本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





由来哲次

没年月日:1979/03/28

哲学者で、日本浮世絵協会理事、古美術蒐集家の由良哲次は、3月28日食道ガンのため東京都練馬区の小山病院で死去した。享年82。号は白幽。1897(明治30)年2月7日奈良県添上郡に生まれ、滋賀県立師範学校、東京高等師範学校専攻科を経て京都帝国大学文学部に入学し、西田幾多郎、田辺元の下で哲学を専攻した。同学部では内藤湖南の史学科のゼミナールを好んで傍聴し、この頃買い求めた曽我蕭白の山水画の小幅が後の古美術蒐集のきっかけになったという。1927年同学部哲学科を卒業し、同学院を経て翌年ハンブルグ大学哲学科へ入学した。同大学ではカッシィラーの下でディルタイの解釈学を中心に研究をおこない、1931年学位論文『精神科学方法論の研究』にてドクトル・デァ・フィロゾフィの学位を受けた。帰国して同年東京高等師範学校教授となり、34年に東京文理科大学講師を兼任した。38年に日本大学芸術科教授を兼任して芸術認識論及び鑑定法を講義し、43年には神宮皇学館大学講師を兼任して日本思想史及び古神道を講義したが、45年に敗戦責任をとり東京高等師範学校を辞職した。戦後派1954年頃より日本思想史、美術史、日本古代史の研究に専念し始め、在野学者として活躍した。美術史の分野では昭和73年長野県上高井郡小布施町岩松院の大天井絵に着目して北斎研究をおこない、翌年二月その成果の一部を朝日新聞紙上に発表した。その後ボストン美術館改修費に三千万円の寄附をおこなったのをはじめ、1975年に奈良県学術振興に一億円を、77年に同県橿原考古学研究所に三億円を寄附し、78年には曽我蕭白、葛飾北斎の作品を中心とした生涯の美術品蒐集「由良コレクション」を奈良県に寄贈して79年3月勲三等瑞宝章を受章した。80年3月には奈良県立美術館増築落成を記念して、同館にて「由良コレクション展」が開催された。川端康成、中山義秀らと親交があったが、中学同級の横光利一との親交は特に篤く、横光没後三十年の追悼記念集の出版に際し自ら編集の任にあたった。著書は『歴史哲学研究』(1937年、目黒書店)、『南北朝編年史』(1964年、吉川弘文館)、『総校日本浮世絵類孝』(1980年、画文堂)、『邪馬台国は大和である』(1981年、学生社)など50点を超える。

赤松俊秀

没年月日:1979/01/24

文化財保護審議会専門委員、歴史的風土審議会専門委員、仏教美術研究上野記念財団評議員、四天王寺女子大学教授、京都大学名誉教授、文学博士赤松俊秀は、1月24日脳出血のため京都市北区の自宅で死去、享年71。1907(明治40年)4月28日、北海道石狩国上川郡に生まれ、北海道町立旭川中学校、第三高等学校を経て、28年京都帝国大学文学部に入学、国学史を専攻、31年卒業後文学部副手となった。32年京都府史跡勝地保存委員会臨時委員を嘱託されてより51年京都府教育委員会の初代文化財保護課長を退職するまでの19年間、戦中戦後の、京都府の史跡、寺宝等の文化財の調査と保存に専念した。その間、京都帝国大学文学部、大谷大学(教授嘱託)、同志社大学(61年まで)に出講、51年京都大学文学部助教授に就任、53年教授に昇任、62年文学博士の学位を授与され、65年文化財保護審議会専門委員に任命され、71年京都大学を定年退官し、京都大学名誉教授の称号を受けた。その間、愛媛大学、香川大学、岡山大学、関西学院大学、東北大学、名古屋大学、大谷大学へ出講、72年大谷大学文学部教授に、75年四天王寺女子大学教授に就任、74年には多年に亙る文化財保護の功績により紫綬褒章を授けられた。 その日本古代、中世史研究は、仏教、社会経済、政治、美術、文学、古文書と多方面に及び、主要著書としては、『鎌倉仏教の研究』(1957年、平楽寺書店)、『続鎌倉仏教の研究』(66年、平楽寺書店)、『古代中世社会経済史研究』(72年 平楽寺書店)、『京都寺史考』(同年、法蔵館)、『平家物語の研究』(80年、法蔵館)があり、史料公刊には『醍醐寺新要録』(51~53年、京都府教育委員会)、『隔冥記』(58~67年、鹿苑寺)、『教王護国寺文書』(60~72年、平楽寺書店)等がある。

蓮實重康

没年月日:1979/01/11

美術史家、東海大学教授、文学博士蓮實重康は、肝臓腫瘍のため1月11日東京大学附属病院で死去、享年73。1904(明治37)年5月30日、東京市麻布に生まれ、静岡県立静岡中学、静岡高等学校を経て、30年京都帝国大学文学部哲学科(美学美術史専攻)卒業、大学院に入学、32年東京帝室博物館美術課嘱託、36年帝室博物館鑑査官補に任官、41年帝室博物館鑑査官に昇任、50年国立博物館より文化財保護委員会事務局保存部美術工芸課に転任した。その間、前後4回軍務に服し、終戦をビルマのラングーンで迎え、46年帰還した。49年美術史学会創立により2年間学会代表となり、52年奈良国立博物館学芸課長に就任、54年度京都大学文学部に講師として出講、57年京都大学文学部助教授に転任、60年教授に昇任、61年文学博士の学位を授与され、68年定年退官、東海大学教授に就任した。その間、奈良学芸大学、広島大学に出講、海外ではコペンハーゲン、ボン、ミシガンの各大学で講義し、また京都大阪両府の文化財専門委員を委託された。 研究の領域は多方面に亙が、その中心は日本の中世近世絵画史であり、京都大学における講義もその分野に集中している。主著は「雪舟等楊新論-その人間像と作品-」(1977年、朝日出版社)。1960年文化財保護に尽力した功績により文化財保護委員会より表彰され、78年勲三等に叙し、瑞宝章を授けられた。

