本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





大隅為三

没年月日:1961/11/23

美術評論家大隅為三は11月23日大動脈腫ようのため東京都品川区の自宅で逝去した。享年80歳。明治14年滋賀県に生れ、哲学館大学(現東洋大学)を卒業、明治38年渡仏、ソルボンヌ大学考古学科に学び大正3年帰国、在仏中フランス政府よりレジオン・ド・ヌール賞をうけている。帰国後は、ギリシヤ美術の研究、古渡更沙の研究から、更に一般美術批評に従事し、東洋大学、金沢市立美術工芸大学、多摩美術大学で教鞭をとっていた。主な著書に、「ギリシヤ・レキトス」「満蒙美観」「ギリシヤ芸術」「古渡更沙」などがある。

吉野富雄

没年月日:1961/11/08

文化財専門審議会専門委員吉野富雄は11月8日肺臓癌のため、東京都葛飾区の自宅で逝去した。享年77歳、明治18年4月1日千葉県茂原市で生れた。明治43年東京美術学校漆工本科を卒業、大正6年帝室博物館に入り、昭和4年から8年迄は東京美術学校講師をつとめていた。又昭和15年から25年まで重要美術品等調査委員会臨時委員を依嘱され、また、文化財専門審議会発足後は第一分科会工芸品部会の専門委員となっていた。東京芸術大学講師でもあり、特に漆の技術面で豊富な経験と高い識見をもっていた。

柳宗悦

没年月日:1961/05/03

日本民芸運動の創始者であり、その運動を発展させ、それに理論的な根拠を与えた日本民芸館長柳宗悦は5月3日脳出血のため都内目黒区駒場の日本民芸館で死去した。72歳。略年譜1889(明治22)年 3月2日東京に生れる。1910年 友人志賀直哉・武者小路実篤らと「雑誌」「白樺」創刊。このころバーナード・リーチ(銅版画家、のち陶芸家)を知り、ブレークや民芸運動についてのちのちまで相互に影響し合う。1911年 「科学と人生」(籾山書店」出版。学習院高等科卒。1913(大正2年) 東京帝国大学文学部卒(心理学専攻)。1914年 「ヰリアム・ブレーク」(洛陽堂)出版。1919年 東洋大学宗教学教授就任(~1923年)。1921年 明治大学予科倫理学および英文講師就任(~1924)。「宗教的奇跡」(叢文閣)、「ブレイクの言葉」(叢文閣)刊行。1922年 「朝鮮の美術」(私版本)、「朝鮮とその芸術」(叢文閣)、「陶磁器の美」(私版本)、「宗教の理解」(叢文閣)刊行。1923年 「神に就て」(大阪毎日新聞社)刊行1924年 朝鮮京城府緝敬堂に朝鮮民族美術館を設立し朝鮮における蒐集品を陳列。1925年 京都同志社女学校専門部教授に就任。「木喰上人作彫刻」(木喰五行研究会)、「信と美」(警醒書店)出版。1926年 同志社大学英文科講師、関西学院英文科講師に就任(~1929年)。「木喰上人和歌集」(木喰五行研究会)刊行。1927(昭和2年) 「雑器の美」(工政会)刊行1928年 「宗教とその真理」(叢文閣)、「工芸の道」(グロリア・ソサエティ)刊行。1929年 米国ハーバート大学講師として渡米。「工芸美論」(万里閣)、「日本民芸図録」「初期大津絵」(工政会)刊行。1930年 ヨーロッパを廻って帰国1931年 月刊雑誌「工芸」創刊(第二次大戦後120号で廃刊まで重要な論文を掲載)、「ブレイクとホヰットマン」(2年間続いた月刊雑誌、寿岳文章との共著出版)。1933年 「民芸の趣旨」(私版本)、「蒐集に就て」(私版本)刊行。米国ハワイ大学講師としてホノルルに滞在。1934年 「美と工芸」(建設社)刊行。1935年 「美術と工芸の話」(章華社)刊行。1936年 日本民芸館開設。館長に就任。「Folk Crafts in Japan」(国際文化振興会)、「茶道を想ふ」(私版本)刊行。1937年 国際女子学園講師に就任。「美の国と民芸」(私版本)刊行。1938年 第1回沖縄旅行(沖縄県学務部の招聘による)。1939年 民芸協会同人と共に再度渡島し、調査と蒐集や製作指導を行った。雑誌「月刊民芸」創刊、(編集・式場隆三郎)1940年 専修大学教授に就任(~1944年)。「富本憲吉、河井寛治郎、浜田庄司作品図録」(民芸協会発行)、「琉球の織物」(民芸協会発行)刊行。1941年 東洋美術国際研究会常務理事に就任。「民芸とは何か」(民芸叢書・昭和書房)「茶と美」(牧野書房)、「工芸」(創元社)発行。1942年 「工芸文科」(文芸春秋社)、「工芸の美」(私版本)、「私の念願」(不二書房)、「美と模様」(私版本)、「藍絵の猪口」(工芸選書・私版本)、「雪国の蓑」(工芸選書・私版本)「琉球の陶器」(編集・民芸叢書・昭和書房)、「現在の日本民窯」(編集・民芸叢書・昭和書房)出版。1943年 「日田の皿山」(私版本)、「木喰上人の彫刻」(工芸選書・私版本)、「諸国の土瓶」(工芸選書・私版本)、「信と美」(新版)1944年 「和紙の美」(私版本)1945年 戦争苛烈のため3月に民芸館を閉鎖したが、12月には再開。1946年 日米教育委員となる。1947年 「民芸館案内」(私版本)刊行。1948年 「手仕事の日本」(靖文社)、松ヶ岡文庫の理事長となる。1949年 「美の法門」(私版本)刊行。1950年 「妙好人因幡の源佐」(大谷出版社)刊行。1951年 雑誌「大法論」に「南無阿弥陀仏」を21回にわたり連載しはじめる。1952年 柳個人の所有である住宅、敷地、調度の一切を民芸館に寄贈し、その登記を終る。国際工芸家会議に列席のため毎日新聞文化使節を兼て渡欧米。1953年 2月帰国。ホノルル大学での講演が「The Responsibility of Craftes Man」、「The Way of Tea」としてホノルル大学によって刊行。1954年 「柳宗悦選集」全10巻(「手仕事の日本」、「工芸文化」、「朝鮮とその芸術」「琉球の人文」、「物と美」、「民と美」がこの年出版)(春秋社)、「日本民芸館」(20周年記念私版本)刊行。1955年 選集(「工芸の道」、「茶と美」、「木喰上人」、「大津絵」、「南無阿弥陀仏」(大法論閣)刊行。1956年 「蒐集物語」(中央公論社)、「民芸の立場」(私版本)、「丹波の古陶」(私版本)刊行。12月重病に倒れる。1957年 7月から小康を得て執筆再開。文化功労賞授賞。沖縄タイムズより沖縄文化の貢献者として感謝状を受ける。「無有醜好の願」(私版本)出版。1958年 「民芸四十年」(宝文閣)、「棟方志功の板画」(筑摩書房)、「茶の改革」(春秋社)刊行。1959年 「心偈」(私版本)刊行。富山県砺波郡城端別院客舎の前庭に美の法門の記念碑建設される。1960年 朝日文化賞授賞。「民芸図鑑」第一巻(宝文閣)、「大津絵図録」(三彩社)、宗教選集(「南無阿弥陀仏」「宗教随想」、「宗教とその真理」)(春秋社)、「美の浄土」(私版本)、「日本の民芸」(宝文閣)刊行。1961年 「民芸図鑑」第二巻(宝文閣)、「法と美」(私版本)、宗教選集(「宗教の理解」)、「船箪笥」(私版本)刊行。5月3日永眠。5月7日、日本民芸館葬が行われた。

