本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





元井能

没年月日:1989/03/28

京都市美術館長、京都市立芸術大学名誉教授の元井能は、3月28日午前5時38分、急性心筋こうそくのため京都府長岡京市の済生会京都府病院で死去した。享年69。大正9(1920)年1月5日、京都市上京区に生まれる。昭和17(1942)年、大阪外国語学校仏語部を卒業し、同21年4月京都大学文学部に入学。美学美術史学を専攻し同24年同大学を卒業して同大学院に進学する。同32年より京都市立美術大学講師として教鞭をとり、38年同助教授となる。同45年、前年に京都市立芸術大学と改称した同大学教授となって、同60年停年退職するまで長く後進の指導に当たる。停年後は、京都市美術館館長をつとめたほか、京都国立近代美術館評議員、文化庁文化財保護審議会専門委員でもあった。工芸史、特に染織、服飾を専攻し、著書に『西洋被服文化史』『日本被服文化史』『彦根更紗』『フランス装飾裂』、共著に『芸術的世界の論理』『インドネシヤ染織』などがある。

小林行雄

没年月日:1989/02/02

京都大学名誉教授の考古学者小林行雄は、2月2日結腸がんのため京都市左京区の吉川病院で死去した。享年77。古鏡研究の権威として知られ、考古学における弥生時代の学問的基礎を確立し、古墳時代研究の基礎を築いた小林行雄は、明治44(1911)年8月神戸市に生まれた。昭和7年神戸高等工業学校建築科(現神戸大工学部)を卒業。在学中から考古学に強く関心をもち、卒業後も独自の調査と研究を進め、京都大学考古学講座の浜田耕作教授に発表論文を認められ、同10年同大学考古学教室の助手に任用された。同14年、『弥生式土器聚成図録』を刊行、膨大な資料を整理、体系化する学問的方法論によった同書で、弥生文化研究の基礎を確立した。同年、田村実造の下で内蒙古ワールインマンハで遼の三皇帝陵『慶陵』の調査に従事し、その報告書『慶陵』で昭和28年度朝日賞、翌29年日本学士院賞恩賜賞を受賞した。同30年、古墳に埋葬された同范鏡、とくに全国から出土する三角縁神獣鏡の分布整理により、古墳の成立、発展を具体的に実証し、古墳時代初めに既に畿内を中心とした広範な政治体制が成立していたことを解明した。この学説は、その後の邪馬台国論争において、邪馬台国畿内説の最大の論拠として用いられた。京都大学では、長く講師の職におり、退官前年の昭和49年教授となった。また、文化財保護審議会専門委員(考古部会長)などを歴任する。著書は他に、『図説考古学辞典』(共著)、『日本考古学概説』など多数がある。

小野勝年

没年月日:1988/12/20

文学博士、元奈良国立博物館学芸課長、元竜谷大学教授の小野勝年は12月20日午後9時45分、急性心不全のため奈良市高畑本薬師寺町626の自宅で死去した。享年83。明治38(1905)年12月1日、長野県上伊那郡辰野町大字小野に生れる。県立松本中学校、松本高等学校を経て、昭和2年に京都帝国大学文学部史学科に入学、この後病気の為2年間休学し昭和8年論文「両税制度の一考察」を提出し卒業。同年京都帝国大学大学院に入学、研究テーマを支那中世文化に据え、同年より昭和18年5月まで同大学文学部副手を務めた。この間昭和12年10月より、同15年3月まで、外務省在支特別研究員として中国に留学し、華中・華北・東北・蒙古等の史蹟の調査を行い、中国美術・考古の研究を進め、その後も昭和20年6月の現地召集まで華北交通株式会社嘱託や華北綜合調査研究所員として中国史蹟の調査・研究を継続した。 戦後は一時、郷里長野県の日野青年学校教官、日野中等学校教諭を務め、昭和23年8月から昭和42年3月の退官に至るまで奈良国立博物館で過した。奈良国立博物館においては昭和27年8月に学芸課工芸室長兼資料室長となり、昭和36年4月に学芸課考古室長、昭和39年9月より学芸課長を任ぜられ、考古室長事務取扱を兼務した。この奈良博時代には、研究の関心が中国と日本の接点にまで拡げられ、円仁を中心とする入唐僧の研究を中心に成果が発表された。この間、昭和18年に村田治郎(『日本美術年鑑昭和61年版』参照)を隊長として行なわれた北京郊外の居庸関雲台保存調査の結果である『居庸関』(京都大学工学部)の「第5章雲台浮彫細部の意匠」を担当し、『居庸関』に対して昭和34年5月に学士院賞を受け、昭和37年3月には京都大学より『円仁入唐求法の研究』によって文学博士の学位が授与された。そして奈良博時代の締め括りとして、昭和41年に中心となって担当した「大陸伝来仏教美術展」は大きな反響を呼んだ。 奈良博退官後、昭和42年4月から昭和55年3月に至るまでは龍谷大学及び大学院で東洋史学、博物館学とその実習の指導に当った。後進の教育には、奈良博時代より力を尽し、奈良女子大学・京都大学・京都大学大学院・関西大学・関西大学大学院・京都女子大学・大阪大学・大阪学芸大学・奈良教育大学・愛知学院大学・追手門学院大学・大阪女子大学など多くの大学・大学院で東洋文化史・博物館学を講じた。また、昭和36年から奈良県文化財保護審議会委員などを務め、文化財保護行政にも貢献した。これらの業績に対して、昭和51年11月には勲四等旭日小授章を授与され、没後の平成元年1月には正五位に叙せられた。 研究業績は多く、先に述べた分野の他、書道史・芸能史・工芸史・考古学にまで及んでいる。以下、主要な著書・編書をあげておく。○『北支那に於ける古蹟・古物の概況』(共著) 興亜宗教協会刊 昭和16年3月○『五台山』(共著) 座右宝刊行会刊 17年10月○『蒙疆陽高縣漢墓調査略報-蒙疆陽高縣古城堡漢墓調査略報-』(共著) 大和書院刊 18年11月○『金城堡-山西臨汾金城堡史前遺蹟-』 北京華北綜合調査研究所刊 20年6月○『蒙疆考古記』(共著) 学芸社星野書店刊 21年11月○『法隆寺の壁畫とその模写事業』 国立博物館奈良分館刊 24年9月○『下高井-下高井地方の考古学的調査-』 長野県教育委員会刊 28年12月○『高句麗の壁畫』(『中国の名画』) 平凡社刊 32年6月○『世界美術全集』第15巻中国4隋・唐 角川書店刊 36年11月○『入唐求法巡札行記の研究』第1巻~第4巻 鈴木学術財団刊 39年~44年○『請来美術』 奈良国立博物館刊 42年11月○『石像美術』(『日本の美術』第45号) 至文堂刊 45年2月○『慶州と奈良』 奈良市刊 45年4月○『阿倍仲麻呂とその時代-日中友好の先覚者-』 奈良市刊 53年10月○『龍門二十品』(『書迹名品集成』第4巻) 同朋舎刊 56年7月○『褚遂良・雁塔聖教序』(『書迹名品集成』第7巻) 同朋舎刊 56年7月○『入唐求法行歴の研究-智證大師円珍篇-』上・下巻 法蔵館刊 57年○『中国隋唐長安寺院史料集成』 平成元年2月尚、詳細な業績等に関しては、喜寿を機に編まれた『小野勝年博士頌寿記念東方学論集』を参考にされたい。

