本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





上野直昭

没年月日:1973/04/11

日本学士院会員・東京芸術大学名誉教授上野直昭は、4月11日、心不全のため、国分寺市の自宅で逝去。享年90歳。明治15年11月11日、上野昭道の長男として兵庫県に生れ、東京正則中学校・第一高等学校を経て、明治41年7月、東京帝国大学文科大学哲学科(心理学専攻)を卒業した。爾来65年間、美学・美術史学者としての研究活動、大学の教育と管理、美術館・博物館の運営と文化財の保護等、その貢献は多方面にわたって顕著である。 明治44年より大正10年まで、大塚保治教授の主宰する美学研究室の副手となり、大正5年、東照宮三百年祭記念会が帝国学士院に委托した研究費の補助を得、東大講師中川忠順指導のもとに、絵巻物の調査研究に当った。その研究成果は、戦後刊行された「絵巻物研究」に収載されているが、心理学・美学の素養を基礎として、美術史上の問題を取り扱いながら、形式と内容の両面から、、また時間性と空間性の観点から絵巻物の構造に対する独自の考察を試み、わが国の近代的絵巻物研究に先鞭をつけ、永く後進の準繩となった。美術史研究の業績の著しいものとしては、そのほか、日本の上代彫刻、東西美術の比較芸術学的研究等をあげることができる。 大正13年、美学美術史研究のため欧米在留を命ぜられ、大正15年、京城帝国大学教授に任じ、昭和2年帰国後、法文学部美学美術史第一講座を担任し、昭和16年まで在職したが、その間、昭和5年より翌年まで交換教授としてベルリン大学において日本美術史を講じ、また同7年より10年の間、九州帝国大学教授を兼務し、同10年より12年の間、京城帝国大学法文学部長の職に在った。昭和19年、東京美術学校長に任命され、昭和24年東京芸術大学発足とともに学長となり、昭和36年まで在職した。昭和41年、愛知県立芸術大学の創立に際して学長に就任、逝去の前年までその職に在った。 昭和15年国宝保存会委員となり、昭和27年文化財保護審議会専門委員を辞するまで、国の文化財保護事業に参画し、昭和16年より19年まで大阪市立美術館長、昭和24年に半年間国立博物館長の職に在り、そのほか帝室博物館顧問、正倉院評議会々員、国立博物館・国立近代美術館・国立西洋美術館評議員等を委嘱された。 以上ひろく学術上、研究教育上の功績により、昭和21年、帝国学士院会員に、昭和34年、文化功労者に選ばれ、昭和39年勲二等に叙し旭日重光章を授けられ、また昭和34年、ドイツ連邦共和国より、大十字功労章を贈られた。 略歴明治44年9月 東京帝大文科大学副手(→大正10年3月)大正9年4月 東京女子大学講師(→13年11月)大正13年10月 京城帝国大学予科講師嘱託大正13年10月 美学美術史研究のため満2年間ドイツ、イタリア、ギリシャ及びアメリカ合衆国へ在留を命ぜられ、11月出発大正15年4月 京城帝国大学教授、法文学部美学美術史講座担任昭和2年3月 帰学昭和2年6月 美学美術史第一講座担当昭和5年2月 日本協会主事としてドイツ国との交換教授のためドイツ国へ出張(→6年7月)昭和7年5月  九州帝国大学教授を兼任、法文学部美学美術史講座担任(→10年4月)昭和10年5月 京城帝国大学法文学部長(→12年8月)昭和15年12月 国宝保存会委員昭和16年1月 京城帝国大学教授を辞任昭和16年2月 大阪市立美術館長昭和19年5月 同辞任昭和19年6月 東京美術学校長兼工芸技術講習所長昭和19年6月 帝室博物館顧問昭和21年4月 文部教官昭和21年8月 帝国学士院会員昭和22年7月 正倉院評議会々員昭和22年12月 国立博物館評議員昭和24年4月 文部事務官兼文部教官昭和24年4月 国立博物館長兼東京美術学校長昭和24年5月 東京芸術大学々長事務取扱昭和24年7月 国立博物館長を免じ文部教官専任、東京芸術大学長昭和25年12月 文化財専門審議会専門委員昭和27年9月 国立近代美術館評議員昭和30年7月 フランス美術館設置準備協議会委員(→33年6月)昭和32年5月 日本学士院会員としてブラッセルに於いて開催される国際学士院連合第31回総会出席の序スエーデン、ドイツ、ベルギー、フランス、スペイン、イタリア及びギリシャの各国における音楽学校及び美術学校の教育課程についての調査研究のため外国出張昭和33年7月 国立西洋美術館設置準備協議会委員昭和34年3月 国立劇場設立準備協議会委員昭和34年4月 国立西洋美術館評議員昭和36年12月 任期満了により東京芸術大学退職昭和37年10月 東京芸術大学名誉教授昭和39年4月 文化女子大学家政学部教授(非常勤)昭和41年4月 愛知県立芸術大学々長昭和47年6月 同辞任昭和48年4月 死去に際し正三位に叙し銀盃一組を賜わる。 主要著作目録 *単行図書精神科学の基本問題 岩波書店 大正5年10月哲学辞典 岩波書店 大正11年10月美と崇高の感情性に関する考察(翻訳) 岩波書店 昭和14年1月上代の彫刻 朝日新聞社 昭和17年6月Fruhzeitliche Plastik Japans 朝日新聞社 昭和18年日本美術史 上代篇 河出書房 昭和24年4月絵巻物研究 岩波書店 昭和25年1月日本美術の話 宝文館 昭和27年11月源氏物語絵詞小論 東京芸術大学 昭和31年3月明治文化史8 美術編 洋々社 昭和31年3月日本彫刻史図録 朝日新聞社 昭和32年5月Woodblock Reproductions of the Genji Picture Scrolls Tokyo University of Arts 昭和38年邂逅 岩波書店 昭和44年3月*論文集・全集・講座作期の与へられた古絵巻物について「松本博士還暦記念論文集」絵巻物に於ける時間と空間との関係に対する一考察「大塚博士還暦記念美学美術史研究」岩波書店 昭和6年1月最近ドイツに於ける大学改革問題岩波講座「哲学」 昭和7年11月エレクテイオンのカリアテイデについて京城帝大法文学会「西洋文芸雑考」 昭和8年12月鎌倉時代の絵画 岩波講座「日本歴史」 昭和9年11月ギリシャ建築と朝鮮建築 特に柱について―比較芸術学の一つの試み―「速水博士還暦記念心理学哲学論文集」岩波書店 昭和12年天平彫刻について「天平彫刻」 小山書店 昭和19年11月三月堂群像「東大寺法華堂の研究」 大八洲出版 23-9東大寺の彫刻「図説東大寺」 朝日新聞社 27-9古代の彫刻 平凡社世界美術全集日本・古代 昭和27年11月平安時代の文化と書道 平凡社書道全集日本平安3 昭和30年4月法隆寺を想ふ 近畿日本叢書「大和の古文化」 昭和35年9月想ひ出「博物館ノ思出」東京国立博物館 昭和47年11月*定期刊行物などヰルヘルム・ヴントの想ひ出の記 思想3~5 大 10-12 大11-1、2日本国宝全集の発刊 思想 18 大12-3絵巻物について 思想 19 大12-3絵巻餓鬼双紙考察 思想 28 大13-2デルフィよりオリムピア迄 思想 133 昭8-6海印寺行 画説 13 昭13-1夏目さん 図書 37 昭14-2信貴山縁起について 図説 30 昭14-6エドムント・ヒルデブラント 図書 54 昭15-7伴大納言絵詞 美術研究 142 昭22-3レオナルドの皮肉 世界 19 昭22-7人及び芸術家としてのレオナルド・ダ・ヴィンチ西欧学芸研究 1 昭24法隆寺の柱 仏教芸術 4 昭24-6大塚保治先生 心 3-5 昭25-5室生寺釈迦像 芸術新潮 1-9 昭25-9大塚保治博士の思想 美学 4 昭26-2仏像形態学試論 大和文華 1 昭26-3飛鳥彫刻について Museum 3 昭26-6文学の絵画化(信貴山縁起第一巻について)文学 19-5 昭26-5絵巻物考断片一主として表現形式についてMuseum 6 昭26-9文化財は保護されているか―薬師寺日光菩薩の問題をめぐって―芸術新潮3-12 昭27-12高貴な絵 国立博物館ニュース 昭29-3玉依姫再礼讃 大和文華 13 昭29-3安井曾太郎追憶 心 19-3 昭31-3古都随想1~12 芸術新潮 7-5~8-4 昭31-5~32-41、2法隆寺の金堂 3アクロポリス逍遥4、5、7~9柱の美学 6古都の美10建築心理学の一節 11、12建築心理学の諸問題学究生活の思ひ出 思想 385 昭31-7中川忠順先生の追憶 大和文華 21 昭31-10裸体像について 心11-7 昭33-7人と教育(レオナルド・ダ・ヴィンチ)木曾教育 12 昭33-12正倉院ファンタジー Museum 104 昭34-11田中豊蔵のこと(同氏著日本美術の研究序) 昭35-10藤田亮策君追憶 大和文化研究 6-3 昭36-3岡倉先生 岡倉天心展目録 昭37-10美学者の散歩 芸術新潮157~168 昭38-11岡倉天心の講義 2、3三月堂を憶ふ4田中豊蔵のこと 5、6薬師寺の美学7モーツァルトの手紙 8フェノロサの美術論9日本的なるもの、伊勢神宮とパルテノン10フィレンツェの数日 11、12欧州の美術行脚日本美術の性格 月刊文化財 13 昭39-10失はれた古寺巡礼 芸術新潮 193 昭41-1長久手独居之記 研修あいち 48 昭和43-1