斎藤隆三

没年月日:1961/04/08

日本美術院常任理事、文学博士斎藤隆三は、4月8日茨城県北相馬郡の自宅で老衰のため死去した。享年86歳。明治8年4月6日同地に生れ、同35年東京帝国大学文科大学国史科を卒業し、明治40年より大正5年迄三井家家史並に事業史編纂の仕事に携った。大正3年日本美術院の再興に際し、横山大観らと経営者の一人となり、常任理事として今日に至った。昭和7年「江戸時代前半期の世相と衣裳風俗」の論文により文学博士となり、17年には財団法人岡倉天心偉績顕彰会専務理事となった。著書多く、主なものは次の通りである。守谷志 明治33年元禄世相志 明治38年近世世相史 明治42年新美術史 大正6年画題辞典 大正8年美術行脚古社寺めぐり 大正10年江戸趣味 昭和2年江戸時代前半期の世相と衣裳風俗 昭和8年江戸時代の風俗(岩波歴史講座) 昭和9年模様小袖講座(国際写真情報) 昭和6~10年江戸のすがた 昭和11年近世の飲食 昭和12年赤穂義士の考察 昭和12年Japanese coiffure(国際観光局叢書) 昭和14年近世世相史概観(創元選書) 昭和15年大痴芋銭 昭和16年日本美術院史(創元社) 昭和19年芸苑今昔 昭和23年史郷守谷 昭和30年芸苑雑筆 昭和32年横山大観(中央公論美術出版) 昭和33年岡倉天心(弘文館人物叢書) 昭和35年

西村貞

没年月日:1961/03/03

美術史家西村貞は3月3日腎臓腫瘍のため京都府立医大病院で死去した。67歳。1893(明治26)年12月12日大阪市に生れた。松原三五郎に洋画を習い、絵画専門学校に学び、明治大学中退後、主としてルネッサンス絵画を研究して1921(大正10)年から1923年にかけて欧州遊学。帰国後日本美術研究に転じ、奈良県下に石仏を調査した。そののち日本における西洋美術の受容に関する研究に進み、この間その研究の一環として茶道・庭園の研究も行った。彼は在野の研究家にふさわしく、官学派の美術史家が見落しがちな石仏・キリスト教初期洋風画等を精力的に調査し、その分野に最も基本的な諸研究を残した。「民家の庭」(1953、美術出版社)は1954年度毎日出版文化賞を受けた。主要著書目録「画の科学」(1928、中央美術社)、「南都石仏巡礼」(1929、太平洋書房)、「黄檗画像志」(1934、創元社)、「日本銅版画志」(1941、書物展望社)、「フラ・アンジェリコ」(アトリエ社)、「奈良の石仏」(1943、全国書房)、「日本初期洋画の研究」(1945、全国書房)、「キリシタンと茶道」(1948、全国書房)、「民家の庭」(1953、美術出版社)、「庭と茶室」(1955、講談社アートブックス)、「庭と茶室」(1957、講談社)、「南蛮美術」(1959、講談社)、「日本版画美術大系・民俗版画篇」(藤沢衛彦と共著、1961、講談社)、「キリシタン美術」(共編1961、宝文館)