森蘊

没年月日:1988/12/14

庭園文化研究所長、元奈良国立文化財研究所建造物研究室長森蘊は、12月14日午後10時48分、急性ジン不全のため奈良県天理市の天理よろづ相談所病院で死去した。享年83。数年前に軽い脳梗塞で倒れ、回復後、この3月に再び倒れていた。明治38(1905)年8月8日、東京都立川市に生まれる。一高卒業後、昭和7年東京帝国大学農学部林学科を卒業し、同大学院に進学、9年修了する。この間、昭和8年5月内務省衛生局嘱託となり、13年1月より厚生省体力局施設課に勤務、国立公園を担当するこの部局で、庭園などにも関する実務の基礎を築く。また昭和7年頃より京都、鎌倉、平泉などの庭園や遺跡を調査し、昭和13年「京都に残る平安期の庭園遺跡を訪ねて」(『庭園』20-3)、「枯山水」(『宝雲』23)を発表。14年1月発足した『建築史』に同人として参加し、「法金剛院の庭園について」(第1巻1号、2号)をはじめ、19年の終刊まで執筆を続ける。また14年「平安時代前期庭園に関する研究」(『建築学会論文集』13、14)、14~16年「泉殿、釣殿の研究1~3」(『宝雲』)など、建築と一体化した庭園史研究を進める。16年厚生省から転じて東京市技師となり、19年井之頭公園自然文化園園長に就任。20年1月には海軍技師となり、ボルネオ民政部員として南ボルネオ地方の原始住居や農業園芸などの調査にあたる。21年5月復員後東京都の農事試験場に勤務。22年5月より一時東京植木株式会社に研究部長として勤めたのち、同年8月国立博物館嘱託となり、修理課で文化財保護に携る。25年文化財保護法成立により文化財保護委員会が設立され、修理課は同委員会の建造物課となった。この間、20年7月戦前の庭園研究の集大成として『平安時代庭園の研究』を刊行。戦後は桂離宮の研究に取り組み、25年「桂離宮古書院について」(『建築史研究』3)、26年「桂離宮古図について」(同8)、26年『桂離宮』(創元選書)などを発表する。27年奈良国立文化財研究所が新設され、建造物研究室の初代室長に就任。奈良に移って以後、桂離宮、修学院離宮のより精密な研究を進め、29年『修学院離宮の復元的研究』(奈文研学報第2冊)、30年「修学院離宮造営に利用された建物と地形について」(『文化史論叢』奈文研学報第3冊)を発表、両離宮の研究により、29年東京工業大学より工学博士号を授与され、34年には日本建築学会賞を受賞した。その後も庭園と建築を一体化させた研究を進め、旧興福寺大乗院についてまとめた34年『中世庭園文化史』(奈文研学報第6冊)、37年『寝殿造系庭園の立地的考察』(同学報第13冊)、近世庭園についても41年『小堀遠州の作事』(同学報第18冊)などを著す。42年奈良国立文化財研究所を退官したのち、京都市に庭園文化研究所を設立。浄瑠璃寺、忍辱山円成寺、法金剛院、白水阿弥陀堂、平泉毛通寺、和歌山城紅葉溪などの庭園を発掘、復元したほか、唐招提寺、薬師寺などの庭園の設計も行なった。49年『庭ひとすじ』で毎日文化賞を受賞し、このほか46年『奈良を測る』、61年『作庭記の世界』などを刊行している。

藤岡通夫

没年月日:1988/11/19

日本近世建築史の調査研究および復元、保存に尽力した建築家、建築史学者の藤岡通夫は、11月19日午後7時40分、胃がんのため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年80。明治41(1908)年7月31日、東京都文京区に生まれる。父は美術史家の藤岡作太郎。昭和7(1932)年東京工業大学建築学科を卒業して同科助手、14年同助教授となる。戦中、東南アジアを訪れて建築を調査し、18年に『アンコール・ワット』(彰国社)『アンコール遺跡』(三省堂)を刊行。24年、東京工業大学に「天守閣建築の研究」を提出して博士号を受ける。戦後は、26年東京工業大学教授となり教鞭をとる一方、文化財保護委員となり、城郭、遺構研究の蓄積をもとに和歌山城(33年)、小田原城(35年)、熊本城(35年、56年)ほかの外観復元を行なうなど建造文化財の保護に尽力する。研究分野では、京都御所の調査を中心に近世の内裏建築、近世住宅史研究に取り組み、『京都御所』(彰国社、31年、新訂版、中央公論美術出版、62年)、『角屋』(彰国社、30年)、『三溪園』(三溪園事務所、33年)、『桂離宮』(美術文化シリーズ、中央公論美術出版、40年)などを刊行する。東京工業大学を停年退官して同校名誉教授となるとともに日本工業大学建築学科で教鞭をとり、のち同学学長をつとめた。この時期には、ネパール王宮建築を主要な研究対象とした。自ら設計も行ない、昭和33年以降建造文化財の復元、保存に主にたずさわる以前は、東京都内を中心に寺院建築の設計を手がけている。東京都文京区本郷真浄寺本堂は、平屋根、椅子式の合理的寺院建築の先駆的な例として注目される。(詳細な業績・著作目録は1989年9月刊『建築史学』13号に掲載されている。)

片山行雄

没年月日:1988/09/18

元京都教育大学教授で嵯峨美術短期大学の学長をつとめた工芸史家片山行雄は、9月18日午後零時15分、すい臓がんのため京都市左京区の京大付属病院で死去した。享年79。明治41(1908)年10月12日、三重県三重郡に生まれる。旧姓訓覇。昭和2(1927)年京都市立美術工芸学校を卒業。8年東京美術学校図案科を卒業し、同年森永製果広告課に入社する。14年京都市立美術工芸学校教員となる。22年より京都市立美術専門学校で教鞭をとり同校教授となるが、24年より京都市工芸指導所に勤務する。38年同指導所を退職。翌39年浪速短期大学教授、42年京都教育大学教授となる。47年京都教育大学を停年退官し、同年より嵯峨美術短期大学教授となり、60年より同学学長をつとめた。工芸学、工芸史およびデザイン史を専門とし、長く美術教育に尽力した。京都市円山公園水飲所デザイン等、制作にも従事している。