西垣雄太郎

没年月日:1973/02/23

大阪市立大学文学部教授の西垣雄太郎は、2月23日午後1時50分、脳浮腫のため牧方市民病院で死去した。享年53歳。西垣雄太郎は大正8年(1919)5月27日、兵庫県豊岡市に生まれ、昭和19年(1944)9月東京帝国大学文学部教育学科を卒業、同24年9月東京大学部美学美術史学科大学院を修了、西洋美術史を専攻した。昭和26年(1951)4月、大阪市立大学文学部助手となり、同30年専任講師となった。主要な研究対象は17世紀スペイン絵画史で、昭和35年(1960)8月から翌36年8月までスペイン・マドリッド大学に留学し、昭和38年大阪市立大学文学部助教授に就任、同年教授に昇任した。主要な研究論文に「ベラスケス作の肖像について」(『人文研究』昭和41年)、「ベラスケスとエル・エスコリアールのパンテオン」(『人文研究』、昭和42)などがある。

團伊能

没年月日:1973/02/09

元東大教授で、美術史のほかにも幅広い活躍をした團伊能は、2月9日心不全に肺感染症を併発し、神奈川県横須賀市民病院で死去した。享年80歳。号疎林庵。宗鳥。明治25年2月21日福岡県大牟田市に團琢磨の長男として生れ、大正6年7月東京帝国大学文学部を卒業した。翌7年3月、宮内省嘱託として海外に留学、同10年8月帰国した。同年11月欧米視察実業団随員として外遊、翌年5月帰国した。大正12年4月東京帝国大学講師となり、美術史を講じ、昭和3年助教授となった。昭和8年5月同職を退官し、国際文化振興会に入り常務理事となった。その後、昭和13年にはパリ万国博覧会理事として渡仏し、また同15年にはニューヨーク万国博覧会日本事務総長として渡米した。戦後は、昭和21年5月貴族院議員、翌年引続き参議院議員となり、厚生政務次官をつとめた。同25年参議院議員再選となり、同年冨士精密工業KKの社長となった。そのほか、日本美術協会々長(29年)、国際文化振興会副会長(30年)、ブリジストンタイヤKK取締役、プリンス自動車会社々長、九州朝日放送会社々長を歴任した。勲二等瑞宝章、スエーデン勲二等。仏オフシエアカデミー章(昭3)、ニューヨーク名誉市民。イタリー・グランド・オフシエ勲章等受領(昭6)。著書―「伊太利美術紀行」(大正13年)、「概観欧洲芸術史」(昭和7年)。

溝口三郎

没年月日:1973/01/01

文化財保護審議会専門委員で漆工研究家溝口三郎は、1月1日じん臓しゅようのため東京都狛江市の慈恵医大第三分院で死去した。享年76歳。旧新発田藩主新発田直正の孫で、明治29年8月10日東京麻布に生まれた。大正10年3月、東京美術学校漆工科本科を卒業、後研究科に在学した。同12年12月帝室博物館の依頼により国宝蒔絵の模造に従事し、昭和3年帝室博物館美術課嘱託を経て、同列品課勤務となった。同16年漆工区主任となり、22年帝室博物館は文部省所管となり国立博物館となったので、これにともない文部技官となった。同27年文化財保護審議会専門委員となり翌年東京国立博物館工芸課長となった。同34年東京芸術大学講師となり、36年には東京国立博物館を辞職し、後同館調査員となった。また中尊寺金色堂修理委員、正倉院御物漆工芸の調査等に従事し、日本工芸会評議員、ホテルオークラ意匠委員、大倉文化財団顧問、明漆会特別会員等の役職にもあった。

