本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





江本義理

没年月日:1992/04/11

前東京国立文化財研究所保存科学部長で、文化財の非破壊検査など保存科学の権威であった江本義理は、4月11日午後3時、膿胸による食道大動脈破裂のため横浜市金沢区の横浜市立大病院で死去した。享年66。大正14(1925)年7月3日、東京市下谷区に、生物学者江本義数の長男として生まれる。学習院初等科、中等科、高等科を経て昭和20(1945)年4月東京帝国大学理学部化学科に入学。同23年3月同科を卒業して、同年4月から法隆寺国宝保存工事事務所の委嘱により、法隆寺壁画の調査に参加した。同年12月、国立博物館保存修理課保存技術研究室勤務となる。以後官制の変更にともない同25年9月、文化財保護委員会保存部建造物課保存科学研究室勤務、同27年4月東京文化財研究所保存科学部化学研究室勤務、同29年4月東京国立文化財研究所保存科学部化学研究室勤務となった。同42年3月、同部主任研究官、同46年5月同部化学研究室長となり、同50年4月から同62年3月停年退職するまで保存科学部長をつとめた。この間、同42年4月から平成4年4月まで東京芸術大学美術学部講師、同58年4月から同63年9月まで図書館情報大学講師、同63年4月から平成4年4月まで早稲田大学第一文学部講師、同63年6月からは永青文庫常務理事をつとめた。東京国立文化財研究所を退職後は、同所名誉研究員となったほか、平成2年4月に、同62年4月から講師をつとめていた昭和女子大学生活美学科教授となった。戦後、わが国の文化財の科学的調査方法が未確立な状況の中で、他分野の検査方法を文化財調査に取り入れる試みを続け、昭和30年、サイクロトロンによる放射化分析を行ない、その後は蛍光X線分析法を導入した文化財の析質調査・研究に力を注いだ。同34年に国の重要文化財に指定され、その後真贋が問題となった「永仁の壷」の調査に当たって用いたのもこの方法で、その調査結果が決定的な証拠となって同作品は36年3月31日に重要文化財指定を解除されている。こうした材料分析の他、文化財保存にも尽力し、同47年に発見された高松塚古墳壁画の保存のほか、敦煌、エジプト・ルクソールの王家の谷等、海外の文化財保存にもたずさわった。学界においても、文部省学術審議会専門委員、日本学術会議考古学研究連絡委員会委員、日本文化財科学会理事、同評議員、古文化財科学研究会副会長などをつとめた。主要論文に「古文化財の材質調査における蛍光X線分析法の利用」(「美術研究」220)、「蛍光X線分析による土器・瓦中の鉄・ルビジウム・ストロンチウム・イットリウム・ジルコニウムの定量」(「保存科学」16号)、“Coloring Materials Used on Japanese Paintings of the Protohistric Period & Related Topics”(第7回国際研究集会プロシーディングス)等があり、没後に『文化財をまもる』(アグネ技術センター刊)が刊行されている。年譜は同書に詳しい。

竹島卓一

没年月日:1992/01/14

読み:たけしまたくいち  名古屋工業大学名誉教授の建築史家竹島卓一は、1月14日午前11時46分、心不全のため東京都北区の自宅で死去した。享年90。東洋建築史の研究で知られ、日本学士院賞恩賜賞を受けた竹島は、明治34(1901)年4月29日、三重県上野市大字大野木に生まれた。昭和2(1927)年東京帝国大学工学部建築科を卒業。同4年東方文化学院が設立されると同時に入所し、関野貞らと共に中国各地を調査、中国の建築、陵墓の研究に従事する。同8年東京帝国大学大学院修了。同12年8月より14年8月まで召集により北支・中支に赴く。同17年名古屋高等工業学校教授となり、同24年同校が名古屋工業大学となって後も同校で教鞭をとった。戦前完成していた学位論文「営造法式の研究」は、同20年3月の空襲により焼失したが、戦後再度著し、同25年東京大学から博士号の称号を受けた。この研究は同45年『営造法式の研究(一)(二)(三)』(中央公論美術出版)として刊行され、こうした一連の「営造法式の研究」に対し、同48年日本学士院賞・恩賜賞が贈られた。同40年名古屋工業大学を停年退官し同年より47年まで神奈川大学工学部、同47年から同51年まで国士館大学工学部で教授をつとめた。他の著書に『遼金時代の建築と其仏像』(龍文書局 昭和19年)、『中国の建築』(中央公論美術出版同45年)、『建築技法から見た法隆寺金堂の諸問題』(同、同50年)などがある。一方、古建築の解体修理、復元にも従事し、昭和25年から31年まで法隆寺国宝保存工事事務所長として同寺五重塔、金堂等の解体修理にあたり、同45年日本万国博覧会古河館の東寺七重塔模造設計、同52年法輪寺三重塔の設計等を手がけた。伝統的建築技術を深く理解し、さらに科学的知識、洞察を加えて、近代の保存修復に一指針を示した。

