本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





秋山光夫

没年月日:1977/01/16

金沢美術工芸大学名誉教授、美術史家秋山光夫は、老衰のため1月16日、東京都世田谷区の自宅で死去した。享年88。明治21年4月3日、三島大社宮司秋山光條、安子の長男として静岡県田方郡に生まれた。秋山家は、古く甲州武田に仕えたが、武田滅後三州岡崎に住した。その後元文年中江戸に出て北町奉行与力となり、幕末まで七代にわたりその職をついだ。その間学芸、風雅の道を嗜む者多く、維新後光條は国学の素養を生かして明治政府の神祗官を務め、出雲大社ほか各官幣大社を歴任し、三島についで八阪神社宮司となり一家は京都に移った。光夫は、京都府立第一中学校、第六高等学校を経て、東京帝国大学法科大学に入学したが、芸術への愛着断ち難く、京都帝国大学文科大学哲学科に転じて美学美術史学を専攻、大正2年7月卒業した。ついで大学院に入り、京都絵画専門学校などで美術史を講じたが、大正7年3月、図書頭兼帝室博物館総長、鴎外・森林太郎の推輓により宮内省図書寮に奉職、大正13年6月宮内省御物管理委員、15年4月帝室博物館監査官となった。昭和4年12月より同6年6月まで、海外における東洋美術研究及び美術館の施設研究のため欧米10ヵ国へ留学したが、その成果はやがて東京帝室博物館新館(13年12月開館、現東京国立博物館本館)の設備や陳列計画のなかに生かされ、また在外日本美術品の学界への紹介となった。同14年ベルリン日本美術展覧会委員、同16年6月文部省重要美術品等調査委員会委員となり、同17年7月東京帝室博物館学芸課長に就任、同20年8月退官した。同年10月日本美術協会専務理事、同25年4月金沢美術工芸短期大学教授、同30年4月金沢美術工芸大学教授、同40年2月金沢美術工芸大学長、同年5月石川県文化財専門委員となり、同42年11月金沢市文化賞を受賞、同44年3月学長を辞し、同年4月名誉教授となった。その他就任した役職としてはブリヂストン美術館参与、文化学院理事等がある。学長退任帰京後もなお調査研究への意欲衰えず、論文の執筆も行われたが、作歌や画作に心を澄ますことが多くなり、死去の前年末近くまで画筆を離さなかった。死去に際し勲三等に叙せられ、瑞宝章を授けられた。その調査研究は、昭和2年以来毎秋特別調査に従事した正倉院御物に関するものをはじめ、絵巻物・中国画にも及んだが、その中心は桃山時代から江戸時代に瓦る絵画史研究であって、先駆的業績も少くない。論文の多くは『日本絵画史論攷』(昭和18年)に収められている。このほか著書として『御物若冲動植綵絵精影』(昭和2年)、『桃山時代障壁画集』(昭和4年)、『二条離宮障壁画大観』(昭和15年)、『青山荘清賞』日本画篇第二(絵巻物、昭和18年)があり、『東山水墨画集』、『宋元名画集』 の編纂に参画した。歌集に『開扉抄』(昭和41年)がある。

中川千咲

没年月日:1976/12/23

共立女子大学家政学部教授、元東京国立文化財研究所美術部長中川千咲は、肝不全のため、12月23日午後11時30分、東京大塚の癌研究所附属病院で死去した。享年66。わが国美術史学及び文化財保護事業の先覚者中川忠順の次男として、明治43(1910)年4月3日、東京で出生、昭和9(1934)年3月早稲田大学文学部史学科を卒業し、同年4月帝国美術院附属美術研究所(現在の東京国立文化財研究所の前身)に入り、47(1972)年3月定年により退官するまで38年間在職した。この間昭和16(1941)年6月応召して21(1946)年6月まで兵役にあり、また官制改正により美術研究所が国立博物館の附属機関となった22年(1947)5月から26年(1951)1月まで、兼任で東京国立博物館陳列課に勤務したが、再び組織規程の改正によって同年2月から研究所に戻った。30(1955)年6月、東京国立文化財研究所美術部資料室長、44(1969)年4月美術部長となったが、一貫して研究資料の充実に尽瘁し、また、美術部の運営と発展に不撓の努力を続けた。 専門の工芸史の分野では研究を凝集した「日本の工芸」の著があり、特に古陶磁を中心とする意匠と文様に関して新分野の開拓につとめ、古九谷、古伊万里、仁清等の色絵から中国陶磁に及ぶ別項の如き多数の論考が見られる。開国百年記念事業会編「明治文化史美術編」に執筆した「明治の工芸」は、従来等閑視されていた時代の工芸史に体系的整理を加えた画期的な労作であったが、これを機に伝統的技法による現代陶芸に研究領域を拡げ、「板谷波山」などの作家論を著わすとともに、29(1954)年以来日本伝統工芸展の審査委員として、現代工芸の発展と技術者の育成に尽力するに至った。35(1960)年11月には東京都文化財保護審議会専門委員となって都文化財の調査指定に協力し、36(1961)年4月より43(1968)年6月まで文化財保護委員会事務局に併任、45(1970)年3月文化庁文化財保護審議会臨時専門委員、47(1972)年7月には専門委員として、無形文化財の調査指定、保護活用にあたり、49(1974)年12月からは通産省伝統的工芸品産業審議会専門委員として、伝統産業の育成繁栄に指導的役割を果した。 また23年(1948)以来順次早稲田大学、慶應大学、東京芸術大学、武蔵野美術大学、工学院大学、東京造形大学等諸大学の非常勤講師として、48年(1973)4月からは共立女子大学家政学部教授として、永年にわたり広く後進の指導育成にもつとめた。没後、勲四等旭日小綬章の追贈を受けた。主要編著書目録書名 出版社 年月古九谷(陶器全集8) 平凡社 33.7日本の工芸 吉川弘文館 38.11板谷波山伝(吉沢忠共著) 茨城県 42.4原色日本の美術19・陶芸(田中作太郎共編) 小学館 42.10板谷波山(出光美術館選書)美術出版社 44.6明治の工芸(日本の美術41) 至文堂 44.9赤絵(日本の美術71) 至文堂 47.4陶器講座11日本5江戸前期2 雄山閣 47.12仁清(陶磁大系) 平凡社 49.3九谷焼(日本の美術103) 至文堂 49.12板谷波山(近代の美術33) 至文堂 51.3現代の陶芸 1.2.5.8.9 講談社主要論文目録巻 年月古九谷色絵花鳥文大平鉢解説 美術研究 44号 10.8能作生塔 解説 美術研究 46号 10.10古九谷花鳥文中皿 解説 美術研究 49号 11.1孔雀文磬 解説 美術研究 49号 11.1長尾氏蔵五鈷鈴解 美術研究 52号 11.4色鍋鳥芙蓉菊文様大皿 美術研究 62号 12.2所謂南蛮唐草の一種について 美術研究 159号 26.2織部銹絵角皿 ミュージアム 5号 26.8九谷焼 ミュージアム 20号 27.11紫外線による古陶磁の実験 美術研究 168号 28.2中国古陶磁の文様 ミュージアム 25号 28.5高麗青磁と青磁象嵌の文様について 美術研究 175号 29.5高麗青磁と象嵌鳳凰雲鶴文小箱 解説 美術研究 175号 29.5古九谷意匠瞥見 陶説 18号 29.9光学的方法による古美術品の研究―工芸 東京国立文化財研究所 30.3古九谷意匠の一考察 美術研究 180号 30.3高麗象嵌青磁の模様(世界陶磁全集13 朝鮮) 河出書房 30.10嘉靖万暦の模様(世界陶磁全集11元明) 河出書房 30.12高麗青磁透彫筥 大和文華 19号 31.3織部焼の意匠 美術研究 185号 31.3明治の工芸(明治文化史美術篇) 開国百年紀念事業会 31.3再興九谷および九谷系(世界陶磁全集6 江戸下) 河出書房 31.5清朝陶磁の画題(世界陶磁全集12清朝) 河出書房 31.8明治期窯業と宮川香山 美術研究189号 31.11江戸時代の工芸上・下(日本文化史大系) 小学館 32.5青白磁水注 大和文華 27号 33.9古瀬戸の文様 美術研究 201号 33.11法花茄紫地牡丹孔雀文壺 大和文華 31号 34.1柿右衛門・古伊万里・鍋島の文様 陶説 74号 34.5いわゆる祥瑞丸文装飾のある古九谷について 美術研究 207号 34.11明治・大正期の陶芸(日本美術大系) 講談社 35.1仁清作色絵罌粟文茶壺 ミュージアム 111号 35.6安土桃山時代―現代の陶芸(日本美術史下) 美術出版社 35.12日本・東洋の陶芸(玉川百科大辞典) 誠文堂新光社 36.5仁清意匠の一考察 美術研究 216号 36.5伝統工芸と民芸(世界美術全集11(日本近代) 角川書店 36.9染付の文様 ミュージアム 126号 36.9工芸と意匠(世界美術全集5 日本平安2) 角川書店 37.1嘉靖襴手瓶の意匠 美術研究所 223号 37.7呉須赤絵の蓮と牡丹の模様 ミュージアム 138号 37.9青白磁童子模様瓶について 美術研究 229号 38.7いわゆる高台寺蒔絵の一硯箱と高台寺の蒔絵 美術研究 235号 39.7近世の工芸(世界美術大系日本美術近世) 講談社 39.7織部焼の意匠 日本美術工芸 320号 40.5明治後期陶磁工芸の一動向 美術研究 240号 40.5古九谷 月刊文化財 24号 40.9桃山のデザイン(世界美術全集8 日本桃山) 角川書店 40.10平安の工芸意匠 日本美術工芸 326号 40.11古伊万里色絵婦女図壺の一作品 美術研究 246号 41.5明治期の陶芸 ミュージアム 203号 43.2仁和寺蔵宝相華蒔絵宝珠箱の文様について 美術研究 256号 43.3明治末大正初期の陶芸 美術研究 261号 44.12江戸時代陶芸の流れ ミュージアム 235号 45.10明治百年の古九谷研究 (古九谷) 集英社 46.7丸文のある古九谷の二作品 美術研究 275号 46.11古九谷色絵蓮にかわせみ図解説 国華 968号 49.5「仁清」京文化を土で焼出した名匠 歴史と人物 42号 50.2

瀬戸慶久

没年月日:1976/07/01

武蔵野美術大学教授、西洋美術史専攻の瀬戸慶久は、7月1日、午前6時50分、肝不全のため東京・赤坂の虎の門病院で死去した。享年49。瀬戸慶久は、大正15(1926)年9月29日、東京都杉並区に生まれ、東京高師附属中学校をへて、昭和22年早稲田大学文学部芸術学科に入学、昭和25(1950)年3月卒業、同大学文学部大学院にすすみ西洋美術史を専攻し昭和29年同大学院を修了して早稲田大学文学部助手となった。昭和34年(1959)4月武蔵野美術大学講師、同39年4月武蔵野美術大学助教授となり西洋美術史の講義を担当、同44年(1969)4月同美大教授となった。西洋の近世美術史、とりわけスペイン美術史を専門に研究をつづけ、かつその成果を発表していた。昭和45年朝日新聞主催スペイン美術展では実行委員をつとめた。主要な著書、訳書、論文は下記のとおりである。主要著作目録* 著書・訳書スペイン絵画のルネッサンスとバロック(世界名画全集8) 平凡社 昭和35年9月ブリューゲルとその時代(共著、別冊みづゑ33) 美術出版社 昭和37年7月ゴヤの生涯(共著、別冊みづゑ) 美術出版社 昭和37年10月幼想の絵画(近代世界美術全集8) 社会思想社 昭和38年9月芸術形式の起源(ハーバード・リード著) 紀伊国屋書店 昭和41年7月ゴヤ(ホセ・グディオル著) 美術出版社 昭和41年10月西洋美術事典(共訳、ピーター・マリー著) 美術出版社 昭和43年4月エル・グレコ(レオ・ブロンスタン著) 美術出版社 昭和44年7月イギリス 2、作品解説(原色世界の美術9) 小学館 昭和45年3月ドイツ・オーストリア1作品解説(原色世界の美術) 小学館 昭和45年グレコ、ベラスケス、ゴヤ作品解説(スペイン美術) 朝日新聞社 昭和46年12月グレコ、ベラスケス、ゴヤ(ファブリ研秀 世界美術全集5巻) 研秀出版 昭和50年8月* 論文、書評エル・グレコの現代における評価について 早大文学部編 綜合世界文芸 昭和29年7月ザーリス著「古代とルネッサンス」(書評) 美学30号 昭和33年9月エル・グレコの作品解釈の問題 美学35号 昭和33年12月レンブラントの生涯 学燈59-11 昭和37年11月原作と再作品―複製の問題 美術史研究4号 昭和41年3月絵画の技法―素地の材料と道具 武蔵野美大編研究紀要5 昭和43年3月ペヴスナー著「美術アカデミーの歴史」(書評) 中央大学「学員時報」 昭和49年9月