龍居松之助

没年月日:1961/02/16

文化財専門審議会専門委員龍居松之助は、2月16日動脈硬化のため中野区の自宅で逝去した。享年77歳。号は枯山。明治17年1月9日、参事院書記生龍居頼三の長男として東京市京橋区に生れた。東京府立四中、学習院高等科を経て東京帝国大学文科大学の国史家に学び、明治44年卒業した。大正6年、同大学院に学び「我邦近世の住宅及び庭園の研究」をテーマとした。この前後から青山学院高等部講師、日本女子大学教授をつとめ、文化史を講じていた。大正7年、北支那、殊に北京を中心とする住宅、庭園の視察旅行を行い、また同年日本庭園協会を創立した。つづいて大正13年、同志と私立東京高等造園学校を設立、さらに日本造園学会、日本造園士会の設立にも参加、また早稲田大学理工学部、早稲田高等工学校で造園史の講義をするなど活発な動きを示している。昭和9年文部省より史蹟名勝天然記念物調査委員を委嘱され、戦後の昭和26年、文化財保護法設立に伴い文化財専門審議会名勝部会の委員となり32年までつとめた。造園学校は、昭和17年東京農大と合併し、農大教授となったが32年退職、早大も又30年に退職した。大正9年龍居庭園研究所を創設、公私園の設計、施工監督を手がけたもの多く、古名園の修理復旧にも従事し、また著書も多い。晩年の昭和33年、庭園保存事業の功により紫綬褒章を授与された。主要著書「大江戸の思い出」「女性日本史」「日本名園記」「日本式庭園」「近世の庭園」GARDENS OF JAPAN」

中野勇

没年月日:1961/01/31

東京学芸大学教授中野勇は1月31日狭心症のため東京都世田谷区の自宅で逝去した。享年63歳。明治30年7月19日東京都港区で生れた。大正15年、東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業、更に大学院に学んだ。昭和4年から10年まで、同大学研究室副手を勤める傍ら、法制大学予科(昭和3年-9年)、成城高等学校(昭和8年-11年)の講師となった。昭和13年国際文化振興会に入り、副参事として、また調査部長として、日本文化の海外紹介のため、我国文化関係出版物の文献目録作成の仕事に当っていた。昭和21年から25年まで龍村織物研究所々員となり正倉院裂、古代裂の調査研究に従事した。その後、多摩美術大学講師(25年-26年)を経て、26年東京学芸大学教授となり、美学美術史を講じ、美術史方法論の研究に主力を注いでいた。著書に、ヴォーリンガ「ゴシック美術形式論」(昭和19年座右宝刊行会発行)の訳書がある。

近藤市太郎

没年月日:1961/01/06

美術史家、東京国立博物館学芸部資料課長近藤市太郎は、昭和36年1月6日、横浜市大附属病院で、心臓マヒの為逝去した。享年50歳。明治43年3月19日東京都港区に生れた。昭和7年東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業し、同9年11月に帝室博物館の研究員となり、20年に同館鑑査官となった。帝室博物館は戦後国立博物館として発足、26年には信発足の東京国立博物館の普及課長となった。その後さらに資料課長に転じたが、その間、国立博物館主催或は後援の形において各地で浮世絵展を開催し、企画、展示、講演に精力的な活動をつづけ、浮世絵を広く人々に理解させるために力を惜しまなかった。藤懸静也博士に師事し、近世絵画史のうちでもことに浮世絵を専攻し、新しい観点からの研究をすすめ、浮世絵研究家として広く国外にもその名を知られていた。没後、1月6日付で正五位勲五等に叙せられ瑞宝章を授けられた。又同日従四位に叙せられた。主 要 著 書昭和19年 「清親と安治」 アトリエ社昭和19年 「日本風景版画史論」(楢崎宗重と共著) アトリエ社昭和22年 「浮世絵の知識」 国立博物館奈良分館昭和27~28年 「日本美術全集第1巻、第2巻(絵画編) 東都文化出版昭和29年 「日本美人画選」上巻 東都文化出版昭和30年 「歌麿」(アート・ブックス) 講談社昭和31年 「歌麿」(日本の名画) 平凡社昭和31年 「肉筆浮世絵」 電通昭和32年 「初期風俗画」(日本の名画) 平凡社昭和33年 「宗達・光琳派国宝画集」 電通昭和34年 「浮世絵」(歴史叢書) 至文堂昭和35年 「東海道五十三次」 平凡社