和田新

没年月日:1988/04/05

日本美術家連盟相談役で美術家の国際交流に貢献した和田新は、4月5日午前4時10分、肺炎のため東京都三鷹市の杏林病院で死去した。享年88。明治32(1899)年5月7日大阪市浪華女学校内の主幹住宅に、牧師の青山彦太郎の長男として生まれる。45年単身上京し、母の兄和田英作宅に寓居、明治学院普通部を経て東京美術学校西洋画科に入学し、大正13(1924)年同科を卒業する。昭和2年1月より現在の東京国立文化財研究所の前身である帝国美術院附属美術研究所設立準備事業にたずさわる。4年、東京美術学校助教授となり西洋美術史を講ずる。同年より翌年にかけ文部省の派遣により西アジア美術史研究のため欧州、イラン、イラク等を巡遊する。5年帝国美術院附属美術研究所嘱託となる。10年5月東京美術学校教授となるが同8月依願退官。この年青山家より和田家へ転籍する。12年帝国美術院附属美術研究所所員となり、17年退官。22年日本博物館協会幹事となる。26年日本美術家連盟事務局長となり46年まで長きにわたり美術家の国際交流に尽くし、46年以後も同連盟相談役をつとめる。また、46年よりほぼ毎年油絵個展を開催した。著書に『イーラーン芸術遺跡』(昭和20年、美術書院)などがある。

佐々木信三郎

没年月日:1988/03/24

古代織物研究家で正倉院古裂調査研究員をつとめた佐々木信三郎は、3月24日午後3時59分、老衰のため京都市右京区の双ケ丘病院で死去した。享年89。明治31(1898)年5月10日京都市上京区に生まれる。東山中学校を卒業して第三高等学校理科甲類に学び、昭和4(1929)年京都大学文学部史学科を卒業。考古学を専攻する。西陣織物同業組合西陣史編纂室に入り、7年上代からの流れを追った労作『西陣史』を刊行する。15年より川島織物研究所研究員となり、50年まで同所で古代裂の研究に従事した。また、28年宮内庁嘱託古裂調査員となり29年より45年まで正倉院古裂調査研究員として正倉院御物の研究に従事するほか、華頂短期大学家政学科で日本服飾史を講じた。著書に『西陣史』のほか『日本上代織技の研究』(昭和26年)、『上代綾に見る斜子技法』(33年)、『神護寺経帙錦綾私見』(同年)、『羅技私考』(35年)、『正倉院の羅』(46年)、『上代錦綾特異技法攷』(48年)などがある。51年京都新聞社文化賞を受賞している。

佐藤雅彦

没年月日:1988/03/23

京都市立芸術大学学長、北海道立近代美術館館長をつとめた美術史家佐藤雅彦は、3月23日午後7時40分、脳出血のため京都市東山区の京都第一赤十字病院で死去した。享年62。大正14(1925)年10月10日、東京都品川区に生まれる。昭和25(1950)年慶応義塾大学文学部美学美術史科を卒業。翌26年大阪市立美術館に入り東洋美術史を研究する。47年より京都市立芸術大学美術学部教授となり、55年より58年まで同大学学長をつとめる。北海道立近代美術館館長でもあった。西アジアの伝統工芸、中国、日本の陶磁史を専門とし、著書に『中国の土偶』『中国陶磁史』『やきもの入門』『中国やきもの案内』『京焼』『乾山』『白磁』『中国の陶磁』、共著に『漢代の美術』『六朝の美術』『隋唐の美術』などがある。

梅津次郎

没年月日:1988/02/21

日本の絵巻物研究の基礎を築く優れた多くの業績を残した、元文化財保護審議会専門委員、元京都国立博物館学芸課長、文学博士、梅津次郎は、2月21日午後10時32分、呼吸不全のため京都市東山区の洛東病院で死去した。享年81。 明治39(1906)年10月19日、三重県宇治山田市に生れた。昭和7(1932)年、東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業、同10年5月から21年3月まで帝国美術院付属美術研究所(現東京国立文化財研究所美術部)嘱託として日本古代中世絵画史研究に従事し、21年4月からは、当時は恩賜京都博物館と称した京都国立博物館に勤務し、同43年3月、学芸課長として定年退官した。退官後は、同年4月から大谷大学講師、奈良国立文化財研究所調査員を兼ねる一方、同年8月から62年3月まで文化財保護審議会専門委員をつとめた。 生涯を通じて追求した主題は絵巻物研究であった。「実証的な基礎に立たない発言は殆ど無意味である。啓示もそこから生れる。」という姿勢に貫かれた研究からは絵巻の絵と詞に関する異本との詳細な校合が行なわれ、多くの作品が日本絵画史の上に新たに意義づけられていった。研究活動の後半は、絵巻物を説話画の一形態と認識する視点から研究を続けたが、実証的研究を標榜した研究成果は鋭い感性と鑑識に支えられていた。絵巻物研究の水準のみか日本絵画史研究の水準を引上げた目覚しい研究業績の中から定期刊行物所載の論考を中心に発表順に次に記す。新名所絵歌合攷(美術研究29、昭和9年5月)男衾三郎絵詞(美術研究38、10年3月)天狗草紙考察(美術研究50、11年2月)池田家蔵弘法大師伝絵と高祖大師秘密縁起(美術研究78、13年6月)地蔵院本高野大師行状図画-六巻本と元応本との関係(美術研究83、13年11月)東寺本弘法大師絵伝の成立(美術研究84、13年12月)能恵法師絵詞について(美術研究104、15年8月)光明真言功徳絵詞(美術研究112、16年4月)伊保庄本並に津田本天神縁起絵巻に関して(美術研究114、16年6月)魔仏一如絵詞考(美術研究123、17年3月)天神縁起絵巻-津田本と光信本-(美術研究126、17年9月)帝室博物館蔵地蔵縁起絵巻考(美術研究131、18年4月)隨身庭騎絵巻雑記(美術研究136、19年5月)法然寺蔵地蔵縁起絵巻について(美術研究143、22年9月)是害坊絵巻の変遷、上・下(国華、675、676、23年6月、7月)義湘・元曉絵の成立(美術研究149、23年8月)池大雅筆楡枋園図(国華685、24年4月)秋夜長物語(国華687、24年6月)熊野影向図(国華701、25年8月)石清水八幡宮曼荼羅・八幡若宮像(国華704、25年11月)新出の法然上人伝法絵について(国華705、25年12月)善妙神像讃(大和文華1、26年3月)滝口縁起絵(国華718、27年1月)石山寺縁起絵考(美術史6、27年7月)八幡縁起絵巻(国華740、28年11月)後土御門天皇宸賛の墨画庚申図に就て(国華743、29年2月)フリア画廊の地蔵験記絵と探幽縮図(大和文華13、29年3月)大和絵(平凡社「世界美術全集」15、29年8月)高野大師行状絵の零巻について(国華752、29年11月)鎌倉時代大和絵肖像画の系譜-俗人像と僧侶像-(仏教芸術23、29年12月)五趣生死輪図に就いて-絵解の絵画史的考察その一-(美術史15・16、30年4月)「子とろ子とろ」の古図-法然寺蔵地蔵験記絵巻補記(ミュージアム50、30年5月)志度寺絵縁起に就いて(国華760、30年7月)変の変文-絵解の絵画史的考察その二-(国華760、30年7月)有馬温泉寺絵縁起に就いて(大和文華17、30年9月)謝蕪村筆桃源行図(国華771、31年6月)正嘉本天縁神起絵巻について-その出現並びに弘安本との関係-(国華779、32年2月)平安時代の美術(京都国立博物館特別展目録)(32年10月)徳川美術館の掃墨絵について(大和文華25、33年3月)鳥の物語絵巻断簡(国華793、33年4月)初期融通念仏縁起絵について(仏教芸術37、33年12月)東大寺本善財童子絵巻私考(大和文華29、34年4月)天理本源氏物語絵巻について(ビブリア14、34年6月)伝光信筆平家物語絵巻(美術史35、35年2月)日本の説話画(京都国立博物館特別展目録)(35年5月)華厳入法界品善財参問変相経(大和文化研究31、35年11月)矢田地蔵縁起絵の諸相(美術史39、36年1月)硯破絵巻その他-「小絵」の問題-(国華828、36年3月)瓜子姫絵巻の断簡(ミュージアム125、36年8月)版本の絵巻物-融通念仏縁起と高野大師行状図画-(講談社「日本版画美術全集」1、36年9月)粉河寺縁起絵と吉備大臣入唐絵(角川書店「日本絵巻物全集」5、38年8月)絵巻物残欠愛惜の譜(日本美術工芸316~334、40年1月~41年7月)吉備大臣をめぐる覚え書-若狭所伝の三つの絵巻-(美術研究235、40年3月)弘法大師行状絵巻の系譜(日本美術工芸319、40年4月)藤原兼経像(国華884、40年11月)上野家の法華経冊子について(大和文華44、41年1月)常謹撰「地蔵菩薩応験記」(大和文化研究101、41年9月)長谷雄双紙(角川書店「日本絵巻物全集」18、43年7月)十二類合戦絵巻(角川書店「日本絵巻物全集」18、43年7月)福富草紙(角川書店「日本絵巻物全集」18、43年7月)絵と絵詞(文学42-3、49年3月)山王霊験記絵巻雑記(国華984、50年9月)なお、これらの論考の大半は、『絵巻物叢考』(43年6月、中央公論美術出版)、『絵巻残欠の譜』(45年1月、角川書店)、『絵巻物叢誌』(47年2月、法蔵館)に収められている。