西村兵部

没年月日:1976/06/03

大阪市立美術館長西村兵部は心筋こうそくのため、6月3日、京都市の鞍馬口病院で死亡した。享年56。大正9(1920)年5月28日大阪市に生まれ、関西学院専門部文学部英文科を経て昭和19(1944)年9月台北帝国大学文政学部史学科を卒業した。奈良の育英高等学校教諭の後、昭和23年2月から昭和47年3月末まで奈良国立博物館に勤務し(その間、昭和36年4月から資料室長、昭和39年7月から普及室長、昭和42年1月に再び資料室長―美術室併任―、同年4月以降学芸課長)、昭和47年4月から大阪市立美術館長となった。この間、染織工芸史の研究を専門とし、正倉院宝物の古裂調査を宮内庁より委嘱されたり、奈良女子大学、京都市立芸術大学の非常勤講師もつとめた。従五位勲五等双光旭日章を追贈。染織工芸史の研究では特に上代裂の調査・研究に注目される数々の業績があった。主要著書エジプトの染織 有秀堂 昭和38年繍佛 角川書店 昭和39年正倉院展目録(染織・服飾特別展) 奈良国立博物館 昭和40年コプトの染織 美術出版社 昭和41年織物(日本の美術12) 至文堂 昭和42年毛利家伝来衣裳 講談社 昭和44年インド・東南アジアの染織 美術出版社 昭和46年紋織Ⅱ(日本染織芸術叢書) 芸艸堂 昭和46年漢唐の染織(共著) 小学館 昭和48年名物裂(日本の美術90) 至文堂 昭和48年故宮博物院図録―染織―(共著) 講談社 昭和49年紋織Ⅰ(日本染織芸術叢書) 芸艸堂 昭和50年

富田幸次郎

没年月日:1976/04/10

ボストン美術館アジア部名誉部長富田幸次郎は4月10日、老衰に肺炎を併発し、入院中のベス・イスラエル病院で死去した。享年86。明治23(1890)年3月7日京都市で生れた。父富田幸七、母ランで、父幸七は好室と号し漆芸家で、京都市立美術工芸学校教諭の職にあった。富田幸次郎は、明治39(1906)年京都市立美術工芸学校を卒業し、同校専攻科において漆芸研究中、農商務省海外実業練習生に選ばれ、同時に京都市嘱託として渡米し、ボストンに留学した。父幸七と、漆芸家六角紫水とは親交あり、六角紫水は岡倉天心の知遇を得て当時ボストン美術館に在任中であった。このような経緯から幸次郎の渡米が成ったともいわれる。ボストンに到着後、ボストン美術館日本部々長であった岡倉天心に迎えられ、農商務省海外実業練習生及び京都市嘱託のまま、ボストン美術館日本部嘱託員をなった。以後、支那日本部助手、同管理員、同副部長を歴任、昭和6(1931)年支那日本部を改称したアジア部部長に就任した。昭和38年73歳をもって、勤続56年にわたるボストン美術館を後進に道を譲るために引退した。この間専ら東洋美術の収集、整理と紹介につとめた。ボストン美術館日本部は、フエノロサ及び岡倉天心らの多大な尽力によって創設されたもので、特に東洋美術品の収蔵は約10万点も数え、その80%は日本美術といわれる。その資料的価値は世界第一であり、同美術館が世界的に有名なのも上記理由によるが、これらは創設者についで富田幸次郎の50有余年にわたる、不断の努力精進に負うものであることは、内外の関係者が等しく認めるところである。また美術を通じて米国人の間に多くの知己を有し、中でもハーバード大学付属フォグ美術館東洋美術部主任の地位にあった故ウォーナー博士とは多年に亙る深い親交を結んでいた。第二次大戦において、京都及び奈良が爆撃の被害を免かれたのは、もとより故ウォーナー博士の努力に負うところが大であったが、そのかげに富田幸次郎の尽力があったことは掩うべからざる事実である。美術館活動における功績のほか、このように米国人との交流、さらに識見、円満な人格が多くの尊敬を集め、大戦中も米国当局は抑留せず、アジア部長の職をも奪わないという異例の措置をとった。また在任中行った講演、著作など数多い。(本文及略歴は、茨城大学五浦美術文化研究所所報6号「富田幸次郎先生を偲んで」緒方広之執筆を参照した。)略歴明治23年(1890) 3月7日、京都市に生る。父富田幸七、漆芸家、京都市立美術工芸学校教諭。号好室。明治40年(1907) ボストン美術館支那・日本部部長岡倉天心の知遇をうけ、農商務省海外実業練習生及京都市嘱託のまま、ボストン美術館支那日本部嘱託員となる。昭和41年(1908) ボストン美術館支那・日本部助手となる。ニューヨーク、メトロポリタン美術館の臨時嘱託員として1年間勤務。明治42年(1909) 帝室博物館依嘱により、ボストン市在住蒐集家よりの寄贈受入のための選択の任に当る。ハーバード大学夏期講習を受講。農商務省実業練習生期間満了。京都市嘱託継続。明治43年(1910) 日英博覧会日本出品協会事務取扱を嘱託され、英国に滞在する。フランス、ベルギーを視察。明治44年(1911) 日本国内博物館視察の用務をおび出張。(第1回帰国)大正2年(1913) ボストン美術館支那・日本部の管理員となる。(この年岡倉天心没)大正5年(1916) ボストン美術館支那・日本部の副部長に就任。大正8年(1919) 美術調査の用務をおび帰国。(第2回帰国)大正12年(1923) Miss Hariet E. Dickinsonと結婚。大正13年(1924) 美術調査の用務をおび帰国。(第3回帰国)この間茨城県五浦を訪問、天心未亡人と会合し、天心の墓参をする。昭和6年(1931) ボストン美術館アジア部部長に就任。昭和10年(1935) ハーバード大学創立三百年記念事業である「日本古美術展」をボストン美術館で開催するため、借用要請の用務をおび帰国する。(第4回帰国)帰途印度、欧州を経由。昭和11年(1936) 前年要請の「日本古美術展」出品作品借用の用務にて、エジウェル館長とともに帰国。(第5回帰国)昭和14年(1939) ボストン美術館アジア部長とともに、セーラム市のピーポディ博物館日本部名誉部長に就任する。昭和16~20年(1941~1945) 日米開戦により、在留邦人は抑留されたが、何等制約を受けず、職も在任のまま継続された。さらに「戦争地域における、芸術的、歴史的記念物を保護救済することを目的とする委員会」の一員として、日本部主任ラングドン・ウォーナー博士を助け、日本の文化財保護のため尽力した。昭和28年(1953) 米国に帰化する。昭和33年(1958) ボストン美術館在勤50年を機に、東洋美術の調査を兼ね、世界周遊旅行の途次来日した。(第6回帰国)政府は多年米国に在って、東洋並びに日本美術の蒐集、整備、紹介等における活動に対し、また第二次大戦中の日本文化財保護の努力、その他一般文化面での功績に対し、勲三等瑞宝章を贈った。なおこの折、横浜市の「岡倉天心生誕之地記念碑」除幕式に出席し、又法隆寺に建立されたラングドン・ウォーナー博士の供養塔除幕式にも出席した。昭和34年(1959) 長年東洋美術研究に寄与した広汎な活躍に対し、ボストン大学から表彰される。昭和36年(1961) アメリカ美術科学会員に推される。昭和38年(1963) 後進に道を開くため、73歳を機にボストン美術館を退職する。9月、夫妻で日本訪問旅行する。(第7回帰国)秋、茨城大学五浦美術文化研究所に建立された岡倉天心記念館の開館式に出席する。昭和51年(1976) 4月10日逝去。著作目録○ ボストン美術館所蔵支那名画目録(漢―宋時代)第2版 1938年の編纂及解説○ ボストン美術館所蔵支那名画目録(元明清時代)初版 1960年の編纂及解説○ Encyclopaedia Britanicaの中Art, Screenの項執筆。○ 農商務省彙報、京都美術への報告、寄稿。○ Bulletin Of The Museum Of Fine Arts, Bostonへの東洋美術品の解説及紹介等。

上野照夫

没年月日:1976/01/17

京都大学名誉教授、嵯峨美術短期大学教授上野照夫は、1月17日午後0時8分心不全のため京都大学附属病院で死去した。享年68。明治40(1907)年10月22日徳島市に生まれ、大阪市立築港小学校、同府立市岡中学校、大阪外国語専門学校仏語科をへて、昭和4年大阪高等学校文科乙類卒業。同年京都帝国大学文学部に入学、哲学科美学美術史を専攻し植田寿蔵教授に師事、同7年卒業し大学院へ進んだ。翌8年京都帝大文学部副手(12年まで)となり、同12年京都大学勤務(15年までと17年から18年まで)を嘱託さる。同26年4月京都大学教養部教授となり、同43年6月に京都大学文学部教授に配置換え、同46年3月退官した。同年4月京都大学名誉教授の称号を受け、嵯峨美術短期大学教授となり没年まで教鞭をとった。この間、同23(1948)年『仏教芸術』創刊号に「印度仏教美術の研究―アルベルト・グリュンヴェ-デルの業績」「一印度美術史徒の感想」を発表、仏教芸術学会委員として、以後同誌の編集に携わったのをはじめ、同33年11月から翌年3月まで、京大関係者で組織されたインド仏跡踏査隊に参加し、長尾雅人らとインド各地の美術調査を行ったほか、関西大学、京都市立美術大学などでも教鞭をとり、また同46年から京都国立近代美術館、京都市美術館の評議員もつとめた。インド及び日本、東洋の美術史家として、とくにインド美術史研究者の草分けとして知られ、多くの論文、著書を残したが、一方同23年10月に結成されたパンリアル美術協会の指導的立場に立つなど、現代美術に対しても理解と影響力をもった評論家としても知られる。京大を退官するにあたって関係者によって出版された『ある停年教授の人間像』(永田書房、昭和46年)に、よくその人柄が偲ばれる。没後正四位に叙せられ勲三等瑞宝章が贈られた。主要著書目録『日本肖像画』(弘文堂 昭和15年)『日本美術図譜』(共著 弘文堂 昭和19年)『西洋美術図譜』(共著 弘文堂 昭和24年)『世界美術全集22 オリエント(3) イスラム』(共著 角川書店 昭和37年)『インド-カラーガイド』(保育社 昭和38年)『インドの美術』(中央公論美術出版 昭和39年 毎日出版文化賞受賞)『世界の文化3 インド』(編集 河出書房新社 昭和40年)『インド美術』(共著 日本経済新聞社 昭和40年)『世界の美術館32 カルカッタ美術館』(編集 講談社 昭和45年)『芸術の理解・美術芸術学編』(精華社 昭和45年)『インドの細密画』(中央公論美術出版 昭和46年)『インド美術論考』(平凡社 昭和48年)

堀米庸三

没年月日:1975/12/22

西洋中世史の研究で知られ、中世美術史についての造詣も深かった東京大学名誉教授、堀米庸三は、12月22日午前7時5分、肺ガンによる呼吸不全のため東京・新宿区の厚生年金病院で死去した。享年62歳。堀米庸三は、大正2年(1913)2月24日、山形市西村山郡に生まれ、昭和9年第一高等学校を卒業、昭和12年(1937)東京帝国大学文学部西洋史学科を卒業した。その後、大学院をへて昭和13年東京帝大西洋史学科副手、昭和16年神戸商科大学予科講師、助教授、昭和22年北海道帝国大学助教授、同26年北海道大学文学部教授から、昭和31年東京大学文学部教授となり、昭和48年(1973)定年退官した。その間、昭和33年1月~昭和34年8月フルブライト留学生、昭和41年6月~42年文部省在外研究員としてアメリカ、ヨーロッパに滞在して研究し、また、昭和44年(1969)、東大紛争の渦中で文学部長をつとめている。大学時代から今井登志喜に師事し、ヨーロッパ中世史を専攻、法制史の研究からしだいに文化史的研究にむかい、数多くの専門書、および歴史紀行などの随筆の著書を刊行している。主要な著作と美術関係著述目録日伊文化交渉史(日伊協会編) 昭和16年ドイツ中世農業史(ベロー、翻訳) 創元社 昭和19年中世国家の構造 日本評論社 昭和22年西洋中世世界の崩壊 岩波書店 昭和33年中世ヨーロッパ(「世界の歴史」第3巻) 中央公論社 昭和36年正統と異端(中公新書) 中央公論社 昭和39年歴史をみる眼 NHK 昭和39年歴史と人間 NHK 昭和40年歴史の意味(中公叢書) 中央公論社 昭和45年私のうちなるスペイン 芸術新潮 昭和45年6月西洋中世世界の展開 東大出版会 昭和47年デューラーと近代日本美術 芸術新潮 昭和47年6月ブリューゲルの時代(ブリューゲルの版画展目録) 昭和47年アンソールの国ベルギー(ジェームス・アンソール展目録) 昭和47年ゴシック美術(責任編集、総説 大系世界の美術第12巻) 学習研究社 昭和49年歴史と現在 中央公論社 昭和50年西欧精神の探求 NHK 昭和50年