土居次義

没年月日:1991/11/24

京都工芸繊維大学名誉教授、美術史家土居次義は、急性呼吸不全のため京都市山科区の東山老年サナトリウムで死去した。享年85。明治39(1906)年4月6日大阪市天王寺区に生まれる。京都の第三高等学校に学んで昭和6年京都帝国大学文学部哲学科を卒業。同大学文学部副手を経て昭和10年10月より恩賜京都博物館鑑査員を勤め、同21年4月に恩賜京都博物館長に就き、同22年12月同館を退官。この間、昭和15年恩賜元離宮二条城事務所兼務、同20年3月より1年間京都市文教局文化課長に転出して京都市の文化財の疎開にかかわる仕事を行なった。その後、昭和24年4月より京都工芸繊維大学教授。同45年同大学を定年退職した。また、徳島県文化財専門委員(昭和33年9月)、京都府文化財保護審議会委員(同40年10月)、文化財保護審議会専門委員(同44年3月)、京都国立博物館評議員会評議員(同56年1月)を歴任した。 昭和28年12月文学博士(日本美術史)。昭和44年に京都新聞文化賞、同49年11月に紫綬褒賞、同55年4月に勲三等旭日中綬章、同60年12月に京都府文化賞特別功労賞が授けられ、同62年11月に京都市文化功労者表彰を受けた。京都帝国大学では美学美術史を専攻して沢村専太郎教授(1884~1930)に師事し、在学中より京都の寺院に所蔵される障壁画の調査にたずさわる機会をえて日本近世絵画史の研究を行なった。ジョバンニ・モレリの鑑識方法を応用して絵画細部にあらわれた特徴を比較する研究方法を採り、従来巨名作家の伝承をもつのみだった無款の障壁画の作者推定に説得力ある議論を展開した。土居は一連の研究によって山楽、山雪、松栄、光信、孝信らの狩野派など主要画家の作風を明らかにするとともに、基準作品と史料の発掘に努めて桃山時代の絵画史研究の基礎確立に大きく貢献した。長谷川等伯の子久蔵と同一視されていた信春を等伯と同一人とする新説を昭和13年に発表するなど、長谷川等伯と長谷川派の研究に尽力して桃山画壇における同派の意義を明らかにした点が特筆される。また、江戸時代の画家研究においても得意とするフィールドワークを生かした多くの研究を発表した。主要著書『等伯』(東洋美術文庫・第7巻)アトリヱ社、昭和14年『京都の障壁画』(京都市観光課編)桑名文星堂、昭和16年『桃山障壁画の鑑賞』寶雲社、昭和18年『山楽と山雪』桑名文星堂、昭和18年『日本近世絵画攷』桑名文星堂、昭和19年『山楽派画集』桑名文星堂、昭和19年『近世絵画聚考』芸艸堂、昭和23年『襖絵』(アート・ブックス)講談社、昭和31年『等伯』(日本の名画・第1期)平凡社、昭和31年『長谷川等伯・信春同人説』文華堂書店、昭和39年『桃山の障壁画』(日本の美術・第14巻)平凡社、昭和39年『障壁画』(日本歴史新書)至文堂、昭和41年『若沖二井絵』マリア書房、昭和42年『近世日本絵画の研究』美術出版社、昭和45年『永徳と山楽』(人と歴史・日本18)清水書院、昭和47年『渡辺始興 障壁画』光村推古書院、昭和47年『長谷川等伯』(日本美術・第87号)至文堂、昭和48年『元信・永徳』(水墨美術大系・第8巻)講談社、昭和49年『讃岐金刀比離宮の障壁画』マリア書房、昭和49年『三竹園美術漫録』講談社、昭和50年『狩野山楽/山雪』(日本美術絵画全集・第12巻)集英社、昭和51年『長谷川等伯』講談社、昭和52年『狩野永徳/光信』(日本美術絵画全集・第9巻)集英社、昭和53年『山楽と山雪』(日本の美術・第172号)至文堂、昭和55年『花鳥山水の美-桃山江戸美術の系譜-』京都新聞社、平成4年この他、発表論文の目録が『近世日本絵画の研究』(昭和45年)に、略歴が『花鳥山水の美』(平成4年)に掲載される。等伯を中心とした長谷川派の研究は『長谷川等伯』(昭和52年)に集大成された。

上村六郎

没年月日:1991/10/29

日本染織文化協会名誉会長の染織文化研究家上村六郎は10月29日午前10時40分、ジン不全のため京都市上京区の小柳病院で死去した。享年97。明治27(1894)年10月10日、新潟県刈羽郡に生まれ、京都高等工芸学校で染色学を学ぶ。ひき続き京都帝国大学工学部工業化学教室で染色学・繊維学を学んで卒業後同大助手となった。その後、関西学院大学理工科講師を経て、武庫川女子大学教授となり、昭和25年、大阪学芸大学教授となる。早くから日本の古代染織に興味を持ち、同5年『萬葉染色考』(辰巳利文と共著)を著し、同9年には『日本上代染草考』を刊行。宮内庁の委嘱により正倉院御物裂の調査に当たったほか、布以外の材料にも研究を広げ、同31年和紙研究会代表となった。大阪学芸大学を退いたのちは新潟女子短期大学教授、新潟青陵女子短期大学学長を歴任したのち四天王寺女子大学教授並びに日本染織学園園長を兼務。最晩年は旭川市の優佳良織工芸館内国際染織美術館館長をつとめる一方、研究、著作に専念した。東南アジアを含む広い文化圏の中に日本を位置づけ、上代からの日本の染織、色彩文化を生活に根ざした視点からとらえた。元人(げんじん、もとんど)とも号す。主な著書には以下のようなものがある。昭和5 萬葉染色考 辰巳利文共著昭和6 丹羽布昭和9 日本上代染草考昭和18 日本色名大鑑 山崎勝弘共著昭和25 (日本色名大鑑)昭和34 染色通論昭和39 丹羽布縞帳昭和40 暮らしの染色昭和41 日本の草木染昭和48 ジャワの染色昭和54 上村六郎染色著作集1~6(全巻)昭和55 日本人の生活文化史(3)昭和55 萬葉色名大鑑昭和57 沖縄染色文化の研究昭和61 (昭和版)延喜染鑑平成元年 日本の草木染