川勝政太郎

没年月日:1978/12/23

大手前女子大学教授・「史迹と美術」主幹、文学博士川勝政太郎は、12月23日、京都市京大附属病院で肺炎のため死去した。享年73。明治38年5月22日、京都市中京区に生れ、大正12年京都市立第一商業学校卒業。昭和初年頃より天沼俊一博士に師事し、古建築、石造美術を研究。昭和3年9月スズカケ出版を創立し、「古美術史蹟・京都行脚」を出版、23歳の時である。昭和5年11月「史迹美術同攷会」を設立主宰、雑誌「史迹と美術」を発刊した。刊行後50年、没後もなお継続刊行され500号を超える。この間多くの学者が寄稿し、考古、美術史界に貢献した。とくに石造美術研究の分野で学問的体系を確立した川勝の指導を仰ぎ、全国の遺品が紹介され、新たな学問分野の基礎をさらに固めた。昭和12年より14年末まで、重要美術品等認定の関連調査につき、文部省嘱託となる。昭和15年4月、京都大学文学部史学科考古学選科に入学、18年3月卒業、この間梅原末治博士に師事した。昭和18年10月、近畿日本鉄道の嘱託に就任、大和中心の古美術調査研究を行った。昭和20年5月京都市文化課嘱託、昭和29年、財団法人京都史蹟会理事となる。昭和33年平安京の研究により文学博士の称号を受ける。昭和34年大阪工業大学教授に就任。昭和36年2月より41年3月まで文部省文化財専門審議会専門委員(臨時)を委嘱される。昭和44年大手前女子大学教授に就任。48年11月多年に亘る石造美術の研究により紫綬褒章を受章。広範な実地調査に基づく研究の成果は多数の論文として「史迹と美術」誌を中心に発表され、単行図書も多い。主要著書は下記の如くである。古美術・史蹟京都行脚 昭和3. 9 スズカケ出版部京都美術大観の内編 昭和8. 4 スズカケ出版部古建築入門講話 昭和9. 6 スズカケ出版部石造美術概説 昭和10. 3 スズカケ出版部石造美術 昭和14. 2 スズカケ出版部京都古銘聚記(共著) 昭和16. 3 スズカケ出版部燈籠・手水鉢 昭和17. 8 河原書店大和の石造美術 昭和17. 10 天理時報社日本の石仏 昭和18. 6 晃文社梵字講話 昭和19. 2 一條書房石造美術と京都(京都叢書) 昭和21. 5 高桐書院京都古蹟行脚 昭和22. 1 臼井書房古建築鑑賞 昭和22. 8 河原書店京都石造美術の研究 昭和23. 6 河原書店「大和路新書」室生・当麻・南山城・東大寺 昭和27年-29年 綜芸舎史蹟行脚・京都 昭和30. 7 京都出版社日本石材工芸史 昭和32. 1 綜芸舎京都古寺巡礼 昭和39. 4 社会思想社石の奈良 昭和41. 12 東京中日新聞出版局石造美術入門 昭和42. 5 社会思想社歴史と文化・近江 昭和43. 4 社会思想社京都の石造美術 昭和47. 6 木耳社燈籠 昭和48. 2 集英社石造美術の旅 昭和48.10 朝日新聞社石仏の大和路 昭和49. 6 朝日新聞社日本石造美術辞典 昭和53. 8 東京堂出版「近畿日本ブックス」伊賀 昭和54. 2 綜芸舎

杉村勇造

没年月日:1978/09/29

大東文化大学名誉教授、財団法人出光美術館常務理事杉村勇造は、9月29日午後8時15分、びまん性汎細気管支炎のため、東京都港区の虎の門病院で死去した。享年77。号は丁父。明治33年11月1日、東京市深川区に生まれ、大正8年財団法人無窮会漢学研究生となり、国学、漢学の指導を受け、同13年同会会長平沼騏一郎の斡旋により3年間北京に留学し、金石学を馬衡に書誌学を徐鴻宝に学んだ。昭和2年外務省文化事業部による北京東方文化事業総委員会の図書籌備員となり、人文科学研究所図書館の設立に従事、同7年満洲国立図書館、国立奉天博物館の開設に携わり、『纂組英華』を刊行した。同8年満日文化協会常務主事、同16年同協会常務理事となった。その間熱河に赴いて『満洲文大蔵経』などの稀覯書を発見、その整理保存に努め、輯安の高句麗墓陵、丸都城址、興安嶺の遼代帝王陵、遼陽の漢墓等の調査に参加し、『旅順博物館図録』の編集刊行に当たり、建国大学講師を委嘱された。昭和19年社団法人満洲芸文協会理事(美術局長兼翻訳処長)となり、同21年9月東京に引揚げた。同22年8月国立博物館嘱託、同24年6月文部技官に任命、同26年2月考古課土俗室長、同33年2月資料課図書室長を歴任、同37年東京国立博物館を定年退職した。昭和41年9月、出光美術館顧問、同43年大東文化大学教授となり、中国・日本文化史、美術史、中国語を講じ、同47年同学図書館長、同年出光美術館理事、のち常務理事となり、同50年5月大東文化大学名誉教授の称号を授与された。その間東京大学文学部、熊本大学法文学部及び文学部、日中学院の講師を委嘱され、昭和32年、41年、48年の3回訪中した。中国在住は22年に亙り、中国人学者に知己頗る多く、中国に調査研究に往来した日本人学者とも親交あり、流暢な中国語と相俟って、日中の文化交流と友好に生涯尽瘁した。美術関係の主要著作としては、『乾隆皇帝』(昭和36年、二玄社)『古代中国の美』(仏像、土偶、銅器・玉器の3冊。同37、38年、美術出版社)、『徐文長・石濤・趙之謙』(同39年、求竜堂)、『文房四宝』(全4冊。同47年、淡交社)、『清の官窯』(同48年、平凡社)、『遼の陶磁』(同49年、平凡社)がある。歿後昭和55年に刊行された『八十路―杉村勇造遺稿集』は、戦後の訪中日記、中国在住時代の回想、年譜、著作目録等を収めている。

吉川小一郎

没年月日:1978/09/05

今世紀初頭西本願寺が西域に派遣した大谷探検隊の第三次隊員吉川小一郎は、9月5日老衰のため京都市西京区シミズ外科病院で死去した。享年93。明治18年5月23日京都下京区に生れ、植柳小学校卒業後山本亡羊塾で漢学を学び、34年西本願寺室内部勤務、大正6年同絵表所勤務となり、仏表具に従事、昭和39年絵表所を株式会社とし、その代表取締役となって翌年引退した。この間明治39年大谷光瑞に従って満州で古蹟調査を行い、44年5月には消息を断った第三次大谷探検隊員橘瑞超捜索のため西域に赴いた。10月より4箇月敦煌に滞在して調査を行い、ここで橘と邂逅、橘の帰国後単独でトゥルファンの調査発掘を行った。その後西進してカシュガル、コータンを経てタクラマカン砂漠の横断を敢行、更に天山を越えてイリからウルムチに出、トゥルファン、安西、包頭経由、北京から大正3年7月帰国した。3年余の探検旅行では綿密な日記を残し、多数の古美術、経巻、古文書類を収集して、我国の西域研究の発展に寄与した。この功績により、昭和38年紫綬褒章を受け、41年勲三等瑞宝章を授与された。西域探検に従事した各国探検隊の最後の生存者で、晩年にはその温容を慕って西域愛好者が集り、貴重な体験談の記録ものこされている。

柳亮

没年月日:1978/07/15

美術評論家、トキワ松学園女子短期大学長の柳亮は、7月15日肺ガンと食道ガンのため東京都品川区の昭和大学付属病院で死去した。享年75。本名伊藤義治。明治36年3月20日名古屋市に生まれ、大正11年日本美術学校を卒業。同14年渡仏し、パリ大学、ルーヴル美術館付属研究所ポール・ジャモ教室などにおいて西洋美術史を学び、昭和7年に帰国した。この間、フランス滞在中、パリ日本美術家協会理事長をつとめ、海老原喜之助、児島善三郎ら在パリ日本人画家との親交があった。帰国後、彫刻などの実作から美術評論に転じ、美術理論研究会黎明会を起して新進作家の指導にあたり多くの影響を与えた。また『世界美術全史』などの著作を発表、かたわら桂離宮の研究を行った。同14から19年までは日本大学芸術科美術部長をつとめる。戦後の同24年に『近代絵画史―ドラクロアよりピカソまで』(美術出版社)を刊行、同36年には外務省文化使節として渡欧、イギリス、ドイツ、フランス、イタリアの美術館及び大学で日本文化の紹介にあたり、翌37年帰国に際してローマ法王ヨハネス23世より金メダルを贈られた。同40年には、永年の研究の成果である『黄金分割』(美術出版社)を刊行した。また、同41年トキワ松学園女子短期大学創設に際して、造形美術科長主任教授として迎えられ、同43年からは同学学長をつとめた。同46年紫綬褒章を受章、同52年には勲四等旭日小綬賞を受けた。著書は他に、『日本美の創生』、『近代絵画の百年』『構図法』『桂大図巻』などがある。