吉澤忠

没年月日:1988/01/12

美術史家で、元東京芸術大学教授、国華編輯委員、文化財保護審議会専門委員の吉澤忠は1月12日、心不全のため横浜市西区東ケ丘の自宅において死去。享年78。明治42(1909)年6月15日、東京の医師の家に生れた。幼児の頃隣家に住していた板谷波山に可愛がられ、後年『板谷波山伝』等波山に関する著作があるのもそうした縁による。浦和高等学校から東京帝国大学文学部美術史学科に入学、同大学院へ進み、昭和8年同研究室副手となる。大学では瀧精一の下で中国美術を専攻。昭和10年文部省重要美術品等鑑査事務嘱託、昭和16年東方文化学院研究員嘱託を経て昭和21年文部省重要美術品等調査嘱託となった後、東京国立博物館嘱託から同23年文部技官として同館に勤務。しかし、同館の民主化運動の推進者としての活動が起因となり翌24年に依頼免官となった。この時同じく退職した藤田経世等と文化史懇談会を創設した。この会の成果のひとつとして、『日本美術史叢書』(東京大学出版会)があげられるが、自身は『渡辺崋山』を執筆している。 昭和27年より多摩美術大学講師として教鞭をとる一方、昭和33年9月より国華編輯委員として古美術研究誌「国華」の編輯に参加。爾来没するまで、南画を中心として30余の論文を発表し、170点余の作品を紹介している。昭和38年には東京芸術大学講師となり、同52年の退官まで同大で教鞭をとる(同40年助教授、同42年教授)。同61年には同大名誉教授に推された。 その研究領域は昭和17年「国華」に発表した「南画と文人画」以後、主として日本の南画にしぼられ、南画を体系的に把握し、日本南画研究の骨格をつくった業績は高く評価される。その研究の大要は『日本南画論攷』によって窺うことができるが、自己の仕事をふりかえりみて述べたその後書きでもわかるように、一貫して画も思想であるという観点に立ち、画家の生き方と画との関連を追求するものであった。 またその関心はいわゆる古美術にとどまらず、近現代の美術に及んで『横山大観』等を著し靉光を語り、昭和24年制定された文化財保護法をはじめとする文化財行政にも強い関心をもち「明治・大正時代と現代との古美術評価の変化」等の論文を著わすとともに、日本の現代美術の舌峰鋭い批判者でもあった。こうした研究上の課題や関心は、すでに昭和29年に刊行された『古美術と現代』において鮮明に語られており、上記の仕事が一貫して美術と人間と社会をめぐる問題意識のもとに展開されたものであることが理解される。同時に本書で示されている美術史家・作家の姿勢、伝統と創造、美術行政などについてのするどい指摘はいまなお古びていない。 病躯をおして「国華」百年の論文に目を通し、選択し編んだ『国華論攷精選』が、最後の仕事となった。 主な著作・論文等南画と文人画 国華 622、624~626 昭和17年9月、昭和18年1月美術界の封建性 日本評論 21-12 昭和21年12月参議院文化財保護法批判 日本歴史 19 昭和24年9月田能村竹田の敗北 国華 696~699 昭和25年3月、昭和25年6月浦上玉堂筆東雲篩雪図 国華 706 昭和26年1月崋山-特にその描線について- 美術史 9 昭和28年6月古美術と現代 昭和29年8月崋山の周囲と大鹽事件 上、下 国華 765、766 昭和30年11月、12月渡辺崋山 日本美術史叢書 昭和31年11月大雅 日本の名画 昭和32年3月池大雅画譜 第1-5輯(編集、図版解説) 昭和32年2月、昭和34年5月横山大観-日本近代画のたたかい- 美術出版社 昭和33年9月関西の南画と江戸の南画 萌春 61 昭和33年11月大雅二十代の作品-年記のある作品を中心に- 美術研究 201 昭和34年3月池大雅における様式転換-二十代・三十代の作品を中心に- 国華 811 昭和34年10月渡辺崋山筆 一掃百態図について 国華 812 昭和34年11月彭城百川筆陶原家の襖絵について 国華 619 昭和35年12月浦上玉堂筆煙霞帖について 国華 830 昭和36年5月大雅伝説の信憑性 国華 836 昭和36年11月横山大観 日本近代絵画全集 15 昭和37年8月菱田春草 日本近代絵画全集 16 昭和38年6月崋山の田原塾居とヒポクラテス像 国華 873 昭和39年10月彭城百川筆秋山風雨図 国華 882 昭和40年9月板谷波山伝 昭和42年大雅・蕪村と十便十宜画冊 十便十宜画冊(解説) 昭和45年5月日本美術史(編集分担執筆) 昭和45年横山大観の人と芸術 重要文化財「生々流転」(複製)解説 昭和46年11月明治・大正時代と現代との古美術品評価の変化 国華 949 昭和47年8月池大雅 ブック・オブ・ブックス日本の美術 26 昭和48年3月立原杏所筆葡萄図 国華 967 昭和49年4月放蕩無頼の絵画-日本南画の主流として- 文学 42-10 昭和49年10月如意道人蒐集画帖について 国華 975 昭和49年11月玉堂・木米・米山人 水墨美術大系 13 昭和50年3月総論、南画の先駆者 水墨美術大系 別巻1 昭和51年3月久隅守景筆夕顔棚納涼図再論 国華 1004 昭和52年9月池大雅筆遍照光院襖絵-特にその制作年代を中心にして- 国華 1007 昭和52年12月浦上玉堂画譜 第1-3輯(編集、図版解説) 昭和52年12月、昭和54年日本南画論攷 昭和52年8月岡田米山人の人と作品 文人画粋編 15 昭和53年3月山水図屏風序説 日本屏風絵集成 2 昭和53年3月序説-近代日本画の展開 日本屏風絵集成 17 昭和54年2月与謝蕪村筆夜色楼台図について 国華 1026 昭和54年8月南画屏風論-大雅・蕪村を中心に 日本屏風絵集成 3 昭和54年11月与謝蕪村 日本美術絵画全集 19 昭和55年4月与謝蕪村筆紅白梅図屏風について 国華 1044 昭和56年8月与謝蕪村の若描きについて-弘経寺墨梅図襖絵にふれながら- 国華 1054 昭和57年8月浦上玉堂筆 圏中書画組合について 国華 1066 昭和58年9月円山応挙筆四季遊楽図巻下絵について 国華 1081 昭和60年3月岡田米山人筆 福寿草図 国華 1091 昭和61年2月久隅守景筆四季山水図屏風について 国華 1095 昭和61年7月同じ図のある池大雅筆蘭亭曲水屏風について 国華 1096 昭和61年8月青木木米筆薦寿南星図扇面を中心にして 国華 1107 昭和62年9月日本の南画 挿花清賞 昭和63年2月

