年陸軍二等兵として入営した。戦後の同23年京都大学を中退し北海道大学文学部史学科に入学、堀米庸三教授の下で西洋中世史を研究し、同32年同大学大学院を修了した。この頃から日本近代洋画史への関心を深め、精査な資料収集と調査を開始し、また、河北倫明著『青木繁-生涯と芸術』(同23年)に啓発されたり、土方定一を識り作家研究の方向性を示唆されたこともあり、本格的に日本近代美術史を専攻するに至った。同39年、最初の著書『日本近代洋画の展開』を昭森社から刊行、同書は美術と文学との関わりに注目する等、事実の羅列に止まらない独自の史観を盛った斬新な日本近代洋画史論として高く評価された。一方、北海道出身の作家研究も独自に展開、同43年に「三岸好太郎-昭和洋画史への序章』、翌年『中原悌二郎』の二書をその成果として世に出した。この間、同39年から、札幌大谷短期大学で教鞭を執ったが、同43年神奈川県立近代美術館主任学芸員に迎えられ、以後、同館での数多くの企画展に関わり、日本現代美術、西洋近・現代美術へも研究の領域を広げるとともに、美術評論の活動も精力的に展開した。同51年、神奈川県立近代美術館副館長、同56年同館長に就任、同60年同館を定年退職した。また、中原悌二郎賞審査委員、安井賞選考委員、現代日本美術展審査委員、高村光太郎大賞審査委員、日本国際美術展選考委員など数々の委員に携わったほか、杉野女子大学、法政大学文学部、札幌学院大学、愛知県立芸術大学などの非常勤講師をつとめた。同60年、茨城県参与(新美術館担当)を委嘱され、同63年茨城県立近代美術館開設と同時に館長に就任し、同館の運営に尽力した。執筆活動は晩年に至るまで極めて旺盛で、その全容は、残後一周忌にあたり上梓された『匠秀夫 年譜・著作目録』 (陰里鉄郎編)に詳しい。同誌から、著書(含共著、編著等)のみを以下に掲げる。著書『近代白木洋画の展開』(昭森社、昭和39年12月)『中原悌三郎・その生涯と芸術 』(旭川市、昭和43年3月)「三岸好太郎-昭和洋画史への序章』(北海道立美術館、昭和43年11月)「中原悌二郎』(木耳社、昭和44年12月)『近代の美術 第26号 三岸好太郎」(至文堂、昭和50年1月)『小出楢重』(日動出版部、昭和50年2月)『近代日本洋画の展開』(昭森社、昭和52年2月)『近代日本の美術と文学-明治大正昭和決の挿絵-』(木耳社、昭和54年11月)『近代の美術 第58号 日本の水彩画』(至文堂、昭和55年4月)『岩波ジュニア新書 22 絵を描くこころ』(岩波書店、昭和55年10月)『大正の個性派』(有斐閣、昭和58年4月)『棟方志功 讃』(平凡社、昭和59年11月)『小出楢重』(日動出版部、昭和60年2月)『日本の近代美術と文学-挿画史とその周辺』(沖積社、昭和62年11月)『物語 昭和洋画壇史Ⅰパリ豚児の群れ』(形文社、昭和63年10月)『戦中病兵日記』(昭森社、平成元年8月)『物語 昭和洋画壇史II“生きている画家たち” -閉塞の時代』(形文社、平成元年11月)『日本の近代美術と西洋』(沖積社、平成3年9月)『三岸好太郎-昭和洋画史への序章』(求龍堂、平成4年8月)『日本の近代美術と幕末』(沖積社、平成6年9月)共著、編著、訳書、監修本『彫刻の生命』中原悌二郎著、匠秀夫編(中央公論美術出版、昭和44年2月)『小熊秀雄・詩と絵と画論』小田切秀雄、匠秀夫共編(三彩社、昭和49年1月)『世界の巨匠シリーズ ムンク』トーマス・メッサー著、匠秀夫翻訳(美術出版舎、昭和49年11月)『大切な雰囲気』小出楢重著、匠秀夫編(昭森社、昭和50年9月)『衣服の文化史-美術史との交響』井上泰男、匠秀夫共著(研究社、昭和53年5月)『有島生馬芸術論集-一つの予言』紅野敏郎、匠秀夫、有島睦子編(形象社、昭和54年9月)『中原悌二郎の想出』中原信著、匠秀夫監修・編集(日動出版部、昭和56年1月)『小出楢重全文集』匠秀夫編(五月書房、昭和56年9月)『日本水彩画名作全集 二 石井柏亭』匠秀夫編・著(第一法規出版、昭和57年6月)『日本水彩画名作全集 五 中西利雄』匠秀夫編・著(第一法規出版、昭和57年7月)『現代日本の水彩画』匠秀夫監修(第一法規出版、昭和59年)『ハムレット-神奈川県立近代美術館収蔵のドラクロワの版画-』ドラクロワ、F.V.E著、匠秀夫監修(形象社、昭和59年)『日本の水彩画』匠秀夫監修(第一法規出版、平成元年)『ゴッホ巡礼』向田直幹、匠秀夫著(新潮社、平成2年11月)『土方定一 美術批評 1946-1980』土方定一著、匠秀夫、陰里鉄郎、酒井忠康編(形文社、平成5年10月)『児島善三郎の手紙』匠秀夫編(形文社、平成5年10月)『原勝郎画集』匠秀夫編(原勝郎画集刊行委員会[原のぶ子方]、平成6年2月)『小出楢重の手紙』匠秀夫編(形文社、平成6年5月)

天田起雄

没年月日:1994/09/08

読み:あまだかずお  奈良国立文化財研究所建造物研究室長天田起雄は9月8日午後10時半心不全のため東京都杉並区高井戸東3-30-14上高井戸住宅106で死去した。享年48。昭和20(1945)年10月19日新潟県佐渡郡に生まれる。同39年東京都立杉並高校を卒業して東京都立大学工学部建築工学科に入学。同43年同科を卒業して同大学院工学研究科修士課程に進み、同45年に同科を修了して奈良国立文化財研究所平城宮発掘調査部研究補佐員となった。同年5月同研究所平城宮跡発掘調査部遺構調査室室員となり、同47年より同部藤原宮跡調査室、同48年より同研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部第一調査室につとめた。同49年文化庁文化財保護部建造物課に勤務となり、同53年文化庁文化財保護部建造物課文化財調査官(伝統的建造物群部門)、平成元年4月より同課文化財調査官(修理指導部門)、同2年には同課主任文化財調査官(修理指導部門)となった。同4年同課修理企画部門の主任文化財調査官となり、同6年4月奈良国立文化財研究所にもどって、建造物研究室長となった。建築史学会、修復学会に所属し、日本建築史、建築を中心とする修復学、文化財建造物および歴史的景観の保存を専門とした。「文建協通信」1994年11・12月合併号に追悼文が掲載されている。