金子孚水

没年月日:1978/05/31

浮世絵研究家の金子孚水は、5月31日肝硬変のため、東京都台東区の自宅で死去した。享年81。明治30年5月山形県米沢市の代々煙草製造を業とする家の三男として生れた。本名清次。16才で上京し、酒井好古堂(創立者藤兵衛)に奉公した。この頃、浮世絵愛好家として著名な小林文七と親密な交渉を得、その感化を受けるところ少なくなかった。若い頃から浮世絵展を企画、展観し、晩年は海外におけるそれの開催に際して大いに尽力し、裏面での活躍が大きかった。北齋をはじめ、浮世絵師の研究で知られ、晩年は肉筆浮世絵の研究家として著名であった。また浮世絵鑑定家としても有名で、著書も多い。主要著書『浮世絵肉筆画集』1―3(昭和39年、緑園書房)、『北齋と浪千鳥秘画帖』(昭和44年、画文堂)、「肉筆葛飾北齋」監修(昭和50年、毎日新聞社)、『肉筆浮世絵集成』監修(昭和52年、毎日新聞社)

井島勉

没年月日:1978/05/12

美学、美術史専攻の学者で、京都大学名誉教授の井島勉は、5月12日脳血センのため、京都市北区北野の聖ヨゼフ整肢園で死去した。享年69。明治41年6月5日京都市上京区に生れ、京都第一中学校、第三高等学校を経て京都大学文学部に入学し、美学美術史を専攻した。昭和7年同学部を卒業し、同年4月京都大学文学部副手となった。同12年4月同大学講師、18年5月同助教授となり、昭和22年4月同教授となり、文学部美学美術史講座担当となった。同47年3月定年退官となったが、この間、京都大学評議員、43年より2年間文学部長をつとめた。特に文学部長当時は全国的な大学紛争にあい、その打開に尽力した。また東京大学、京都市立芸術大学、同志社大学、関西学院大学などでも教鞭をとり、退官後は昭和47年から52年まで京都市美術館、同49年から京都府文化芸術会館理事長などをつとめた。この間日本学術会議会員(昭和44―47・第8期会員)、文化功労者選考審査委員などのほか、国立近代美術館等国公立博物館、美術館の評議員をつとめた。若くして美学界に頭角をあらわし、歴史の視点をとり入れて人間的美学研究の方法を確立し、また美術教育にも力を入れ、美術教育が人間形成に果たす役割の重要さに注目し、昭和26年に日本美術教育学会を設立、没するまで会長をつとめた。主な著書に『芸術史の哲学』『芸術の創造と歴史』『美学』などがある。文学博士(昭和22年3月)。