毛利久

没年月日:1987/09/10

文学博士、元奈良大学教授、文化財保護審議会専門委員、京都国立博物館名誉館員の毛利久は9月10日午前9時14分、脳動脈硬化症のため自宅で死去。享年70。大正5年10月4日、愛媛県宇和島市笹町に生れる。昭和13年京都帝国大学文学部史学科に入学、国史を専攻し、16年、論文「飛鳥寧楽時代仏教彫塑の研究」を提出し卒業。同年京都帝国大学大学院に入学、日本美術考古学を研究するとともに、京都府寺院重宝臨時調査事務の嘱託となる。22年京都帝国大学大学院を退学、恩賜京都博物館鑑査員補、24年同鑑査員となる。27年京都国立博物館学芸課資料室長、37年美術室長を経て、42年神戸大学文学部教授に転任する。48年から50年まで文学部長を務め、55年停年退官の後、奈良大学文学部教授に迎えられる。 日本仏教彫刻史を専門とし、実証的な作品研究と緻密な文献考証により、仏像はもちろん肖像や仮面など幅広く研究し、多くの業績をあげる。30年京都国立博物館において担当した特別展「日本の仮面」は仮面史研究にとって画期的であり、また仏師研究に力を注ぎ、とくに鎌倉時代の名匠快慶の芸術とその母胎としての奈良仏師の体系的研究は代表的で、37年、その成果をまとめた論文「仏師快慶論」により京都大学より文学博士の学位を受ける。神戸大学に転じた頃から東アジアという文化背景のなかで日本の初期仏教彫刻を巨視的に捉えるべく、しばしば訪韓、現地実査を行ない、その成果を逐次発表した。これらの業績とともに、26年以来、美術史学会常任委員として学会に貢献し、さらに45年より国の文化財保護審議会専門委員を務めたほか、滋賀県、京都府、兵庫県、奈良県などの文化財保護審議会委員として文化財保護行政にも貢献し、61年勲三等旭日中綬章を受章する。死去により従四位に叙される。(主要著・編書)新薬師寺考 河原書店 22年快慶の研究 大勝堂 29年日本の仮面 京都国立博物館 30年仏師快慶論 吉川弘文館 36年(同増補版62年)六波羅蜜寺 中央公論美術出版 39年運慶と鎌倉彫刻 平凡社 39年能面選 京都国立博物館 40年奈良の寺院と天平彫刻(共著) 小学館 41年日本彫刻史基礎資料集成(共編) 中央公論美術出版 41~46年肖像彫刻 至文堂 42年奈良六大寺大観(共編) 岩波書店 43~48年天平彫刻 小学館 45年日本仏教彫刻史の研究 法蔵館 45年正倉院の伎楽面(共著) 正倉院事務所 47年興福寺八部衆と十大弟子 岩波書店 48年大和古寺大観(共編) 岩波書店 51~53年日本仏像史研究 法蔵館 55年