中村傳三郎

没年月日:1994/08/23

東京国立文化財研究所名誉研究員の美術史家、美術評論家の中村傳三郎は、8月23日大腸がんのため千葉県市川市の東京歯科大学市川総合病院で死去した。享年77。日本近代美術史、とくに日本近代彫塑史の実証的研究に先鞭をつけた中村は、大正5(1916)年10月30日兵庫県芦屋市西蔵町2番地11号に生まれ、昭和15年甲南高等学校高等科を卒業し東京帝国大学文学部美学美術史学科へ進み、同17年9月卒業した。同年4月陸軍二等兵として入営し、戦後の同21年5月ラパウルから名古屋に帰還、除隊する。翌22年5月から兵庫県武庫川学院中学校教諭となったが同年9月に退職、10月、国立博物館附属美術研究所(現東京国立文化財研究所美術部)に奉職した。以後、同24年文部技官となり、同42年美術部主任研究官、同47年美術部第三研究室長に昇任、同53年4月定年退官した。美術研究所入所当初から日本近代美術、特に従来殆んど未開拓であった明治以降の彫塑史研究に着手し、すでに同26年には「明治末期におけるロダン」を研究所の機関誌「美術研究」第163号に発表した。同論文は、日本近代彫刻における西洋彫刻の受容と展開に着目したものであり、この分野における実証的研究に先鞭をつけた論考として注目された。続いて、ロダンの影響を最初に受け、真に彫刻界に近代をもたらしたとされる荻原守衛の生涯と芸術に関する詳細な研究を続行し、その成果を同33年以来「美術研究」誌上に6回にわたって発表した。一方、平櫛田中ら木彫家の作家研究、明治以来の彫塑団体の系統的調査研究を併行し、日本近代彫刻史の史的展開を総合的に把握するに至った。上記研究の主要な論文は、著書『明治の彫塑』(平成2年)にまとめられ、同書で平成3年、第45回毎日出版文化賞を受賞した。また、彫塑・立体造型を主とする現代美術の動向の調査研究にも従事し、その成果は在職中の『日本美術年鑑』の編集、執筆に生かされている。さらに、日本美術評論家連盟会員として、批評活動も展開し、数多くの美術批評を新聞や雑誌に発表し、作家の創作活動に大きく寄与した。主要著書・論文著書明治の彫塑(共著)(昭和31年11月、洋々社)彫塑界とロダン(共著)(昭和36年9月、角川書店)竹内栖鳳(共著) (昭和38年1月、講談社)彫刻界の動き(共著)(昭和39年7月、角川書店)工芸・彫刻(共著)(昭和50年3月、東京国立文化財研究所)岡田三郎助(共著)(昭和50年5月、集英社)北村西望-その人と芸術(共著)(昭和51年6月、講談社)工芸・彫刻(共著)(昭和52年1月、有斐閣)荻原守衛とその周辺(昭和52年3月、至文堂)近代日本彫刻の流れ(共著)(昭和52年6月、東京芸術大学)明治の彫塑(平成3年3月、文彩社)論文明治末期におけるロダン(昭和26年11月、美術研究163)明治時代の彫塑団体青年彫刻会について(昭和31年1月、美術研究184)四条派資料「村松家略系」と呉春・景文伝(昭和36年5月、美術研究216)松村景文筆雪中白梅豆鳥図(昭和38年12月、国華861)荻原守衛-生涯と芸術-(昭和39年7月、美術研究235(以下、264、266、274、279、290号に継続))平櫛田中-人と芸術-(昭和48年4月、形象12)(なお、「碌山美術館報」第16号に詳細な著作目録-中村傳三郎「近・現代日本の彫塑」主要著作目録-が編集収載されている。)

満岡忠成

没年月日:1994/08/22

読み:みつおかただなり  日本陶磁協会理事の陶磁器研究家満岡忠成は8月22日午後1時15分、肺がんのため京都市の病院で死去した。享年87。明治40(1907)年1月3日三重県に生まれる。昭和5(1930)年東京帝国大学美学美術史科を卒業し、大和文華館に勤務したのち同43年から京都市立芸術大学教授として教鞭を取る。同47年同大学を退き滴翠美術館館長となる。また、同49年より同61年まで大手前女子大学教授をつとめた。東洋陶磁史を中心に研究し、同45年ニューギニア・セピック美術を調査、同49年韓国の慶尚南道窯を訪れる。著書に『茶の古窯』(同47年)、『信楽・伊賀』(平成元年)等がある。昭和62年小山富士夫記念賞功績褒賞を受賞した。

池上忠治

没年月日:1994/06/28

読み:いけがみちゅうじ  神戸大学教授で美術史家の池上忠治は6月28日午後10時45分、胃ガンのため神戸市中央区の神戸大学病院で死去した。享年57。昭和11(1936)年7月30日新潟県に生まれる。同35年東京大学文学部美術史学科を卒業し、同37年東京大学大学院美学美術史修士課程を修了。同年より東京大学文学部助手をつとめる。同38年フランス政府給費留学生としてフランスに渡り、パリ大学美術考古学研究所、エコール・ドゥ・ルーヴルに学ぶ。同41年帰国。同43年神戸大学文学部講師、同46年同助教授、同56年同教授となった。西洋美術史、特にフランスの18、19世紀美術史を専攻し、当時の日仏美術交流の一面を示すジャポニスムについて早くから調査・研究を進めた。おもな著書に『フランス美術断章』(美術公論社)、「随想フランス美術」(大阪書籍)、『世界美術大全集』第22巻「印象派の時代」第23巻「後期印象派の時代」(小学館)、訳書にリウォルド編『セザンヌの手紙」(筑摩書房、美術公論社)、ルネ・ユイグ著『イメージの力』(美術出版社)、矢代幸雄著『サンドロ・ボッティチェルリ』 (共訳、岩波書店)などがある。神戸大学文学部教授として教鞭を取り、また美術史学会西支部委員として学界に貢献したほか、ジャポネズリー研究学会常任理事をつとめた。神戸大学文学部発行の「芸術学芸術史論集」第7号に追悼文、年譜、文献目録が載せられている。

岩崎吉一

没年月日:1994/06/13

東京国立近代美術館次長で、美術評論家の岩崎吉ーは、6月13日午後7時25分、肺がんのため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年59。岩崎は、昭和10年5月13日、福岡県北九州市八幡西区香月町に生まれ、都立日比谷高校卒業後、学習院大学文学部にすすみ、富永惣ーの指導をうける。同38年学習院大学大学院修士課程を修了、同36年から東京国立近代美術館に勤務。その問、同44年から翌年にかけて、大阪万国博覧会開催にともなう、万国博美術館に勤務、展覧会企画および運営を担当。同54年に、同美術館美術課長、同57年からは、企画資料課長を歴任し、平成4年からは次長となった。在職中、「徳岡神泉遺作展」(昭和49年)、「フォンタネージ、ラグーザと明治前期の美術展」(同52年)、「東山魁夷展」(同56年)、「村上華岳展」(同59年)、「モディリアーニ展」(同60年)、「写実の系譜II 大正期の細密描写」展(同61)、「杉山寧」展(同62年)、「高山辰雄展」(平成元年)、「手塚治虫展」(同2年)等、数多くの企画展を担当した。さらに、こうした美術館活動のかたわら、「名古屋市美術館開館記念館 20世紀絵画の展開」(昭和63年)をはじめ、各地の美術館、新聞社等の企画展にも積極的に協力した。また、画集『村上華岳』(日本経済新聞社、昭和59年)、『平山郁夫画集』 (朝日新聞社、平成元年)、『小茂回青樹画集』(日本経済新聞社、同2年)、『定本徳岡神泉画集』(朝日新聞社、同5 年)等の画集の監修執筆など、代表的な近、現代の日本画家の作家論を中心に執筆活動も旺盛におこなった。その評論は、美術館で今泉篤男、河北倫明の薫陶をうけ、作家の全体像をつねに念頭におぎながら、その芸術の本質を把握しようとつとめる姿勢がつらぬかれていた。なお、歿後、亡くなるまでの十年間の日本画に関する代表的な論考をまとめた、論集『近代日本画の光芒』(京都新聞社、平成7 年)が公刊され、同書巻末に「岩崎吉一主要著作」として初期から晩年にいたるまでの著作目録が付されているので、参照されたい。