浦崎永錫

没年月日:1991/08/29

大潮会会長の洋画家で『日本近代美術発達史』の著者としても知られた浦崎永錫は、8月29日午前2時25分、老人性肺炎のため東京都板橋区の病院で死去した。享年91。明治33(1900)年沖縄の那覇に生まれる。大正10(1921)年に上京し川端画学校に入学。藤島武二に師事して洋画を学ぶ一方、検定で小学校教員免許を取得。夜間工業学校の図画教師となり、自由画、用器画、高等図学などを教授。美術関係文献の調査、収集にも興味を持ち、昭和5(1930)年、教師をやめて雑誌「美術界」を刊行。同時に明治期の資料調査にあたった。同10年、美術教育者たちの作品発表の場として大東会を設立。その存続を望む声にこたえて同会を発展解消させて翌八年大潮会を結成。写実に立脚した作品を健康な美術であるとして、それを美術教育者たちの求めるべき美術として提唱し、その発表の場を提供することを活動として唱った。戦後も同会を率い、のち同会会長に就任。同会に作品を発表する一方、明治期の美術に関する詳細な資料にもとづき、昭和49年『日本近代美術発達史・明治篇』(東京美術)を刊行。資料収集の綿密さが高く評価されている。

吉田光邦

没年月日:1991/07/30

京都大学名誉教授で京都府京都文化博物館長であった東洋科学技術史家吉田光邦は、7月30日午前1時33分、急性心不全のため、京都市左京区の京都大学医学部付属病院で死去した。享年70。大正10(1921)年5月1日、愛知県西春日井郡に生まれる。愛知一中、第八高等学校を経て、京都大学理学部に入学。昭和20(1945)年、同大理学部宇宙物理学科を卒業し、龍谷大学予科教授となる。同21年、東方文化研究所嘱託となり、同24年京都大学人文科学研究所に助手として入所。同33年同所講師、同35年同助教授、同52年同教授となった。この間、同31年京大学生イラン調査隊長として海外調査し、同34年、39年には京大イラン、アフガニスタン、パキスタン学術調査隊に隊員として参加。東南アジア諸民族の物質文化を調査した。人の技術として産業、芸術をとらえ、同30年『日本科学史』、同35年『砂の十字路』、同38年『錬金術』、同41年『やきもの-技術・生活・美学』、同45年『明清時代の科学技術史』(藪内清と共著)、同47年『中国科学技術史論集』などを刊行。同44年に京都大学より文学博士号を受けた。同40年後半から19世紀の日本を研究対象とするようになり、同53年京都人文科学研究所共同研究班「一九世紀日本の情報と社会変動」を主宰。特に万国博覧会を19世紀の特色ある事象ととらえ、同60年『万国博覧会』、同61『万国博覧会の研究』を刊行した。同59年京都大学人文科学研究所所長に就任。また、同年日本産業技術史学会を設立して同学会会長となった。同61年京都大学を退官し同大名誉教授の称号を受ける。平成2年京都府京都文化博物館長、同3年京都造形大学教授に就任。朝日陶芸展審査員のほか、京都府文化財保護審議会委員、文化庁文化財保護審議会専門委員、国立歴史民俗博物館評議員などもつとめた。著作には、他に『吉田光邦評論集1~3』(昭和59年)、『日本と中国-技術と近代化』などがある。

田中稔

没年月日:1991/07/30

国立歴史民俗博物館情報資料部長の田中稔は7月30日午後7時、肺がんのため東京都港区の病院で死去した。享年63。昭和3(1928)年2月18日、愛知県知多郡に生まれる。同27年3月、東京大学文学部国史学科を卒業。同年文化財保護委員会事務局美術工芸課に勤務し、同28年7月、奈良国立文化財研究所歴史研究室へと転じた。同39年4月平城宮跡発掘調査部史料調査室長となり、同52年埋蔵文化財センター長に就任した。同56年国立歴史民俗博物館設立準備室に加わり、運営協議員をつとめ、平成元(1989)年からは運営協議会会長となった。また、たびたび館長事務を代行し、昭和58年3月から4月同館開館前後には井上光貞初代館長の急逝により実質上の副館長として館の運営を指導した。同館開館とともに歴史研究部教授となり、同59年7月情報資料研究部教授となって情報資料研究部長を併任した。同館の展示には準備段階から参企し、展示計画の中心にあり、特に「王朝文化」「印刷文化」の常設展示はその構成になる。橘女子大学、東京女子大学、早稲田大学、法政大学で講師を歴任し平成2年11月から嵯峨美術短期大学でも教鞭をとった。

富岡益太郎

没年月日:1991/05/20

明治期の日本画家富岡鉄斎の孫で、鉄斎美術館の初代館長をつとめた富岡益太郎は、5月20日午後2時25分、肺炎のため、京都市北区の自宅で死去した。享年83。明治40(1907)年9月17日、京都市上京区に生まれる。健康上の理由から中学校を中退し、源豊宗、梅原末治に美術史を、本田陰軒に漢文を学ぶ。昭和2(1927)年より同8年まで源豊宗らと共に仏教美術の雑誌を刊行。鉄斎研究家として知られ、昭和50年に兵庫県宝塚市に設立された鉄斎美術館の初代館長として、同61年まで在職した。

末永雅雄

没年月日:1991/05/07

高松塚古墳の発掘を指導するなど、日本の考古学界に多大な貢献をした文化勲章受章者、橿原考古学研究所初代所長の末永雅雄は、5月7日午後2時30分、心不全のため大阪府大阪狭山市の自宅で死去した。享年93。明治30(1898)年6月23日、大阪府大阪狭山市に生まれる。小学校を卒業後、水戸学の系統をひく史学を学び、のち考古学と有職故実の個人指導を受けた。大正15(1926)年より京都帝国大学文学部考古学教室で「日本考古学の父」とされる浜田耕作の指導を受け、昭和9(1934)年『日本上代の甲冑』を上梓して同11年に帝国学士院東宮御成婚記念賞受賞。同著と同16年刊行の『日本上代の武器』により、東アジア文化史の視点に立ち、出土品の実証的研究にもとづく独自の方法論を確立した。一方、奈良県の嘱託として石舞台古墳、橿原遺跡などの調査に当たり、同13年橿原考古学研究所を設立。自由な私塾的雰囲気の中で多くの優れた研究者を育て、同26年より同所所長をつとめた。また、後進を率いて桜井茶臼山古墳、和泉黄金塚、新沢千塚古墳群などを調査し、同47年高松塚古墳の発掘を指導したことで広く知られた。また、同25年より関西大学で教鞭をとり、同27年より同43年まで同大教授をつとめ、同大名誉教授となったほか、大谷大学、龍谷大学、大阪市立大学、大阪学芸大学、大阪経済大学などでも教鞭をとった。同55年文化功労者に選ばれたのを機会にすべての役職から退いたが、その後も『古墳の航空写真集』を自費出版するなど、その実証的方法論にもとづく研究、著作をつづけ、同63年、考古学界で初めての文化勲章受章者となった。