福井利吉郎

没年月日:1972/12/01

東北大学名誉教授福井利吉郎は、12月1日、脳出血のため東京都三鷹市の自宅で逝去。享年86歳。明治19年3月10日、岡久一郎の次男として岡山県児島郡に生れ、明治37年大阪府福井彦次郎の養子となり、天王寺中学・第一高等学校を経て、明治43年7月京都帝国大学文科哲学科を卒業した。爾来60余年美術史家として活動したが、その活動は、研究成果の発表による純学究的寄与、大学教授としての教育上の貢献、文化財保護事業に対する献身の三方面に亙り、それらは緊密に連関している。 明治44年、平子鐸嶺の後任として内務省古社寺保存計画調査を嘱託され、昭和43年に文化財保護審議会専門委員の再任を辞退するまで、文化財の調査・指定・保存に尽瘁すること半世紀余に及んだ。内務省就職以来、上司であった中川忠順の薫陶を受けたが、このことと、古社寺保存会委員であり養父の同窓であった岡倉覚三に親灸したこととは、美術史家としての研究態度と学風形成に多大の影響を与えたものと思われる。王朝美術史論を卒業論文として学窓を出てから、研究の主題は、仏教美術、光琳・宗達・乾山、絵巻物、水墨画と多方面に及んだが、それらの研究は、犀利な構想力と透徹した全体観に支えられ、日本美術史の体系構成をめざしたものであった。また欧米人の日本に関する研究業績を重視し、日本美術の国際的理解を計り、現代美術にも深い関心を示して、展覧会批評を新聞に寄稿した。講壇において後進を教導することきわめて厳格であったが、イギリス在留中、小林古徑・前田青邨に嘱し、東北大学のために伝顧愷之筆女史箴図巻の模本を作成したことは、他に類例の少い教育研究上の貢献といえよう。略歴明治43年9月12日 京都帝国大学文科大学副手明治44年9月26日 内務省古社寺保存計画調査嘱託

熊谷宣夫

没年月日:1972/10/15

九州芸術工科大学教授熊谷宣夫は膵臓癌のため、10月15日福岡市の自宅で死去した。享年72才。明治33年9月2日山形県に生れ、東京府立四中、一高を経て昭和2年3月東京帝大文学部美学美術史学科を卒業、卒業論文「大和絵肖像画の研究」は直ちに同年の国華に連続掲載され、早くもその天稟を世にあらわした。同年東大文学部副手、5年美術研究所嘱託となり、東洋美術総目録編纂事業に加わって足利漢画を担当し、初期の研究所時代は専らこの方面での基礎的研究に携った。15年1月朝鮮総督府博物館嘱託として渡鮮し、同館に於て大谷探検隊将来西域美術品に触れて以来、当時全く未開拓の分野であった西域美術研究に先鞭をつけた。調査記録の乏しい大谷探検隊収集品の原所在地比定に始まる幾多の労作は、これらを西欧の収集品と対応させつつ実証的に独自の見解を示したもので、研究成果は法蔵館刊行の「西域文化研究」第5冊に集大成され、またこの「西域の美術」の論文で東北大学より文学博士の学位を授与された。これより先19年10月美術研究所嘱託となり、22年8月文部技官、26年2月以来37年3月退職時まで、美術部第一研究室長として後進を誘掖するとともに「美術研究」誌上に健筆を揮い、また永く同誌の編集を主宰して美術部機関誌の充実に努めた。雪舟研究は早く昭和7年の「伝雪舟花鳥図屏風に就いて」にはじまり、死去の年の山陰地方調査旅行、その5月の美術史学会全国大会の研究発表に及び、西域美術研究とならんで主要研究テーマとなったが、その成果の大部分は東大出版会の「雪舟等楊」に結集されている。また朝鮮美術史に関しては、「朝鮮仏画徴」をはじめ教編の論考がある。かくのごとき学究としての長年にわたる真摯な研究活動のほか、東京芸術大学併任教授、東北大学・東京大学・早稲田大学講師として、最晩年は九州芸術工科大学教授として、学生の指導と研究者の養成に力を竭し、また美術史学会の創立とその運営に献身した。略歴昭和2年3月 東京帝大文学部美学美術史学科卒業。東京帝大文学部副手(昭和5年4月まで)昭和5年6月 帝国美術院附属美術研究所嘱託(6年9月まで)昭和8年3月 帝国美術院附属美術研究所嘱託(9年9月まで)昭和15年1月 朝鮮総督府博物館嘱託(19年3月まで)昭和19年10月 美術研究所嘱託昭和22年8月 文部技官昭和26年2月 美術研究所第一研究部長昭和27年4月 東京文化財研究所第一研究室長昭和37年3月 同上退職(38年3月まで非常勤嘱託)昭和38年4月 育英工業専門学校教授(43年3月まで)昭和43年4月 九州芸術工科大学教授昭和45年7月 文化財保護審議会専門委員昭和47年4月29日 勲4等旭日章昭和47年10月15日 死亡、同日叙従4位主要著作目録*単行図書雪舟(東洋美術文庫)アトリエ社 昭和13年12月雪舟(日本の名画)平凡社 昭和31年10月雪舟等楊(日本美術叢書)東大出版 昭和33年7月西域(中国の名画)平凡社 昭和32年2月西域の美術(西域文化研究5)法蔵館 昭和37年3月*論文大和絵肖像画に就いて 国華439~446 2.6~3.1伝雪舟花鳥図屏風に就いて 美術研究3 7.3応永年間の詩画軸 美術研究4 7.4芭蕉夜雨図考 美術研究8 7.8蘭渓道隆像に就いて 美術研究10 7.10玉畹梵芳伝 美術研究15 8.3仁王経曼茶羅考 美術研究20 8.8静山印記ある水墨画軸について 画説2 12.2大原家蔵雪舟筆山水図について 美術研究62 12.2雪舟号に関して 美術研究63 12.3雪舟山水画の一特徴 画説9 12.9雪舟年譜 画説27 14.3雪舟の石見在住と終焉に対する私見 美術研究28、29 14.4、5南満州営城子古墳の漢代壁画 画説51 16.3ベゼクリク第19号窟寺将来の壁画 美術研究122 17.2ベゼクリク第20号窟寺将来の壁画 美術研究126 17.9ベゼクリリ第4号窟寺将来の壁画 美術研究138 19.10キジル洗足洞窟寺将来の壁画 美術研究149 22.3井上コレクションのキジル壁画断片について 仏教芸術2 23.2雪舟画年代考 美術研究155 24.7ミイランの壁画と法隆寺 仏教芸術4 24.7クムトラキンナラ洞将来の壁画について 仏教芸術5 24.11我が古墳に於ける仏教芸術の影響に関する一問題 仏教研究6 25.2李衡文賛の雪舟画山水について 国華700 25.6ベゼクリク第11号窟寺将来の壁画 美術研究156 25.9石芝蔡竜臣 美術研究162 26.9ベゼクリク諸窟寺将来の壁画補遺 美術研究170 28.9東トルキスタンと大谷探検隊 仏教芸術19 28.12クムトラ出土の塑造菩薩頭 大和文華12 28.12大谷ミッション将来の壁画に断片について 美術史11 29.1ギジル第三区摩耶洞将来の壁画 美術研究172 29.3クチャ将来の彩画舎利容器 美術研究177 29.9ベゼクリク第8号窟寺将来の壁画 美術研究178 29.11ミイラン第3及び第5址将来の壁画 美術研究179 30.1大谷ミッション将来の玄奘三蔵画像2図 美術史14 30.2大谷ミッション将来の版画須大拏本生図について 文化20-1 31.1大谷ミッションの西域出土磚像2種 美術史19 31.1雪舟彩色画論 美術研究185 31.3雪舟研究の展望 ミュージアム62 31.5西域出土の双面壷と人面のアプリケ 美術研究186 31.5錦城山石仏試論 美術史22 31.12戊子入明と雪舟上下 美術史23、25 32.1、7西域出土のテラコッタ共命鳥像 美術研究194 32.9東洋美術史・西域の美術 美術手帖132 32.10丁谷山千仏洞旁出土の板絵魯義姑図 大和文華27 33.9コオタン将来の金銅仏頭 美術研究200 33.9中国初期金銅仏の2、3の資料 美術研究203 34.3甲寅銘王延造光背考 美術研究209 35.3大谷コレクション誓願画資料 美術研究218 36.9朝鮮仏画徴 朝鮮学報44 42.7秀文筆墨竹画冊 国華910 43.1九州所在大陸伝来の仏画 仏教芸術76 45.6雪舟資料「雪舟二大字」に関して 仏教芸術79 46.4朝鮮仏画資料拾遺 仏教芸術83 47.1