和辻哲郎

没年月日:1960/12/26

日本学士院会員、文化財専門審議会専門委員和辻哲郎は12月26日心筋梗塞のため都内練馬区の自宅で死去した。71歳。略年譜1889(明治22)年 3月1日兵庫県神崎郡の医家の次男として生れた。1906年 第一高等学校入学。1912年 高瀬照と結婚。7月東京帝国大学文科大学哲学科卒業。1913(大正2)年 「ニイチエ研究」(内田老鶴圃)刊行。1915年 「ゼーレン・キエルケゴール」(内田老鶴圃)刊。1918年 「偶像再興」(岩波書店)刊。1819年 「古寺巡礼」(岩波書店)「ラムプレヒト近代歴史学」(訳書・岩波書店)刊。1920年 東洋大学教授(-1925年)。「日本古代文化」(岩波書店)刊。1922年 法制大学教授(~1925年)。慶應大学講師(一年間)1923年 「ブチャー希臘天才の諸相」(共訳・岩波書店)刊。1924年 ストリントベルク全集((2)「或魂の発展」、(3)「痴人の告白」共訳・岩波書店)刊。1925年 京都帝国大学文学部講師。同助教授、倫理学担当。1926年 「日本精神史研究」(岩波書店)。「原始基督教の文化史的意義」(岩波書店)刊。1927(昭和2)年 ドイツ留学。「原始仏像の実践哲学」(岩波書店)刊。1928年 帰国。1929年 竜谷大学文学部講師を兼任。「正法眼蔵随聞記」(校訂・岩波文庫)刊。1931年 京都帝国大学教授。1932年 大谷大学教授兼任。「原始仏教の実践哲学」により文学博士授与。1934年 「人間の学としての倫理学」(岩波全書)刊。東京帝国大学教授。1935年 「続日本精神史研究」(岩波書店)。「風土-人間学的考察」(岩波書店)、「カント実践理性批判」(岩波・大思想文庫)刊。1937年 「倫理学」(上)(岩波書店)、「面とペルソナ」(岩波書店)刊。1938年 「孔子」(岩波・大教育家文庫)、「人格と人類性」(岩波書店)刊。1939年 法隆寺壁画保存調査会委員。「改稿日本古代文化」(岩波書店)刊。1940年 「改訂日本精神史研究」(岩波書店)。1942年 「倫理学」(中)(岩波書店)、「ニイチエ研究」(改訂版・筑摩書房)刊。1943年 「尊皇思想とその伝統」(岩波書店)刊。東京帝国大学評議員(-1947年)。1944年 「日本の臣道・アメリカの国民性」(筑摩書房)刊。1946年 「ホメーロス批判」(要書房)刊。1947年 「改訂古寺巡礼」(岩波書店)刊。学術研究会議第一回会員。国立博物館評議員会評議員。1948年 「ポリス的人間の倫理学」(白日書院)、「ケーベル先生」(弘文堂・アテネ文庫)、「ゼーレン・キェルケゴール」(改訂版・筑摩書房)刊。生成会創立同人。機関誌「心」発刊。編集委員。1949年 停年により東京大学教授依願免官。「倫理学」(下)(岩波書店)刊。文教審議会委員。国立博物館陳列品鑑査委員。日本学士院会員。1950年 「鎖国」(筑摩書房)、「イタリア古寺巡礼」(要書房)、「近代歴史哲学の先駆者」(弘文堂・アテネ新書)、「ニーチェ・愛する人々へ」(共訳・要書房)刊。日本倫理学会創立、会長(-1960)。文化財専門審議会専門委員(第一分科会)。1951年 「新稿日本古代文化」(岩波書店)、「埋もれた日本」(新潮社)、「私の信条」(共著・岩波新書)刊。1952年 「日本倫理思想史」(上下)(岩波書店)。「鎖国」に対し読売文学賞授与。その賞金により日本倫理学会賞を設ける。1953年 「日本倫理思想史」に対し毎日出版文化賞授与。1955年 「日本芸術史研究第一巻」(岩波書店)刊。日本ユネスコ国内委員会委員。文化勲章授与。「桂離宮-製作過程の考察」(中央公論社)刊。1957年 中央公論1月より「自叙伝の試み」連載。正倉院評議員会評議員。1960年 12月26日永眠。30日青山葬儀所で葬儀が行われた。1961年 「和辻哲郎全集」(全20巻・岩波書店)刊行開始。