金田民夫

没年月日:1991/04/23

同志社大学名誉教授で意匠学会長をつとめた美学者金田民夫は、4月23日午後11時51分、肝ガンのため、京都市東山区の病院で死去した。享年71。大正8(1919)年5月26日、広島市に生まれ、昭和15(1940)年、広島高等学校を卒業。同18年京都大学文学部哲学科美学美術史専攻を卒業して同部副手となる。戦後の同22年、京都大学大学院特別研究生となって研究を続け、同25年、市立美術専門学校助教授となった。同27年、同志社大学文学部助教授となり、同30年同教授となった。同45年、京都大学より文学博士の学位を授与される。同57年より同59年まで同志社大学文学部長、文学研究科長をつとめ、平成2(1990)年、同大名誉教授となった。ドイツ美学を根幹にすえつつ、意匠学会、フェノロサ学会などにも参加するなど我国の近代美学に関しても広い視野から考証を加えた。著書に『シラーの芸術論』(理想社 昭和43年)、『美学における自然と現実』(創文社 同45年)、『日本近代美学序説』(法律文化社 平成2年)などがある。

藤岡了一

没年月日:1991/02/16

元大阪芸術大学教授の東洋陶磁史研究者藤岡了一は、2月16日午後5時20分、胆管ガンのため、大阪市中央区の大手前病院で死去した。享年81。明治42(1909)年11月15日、大阪市東区に生まれる。大谷大学で東洋史を専攻し、昭和7(1932)年同校を卒業。同9年11月、東京帝室博物館研究員となり、同13年同館鑑査官補となる。同18年南方博物館要員となり、同年4月よりマレー軍政監部文教科事務嘱託、同19年2月より同軍ペラ州政庁勤務、タイピン博物館駐在員となる。戦後の同22年2月、京都市立恩賜京都博物館に入り工芸を担当。同27年京都国立博物館学芸課工芸室に移り、同室長、同学芸課長を歴任。同46年に停年退官するまで長く同博物館で活躍し、翌47年より同館調査員を嘱託された。また、同47年7月より文化財保護審議会専門委員、同48年より奈良国立博物館調査員となり、同61年より泉屋博古館嘱託となったほか、藤田美術館、白鶴美術館、逸翁美術館などの理事をもつとめた。東洋陶磁史全般を見渡す広い視野を持ち、中国、日本の彩釉を中心に大系的な研究を進めた。著作には以下のようなものがある。「越州窯の壷」(「陶磁」12-1 昭和15年)「浄明寺址出土越州窯青磁水注」(「美術史」1 同25年)「漢緑褐釉鴟鶚尊」(「美術史」6 同27年)『古陶の美-中国陶磁史の概要』(毎日新聞社 同29年)『世界陶磁全集』宋代の天目、他(共著、河出書房 同30、31年)「西周の施釉陶」(「Museum」115 同35年)『陶器全集11 元・明初の染付』(平凡社 同35年)『陶器全集27 明の赤絵』(平凡社 同35年)「茶碗 5』(共著、平凡社、同43年)「蓼冷汁天目」「Museum」212 同43年)「大安寺址出土の唐三彩」(「日本美術工芸」400、401、同47年)「色絵磁器」(『日本の美術29 色絵陶器』 小学館 同48年)「明初の磁器」(『世界陶磁全集 14』 小学館、同51年)『日本の美術22 茶道具』(至文堂 昭和43年)『日本の美術51 志野と織部』(至文堂 昭和45年)『日本の美術128 正倉院の陶器』(至文堂 昭和52年)他

谷信一

没年月日:1991/01/21

元東京芸術大学教授、神戸大学教授、共立女子大学教授の谷信一(通称しんいち)は1月21日午前7時15分、肺炎のため東京都千代田区の東京警察病院で死去した。享年85。明治38年5月8日、三重県安濃郡に生れた。昭和5年3月東京帝国大学文学部美術史学科を卒業、同年4月東京帝国大学文学部副手、7年7月東京帝国大学史料編纂所嘱託を経て、昭和17年3月京城帝国大学助教授に任官したが、21年8月同大学の廃止により退官した。昭和24年5月東京芸術大学美術学部講師、27年神戸大学文理学部教授になり、同年より33年まで東京芸術大学教授を併任、昭和41年3月神戸大学を停年退官し、同年4月から昭和50年3月まで共立女子大学文芸学部教授を勤めた。その間、昭和22年から日本歴史学会編集委員となり、のち評議員を勤めた。また昭和27年からブリヂストン美術館運営委員、同28年から同41年まで東京都美術館参与、同58年石橋財団理事を勤めた。その研究領域は広範にわたり、仏教美術から絵巻物、大和絵、室町水墨画、肖像画、狩野派、土佐派、宗達・光琳派、南画にまで及んでいるが、史料編纂所時代に読破した資料にもとづいて、我国中世における中国絵画受容のあり方を明らかにした一連の論は「室町時代美術史論」(東京堂 昭和17年刊)に収載されている。他の主な著作は「近世日本絵画史論」(道統社 昭和16年刊)「日本美術史概説」(東京堂 昭和23年刊)「御物集成-東山御物・柳営御物」(共編 淡交社 昭和47年刊)など。