隈元謙次郎

没年月日:1978/01/25

美術史家隈元謙次郎は、1月25日前立腺がんのため、東京目黒の国立第二病院で死去した。享年74。明治36年(癸卯)1月28日鹿児島市に生れ、第七高等学校造士館理科乙類を経て、昭和3年東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業、大学院を同6年3月修了した。昭和7年6月当所の前身である、帝国美術院附属美術研究所に入り、日本近代美術の研究に従事した。以来没するまでの約半世紀近くを、専ら近代美術全般の調査研究と、研究所における基礎資料の収集整備に尽瘁した。研究面では昭和14年3月「明治初期来朝イタリア美術家とその功績」によって、前年イタリア政府中亜極東協会により設定された第一回レオナルド・ダ・ヴィンチ賞を受賞し、学界に一躍その存在を重からしめた。そのほか研究所機関誌の「美術研究」誌上に、逐次多数の精緻にして実証的論文を発表したが、これは昭和39年修正され、『近代日本美術の研究』として上梓された。この本に収録されるもの以外では、黒田清輝、浅井忠、藤島武二等の評伝、『黒田清輝日記』『十三松堂日記』等の編集がある。晩年は岡倉天心の研究をすすめ、氏を中心に大規模にして完璧を期した天心全集の刊行が企画されたが、その出版を見ずして了った。そのほか、研究所事業の一環として、昭和10年以来「日本美術年鑑」の刊行をつづけているが、その編集の指導に当り、その出版は美術界に寄与するところが少なくない。一方、その指導の下に整備された研究所の近代美術関係資料は、他に類をみず研究者をはじめ、その恩恵に浴するものは多い。以上研究執筆以外の美術行政面においても、東京国立近代美術館運営委員(昭27.9.1~41.3.31)、同評議員(昭46.3.1~53.1.25)として運営、購入等にあたり、東京都美術館においても同様、運営審議会委員、(昭40.4.1~52.3.31)これ以前は参與会委員として尽力した。また文化財保護審議会臨時専門委員として、近代美術の指定審議にあたり、文化勲章授賞選考委員(昭和50年度)もつとめ、或いはまた財団法人博物館明治村評議員(昭37.12~)として、その運営及び作品の収集に参与した。没後、明治美術の史的研究その他の功績によって第4回明治村賞が授与された。教育方面では、研究所在職中に女子美術大学の講壇にたち、退職後は、東京家政大学教授(昭41.4.1~49.3.31)として教鞭をとった。このように美術史学者としての広汎な活動がみられるが、とりわけ研究面での近代美術におけるパイオニヤ的その仕事は、未だ大筋においてこれを凌駕するとみられるものはなく、近代美術の研究にたずさわる者は、必ず一度は氏の研究を繙かねばならないのが常である。人柄はまた常に温厚篤実にして、時に磊落であり、酒を愛し薔薇づくりを楽しんだ。主要著作目録書名 発行所 発行年明治初期来朝伊太利亜美術家の研究 三省堂 昭和15年ヴァザリ美術家伝(1)-共訳 青木書店 昭和18年ヴァザリルネサンス美術家伝(1)-共訳 萬里閣 昭和23年黒田清輝素描集 国立博物館 昭和24年近代の洋画(上)―近代日本美術全集第3巻 東都文化交易 昭和28年近代の洋画(下)―同第4巻 同 昭和29年黒田清輝作品集 東京国立文化財研究所 昭和29年藤島武二 美術出版社 昭和30年黒田清輝名画集―文部省幻灯画第20集 文部省 昭和31年明治・大正・昭和「見る美術史」 アトリエ社 昭和31年黒田清輝―日本近代絵画全集第2巻 講談社 昭和37年浅井忠―同第1巻 同 昭和38年菱田春草の名作 長野県下伊那教育会 昭和37年浅井忠―日本近代絵画全集 講談社 昭和38年黒田清輝日記 中央公論美術出版 昭和41年黒田清輝 日本経済新聞社 昭和41年明治-日本絵画館9(共著) 講談社 昭和45年浅井忠 日本経済新聞社 昭和45年黒田清輝―近代の美術6 至文堂 昭和46年黒田清輝―日本の名画30 講談社 昭和47年浅井忠・黒田清輝―現代日本美術全集(共著) 集英社 昭和48年岡倉天心全集―全8巻、別巻(共編) 平凡社 昭和55年 主要論文目録題名 図書名 発行年明治以降日本美術の発達 日本諸学振興委員会報告第6篇 昭和15年岡田三郎助伝(共著) 画人岡田三郎助(美術出版社) 昭和17年明治洋画史上に於ける二潮流 美術研究叢書(2)(白鳳書院) 昭和22年明治前期の西洋画 世界美術全集(25)(平凡社) 昭和26年明治の美術 明治文化史第1巻(開国100年記念事業会) 昭和30年下村觀山 現代日本美術全集(1)(角川書店) 昭和30年明治期の洋画 同(2)(同) 昭和30年黒田清輝 同(2)(同) 昭和30年満谷國四郎 同(4)(同) 昭和30年明治時代の絵画・彫刻 図説日本文化史大系(11)(小学館) 昭和31年橋本雅邦 橋本雅邦名作展図録(東京国立博物館) 昭和32年南薫造画伯の作品 南薫造画集(同刊行会) 昭和32年佐伯祐三論 佐伯祐三(美術出版社) 昭和33年藤島武二 近代の洋画人(中央公論美術出版) 昭和34年明治期の絵画 日本美術全史(下)(美術出版社) 昭和35年近代洋画の発足 世界名画全集(22)(平凡社) 昭和35年戦時体制に組みこまれた絵画 同(24)(同) 昭和35年Intellectual and Aesthetic Current Japan,1775-1905 The Prubcupal Journal of World History Vol.VI(Baconmiere Neuchatel) 昭和35年和田英作の横顔 和田英作遺作展図録(大塚巧芸社) 昭和36年藤島武二の人と作品 世界名画全集続巻(6)(平凡社) 昭和36年佐伯祐三の人と作品 同(同) 昭和36年文明開化時代、紫派と脂派 世界美術全集(11)(角川書店) 昭和36年黒田清輝の生涯と作品 世界名画全集続巻(4)(平凡社) 昭和37年黒田清輝湖畔図(解説) 国華百粋(5)(毎日新聞社) 昭和22年高橋由一筆鮭図(解説) 近代日本美術資料(1)(国立博物館) 昭和23年田崎草雲筆秋山晩暉(解説)ほか 同(2)(同) 昭和24年淺井忠筆収穫(解説)ほか 同(3)(同) 昭和26年淺井忠筆洗濯場(解説)ほか 世界美術全集(11)(角川書店) 昭和36年下村觀山筆維摩黙然(解説)ほか 集古銘鑑(大倉文化財団) 昭和37年Yosai Kikuchi“Night encountor at Horikawa”ほか(解説) Catalogue of Contemporary Japanese Art(Kokusai Bunka Shinkokai) 昭和35年Kano Hogai “HiboKnanon”ほか(解説) Art Treasures of Japan Vol.2(Kokusai Bunka Shinkokai) 昭和35年シスレー村落ほか(解説) 西洋美術名作集(東京朝日新聞社) 昭和23年黒田清輝ほか 世界歴史辞典(平凡社) 昭和26-30年青木繁ほか 世界美術大辞典(河出書房) 昭和29-31年石川光明ほか 日本歴史大辞典(河出書房) 昭和31-35年淺井忠ほか 世界大百科事典(平凡社) 昭和30-33年油絵ほか 日本文化史辞典(朝倉書店) 昭和37年 定期刊行物高橋由一の生涯と作品 美術研究 59 昭和11年本邦洋画発達資料展観 美術研究 60 昭和11年ヴァザーリ「レオナルド・ダ・ヴィンチ」(訳) コギト 52 昭和11年満谷國四郎遺作展覧会 美術研究 64 昭和12年ラグーザに就て 美術研究 68 昭和12年川上冬崖と洋画風 美術研究 79 昭和13年明治以降美術の変遷 文部時報 635-7 昭和13年黒田清輝と日新戦役 美術研究 88 昭和14年エドアルド・キョソーネに就て 美術研究 91・92 昭和14年アントニオ・フォンタネージに就て 美術研究 94 昭和14年カッペレッティ及びサン・ジョヴァンニに就て 美術研究 96 昭和14年滞仏中の黒田清輝 美術研究 101-2 昭和15年Contemporary Painting of Western Style in Japan Bullettin of Eastern Art.No.12 昭和15年昭和15年美術界概観 日本美術年鑑 昭和16年近時発見の帝王図 美術研究 119 昭和16年黒田清輝初期の作品 造型芸術 3ノ6 昭和16年黒田清輝中期の業績と作品 美術研究 113・115・118 昭和16年黒田清輝後期の業績と作品 美術研究 130・132・133 昭和18年速水御舟の素描 アトリエ 241・243 昭和21年黒田清輝初期の風景画 アトリエ 250 昭和22年黒田清輝と藤島武二 みづゑ 504 昭和22年高橋由一 博物館ニュース 27 昭和24年近代日本美術の系譜(洋風画) 博物館ニュース 36-39 昭和25年高橋由一の風景画 美術研究 160 昭和26年菱田春草「落葉図屏風」 ミューゼアム 9 昭和26年白樺派と美術界 明治大正文学研究 5 昭和26年日本洋画発達史 アトリエ 306-8 昭和27年美校の二教授 美術手帖 52 昭和27年今村紫紅の芸術 ミューゼアム 21 昭和27年自昭和21年至同25年美術界の展望(洋画、美術行政) 日本美術年鑑 昭和27年近代美術にあらわれた人間観 ミューゼアム 30 昭和28年藤島武二 中央公論 772 昭和28年昭和27年美術界概観(現代日本画、彫刻、建築) 日本美術年鑑 昭和28年黒田清輝作品補遺 美術研究 177 昭和29年近代リアリズムの出発 国立近代美術館ニュース 5 昭和30年昭和28年美術界概観(現代建築) 日本美術年鑑 昭和29年狩野芳崖晩期の作品 美術研究 184 昭和31年明治中期の洋画(一)―明治美術会を中心として 美術研究 188 昭和31年菱田春草「黒き猫図」 国華 775 昭和31年五姓田義松の人と作品 ミューゼアム 65 昭和31年安井曾太郎追悼 博物館ニュース 104 昭和31年日本に於ける近代美術館設立運動史(1―25) 国立近代美術館ニュース 25-93 昭和31-37年The Flowering of the Traditional Art of Nippon Asia Scene No.5 昭和31年昭和29年美術界概観(現代建築) 日本美術年鑑 昭和31年明治中期の洋画(二)―白馬会を中心として 美術研究 192 昭和32年高橋由一筆三宅康直像(解説) 国華 786 昭和32年横山大観の人と芸術 萠春 40 昭和32年近藤浩一路の作品 萠春 42 昭和32年橋本雅邦の人と作品 萠春 47 昭和32年昭和30年代の日本画と朦朧派 淡交特集 126 昭和33年昭和31年美術界概観(洋画) 日本美術年鑑 昭和33年明治初期の洋画 美術研究 206 昭和34年淺井忠筆グレーの秋 ミューゼアム 101 昭和34年華岳の生涯 萠春 66 昭和34年追悼和田英作 美術手帖 154 昭和34年真贋の話 国立近代美術館ニュース 60 昭和34年昭和32年美術界概観(現代美術、洋画) 日本美術年鑑 昭和34年五姓田義松に就て 美術研究 213 昭和35年小杉放庵の人と作品 萠春 80 昭和35年淺井忠水彩画展 みづゑ 658 昭和35年青木繁の「旧約物語」挿絵について 美術研究 217 昭和36年岡倉天心略年譜 国華 335 昭和36年ブレハの黒田清輝 みづゑ 672 昭和36年絵画史上の大きな足跡―黒田清輝展 毎日新聞 昭和36年2月4日日本人独特の油絵を樹立―藤島武二展 毎日新聞 昭和36年11月6日チャールズ・ワーグマンとその周辺 神奈川文化 8ノ8 昭和37年安井曾太郎「金蓉」ほか(美の美、解説) 日本経済新聞 昭和31―37年黒田清輝―わが郷土の名家(1) 萠春 128 昭和39年「朝妝」をめぐる裸体画の問題―近代日本の裸体画の受けとり方 現代の眼 126 昭和40年山本芳翠 美術研究 239 昭和40年原撫松「画家ヘンリーの像」 日本経済新聞 昭和42年1月27日藤島武二 現代の眼 152 昭和42年山本芳翠「臥裸婦」 日本経済新聞 昭和42年7月4日ラグーザ「日本の大工」 日本経済新聞 昭和42年6月9日明治・大正洋画史 三彩増刊 234 昭和43年淺井忠「グレーの秋」 日本経済新聞 昭和44年11月7日淺井忠「武士の山狩」 日本経済新聞 昭和44年11月24日高橋由一筆・日蓮上人像―新発見資料 三彩 340 昭和50年高橋由一筆・日蓮上人像(図版解説) 美術研究 299 昭和50年松岡寿追想 三彩 330 昭和50年ハーバート大学ホートン・ライブラリー蔵アーネスト・フェノロサ資料(1)~(16)(隈元編村形明子訳) 三彩 327、329、331、334、339、341、343、345、349、351、353 昭和50年~昭和52年