藤田亮策

没年月日:1960/12/12

奈良国立文化財研究所長藤田亮策は、狭心症のため12月12日急逝した。明治25年新潟県に生まれ、大正7年東京帝国大学文科大学国史学科を卒業した。はじめ文部省維新史料編纂官補、宮内属として維新史あるいは陵墓等の調査研究にあたった。大正11年、朝鮮総督府に招かれ、古墳調査事務嘱託、朝鮮総督府鑑査官、同修史官を経て京城帝国大学助教授、同教授を歴任した。この間、終始朝鮮地方の考古学の先駆者として活躍し多くの業績をのこした。終戦とともに帰国、東北帝国大学講師、東京芸術大学教授として後進の指導育成にあたった。また文化財保護委員会発足と同時に文化財専門審議会専門委員に就任、文化財保護行政の推進に尽力した。昭和34年8月奈良国立文化財研究所長に就任し、特別史跡平城宮跡の発堀調査を指導しつつあった。その他、日本学術会議会員、正倉院評議員、日本考古学協会委員長などをつとめた。逝去に際し、生前における学術文化及び教育に関する功績に対し、正3位勲2等瑞宝章が贈与された。また12月20日奈良国立文化財研究所に於て所葬が行なわれた。主要著書目録朝鮮古美術写真集(小泉顕夫共著) 昭和2年朝鮮古代文化(岩波講座日本歴史のうち) 昭和9年杉原長次郎氏蒐集考古品図録 昭和19年朝鮮古文化綜鑑(梅原末治共著) 昭和22年朝鮮考古学研究 昭和23年

阿部次郎

没年月日:1959/10/20

東北大学名誉教授・日本学士院会員・日本芸術院会員阿部次郎は10月20日東北大附属病院で脳軟化症のため逝去した。享年76歳。明治16年8月27日山形県飽海郡に生れた。家は代々名主格の半農半商で、父は小学教員であつた。明治40年東京帝大哲学科を出たのち明治42年頃から夏目漱石の門に出入し、文芸評論にたずさわりながら、哲学・美学・文化史等の研究にも進んだ。とりわけ、ゲーテ研究、日本文化史研究は晩年まで続く研究課題であつた。柔軟な感性と高度の教養主義を背景とする人格主義の理想は、大正期知識人のある典型を示すものであるが、その影響は今日もなお絶えていない。 略年譜明治34年 第一高等学校入学明治37年 東京帝国大学哲学科進学明治42年 漱石門に出入する大正2年 慶応義塾大学で美学を講ずる。大正3年 トルストイ「光あるうちに光の中を歩め」新潮社刊(翻訳)「三太郎の日記」東雲堂刊大正4年 「三太郎の日記第弐」岩波書店刊大正5年 リップス「倫理学の根本問題」(抄訳)岩波書店刊大正6年 「美学」岩波書店刊創刊誌「思潮」主幹大正7年 「合本三太郎の日記」岩波書店刊大正8年 「ニィチェのツァラツストラ、解釈、並びに批評」新潮社刊大正9年 満州旅行大正10年 プラトン「ソクラテスの弁明」「クリトン」(久保勉と共訳)岩波書店刊東北大学法文学部へ招聘される大正11年 文部省在外研究員として渡欧「地獄の征服」「人格主義」岩波書店刊「北郊雑記」改造社刊大正12年 東北帝国大学教授になり、美学講座担当。昭和6年 「徳川時代の芸術と社会」改造社刊昭和9年 「文芸評論第二輯 世界文化と日本文化」岩波書店刊昭和14年 「ヰ゛ルヘルム・マイスター遍歴時代」(翻訳)上・下、改造社刊(「ゲーテ全集」)「秋窓記」岩波書店刊「ファウスト第1部」(翻訳)改造社刊(「ゲーテ全集」)「ファウスト第2部」(翻訳)改造社刊(「ゲーテ全集」)昭和15年 「英訳万葉集」日本学術振興会刊、序論分担執筆昭和16年 東北帝大法文学部部長に就任。軽度の脳出血発病。昭和17年 法文学部長を免ぜられる。昭和20年 東北帝国大学教授を停年退職。「万葉時代の社会と思想」「万葉人の生活」(日本叢書)生活社刊昭和21年 東北大学名誉教授の称号をうける。昭和22年 「阿部次郎選集」6巻 羽田書店刊日本学士院会員に任ぜられる。昭和24年 「残照」羽田書店刊昭和25年 「三太郎の日記補遺」角川書店刊昭和34年 10月20日死去

大西克禮

没年月日:1959/02/06

帝国学士院会員、東京大学名誉教授大西克礼は2月6日福岡市の自宅で、没した。明治21年10月4日東京で生れた。第3高等学校を経て、同43年東京帝国大学文学部哲学科に入学、美学を専攻した。大正2年卒業に際し銀時計を受けた。つづいて大学院に入学、同11年同大学講師を嘱託され、昭和2年助教授に任ぜられた。同年2月ドイツ、フランス、イタリアへ留学、同3年11月帰国した。同4年同大学文学部の美学美術史第1講座担任を命ぜられ、美学を講じた。同5年文学博士の学位を授けられ、教授に任ぜられた。同21年帝国学士院会員となつたが、同24年東京大学教授を定年退官し、名誉教授の称号をさずけられた。 主要著書目録社会学上より見たる芸術(翻訳) 大正3年美学原論 大正6年レンブラント(翻訳) 昭和2年現代美学の問題 昭和2年カントの「判断力批判」の研究 昭和6年現象派の美学 昭和12年幽玄とあはれ 昭和14年風雅論 昭和15年万葉集の自然感情 昭和18年自然感情の類型 昭和23年美意識論史 昭和24年美学上巻 昭和34年美学下巻 昭和35年