小山冨士夫

没年月日:1975/10/07

陶磁研究家で、陶芸家としても知られていた日本陶磁協会理事、東洋陶磁学会常任委員長の小山冨士夫は、10月7日午後1時、心筋障害のため、岐阜県土岐市 の作陶の仕事場でもあった自宅で死去した。享年75歳。小山冨士夫は、明治33年(1900)3月24日、岡山県玉島市に生まれ、東京府立第一中学(現・ 日比谷高校)から東京商科大学(現・一橋大学)に入学したが、大正12年(1923)中途退学、その後さまざまの数奇な体験をへて作陶生活、ついで古陶磁 研究へすすみ、昭和5,6年ころ留学中の郭沫若と親交を結び、昭和10年代に中国諸地方の古窯址を踏査、そのなかでも昭和16年(1941)定窯古窯址を 発見の意義は大きかった。昭和18年12月には、いまなお名著として高い評価をうけている『支那青磁史稿』を発表した。戦後は、東京国立博物館調査員、文 化財保護委員会調査官として陶磁工芸の調査と文化財指定、各種陶磁全集の編集、評論に活躍し、昭和35年(1960)3月には第10回文部大臣賞芸術選奨 をうけた。とくに昭和29年(1954)の『東洋古陶磁』全6巻(美術出版社)は、数ヶ国語に訳出され、世界的に知られている著作である。同年秋、「永仁 の壷」重要文化財指定解除問題おこり、翌36年7月文化財保護委員会事務局を辞任した。また、昭和27年以降、毎年神奈川県立近代美術館における陶磁器展 の企画をはじめ、多くの陶磁器展に参画し、根津美術館嘱託、神奈川県文化財専門委員、出光美術館顧問、日本工芸会副理事長などを歴任した。官職辞任後も、 海外諸国の遺跡調査、学術講演に活躍し、一方昭和48年(1973)に土岐市に築窯して作陶生活を楽しみ、昭和49年11月、日本橋壷中居において「作陶 10年」展を開催した。略年譜明治33年(1900) 3月24日、岡山県浅口郡に、父善太郎、母幾無の長男として生まれる。父善太郎は花蓆を輸出する貿易商であった。明治37年 東京・麻布に転居、姉たちと近所のフレンド教会の日曜学校に通い、ボール博士の教えをうける。大正8年 3月、東京府立第一中学校(現・日比谷高校)を卒業。大正9年 4月、東京商科大学予科(現・一橋大学)に入学。大正12年 6月、東京商科大学を中退し、社会主義運動に共鳴し一労働者たることを決意してカムチャッカへ赴く。関東大震災の報をうけて帰国。フレンド教会の救済事業に従事する。12月、近衛歩兵第三聯隊に一年志願兵として入隊する。岡部長世を知り、陶器に興味をいだく。大正13年 11月、除隊。上野図書館に通い、館蔵の陶器関係図書を読破する。大正14年 2月、友人坂部甲次郎の紹介により瀬戸の矢野陶々に弟子入りする。兄弟子余郷潔につれられて小長曾古窯を訪れる。これが、古陶磁研究への発端となる。9月、近衛歩兵第三聯隊に見習士官として再入隊、11月予備歩兵少尉として除隊。12月、京都山科の真清水蔵六に弟子入りする。清閑寺、山科街道沿いに須恵器窯址を探る。大正15年 朝鮮半島、中国に旅行。旅行から帰り、京都市に借家し、独立して作陶する。昭和2年 3月、住いのすぐ前に石黒宗麿が越してきたため親交を結び、唐三彩などを試作する。昭和5年 京都・大丸で石黒宗麿と二人展。川喜田半泥子(久太夫)小山の作陶を買いあげる。4月、古陶磁研究を志して上京、東洋文庫へ通い、郭末若、江上波夫、三上次男などをしる。東洋陶磁研究所設立され、所員となる。昭和6年 毎日新聞社の本山彦一の古窯調査団に参加し、美濃、瀬戸、常滑の古窯を調査する。東洋文庫奥田誠一の仲介により横河民輔の中国陶磁コレクションの整理にあたる。昭和7年 奥田誠一の要請により東洋陶磁研究所(日本橋通3丁目松慶ビル)で雑誌『陶磁』の編集にあたり、論文を発表しはじめる。昭和8年 5月、奥田誠一の推薦で文部省宗教保存課国宝調査室嘱託となる。この年、京都時代の友人の社会主義者を泊めたという理由で碑文谷署に留置される。昭和9年 1月、文部省国宝調査室嘱託を辞職。6月~7月、国宝調査室の田沢金吾と薩摩古窯を調査。昭和15年 10月、中国東北区に旅行、遼陽缸官屯古窯、撫順大官屯古窯を調査。昭和16年 2月、田沢金吾との共著『薩摩焼の研究』刊。3月~5月、中国古窯址踏査旅行、河北・河南・山東・内蒙古を調査、4月10日に定窯古窯址を発見する。昭和17年 10月、文部省帝国美術院附属美術研究所嘱託、根津美術館嘱託となる。昭和18年 7月、『宋磁』刊(聚楽社)。12月、『支那青磁史稿』刊(文中堂)。昭和19年 5月~6月、中国東北区、モンゴル区を調査旅行し、林東の遼上京窯址、赤峰乾瓦窯址などを発掘調査する。『満蒙の古陶磁』刊(満蒙古蹟古物保存協会)。昭和20年 応召、少尉として朝鮮へ行き敗戦をむかえる。東洋陶磁研究所被災、焼失し、解散。昭和21年 日本陶磁協会設立に関与し、三上次男らと瀬戸古窯を発掘調査する。日本陶磁振興会理事昭和22年 7月、東京国立博物館嘱託となる。昭和23年 4月、東京国立博物館調査課勤務となる。昭和24年 文部技官となる。昭和25年 9月、文化財保護委員会の発足、美術工芸課勤務となる。昭和26年 4月、東京大学文学部講師(28年3月まで)。6月、神奈川県立近代美術館運営委員(50年10月まで)。昭和27年 8月、文化財保護委員会無形文化課勤務となる。昭和29年 美術出版社より図録『東洋古陶磁』全6巻の刊行はじめる。河出書房『世界陶磁全集』全16巻の編集に参加。昭和30年 2月、日本陶磁協会理事に就任。平凡社『陶器全集』全32巻の監修にあたる。昭和32年 5月~7月、アメリカ国務省からの招きで渡米、各地美術館を歴訪し講演する。昭和33年 中津川古窯址の発掘調査に参加。昭和34年 1月、文化財保護委員会無形文化課調査官となる。昭和35年 3月、第10回文部大臣賞芸術選奨(評論その他部門)をうける。昭和36年 7月、文化財保護委員会事務局を辞職する。昭和37年 3月~4月、イギリス国際文化振興会の招きによりイギリス各地を旅行、講演する。秋、正倉院の陶器の調査に参加。10月、神奈川県文化財専門委員となる。昭和38年 4月、出光美術館顧問となる。昭和39年 1月、エジプト、フスタート遺跡出土の中国陶磁を調査。3月、欧米諸国を旅行し、8月開催の「現代国際陶芸展」(朝日新聞社主催)に尽力する。この年から鎌倉の自宅で再び作陶をはじめる。昭和40年 3月、文化財専門審議会専門委員。4月~5月、中国政府より招かれ、新中国の各地を訪問、戦後発見の新資料を調査。昭和41年 2月、佐野美術館理事に就任。4月、和光大学教授会会員。5月、日本工芸会副理事長となる。同月、中国美術史研究日本学術代表団の一員として中国各地を旅行する。鎌倉の自宅に永福窯を築窯。昭和42年 4月、和光大学教授。6月、日本工芸会副理事長となる。昭和43年 3月~4月、フィリッピン美術史学会の招きによりマニラで開かれた陶磁交易ゼミナールに参加。タイ、シンガポール、ジャカルタ、バリ、サラワクのクチン、台湾などの窯址を調査。昭和44年 7月、国際芸術見本市協会理事となる。9月台北の故宮博物院を訪問、汝官窯を研究、「日本にある中国陶磁」について講演する。昭和45年 3月、台北・故宮博物院で「西方各国出土の中国陶器」と題して講演、蒋介石と会見する。昭和46年 4月、勲三等瑞宝章をうける。昭和47年 8月~9月、ヨーロッパ旅行。11月、神奈川文化章受賞。土岐市に花の木窯築窯。昭和48年 3月、和光大学教授を退職。5月、花の木窯初釜。同月、古田紹欽と柊画廊で二人展。6月、「現代日本の伝統工芸」展開催のため中国を訪問。7月、東洋陶磁学会発足し常任委員長となる。秋、韓国を訪問。昭和49年 11月、日本橋壷中居において「作陶10年」展を開く。昭和50年 4月、「小山冨士夫・岑一、書と陶芸」展を銀座松屋で開催。「花ノ木窯作陶展」(グリーンギャラリー)。7月~8月、社会保険中央病院に入院。10月7日、心筋障害で急逝。著作目録発行年月 著書・論文名 掲載誌 発行所昭和7年 殷墟出土 陶磁昭和8年 磁州古窯について 陶磁昭和9年 エドワード・モールス先生 陶磁昭和9年 薩摩探陶日記 陶磁昭和10年 定窯雑考 陶磁昭和10年 陶器講座2.3支那青磁考 雄山閣、昭和10年 天目茶碗の窯址について 陶磁昭和10年 陶器講座5 欧文支那古陶磁書目 雄山閣昭和11年 永田安吉氏将来の安南古陶 陶磁昭和11年 越州窯長慶3年銘墓誌磁版考 陶磁昭和11年 陶器講座12 邦文支那古陶磁書目 雄山閣昭和11年 陶器講座12 満蒙の遺蹟出土の陶片 雄山閣昭和11年 陶器講座13 朝鮮陶磁文献目録 雄山閣昭和11年 陶器講座14 邦文日本古陶磁雑誌論文要目 雄山閣昭和12年 支那の赤絵陶器に就いて 画説昭和12年 八思巴文字ある支那古陶磁 画説昭和12年 立杭 陶磁昭和12年 瀬戸に関する2・3の考察 陶磁昭和12年 年款ある支那の古陶磁 陶磁昭和12年 陶磁図録 支那篇上 雄山閣昭和12年 茶道全集15 器物篇(4) 雄山閣昭和12年 陶器講座20 日本古陶磁文献要目 雄山閣昭和12年 陶器講座21 安南の陶磁 雄山閣昭和12年 陶器講座22 高麗の古陶磁 雄山閣昭和12年 美術史一夕話(少壮学徒座談会) 画説昭和12年 最近に於ける支那古窯址の発見 考古学雑誌昭和12年 支那人の支那古陶磁器研究 茶わん昭和12年 セレベス島出土の古陶磁器に就いて 茶わん昭和12年 元上都趾出土の陶片其他 陶磁昭和13年 1937年度東洋陶磁研究会々報を読む 画説昭和13年 富士の絵を語る 画説昭和13年 デヴィット卿の支那説を駁す 陶磁昭和13年 八木奨三郎先生の業績 陶磁昭和13年 仁和寺出土の越州窯盒子と影青盒子 陶磁昭和13年 陶器講座24 陶窯分布地図 陶磁 雄山閣昭和13年 朝鮮陶器 高麗の古陶磁(講器講座分冊 奥平武彦、田中明共著) 雄山閣昭和14年 埃及フォスタット出土の支那陶磁片に就いて 考古学雑誌昭和14年 彙報 扶安出土の磁片に就いて 考古学雑誌昭和14年 朝鮮の旅 陶磁昭和14年 東京帝国大学人類学教室にあるモールスコレクション 陶磁昭和14年 旅襍記 陶磁昭和14年 学術調査班将来の陶磁片 画説昭和14年 備前虫明焼に就いて 画説昭和14年 旅の断片 茶わん昭和15年 吉州窯に就いて 画説昭和15年 ねりあげ手 茶わん昭和15年 続旅襍記 陶磁昭和16年 影青襍記 陶磁昭和16年 沙鍋窯見物記 陶磁昭和16年 北支だより 陶磁昭和16年 定窯々址の発見に就いて 陶磁昭和16年 金花の定碗 美術研究昭和16年 宋官窯に就いて 美術研究昭和16年 北支紀行抄 画説昭和16年 薩摩焼の研究(田澤金吾共著) 東洋陶磁研究所昭和16年 On the Discovery of the Ruins of Tingyao Bulletin of Easten Art昭和17年 南方襍記 陶磁昭和17年 鉅鹿の旧址 画説昭和17年 蘭印将来の古陶磁の回顧1・2 茶わん昭和17年 我国に於ける陶器の起源 日本諸学協会委員会研究報告昭和18年 支那青磁史稿 文中堂昭和18年 宋磁 聚楽社昭和18年 古萩の歴史と特質 古美術C昭和18年 鎌倉海岸の青磁片 古美術C昭和18年 菅原道真遺愛の白磁硯 清閑昭和19年 満蒙の古陶磁 満蒙古蹟古物保存協会昭和19年 宋磁序説 聚楽社昭和19年 磁州窯に就いて 美術研究昭和20年昭和21年 陶片雑記 知と行昭和21年 北鮮の古陶 古美術C昭和21年 瀬戸発掘の思い出 古美術C昭和21年 正倉院三彩 座右宝昭和21年 鶏冠壷 座右宝昭和22年 正倉院三彩(座右宝叢書) 座右宝刊行会昭和22年 林東の追想 四季昭和22年 近聞録 古美術C昭和22年 古瀬戸の瓶子 国華昭和22年 