島田修二郎

没年月日:1994/04/11

東洋美術史家で、米国プリンストン大学名誉教授の島田修二郎は、4月11 日午後6時45分、呼吸不全のため、京都市西京区の関西医大洛西ニュータウン病院で死去した。享年87。明治40年3月29日、兵庫県神戸市に生まれた。父は治平衛、母は静尾。昭和2年3月、第三高等学校文科甲類を卒業後、京都帝国大学文学部哲学科に入学、美学美術史を専攻し、同6年3月に卒業後、12年3月まで、京都帝国大学大学院で東洋絵画史を専攻した。同13年3月から17年3月まで京都帝国大学文学部副手をつとめ、また16年5月から23年4月まで京都府社寺課の嘱託として寺院什宝の臨時調査に当たった。同23年7月から国立博物館研究員として美術研究所に勤務し、26年12月から思賜京都博物館監査員、27年4月、同博物館の国への移管にともなって文部技官となり、5月には学芸課美術室長となった。39年3月、職を辞し、7月からプリンストン大学客員教授として日本美術史を担当、40年7月には同大学教授となり、50年6月に定年退職、同大学名誉教授の称号を受けた。同7月、メトロポリタン美術館顧問となり、また51年9月から52年1月までハーヴァード大学客員教授として中国美術史を教えた。52年8月、メトロポリタン美術館顧問を辞し、9月に日本に帰国。55年から57年まで京都国立博物館評議員会評議員、平成4年まで名誉評議員をつとめた。この問、57年から61年まで文化財保護審議会第一専門調査会絵画彫刻部会専門委員。また、昭和50年から61年まで、メトロポリタン東洋美術研究センター会長、57年から平成3年まで国際交流美術史研究会会長、次いで名誉会長をつとめた。島田は、中国・日本の絵画史研究に大きな足跡をのこしたが、その基礎にあったのは作品と文献への肉迫であった。画を見尽くすとも言える観察眼は、密かに書かれた画家の隠し落款を発見し、画面に刻まれた制作者の営為の痕跡を見いだす(「高桐院所蔵の山水画について」「鳥毛立女屏風)。平成元年に第一回の国華特別賞(平成元年度)を受賞した『松斎梅譜』の研究は、第二次大戦中から実に四十五年の歳月をかけて丹念になされたものであった。ただ精緻な作品や文献の分析にはとどまらず、四十八巻に及ぶ「法然上人行状絵図」の極めて複雑な成立過程の解明に見られるように、断片的と見える諸要素は一つの流れに纏め上げられて行く。島田は、史料のすべてを記憶し、論のすべてを頭の中で構成してから執筆して訂正するところがなかったという。観たものと読んだものとを綴り合わせてゆく歴史的想像力、そこに島田の真骨頂がある。「逸品画配」や「罔両画」の研究には、それがいかんなく発揮されて、平板な実証主義を越えた絵画史の具体相が描き出されている。島田が提示したのは、漢たる絵画史の大枠ではなく、その根幹をなす事象群であった。詩画軸の研究に見られるように、それが中国・日本を含む広い視野をもってなされたことも特筆される。このような研究態度が、絵画史研究者に与えた影響は大きい。京都国立博物館在職中に担当した「雪舟展」(昭和32年)では、雪舟関係の作品と資料をほぼ網羅的に展示して後の研究の基礎を作った。プリンストン大学では、欧米の学生に対して『古今著聞集』『法華経』なと、の原典講読を含む本格的な指導を行い、十一年間に二十人近くの東洋美術史専門の研究者を輩出した。その指導に対する評価の高さは、退職後間もなくの1976年、島田を称えてプリンストン大学美術館で水墨画展が催されたことからも窺える。その折に、教え子たちの執筆した「JapaneseInk Paintings」は、現在でも英文で書かれた室町水墨画に関する基本文献である。このような、東洋美術史研究における世界的な貢献により、1990年度には第61回朝日賞を受賞した。著作のほとんどは、『島田修二郎著作集』上・下(中央公論美術出版社、1987・1993年)に収められている。なお同下巻の著作目録を参照されたい。主な編著「岡両画」(『美術研究』84 ・86、1938・39年)「花光仲仁の序」(『宝雲』25 ・30、1939・43年)「宋迫と漏湘八景」(『南画鑑賞』10- 4、1941年)「詩画軸の書斎図について」(「日本諸学研究報告(芸術学)」21、1943年)「逸品画風について」(『美術研究』161、1951年)「高桐院所蔵の山水画について」(『美術研究』67、1952年)「知恩院本法然上人行状絵図」(『日本絵巻物全集』13、角川書店、1961年)『在外秘宝』障屏画琳派文人画、仏教絵画大和絵水墨画(学習研究社、1969年)Traditions of Japanese Art(Fogg Art Museum,Harvard University、1970年)「鳴毛立女屏風」(『正倉院の絵画』日本経済新聞社、1977年)『在外日本の至宝』3水墨画、1979年「鳥毛立女屏風の鳥毛貼成について」(『正倉院年報』4、1982年)『禅林画賛』(毎日新聞社、1987年)『松斎梅譜』(広島市中央図書館、1988年)