坂崎坦

没年月日:1978/01/04

美術史家、朝日新聞社社友、文学博士坂崎坦は、1月4日心臓衰弱のため東京都新宿区の自宅で死去した。享年90。明治20年3月18日兵庫県養父郡に生まれ、同43年早稲田大学英文科を卒業。大正2年朝日新聞社(東京)に入社し、同10年2月同社から留学、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギーなどで学び、フランスでは印象派の画家モネに会い、同12年12月に帰国した。帰国後の昭和2年に「明治・大正名作展」を企画する。翌3年から朝日新聞社学芸部長をつとめ、同11年同社調査部長、同15年同社編集局顧問を歴任して、同16年退社した。この間、大正6年に日本美術に関する画論、随筆、伝記を編纂した『日本画談大観』を目白書院から刊行、昭和6年には編著『日本画論大観』をアルスから出版した。また、大正13年から母校早稲田大学の講師として西洋美術史を講じ、昭和12年には「十八世紀フランス絵画の研究」によって学位を受け、同年岩波書店から『十八世紀フランス絵画の研究』を出版した。朝日新聞社退社と同時に早稲田大学教授に就任し、同32年定年退職した。この他、実践女子大学、女子美術短期大学、法政大学、多摩美術大学などで教え、同52年まで武蔵野女子大学の講師をつとめていた。また、東京国立近代美術館評議員、国際文化振興会評議員などもつとめた。同40年に紫綬褒章を受け、同43年には勲三等瑞宝章をうけた。著書は他に『美術の話』(昭和4年朝日新聞社)、『ドラクロア』(同24年、アルス)、『フールベ』(同24年 風間書房)、『クールベ』(同51年 岩波書店)など。

逸見梅栄

没年月日:1977/11/14

曹洞宗大本山総持寺宝物殿館長、元多摩美術大学教授、文学博士逸見梅栄は、心筋硬塞のため11月14日横浜市緑区の青葉台病院で死去。享年86。明治24年5月11日、山形県西村山郡谷地町(現河北町)に生まれ、大正6年東京帝国大学文科大学梵文学科卒業。同10年より3年間、曹洞宗留学生としてインドに滞在、昭和4年より3年間及び同13年より3年間、有栖川宮奨学金を高松宮家より受け、同9年東京帝国大学より文学博士の学位を授与された。昭和12年より同15年まで、毎年3ヶ月華北・満蒙に研究旅行を行った。昭和10年多摩帝国美術学校創立以来、同校が多摩造形芸術専門学校、多摩美術大学と改称改組せられたのちまで、ひき続き教授として在職し、美術学部長を勤めた。なお駒沢大学、立正大学、高野山大学、鶴見女子大学等に出講した。昭和45年に河北町名誉町民となり、同47年インドのタゴール誕生賞を受けた。勲三等瑞宝章受章。 インド美術、仏教美術研究の先駆者であり、主たる著述に『印度仏教美術考・建築篇』(昭和3年)、『印度美術図案集成』(9年)、『印度思想・美術思想』(岩波講座・東洋思潮、同)、『東洋文化の源泉・印度文化の源泉』(同、10年)『印度に於ける礼拝像の形式研究』(学位論文、東洋文庫論叢21、同)、『印度古代美術・資料ト解説』(16年)、『印度美術』(高田修と共著、19年)、『満蒙北支の宗教美術』(8巻、18年~)、『仏像の形式』(45年)、『中国喇嘛教美術大観』(50年)等がある。