陶磁器に現れた支那の南北 美術研究昭和23年 越前古窯特別展について 国博ニュース昭和23年 越前古窯の発掘 国博ニュース昭和23年 赤絵出土の遺蹟 やきもの昭和23年 陶磁学者としての中尾万三博士 化学の領域昭和23年 我国の遺蹟出土の支那の陶磁器 古美術C昭和23年 元の染付 座右宝昭和24年 古雲鶴―高麗茶碗の窯址(一)(伊藤槇雄共著) 茶わん昭和24年 六朝越州窯と唐吉州窯 三彩昭和24年 宋のやきもの 三彩昭和24年 プエブロ・インディアンの古代工芸作家と作品 富本憲吉 国博ニュース昭和24年 The Story of old chinese Ceramics座右宝刊行会昭和24年 古信楽茶碗 茶わん昭和24年 東窯青磁水注 茶わん昭和24年 明赤地黄彩竜濤文壷 茶わん昭和24年 天目の話 日本美術工芸昭和25年 ―高麗茶碗の窯址(二) 茶わん昭和25年 ―高麗茶碗の窯址(三)(伊東槇雄共著) 茶わん昭和25年 ―高麗茶碗の窯址(四) 茶わん昭和25年 美濃の元屋敷窯 古美術昭和25年 戦後欧米刊行の東洋陶磁文献 美術史昭和25年 唐宋の青磁 日本美術工芸昭和25年 青磁馬蝗絆 日本之茶道昭和25年 世界美術全集 中国2 隋唐の陶磁 平凡社昭和26年 越前の古窯 文協昭和26年 平出遺蹟出土の緑釉水瓶 信濃昭和26年 欧米における東洋古陶研究の近況(上) Museum昭和26年 欧米における東洋古陶磁器研究の近況(下) Museum昭和26年 宣徳紅魚馬上盃 大和文華昭和26年 燿変天目茶碗―新国宝より- Museum昭和26年 新潟県三島郡出土の高麗白磁 仏教芸術昭和26年 北宋の修武窯 美術研究昭和26年 東洋陶磁の伝説―高田博厚君への返事― みづゑ昭和26年 宋白磁水注 麻生太賀吉氏蔵 国華昭和26年 伯林にあった東洋美術品 国博ニュース昭和26年 世界美術全集 中国3 高麗の陶磁 平凡社昭和26年 世界美術全集 中国3 宋元の陶磁 平凡社昭和27年 新潟県三島郡出土の高麗白磁 越佐研究昭和27年 中国古陶磁概説 三彩昭和27年 神奈川県立近代美術館の中国古陶磁展について 三彩昭和27年 古染付 アトリヱ昭和27年 日本の古陶磁―サンフランシスコ出陳の陶磁について- 淡交昭和27年 遼緑釉牡丹文鳳首瓶 大和文庫昭和27年 唐藍緑彩壷 大和文庫昭和27年 神奈川県立近代美術館 国博ニュース昭和27年 宋白地黒掻落牡丹唐草文瓶 国博ニュース昭和27年 欧米美術界の実情(座談会、矢代幸雄、石沢正男、嘉門安雄) 国博ニュース昭和27年 やきもの 朝日新聞昭和27年 世界美術全集 中国1 漢六朝の陶磁 平凡社昭和27年 美濃の古窯址 日本の茶道昭和27年 横河コレクション Museum昭和27年 国宝青磁下蕪花生 大和文華昭和28年 日本陶磁史既説 三彩昭和28年 古常滑の平水指 淡交昭和28年 三島の銘 墨美昭和28年 常滑 陶説昭和28年 我国の遺跡出土の高麗陶磁 陶説昭和28年 曜変天目の研究(山崎一雄共著) 古文化財之科学昭和28年 世界美術全集 中国4 清代の陶磁 平凡社昭和28年 世界美術全集 中国4 明代の陶磁 平凡社昭和28年 世界美術全集 中国4 李朝の陶磁 平凡社昭和28年 世界美術全集 中国4 安南の陶磁 平凡社昭和28年 鴻臚館出土の越州青磁片 朝日西部版昭和28年 柿の蔕 知音昭和28年 日本陶磁名品集 文部省昭和29年 白鶴美術館 芸術新潮昭和29年 日本の陶磁(奥田誠一、小山富士夫、林屋晴三編) 東都文化出版KK昭和29年 東洋古陶磁[二]中国・宋 美術出版社昭和29年 掘り出した話 国博ニュース昭和29年 高麗青磁葡萄唐草唐子遊文水注 大和文華昭和29年 宋磁雑記 艸美昭和29年 日本のやきもの 写真文庫 岩波書店昭和29年 世界美術全集 日本2 わが国中世の陶磁器 平凡社昭和29年 世界美術全集 イスラム イスラームの陶器 平凡社昭和29年 須恵器の窯跡 考古学雑誌昭和29年 日本人の陶磁観 陶美昭和30年 古陶磁1~3 日本文化財昭和30年 東洋古陶磁(1)中国 漢・唐 美術出版社昭和30年 東洋古陶磁(4)日本 奈良・桃山 美術出版社昭和30年 東洋古陶磁(5)日本 江戸 美術出版社昭和30年 美しき中国―美の風土と背景 淡交昭和30年 やきもの随想 国博ニュース昭和30年 思い出の記 奥田誠一先生追悼録 日本美術工芸昭和30年 人間文化財 芸術新潮昭和30年 重要無形文化財(工芸)について(座談会) 芸術新潮昭和30年 日本文化史 10 工芸技術 文化財協会昭和30年 世界陶磁全集 6 志戸呂焼 河出書房新社昭和30年 世界陶磁全集 7 高麗茶碗 河出書房新社昭和30年 世界陶磁全集 8 古越磁について 河出書房新社昭和30年 世界陶磁全集 10 宋代の青磁 河出書房新社昭和30年 世界陶磁全集 10 宋代の白磁と青白磁 河出書房新社昭和30年 世界陶磁全集 10 宋代の絵高麗と宋赤絵 河出書房新社昭和30年 世界陶磁全集 11 元明の青磁 河出書房新社昭和30年 世界陶磁全集 11 満蒙に於ける元代遺蹟出土の陶片 河出書房新社昭和30年 世界陶磁全集 13 高麗陶磁序説 河出書房新社昭和30年 世界陶磁全集 13 高麗白磁・黒高麗・其他 河出書房新社昭和31年 中国上代の土偶 世界昭和31年 神奈川県立近代美術館の朝鮮古陶磁 三彩昭和31年 東洋古陶磁(3)中国 元・明・清 美術出版社昭和31年 天鶏壷 大和文華昭和31年 贋せものと本もの 芸術新潮昭和31年 中山平次郎博士の死 国博ニュース昭和31年 古美術の鑑賞をめぐって(1)(座談会) 日本文化財昭和31年 古美術の鑑賞をめぐって(2)(座談会) 日本文化財昭和31年 元明の陶磁 陶説昭和31年 元明の青磁 陶説昭和31年 鎌倉近代美術館の朝鮮古陶磁について 陶説昭和31年 陶器について 外務省研究所昭和31年 世界陶磁全集 3 美濃の古窯址 河出書房新社昭和31年 世界陶磁全集 9 隋唐の青磁 河出書房新社昭和31年 世界陶磁全集 12 安南の陶磁 河出書房新社昭和31年 世界陶磁全集 12 タイの陶器 河出書房新社昭和31年 世界陶磁全集 14 李朝陶磁概説 河出書房新社昭和31年 世界陶磁全集 14 礼賓三島 河出書房新社昭和31年 菊花天目茶碗 藤田美術館蔵 国華昭和31年 李朝染付秋草文面取徳利 井上恒一氏蔵 国華昭和31年 白天目茶碗 日野原昌広氏蔵 国華昭和31年 Japanese Pottery;a historical review of important native handicraft(Asia Scene,Oct. 1956)昭和32年 アメリカの美術館にある東洋古陶磁1 陶説昭和32年 アメリカの美術館にある東洋古陶磁2 陶説昭和32年 正倉院三彩 芸術新潮昭和32年 金襴手瓢形寿之字大瓶 陶説昭和32年 緑褐釉胡瓶 大和文華昭和32年 琉球の南蛮 三彩昭和32年 アメリカ雑感(1) 国博ニュース昭和32年 アメリカ雑感(2) 国博ニュース昭和32年 丹波の古窯 序文(杉村捷雄著) 神戸新聞昭和32年 世界陶磁全集 2 正倉院三彩 河出書房新社昭和32年 世界陶磁全集 2 中津川・志戸呂・其他 河出書房新社昭和32年 デヴィット卿夫妻を迎えて 陶説昭和32年 陶器全集 10 唐宋の青磁 平凡社昭和33年 アメリカの美術館にある東洋古陶磁(3) 陶説昭和33年 中津川の古窯址群 陶説昭和33年 東洋古陶磁(6)朝鮮 美術出版社昭和33年 東洋古陶磁(7) 中近東・東南アジア 美術出版社昭和33年 絵つけ陶器(現代の眼) 淡交昭和33年 日本陶磁史概説 陶説昭和33年 伝古九谷色絵花鳥文皿 陶説昭和33年 奈良三彩共蓋壷 陶説昭和33年 李朝染付秋草文水指 岡石峯吉氏蔵 国華昭和33年 青白磁蓮座鴛鴦型香炉 国華昭和34年 陶磁(大仏次郎共著) 原色版美術ライブラリー みすず書房昭和34年 中国古代彫刻展 日経昭和34年 美の美展 日経昭和34年 板谷波山米寿記念展 産経夕刊昭和34年 修内司官窯青磁鳳凰耳花生 大和文華昭和34年 砧青磁 陶説昭和34年 仁清作色絵罌粟文茶壷 国華昭和34年 Ceramigue Ancienne de L’Asie Fribourg昭和35年 宋磁の美しさ 世界昭和35年 田中丸善八氏蒐集の古陶磁 陶説昭和35年 文献による古瀬戸「松留窯」考 日本美術工芸昭和35年 日本美術大系(6) 陶芸 講談社昭和35年 中国名陶百選 日本経済新聞社昭和35年 中国名陶百選展 日経昭和35年 備前焼七人展 日経昭和35年 古九谷色絵亀甲文大皿について 三彩昭和35年 やきもの談義 序文(永竹威著) 東西五月社昭和36年 天目山人の追憶(ジェームス・マーシャル・プラマー教授) 陶説昭和36年 中国の染付 Museum昭和36年 東洋古陶磁 美術出版社昭和36年 宋均窯紅紫釉樹盆(中国名陶百選展) 日経昭和36年 備前焼七人展 日経昭和36年 「桃山陶磁名宝展」を見て 日経昭和36年 北宋の森厳 宋元美術展をみて 国博ニュース昭和36年 三島厨子 陶説昭和36年 中国金石陶瓷図鑑(序文) 中国金石陶瓷刊行会昭和36年 著者に贈る(図説日本の赤絵)(永竹威著) 東京新聞人倶楽部昭和36年 Two Thousand Years Of Oriental Ceramics N.Y.,H.N.Abrams昭和36年 Japanese Ceramics From Ancient to Modern Times(フィゲス共著) The Oakland Art Museum昭和37年 戦後発見された唐宋の古窯址 陶説昭和37年 金襴手―やきもの教室―19 陶説昭和37年 戦後発見された唐宋の古窯址 陶説昭和37年 イスタンブールの古陶博物館―トプカピサライ博物館― 芸術新潮昭和37年 日本の陶磁 中央公論美術出版昭和37年 陶器全集 26 天目 平凡社昭和37年 日本名陶百選 日本経済新聞社昭和37年 エジプトのフォスタット出土の陶片 世界美術全集月報昭和37年 二階堂鼎談―朝鮮のやきものの話― 陶説昭和38年 欧米にある金襴手 陶説昭和38年 石黒宗麿 陶説昭和38年 日本の名陶ベスト10 芸術新潮昭和38年 定窯白磁型押文鉢 三彩昭和38年 明清のやきもの-その日本と欧米のコレクション- Museum昭和38年 唐三彩 古美術昭和38年 日本のやきもの 8 美濃(荒川豊蔵共著) 淡交新社昭和38年 備前焼七人展 日本経済新聞社昭和38年 富本憲吉氏のこと 朝日新聞社昭和38年 ギメー美術館にある元瑠璃白竜文梅瓶について 大和文華昭和38年 古九谷色絵菊花文壷 名品鑑賞 古美術B昭和38年 志野水指 三彩昭和38年 月見の宴 芸術新潮昭和38年 魯山人の人と芸術 現代の眼昭和38年 推せんの言葉(図説九州古陶磁)(永竹威著) 刀江書院昭和38年 盃と徳利―酒はうまし芸術は楽し- 徳間書店昭和39年 漁陶紀行 -1- 陶説昭和39年 フランスのやきもの(国立近代美術館ニュース19649月号) 現代の眼昭和39年 永楽染付花弁扁壷 古美術B昭和39年 明法花牡丹文壷 古美術B昭和40年 姫谷焼について 陶説昭和40年 新中国旅行記 陶説昭和40年 中国古陶磁展について 古美術昭和40年 批評家の作陶 芸術新潮昭和40年 世界美術全集(16)中国 5 宋・元 角川書店昭和40年 陶器全集 10 唐・宋の青磁 平凡社昭和40年 陶磁の世界 1~4 朝日夕刊昭和40年 特集現代の陶器 芸術新潮昭和40年 万暦赤絵樹下人物文輪花水指 古美術B昭和40年 信楽大壷(土門拳写真) 東京中日新聞昭和40年 壷 淡交社昭和40年 茶碗 