宮次男

没年月日:1994/02/20

読み:みやつぐお  日本美術史家で実践女子大学文学部教授の宮次男は2月20日午前9時30分、肺がんのため東京都田無市の病院で死去した。享年65。宮は昭和3年6月2日、三重県鈴鹿市南若松町で出生した。同28年3月、東北大学文学部東洋芸術史学科を卒業し、同29年5月同大学文学部助手となる。同30年9月に東京国立文化財研究所美術部技術員、同33年7月に文部技官に任官した。昭和35年5月には東京国立文化財研究所における共同研究「醍醐寺五重塔の壁画」で日本学士院恩賜賞を授賞した。同47年主任研究官となり、同52年には情報資料部に配置換となる。この年6月、「金字宝塔憂陀羅の研究」により東北大学より文学博士号を授与される。同53年4月には美術部第一研究室長に、さらに同57年4月には情報資料部長となる。同62年3月に東京国立文化財研究所を退官し、4月に実践女子大学文学部教授に就任する。宮の研究対象は日本中世絵画を中心とするが、その関心は多岐にわたっている。特に絵巻物研究では『日本絵巻物全集』への関与によってもたらされた幅の広さを基礎に、合戦絵・高僧伝絵・寺社縁起絵から御伽草子、奈良絵本や絵解き研究までも視野に入れ、数々の論考を残している。また日本中世期の代表的なジャンルと目される肖像画においても、前後をみわたした肖像画史をこころみるなど、先駆的な足跡を残している。しかし博士論文のテーマに代表される法華経をテーマとした仏教説話画研究への関心は、東北大学での思師故亀田孜教授への傾倒を示すかのように終始かわることはなく、宮の研究のパックボーンを形成している。晩年は十王経や「往生要集』に関わる絵画に関心を収斂させていたかに見うけられるが、その成果を世に問いはじめていた途上での逝去であった。美術史学会常任委員、民族芸術学会評議員をつとめた。東京国立文化財研究所名誉研究員。定期刊行物所載論文など1965年の歴史学界―回顧と展望―(史学雑誌75-5、昭和41年5月)日本の合戦絵1 奥州十三年合戦絵巻(日本美術工芸333、昭和41年6月)日本の地獄絵(日本美術土芸335、昭和41年8月)日本の合戦絵2 源平合戦絵(日本美術工芸337 昭和41年10月)長谷寺縁起(古美術15 昭和41年11月)一遍聖絵の錯簡と御影堂本について(美術研究244、昭和41年12月)伊保庄本北野天神縁起(古美術18、昭和42年7月)後三年合戦絵巻(日本美術工芸348、昭和42年9月)調馬図巻(古美術20、昭和42年12月)図版解説 弥勅来迎図(美術研究250、昭和42年12月)後三年合戦絵巻をめぐる三、三の問題 上、下(美術研究251、254、昭和43年2月、昭和44年2月)「井田の法談」―一遍上人絵伝断簡―(古美術21、昭和43年3月)聖徳太子伝絵巻(古美術21、昭和43年3月)古画に見る笑い(日本美術工芸354、昭和43年3月)雷神の美術(日本美術工芸359、昭和43年8月)日本の地獄絵(古美術23、昭和43年9月)十王地獄変相(古美術23、昭和43年9月)時宗の絵巻(日本美術工芸362、昭和43年11月)善光寺如来絵伝(古美術24、昭和43年12月)目連救母説話とその絵画―日連救母経絵の出現に因んで―(美術研究255、昭和44年3月)亀田孜博士の学風とその研究業績(文化33-1、昭和44年7月)地蔵菩薩と目連尊者(日本美術工芸371、昭和44年8月)足利義尚所持狐草紙絵巻をめぐって(美術研究260、昭和44年9月)金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅図私見(仏教芸術72、昭和44年10月)大和文華館蔵「一遍上人絵伝」断簡をめぐって(大和文華51、 昭和44年11月)拾遺古徳伝絵残欠(古美術28、昭和44年12月)1969年の歴史学界―回顧と展望―(史学雑誌79-6、昭和45年6月)絵巻入門1~34(本美術工芸390~425、昭和46年3月~49年2月)善光寺如来絵伝(国華931、昭和46年3月)研究資料 長谷寺縁起上、下(美術研究275、276、昭和46年11月、12月)雪渓筆獅子・虎豹図屏風一双(古美術35、昭和46年12月)谷文晃筆一偏上人絵伝(古美術36、昭和47年3月)研究資料 公刊 長谷寺縁起 詞書(美術研究278、昭和47年3月)拾遺古徳伝絵巻残欠―浄土開宗の段―(古美術38、昭和47年9月)研究資料 西行物語絵巻 詞書公刊(美術研究281、昭和47年10月)永徳元年の一遍上人絵伝残欠(古美術39、昭和47年12月)一遍上人絵伝残欠(金光寺本)(古美術39、昭和47年12月)立本寺蔵 妙法蓮華経金字宝塔曼陀羅図について(美術研究282、 昭和47年12月)海北友雪筆徒然草絵巻(古美術40、昭和48年3月)『平治物語』諸本中における平治物語絵巻の位置(美術研究289、 昭和49年2月)地蔵霊験記絵巻について(仏教芸術97、昭和49年7月)中世絵巻の展望(MUSEUM284、昭和49年11月)弘法大師絵伝残欠(古美術47、昭和50年1月)矢取地蔵縁起について(美術研究298、昭和50年3月)東寺本弘法大師行状絵巻―特に第十一巻第一段の成立をめぐって―(美術研究299、昭和50年11月)お伽草子絵巻―その画風と享受者の性格(国文学解釈と教材の研究 22―16 昭和50年12月)説話と絵巻(文学45-1、昭和52年1月)歓喜天霊験記私考(美術研究305、昭和52年3月)古代・中世秘画絵巻考(アート・トップ39、昭和52年4月)1976年の歴史学界―回顧と展望―(史学雑誌86-5、昭和52年5月)金字宝塔曼茶羅 上、中、下 ―ユニークな仏教説話図―(日本美術工芸467~469、昭和52年8月~10月)金字法華経絵について(金沢文庫研究257、昭和54年5月)お伽草子絵巻と奈良絵本(萌春291、昭和54年9月)御伽草子と土佐光信―鼠草紙絵巻考―美術研究313、昭和55年3月)絵巻物に見る日本仏教―餓鬼草紙を中心として―(東洋学術研究19-1 、昭和55年4月)鎌倉時代の美術 高僧伝絵と縁起絵(世界の美術(週刊朝日百科) )113 、昭和55年5月)文学と絵巻のあいだ(国語と国文学675、昭和55年5月)法華経の絵と今様の歌(仏教芸術132、昭和55年9月)国宝・伴大納言絵巻(解説)(芸術新潮374、昭和56年2月)芭蕉の風貌(太陽(別冊37)、昭和56年12月)日本の説話画(古美術61、昭和57年1月)日本の変相(国文学解釈と鑑賞47-11、昭和57年10月)中世人生絵巻(芸術新潮395、昭和57年11月)研究資料 白描西行物語絵巻(美術研究322、昭和57年12月)絵解き≪昭和五十七年度大会シンポジウム記録≫(説話文学研究18、昭和58年6月)宋・元版本にみる法華経絵(上) (下)(美術研究325、326、昭和58年9月、12月)八幡大菩薩御縁起と八端宮縁起 上、中、下(美術研究333、335、336、昭和60年9月、昭和61年3月、8月)研究資料 永福寺本遊行上人縁起絵(美術研究339、340、昭和60年9月)永福寺蔵遊行上人縁起絵巻(古美術77、昭和61年1月)妙法寺蔵妙法蓮華経金字宝塔曼荼羅について(美術研究337、昭和62年2月)八幡大菩薩御縁起と八幡宮縁起 附載一、二(美術研究339、340、昭和62年3月、11月)出相観音経の諸問題(実践女子大学美学美術史学4、平成1年3月)源平合戦図屏風 海北友雪筆(古美術92、平成1年10月)十王経絵について(実践女子大学美学美術史学5、平成2年3月)両界曼荼羅(古美術95、平成2年7月)和字絵入往生要集について(国文学研究資料館文献資料部・調査研究報告12、平成3年3月)十王経絵拾遺(実践女子大学美学美術史学7、平成4年3月)十王地獄絵(実践女子大学美学美術史学8、平成5年3月)博物館学と文化財(MUSEOLOGY12、平成5年4月)単行図書掲載文献類型より写実へ 鎌倉時代の肖像画(日本絵画館4、昭和45年3月、講談社)肖像画(原色日本の美術23、昭和46年6月、小学館)平治物語絵巻の絵画史的考察(新修日本絵巻物全集10、昭和50年11月、角川書店)蒙古襲来繪詞について(新修日本絵巻物全集10)「後三年合戦絵詞」について(日本絵巻大成15、昭和52年11月、中央公論社)鎌倉時代肖像畫と似繪(新修日本絵巻物全集26、昭和53年9月、中央公論社)中殿御會圖について(新修日本絵巻物全集26)法華經繪巻について(新修日本絵巻物全集25、昭和54年6月、中央公論社)在米の弘法大師伝絵巻について(原色日本の美術27在外美術 、昭和54年7月、中央公論社)遊行上人縁起繪の成立と諸本をめぐって(新修日本絵巻物全集23、昭和54年9月、中央公論社)中世絵画の誕生(日本美術全集10、昭和54年9月、学習研究社)絵巻物(日本美術全集10)大画面による説話画(日本美術全集10)肖像画(日本美術全集10)駒競行幸繪巻(新修日本絵巻物全集17、昭和55年1月、学習研究社)小野雪見御行繪巻(新修日本絵巻物全集17)なよ竹物語繪巻(新修日本絵巻物全集17)宗俊本遊行上人縁起繪諸本略解(新修日本絵巻物全集23)極楽再現(日本古寺美術全集15、昭和55年3月、集英社)槻峯寺建立修行縁起について(新修日本絵巻物全集別巻1 、昭和55年11月、集英社)八幡縁起繪巻(新修日本絵巻物全集別巻2、昭和56年2月、集英社)天稚彦草子繪巻(新修日本絵巻物全集別巻2)鼠草紙繪巻(新修日本絵巻物全集別巻2)祖師像と祖師伝絵巻(日本古寺美術全集21、昭和57年5月、集英社)妙心寺の肖像と頂相(日本古寺美術全集24、昭和57年9月、集英社)浄土教の絵画(全集日本の古寺8、昭和59年8月、集英社)高僧・祖師伝絵(全集日本の古寺4、昭和60年6月、集英社)縁起絵について―中世の社寺縁起を中心に―(全集日本の古寺5 、昭和60年7月、集英社)わが国の仏教説話絵(全集日本の古寺15、昭和60年5月、集英社)単行図書日本の美術56(昭和46年1月、至文堂)日本の地獄絵(昭和48年10月、芳賀書店)日本の美術33(昭和50年5月、小学館)金字宝塔曼荼羅(昭和51年3月、吉川弘文館)合戦絵巻(昭和52年11月、角川書店)日本絵巻大成15(昭和52年11月、中央公論社)日本の美術146(昭和53年7月、至文堂)絵巻と物語(昭和57年11月、講談社)日本の美術203(昭和58年4月、至文堂)日本の美術271(昭和63年12月、至文堂)