三上次男

没年月日:1987/06/06

日本学士院会員、東京大学名誉教授、出光美術館理事、中近東文化センター理事長の三上次男は、6月6日肺炎のため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年80。号白水子。東洋史、考古学の権威で、陶磁史においても陶磁貿易史という研究分野を確立した三上は、明治40(1907)年3月31日京都府宮津市に生まれた。昭和7年東京大学文学部東洋史学科卒業後、1年間東亜考古学留学生として中国に滞在する。翌8年外務省文化事業部満蒙文化研究部研究員となり、同14年東京大学文学部講師、同23年東京大学東洋文化研究所研究員、同24年東京大学教授となった。同36年文学博士。同42年東京大学を停年退官し、同年同大学名誉教授の称号をうけ、同年から同52年まで青山学院大学教授として教鞭をとった。この間、同47年1月から50年12月まで日本学術会議会員、同47年8月から56年7月まで日本ユネスコ国内委員会委員、同41年9月から没年まで出光美術館理事をつとめた。戦後、南アジア、中近東さらにエジプトなどで発掘調査を精力的に行い、中国古陶磁器が元時代にはエジプトにまで到達していたことを明らかにし、東西文化交流の経路として、陸路による「絹の道」とは別に、南海路である「陶磁の道」の存在を唱え陶磁貿易史の研究分野を確立した。同44年、岩波新書に『陶磁の道』を著し、これがシルクロード・ブームの先駆けとなった。同49年、『金史研究』(全3巻)により日本学士院賞恩賜賞を受賞した。同53年3月から中近東文化センター理事長に就任、同61年には日本から初のトルコ古代遺跡発掘隊の隊長をつとめた。同年、日本学士院会員となる。『三上次男著作集』他の著述がある。

石沢正男

没年月日:1987/05/21

東洋工芸史の研究者で奈良・大和文華館前館長の石沢正男は5月21日午前11時45分、脳こう塞のため東京都杉並区の樺島病院で死去した。享年84。明治36(1903)年3月31日、東京都千代田区に生れた。大正14(1925)年3月第一高等学校文科乙類を卒業後、東京帝国大学文学部美術美術史学科に進み、昭和3(1928)年3月に同学科を卒業。同5年10月~同8年7月の間はニューヨーク市メトロポリタン美術館東洋部の助手、同8年7月から同25年3月まで東京美術学校講師として東洋工芸史を講じた。この間に同16年10月からは美術研究所嘱託に、また翌17年から同22年2月までは美術研究所内の東洋美術国際研究会主事をつとめたが、同22年2月からは文部技官として文部省社会教育局文化課に入り、同25年文化財保護委員会が発足して後には同委員会文化財調査官、更に同年から国立博物館保存修理課長、同26年に同館資料課長、同30年から美術課長を歴任し、同39年6月に退官。同年7月から大和文華館次長となり、同45年から同56年まで館長をつとめ、同57年は同館顧問であった。また、同40年には文化財保護審議会専門委員に任命された。美術館運営、文化財行政にたずさわる一方、専門とする東洋工芸史研究においても研究論文を発表した。主なものには「三つの新収蒔絵作品について」(大和文華54、昭和46年9月)、「琉球黒漆桃樹文様沈金高台付盆」(大和文華63、同53年8月)、「三嶋大社蔵梅蒔絵櫛笥について」(大和文華64、同54年3月)などがある。

毛利登

没年月日:1987/01/20

元東京芸術大学教授の美術史家毛利登は1月20日午後4時10分、急性心筋梗塞のため神奈川県茅ケ崎市の茅ケ崎徳洲会病院で死去した。享年84。明治35(1902)年12月14日東京下谷区に生まれる。昭和2年東京美術学校図案科を卒業し、同年宮内省嘱託となり即位大礼用神宝類図案設計を担当する。同3年内務省造神宮使庁嘱託となり、同14年同技手、17年同技師となる。終戦後の同21年文部省国宝調査室に勤務し、同22年東京国立博物館嘱託、同23年同調査員を経て、24年文部技官として同博物館に勤務する。同25年文化財保護委員会美術工芸品課に移り、26年同記念物課、27年同無形文化財課を兼務する。同37年東京国立文化財研究所保存科学部修理技術研究室長となるが、翌38年東京芸術大学教授となり文化財保存修復概論を講ずる。同41年東京芸術大学付属芸術資料館長となる。同45年3月同大学を退く。文様美術、日本文様史を研究し、訳書にフランツ・マイヤー著『装飾のハンドブック』(昭和43年、東京美術刊)、著書に『日本の文様美術』(同44年、同上)がある。

田沢坦

没年月日:1986/07/01

東京国立博物館評議員、武蔵野美術大学名誉教授、元奈良国立文化財研究所所長の田沢坦は、7月1日午前11時43分、脳内出血のため川崎市宮前区の聖マリアンナ病院で死去した。享年84。明治35(1902)年1月21日、神奈川県横須賀市に生れる。大正14年に東京帝国大学文学部美術史学科を卒業し、同学大学院に3ケ年在学の後、昭和3年6月に東大史料編纂所嘱託となる。同7年7月、文部省国宝保存に関する調査計画等の嘱託、同17年8月、美術研究所(現、東京国立文化財研究所)所員に任ぜられ、同22年5月、東京国立博物館資料課長、同26年2月、同館工芸課長となる。同28年2月、前年4月に設立された奈良国立文化財研究所々長に任命され、同34年6月からは東京国立文化財研究所美術部長を37年4月まで務めた。その後、37年4月より49年3月まで、武蔵野美術大学教授、49年3月には武蔵野美術大学名誉教授となった。またこの間には、共立女子専門学校(昭和3年4月~昭和17年3月)、東京女子大学(昭和7年9月~昭和17年9月)、東京大学文学部(昭和17年4月~昭和29年3月)に講師として出講し、美術史教育にも力をつくした。さらに、昭和41年5月より57年6月まで、財団法人元興寺文化財研究所所長・常務理事をつとめ、文化財保護審議会専門委員(第一分科会絵画彫刻部会・第二分科会建造物部会)、東京国立博物館評議員、畠山記念館評議員、佐野美術館理事なども務め、活躍の場は広きにわたった。その研究も日本美術の各時代、分野にわたるもので、昭和8年9月に大岡實と著した『図説日本美術史』(岩波書店)がよくその性格を示している。本書は多くの人に愛され、同31年11月に改訂版が出された。その他業績には以下のようなものがある。「飛鳥以前」(座右宝2)、「飛鳥奈良時代の絵画と工芸」(月刊文化財21)、「飛鳥時代の工芸上・下」(国博ニュース4、5)、「工芸の形姿」(MUSEUM22)、「平安時代工芸美術の特色」(『日本の文化財』1巻 第一法規)、「桃山時代の工芸上・下」(国博ニュース51、52)、「江戸時代の工芸」(月刊文化財132)「日本彫刻小史」(アルス・グラフ6)、「平安初期に於ける木造彫刻の興隆に関して上・下」(美術研究128、129)、「浄土教の普及と阿弥陀堂」(月刊文化財56)、「鎌倉時代の彫刻に就て」(日本諸学振興委員会研究報告13)、「鎌倉時代の彫刻に就て」(大和文化研究2)、「東大寺中性院本造菩薩(弥勒)像」(美術研究212)、「鎌倉大仏に関する史料集成稿」(美術研究217)、『南無阿弥陀仏作善集』(奈良国立文化財研究所史料第1冊)、「南無阿弥陀仏作善集註解稿1」(武蔵野美術大学研究紀要1)、「薬師寺の絵画」(『薬師寺』実業之日本社)、「大陸文化の影響」(『世界美術全集』6巻 角川書店)など。