第2巻 朝鮮1 平凡社昭和40年 新中国からの古陶磁 陶説昭和40年 中国陶磁の研究 日中文化交流昭和40年 中国の古陶磁について(「中国二千年の美」展) 日中文化交流昭和41年 新中国旅行記 陶説昭和41年 出口直日作陶展によせる アート昭和41年 茶碗 第3巻 朝鮮 2 平凡社昭和41年 茶碗 第4巻 日本 1 平凡社昭和42年 藤原雄君について 昭和41年度 日本陶磁協会賞受賞作家紹介―2 陶説昭和42年 日本の色絵のやきもの-出光美術館開館一周年記念展講演会から- 陶説昭和42年 砧青磁浮牡丹香炉新資料紹介―12 古美術昭和42年 遼三彩壷 古美術昭和42年 世界美術全集(17)中国 6 明・清 角川書店昭和42年 金襴手名品集 1 芸艸堂昭和42年 金襴手名品集 2 芸艸堂昭和42年 オリエント七千年展の名品―多彩刻線花文鉢― 東京新聞夕刊昭和42年 茶碗 第5巻 日本2 平凡社昭和42年 日本の工芸 9 陶磁 淡交新社昭和42年 東洋美術 第4巻 陶磁 わが国にある中国の陶磁 朝日新聞社昭和42年 遼上京官窯址―旅の思い出― 出光美術館々報昭和43年 名品鑑賞―明法花蓮池水禽文壷 古美術昭和43年 石黒宗麿 ―人と作品 陶説昭和43年 古瀬戸黒飴釉菊花魚文瓶子 国華昭和43年 世界美術全集(18)朝鮮(三上次男共同編集) 角川書店昭和43年 日本陶磁の伝統 淡交新社昭和43年 茶碗 第1巻 中国・安南 平凡社昭和43年 窯場あらし 芸術新潮昭和43年 茶わん雑記(茶碗附録1号) 平凡社昭和44年 骨董百話―1 良寛の書 芸術新潮昭和44年 骨董百話―2 李朝・彫三島・扁壷 芸術新潮昭和44年 骨董百話―3 汝官窯・青磁・輪花碗 芸術新潮昭和44年 骨董百話―4 宋・黒漆輪花盤 芸術新潮昭和44年 骨董百話―5 宋・赤絵牡丹文陶片 芸術新潮昭和44年 骨董百話―6 梅ヶ枝の手水鉢 芸術新潮昭和44年 骨董百話―7 伝徽宗・晴竹図 芸術新潮昭和44年 骨董百話―8 呉須染付山水図茶碗 芸術新潮昭和44年 骨董百話―9 能面「痩男」氷見宗忠 芸術新潮昭和44年 骨董百話―10 唐・吉州窯・鳳首瓶 芸術新潮昭和44年 骨董百話―11 白隠・達麿図 芸術新潮昭和44年 骨董百話―12 乾山・こぼし 芸術新潮昭和44年 台湾紀行 陶説昭和44年 日本陶磁総覧 淡交社昭和44年 沖ノ島出土の唐三彩 毎日夕刊昭和45年 骨董百話―13 古井戸茶碗 芸術新潮昭和45年 骨董百話―14 豆腐 高橋由一 芸術新潮昭和45年 骨董百話―15 高麗青磁辰砂蓮弁文瓢形水注 芸術新潮昭和45年 骨董百話―16 墨絵 魯山人の顔 サム・フランシス 芸術新潮昭和45年 骨董百話―17 隋・唐の定窯 芸術新潮昭和45年 骨董百話―18 梁階仙人図 芸術新潮昭和45年 骨董百話―19 司馬江漢染付・気球図皿 芸術新潮昭和45年 骨董百話―20 寂厳書・万戸擣衣声 芸術新潮昭和45年 骨董百話―21 粉引茶碗 芸術新潮昭和45年 骨董百話―22 根来大鉢 芸術新潮昭和45年 骨董百話―23 古信楽自然釉壷 芸術新潮昭和45年 骨董百話―24 円通・慈曇書 芸術新潮昭和45年 四国のやきもの(伝統の陶芸―8) 月刊文化財昭和45年 韓国の旅 陶説昭和45年 安宅コレクションの高麗白磁陰刻文瓶 安宅コレクション特集 陶説昭和45年 出光美術館選書 五中国陶磁(上) 平凡社昭和45年 東洋陶磁展 毎日夕刊昭和45年 砧青磁算木手花入 古美術B昭和45年 東洋陶磁展(座談会) 陶説昭和45年 備前焼 岡山文庫 日本文教出版昭和45年 唐三彩 出光美術館々報昭和46年 骨董百話―25 高山寺漢柿形茶壷 芸術新潮昭和46年 骨董百話―26 木米・山水図 芸術新潮昭和46年 骨董百話―27 彩陶 芸術新潮昭和46年 骨董百話―28 兀菴の書 芸術新潮昭和46年 骨董百話―29 釣窯班文盃 芸術新潮昭和46年 骨董百話―30 楽浪出土の漆絵箱残片 芸術新潮昭和46年 骨董百話―31 李朝白磁面取徳利 芸術新潮昭和46年 骨董百話―32 竹田 三虫図 芸術新潮昭和46年 骨董百話―33 元の染付片 芸術新潮昭和46年 骨董百話―34 米山書 無為 芸術新潮昭和46年 骨董百話―35 古九谷色絵大皿 芸術新潮昭和46年 骨董百話―36 平櫛田中 のんき坊 芸術新潮昭和46年 須恵器 大壷(名品鑑賞) 古美術昭和46年 陶器講座6 中国2 宋 雄山閣昭和46年 中国・台湾やきものの旅 芸艸堂昭和46年 五島美術館(監修) 毎日新聞社昭和46年 文化勲章の荒川豊蔵 志野一すじに 芸術新潮昭和46年 中川伊作新作南蛮展 アート昭和46年 越州窯について アトリエ昭和46年 唐三彩の窯址とその出土地 陶説昭和46年 種子島焼 ご挨拶(山本秀雄編) 八重岳書房昭和46年 古九谷(監修) 集英社昭和46年 南新町白水庵(安田信太郎著) 白水庵昭和46年 中国古陶磁 上(序文) 毎日新聞社昭和46年 中国古陶磁 下(序文) 毎日新聞社昭和46年 台北故宮博物院の宋元古陶磁展 出光美術館々報昭和47年 骨董百話―37 天啓赤絵蓮池水禽文筒茶碗 芸術新潮昭和47年 骨董百話―38 光悦の茶碗 芸術新潮昭和47年 骨董百話―39 三島刷毛目茶碗 芸術新潮昭和47年 骨董百話―40 北宋・漆器皿 芸術新潮昭和47年 骨董百話―41 李朝・彫三島四耳壷 芸術新潮昭和47年 骨董百話―42 玉堂 淡彩山水 芸術新潮昭和47年 骨董百話―43 青織部角平鉢 芸術新潮昭和47年 骨董百話―44 ある禅僧の遺偈 芸術新潮昭和47年 骨董百話―45 絵唐津陶片 芸術新潮昭和47年 骨董百話―46 徽宗皇帝の書 芸術新潮昭和47年 骨董百話―47 元染付釉裏紅窓絵透し彫壷 芸術新潮昭和47年 骨董百話―48 織部の陶片 芸術新潮昭和47年 木葉天目平茶碗 古美術昭和47年 石黒宗麿作陶50選 朝日新聞社昭和47年 現代ヨーロッパの陶芸(三上次男共著) 吹田貿易出版部昭和47年 陶器講座2 日本2 桃山 雄山閣昭和47年 中国陶磁研究の展望(上) 出光美術館々報昭和48年 骨董百話―49 宗達鶴下絵光悦和歌巻 芸術新潮昭和48年 骨董百話―50 高麗青磁瓦 芸術新潮昭和48年 骨董百話―51 李朝白磁面削壷 芸術新潮昭和48年 骨董百話―52 乾山色絵紅葉文壷 芸術新潮昭和48年 骨董百話―53 鍍金銀象嵌竜雲文洗 芸術新潮昭和48年 骨董百話―54 割高台茶碗 芸術新潮昭和48年 骨董百話―55 モザイク色絵ガラス皿 芸術新潮昭和48年 骨董百話―56 鎮海仁寿府銘三島皿 芸術新潮昭和48年 骨董百話―57 倪雲林 漁荘秋霽図 芸術新潮昭和48年 骨董百話―58 ソコタイの壷 芸術新潮昭和48年 骨董百話―59 西域の土俑 芸術新潮昭和48年 骨董百話―60 沖縄の茶碗 芸術新潮昭和48年 唐三彩馬(新資料紹介) 古美術昭和48年 三彩―日本の美術76 至文堂昭和48年 The Heritage of Japanese Ceramics (Translated and Adapted by J.Figgess with an introduction by John A. Pope) Weather hill & Tamkosha昭和48年 La C‘eramique Japonaise. Tradition et Continnite Office de Livre昭和48年 中国陶磁研究の展望(中) 出光美術館々報昭和49年 骨董百話―61 茘枝の絵 芸術新潮昭和49年 骨董百話―62 唐三彩女人俑 芸術新潮昭和49年 骨董百話―63 古信楽の壷 芸術新潮昭和49年 骨董百話―64 明・黄地紅彩皿 芸術新潮昭和49年 骨董百話―65 太宰府出土の漆の残片 芸術新潮昭和49年 骨董百話―66 李朝面取四方飴釉瓶 芸術新潮昭和49年 骨董百話―67 出雲・八重垣神社壁画 芸術新潮昭和49年 骨董百話―68 高麗象嵌青磁金彩文扁壷 芸術新潮昭和49年 骨董百話―69 楽浪出土漆蓋物と残片 芸術新潮昭和49年 骨董百話―70 古越州神亭 芸術新潮昭和49年 骨董百話―71 騎馬人物を貼りつけたイランの土器 芸術新潮昭和49年 骨董百話―72 殷の古銅器の饕餐文 芸術新潮昭和49年 加藤土師萌陶業展に因んで-土師萌さんのスケッチ- 陶説昭和49年 朝鮮のやきもの(序文)高麗李朝の陶磁 朝日新聞社昭和49年 東北のやきもの(序文)ダヴィット・ヘイル著―ダヴィット・ヘイル氏について 雄山閣昭和49年 陶磁選書5 阿波の陶磁(序)(豊田進著) 雄山閣昭和49年 慶州出土の唐三彩鍑 東洋陶磁昭和49年 日本陶磁のあゆみ 歴史手帖(別冊)昭和49年 日本六古窯の思い出 歴史手帖(別冊)昭和50年 骨董百話―73 漢の武人俑 芸術新潮昭和50年 骨董百話―74 金冬心・梅の絵 芸術新潮昭和50年 骨董百話―75 弥生土器の壷 芸術新潮昭和50年 骨董百話―76 殷の青銅水牛 芸術新潮昭和50年 骨董百話―77 元白磁貼花文瓶 芸術新潮昭和50年 骨董百話―78 楽浪出土の玉勝 芸術新潮昭和50年 骨董百話―79 瓦硯 芸術新潮昭和50年 骨董百話―80 絵志野茶碗 芸術新潮昭和50年 骨董百話―81 根来硯箱 芸術新潮昭和50年 骨董百話―82 北魏胡人俑 芸術新潮昭和50年 骨董百話―83 エジプト・コプト織女人図 芸術新潮昭和50年 故宮博物院 講談社昭和50年 金襴手名品集 芸艸堂昭和50年 陶磁大系38 天目 平凡社昭和50年 東洋陶磁大観 第5巻 大英博物館(監修) 講談社昭和50年 世界陶磁全集 全22巻(監修) 小学館昭和50年 韓国陶磁図録―高麗青磁について-(李秉昌刊・未完)昭和50年 現代の陶芸13 塚本快示 人と作品 講談社昭和50年 現代の陶芸13 高鶴元 人と作品 講談社昭和50年 中国陶磁研究の展望(下) 出光美術館々報年度不詳 陶硯襍記1~3 翰林工芸年度不詳 日本の陶磁器1 国際文化年度不詳 日本の陶磁器2 国際文化年度不詳 須恵器の歴史 国民の歴史年度不詳 萌黄金襴手耳盃と赤地金襴手盃台 古美術B年度不詳 宋磁概説 別冊三彩年度不詳 陶磁鑑賞1~3 三彩年度不詳 日本陶磁概説―日本陶磁史における唐津焼 新郷土年度不詳 礼賓三島 須貴年度不詳 支那の赤絵 造形芸術年度不詳 高麗茶碗 淡交年度不詳 日本陶磁の故郷 淡交増刊年度不詳 古瀬戸 茶わん年度不詳 支那の青磁 中央公論年度不詳 越前の古窯 陶磁味年度不詳 鎌倉海岸の青磁片 ドルメン年度不詳 最近刊行の欧文東洋陶磁器文献について 陶磁年度不詳 青磁の展望 日本美術工芸年度不詳 日本陶磁史の展望 日本美術工芸年度不詳 陶磁に現われた中国の文化 日本美術工芸年度不詳 元屋敷窯の業績 日本の茶道年度不詳 青磁馬蝗絆2 日本の茶道年度不詳 馬蝗絆天目合せ鏡1 日本の茶道年度不詳 宋赤絵に就いて 美術工芸年度不詳 明赤絵について 美術工芸年度不詳 窯郷磁州 汎究美術年度不詳 満州の古窯址 民芸(A)年度不詳 金稜の越器 やきもの趣味年度不詳 北京歴史博物館の2・3の陶瓷 やきもの趣味年度不詳 窯址とその探索者 歴史公論年度不詳 美濃古窯 焼物のこころ(座談会) わび年度不詳 茶陶の鑑賞 安南の染付 わび年度不詳 陶器講座9 雄山閣年度不詳 Liao Pottery Wares(Translated from the Japanese by John Figgess) Transaction of the Oriental Ceramic Society年度不詳 扶安の高麗古陶磁について 好古(この著作目録は、出光美術館編「小山冨士夫先生著作目録(稿)」から転載させていただきました)