明石染人

没年月日:1959/01/27

文化財専門審議会専門委員、正倉院御物古裂調査委員、京都工芸繊維大学講師、京都市立美術大学講師、明石染人(本名国助)は、1月27日、京都市の自宅において、脳溢血のため急逝した。享年71歳。明治20年5月6日京都に生まれ、同42年7月京都高等工芸学校染色科卒業、翌43年11月同校助教授となり、繊維品加工(精練、染色、捺染、整理)学、及び染織工芸史を専攻した。大正9年鐘ケ渕紡績株式会社に入社し、現業面にも従事、昭和9年同社山科工場長となり、その年同社より、研究、視察、蒐集のため、ヨーロッパ、埃及、印度その他へ派遣された。同19年同社本部繊維部長となり、同22年病気のため退社した。 一方、昭和10年より同27年まで恩賜京都博物館学芸委員嘱託をつとめ、同25年より京都工芸繊維大学講師、京都市立美術大学講師、文化財専門審議会専門委員、同28年より正倉院御物古裂調査委員の任にあり、博い専門知識を持つた人材として染織工芸界で重きをなしていた。 主要著書目録日本染織史 昭和3年 雄山閣染織文様史の研究 昭和6年 万里閣日本染織工芸史(上) 昭和18年 一条書房埃及コプト染織図録と埃及コプト染織工芸史 昭和31年 京都書院日本における染織の発達と文様の特質 昭和34年 日本繊維意匠センター

藤懸静也

没年月日:1958/08/05

文化財専門審議会々長、国華社主幹、明治大学教授、文学博士藤懸静也は、8月5日前立腺肥大症のため東京逓信病院で逝去した。享年77歳。明治14年2月25日茨城県古河に生れた。第一高等学校を経て同43年東京帝国大学文科大学史学科国史科を卒業し、直ちに大学院に入つて日本美術史を専攻した。大正3年以来同大学文学部の副手をつとめるかたわら「国華」の編集をたすけた。また女子美術学校、日本大学の講師、国学院大学教授、帝室博物館学芸委員などを勤めた。昭和2年から翌年にわたり海外における日本美術史の資料調査、各国博物館の調査のため欧米を巡歴した。帰国後文部技師に任ぜられ、国宝鑑査官、国宝保存会幹事、同委員、重要美術品等調査委員会委員として国宝等の保存行政につくした。昭和9年東京帝国大学教授に任ぜられ、同16年定年で退官するまで後進の指導にあたつた。この間、昭和9年に文学榑士の学位を受けた。昭和20年瀧精一博士の後を継いで国華社主幹となり、「国華」編集の中心となつた。戦後、文化財専門審議会の設置と共に専門委員となり、晩年にはその会長をつとめた。また東京国立博物館評議員であつた。浮世絵版画を歴史的に系統づけた功績は大きく、多くの著書や論文がある。略年譜明治14年 2月25日茨城県古河に生る明治43年 東京帝国大学文科大学史学科国史科卒業、大学院入学。明治45年 女子美術学校講師を嘱託せらる大正3年 東京帝国大学文学部副手を命ぜらる(東京帝国大学)大正6年 国学院大学教授を命ぜらる大正11年 日本大学講師を嘱託せらる大正13年 願に依り東京帝国大学文学部嘱託を解かる(東京帝国大学)美術史に関する事項調査を嘱託さる(同前)史料編纂業務を嘱託さる(同前)昭和2年 帝室博物館学芸委員を被仰付(宮内省)。東京帝室博物館勤務を命ぜらる(同前)欧米諸国に於ける日本美術史に関する資料調査を嘱託さる(東京帝国大学)。欧米各国博物館調査を嘱託さる(帝室博物館)4月2日欧米へ向け出発昭和3年 3月29日帰国。6月文部技師に任ぜらる(総理大臣)。宗教局勤務を命ぜらる(内閣)昭和4年 国宝保存会幹事被仰付(内閣)昭和5年 国宝保存会幹事被免(内閣)国宝保存会委員被仰付(同前)依願免本官(内閣)。国宝保存会委員被仰付(同前)昭和7年 御物調査委員会臨時委員を命ぜらる(宮内省)昭和8年 重要美術品等調査委員会委員を依嘱さる(文部省)昭和9年 任東京帝国大学教授、叙高等官3等(内閣)文学部美学美術史第2講座担任を命ず(文部省)。文学博士の学位を授けらる(東京帝国大学)昭和15年 日本諸学振興委員会昭和14年度芸術学部臨時委員を嘱託さる(文部省)美術振興調査会委員被仰付(内閣)昭和16年 依願免本官、陞叙高等官1等(内閣)昭和20年 国華杜主幹となる昭和25年 文化財専門審議会専門委員を委嘱さる(文化財保護委員会)昭和27年 文化財専門審議会専門委員を委嘱され、第1及び第2分科会所属を命ぜらる(同前)昭和29年 文化財専門審議会尊門委員を委嘱され、第1及び第4分科会所属を命ぜらる(同前)昭和32年 文化財専門審議会尊門委員を委嘱され、第1及び第4分科会所属を命ぜらる(同前)昭和33年 8月5日逝去。8月8日青山葬儀所で告別式を行う主要著書目録浮世絵大家画集 大正4年 浮世絵研究会浮世絵 大正13年 雄山閣浮世絵の研究 昭和19年 雄山閣増訂浮世絵 昭和21年 雄山閣日本美術図説〔監修〕 昭和25年 朝日新聞社浮世絵(アルス・グラフ) 昭和27年 アルスJapanese wood-block prints 昭和25年 日本交通公社