中村茂夫

没年月日:1990/12/24

文学博士、京都女子大学名誉教授・元大手前大学教授で、東洋の絵画思想史、東西美術史の比較研究の権威として知られる中村茂夫は、12月24日午前4時5分、大腸炎のため京都市上京区の堀川病院で死去。享年77。大正2(1913)年9月26日、三重県志摩郡に生まれる。大阪高等学校(文乙)をへて、昭和9年、京都大学文学部哲学科に入学、12年に卒業。同大学院をへて、昭和14年に奈良県師範学校、昭和16年に奈良県立高等学校の教諭を務める。昭和25年、京都女子大学の講師となり、以来、昭和54年に教授として定年退職するまで、同学で研究と教育に専心し、また教養部長・教務部長・文学部長・学園理事等の要職を務め、さらに昭和56年から63年まで大手前女子大学教授の職にあった。中村は、戦後はやくに今世紀の美術史研究の本流を形成したウィーン学派の様式史研究を紹介するとともに、その方法論を中国絵画研究へ適用しようと試みている。当時の中国絵画史は、西洋の古典美術・ルネサンス美術に比して、近代的方法による基準作品の同定など様式史研究の準備が十全といえる環境にはなかったが、中村は、画論や詩文をとおして中国絵画をうみだした芸術精神の内的な展開を解明し、実証的な様式史研究の理論的枠組みを用意した。 主要著書『中国画論の展開』晋唐宋元編 中山文華堂(昭和40年)『古典美術の様式構造』 岩崎美術社(昭和54年)『沈周 人と芸術』 文華堂書店(昭和57年)『石涛 人と芸術』 東京美術(昭和60年)翻訳書マックス・ドボルシャック著『精神史としての美術史』 全国書房(昭和21年)同書(改訂版) 岩崎美術社(昭和41年)マックス・ドボルシャック著『イタリアルネサンス美術史』 岩崎美術社(昭和41年)

岩崎友吉

没年月日:1990/12/05

東京国立文化財研究所名誉研究員の保存科学者(化学)岩崎友吉は、12月5日、東京都台東区の自宅で心不全により死去した。享年78。建造物や美術工芸品などの修復や保存に関わる研究を専門とした恐らく最初の自然科学者と思われる岩崎友吉は、明治45(1912)年4月10日横浜市に生まれ、東京帝国大学化学科で柴田雄次教授に教えを受ける。昭和14年卒業後、同大学大学院に進み、理学部副手、助手をつとめた後、昭和23年東京国立博物館に発足した保存修理課保存技術研究室に文部技官として勤務。文化財保護の組織改編にともない、文化財保護委員会事務局保存部建造物課研究室をへて、同27年に東京文化財研究所(現東京国立文化財研究所)に保存科学部が出来ると同時に同部化学研究室の研究員となり、化学研究室長、修理技術研究室長を経て、同48年修復技術部発足と同時に修復技術部長となり、翌49年退官。同研究所名誉研究員。この間、昭和24年金堂火災直後の法隆寺国宝保存に関する調査を委嘱され、次いで25年に壁画の化学的保存処置のために調査員を委嘱される。その後、各地で盛んになった歴史的建造物や修復に伴う内部の部材彩色の保存処置を担当、同47年に発掘された高松塚古墳の壁画保存については、ヨーロッパの壁画保存の実態調査に参加、専門家を招へいしての修理方針の決定に関与した。研究所退職後は寺田春弌(当時東京芸術大学美術学部教授、絵画組成研究室)と高松塚壁画再現のための研究をしている。 同39年から40年にかけてベルギーの王立文化財研究所客員研究員として文化財保存の西欧的手法を研究したのをはじめ、同42年に日本が加盟してからの8年間日本政府代表として、イクロム(ICCROM、文化財保存のための国際研修機関)の運営に関わり、昭和44年からは理事を務めた。 主な論文、著作は、「文化財の保存における人工木材の応用」保存科学10号、「障壁画の剥落止めについて」保存科学12号、「文化財の保存における二三の根本的問題」保存科学13号、「古文書類の虫害とその防除法について」古文化財の科学5号、「ルーブル博物館実験室の紹介」古文化財の科学10号、「私は国宝修理屋」朝日新聞、昭和37年7月20日、「文化財の保存と修復」日本放送出版協会、昭和52.11.20、「博物館の機能上の一つの課題-身体障害者へのサービス」博物館学雑誌3・4合併号1979年など。その他エッセイでは、「大正っ子のおしゃべり」日本放送出版協会、昭和50.5.8、の中の1篇「炭火」は昭和50年の「年間優秀100エッセイ」の一つに数えられ、後に山本健吉編、日本の名随筆、第20巻、「歳時記、冬」に掲載されている。 晩年は、幼少時から養われた広い教養から溢れ出たエッセイで高い評価を受け、自然科学者でありながら、文化財保存修復が余りに科学的に偏ることに警鐘を鳴らし、文化財と自然科学との調和を模索したが果たせない事を悔やんでいた。昭和59年、勲四等旭日小綬章を受章。また、同61年にはアジア地域で初めて、多年の功績に対して、イクロム賞を受ける。その他、1972年以来IIC(国際文化財保存学会)のフェロー、古文化財科学研究会評議員(昭和60年~平成元年)、美術家連盟理事(昭和32年~58年)、博物館学会会長(昭和52年~55年)、等を歴任し、1986年スガ財団賞を受賞した。