大場磐雄

没年月日:1975/06/07

文化財審議会専門委員の大場磐雄は、6月7日食道ガンで死去した。享年76歳。大正11年国学院大学史学科を卒業、昭和4年以来同大学に講じ、昭和25年教授となった。その間、内務省神社局、厚生省国立公園部等にも勤務した。「日本考古学新講」「日本文化序説」などの著書がある。

矢代幸雄

没年月日:1975/05/25

もと文化財保護委員で文化功労者、矢代幸雄は、5月25日午前2時35分、心不全のため杏雲堂平塚病院で死去した。享年84歳であった。矢代幸雄は、明治23年(1890)11月5日、神奈川県横浜市に、父、もと讃岐高松藩士矢代宗勝、母、神戸出身の美佐の長男として生まれた。父は初め塗物屋を開業、のち商館番頭を職業としていた。横浜市に育ち、横浜商業学校に進んだが、算盤が苦手で神奈川県立第一中学校に転校し、明治41年に卒業、第一高等学校英法科に入学、明治44年(1911)6月同校を卒業した。明治44年9月東京帝国大学法科大学商業学科に入学したが、翌大正元年9月文科大学英文学科に転科した。一高時代から日本水彩画研究所に通って絵を学び、大学時代の大正2年(1913)第7回文展に水彩画「草原の赤い傘」を出品、入選となり、世論の話題となった。大学時代は実家があまり裕福ではなかったこともあって、水彩画を描いて売り学資の足しにしたり、また小島烏水のすすめでラスキン著『近世画家論』の一部を翻訳したりしたが、成績優秀で学資免除の特待生となっている。大正4年(1915)7月、卒業論文「感情主義の芸術論」(Emotional Principles of Art.)を提出して東京帝国大学文科大学を首席で卒業、下賜銀時計をうけた。大学院へすすんだが、同年9月東京美術学校講師となり、英語、西洋彫刻史、西洋美術史を担当、講義した。と同時に、西洋画科研究科の教室に出入りして黒田清輝に実枝の指導をうけたりしている。大正5年(1916)夏、インドの詩人タゴール(Rabindranath Tagore)が来日し、横浜の原富太郎(三渓)宅に滞在したとき、その通訳をつとめ、原家と親交した。大正6年3月、第一高等学校講師となり、翌7年12月東京美術学校教授、兼第一高等学校教授となった。大正10年(1921)3月、西洋美術史研究のためにヨーロッパに留学、初めイギリスに滞在、秋にイタリアへ行きフィレンツエのベレンソン教授(Bernard Berenson)に師事、ルネッサンス美術、特にサンドロ・ボッティチェリーの研究に従事した。大正12年秋、関東大震災で父宗勝死亡の報をうけたが帰国を延ばして翌年(1924)2月から秋にかけて英文の論文『Sandro Botticelli』を執筆、完成させ、大正14年(1925)2月帰国し、東京美術学校に復帰、高等官6等、3月正七位に叙せられた。『Sandso Botticelli』3巻は同年、ロンドンのMedici Society から刊行された。同書は、昭和4年(1929)、1巻本として普及版が刊行され、その際にイギリスの批評家ロージャ・フライの批判的な書評に対して反論し、論争が交わされた。 昭和2年(1927)1月、黒田清輝遺産による事業遂行のための委員会委員となり、美術研究所(現・東京国立文化財研究所美術部)の設立に参画し、同年3月ヨーロッパ、アメリカ、カナダへ出張、昭和3年5月帰国した。美術研究所設立にあたっては、作品写真資料を主とした東洋美術研究のための基礎的な施設を提案し、実行に移された。第1回滞欧から帰国後は、しだいに日本・東洋美術に対して研究範囲をひろげ、国際的視野にたった観点から日本古美術の対外的紹介にも意を用い、昭和5年(1930)10月、再度ヨーロッパへ出張し、昭和6年(1931)には、帝国美術院、日独協会、ベルリン東西美術協会、プロシア芸術院共同主催によりドイツとハンガリーでの現代日本画展を実現させた。一方、昭和6年11月、正木直彦のあとをうけて、帝国美術院附属美術研究所主事(昭和10年5月まで)となり、昭和10年(1935)6月同美術研究所所長に就任し、現代の東京国立文化財研究所の基礎づくりに尽力した。昭和7~8年、カーネギー財団とハーヴァード大学に招かれて、「日本絵巻物論」を講義し、帰国後に財団法人啓明会主催の会合で「世界における日本美術の位置」を講義した。昭和10年5月から翌11年にかけて、派遣教授としてイギリスへ行き、コートールド・インスティテュート・オブ・アート(Courtauld Institute of Art)ほかイギリスの諸地方の大学で講演した。昭和17年(1942)春の宣戦の詔勅誤読事件をきっかとして6月28日に美術研究所所長を辞任し、また、昭和19年には東京美術学校教授を退官した。昭和17年以降は、日本交通公社文化担当常任参与となり、その便もあってしばしば中国に旅行した。その間に、華北交通総裁宇佐美完爾の紹介によって近鉄社長種田虎雄を識ったことがのちの大和文華館設立のきっかけとなった。美術学校退官以後は、いっさいの公職をはなれて神奈川県に籠居していたが、昭和20年敗戦のあとの11月、奈良・京都など日本古美術文化の遺蹟が空襲による破壊からまぬがれたのはラングトン・ウォーナーなどハーヴァード・グループの働きかけによって空襲目的地から除外されたことなどを朝日新聞紙上(11月10日)に発表して話題をよんだ。昭和24年(1949)1月、法隆寺金堂壁画の焼失をへて、昭和25年8月、文化財保護法が制定され、文化財保護委員に任命された。昭和26年(1951)11月インド経由でイギリス、フランス、イタリアを歴遊してアメリカへ渡り、日本古美術展開催について交渉、翌27年帰国、同年4月、文化財保護法一部改正に伴い美術研究所改組、東京国立文化財研究所組織規定が定められ同研究所所長に就任し、翌28年10月までその職にあった。昭和31年(1956)5月、日伊文化協定による文化使節としてローマ大学、イタリア中亜極東協会の招きで渡伊し、ヴェネチア・ビエンナーレ展日本館開館式に出席、またパリでフランス、オランダ、イタリア、イギリス巡回の日本古美術展開催準備会を4ヶ国代表を集めて開催、主宰し、その計画は、昭和33年(1958)実現された。これらの功績によって同33年10月、イタリア政府より勲章(メダリア・ドォーロ・ペール・イ・ベーネメリティ・ベラ・クルトゥーラ・イタリアーナ)を授与された。こうした対外的な活動と同時に、近鉄社長種田虎雄からついで佐伯勇社長へとひきがれた大和文華館設立とそのための作品蒐集に意をそそぎ、昭和35年(1960)10月、奈良市学園前に美術館大和文華館が創設され、初代館長に就任した。昭和40年(1965)9月、フリーア・ギャラリー・オブ・アートより、日本美術及び中国美術の理解を進めるうえに貢献した生涯の仕事に対して、第3回フリーア賞(Chadles Lang Freer Medal)を授けられ、その受賞式には出席した。また、同年秋に勲二等瑞宝章を叙勲した。翌41年1月第2版『日本美術の特質』によって朝日賞を授賞し、同年2月15日、文化財保護委員会委員を辞任した。その後、昭和45年(1970)11月文化功労者に選ばれ、同年30日には大和文華館館長を辞して隠退していた。その生涯の主要な著作目録はつぎのとおりである。著作目録大正5年(1916) 「奈良彫刻思慕」『人文』1巻11号、樗牛会事務所大正10年(1921) 『西洋美術史講話 古代篇・古代篇図録』、岩波書店大正14年(1925) 『太陽を慕ふ者』、改造社 ”Sandro Bootticelli.”3 Volumes , Medici Society , London ”A Botticelli Drawing in the British Museum.゛ Vasari Society Publications, London”A newly Discoved Botticelli” Burlington Magazine , Vol . 46, London昭和2年(1927) 『西洋名彫刻 古代篇』、福永書店 『受胎告知』(初版)、警醒社 ”A New Botticelli in Detroit.” Art in America, Vol. 15, No.5, New York昭和3年(1928) 『日本の立場より見たる西洋美術』(講演集) 財団法人 啓明社昭和4年(1929) ”Sandro Botticelli.” 1 Volume, Second popular edition, Medici Society, London昭和5年(1930) “Die Japanische Malerei der Gegenwart.” (Introduction to the Catalogue of the Exhibition of Contemporary Japanese Painting Held in Berlin and Budapest, 1930-31) Wurfel Verlag, Berlin昭和6年(1931) 「レオナルド・ダ・ヴィンチの『レダ』に就て」 大塚博士還暦記念論文集 『美学及芸術史研究』、岩波書店昭和7年(1932) 「美術研究所の設立と『美術研究』の発刊」『美術研究』No.1 美術研究所「模造及模写の蒐集に就て」『美術研究』No.2昭和8年(1933) 「吉備大臣入唐絵詞」『美術研究』No.21昭和9年(1934) 「世界に於ける日本美術の位置」(講演集)(初版)、財団法人啓明会「宋搴周文矩宮中図」『美術研究』No.25「天竜山浮彫飛天像其他」『美術研究』No.26「唐代彫刻三種」『美術研究』No.29「隋開皇十三年造阿弥陀銅像一具」『美術研究』No.31「大和十三年造金銅釈迦多宝二仏並坐像」『美術研究』No.33昭和10年(1935) ”Einfuhrung in die Japanische Malerei” Japanisch-Deutsches Kultur-Institut, Tokyo「法華堂根本曼陀羅」『美術研究』No.37「徽宗搴張萱搗練図」『美術研究』No.41昭和11年(1936) ”Artists of Japan Speak to the Soul Through Symbols; Their Art Through the Ages is Presented in an Extraordinary Exhibition at Boston.” The New York Times Magazine , September 6「細川候爵家蔵陶製唐立女像」『美術研究』No.54「宋搴周文矩宮中図の断片」『美術研究』No.56「ボストン美術館所蔵の銘記ある日本彫刻」『美術研究』No.57「法華堂根本曼陀羅追記」『美術研究』No.58昭和12年(1937) 「米国に於ける二大仏画」(上・下)『美術研究』Nos.61,63「馬寛百雁図巻」『美術研究』No.64「細川家蔵白玉弥勅半跏像」『美術研究』No.65「推古仏如来立像一驅」『美術研究』No.66「銅造菩薩立像一驅」『美術研究』No.68「東洋美術総目録事業に就いて」『美術研究』No.70「唐石彫不動明王像」『美術研究』No.71昭和13年(1938) 「宗達筆松島屏風」『美術研究』No.73「フリーア画廊の地蔵縁起」『美術研究』No.76「支那鎚鍱像」『美術研究』No.78「唐鎏金七仏像」『美術研究』No.81「病草子の新残欠その他」『美術研究』No.82昭和14年(1939) 「伯林東亜美術館所蔵光悦色紙帖」『美術研究』No.85「朝鮮金銅二種」『美術研究』No.90「慶長11年11月11日銘ある光悦色紙」『美術研究』No.93昭和15年(1940) 「画巻芸術論」『国華』3月号―5月号、国華社”The Passing of George Eumorfopoulos.” Bulletin of Eastern Art , May, No.5、 Tokyo “Laurence Binyon.” Bulletin of Eastern Art, July - August , Nos. 7 - 8,Tokyo”Arthur Waley. ” Bulletin of Eastern Art, September , No.9, Tokyo「宗達筆伊勢物語帖に就いて」『美術研究』No.98「宗達下絵光悦短冊貼交屏風」『美術研究』No.102昭和16年(1941) “The Present State of the Yunkang Caves.” Bulletin of Eastern Art , March, No.15, Tokyo”Dr Otto Kummel ,” Bulletin of Eastern Art ,May, No.17, Tokyo”On the ’Eight Scenic Views of Hsiao-Hsiang’ by Mu-ch’i.” Bulletin of Eastern Art, September, No.21, Tokyo「劉宋元嘉年間の金銅仏」『美術研究』No.109「山口市長谷観音堂十一面観音像」『美術研究』No.112「揵駄羅式の金銅像」『美術研究』No.117昭和17年(1942) 『東洋美術論考・欧米蒐儲の名品』(二巻)、座右宝刊行会 「宗達四季草花下絵光悦書歌巻」『美術研究』No.121「唐三彩立女俑一驅」『美術研究』No.121昭和18年(1943) 『日本美術の特質』(初版)、岩波書店昭和19年(1944) 「燉煌出土塑造半肉仏像」『美術研究』No.135「五星二十八宿神形図巻」『美術研究』No.139昭和23年(1948) 『世界に於ける日本美術の位置』(講演集)(第二版)、 東京堂 『随筆 レオナルド・ダ・ヴィンチ』(初版)、朝日新聞社昭和24年(1949) 『随筆 レオナルド・ダ・ヴィンチ』(再版)、朝日新聞社昭和25年(1950) 『随筆ヴィナス』(初版)、朝日新聞社。昭和26年(1951) 「創刊の辞に代へて」『大和文華』NO.1 大和文華館「歎美抄 法隆寺天人繍・百済観音・乾山夕顔茶碗」『大和文華』No.1「歎美抄 李迪筆雪中帰牧図・四天王寺金銅菩薩像・笠置曼茶羅」『大和文華』No.2「歎美抄 一字蓮台法華経普 賢勧発品・仁清鴛鴦香合」『大和文華』No.3 「奈良日記思い出」(初めての芸術巡礼)『大和文華』No.4 『太陽を慕ふ者』(改訂版)、角川書店昭和27年(1952) 「再説宋搴周文矩宮中図」『美術研究』No.169「奈良日記思い出」(奈良への空中訪問)『大和文華』No.5 「歎美抄 万暦赤絵小壷」『大和文華』No.7「歎美抄 宗達筆伊勢物語芥川図・光琳の団扇画」『大和文華』No.8『受胎告知』(改訂版)、創元社 『世界に於ける日本美術の位置』(講演集)(第三版)、三笠文庫、三笠書店『随筆ヴィナス』(縮 刷版・再版)、朝日新聞社”The ’Oriental’ Character in Italian Tre-and Quattrocento Paintings.” East and West, Year III ,No. 2, Roma昭和28年(1953) 「歎美抄 西域樹下人物図『大和文華』No.9 『安井・梅原・ルノアール・ゴッホ』、新潮社「随筆 宗達」(1-3)『大和文華』No.12「歎美抄 青磁雑感」『大和文華』No.12昭和29年(1954) 「歎美抄 唐三彩立女俑」『大和文華』No.13[忘れ得ぬ人 その一 大村西崖]『大和文華』No.14「歎美抄 酒盃集」『大和文華』No.15昭和30年(1955) 『近代画家群』、新潮社 「三渓先生の古美術手記」(その1-その4)『大和文華』Nos.17-20昭和31年(1956) 「三渓先生の古美術手記」(その5)『大和文華』No.21『世界に於ける日本美術の位置』(講演集)(第四版)、新潮社 『随筆ヴィナス』新潮文庫、新潮社昭和32年(1957) 「法華堂根本曼陀羅の回想」『美術研究』 No.192「歎美抄 柳絮飛ぶ・小林古径と鍍金鏡断片」『大和文華』No.24昭和33年(1958) 『芸術のパトロン』、新潮社”2000 Years of Japanese Art.” edited by Peter C .Swann , Thames and Hudson, London”2000 Years of Japanese Art.” edited by peter C .Swann, H. N. Abrams, New York”Japanische Kunst.” von Professor Yukio Yashiro und Peter C. Swann, Aus dem Englischen ubertragen von Dr. Roger Goepper, Droemersche Verlagsanstalt, Th. Knaur Nochf., Munchen-Zurich”Deux Mille Ans d’Art Japonais.゛Teste francais de Judith Cotte, Editions du Pont-Royal , Paris”Duemila Anni di Arte Giapponese.” Traduzione di Lucia Pigni, Garzanti, Milano「歎美抄 海棠・牡丹・丁香・合歓花」『大和文華』No.25「歎美抄 元末明初青磁いろいろ」『大和文華』No.28「日本美術の再検討」『芸術新潮』1月号より12月号まで12回連載、新潮社昭和35年(1960) ”Art Treasures of Japan .” As Editor in Chief, 2 Volumes and a supplement, Kokusai Bunka Shinko-Kai, Tokyo「随筆 光琳」(その1-その2)『大和文華』Nos.33,36昭和36年(1961) 『ルネッサンスのイタリア画家』(ベレンソン原著 日本語版監修)新潮社 『日本美術の恩人たち』、文芸春秋社昭和37年(1962) 「歎美抄 金村出土の宝器と鷹を持つ胡人」『大和文華』No.37 「美術館としての実験」『IDE』10月号、民主教育協会 「児島喜久雄の思出」『図書』10月号、11月号、岩波書店昭和38年(1963) 「鉄斎所感」『大和文華』No.40昭和39年(1964) 『随筆ヴィナス』(第三版)、朝日新聞社昭和40年(1965) 『日本美術の特質』(第二版)、岩波書店 「うるし随筆」『世界』7月号、岩波書店昭和41年(1966) 「日本美術の紹介者チャールズ・L・フリーア」『世界』3月号、岩波書店「東洋の美、西洋の美」(脇村義太郎との対談)『図書』3月号・4月号、岩波書店「フリーア氏と日本の実業家・美術蒐集家」(Mr.Freerand the Japanese Businessmen-Collectors) フリーア・メダル受賞記念講演(日英対訳)『日本フォーラム』4月号、永晃社「美のための美術館の構想」『世界』5月号、岩波書店昭和42年(1967) 「ヨーロッパの日本美術」(Basil Grayとの対談)『朝日ジャーナル』、朝日新聞社昭和44年(1969) 『水墨画』岩波新書、岩波書店昭和45年(1970) 『歎美抄』、鹿島研究所出版会昭和47年(1972) 『私の美術遍歴』、岩波書店昭和48年(1973) 『受胎告知』、新潮社昭和49年(1974) 『随筆ヴィナス』朝日選書、朝日新聞社昭和51年(1976) 『サンドロ・ボッティチェルリ』岩波書店、(刊行予定)(この著作目録は、日伊協会『日伊文化研究』14号より転載させていただきました。)