金原省吾

没年月日:1958/08/02

文学博士金原省吾は、8月2日脳出血のため武蔵野市の自宅で逝去Lた。享年68歳。明治21年9月1日長野県諏訪郡の河西家に生れた。同43年長野県師範学校を卒業し、45年9月長野県北安曇郡の金原家の婿養子となつた。この年10月上京して翌大正2年早稲田大学予科に入学した。大正6年早稲田大学文学部哲学科を卒業、更に二カ年研究科に在籍して東洋美学及東洋美術史の研究を深め、その後は日本橋区第二実業補導学校、また日本美術学校講師をつとめていた。この頃から著述生活に入り大正13年「支那上代画論研究」「東洋画論」などを発行している。昭和4年帝国美術学校教授並びに教務主任となり、16年から18年迄、年1回約1カ月、満州国立建国大学教授として渡満している。24年新潟大学教授となり、30年文学博士の学位をうけた。更に31年東横女子短大講師、東京学芸大学講師を兼ね、武蔵野美術学校にも関係していた。東洋美術に関する著書多く、「支那上代画論研究」(大正13年岩波書店)、「東洋画概論」(大正13年古今書院)、「絵画に於ける線の研究」(昭和2年古今書廃)、「東洋美論」(昭和4年春秋杜)、「東洋美術論叢」(昭和9年古今書院)、「表現の問題」(昭和12年古今書院)、「支那絵画史」(昭和13年古今書院)、「日本美術論」(昭和14年河出書房)、「日本芸術の課題」(昭和15年河出書房)、「東洋美術論」(昭和17年講談杜)など50余冊に及んでいる。

小場恒吉

没年月日:1958/05/29

元東京芸術大学図案科教授小場恒吉は、5月29日老衰のため、東京都中野区の自宅で逝去した。享年80歳。明治11年1月25日秋田市に生れた。郷里の中学に学び、同地の狩野派の画家につき指導をうけたのち上京、明治31年東京美術学校図案科に入学した。かたわら荒木寛畝に日本画を、岡本椿所について篆刻を学んだ。明治36年東京美術学校を卒業し、一時郷里の秋田工業学校に勤務したが、同41年東京美術学校雇、図案課助手となり、大正元年同校助教授となつた。この年から朝鮮古墳壁画模写、或は学術研究のため朝鮮に出張、大正5年には美校を辞し、朝鮮博物館事務を嘱託、また総督府学務局古墳調査課に勤務、朝鮮美術審査委員会委員などを兼務していた。大正14年6月、東京美術学校講師となり、工芸史授業を担任、同年更に美術学校から研究のため朝鮮に赴いた。昭和8年朝鮮総督府宝物古墳名勝天然記念物保存会委員を嘱託、年々渡鮮し古墳調査の傍ら高勾麗壁画の模写に従事した。昭和21年東京美術学校教授、24年には東京芸術大学及び同大学東京美術学校教授に任ぜられ27年3月まで教授として在任した。また昭和27年から29年まで同大学評議会評議員をつとめていた。紋様史の研究を専門とし、日本、中国及び朝鮮の古墳古建築の装飾から、絵画彫刻の絵紋様、又は一般古美術工芸品に現われた形態、若しくは紋様などを対象とするもので、実測にもとづく綿密な調査研究は美術界に寄与するところ大きく、研究の一部をなす「日本紋様の研究」は昭和25年に芸術院恩賜賞を受賞した。著書「朝鮮古蹟調査報告」「慶州南山の仏蹟」「楽浪王光墓」等。

黒田源次

没年月日:1957/01/13

奈良国立博物館長黒田源次は、1月13日心臓疾患のため大阪大学医学部附属病院で逝去した。享年70歳、号★廬。明治19年12月9日熊本市に生れ、済々黌、第五高等学校を経て京都帝国大学文学部に入つて心理学を専攻し、明治44年6月卒業した。のち引続き大学院に学び、さらに大正3年同大学医学部副手となつて生理学を修め、同9年講師となり、同12年文学博士の学位を受けた。同13年から翌年にわたつて文部省海外研究生となつてドイツに赴き、ライプチッヒとベルリンで学んだ。同15年満州医科大学教授となり生理学教室を担当した。昭和6年生理学研究のため欧米各国へ留学、特にベルリンに滞在して研究をつづけ、同9年帰任した。この間、同大学学生監、満州教育専門学校教授を兼務し、昭和14年同大学図書館長及び医学陳列館長、同大学予科主事兼教授をつとめた。同21年満州を引揚げて内地へ帰り、翌22年には東京帝室博物館嘱託となり、同年国立博物館官制の制定とともに国立博物館嘱託となり、同年9月文部事務官に任ぜられ、国立博物館奈良分館長を命ぜられ、同年10月正倉院評議会々員を委嘱された。同27年奈良文化財研究所長を兼ね、同年8月奈良国立博物館長となつた。在任中病み、療養中であつたが、遂に再び立つことが出来なかつた。彼の研究は多方面にわたり、心理学、医学、薬学、支那学、考古学、美術史、日本古代史などにわたつた。その主な編著書に「上方絵一覧」(昭和4年、京都、佐藤商太郎商店刊)、「条件反射論」(大正13年、京都、生田書店)、「心理学の諸問題」(大正13年、東京宝文館)、「西洋の影響を受けたる日本画」(大正13年、京都中外出版株式会社)、「長崎系洋画」(昭和7年、創元社)、「芭蕉翁伝」(大正11年、聚英閣)がある。