吉田暎二

没年月日:1972/09/30

浮世絵研究家吉田暎二は、9月30日高血圧のため自宅で死去した。享年71歳。明治34年2月5日、東京都目黒区で生まれ、同40年相生尋常小学校に入学、大正3年府立第三中学校(現在の両国高校)に入学、同8年早稲田大学露文科に入学した。大正13年に歌舞伎座に入社、昭和2年退社、同13年に高見沢木版社入社、同17年退社、北光書房に入社し、同21年高見沢木版社に再勤、北光書房とを兼務した。同22年に高見沢木版社、同25年に北光書房を退社、25年に歌舞伎座出版部主任として再入社し、43年2月に退社した。主要な著作は次の通りであるが、とりわけ「歌舞伎年表」の校訂、「浮世絵事典」の出版、役者絵研究等は浮世絵研究にとって貴重な基礎資料となっている。 大正12年9月、戯曲集「悪魔の群」。同13年11月、戯曲集「疲れた家」(段丘社・青々堂書店)。同14年5月、雑誌「歌舞伎」編集(歌舞伎出版部)。同15年6月、自費「歌舞伎研究」「劇と評論」、「曲馬団の姉弟」、「同年8月」、「歌舞伎年代記」校訂、「天下太郎」。昭和2年10月、「新聚歌舞伎役者絵画集」。同5年11月より「浮世絵大成」(大鳳閣・東方書院)を毎月出版し12巻で完了。同6年2月、「浮世絵大家集成 」、6月、雑誌「浮世絵断語」(自費)、11月、「浮世絵裏と表」(東方書院)。同8年10月、「伊勢歌舞伎年代記」(放下房書屋)。同14年4月、雑誌「丹緑」編集、「6月浮世絵読本」。同15年6~9月、「光琳」「宗達」「乾山・抱一」(高見沢木版社)。同16年8月、「歌麿全集」(高見沢木版社)。同17年8月、「浮世絵くさぐさ」(高見沢木版社)、9月、「春信全集」(高見沢木版社)。同18年8月、「東州斎写楽」(北光書房)。11月、「浮世絵美讃」(北光書房)。同20年1月、「浮世絵辞典・上巻」(北光書房)。同21年6月、雑誌「浮世絵草紙」編集。同22年6月、「浮世絵の姿態」(北光書房)。同23年5月、「小説世界」編集。同28年8月、「清長」(美和書院)、9月、「浮世絵の美」(創元社)10月、「春信」(アソカ書房)。同29年、6月、「国貞国」(芳美和書院)。同31年2月、「浮世絵というものは」(教育書林)、4月、「浮世絵手帖」、8月、「歌舞伎年表 第一巻」(岩波書店・毎年3月刊、八巻了)校訂。同32年3月、「浮世絵全集・第五巻」(河出・座右宝)8~11月、「写楽」(みすず書房・美術出版社)。同34年11月、「浮世絵談義」(東西五月社)。同36年6月、「日本版画美術全集 第三巻」(講談社)、12月、「浮世絵秘画」(緑園書房)。同37年5月、「季刊浮世絵」(緑園書房)創刊編集、9月、「浮世絵入門」(緑園書房)。10月、「浮世絵あぶな絵」(全三巻・緑園書房)。同38年2月、「肉筆浮世絵 下巻」(講談社)、3月、「浮世絵艶画」(緑園書房)、4月、「浮世絵の手帖」、7月、「吉田暎二著作集 全七巻」、11月、「浮世絵秘画名品帖」。同39年8月、「浮世絵秘画名品選」(緑園書房)。同40年6月、「浮世絵事典 上・中」(緑園書房)。同43年5月、「写楽」(山田書院)、9月、「浮世絵入門」(画文堂)。同44年3月、「浮世絵」(日本経済新聞社)。同45年11月、「肉筆浮世絵」(講談社)。同46年3月、「浮世絵事典 下」(画文堂)。(本稿資料として「吉田暎二さんを偲ぶ」を参照)

尾崎久弥

没年月日:1972/06/02

江戸文学研究家、名古屋市文化財調査委員長の尾崎久弥は、6月2日、脳軟化症のため名古屋市中区の中日病院で死去した。享年81歳。明治23年(1890)6月28日、名古屋市に生まれ、愛知県立第一中学校から、明治44年国学院大学高等師範部卒業。大正2年より県立四中、県立一中、市立名古屋商業、国学院大学、東邦高校、名古屋商科大学、東邦学園短大を歴任、国文学を教える。その間、江戸軟派文学研究、浮世絵研究を続ける。昭和25年に「江戸文学研究および郷土史への貢献」で第3回中日文化賞を、同28年にも愛知県から文化賞を受けた。「江戸小説研究」「広重と清親」「江戸軟派雑考」「洒落本集成」「浮世絵美人大首画の研究」「江戸小咄本」「吉原図会」等の著書がある。故人、遺族の意志により蔵書、浮世絵等一万五千点が名古屋市に寄贈された。