新規矩男

没年月日:1977/09/17

西洋美術史家、東京芸術大学名誉教授、遠山記念館附属美術館館長の新規矩男は、9月17日、心筋コウソクのため埼玉県所沢市の国立西埼玉中央病院で死去した。享年70。新規矩男は、明治40年(1907)7月30日、三重県名賀郡に生まれ、三重県立上野中学校から広島陸軍幼年学校、陸軍士官学校へすすんだが、健康をそこねて陸士を中退、大正15年第一高等学校文科丙類へ入学、昭和4年3月卒業、同7年3月、東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業した。昭和7年4月東京美術学校講師となり、フランス語及び西洋文学を担当したが、昭和9年(1934)12月、アメリカ合衆国ニューヨーク市メトロポリタン美術館東洋部助手となり渡米、同11年(1936)12月まで滞米、勤務した。昭和12年ヨーロッパ諸国を歴遊して帰国し、同年4月東京美術学校に復帰、フランス語を担当、同13年2月講師を嘱託、同14年4月からは西洋工芸史をも担当した。昭和21年12月東京美術学校教授、同27年3月東京芸術大学美術学部教授となり、西洋美術史、西洋工芸史を講じ、昭和50年4月、定年退官した。その間、昭和34年4月~37年4月東京芸術大学附属図書館長、同40年12月~42年12月東京芸術大学美術学部長、同45年4月~47年2月東京芸術大学芸術資料館長、同47年2月~50年3月東京芸術大学附属図書館長をつとめた。 そのほか、昭和30~45年には、数回にわたって東京女子大学、名古屋大学、京都大学、東京大学の各文学部の非常勤講師として西洋美術史を講義した。これらの教育活動のほか、戦後の海外学術調査に重要な役割をはたし、昭和31~32年、同34年の二次にわたる東京大学イラク・イラン遺跡調査団(団長江上波夫)には副団長として参加、昭和41年、43年の東京芸術大学中世オリエント学術調査団(トルコ洞窟協会壁画の調査)では2次ともに団長の任をつとめた。また、昭和26年から同50年まで、美術史学会常任委員に選出され、そのうち、昭和44年6月~50年6月のあいだは同学会代表委員の任にあった。昭和44年以降、国立西洋美術館美術品購入委員を委嘱され、昭和45年5月には財団法人遠山記念館付属美術館館長(非常勤)を嘱託され、昭和50年4月東京芸術大を定年退職してからは同美術館の常勤館長の職にあり、また武蔵野美術大学非常勤講師として西洋美術史を講義していた。没後、勲二等に叙せられ、フランス政府から勲章を贈られた。主な著書、論文は下記のとおりである。(『』は著書、訳書。「」は論文)「古代埃及の陶器」陶器講座 雄山閣 昭和11年『英国芸術史』 英米文学語学講座 研究社 昭和16年7月「ルネサンス美術発達の様式的考察」日伊文化研究第14号 昭和18年9月『ヴァザリ美術家伝』(共訳) 青木書房 昭和18年9月「マネと印象派」美術4月号 美術出版社 昭和21年「クールベ作『ルー川の洞窟』について」美術研究第154号 昭和24年5月「古代エジプトの壁画」三彩第40号 昭和25年3月「15世紀イタリアの工芸」世界美術全集第16巻 平凡社 昭和25年8月「モロー、カリエール、ラファエリ、コッテなど」世界美術全集第24巻 平凡社 昭和25年9月「16世紀のイタリアの工芸」世界美術全集第17巻 平凡社 昭和26年1月「エジプト・ティス時代の美術」世界美術全集第2巻 平凡社 昭和26年8月「メソポタミア初期王朝時代の美術」世界美術全集第2巻 平凡社 昭和26年8月「バビロニアの美術」世界美術全集第3巻 平凡社 昭和27年8月「エジプトの建築」世界美術全集第4巻 平凡社 昭和28年9月「エジプトの工芸」世界美術全集第4巻 平凡社 昭和28年9月「メソポタミア先史大洪水文化」世界美術全集第1巻 平凡社 昭和28年7月「エジプト先史文化」世界美術全集第1巻 平凡社 昭和28年7月「ゴシックの工芸」世界美術全集第13巻 平凡社 昭和29年2月「イスラムのガラス、金工、象牙」世界美術全集第10巻 平凡社 昭和29年11月『古代世界』美術ライブラリー みすず書房 昭和31年6月『マネ』ウィレンスキ・ローゼンスタイン著 平凡社 昭和32年12月「東大新政の『メソポタミア初期王朝時代男子頭首像』について」東洋文化第26号 平凡社 昭和33年12月「メソポタミア王朝時代の遺跡と文化」世界考古学大系第10巻 平凡社 昭和34年1月「アッカド王朝、新シュメール時代の遺跡と文化」世界考古学大系第10巻 平凡社 昭和34年1月「古典時代の工芸(ガラス工芸、金属工芸、彫玉)」世界考古学大系第14巻 平凡社 昭和35年3月「古代エジプトの美術と工芸」世界考古学大系第13巻 平凡社 昭和35年12月「エジプトの神殿建築」世界美術全集第5巻 平凡社 昭和35年9月「マジョリカ陶器」世界陶磁全集第15巻 河出書房 昭和35年6月「ピエロ・デラ・フランチェスカ」世界美術全集第30巻 角川書店 昭和36年1月「中部イタリアの絵画」世界美術全集第30巻 角川書店 昭和36年1月『ルネッサンスのイタリア画家』ベレンソン著(共訳) 新潮社 昭和36年6月「工芸総説」玉川百科大辞典第18巻 誠文堂新光社 昭和36年9月「アマルナ美術」古代史講座第12巻 学生社 昭和37年2月「ファハリアン1タペ・スルヴァンの発掘」東京大学イラク・イラン遺跡調査団報告書4共同編著 東大東洋文化研究所 昭和38年3月「帝国文明-バビロニア・アッシリアの文明」世界の文化・西アジア 河出書房 昭和41年4月「古代エジプトの歴史と文化」世界の文化・エジプト 河出書房 昭和41年12月「カイロ美術館」世界の美術館・編著 講談社 昭和45年1月『クールベ』 平凡社 昭和46年『ピエロ・デラ・フランチェスカ』 平凡社 昭和46年「工芸」ブルタニカ国際百科辞典第7巻 昭和48年5月「地中海文明の誕生」大系世界の美術第4巻 学習研究社 昭和48年8月「古代西アジア美術の母胎」大系世界の美術第2巻 学習研究社 昭和50年4月「メソポタミアの美術-アッシリアと新バビロニア」大系世界の美術第2巻 学習研究社 昭和50年4月

土屋常義

没年月日:1977/09/11

元岐阜大学教授で、円空仏研究者として知られる土屋常義は、9月11日急性肺炎のため、岐阜市の岐阜大学付属病院で死去した。享年79。明治30年11月20日長野県上田市に生れ、大正10年東京美術学校師範科を卒業した。大正15年岐阜師範学校に奉職し、昭和37年岐阜大学教育学部教授を停年退職して翌年東海女子短期大学教授となった。円空仏研究の草分けで、その方面での功績は少くなく昭和28年岐阜県文化財保護審議会委員をつとめ、同35年岐阜日日新聞文化賞を受賞した。また、岐阜県文化賞(昭42)、同市文化賞(昭43)、文化庁表彰、東海テレビ表彰(各昭45)、中部日本放送表彰(昭48)などがあり、昭和47年円空顕彰会々長となった。勲三等瑞宝章。正四位。著書-円空の彫刻(造形社・昭36)ほか。

小塚新一郎

没年月日:1977/09/05

愛知県立芸術大学学長、もと東京芸術大学学長、東京芸術大学名誉教授の小塚新一郎は、9月5日午後1時43分、急性心不全のため名古屋市中区の国立名古屋病院で死去した。享年74歳。小塚新一郎は、カント哲学、教育学の研究で知られ、また東京芸術大学、愛知県立芸術大学のそれぞれ二代目の学長をつとめて、東京芸大においては学生運動、校舎改築問題などにたずさわり、戦後の芸術家教育に大きな足跡を残し、昭和48年には、勲二等旭日重光章をうけた。主要著書、論文に『文化教育学研究』(訳書昭和10年刀江書院)、『文化哲学の諸問題』(昭和12年岩波書店)、『カント認識論の研究』(訳書、昭和27年創元社)がある。略年譜明治36年3月(1903) 12日横浜市に生まれる。吉川家の二男、のち小塚家をつぐ。西洋美術史家、東大名誉教授吉川逸治は実弟。大正4年3月 横浜市立青木尋常小学校を卒業。大正9年3月 神奈川県立第一横浜中学校を卒業。大正9年9月 青山学院高等部人文科に入学。大正13年5月 青山学院高等部人文科を卒業。大正13年4月 東京帝国大学文学部聴講生となる(大正15年3月まで)。大正15年10月(1926) ドイツに留学し、プロシヤ(ベルリン)国立大学に学ぶ。昭和6年10月(1931) ベルリン大学においてドクトル・エト・マギステル・フィロソフィエの学位を取得し、帰国する。昭和7年4月 22日、東京美術学校講師を嘱託され、図画師範科の教育学、心理学の講義を担当する。昭和13年5月 文部省より欧州各国における社会教育状況調査を嘱託され、ドイツ、フランス、イギリスなどを巡歴する。昭和15年8月 文部省よりドイツ国における戦時下青少年運動調査を嘱託され、ドイツへ赴く。昭和19年6月 東京美術学校教授となる。昭和21年6月 東京美術学校教授を辞任する。同月30日広島文理科大学非常勤講師を嘱託される(昭和23年3月まで)。昭和24年6月 東京美術学校、東京芸術大学教授となり、哲学、倫理学を講義する。昭和28年2月 東京芸術大学美術学部事務取扱、3月美術学部長に選出される。昭和36年12月 東京芸術大学学長となる。昭和42年 ヨーロッパにおける芸術教育制度の調査のためドイツ、フランス、イタリア、オーストリー、スイスを歴訪する。昭和44年12月 任期満了により東京芸術大学学長を辞任する。同月、東京芸術大学名誉教授。昭和45年4月 国立教育会館長に就任する。昭和47年7月 国立教育会館長を辞任し、愛知県立芸術大学学長に就任する。昭和52年9月 5日、名古屋市中区国立名古屋病院で死去。