町田甲一

没年月日:1993/10/05

美術史家で、武蔵野美術大学名誉教授の町田甲一は、10月5日午後8時脳内出血のため東京都多摩市の天本病院で死去した。享年76。大正5年12月9日、東京市麹町区で生まれる。父は文・帝展で活躍した日本画家町田曲江。昭和11年3月東京府立第三中学校を病気のため二年遅れで卒業し、同年4月姫路高校へ進む。その卒業直前の昭和15年3月、治安維持法違反の疑いで検挙され(神戸詩人事件)、神戸橘拘置所などに18ケ月の長きにわたって拘禁された。昭和17年4月東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学し児島喜久雄に師事する。自身が述べるように(「めぐりあい-児島喜久雄先生のこと-」)、町田の美術史学の基礎をなす方法論は、師からの多大な影響のもとに形成された。昭和19年9月、同大学同学科を卒業し大学院へ進み、昭和21年9月には大学院在籍のまま長尾美術館へ勤務する。昭和22年12月、『天平彫刻の典型』(座右宝刊行会)を出版。昭和23年10月から東京大学大学院特別研究生。昭和24年3月、病気により長尾美術館を退職。翌年4・5月には胸部成形手術をうけ、以後昭和27年夏まで療養生活が続く。昭和28年4月東京教育大学講師、翌年4月助教授となる。昭和30年4月、『東洋美術史要説』上巻(深井晋司と共著、吉川弘文館)を刊行。また、同年12月、薬師寺金堂薬師如来像の調査をおこない、その成果を『薬師寺』(実業之日本社、昭和35年5月刊)として上梓する(後の昭和59年には、同書の改訂版がグラフ社から刊行される)。昭和30年から美術史学会常任委員(昭和55年まで)。昭和39年インドマハーボディ・ソサエティの招きにより渡印。昭和41年訪中。昭和43年、東京教育大学教授。この間、お茶の水女子大学、学習院大学、武蔵野美術大学、明治大学、東京大学等で講師を勤める。『奈良六大寺大観』全14巻(岩波書店刊、第2巻法隆寺二・第3巻法隆寺三・第6巻薬師寺・第14巻西大寺責任編集)の刊行が、昭和43年より始まる(昭和48年完結)。同書は、町田が編集委員代表として推進し、建築・美術の写真・解説・文献を可能な限り網羅した奈良美術史・建築史研究の基本資料であり、その意義は今日なお失われていない。また、この企画は町田の意向によって若手を中心とする多くの研究者を結集して進められた点でも画期的なものであった。昭和49年4月、名古屋大学教授。昭和52年には武蔵野美術大学教授となり、同62年に同大学名誉教授となる。平成4年勲三等瑞宝章受章。町田は、生涯一貫して、芸術としての仏像の追究に情熱を注ぎ続けた。その方法論は、リーグル、ヴォリンガー、あるいはヴェルフリンの理論に基づく自律的様式史観を前提としており、それを日本古代彫刻の様式区分論として展開させた一連の論考をあらわした(「上代彫刻史上における様式時期区分の問題」他)。また、薬師寺移建・非移建問題においては様式論の観点から積極的に論陣を張り、天平「様式の父」としての金堂薬師寺三尊像の意義を繰り返し主張した。これらの論考は、論理性の希薄な従来の造形論から大きな飛躍を示し、その後の彫刻史研究に大きな影響を与えた。その他、人・芸術・文化に対する想いや自伝的内容を綴った随筆も多数残し、『仏像の美しさに憑かれて』(保育社、1986)、『仏教美術に想う』(里文出版、1994)などに収載されている。また異色な著作に、自身の体験を基に太平洋戦争前夜の高校生活を描いた小説『鷲城下にかげる』(神保出版会、1994)がある。同書には詳細な年譜・著作目録が付されており、また町田甲一先生古希記念会論『論叢仏教美術史』(吉川弘文館、1986)の巻末には論文を含んだ主要著作目録がある。 ○その他の主要編著書概説日本美術史 吉川弘文館 1965日本古代彫刻史概説 中央公論美術出版 1974東大寺法華堂の乾漆像(奈良の寺15) 岩波書店 1974奈良古美術断章 有信堂 1975大和古寺巡歴 有信堂 1976上代彫刻史の研究 吉川弘文館 1977古寺巡歴 保育社 1982仏像イコノグラフィ(岩波グラフィックス8) 岩波書店 1983南無仏陀-仏教美術の図像学- 保育社 1986法隆寺(増訂新版) 時事通信社 1987概説東洋美術史 国際書院 1989仏の道-仏像の歩みの歴史と広がり- 同朋舎出版 1990芸術(中国文化叢書7)(鈴木敬と共著) 大修館書店 1971市川市史1~7 吉川弘文館 1971~1974奈良の寺1~21 岩波書店 1973~1975大和古寺大観1~7(第1巻法隆寺・法輪寺・中宮寺責任編集) 岩波書店 1976~1978日本美術小事典(永井信一と共編) 角川書店 1979