守屋謙二

没年月日:1972/04/22

慶応義塾大学文学部名誉教授守屋謙二は4月22日脳出血のため横浜市の自宅で死去した。享年73才。1898年(明治31)8月29日岐阜県大垣市の金丸という商号をもつ味噌醤油醸造業を営む旧家の十人兄弟中の二男に生れた。郷里の中学校を卒業したのち、1916年に仏教に興味をもって大谷大学に入ったが間もなく病いをえて休学し、復学後は、哲学に関心が傾き、1918年哲学者鹿子木員信のいる慶応義塾大学文科に入学。1923年哲学科卒業。1925年同学予科のドイツ語担当教員となる。1927年渡辺春子と結婚。かねてより書画を好んだ父の影響もあって絵やデッサンの鑑賞だけでなく自ら描いてもいたが、卒業後美術史教授沢木四方吉に師事して美術史を研究。その推挙により1928年から文学部で美術演習を担当した。はじめは日本美術史に興味をもっていたが、沢木教授の勧めもあって西洋美術史を専問とするようになる。1937年、文学部助教授。39年末フンボルト財団基金をえてドイツに留学。まずミュンヒェン大学でヤンクェン教授の講義に列し、のちベルリンでピンダー、キュンメル教授等を聴講。チロルのザンクト・クリストフの日独学生交歓会で「日本美術の特質」を講演して好評をえた。戦争の悪化によって日本への帰国が困難になったが1942年秋からライプツィヒ大学の日本研究所の教授となり、日本語と日本美術史を担当。余暇に描いた水墨画をグラッシ博物館の一室に陳列したこともある。1945年ドイツ降伏後シベリア経由で帰国し、文学部教授となる。1954年西ドイツ、ヴィースバーデンで出版した「Die Japanisehe Malerei 日本の絵画」により慶大で文学博士を授けられ、また義塾賞を与えられた。1960年8月3日最初の脳出血によって倒れ、かねてより志していたカトリックの洗礼を受けた。のち小康をえて大学院の講義を続行した。1965年、日本橋の高島屋で書画の個展を開いた。青年時代の同人雑誌「葡萄園」による短篇小説をはじめとして終生にわたる随筆や美術史論文などの数は多いが、主な業績としてはパッサルゲ著「現代美術史理論」(春秋社、1934年刊、のち改訳「現代における美術史の哲学」同社、1964年刊)の翻訳はさまざまな美術史理論の紹介解説として国際的にも類書の乏しいものだけに貴重なものであり、またことにヴェルフリン著「美術史の基礎概念」(岩波書店1937年刊)は美術史だけでなく広く芸術、文化における様式史的理解を深めた点でそれ以後大きな影響を及ぼしたものである。他にヴェルフリン著「古典美術」(美術出版社、1962年刊)、ヘルマン・ノールによる「美学」(朝日新聞社朝日新講座1949年刊)「Die Japanische Malerei」(Brockhaus,1953年刊)、「洗心居随筆」(春秋社、1969年)などが単行書として刊行されている。三田哲学会「哲学」(第53集、1968年刊)は「守屋先生古稀記念論文集」で、それまでの著作目録と自伝「七十年の幻影」を収める。本稿も主にこれによった。

駒井和愛

没年月日:1971/11/22

考古学者駒井和愛は11月22日心筋梗塞のため東京都世田谷区の自宅で死去した。東京大学名誉教授、早稲田大学客員教授、文化財審議会専門委員であった。明治38年1月11日東京都浅草区に生れ、昭和2年早稲田大学文学部東洋史学科卒業。同年東京帝国大学文学部副手となり、翌3年から19年まで中国大陸の考古学的調査と研究に従事した。この間13年に東大文学部講師、東方文化学院研究員となる。20年東大文学部考古学科助教授。21年東大で文学博士の学位受領。26年教授就任。21年より30年まで日本女子大講師。21年より35年まで早大講師。27年日本学術会議東京学研究運絡委員(41年まで)。34年以後文化財専門審議会専門委員となる。同年立教大学大学院講師(45年まで)。40年東大を定年により退官し名誉教授となる。42年より早大客員教授。45年文化財功労者として表彰される。46年11月22日没。戦後昭和29年文部省在外研究員として国際東洋学者会議に出席し、また32年新中考古学視察団に加わって中国を訪問している。著書「東京城」「上都」「牧羊城」「曲阜」「支那古器図攻」「中国考古学研究」「中国古鏡の研究」「竜江」「楽浪郡治址」「北海道環状列石の研究」「オホーツク海、知床半島の遺跡」「登呂の遺跡」その他。