石田茂作

没年月日:1977/08/10

元奈良国立博物館長、文化功労者、文学博士石田茂作は、8月10日、肺炎のため東京都千代田区神田淡路町の同和病院で死去。享年82歳。明治27年11月10日、愛知県碧海郡に生まれ、愛知県立岡崎中学校を経て、大正7年東京高等師範学校国語漢文科、同12年同校専攻科卒業。卒業後、仏教教理を島地大等、歴史学を三宅末吉、考古学を高橋健自、美術史を中川忠順、建築史を関野貞、宗教学を姉崎正治に学んだ。同14年1月東京帝室博物館鑑査官補、同15年秋、同館歴史課長高橋健自と朝鮮、満州に旅行し翌年2月帰国、昭和10年12月東京帝室博物館鑑査官となり、同12・13・14年に各1ヶ月満州に旅行、同16年7月、東京帝国大学より文学博士の学位を授けられた。同22年5月国立博物館陳列課長、同26年2月東京国立博物館学芸部長に就任、同32年3月より同40年3月まで奈良国立博物館長、ついで文化財保護委員会委員、同42年勲二等瑞宝章授章、同43年6月より同49年6月まで文化財保護審議会委員、同45年11月より東京国立博物館評議員、昭和49年11月文化功労者に選ばれた。そのほか中日文化賞、奈良県文化賞、朝日文化賞を受賞し、岡崎市名誉市民になる。また大正13年4月より立正大学において日本仏教文化史を講じてより、東京文理科大学、竜谷大学、同志社大学、九州大学等へ出講した。雅号は瓦礫洞人。 仏教考古学の先駆者であり、その体系樹立に寄与した。その研究範囲は、古瓦と寺院址、塔婆、経塚、仏教法具、写経、正倉院宝物等、多岐に亙る。昭和5年刊行の『古瓦図鑑』は、明治以来の研究の総決算であり、また氏の古瓦研究の出発点であった。その後生涯を通じて収集した古瓦拓本資料は2万点を越える。寺院址発掘調査は、まず昭和10・11年の朝鮮扶余軍守里廃寺、同13年の扶余東南里廃寺・佳塔里廃寺があり、ついで同14年の若草伽藍址の発掘は、明治以来久しきにわたる法隆寺再建非再建論争に決着をつけた画期的業績であり、飛鳥時代古瓦の編年にも修正を加えることになった。戦後の寺院址発掘調査としては、丹波周辺山廃寺(22年)、静岡県庁片山廃寺=駿河国分寺(24・31年)、下総長熊廃寺(26年)、武蔵国分寺(30年)、出雲国分寺(31年)、法輪寺講堂址(33年)、法隆寺聖徳会館建設に伴う事前調査(34年)、法起寺(35年)、中宮寺址(38年)、愛知県北野廃寺(39年)、徳島県立光寺址(43年)等を挙げることができる。これらの現状調査の成果が、『飛鳥時代寺院址の研究』(昭和11年)、『総説飛鳥寺院址の研究』(19年)、『伽藍論攷』(23年)、『東大寺と国分寺』(34年)である。塔婆を総合的に概説したものには、「塔」(『日本考古図録大成10、昭和6年)があり、研究の集大成は『日本仏塔の研究』(44年)に見ることができる。 経塚全般についての業績には、大正15年より昭和2年にかけて刊行された『考古学講座』に執筆したものがあり、「経塚」(4年)、「経塚(続編)」につづく。個々の経塚については、『那智発掘仏教遺物の研究』(帝室博物館学報5、昭和2年)、『金峯山経塚遺物の研究』(同8・12年)があり、戦後の調査には、昭和33年の岡山県安養寺瓦経塚、同37・38年度に行われた三重県朝熊山経塚群があり、その概要は『伊勢朝熊小経塚遺跡と石塔婆』として金剛証寺より刊行された。『新版仏教考古学講座』第6巻の「経典・経塚」が経塚に関する最終稿である。仏教法具については、早く『仏教考古学講座』13巻に「密教法具概説」(昭和12年)があり、『密教法具』(40年)に集大成された。写経に関する調査は極めて広範囲に至り、まとまった研究成果としては『写経より見たる奈良朝仏教の研究』(昭和5年)の大著がある。正倉院宝物調査は昭和2年に始まり同26年に終ったが、その成果が『正倉院御物図録』18冊(昭和3~30年)である。その他の著作に『天平地宝』(昭和12年)、『中尊寺大鏡』(3冊、16年)、『校倉の研究』(26年)、『仏教美術の基本』(42年)がある。参考:考古学新誌62巻2号、月刊考古学ジャーナル昭和52年12月号

藤田猛

没年月日:1977/08/04

京都市美術館学芸課長藤田猛は、クモ膜下出血のため8月4日京都市伏見区の久野病院で死去した。享年50。昭和2年3月20日三重県員弁郡に生れ、昭和19年大阪府立西野田工業高校を卒業、さらに昭和22年同志社外事専門学校を卒業した。昭和27年京都大学文学部を卒業(哲学科美学美術史)し、同年京都新聞社に入社、学芸部美術担当記者となった。昭和33年京都市美術館に勤務し、同48年同美術館学芸課長となった。主な著書に、「宇田荻邨」(京都書院-昭和53年)、「現代日本美人画全集第7巻-梶原緋佐子、広田多津、北沢映月-」(集英社 昭和53年)、「京都の明治文化財」(財団法人京都府文化財保護基金発行 昭和45、49年刊)

山本学治

没年月日:1977/05/20

近代建築史の研究家の工学博士、東京芸術大学美術学部教授の山本学治は、5月20日午後5時5分、急性心不全のため神奈川県川崎市中原区の日本医大附属第二病院で死去した。享年54歳。山本学治は大正12年(1913)2月11日、東京都文京区に生まれ、昭和20年(1945)8月、東京帝国大学第二工学部建築学科を卒業、同時に第2工学部大学院にすすみ、また、同年9月から同24年10月まで文部省特別研究生として「近代建築の技術史的研究」を研究主題として小野薫、関野克両教授の指導をうけた。昭和25年(1950)10月、大学院を修了しまた同24年12月20日東京芸術大学美術学部建築科の文部教官助教授補となり、同26年4月専任講師となった。昭和34年12月、東京芸術大学美術学部助教授、同39年5月教授に昇任したが、その間、建築月刊誌『国際建築』の編集、近代建築史の研究、建築評論で活躍し、昭和37年工学博士号をうけた。昭和49年9月、同50年3~4月にはヨーロッパへ出張、同49年以降50年まで日本建築学会幹事の任にあった。主要な著書に『ミース・ファン・デル・ローエ』(昭和28年、彰国社)、『近代建築史』(共著、昭和33年、彰国社)、『あなたの住宅設計』(共著、昭和35年、池田書店)、『現代建築と技術』(昭和38年、彰国社)、『現代建築十二章』(訳書、昭和40年、鹿島出版会)、『素材と造型の歴史』(昭和41年、鹿島出版会)などがある。また登山家としても知られ、東京芸大山岳部長をつとめたほか、少年向けの著書『もりのめぐり』や、山の歌「ぼくのふるさと」の作詞作曲などがある。