渡辺素舟

没年月日:1986/01/16

東洋文様史研究の先駆者で、多摩美術大学名誉教授の渡辺素舟は、1月16日午前7時30分、心不全のため東京都杉並区の自宅で死去した。享年95。明治32(1899)年11月16日、愛知県西春日井郡に生れる。大正5(1916)年3月、東洋大学専門部国漢文科を卒業後、昭和6(1931)年には帝国美術学校講師、同9年からは多摩帝国美術学校教師となり、工芸史を講ずるとともに東洋工芸史に関する研究を発表した。また、同14年に東京高等工芸学校講師となり、同19年には東亜同文会嘱託となった。同23年からは多摩造形芸術専門学校教授、同28年、同校が4年制の多摩美術大学として発足するにともない同大学教授となり、同40年3月定年退職するまで工芸史を講じた。この間、同30年からは東京都文化財専門委員をも勤め、また、同36年9月には東洋文様史研究に対して文学博士の学位を受けた。 主要な著書を刊行順に記す。『日本の工芸美術』(図案工芸社、昭和2年)『支那陶磁史』(中央出版社、同4年)『図案の美学』(アトリエ社、同7年)『日本工芸史』(厚生閣、同13年)『平安時代国民工芸の研究』(東京堂、同18年)『東洋図案文化史の研究』(冨山房、同26年)『東洋文様史』(冨山房、同46年) この他に、定期刊行物「塔影」、「美之国」、「美術新報」などを中心に、昭和20年頃までは多数の論考、展覧会評を発表した。晩年は日本工芸会評議員を永くつとめた。

森暢

没年月日:1985/11/04

大阪工業大学名誉教授で美術史家の森暢は11月4日、心筋こうそくのため京都市左京区の川越病院で死去した。享年84。森は明治36(1903)年7月、和歌山県に生まれ、京都大学文学部選修科に学んだ後、美術雑誌『宝雲』の編纂に携わる。また外務省研修所、大阪外語大学の講師(美術史担当)、京都国立博物館の嘱託をつとめ、その後大阪工業大学教授として教鞭をとり、同大学定年退職後、東洋大学大学院国文科の講師をつとめる。専攻は日本中世絵画史。特に力を注いだのは歌仙絵の研究で、現存する歌仙絵・歌合絵作品・断簡を博捜、整理分類してまとめられた著書に『歌合絵の研究・歌仙絵』(昭和45年角川書店)がある。また、鎌倉時代の肖像画作品・作家、歌仙絵作品について発表された論考を集録した『鎌倉時代の肖像画』(昭和46年みすず書房)、『歌仙絵・百人一首絵』(昭和56年角川書店)などがある。

景山春樹

没年月日:1985/07/22

文学博士、帝塚山大学教授、木下美術館長、元京都国立博物館学芸課長、景山春樹は、7月22日午後4時12分、胸せんしゅのため大津市の大津市民病院で死去した。享年69。大正5年(1916)1月9日、滋賀県大津市に生まれる(景山家は比叡山の公人の家すじ)。昭和14年3月、国学院大学文学部史学科を卒業後、同年5月より京都市教育局学務課に勤務。昭和16年1月に、恩賜京都博物館鑑査員となり、昭和19年より同21年までの応召を経て、昭和27年4月、文部技官に任ぜられ京都国立博物館考古室長兼普及室長、昭和45年、同館学芸課長などを歴任し、昭和51年3月、同館退官。この間に、昭和39年7月に『神道美術の研究』に対して国学院大学より文学博士の学位を授与された。昭和51年4月からは帝塚山大学教授となり、昭和52年1月には木下美術館館長を兼任した。この他、昭和32年4月より昭和51年3月まで滋賀県文化財専門委員、昭和38年4月より大津市文化財専門委員として郷土の文化財行政にも力を尽す。昭和60年7月22日、正五位に叙せられ、勲四等瑞宝章が贈られた。その研究は、それまで未開拓であった神道美術史の分野で著しい業績を残し、第一人者として活躍した他、仏教文化史の方面にも及んでいる。主な著書に『神道美術の研究』(神道史学会1962)『史蹟論攷』(山本湖舟写真工芸部1965)『神道の美術』(塙叢書1965)『比叡山』(角川選書1966)『神道美術』(至文堂「日本の美術」1965)『近江路(角川写真文庫)』(角川書店1967)『比叡山その宗教と歴史』(NHKブックス1968)『神体山』(学生社1971)『近江文化財散歩』(学生社1972)『神道美術』(雄山閣1973)『考古学とその周辺』(雄山閣1974)『比叡山寺その構成と諸問題』(同朋舎1978)『神像神々の心と形』(法政大学出版局1978)『みやまんだら(近畿日本ブックス3)』(綜芸社1978)『比叡山と高野山』(教育社1980)『続みやまんだら(近畿日本ブックス6)』(綜芸社1980)『神道大系-日吉-』(神道大系編纂会1983)『舎利信仰-その研究と史料-』(東京美術1986)などがある。