重森三鈴

没年月日:1975/03/12

日本庭園の研究で知られる重森三鈴は、3月12日心不全のため死去した。享年78歳。昭和29年8月20日岡山県上房郡に生れ、大正9年日本美術学校本科、同11年研究科を卒業、同12年東洋大学に学んだ。昭和2年岡山県に、原始森林公園を創設し、昭和7年京都林泉協会を設立した。昭和14年「日本庭園史図鑑」26巻を完成、そのほか著述も多い。また東福寺本坊方丈庭園ほか築庭の数も多い。京都林泉協会々長。

水澤澄夫

没年月日:1975/02/13

町田市立郷土資料館館長水沢澄夫は、2月13日午前1時45分、心不全のため町田市立中央病院で死去した。享年69歳。明治38年8月14日、栃木県に生れた。昭和2年3月第四高等学校文科乙類を卒業。昭和6年3月京都帝国大学文学部哲学科(美術専攻)を卒業した。その年から1年余は柳宗悦の民芸運動に共鳴して参加し、東京京橋に諸国民芸の店をひらいた。また同7年から9年にかけて美術雑誌「宝雲」の編輯に従事、一方同8年から10年までは東京帝大大学院に在籍し日本美術史(特に絵巻物について)を攻究した。同8年から鉄道省国際観光局に勤務、海外に日本文化紹介のため«ツーリスト・ライブラリー»の編集にあったが、同17年5月より財団法人国際文化振興会に勤務を転じた。同20年3月戦況苛烈に伴い山口県宇部市に疎開、8月終戦を迎えた。戦後は主として美術評論をめざし、その一方、森村学園専攻科、実践女子大等の講師を勤めた。昭和33年には、尾形光琳生誕300年にあたり世界平和評議会の顕彰で光琳がえらばれ、中国で光琳展開催につきその準備に努め、日本代表の一人として訪中。光琳画集出版。翌34年には、エジプト美術展を日本で開催の交渉のためエジプトへおもむき、2ヶ月間滞在した。さらに同37年には再度エジプトへ行き、ヨーロッパ各地をまわった。以後約10年気管支拡張症の悪化と胃潰瘍のためたびたび入院をくりかえし殆んど闘病生活をおくった。昭和48年より創設に関与した町田市立町田郷土資料館(現町田博物館)の初代館長に就いていた。主要著書―鉄斎(1939、アトリエ社・東洋美術文庫)、美術覚書(1941、昭森社)、弘仁彫像考(1947、美術出版社・制作3号)、近代画の歩み(1952、美術出版社・みづゑ文庫)、エジプトの美術(1963、社会思想社)、エジプト美術の旅(1963、雪華社)、浄瑠璃寺(1964、中央公論美術出版)、広隆寺(1965、同前)、秋篠寺(1968、同前)、安田靭彦(1974、講談社・日本の名画)。

原田淑人

没年月日:1974/11/23

日本学士院会員、日本考古学会々長、高松塚壁画古墳総合学術調査会々長、文学博士原田淑人は、胃潰瘍のため、11月23日東京北里病院で死去した。享年89歳。明治18年4月5日原田由己の三男として東京神田に生まれ、開成中学校、第一高等学校を経て、明治41年東京帝国大学文科大学史学科を卒業した。引続き大学院に於て東洋史学を攻究、大正2年副手、3年に講師となり、10年には考古学研究のため2年間イギリス、フランスへ留学を命じられ、欧亜の各国とアメリカを廻った。10年東京帝国大学助教授、昭和13年教授となり、21年定年退官まで東洋史及び考古学を講じ、後進の育成指導にあたった。傍々京都帝大、東北帝大、立教大学、立正大学の教壇に立ち、5年には北京大学教授として招聘された。21年に聖心女子大学教授、東洋大学教授、27年には早稲田大学大学院講師となり、半世紀余講筵に連った者は多数に及ぶ。調査活動の面では大正7年朝鮮総督府古蹟調査委員となり、慶尚南北両道、楽浪王旴墓、楽浪郡治址の発掘調査を行い、また15年京大の浜田耕作とともに東亜考古学会を創立して、日中両国の考古学者の共同研究の場を設け満州貔子窩先史遺跡、牧羊城漢代遺跡、東京城渤海龍泉府址、内蒙古の元の上都址、大同の北魏平城址、河北邯鄲趙王城址、遼陽漢代壁画古墳、山東曲阜縣城など多くの調査に携り、それらの報告書とともに、東亜考古学の進歩発展に寄与した。一方国内にあっては昭和8年重要美術品等調査委員、10年帝室博物館学芸委員兼鑑査官、14年国宝保存会委員、15年日本学術会議委員をつとめ、13年には文学博士の学位を得、18年帝国学士院会員に推され、22年の講書始儀に漢書の進講をした。22年登呂遺跡調査会顧問、正倉院評議会会員となり、またこの年以来終生日本考古学会会長の任にあった。25年文化財専門審議会委員、29年平城宮址調査委員会委員を経て、47年には高松塚装飾古墳総合学術調査会会長となるなど、一貫して日本考古学界におけるかなめとしての重責を担い、また該博な知識を駆使して東洋史、考古学、東西交流にわたる健筆を縦横に振い、後進を誘掖するところ極めて大であった。 著作目録*自著支那唐代の服飾 東京帝国大学 大9-8西域発見の絵画に見えたる服飾の研究 東洋文庫 大14-6漢六朝の服飾 東洋文庫 昭12-12東亜古文化研究 座右宝刊行会 昭15-11正倉院ガラス容器の研究 座右宝刊行会 昭23-12古代ガラス 国立博物館入門叢書 小山書店 昭24-6東亜古文化論考 吉川弘文館 昭37-4古代人の化粧と装身具 東京創元新社 昭38-4増補漢六朝の服飾 東洋文庫 昭42-9唐代の服飾 東洋文庫 昭45-3考古漫筆 郁文社 昭45-9東亜古文化説苑*編著、共著・解説泉屋清賞 鏡鑑部 解説 住友家 大8考古図譜 第1冊~第10冊 美術工芸会 昭2-11唐宋精華 解説 山中商会 昭3-11支那古器図攷 兵器篇 東邦文化学院 昭7-3周漢遺宝 解説 大塚巧芸社 昭7-7支那古器図攷 舟車馬具篇 東方文化学院 昭11-3日本考古学入門 吉川弘文館 昭25-9中国考古学の旅 朝日新聞社 昭32-10正倉院のガラス 日本経済新聞社 昭40-3*発掘調査報告書朝鮮古蹟調査報告 大正7年度―1 朝鮮総督府 大11-3楽浪五官塚王旴の墳墓(田沢鋙共) 刀江書院 昭5-11楽浪土城址研究(駒井和愛共)朝鮮古蹟研究会 昭11-1楽浪土城址の調査(駒井・高橋共)朝鮮古蹟研究会 昭13-8東京城(駒井共) 東亜考古学会 昭14-3上都(駒井共) 東亜考古学会 昭16-11*論文、序文、書評、随筆等多数(略)