摩寿意善郎

没年月日:1977/04/25

西洋美術史家、とくにイタリア・ルネッサンス美術の研究家で知られた東京芸術大学教授の摩寿意善郎は、4月25日午前10時、肝臓ガンのため東京都渋谷区広尾の日赤医療センターで死去した。享年66であった。摩寿意善郎は、明治44年(1911)1月23日、父善太郎、母ツヤの長男として東京府麻布区に生まれ、大正13年3月、麻布南山小学校を卒業、私立麻布中学校にすすみ、昭和3年同中学校を卒業した。昭和4年第一高等学校文科甲類に入学、一高時代に三谷隆正教授よりブルクハルト「イタリア・ルネッサンスの文化」の講義をうけたのが後年ルネッサンス美術史研究の端緒となった。昭和7年京都帝国大学文学部に入学したが、翌8年東京帝国大学に転じ、昭和11年3月、同大学文学部美学美術史学科を卒業、論文は「美術史の哲学的基礎」。大学卒業と同時に都新聞(現・東京新聞)に入社し文化部美術担当記者となる。東大在学時から同人誌『東大派』に参加、同誌は『潮流』と改称、さらに『日暦』と合併した。『日暦』同人には、高見順、渋川驍、新田潤などがいる。昭和12年3月都新聞を退社し、創立されたばかりの日伊学会主事となり、同年10月、イタリア国立ナポリ東洋学院日本学科講師としてイタリアへ赴き、日本語を教授すると同時にイタリア美術の調査研究に従事した。翌昭和13年9月ナポリ東洋学院講師の任期をおえて帰国、日伊学会主事に復帰、日伊学会は昭和15年日伊協会と改組されたが、主事に留任し、翌16年秋から『日伊文化研究』を発行、当時、佐々木基一、福永武彦、茂串茂らが嘱託として編集に参加していた。昭和17年(1942)10月、『サンドロ・ボッティチェルリ』(アトリエ社)を刊行、そのほか美術史論稿、評論を発表している。昭和21年3月、文部省社会教育局事務嘱託(常勤)となり、芸術課において今日出海課長のもとで課長補佐をつとめ、芸術祭、全国巡回美術展などの企画実施にあたった。また、一方、同21年9月から東京音楽学校イタリア語非常勤講師となり、同24年7月東京芸術大学音楽学部教授に就任、同年12月文部省兼務を解かれ、同時に同大学美術学部において西洋美術史を講義した。昭和29年(1954)、東京芸術大学美術学部へ移籍され教授、以降、没するまで西洋美術史、とくにイタリア美術史を講じて多くの後進を指導した。昭和30年8月、イタリア共和国より騎士勲章を授与され、同11月にはローマ大学客員教授として渡伊、翌31年12月までイタリアに滞在した。昭和42年12月、東京芸術大学美術学部長に就任、以後48年12月まで3期にわたり美術学部長をつとめ、その間、大学紛争、学部校舎の改築などの処理に尽力した。昭和48年(1976)8月、同51年(1973)8月、東京芸術大学イタリア初期ルネッサンス壁画学術調査団団長として、アッシージのサン・フランチェスコ聖堂の調査研究に従事した。 日伊文化交流にも尽力し、戦後の日伊協会再発足にともない、昭和25年(1950)同協会専務理事に就任、昭和51年12月には同協会副会長の任についた。 そのほか、平凡社、角川書店、学習研究社、小学館などの各社の世界美術全集の編集委員、監修にもあたった。主要著書目録『サンドロ・ボッティチェルリ』 アトリエ社 昭和17年「ジォットの生涯と作品」 「美術新報」 昭和18年7月「マサッチオについて」 「美術」 昭和19年10月「ルネッサンスの画家ボッティチェルリ」 「ルネッサンスの研究」東北大学刊行 昭和24年6月「フィレンツェ画派」 平凡社『世界美術全集』第16巻 昭和25年「ラファエルロ」 平凡社『世界美術全集』第17巻 昭和26年「『教会の勝利』後の西方ローマにおける初期キリスト教美術」 平凡社『世界美術全集』第12巻 昭和27年「19世紀のイタリア絵画」 平凡社『世界美術全集』第23巻 昭和28年「イタリアの中世彫刻・絵画」 平凡社『世界美術全集』第13巻 昭和29年「18世紀のイタリア絵画」 平凡社『世界美術全集』第19巻 昭和29年「イタリアの現代絵画」 日伊協会刊「日伊文化研究」復刊第1号 昭和29年『ルネサンス』 みすず書房 昭和30年「イタリア・ルネサンスの開花」 平凡社『名画全集』 昭和34年「イタリア・ルネサンスの展開」 平凡社『名画全集』 昭和34年「マサッチオ=マンリーノ問題の再検討」 美学会刊「美学」第41号 昭和35年「レオナルドとその周辺」 筑摩書房刊『世界の歴史』第9巻 昭和36年「イタリア初期ルネサンス美術」 角川版『世界美術全集』第30巻 昭和36年「イタリア盛期ルネサンス美術」 角川版『世界美術全集』第31巻 昭和36年「ローマ美術の世界史的意義」 講談社刊「ローマ美術」(『世界美術大系』) 昭和37年「イタリア中世美術の展開」 講談社刊「イタリア美術」(1)(『世界美術大系』) 昭和39年「イタリア美術の発展」 河出書房刊『イタリア』 昭和40年「ボッティチェルリの『神曲』挿絵」 日伊協会刊「日伊文化研究」第7号 昭和41年「イタリアに開花したルネサンス」 講談社刊「世界の史蹟」 昭和43年「イタリア初期ルネサンス、フィレンツェ絵画」 学研版『大系世界の美術』(ルネサンス1) 昭和46年「16世紀のイタリア美術」 学研版『大系世界の美術』(ルネサンス2) 昭和47年「フィレンツェの画家ボッティチェルリ」 小学館刊『フィレンツェの美術』第4巻 昭和47年「Botticelli:Painter of Florence」 小学館刊『フィレンツェの美術』第4巻(英訳) 昭和47年「ミケランジェロの『聖家族』」 小学館刊『フィレンツェの美術』第5巻 昭和47年「フィレンツェ洗礼堂門扉の彫刻コンクールについて」 小学館刊『フィレンツェの美術』第3巻 昭和48年「ピッティ美術館のラファエルロ」 小学館刊『フィレンツェの美術』第6巻 昭和48年「サンタ・マリア・デル・カルミネ聖堂の壁画」 小学館刊『フィレンツェの美術』第2巻 昭和48年「サンタ・マリア・デル・フィオーレ聖堂と洗礼堂とジォットの鐘塔」 小学館刊『フィレンツェの美術』第1巻 昭和49年「サンタ・マリア・ノヴェルラ聖堂のマサッチオの壁画『三位一体』」 小学館刊『フィレンツェの美術』第1巻 昭和49年『ボッティチェルリ』 集英社刊『世界美術全集』第4巻 昭和51年

田中作太郎

没年月日:1977/04/05

美術史家で古陶瓷器研究家として知られる田中作太郎は、4月5日脳軟化症のため東京都練馬の自宅で死去した。享年72。明治38年2月1日東京文京区に生れ、大正14年東京高等工芸学校図案科を卒業した。昭和6年帝室博物館技術雇員となり、昭和13年同出仕、同22年文部技官となった。陶瓷工芸史の研究を専門とし、特に江戸期を中心とした陶瓷の研究家として有名である。東京国立博物館考古課長、文化財専門審議会専門委員。主著-世界陶磁全集(河出書房、昭33)、陶磁全集「上代の壺」(平凡社、昭34)、同「仁清」(同、昭35)、飯食器(至文堂日本の美術9、昭42)、原色日本の美術「陶芸」(共著)(小学館、昭42)。

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