長廣敏雄

没年月日:1990/11/28

美術史家で、京都大学名誉教授、元京都橘女子大学長の長廣敏雄は、11月28日午前3時40分、肺炎のため京都市の京都南病院で死去した。享年84。明治38年12月27日、東京都牛込区に生まれた。第七高等学校造士館から大正15年に京都帝国大学文学部史学科(考古学専攻)へ入学、昭和4年に卒業し、同年から東方文化学院京都研究所(東方文化研究所)の所員となる。同研究所では梅原末治の助手として、「中国青銅器研究」をテーマとする一方、この時期に、ウィーン学派のA・リーグル、W・ヴォリンガー、ベルリン学派のH・ヴェルフリン等の美術史の方法論を学び、昭和5年にリーグル的様式論を基礎とした処女論文「武氏祠画像石」(『東洋美術』第4・5号)を発表した。その後、昭和9年の中国旅行を経て、仏教石窟研究へとむかい、昭和11年、同研究所員水野清一とともに、中国河北省南北響堂山、及び河南省龍門石窟の調査をおこなった。日中戦争開戦前夜の緊迫した情勢下におけるこの貴重な成果は、それぞれ昭和12年と昭和16年に出版された。一方、昭和12年にはリーグル『美術様式論』の翻訳を完了し、後の昭和17年座右宝刊行会から出版された。昭和13年より開始された山西省雲岡石窟の調査は、水野・長廣を中心として調査隊が編成され、昭和19年までの毎年続けられたが、長廣自身は、一員であった『世界文化』の同人たちが治安維持法により逮捕されるという事態に絡み渡航不許可となり、初回の調査には不参加、以後昭和14・16・17・19年に参加している。戦時下という困難な時期に遂行された、大規模かつ精密なこの調査は、東洋仏教美術・考古研究史上比類ない世界的な成果である。その調査結果は、昭和26年より刊行がはじまり、昭和31年に全16巻が完結した。この出版によって、水野とともに、昭和26年に朝日文化賞、昭和27年には学士院恩賜賞を受賞した。昭和23年に東方文化研究所は解散、京都大学人文科学研究所東方部となり、同研究所の研究員から昭和24年に助教授、昭和25年には教授となった。その間、昭和24年6月の美術史学会創立にも力を尽くした。『雲岡石窟』刊行後は、尉遅乙僧他の中国北朝・隋唐の芸術家について研究を進める一方で、平凡社版『世界美術全集』7・8(昭和25年・27年)や角川書店版『世界美術全集』12~14(昭和37年~38年)などで、啓蒙的概説をおこなっている。昭和33年に毎日放送番組審議会委員(昭和58年まで)、また、同年11月京都大学インド仏跡調査隊に参加し、各地の仏教遺跡を調査する。昭和34年NHK地方番組審議会委員(昭和52年まで)、同年文部省短期留学生としてヨーロッパ各地の美術館を見学し、オックスフォード大学、パリ大学において講演及び講義をおこなう。昭和37年2月、「中国石窟寺院の研究」により、京都大学より文学博士号を授与される。昭和37年12月、日中美術史家代表訪中団の一員として戦後初めて中国を訪問し、北京、西安、南京、蘇州等をまわる。昭和38年京都市交響楽団顧問となる。昭和41年、デ・ヤング美術館(サンフランシスコ)における東洋美術国際シンポジウム出席のためアメリカを訪問する。昭和44年、京都大学を停年退官、同大学名誉教授となり、同年から京都橘女子大学教授、昭和53年同大学学長、昭和61年同大学を退任、同大学名誉教授となる。その間、昭和50年に黒川古文化研究所理事となり、また、昭和51年には勲三等旭日中綬章を受章した。昭和62年、京都府文化賞特別功労賞を受賞した。長廣の学風は、西洋美術史の様式論の古代中国青銅器研究への応用という初期から、雲岡石窟における多年の調査に基づく実証性と『飛天の芸術』に示されるようなダイナミックな思考方法を特色とする中期、さらには後年、芸術と人、芸術と思想に対する研究へと転換してゆくが、一貫して横たわるのは芸術に対する豊かな感性である。さらに特筆すべきは、長廣自身「飯よりもすき」(『中国美術論集』あとがき)と述べる音楽に対する深い造詣であり、西洋古典音楽に関する評論も多数のこした。以下に主な著書を掲げるが、論文を含む詳細な業績については、「長廣敏雄教授著作目録」(『東方学報』京都第41冊・昭和45年3月)及び『アプサラス-長廣敏雄先生喜寿記念論文集』所載の著作目録に詳しい。また、自叙伝としては、「私の歩んだ道」(1)~(4)(『古代文化研究』43・平成3年2月~12月・刊行中)及び『雲岡日記』(日本放送出版協会・昭和63年)がある。主要著書『響堂山石窟』(水野清一共著・東方文化学院京都研究所・昭和12年)『メルスマン音楽通論』(翻訳・第一書房・昭和14年、昭和28年に音楽書院より改訂版)『龍門石窟の研究』(水野清一共著・座右宝刊行会・昭和16年)『リーグル美術様式論』(翻訳・座右宝刊行会・昭和17年、岩崎美術社より改訂版)『古代支那工芸史に於ける帯鈎の研究』(東方文化学院京都研究所・昭和18年)『大同の石仏』(水野清一共著・座右宝刊行会・昭和21年)『北京の画家たち』(全国書房・昭和21年)『大同石仏芸術論』(高桐書院・昭和21年)『飛天の芸術』(朝日新聞社・昭和24年)『雲岡石窟』16巻(水野清一共著・京大人文科学研究所刊・昭和26~31年)『敦煌』(中国の名画シリーズ)』(平凡社・昭和32年)『雲岡と龍門』(中央公論美術出版・昭和39年)『漢代画象の研究』(編著・中央公論美術出版・昭和40年)『南陽の画像石』(美術出版社・昭和44年)『六朝時代美術の研究』(美術出版社・昭和44年)『奈良の寺4 法隆寺五重塔の塑像』(岩波書店・昭和49年)『歴代名画記』1、2(訳注・東洋文庫305・311・平凡社・昭和52年)『中国美術論集』(講談社・昭和59年)