米澤嘉圃

没年月日:1993/07/29

読み:よねざわよしほ  東洋美術史家で、東京大学名誉教授、武蔵野美術大学名誉教授、元武蔵野美術大学長、国華社主幹の米澤嘉圃は、7月29日午前8時15分、肝機能障害による呼吸不全のため、東京都新宿区の慶応大学病院で死去した。享年87。明治39年6月2日、父万陸、母貴勢子の長男として、秋田県鹿角郡にて出生、芳男と命名された。4人の姉がある。幼年は、鉱山技師であった父の転勤にともない、秋田・東京・茨城・大分・東京と居を移し、大正13年3月、曉星中学校を卒業。つづいて昭和2年3月、福岡高等学校を卒業後、病弱のため一年浪人し、3年4月、東京帝国大学文学部美学美術史学科へ入学した。かつて内藤湖南の父十湾の弟子であった板橋忠八に漢詩を学び、書画を愛蔵していた父万陸の文人趣味が、美術史学を専攻する機縁となった。6年3月、東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業後、同年4月より、東京帝国大学文学部副手となり、同時に同文学部大学院へ進んだ。同年6月、父万陸の死去にあたり芳男を嘉圃と改名している。この間、大学において教授瀧精一の指導をうけ、7年、処女論文「狩野正信の研究」を『国華』に発表した。8年5月、文部省重要美術品等鑑査事務嘱託となり、著名な収集家の所蔵品を調査して鑑識眼を養い、10年6月、東方文化学院助手に迎えられる。この頃「田能村竹田と蘐園学派」を『国華』に発表したが、直載な鑑識と画家の精神の洞察とが遊離しない米澤の美術史学の形成を知る。この間、8年3月に、父に続いて母を失う。9年2月、加藤信子と結婚。以後、二男一女をもうけるが長男長女を幼少で失った。東方文化学院助手となって以降、中国絵画研究に本格的に没入し、13年3月、東方文化学院研究員となり、この間、中国上代の作画機構や絵画思想に関する多くの論文を『東方学報(東京)』・『国華』等に発表。15年9月から11月には、初めて中国各地(大連・奉天・北京・大同)と朝鮮を視察し、山西の高地で眼にした黄土景観に感慨をうけ、風土と美術との関係に思索を深める端緒となった。17年10月、『国華』の編集員となり、戦後、東方文化学院が経済的基盤を失うと、23年4月、結城令聞・窪徳忠とともに、東京大学東洋文化研究所研究員へ転じ、27年10月、文部技官を併任し、40年5月まで東京国立文化財研究所美術部に研究員として所属した。24年5月以降、東京大学教授を併任し、さらに美術史学会設立に関わり常任委員となった。東大教授、『国華』編集委員、美術史学会常任委員として、以後、長きにわたって、東アジア全般の美術の動向を視野におさめた数々の論文と作品紹介を『国華』を中心に発表し、戦後における東洋・日本の美術史研究を領導した。42年3月、東大を定年退官するまで、国内はもとより海外における中国絵画の調査も精力的に実施し、35年5月から6月にかけて東洋文化研究所研究員の鈴木敬・川上涇とともに台湾を訪問、当時、台中にあった故宮博物院の所蔵絵画約1500件(約5000点)を調査し、37年には、戦後はじめて、中華人民共和国の招待をうけ、美術史研究者団(長広敏雄・藤田経世・宮川寅雄・吉沢忠・米澤嘉圃)を組織し団長として訪中、12月から翌1月まで、北京故宮博物院をはじめ、上海・南京・西安・広州の各博物館で、中国絵画を調査し、各地の国立美術学院を視察した。41年5月から6月、再度、中華人民共和国を訪問し、南京・蘇州・上海・杭州を巡礼し調査し、同年9月から10月、日本経済新聞社の企画する北斎展に随行し、モスクワ・レニングラードに滞在、モスクワでは雪舟と文人画について二度にわたり講演した。この間、東京大学文学部、東京大学教養部、金沢大学文学部、名古屋大学文学部で教鞭をとって後進の指導にあたり、講談社『世界美術体系』の中国美術編を編集して中国美術の啓蒙につとめている。学会関係としては、美術史学会常任委員のほか、27年4月から44年10月まで、日本学術会議東洋学研究連絡委員会委員、36年から晩年まで東方学会評議員をつとめ、とくに37年から41年まで、美術史学会代表として指導力を発揮した。42年3月、東京大学を定年退官し、同4月から武蔵野美術大学教授をつとめた東京芸術大学でも教鞭をとった。同5月に東京大学名誉教授となる。44年7月には武蔵野美術大学学長代行、49年4月より同大学評議員となり、53年3月、同大学を定年退職した。同6月、武蔵野美術大学名誉教授となる。退職後も人望あつく、同12月、武蔵野美術大学ならびに武蔵野美術短期大学の学長に迎えられ、学校法人武蔵野美術大学理事となって学校の運営に携わっている。この間、42年8月から9月、アメリカ、ミシガン大学で開催された第27回東洋学者会議へ出席し、石濤について発表、鈴木敬とともにアメリカ各地の美術館・個人コレクションを調査したほか、48年8月~9月、欧州を旅行し、パリのチェルヌスキー美術館、ストックホルム極東美術館等、各地の美術館を訪れた。執筆活動も盛んで『国華』を中心に数々の論文と作品紹介を発表するとともに、朝日新聞社刊行の『東洋美術』、小学館刊行の『原色日本の美術』、講談社刊行の『水墨美術体系』、小学館刊行の『名宝日本の美術』等、主な美術全集の編集委員・監修者として尽力し、学問の啓蒙につとめている。文化財行政にも大きく寄与し、25年12月、文化財専門審議会、文化財保護審議会(改正後)の専門委員(絵画彫刻部長)、47年7月、高松塚総合学術調査会委員、同11月、東京国立博物館評議会評議員、55年11月、文化財保護審議会委員などの要職を歴任し、長らく国宝・重要文化財の指定に深く関与している。52年4月、勲二等旭日中綬章をうけた。52年8月、国華主幹となって以降、平成元年の『国華』創刊百年記念事業の実現に老齢を省みず尽力し、『国華論攷精選』上・下巻の出版、「室町時代の屏風絵展」(於東京国立博物館)の開催、「特輯東洋美術選」上・下(『国華』1127~28号)、「国華賞」の創設を果たし、新たに明治美術を『国華』掲載の対象とする指針を定めた。米澤の研究対象は、中国古代より現代までの絵画全般から朝鮮・日本の絵画におよび、文献を駆使した基礎研究を徹底して行う一方で、それまでの作品から遊離した高踏的な美学や画家の系統論に終始していた中国絵画史を、作品の実査と鋭い鑑識にもとづいて再検証し、実証的な近代学としての水準に高めた功績はきわめて大きい。具体的な形の変化に中国美学の最高理念をなす気韻論の変遷をあとづけながらも、作品分析の隘路に陥ることのない米澤の統一的視点に立った実証的研究は、近代における西洋美術の方法論を直接的に応用する試みと一線を画している。共感をもって語られる画家の精神の洞察と中国の自然や風土への深い見識こそが、『国華』誌上における膨大な数の優れた作品紹介とともに、その研究を支える母胎であった。唐代の画家呉道玄や明清の文人画家、南宋の繊細な絵画への愛着は、豪放磊落かつ繊細な審美眼をあわせもつ米澤の人柄を偲ばせる。日本美術についても東アジアを視野におさめた広い観点から検証する必要性を唱え、今日における研究動向の指針となっている。以下、主要著作と主要論文を年代順に掲載する。主要論文はすべて『米澤嘉圃美術史論集』に収録されている。米澤の執筆全般については『米澤嘉圃美術史論集(下巻)』に附す戸田禎佑編「著作目録」がある。尚、武蔵野美術大学美学美術史研究室米澤先生の喜寿を祝う会編「米澤嘉圃先生年譜・業績目録」も参照されたい。 主要著作『中国絵画史研究(山水画論)』(東洋文化研究所、昭和36年3月)(平凡社、昭和37年)『世界美術体系 8 中国美術』編集(講談社、昭和38年12月)『世界美術体系 10 中国美術』編集(講談社、昭和40年5月)『東洋美術 1 絵画 1』共編(朝日新聞社、昭和42年4月)『東洋美術 2 絵画 2・書』共編(朝日新聞社、昭和43年8月)『水墨画』(原色日本の美術11)共著(小学館、昭和45年4月)『請来美術(絵画・書)』(原色日本の美術29)共著(小学館、昭和46年9月)『八大山人・揚州八怪』(水墨美術体系11)共著(講談社、昭和50年5月)『白描画から水墨画への展開』(水墨美術体系1)共著(講談社、昭和50年12月)『米澤嘉圃美術史論集(上)巻』(国華社、平成6年6月10日)『米澤嘉圃美術史論集(下)巻』(国華社、平成6年6月10日)主要論文狩野正信の研究『国華』494・495・496号(昭和7年1・2・3月)田能村武田と蘐園学派『国華』540・541・542号(昭和10年11・12月、11年1月)東洋画の画布(Bildtafel)の形成に就いて『国華』654・655号(昭和21年9・10月)中国近世絵画と西洋画法『国華』685・687・688号(昭和24年4・6・7月)費丹旭筆美人図について『国華』701号(昭和25年8月)李蝉の花卉画冊に就て-揚州八怪論-『国華』722号(昭和27年5月)張風とその芸術 『大和文華』18号(昭和31年1月)中国古代における顔料の産地東京大学『東洋文化研究紀要11冊』(昭和31年11月)中国の美人画平凡社『中国の名画-中国の美人画』(昭和33年5月)李迪の生存年代についての疑問『国華』804号(昭和34年3月)長谷川等伯筆松林図の画風について『国華』814号(昭和35年1月)中国絵画史における持続と変化-序にかえて-講談社『世界美術体系(8)中国美術1』(昭和38年12月)禹之鼎筆楽春園図巻 『国華』870号(昭和39年9月)中国絵画の歩み講談社『世界美術体系(10)中国美術3』(昭和40年5月)書法上からみた石濤画の基準作『国華』913号(昭和43年4月)李森筆鬼子母劫鉢図巻について『国華』921号(昭和43年12月)東アジアにおける群像表現『国華』963・968号(昭和48年11月、49年5月)中国古代説話画の表現方法岩波書店『文学』42~48号(昭和49年)徐渭と八大山人講談社『水墨美術体系11』(昭和50年5月)漢代彫刻の動態表現 『国華』1000号(昭和52年8月)中国の金銀泥画朝日新聞社『光悦書宗達画金銀泥絵』(昭和53年3月)寒林山水図屏風覚書 『国華』1042号(昭和56年5月)現代中国美術の群像表現-莊兆和作難民図の場合-『国華』1051号(昭和57年5月)能阿弥画をめぐって 『国華』1060号(昭和58年2月)黄土の思出-その色と形-『国華』1076号(昭和59年9月)雲中麒麟図(絵紙)-呉道子の画風を偲んで-『国華』1078号(昭和59年12月)気韻生動考 『国華』1110号(昭和63年1月)中国古代の画魚 『国華』1127号(平成元年10月)正倉院の山水画をめぐる諸問題『国華』1137号(平成2年8月)気韻生動の源流を探る-「古代」分期への試み-『国華』1142号(平成3年1月)唐代における「山水の変」 『国華』1160号(平成4年7月)中国絵画における詩的表現『国華』1168号(平成5年3月)中国古代における器物の図形-「空間構成」『国華』1171号(平成5年6月)上林苑闘獣図の画風-書と画の筆法-『国華』1178号(平成5年11月)