蔵田蔵

没年月日:1974/10/13

奈良国立博物館長蔵田蔵は心筋こうそくのため、10月13日天理よろず相談所病院で死去した。享年67歳。明治40年8月8日福岡県北九州市に生まれ、広島高等学校を経て昭和7年3月東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業、昭和9年3月同大学院を修了、同年11月東京帝室博物館研究員となる。昭和13年11月同博物館鑑査官補、列品課勤務、昭和20年6月高松宮御用掛、昭和21年1月再び東京帝室博物館勤務となり、昭和30年11月東京国立博物館学芸部工芸課長、昭和39年4月東京国立博物館学芸部長、昭和40年4月奈良国立博物館長となった。この間昭和42年3月より文化財専門審議会専門委員となり、傍ら東京芸術大学非常勤講師もつとめた。勲二等瑞宝章、正四位。 美術史学会及び美学会会員。仏教美術・日本金工史研究の第一人者であった。 主要著書金工―日本美術大系4 講談社 昭和36年金工―原色日本の美術20 小学館 昭和44年埋経―仏教考古学講座第六巻 雄山閣 昭和11年釜―茶道美術全集第十巻 淡交社 昭和45年東大寺大仏蓮弁拓本 求龍堂 昭和48年日本の金工 小学館 昭和49年仏具―日本の美術16 至文堂 昭和42年秘宝 熊野「熊野三山の出土遺物」 講談社 昭和43年秘宝 園城寺「園城寺の工芸」 講談社 昭和46年秘宝 法隆寺「法隆寺の工芸」 講談社 昭和45年

下店静市

没年月日:1974/06/26

美術史家下店静市は、6月26日胆ノウ炎のため国立京都病院で死去した。享年74歳。雅号樂濤山人。明治33年2月16日奈良県吉野郡に生れ、同37年父に伴われて北海道室蘭に移住した。室蘭中学を経て、大正6年立命館大学法学部に入学したが、富田溪仙に親炙し、しだいに美術への関心を深めた。大正8年11月立命館大学を中退し、以後美学、美術史研究に転じ、同9年上京した。同14年春より昭和3年まで東京帝国大学大塚保治、中川忠順に師事し、美学・美術史研究に専念した。この間、一時劇作家を志し、戯曲喜劇「不思議な仇討」、「秋」等を発表、前者は大阪に於いて上演され、交友関係に、今東光、尾崎士郎等らがいる。昭和5年富田溪仙の媒酌で竹内政野と結婚、同9年朝鮮半島の史蹟を巡歴した。この年の前後にわたり、「京都美術大観」の編纂に参加、また「画説」(23号)に初めて論文「信貴山縁起の内容」を発表した。その後、専ら執筆に専念、戦前戦後にかけてつぎの著書が出版されている。「支那絵画史研究」(昭和18年冨山房)「唐絵と大和絵」(昭和19年大阪駸々堂)、「大和絵史研究」(昭和19年冨山房)、「日本絵画史研究」(昭和23年冨山房)など。昭和24年9月には京都市立美術専門学校で、美術史を講じ、翌25年同校は京都市立美術大学となったが、同じく東洋美術史概説などの講義を41年3月まで行った。その後、同志社大学、大阪市立大学、福井大学、関西大学等の講師となり、昭和39年には帝塚山大学教授となった。この間、昭和31年「大和絵史」(冨山房)を出版し、また35年には「日本古代絵画史研究」の論文により関西大学より文学博士の学位を得た。そのほか昭和42年には私学研修福祉会の推薦によって欧州各国を巡遊、44年にも北欧、東欧、中近東の旅行を行った。45年古稀を記念して同朋、門下集り比較文化史学会をつくった。なお昭和50年6月同会より「下店静市先生遺文集」が刊行された。主な著書として、以上あげたほか「鳥羽僧正」(昭和2年アルス美術叢書26)、「信実」(昭和3年アルス美術叢書)「東洋画の見方と技法」(昭和18年駸々堂)「美術入門」(昭和24年天地書房)等がある。

石田幹之助

没年月日:1974/05/25

日本学士院会員・文学博士石田幹之助は、昭和49年5月25日、急性肺炎のため、東京都港区の自宅で逝去。享年82歳。明治24年12月28日、石田忠三の長男として千葉市に生まれ、私立麻布中学校・第一高等学校を経て、大正5年7月東京帝国大学文科大学史学科(東洋史専攻)を卒業。卒業に際しては銀時計を下賜された。同年9月史学研究室副手を嘱託され、大正13年3月まで在任したが、その間大正6年8月、岩崎久弥の委嘱をうけて北京に赴き、当時中華民国大総統顧問であったオーストラリア人ジョージ・アーネスト・モリソンの合計2万4000点に及ぶ蔵書の引き取りに当った。同年10月よりこのモリソン文庫の主任となり、大正13年11月、岩崎久弥がモリソン文庫と、これを収容する建物・設備・敷地およびその運営に要する基金とを寄贈し、財団法人東洋文庫が設立されると、その主任となり、さらに昭和7年6月からは主事となって、蔵書の整備拡充に挺身し、昭和9年4月に及んだ。中国中心、欧文図書中心であったモリソン文庫の内容をアジア全域に拡大し、漢籍をはじめとする各地域の言語による基本資料を加え、さらに一般参考書と称する部門を新設して、今日見られる東洋文庫の大蒐書の基礎を築いた。 昭和9年5月、前月設立された国際文化振興会の嘱託となって図書室の創設に当り、日本に関する欧文図書の蒐集に尽力した。昭和17年4月国学院大学教授に任ぜられ、同21年4月には日本大学教授専任、国学院大学教授は兼任となり、同37年3月日本大学定年退職後は国学院大学専任となり逝去の時に及んだ。このほか講師として、京都帝国大学・東北帝国大学・慶応義塾大学・九州大学・東京都立大学・東京教育大学等の教壇に立った。昭和22年6月、財団法人東方学会設立とともに理事となり、同48年7月その会長に就任し、他方昭和25年12月には文化財保護委員会専門審議会専門委員(のち文化財保護審議会専門委員)に任命され、また昭和42年11月日本学士院会員となり、いずれも逝去の日まで在任した。昭和34年12月、日本大学より文学博士の学位を授与され、翌年3月、日仏文化交流に貢献した者として、フランス政府よりOfficier dnas 1’ordre des Palmes Academiquesに叙せられて勲章を授けられ、同39年11月には紫綬褒章を、同41年4月には勲三等瑞宝章を受章した。 大学生時代より最晩年まで発表した文章約400篇、その研究業績を大別すると、第一類は研究史、第二類は独自の新研究ということになる。第一類は多くの内外学者の追悼録、学界の研究動向、新著の紹介等であって、この方面の単行図書としては、『欧米に於ける支那研究』(昭和17年、創元社刊)、『欧人の支那研究』(昭和21年訂正追補再版、日本図書会社刊)がある。東方学会の機関誌『東方学』に連載された「海外東方学界消息」は、地域を欧米に限らずアジアを含め、取り上げる研究の範囲も中国ばかりでなく、アジアの人文科学的研究の全領域を対象としたものであった。資料の紹介と研究史を兼ねたものとしては、『南海に関する支那史料』(昭和20年、生活社刊)がある。第二類は、年代的に見れば紀元前5世紀から18世末に及び、主題としては文化史、とくに東西文化の交渉と広い意味での中国人の生活文化に関するものが中軸をなしている。そのうち唐代文化についての論考を集めたものに『長安の春』(昭和42年増訂版、平凡社刊)、『唐史叢鈔』(昭和23年、要書房刊)がある。美術史関係の主要論文としては「郎世寧伝改略」(美術研究10)をあげなければならない。単行本に再録されなかった論文は『東亜文化史叢考』(昭和47年、東洋文庫刊)に収められた。

日野西資孝

没年月日:1974/05/17

有職故実研究家、元東京国立博物館漆工室長日野西資孝は心不全のため、5月17日京都市の自宅で死去した。享年69歳。明治38年4月19日東京市牛込区に生まれ、京都府立一中を経て昭和5年3月国学院大学国文科を卒業。昭和8年9月より高松宮出仕、昭和15年9月より帝室博物館非常勤嘱託、昭和16年4月より日本女子大学非常勤講師、昭和22年8月より東京国立博物館技官、昭和42年3月東京国立博物館を定年退職、昭和45年3月日本女子大を、同年5月高松宮を退職、同年6月に京都市の自宅に帰る。 美術史学会及び日本風俗史学会会員、有職故実研究の第一人者であった。主要著書に三代集(定家本)解説―昭和16年―、日本被服史―昭和26年・恒春閣―、図説日本服飾史―昭和28年・恒春閣―、服飾―日本の美術26・昭和43年・至文堂―等がある。

佐藤信弘

没年月日:1973/12/18

色彩研究家の佐藤信弘は12月18日脳出血で急逝した。号亘宏。大正2年12月10日東京に生れ、群馬県中之条高等小学校高等科2年を卒業した。昭和15年和田三造会長の日本標準色協会配色部主任となり、同16年5月日本色彩研究所(会長和田三造)配色部主任となった。同18年陸軍技術本部第十一研究所嘱託となる。戦後は、21年3月東京配色研究所を創立し、その所長となった。23年現代美術協会会員となり、35年10月には現代美術家協会代表者となる。なお、これより先の30年には武蔵野美術学校に色彩学を講じ、さらに教授となった。また同大学短大通信部色彩学講師となった。38年より43年に至り、建設省建設大学講師をする。主要作品―「D日」「黒い柱」「紫の沸」(現代美術協会展)ピンクシリーズ。雑草シリーズ。ハートの一連の作品。反体制的テーマ(公害他)。

植田寿蔵

没年月日:1973/11/27

京都大学名誉教授、美学会顧問の植田寿蔵は、11月27日、老衰のため吹田市の自宅に死去した。享年87歳であった。植田寿蔵は、明治19年(1886)2月26日、京都府綴喜郡に生まれ、私立奈良中学校、大阪の私立桃山中学校、奈良県立郡山中学校をへて、明治38年(1905)第三高等学校入学、同41年に卒業し同年京都帝国大学文科大学哲学科に入学、明治44年(1911)に卒業し、大学院へすすんだ。明治45年6月大学院を退学し、京都帝大文学部助手となった。大正8年文学部講師となり、同11年(1922)2月助教授、同14年(1925)5月、美学美術史研究のためヨーロッパに留学、ドイツ、フランス、イタリアに滞留し、昭和2年(1927)10月帰国、11月九州帝国大学文学部教授となり美学美術史講座を担当した。昭和4年4月九州帝大教授のまま、京都帝大教授を兼任、同7年5月九州帝大教授の兼任を解かれ、京都帝大教授を専任することとなった。昭和19年12月正四位に叙せられ、同20年12月勲二等瑞宝章をうけ、同21年7月13日、京都帝国大学教授を定年退官した。昭和22年11月、京都帝国大学名誉教授。京都大学における初代美学教授深田康算のあとをうけて二代目教授としていくたの後進の育成につとめ、退官後は著述に専念し、多くの著作を発表した。主要著書目録『芸術哲学』(改造社、大正13年)『近代絵画史論』(岩波書店、大正14年)『美学』(岩波講座・哲学、岩波書店、昭和2年)『芸術史の基礎』(弘文堂書房、昭和10年)『日本美術』(弘文堂書房、昭和15年)『視覚構造』(弘文堂書房、昭和16年)『日本の美の精神』(弘文堂書房、昭和19年)『美をきはめるもの』(弘文堂書房、昭和22年)『佛教美術論』(弘文堂書房、教養文庫、昭和22年)『美の批判』(弘文堂書房、昭和23年)『美学短篇』(角川書店、昭和23年)『ミレエ』(弘文堂書房、アテネ文庫、昭和24年)『文芸の存在・小説をとほして見出された文芸の根源的構造』(弘文堂書房、昭和24年)『セザンヌ以後―フランスの絵画』(弘文堂書房、アテネ文庫、昭和24年)『ファン・ホッホ』(弘文堂書房、アテネ文庫、昭和25年)『近代の絵画の方向―絵画における美の歴史的構造』(弘文堂書房、昭和26年)『西洋美術史』(弘文堂書房、アテネ新書、昭和28年)『傑作と凡作との論理』(弘文堂書房、昭和29年)『芸術の論理』(創文社、昭和30年)『絵画の論理』(創文社、昭和42年)『日本の美の論理』(創文社、昭和45年)『絵画における南欧と北欧』(創文社、昭和47年)

村田潔

没年月日:1973/11/03

東北大学名誉教授、武蔵野美術大学教授、西洋美術史専攻の村田潔は、11月3日午前11時8分、東京・武蔵野市の森本病院で心筋硬ソクのため急逝した。享年64歳であった。村田潔は、明治42年(1909)2月28日、長野県松本市に生まれ、昭和7年(1932)東北大学文学部美学美術史学科を卒業、児島喜久雄の指導をうけ、卒業と同時に同学科の助手となったが、同年10月、美学・美術史研修のためにヨーロッパに留学した。主としてイギリスに滞在して古代ギリシャ・ローマ美術を研究、昭和12年(1937)5月帰国した。帰国後は直に東北大学文学部講師に就任、同14年助教授、同22年教授に昇任、同25年「印象派美術の研究」で文学博士の学位をうけた。昭和37年、東北大学評議員、大学院研究科教授を兼任、同47年(1972)3月、退官して名誉教授となった。同年4月武蔵野美術大学教授に迎えられて、東京に転居、同大学西洋美術史教科の中心として今後の活躍が期待されていた矢先に急逝した。著書には『ギリシャの神殿』(昭和19年、築地書店)、『希臘芸術試論』『ギリシャ・ローマの美術』(昭和23年、東京堂)、『岩波小辞典・西洋美術』(昭和31年)、『西洋古代美術論』(昭和46年、岩波書店)。

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