望月信成

没年月日:1990/05/28

読み:もちづきしんじょう  元大阪市立美術館長・元大阪市立大学教授の望月信成は5月28日午後2時34分、肝不全のため大阪市天王寺区の大阪警察病院で死去した。享年90。明治32(1899)年6月14日、京都市に生まれる。父は、仏教大辞典の著者である知恩院管長も勤めた信享である。大正15年3月に東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業し、同年4月京都帝国大学大学院に進んだ(昭和4年卒業)。そして同年の9月に恩賜京都博物館鑑査員として永きにわたる公務のスタートを切る。その後、昭和6年4月より文部省帝国美術院付属美術研究所嘱託を勤め、昭和11年に大阪市美術館主事に転じた。以後、昭和24年9月同美術館長・昭和25年大阪市立大学教授に任ぜられるのをはじめ、様々な役職をこなし大阪の文化の発展に尽くした。その役職には、昭和21年大阪府史跡名勝天然記念物調査協力委員、同年大阪財務局書画骨董調査協力会委員、昭和23年大阪府社会教育委員会委員、昭和24年大阪市理事、昭和25年大阪ユネスコ協会理事、昭和29年大阪府文化財専門委員、昭和40年大阪緑化委員、同年大阪屋外広告物審議会委員などがある。大阪市立美術館時代の美術館行政については、後に自伝として『一筋の細い道』(昭和59年・前田清文堂)で語っている。 昭和39年に大阪市立美術館長・大阪市立大学教授退職の後は、昭和43年より同54年まで帝塚山学院大学教授、昭和43年より同60年まで財団法人美術院理事長と、美術教育及び文化財保護事業に継続して尽くした。この他後進の教育には、高野山大学、甲南女子大学に於て係わった。また、理事・評議員として関与した美術館には、藤田美術館、白鶴美術館、逸翁美術館があり、昭和41年には兵庫県美術館建設委員会委員となっている。 僧籍にあった関係上、昭和9年知恩院什宝係主任、昭和10年知恩院保存会委員、昭和28年浄土宗美術部講師、昭和31年浄土宗本派審議会委員を勤め、昭和39年浄土宗大僧正となっている。 以上の業績に対して、昭和33年日本博物館協会総裁より永年博物館事業尽力表彰、昭和39年大阪府社会教育功労者表彰、同年大阪府大阪市文化賞、昭和45年勲四等旭日章を受けている。 昭和40年第19回毎日出版文化賞を受賞した『仏像-心とかたち-』(共著、日本放送出版協会 昭和40年)をはじめとして仏教美術を中心としたその著作は多い。主要著書絵巻物鑑賞 宝雲社 昭和15支那絵画史 白揚社 昭和16日本上代彫刻 創元社 昭和18仏像仏画の話 大東出版社 昭和24美の観音 創元社 昭和35広隆寺 山本湖州写真工芸部 昭和38大阪府文化財図説(彫刻扁) 大阪府教育委員会 昭和38続仏像-心とかたち- 日本放送出版協会 昭和40わびの芸術 創元社 昭和42日本の水墨画 河原書店 昭和42日本仏教美術史 教育新潮社 昭和43常識としての仏像知識 浄土宗務庁 昭和50仏像をみる 学生社 昭和61神・仏と日本人 学生社 昭和62地蔵菩薩 学生社 平成1阿弥陀如来 学生社 平成3

村岡正

没年月日:1990/02/12

庭園文化研究所長、文化庁文化財保護審議会専門委員の村岡正は、2月12日心不全のため京都市下京区の武田病院で死去した。享年64。日本庭園史研究の第一人者であった村岡正は、大正15(1926)年1月20日京都市に生まれ、昭和24年京都大学農学部林学科を卒業した。その後、森蘊と各地の庭園調査を進め、同43年6月自宅に庭園文化研究所を設立し自らは次長(同63年所長)に就いた。京都府加茂町の浄瑠璃寺、岩手県平泉の毛越寺などの庭園の復元、整備を手がけ、同53年5月、日本造園学会賞を受賞、同60年には地域文化功労者として文部大臣表彰を受けた。この間、京都大学農学部、千葉大学園芸学部の非常勤講師をつとめた他、奈良国立文化財研究所調査員(同58年5月)、京都市文化財保護審議会委員(同59年8月)、滋賀県文化財保護審議会委員(同59年7月)となる。同61年7月、文化庁文化財保護審議会専門委員に就任、同年8月には平城、飛鳥、藤原宮跡調査整備指導委員会委員となる。また、同62年から財団法人日本造園修景協会評議員、京都市史跡管理協会理事を、翌年から社団法人日本庭園協会理事をつとめた。復元、整備に携わった庭園は、他に西本願寺滴翠園、高台寺庭園、東本願寺渉成園、観自在王院庭園など数多く、著書に『桂・修学院』『京都枯山水庭園図譜』などがある。

高田克己

没年月日:1989/12/19

元大阪市立大学教授、元関西女子美術短大学長の高田克己は、12月19日午前8時29分、脳こうそくのため、大阪府済生会茨木病院で死去した。享年83。明治38(1905)年12月25日、福岡県朝倉郡に生まれる。昭和5(1930)年、東京美術学校図画師範科を卒業して、同年大阪市立西華高等女学校教諭となる。同22年同市立女子専門学校教授となり、24年より大阪市立大学助教授を兼務。翌25年女子専門学校を退く。37年3月工学博士となる。同43年大阪市立大学教授となり、翌44年停年退職。同年より非常勤講師として同大学で教鞭を取り、また大手前女子大学文学部哲学科美学美術史学科教授となって50年まで在職。同50年5月、関西女子学園短期大学教授兼学長となる。(同年6月、同大学は関西女子美術短期大学と改称。)同61年、同大学を退いた。「動宜均斉的観察の対象例 茶室(一)~(三)」(昭和27年3月)、「営造意匠と規矩法」(同29年3月)、「『孝工記』にあらわれた営造意匠の法式の研究」(同36年9月)、「伝幡した意匠」(同40年11月)などを著し、日本建築学会、日本デザイン学会、色彩科学協会、関西意匠学会、美術史学会に所属した。