菅沼貞三

没年月日:1993/02/20

読み:すがぬまていぞう  常葉美術館名誉館長、美術史家菅沼貞三は、心不全のため静岡県藤枝市立志太総合病院で死去した。享年92。明治33年12月11日静岡県小笠郡に生まれる。大正15年3月慶応義塾大学文学部美学美術史科を卒業し、同年11月より昭和3年4月まで京都帝国大学附属図書館嘱託勤務。昭和5年1月には開設をひかえた、東京国立文化財研究所の前身である帝国美術院附属美術研究所の職員に採用され、同年6月より助手を勤めた。その後、嘱託を経て同18年4月美術研究所所員に任官した。同23年12月に研究所を退官するまで機関誌『美術研究』に健筆を揮い、同7年1月の創刊号より数多くの研究成果を公表した。退官後、静岡大学教育学部(同26年)、愛知大学文学部(同28年)非常勤講師などを経て、同36年4月慶応義塾大学文学部助教授、翌37年4月同大学文学部教授となり、同44年3月定年退職した。この間、同30年6月より同43年まで大和文華館研究員嘱託となり、同館の刊行する『大和文華』誌上に多くの論考を発表した。同45年4月愛知学院大学教授。同48年4月には常葉学園短期大学客員教授となって、同53年3月愛知学院大学を定年退職すると翌4月より常葉美術館名誉館長の職に就いた。また、昭和35年慶応義塾大学より文学博士の学位を得、静岡県文化財保護審議会委員(同27年3月より58年12月)、東京都文化財専門委員(同43年8月より46年7月)を勤めた。 美術研究所時代より文人画を中心に日本の近世絵画の研究を進めた。とくに郷里と縁の深い渡辺崋山の研究の基礎を確立して大きな功績をあげた。没後150年を記念して『定本・渡辺崋山』(全3巻、郷土出版社、平成3年)が常葉美術館の編集によって刊行されたが、崋山研究の基礎資料を集大成した本書に監修者・執筆者として参画したのが菅沼の最後の大きな仕事になった。主要論文「大雅の二作解説」(「三田文学」16-10、昭和4)「崋山の花鳥画」(「三田文学」17-11、昭和5)「狩野修理筆絵馬図-京都・妙法院蔵」(「美術研究」1、昭和7)「海北友松筆松竹梅図-京都・禅居庵蔵」(「美術研究」5、昭和7)「阿弥陀如来像-東京・八橋徳次郎氏蔵」(「美術研究」6、昭和7)「狩野探幽筆草木花写生図-東京帝室博物館蔵」(「美術研究」8、昭和7)「須菩提像・阿修羅像-奈良・興福寺蔵」(「美術研究」11、昭和7)「尾形光琳筆梅図-東京・津軽義隆氏蔵」(「美術研究」14、昭和8)「扇面古写経-滋賀・西教寺蔵」(「美術研究」16、昭和8)「崋山の肖像画」(「美術研究」18、昭和8)「なよ竹物語絵巻に就て」(「美術研究」24、昭和8)「長春の作品に就て」(「美術研究」28、昭和9)「金銅仏四躯-大阪・観心寺蔵」(「美術研究」32、昭和9)「応挙筆写生図巻-京都・西村総左衛門氏蔵」(「美術研究」34、昭和9)「正宗寺の蘆雪筆襖絵」(「美術研究」36、昭和9)「観蘭亭の障壁画」(「美術研究」39、昭和10)「金地院茶室の襖絵」(「美術研究」44、昭和10)「文晁筆公余探勝図に就て」(「美術研究」47、昭和10)「上杉重房像-神奈川・明月院蔵」(「美術研究」48、昭和10)「蕭白筆柳下鬼女図-東京美術学校蔵」(「美術研究」53、昭和11)「等伯筆猿猴図-京都・龍泉庵蔵」(「美術研究」56、昭和11)「法然上人像-茨城・常福寺蔵」(「美術研究」57、昭和11)「椿山筆中戸祐喜像-神奈川・鈴木八重氏蔵」(「美術研究」62、昭和12)「舞踏図-東京・梅原龍三郎氏蔵」(「美術研究」63、昭和12)「崋山筆于公高門図-新潟・中野忠太郎氏蔵」(「美術研究」64、昭和12)「椿山筆高久靄厓像-静岡・大谷喜太郎氏蔵)(「美術研究」65、昭和12)「弥勒菩薩像-大阪・野中寺蔵」(「美術研究」65、昭和12)「桜間清厓」(「美術研究」67、昭和12)「崋山の肖像画法に就て」(「南画鑑賞」6-7、昭和12)「大雅の三丘紀行」(「美術研究」73、昭和13)「光琳筆藤原信盈像に就て」(「美術研究」76、昭和13)「崋山筆滝沢琴嶺像」(「美術研究」83、昭和13)「光琳筆肖像画余談」(「星岡」97、昭和13)「崋山筆虫魚帖」(「美術研究」86、昭和14)「後藤祐乗画像を中心として」(「美術研究」95、昭和14)「椿山の肖像画」(「美術研究」100、昭和15)「崋山晩期の作品」(「美術研究」107、昭和15)「崋山の守困日歴(公刊)」(「美術研究」107、昭和15)「崋山覚書」(「塔影」17-1、昭和16)「崋山の特質」(「東美」7、昭和16)「崋山の守困日歴1~4」(「三田評論」520~523、昭和16)「続崋山の肖像画」(「美術研究」114、昭和16)「崋山の四州真景」(「美術研究」120、昭和16)「田原藩御日記抄について」(「南画鑑賞」11-7、昭和17)「崋山初期の作品」(「美術研究」129、昭和18)「崋山中期の作品」(「美術研究」132、昭和18)「崋山とその弟子椿山」(「清閑」16、昭和18)「光琳肖像考」(「芸文研究」1、昭和26)「光琳筆中村内蔵助像」(「大和文華」5、昭和27)「崋山の四州真景図」(「MUSEUM」28、昭和28)「崋山の人物素描画」(「大和文華」12、昭和28)「椿山の山海奇賞」(「国華」758、昭和30)「崋山筆証如上人画像」(「大和文華」17、昭和30)「北小路大膳大夫像」(「大和文華」18、昭和31)「婦人像解説」(「大和文華」24、昭和32)「黄檗の大雅」(「南画研究」2-3、昭和33)「禅宗画の本質」(「史学」30-4、昭和33)「松平定吉画像」(「大和文華」26、昭和33)「植松家の応挙と大雅」(「大和文華」30、昭和34)「絵馬風俗図解説」(「大和文華」32、昭和35)「崋山の于公高門図稿」(「三彩」124、昭和35)「駿牛図解説田中親美氏蔵」(「大和文華」35、昭和36)「十二月風俗図考」(「大和文華」37、昭和37)「大雅画禅の説」(「哲学」三田哲学会、46、昭和40)「自性寺の大雅堂」(「墨美」154、昭和40)「大雅研究序説」(「美学」65、昭和41)「山陽著賛の木米作画」(「大和文華」47、昭和42)「文人画の研究」(「美学」75、昭和43)「竹田の亦復一楽帖」(「哲学」三田哲学会、53、昭和43)「竹田の船窓小戯帖」(「芸文研究」29、昭和45)「崋山筆毛武遊記図巻-桐生付近素描図巻-」(「大和文華」73、昭和60)「大雅の「三丘紀行」-三老遊境想像にするにたえたり」(「墨」60、昭和61)主要著書『崋山の研究』座右宝刊行会、昭和22(木耳社より複刊、昭和44)『崋山』中日新聞社、昭和37『池大雅-人と芸術』二玄社、昭和52『渡邊崋山』(日本の美術162)至文堂、昭和54『渡邊崋山-人と芸術』二玄社、昭和57