佐波甫

没年月日:1971/10/31

美術評論家、本名大沢武雄・早稲田大学教授は、3月に脳血栓で倒れ、8カ月の入院生活の後に10月31日死去した。享年69歳。明治34年11月29日東京に生れた。昭和5年早稲田大学フランス文学科卒業。実業之日本社に勤務する傍ら坂崎坦に師事してフランス17、18世紀美術を研究し、また佐波甫の筆名で美術評論活動に入る。以下の記録は朝日新聞社および美術研究所刊行の「日本美術年鑑」によるものである。おびただしい数になる展覧会批評は省略した。昭和10年、「現代美術を制約するもの」(アトリエ12-8)、「美術は如何に発展するか」(みづゑ369)、「美術批評に就て」(アトリエ12-10)、「本年の洋画壇と今後の方向」(美の国11-12)、「帝院改現と復古主義の前進」(アトリエ12-7)。昭和11年、「前衛絵画の二方向-立体主義より抽象主義へ」(美術11-5)、「フェルナン・レジェ」(みづゑ379)「市民的なプライド」(美術11-2)、「芸術精神の没落」(みづゑ381)、「日本画と近代精神-市民絵画の提唱」(美之国12-3)、「日本画を如何に考えるか」(みづゑ372)、「絵画に於ける」(みづゑ372)、「意識の絵画について」(みづゑ376)「名井万亀氏の作品」(アトリエ13-9)、「猪熊絃一郎と宮本三郎」(みづゑ374)、「岡田謙三」「三岸節子」「海老原喜之助」(以上、みづゑ378)、「二三の絵画現象に就て」(アトリエ13-2)、「若き作家諸君に与ふ」(美之国12-9)。昭和12年、「ヒューマニズムについて」(美之国13-1)、「日本古典への関心」(美術12-6)、「日本前衛派作家論」(アトリエ14-6)、「光風会の青年作家たち」(現代美術4-2)、「安井曾太郎の今日的意義」(みづゑ383)、「小磯良平を語る」(同391)、「北川民次君の印象」(同393)、「今日の諸問題」(アトリエ14-3)、「ジョルジュ・ブラック」(みづゑ384)、「ピカソ論、上・中・下」(同386、387、389)、「ジョルジュ・ルオー」(同387)。昭和13年、「作家と精神力」(アトリエ15-12)、「我が国芸術の調和的性格に就いて」(みづゑ396)、「絵画精神の再建」(同400)、「日本画の現段階に就て」(南画鑑賞7-12)、「統制と自由」(アトリエ15-2)、「シャルダン」(みづゑ397)、「マチャス・グリューネワルト」(同399)、「クラナッハと独逸的なもの」(同403)、「ドーミエを想ふ」(図406)。昭和14年、「歴史性へのめざめ」(美術14-8)、アラン「絵画論」(訳・みづゑ421)、「近代絵画の特質-10年間を回顧して」(美之国15-4)、「ドランについて」(みづゑ410)、「ポール・ゴーガン」(同414)、「ドカとロートレック」(アトリエ16-12)。昭和15年、「新体制下の美術批評について」(アトリエ17-2)、「吉岡堅二と上村松篁」(美之国16-3)、「コンラッド・メイリ」(みづゑ424)。昭和16年、「須田国太郎」(みづゑ437)、「堂本印象」(美之国17-1)、「宮本三郎」(みづゑ436)、「戦争美術の新しい創造」(帝大学生新聞7.14)。昭和17年、「大東亜共栄圏と日本画」(国画2-3)、「仏印より帰りて」(国画2-2)、「二・三の提案」(新美術9)、「仏印の印象-図画教育その他」(「造形教育8-2)。これらの論説は国際文化振興会より派遣されてインドシナ、中国各地の美術を視察したことを示している。昭和18、19、20年「山口蓬春」(画論22)、「仏印の絵画」(新美術23)、「大東亜戦争と芸術」(国画3-1)。戦後は日本美術会結成準備を手はじめに重要な諸作家の論評を進めたことが、つぎの諸論説より明らかである。昭和21年より25年、「荻須高穂カザ・ロッサ」(解説・美術手帖11)、「井上長三郎」(アトリエ訪問、美術手帖16)、「小野竹喬」(三彩14)、「菊地契月」(同33)、「鶴岡政男論」(みづゑ524)、「徳岡神泉論」(三彩8)、「靉光の芸術」(アトリエ267)、「松本竣介」(みづゑ519)、「泰西名画展の意義」(同500)、「ラウル・デュフィ」(アトリエ272)、「シャルダン」(みづゑ498)、「フランス初期画家達」(同502)、「セザンヌを想う」(BBBB5)、「我が前衛美術について」(アトリエ262)、この間に著書「裸体デッサン」(寺田政明と共著、大同出版社)「裸体絵画」(同左)がある。 昭和23年より向南高校で教鞭をとり評論活動を離れるようになる。25年早大第二政経学部、第二法学部の仏語講師、同28年文学部専任講師となり、西洋美術史と仏語を担当した。同29年より31年までフランスを中心にヨーロッパで美術研究を行う。31年文学部助教授、36年教授就任。この間に本名の大沢武雄の名で「セザンヌの不安」(早大文研紀要3)、「ビザンチンとルネサンスの空間」(同9)、「セザンヌの作品研究」(同13)、「ロマネスク芸術研究」(綜合世界文芸Ⅺ)、「世紀末芸術」(美術史研究5)、著書「西洋美術史」(造形社、昭和34年、46年に改訂版刊行)、G、ケペッシュ著「造形と科学の新しい風景」(美術出版社、昭和41年共訳)。昭和46年3月脳血栓で倒れ、8ケ月の入院生活ののち1月31日に死去した。恩師坂崎坦、森口多里、児島喜久雄、板垣鷹穂、外山卯三郎らの評論家に次ぐ世代に属し、戦前の前衛美術が許される時期に評論活動を始め、戦後の混乱期には、新しい作家の紹介を行った代表的な評論家の一人であった。

水野清一

没年月日:1971/05/25

文学博士、京都大学名誉教授水野清一は5月25日、肝硬変のため京大病院で死去した。享年66才。明治38年3月24日神戸市に生れた。昭和3年京都大学文学部史学科卒業。4年4月より6年まで北京留学。6年1月京都市東方文化研究所研究員。同所員として昭和11年ごろから20年まで中国の竜門石窟、大同、雲崗の発掘調査に従事した。23年京都大学人文科学研究所教授。26年雲崗石窟の研究で朝日賞、27年同研究で学士院恩賜賞を受賞。「仏教芸術」編集委員。43年京都大学停年退職。「響堂山石窟-河北河南省境における北斉時代の石窟寺院」(長広敏雄共著、京都、東方文化学院京都研究所 12年)、「竜門石窟の研究」(長広敏雄共著 京都、東方文化学院京都研究所 16年)、「雲崗石窟-西暦五世紀における中国北部仏教窟院の考古学的調査報告、東方文化研究所調査、昭和15年-20年、」(長広敏雄共著、京都、京都大学人文科学研究所 26-30年)など編著書論文の数は多い。詳しくは退官記念論文集「中国の仏教美術」(平凡社、43年)参照。

手塚又四郎

没年月日:1971/05/05

美術教育学の長老手塚又四郎は5月5日腎不全のため埼玉県浦和市の埼玉中央病院で死去した。享年69才であり、国際美術教育学会(INSEA)副会長、造形基礎研究所長、日本美術教育連合理事、大学美術教育会議議長、技術教育研究会長、京都教育大学および立正女子大学教授、日彫クラブ理事を兼務していた。明治36年4月24日栃木県今市市に生れる。大正12年東京青山師範学校卒。昭和3年東京高等師範学校卒、同年熊本第一師範学校教諭として美術科を担当。同8年埼玉師範学校教諭。この時期に、昭和5年より朝倉塾で研修しつつある彫塑芸術を美術教育にとり入れることを提唱したと自筆の調書にある。山形寛著「日本美術教育史」によると、それより以前に霜田静志の総合的な美術教育論が発表されており、手塚の提唱がどのような意義をもちえたかここでは確かめる余裕がないが、図画を中心とした従来の美術教育においては何らかの積極的な意味をもっていたであろうことは想像に難くない。また、文部省中等学校図画工作教科書執筆委員となる。16年東京市視学官となり図画、工作、工業を担当。21年2月東京高等師範学校教授となり、彫塑学科を創設。24年8月東京教育大学教授。27年4月山形大学教授。34年より42年京都学芸大特修美術科主任教授。昭和6年ごろより彫塑と同時に絵画の制作にも携わり、春陽会、独立展、聖徳太子奉讃展に出品。日展には彫塑を出品。この間、昭和11年には朝鮮、満州の美術視察旅行、30年、35年、39年には国際美術教育会議に日本代表として出席。38年には文部省教育職員養成審議会美術特別委員会主査なども勤めた。41年以後国際美術教育者連盟副会長。著書に「美術教育概論」(教育大学講座)金子書房、昭和25年。「新しい図画、工作」(小・中学校教科書)東京書籍、26年。「造形教育」岩崎書店、26年。「日本工作教育史」(日本教育文化史大学)金子書房、29年。「ヨーロッパの造形教育」えくらん社。「世界の美術教育」美術出版社、38年。「色彩の芸術」美術出版社33年。「バウハウスの造形基礎」「造形美術の基礎」。他に28年より日本彫塑家クラブ刊行の「彫塑」を編集した。