谷川徹三

没年月日:1989/09/27

哲学者で、思想、芸術、文学など広範な領域で評論活動を行い、平和運動にも積極的にかかわった文化功労者、日本芸術院会員の谷川徹三は、9月27日虚血性心不全のため東京都杉並区の自宅で死去した。享年94。帝室博物館次長、法政大学総長、財団法人明治村理事長などを歴任した谷川徹三は、明治28(1895)年5月28日愛知県知多郡に生まれた。愛知県立第五中学校、第一高等学校を経て、西田哲学にひかれ京都帝国大学文学部哲学科へ進み、大正11(1922)年卒業した。その後、竜谷大学、同志社大学、京都市立絵画専門学校などで講師をつとめ、昭和3年法政大学教授に就任、のち文学部長となる。また、和辻哲郎、林達夫らと雑誌「思想」の編集に携わる。戦前の著作に『感傷と反省』(大正14年、岩波書店)、『生活・哲学・芸術』(昭和5年、岩波書店)などがあり、宮沢賢治の研究、紹介は戦後にも及んだ。戦後は雑誌『心』同人に参加。同20年11月から翌年11月までの間中央公論社理事、同21年11月から同23年6月まで帝室博物館(のち国立博物館)次長、同38年2月から同41年8月の間、法政大学総長をつとめた。同50年日本芸術院会員となり、同62年には文化功労者に顕彰された。この間、柳宗悦らとの交際をはじめ、はやくから映画を含む芸術活動全般に深くかかわり、卓越した鑑賞能力により芸術作品へもすぐれた洞察を示し、多くの評論、随想を残している。戦後の著作に、『東と西の間の日本』(昭和33年、岩波書店)、『芸術の運命』(同39年、岩波書店)、『茶の美学』(同52年、淡交社)、『生涯一書生』(同63年、岩波書店)などがある。没後、従三位勲一等瑞宝章が追贈された。

西川寧

没年月日:1989/05/16

書家、中国書道史家で、日本芸術院会員、文化勲章受章者の西川寧は、5月16日急性心不全のため東京都目黒区の東京共済病院で死去した。享年87。現代書道界の重鎮として活躍した西川寧は、明治35(1902)年1月25日西川元譲の三男として東京市向島区に生まれた。はじめ吉羊と号し、のち安叔と字し、靖庵と号す。父元譲は字を子謙、号を春洞と称した書家で、幼時から神童をうたわれ、漢魏六朝普唐の碑拓法帖が明治10年代にわが国にもたらされるや、その研究に志し、また説文金石の学にも通じ書家として一派をなした。13歳で父春洞を亡くし、大正9(1920)年東京府立第三中学校を経て慶應義塾大学文学部予科に入学、この頃中川一政と親炙した。同15年同大学文学部支那文学科を卒業。在学中、田中豊蔵、沢木梢、折口信夫の学に啓発された。卒業の年から母校で教鞭をとり、のち同大教授として昭和20年に及んだ。昭和4年、中村蘭台主催の萬華鏡社に加わり、翌5年には金子慶雲らと春興会をおこし雑誌「春興集」を創刊、また、泰東書道院創立に際し理事として参加、この時、河井荃廬と相識る。同6年、最初の訪中を行い、同年『六朝の書道』を著す。同8年、金子、江川碧潭、林祖洞、鳥海鵠洞と謙慎書道会を創立。同13年、外務省在外特別研究員として北京に留学、同15年までの間、山西(大同雲崗他)、河南(殷墟)、山東(徳州、済南他)など各地の史蹟、古碑を訪ね、中国古代の書を独力で精力的に研究し、帰国後の創作ならびに研究活動へと展開させた。とくに、創作においては、従来とりあげられることの少なかった篆書・隷書に、近代的解釈を加え独自の書風を確立していったのをはじめ、楷書においては、六朝の書風を基礎とした豪快な書風を確立して書道界に新風を吹き込んだ。同16年『支那の書道(猗園雑纂)』を印行、同18年には田屋画廊で最初の個展(燕都景物詩画展)を開催した。戦後は、同23年に日展に第五科(書)が新設されて以来、審査員、常務理事などをつとめ運営にあたった。同30年、前年の日展出品作「隷書七言聯」で日本芸術院賞を受賞、同44年日本芸術院会員となる。この間、同24年、松井如流と月刊雑誌『書品』を創刊、同56年まで編輯主幹をつとめ、また、同22年から37年まで東京国立博物館調査員として中国書蹟の鑑査と研究にあたったほか、自ら深く親しんだ中国・清朝の書家趙之謙の逝去七十年記念展をはじめ、同館の中国書の展観を主辨した。また、同35年には、「西域出土 晉代墨跡の書道史的研究」で文学博士の学位(慶應義塾大学)を受けた。一方、同34年から同40年まで東京教育大学教授をつとめたほか、東京大学文学部、国学院大学でも講じた。戦後も二度中国を訪問、また、ベルリン、パリ、ロンドン等を二回にわたって訪ね、ペリオ、スタイン、ヘディン等によって発掘された西域出土古文書の書道史的調査を行った。同52年、文化功労者に挙げられ、同60年には書家として初めて文化勲章を受章した。作品集に『西川寧自選作品』(同43年)、『同・2』(同53年)等、著書に『猗園雑纂』(同60年再刊)等がある他、すぐれた編著書を多く遺す。没後、従三位勲一等瑞宝章を追贈される。また、自宅保存の代表作の殆んどを含む遺作百数十点余は、遺志により東京国立博物館へ寄贈された。平成3年春から著作集の刊行が予定されている。

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