今泉元佑

没年月日:1993/02/18

社団法人・日本陶磁協会監事の古陶磁研究家今泉元佑は2月18日午後1時9分、急性心不全のため東京都大田区の東急病院で死去。享年86。明治39(1906)年5月26日、佐賀県西松浦郡有田町に第11代今泉今右衛門の三男として生まれる。本名吉郎。早稲田大学第二高等学院を中退。備前の古陶磁のほか、特に古伊万里、鍋島、古九谷等の資料収集、研究を行った。家業の今泉商会に勤務する一方、昭和53年に古伊万里鍋島研究所を設立。著書に『眼の勝負』(昭和38年 徳間書店)、『色鍋島と松ケ谷』(同44年 雄山閣)、『日本の名陶 古伊万里と柿右衛門』(同45年 雄山閣)、『陶磁大系 鍋島』(同47年 平凡社)、『初期有田と古九谷』(同49年 雄山閣)、『日本のやきもの 鍋島』(同50年 講談社)、『初期鍋島と色鍋島』(同61年 河出書房新社)、『古伊万里と古九谷』『古伊万里の染付』(双方とも同62年河出書房新社)、『日本陶磁大系 鍋島』(平成2年 平凡社)等がある。

倉田三郎

没年月日:1992/11/30

東京学芸大学名誉教授の美術教育者、洋画家の倉田三郎は、11月30日心不全のため東京都武蔵野市の武蔵野赤十字病院で死去した。享年90。INSEA(国際美術教育学会)第4代会長をつとめるなど美術教育に功績のあった倉田は、明治35(1902)年8月21日東京市牛込区に生まれた。東京府師範学校(青山師範学校)本科を経て、東京美術学校師範科へ進み、大正15年卒業した。在学中から中央美術展、二科展等に出品、同13年からは春陽会展に出品を続け、また、同年麓人社同人画会を結成した(昭和9年解散)。卒業の年、愛媛県師範学校教諭となり赴任、二年後に東京府立第二中学校へ転じた。昭和11年、第11回オリンピック・ベルリン展へ出品、同年春陽会会長に挙げられる。戦後は同24年東京学芸大学教授に就任、以後、美術教育における中心的存在として活躍し、同33年のバーゼル第10回国際美術教育会議日本代表をつとめたのをはじめ、美術教育に関わる国際会議及び研究のため約40カ国を歴訪した。一方、文部省の教材等調査研究中高委員、教育教員養成審議会委員、大学設置審議会専門委員などの政府委員も歴任した。同41年、東京学芸大学を定年退官し同大学名誉教授の称号を綬与され、また、同年のプラハ国際美術教育会議において、INSEA会長に選出された。この間、制作発表は春陽会展の他、九夏会(昭和9年結成)、個展等において行なった。同57年、多摩信画廊で「倉田三郎画業60年傘寿記念展」が、同62年には青梅市立美術館で「倉田三郎代表作展」が、平成3年にはたましん歴史・美術館開館記念「倉田三郎展」がそれぞれ開催された。著書に『バルカン素描』(昭和31年)、『造形教育大辞典』(編著、同32年)、『木村荘八・人と芸術』(同54年)などがあり、美術教育に関する論文も多数ある。

山崎構成

没年月日:1992/10/17

都立科学技術大学名誉教授でからくり人形研究で知られた山崎構成は、10月17日午後1時25分、脳しゅようのため、東京都港区の慈恵医大病院で死去した。享年79。大正元(1912)年11月13日、京都市下京区に生まれる。本名久松。昭和13(1938)年上智大学文学部を卒業し、同26年から人形劇の調査研究を行なった。日本だけでなく、オランダ、スイス、西ドイツ、フランス、イタリアの人形戯を調査し、各国のからくり人形、人形戯を比較研究し、ミュンヘン市立人形劇博物館、ボフム人形劇協議会、西ベルリン人形劇団等に招聘されて講演を行なった。また、同52年日本演劇学会河竹賞を受賞。著書に『曵山人形戯 現状と研究』(東洋出版)、『曵山の人形戯』(東洋出版)等があり、自ら「茶運人形」「綾渡り人形」「闘鶏」「魚釣人形」等のからくり人形を制作した。

林良一

没年月日:1992/10/02

筑波大学名誉教授の美術史家林良一は10月2日午前10時30分、肺炎による呼吸不全のため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年74。大正7(1918)年4月24日、東京都港区に生まれる。昭和27(1952)年3月、東京大学文学部美学美術史学科を卒業。同32年3月東大大学院特別研究生を修了し、同年9月より多摩美術大学講師、同33年4月より日本大学芸術学部講師となった。同42年3月まで日大で教鞭をとる一方、同35年には東京教育大学講師、同38年には明治大学講師をつとめた。東西美術交渉史を専門とし、同37年8月に美術出版社から「シルクロード」を刊行、同書は翌38年に日本エッセイスト・クラブ賞を受けた。同42年東京教育大学講師となり、以後同大で教鞭をとり続けた。文様史、正倉院の研究でも知られ、『シルクロードと正倉院』(平凡社)をも著している。

三宅正太郎

没年月日:1992/04/29

帝京大学教授の美術史家三宅正太郎は4月29日午前3時46分、肺炎のため東京都板橋区の帝京大学病院で死去した。享年84。美術評論にも筆をふるった三宅は、明治40(1907)年10月2日、父の任地であった鹿児島市に生まれた。東京新宿区の余丁町小学校、府立第四中学校、浦和高等学校を経て、昭和2(1927)年東京大学文学部に入学。美学美術史学科に学んで、同5年卒業する。同7年読売新聞社学芸部に入り、同16年上海総局主任、同19年広東総局長を経て、サイゴン支局長を歴任。同21年読売新聞社を退いて新聞三社連合事務局主事となった。同40年2月、同局を退き、同年3月より跡見学園短期大学教授となる。同50年帝京大学教授となった。近現代美術を主に論じ、著書に『横顔の作家たち』(新自由社 昭和22年)、『作家の裏窓』(北辰堂 同30年)、『パリ留学時代』(同35年)、『画壇』(同39年)、『現代美術の東と西』(同48年)、『回想の画家達』(同61年)等がある。日本ペンクラブ、美術評論家連盟にも属した。

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