岡崎譲治

没年月日:1985/03/31

大阪市立美術館長、文化財保護審議委員会専門委員岡崎譲治は、3月31日午後8時29分、食道がんのため大阪市立大学付属病院で死去。享年60。大正14年3月24日、福岡県八幡市に生まれる。九州専門学校法政科をへて昭和22年、九州帝国大学文学部に入学、故矢崎義盛・谷口鉄雄(現石橋美術館長)のもとで日本美術史を専攻、昭和25年3月、卒業論文に「雪舟研究」を提出し九州大学文学部を卒業、同年4月より九州大学大学院特別研究生となり、あわせて昭和28年4月より29年3月まで福岡女子大学講師を勤めた。昭和29年8月、奈良国立博物館学芸課に勤務し、以後昭和36年4月より同工芸室長、昭和47年4月より同学芸課長を歴任し昭和52年3月退官。同年4月より大阪市立美術館長に転じ、8年間館長の要職にあった。 奈良国立博物館に勤務後は、仏教考古学・仏教金工史の権威であった故石田茂作・蔵田蔵両館長のもとで仏教工芸、とくに金工品を専門とし、奈良国立博物館における「天平地宝展」(昭和35年4月-5月)「神仏融合美術展」(昭和37年4月-5月)「密教法具展」(昭和39年4月-5月)「大陸伝来仏教美術展」(昭和41年4月-5月)などの特別展開催に参画した。とくに中心となって企画運営にあたった「密教法具展」は、この分野の調査研究を集大成したもので、昭和45年、623点の作品に詳細な解説をのせて上梓した『密教法具』は、学会の大きな評価をえている。 大阪市立美術館にあっては、館長として同館の設備刷新・コレクションの充実をはかり、安宅・山口・カザールなどの著名なコレクションを散逸の危機からすくい、大阪市の公共財産として活用するために尽力した。 昭和57年には、文化財保護審議委員会第一専門調査会専門委員に任命され、豊かな知見をもとに文化財行政の指導助言にあたる一方、長らく『大和文化研究』の編集を担当し、さらに美術史学会、密教図像学会、『仏教芸術』の委員をつとめ、学会の発展に寄与した。 論文には、はやくに「筑紫観世音寺の大黒天」があり、奈良の主要寺院を中心とする仏教工芸に関する調査研究の成果を、昭和33年の「宋人大工陳和卿伝」をはじめとする専門各誌の諸論文、『奈良六大寺大観』『大和古寺大観』などに発表した。代表する論文に「種字鈴考-金剛界鈴と胎蔵界鈴-」「仏像鈴所顕の五大明王像-円珍請来図像との関連-」などがある。現存作品の実証にもとづく厳格な型式の分析・分類にくわえ、密教図像学の方法を応用して詳細な図像の異同をはかり、精密な作品の編年をあとづける一連の研究は、仏教工芸史の新しい展開をみちびいた。 また、監修・執筆にあたった『仏具大事典』は、研究者必須の手引書となっている。ほかに仏教美術全般についての深い知見をもとにした『浄土教画』がある。 主要著作目録筑紫観世音寺の大黒天 哲学年報 14 昭和28年2月宋人大工陳和卿伝 美術史 30 昭和33年9月長谷寺の金工品 大和文化研究 5-2 昭和35年2月資料・東大寺工芸品目録 大和文化研究 5-7 昭和35年7月先生の青丘遺文に出る高麗佐波理鋺 大和文化研究 6-3 昭和36年3月正倉院のいわゆる(鉗)について 奈良時代の箸試論 大和文化研究 7-10 昭和37年10月東大寺の工芸 近畿日本叢書『東大寺』 近畿日本鉄道 昭和38年11月熱田神宮本地懸仏など(大興寺蔵) 大和文化研究 9-1 昭和39年1月密教法具 図版解説 『密教法具』 講談社 昭和40年9月仏像鈴所顕の五大明王像-円珍請来図像との関連- 美術史 61 昭和41年6月密教法具と舎利納入 大和文化研究 11-6 昭和41年6月西大寺の金工品 仏教芸術 62 昭和41年10月鹿島市誕生院の四天王鈴 大和文化研究 12-8 昭和42年8月舎利容器・密教法具・金剛盤 『奈良六大寺大観』 第12巻 岩波書店 昭和44年2月種子鈴考 金剛界鈴と胎蔵界鈴 仏教芸術 71 昭和44年7月華原馨・梵鐘・泗浜浮馨・舎利厨子 『奈良六大寺大観』 第7巻 岩波書店 昭和44年7月浄土教画 『日本の美術』 43 至文堂 昭和44年12月黒漆螺鈿卓・五獅子如意・玳瑁如意・鉦鼓(長承三年・建久九年)・仏餉鉢・鏡『奈良六大寺大観』第9巻 岩波書店 昭和45年4月表紙解説 舎利容器 パリ・ギメ美術館蔵 仏教芸術 75 昭和45年5月銭弘俶八万四千塔考 仏教芸術 76 昭和45年7月神門神社鏡とその同文様鏡について 大和文化研究 5-9 昭和45年9月水瓶(胡面水瓶)・黒漆布薩手洗・黒漆布薩花器・水瓶・密教法具・花瓶・六器・火舎・香炉・柄香炉・鐃・黒漆漆箱 『奈良六大寺大観』 第5巻 岩波書店 昭和46年9月九州の懸仏-北部九州の群集遺品を中心に- MUSEUM 269 昭和48年4月金銅宝塔(壇塔)・鉄宝塔・五瓶舎利・透彫舎利塔・舎利塔(伝亀山天皇勅封)・舎利塔(伝叡尊感得)・密教法具・梵鐘(本堂)・打鳴し・水瓶・餝剣・犀角刀子 『奈良六大寺大観』 第14巻 岩波書店 昭和48年5月対馬・壱岐の金工品 仏教芸術 95 昭和49年3月重源関係の工芸品 仏教芸術 105 昭和51年1月両部大壇具・大神宮御正体 『大和古寺大観』 第6巻 岩波書店 昭和51年9月仏具の種類と変遷 荘厳具、密教法具 新版『仏教考古学講座』 第5巻 雄山閣 昭和51年12月梵鐘・手錫杖・孔雀鳳凰文馨礼盤 『大和古寺大観』 第4巻 岩波書店 昭和52年2月厨子入舎利塔 『大和古寺大観』 第3巻 岩波書店 昭和52年6月竜鬢褥・錫杖頭・鐃・宝塔文馨・胡蝶散文鏡・宝印・阿弥陀三尊来迎図 『大和古寺大観』 第1巻 岩波書店 昭和52年10月興福寺の国宝華原磐 MUSEUM 323 昭和53年2月舎利塔、鏡鑑・鏡像・懸仏、供養具、梵音貝、密教法具、諸具 『奈良市史』 工芸編 昭和53年3月舎利塔、舎利容器、仏具 文化財講座 『日本の美術』 第9巻 第一法規出版 昭和53年3月五鈷鈴・五鈷杵・桶形香炉・釣灯篭・鰐口・舎利塔・舎利厨子・ 『大和古寺大観』 第5巻 岩波書店 昭和53年3月河内飛鳥の仏教工芸 仏教芸術 119 昭和53年8月梵鐘・鰐口 『大和古寺大観』 第7巻 岩波書店 昭和53年8月対馬の金工 『対馬の美術』西日本文化協会 昭和53年11月三尊仏(鎚鍱)(奥院)・梵鐘・梵鐘(護念院) 『大和古寺大観』 第2巻 岩波書店 昭和53年12月二月堂修二会用具 『東大寺二月堂修二会の研究』 中央公論美術出版 昭和54年1月修験道山伏笈概説 MUSEUM  347 昭和55年2月天平時代の美術-東大寺・正倉院の工芸を中心に- 『日本古寺美術全集』 第4巻 集英社 昭和55年11月『仏具大事典』 鎌倉新書 昭和57年9月資料紹介 高貴寺の金銅三昧耶五鈷鈴 美術史 114 昭和58年5月仏像を表現する金剛鈴の展開 MUSEUM 392 昭和58年11月工芸 図版解説 『春日大社』 大阪書籍 昭和59年5月東大寺鎌倉期の工芸 南都仏教 39 昭和59年11月密教法具 『密教美術大観』 第4巻 朝日新聞社 昭和59年11月

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