会津八一

没年月日:1956/11/21

美術史学者、歌人、書家として知られた会津八一は、胃潰瘍、心臓障害のため新潟大学附属病院に入院中、11月21日逝去した。享年75歳。号、秋艸道人、渾斎。自宅新潟市。明治14年8月新潟市に生れた。新潟中学在学中すでに俳句、和歌を学び、33年上京して更に、正岡子規の教えをうけた。39年早稲田大学英文科を卒業、有恒学舎、早稲田中学の講師をつとめたのち、早稲田大学教授となり、東洋美術史、奈良文化史を講じた。昭和4年天沼俊一、浜田青陵らと雑誌「東洋美術」を創刊、9年には「法隆寺、法起寺、法輪寺建立年代の研究」で文学博士の学位をうけ、また、早稲田大学内に東洋美術陳列室を創設した。昭和16年自作書画の最初の個展を鳩居堂でひらいた他、壷中居、或は京都大丸等に於て書道展を催すこと十数回に及んでいる。昭和20年戦災に遇い、早稲田大学教授を辞して郷里新潟に疎開した。同地では「夕刊新潟」を創刊、社長となるほか、「新潟日報」の社賓であつた。23年早稲田大学名誉教授に推され、26年には新潟市名誉市民に選ばれた。著書「南京新唱」(大正13年)「奈良美術史料、推古篇」(昭和3年)「法隆寺、法起寺、法輪寺建立年代の研究」(昭和8年)「古瓦集存」(昭和8年)「南京餘唱」(昭和9年)「鹿鳴集」(昭和15年)「渾斎近墨」(昭和16年)「渾斎随筆」(昭和17年)「山光集」(昭和19年)「遊神帖」(昭和22年)「寒燈集」(昭和22年)

奥田誠一

没年月日:1955/10/27

文化財専門審議会専門委員奥田誠一は、10月27日動脈硬化症に肺炎を併発し、東京都台東区の自宅で逝去した。享年73歳。明治16年6月15日三重県津市に生れた。号次郎坊。同43年東京帝国大学文科大学心理学科を卒業、同45年同心理学教室副手、大正3年同美術史研究室の副手となつた。同11年特許局技師兼農商務省技師に任ぜられ、昭和2年特許局意匠課長に進み、同17年退官した。この間、大正13年宮内省御物管理委員会臨時委員、昭和4年国宝保存会委員、同8年重要美術品等調査会委員、同25年文化財専門審議会専門委員となつて重要文化財の保護に尽瘁した。また帝室博物館学芸委員、国立博物館調査委員をもつとめ、さらに東京帝国大学文学部美学美術史学科講師、東京工業大学窯業学科講師として後進を指導した。また大正13年には自ら東洋陶磁研究所を創設して東洋陶磁の研究、鑑賞のために尽力し、別に古陶磁研究会、彩壷会、亦楽会等に関係し、名実共に東洋陶滋研究、鑑定の第一人者であつた。主な編著書に「陶磁器百選」(便利堂)「東洋陶磁集成」(東洋陶磁研究所)「日本工芸史概説」(雄山閤)「呉須赤絵」(座右宝)「陶器の読み方」(創芸社)「陶器大学」(座右宝)「茶碗談義」(創芸社)「異説天目考」(座右宝)「安南古陶磁図録」(同上)「日本の陶磁」等がある。

辻善之助

没年月日:1955/10/13

東京大学名誉教授、学士院会員、元文化財専門審議会々長文学博士辻善之助は、10月13日肺炎のため東京都新宿区の自宅で逝去した。享年78。明治10年4月15日兵庫県姫路市に生れ、同32年東京帝国大学を卒業、大学院に学び、同38年史料編纂官となつた。同42年日本仏教史の研究で学位を得た。大正12年兼任東大教授、昭和4年から同13年まで史料編纂所長をつとめた。退官と共に東大名誉教授に推された。この間、昭和7年帝国学士院会員となつた。「日本仏教史の研究」で学士院賞を受け、同27年仏教文化史の研究の功績によつて文化勲章を受けた。また文化財専門審議会々長として戦後の文化財保護事業につくした。「大日本史料」「大日本古文書」「鹿苑日録」「大乗院寺社雑記」等の編修出版に多くの功績があり、そのほか主な著書に「日本仏教史」「日本文化史」「社寺領性質の研究」「増訂海外交通史話」等がある。

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