今村竜一

没年月日:1971/03/09

大阪市立美術館長今村竜一は3月9日、大阪市立大学付属病院で骨肉腫のため死去した。享年62才。明治41年5月13日兵庫県姫路市に生れた。姫路中学、姫路高校を卒業した。ついで昭和7年東京大学文学部美術史学科卒業後は副手として大学に残り、10年7月、東方文化学院に転職した。15年そこを退職して大倉集古館に勤務し、23年米軍第八軍横浜アーミー・エデュケイション・センターに転勤し、ついで24年10月大阪市工芸高等学校教諭と市立美術館嘱託とを兼ね、翌25年市立美術館学芸員となる。35年市立博物館創設事務室主幹となり、開館後はそこに勤務した。39年7月市立美術館長に就任し、現職中に死去した。専門は中国美術史であった。主な論文は次の通りである。「本邦古建築に於ける運材に就いて」(宝雲4)、「古建築の視覚形式に対する作家の営為に就いて」(同10)、「室町時代寺院建築年表1~3」(史跡と美術、28~30)、「鶴林寺本堂覚書1、2」(明照2-1、2合併号2-3)、「魏晉南北朝に於ける画家の師弟関係に就いて」(国華561)、「唐代に於ける絵画の鑒賞に就いて」(東方学報・東京2-1)、「支那上代散★画書攷」(国華554)、「尚書故実に就いて」(同579)、「張彦遠の絵画史観、上、下」(図、601、603)、「黄休復の画評」(画題、47)、「様式史書としての」(東方学報、東京9)。

榧本亀次郎

没年月日:1970/12/14

榧本亀次郎は、明治34年2月27日奈良市に生れた。東洋大学国語漢文科中退ののち、大正8年奈良女子高等師範学校図書館に、次いで大正13年東京帝室博物館歴史課に勤務した。同14年東京美術学校文庫係となり、昭和5年には朝鮮総督府学務局宗務課長、兼同総督府博物館勤務となり終戦時迄楽浪古墳、古蹟などの発掘に従事していた。終戦により奈良に戻り、22年奈良国立博物館に勤務、26年同考古室長、27年東京国立博物館有史室長、35年奈良国立文化財研究所歴史研究室長を歴任し、39年同研究所平城宮跡発掘調査部長となり41年定年退職した。

泉靖一

没年月日:1970/11/15

東大教授、東大東洋文化研究所々長泉靖一は、11月15日午後2時40分外出先で脳出血のため倒れ、東京都港区東洋病院で死去した。享年55歳。東京出身で、京城大学社会科を卒業した。戦後、明大を経て東大に入った。昭和39年東大教授となり、同45年1月東洋文化研究所長となった。南米アンデスのインカ研究は有名で、昭和35年から3回東大南米アンデス調査団長をつとめ、第2回東大アンデス地帯学術調査団長のとき、コトシュ遺跡を発見、無土器時代の神殿群として世界に話題をまいた。それにより同38年、ペルー政府から最高勲章「オルデン・ドスール」を受章している。文化人類学界の第一人者でその功績は大きく、日本人類学会評議員、日本民族学会理事をつとめる。著書に「インカ帝国」「フィールド・ノート」があり、後者は昭和43年第16回エッセイスト・クラブ賞を受けた。

安藤更生

没年月日:1970/10/26

早稲田大学文学部教授、本名正輝、10月26日、肺癌と尿毒症のため国立癌センターにて死去。享年70歳。明治33年、東京牛込に生まれ、大正2年、早稲田中学に入学、会津八一に師事し美術史を学び始む。大正11年、東京外国語学校仏語部を卒業、早稲田大学文学部仏文科に入学、生家を離れて一時、会津八一宅に居す。大正12年、会津八一と共に奈良美術研究会を創め日本美術史の本格的研究に専心、奈良飛鳥園に出居す。大正13年、学費に窮し早稲田大学を中退、出版業に従事しつつ論文を発表、昭和2年には飛鳥園より著書『三月堂』を刊行、継いで奈良に東洋美術研究会を創設し、同4年には雑誌『東洋美術』を発刊す。この年、飛鳥園より著書『美術史上の奈良博物館』を刊行、『東洋美術』4号に「興福寺の天龍八部衆と釈迦十大弟子像の伝来に就て」、『仏教美術』12号に「東大寺要録の醍醐寺本とその筆者に就いて」、昭和5年『歴史と国文学』に「国宝本東大寺要録の書入れに就いて」を発表。また、昭和6年には、春陽堂より著書『銀座細見』を刊行。この年、平凡社に入社、『大百科事典』の審査部員となる。昭和10年『漆と工芸』408号に「唐招提寺鑒眞和上像は夾紵像なり」を発表、同12年『東洋建築』1の3号に「唐招提寺御影堂の研究」、『くらしっく』6号に「唐招提寺御影堂創建に就ての試論」など唐招提寺関係の論文を発表している。昭和12年暮、新民印書館設立準備の業務を帯びて中国に渡り、時に、北支派遣軍に従軍、中国各地を歩き、古蹟保存に尽力、軍部を説き戦火を免しむることあり。昭和13年、新民印書館編集課長に就任、北京に居を定め、以後終戦にて帰国までの間、出版事業を通じて日中文化交流に務めると同時に、「北京人文学会」、「興亜宗教協会」、「北京文化協会」、「在華日本文化協会」、「中国文化振興会」などに参与または設立し、両国文化の相互理解に尽した。一方、昭和15年には、揚州に赴き、鑒眞の遺蹟を探り、以後毎年揚州を訪れ、鑒眞伝の研究に没頭し、昭和20年にはほぼ草稿成るも、敗戦による帰国に際し、一切の資料とともに没収される。 帰国後の昭和21年、早稲田大学講師となり、文学部にて美術史を講じ、学生の指導に当る一方、昭和25年日向考古調査、同28年熊野地方綜合調査、同31年より伊豆地方学術調査、高千穂・阿蘇地方調査と、戦後に行なわれた一連の地方史研究に積極的に参加す。この間、昭和21年には『学会』3の7号に「嶺南の鑒眞」、同22年に明和書院より著書『正倉院小史』、同24年『史観』32号に「日本上代に於ける年齢の数え方」、同26年『綜合世界文芸』3号に「唐の人物画家李湊と鑒眞和上との関係」、同27年『史観』37号に「日唐交通と江浙の港浦・海島」、『古代』7・8合併号に「洛陽大福先寺考」など鑒眞関係の論文を発表、昭和29年には「鑒眞大和上傳之研究」により文学博士となり、同30年、早稲田大学教授となる。その後、昭和33年には美術出版社より著書『鑒眞』を出版、続いて同35年に平凡社より博士論文「鑒眞大和上傳之研究」を印行した。また、近鉄叢書『唐招提寺』に「唐招提寺の建築」を執筆、同寺創建に一説を掲げた。続いて同36年には『大和文華』34号に「唐招提寺御影堂再考」を発表。さらに、昭和37年には数々の論文のなかから奈良関係のものを編んで『奈良美術研究』と題し出版した。この間、昭和33年に『芸術新潮』に発表した「白鳳時代は存在しない」は、後の白鳳論争となって世の注目を惹いた。一方、かねてより日本にある入定ミイラの研究に志し、昭和34年ようやく機を得て、新潟県西生寺の弘智法印のミイラを調査したのを契に翌35年には「出羽三山ミイラ学術調査団」を組織し団長となり、鶴岡市一帯にある鉄竜海、鉄門海、眞如海、忠海、円明海、などのミイラを調査、日本ミイラの科学的研究に着手した。続いて、茨城県妙法寺の舜義上人の調査、同26年には新潟県村上市観音寺の仏海上人の入定塚を発掘し、これらの成果を著書『日本のミイラ』にて広く世に紹介した。 昭和37年9月、早稲田大学海外研究員として西欧を旅行、パリのギメエ博物館、ローマの日本文化会館などで講演、同38年帰国、次いで同年9月には鑒眞和上円寂一千二百年記念訪中日本文化界代表団々長として中華人民共和国を訪問、北京、西安、南京、揚州、抗州、広州などを歴訪、鑒眞記念集会に出席。昭和40年には二玄社より著書『書豪会津八一』を出版、これは先師に関する多くの執筆のなかで唯一の単行本であり、『会津八一全集』の編輯とともに会津八一の紹介の一端である。この他、書道関係の著作も多く、昭和29年『今日の書道』(二玄社)、同31年『定本書道全集』(河出書房)などにも多くの執筆を見る。なかでも昭和37年『美術史研究』1号に掲載した「毛筆の発達と書画様式変化との関係について」は広く文房具と芸術様式との関係を究めるためのものであった。 晩年は多摩美術大学理事を兼任していたが、新聞、雑誌などに美術、書道、中国関係の論説、随筆を多く執筆している。なかでも昭和44年、二玄社より出版した『中国美術雑稿』と没後、中央公論美術出版社から刊行した『南都逍遙』は豊富な体験と愛情によって語られた美術談義である。

相内武千雄

没年月日:1970/08/25

慶応大学工学部教授相内武千雄は、8月25日午後7時脳いっ血のため横浜国立病院で死去した。享年64歳。明治39年2月青森県南部郡に生れ、昭和3年慶応大学文学部哲学科を卒業した。同年母校文学部助手となり、同7年同校予科教員、同12年同予科教授になり、昭和24年同工学部教授となった。この間、昭和34・10月から9ヶ月に亘り欧米に遊学した。主な著作次の通り。昭和5年 レオナルドの寺院構想 史学 第9巻第3号昭和16年 Cappella dei Pazzi 三田文学 第16第10号昭和17年 遺稿編について 三田文学 第17第11号昭和26年 Palzzo Pitti その原作者の問題について 芸文研究 1昭和29年 クロピウスと現代建築 三田評論 第562号昭和30年 相内図絵(青森) 三田評論 第566号昭和33年 ブルネレスキの穹窿 芸文研究 8昭和33年 世界名画全集図版解説 3 河出書房昭和33年 世界名画全集図版解説 5 河出書房昭和33年 世界名画全集図版解説 6 河出書房昭和33年 世界名画全集図版解説 8 河出書房昭和33年 世界名画全集図版解説 9 河出書房昭和36年 クイリナーレ広場にて 三田評論 第596号昭和36年 クリスマスの一夜 三色旗 第156号昭和36年 再びPalazzo Pittiについて 芸文研究 11昭和38年 沢木四方吉先生 三田評論 第611号昭和38年 ギリシヤの神々と神像 古美術 3昭和39年 エトルリアの首 古美術 6昭和41年 オリユンピアのフエデイアス工房遺跡の発掘 史学第40第4号昭和41年 すぽっと・小さな助言 慶應義塾大学報 1昭和42年 春の奈良見学 塾 22昭和43年 若き日の山脈 塾 29昭和43年 ユーモアを解した正義の人田中吟竜君の面影 三田評論 第674号昭和45年 窓(体育研究所長に就任した辰沼広吉君) 塾 45昭和45年 新アテッカ派のステーレ・ヘラクレーズ 古美術 31昭和46年 狐とスキー(遺稿) 塾 45昭和46年 犬も歩けば棒にあたる(遺稿) 三田評論 第701号

相見香雨

没年月日:1970/06/28

美術史家相見香雨は6月28日老衰のため東京都滝野川の自宅で逝去した。享年97。相見香雨(本名・繁一)は、明治7年12月1日島根県松江市で生れた。松江中学卒業ののち早大の前身東京専門学校に学び、卒業後松江新報の編集に従事した。明治40年、大村西厓のもとで東洋美術大観の仕事を手助けし古美術研究に入った。明治43~大正元年ロンドン、パリに滞在。帰国後大正元年から審美書院の事実上の責任者となって「群芳清玩」その他の刊行に当った。その後、「精芸出版」社の仕事を担当「柳営墨宝」などを出版した。昭和元年日本美術協会に入り、同会のため美術品の収録作業に従事した。戦後は、27年文化財保護委員会美術工芸部門の専門審議会委員に就任、36年、美術史学における研究における功績に対し紫綬褒章を授与された。著述目録(図録・単行本)○群芳清玩 10冊 芸海社 大正元11~10、11○池大雅 1冊 美術叢書刊行会(東京) 大5、8○浅野侯爵家宝絵譜 1冊 芸海社(東京) 大6、2○好古堂一家言 1冊(帙入) 大8、12○雲州餘彩 上・下 2冊(帙入) 芸海社 大11、2○木内翁小伝 1冊 木内翁記念会 大11、11○柳営墨宝 1冊(帙入) 精芸出版(東京) 大11、12○日本古画大鑑 前編、後編 各2冊(帙入) 美術社刊(東京) 昭2年秋と3年夏○抱一上人 1冊 美術協会報告6、抱一百年忌特集、昭2、11。○宋元名画集 2部 聚楽社(東京) 昭7、1、以降○罹災美術品目録 1冊 国華倶楽部、昭8、8○渡辺崋山 寓画堂日記 1冊 観文楼叢刊第一。昭8、11○光悦・松花堂1冊「宗達と光琳」アトリエ社。昭14前後○文晁 アトリエ社。昭14前後○光琳 みすず書房。昭33、6、

村田良策

没年月日:1970/01/11

東京芸大名誉教授村田良策は、1月11日脳出血のため神奈川県鎌倉市の自宅で逝去した。74歳。村田良策は、明治28年1月15日栃木県佐野市に生れた。大正8年東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業、昭和10年迄、法政大学、東洋大学の教授をつとめ、昭和8年~15年まで文部省社会教育局嘱託講師をした。昭和18年東京美術大学教授となり、同24年には東京美術学校長兼新制東京芸術大学美術学部長となった。同27年には、神奈川県立鎌倉近代美術館初代館長に就任、同37年東京芸術大学名誉教授となり定年退官した。同41~44年にわたり神奈川県立博物館初代館長をつとめた。同42年には文化勲章選考委員になり、同43年美学美術教育に尽くし、美術館の運営指導、美術界の発展に寄与した功績で勲三等旭日中授章を受けた。

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