本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





加藤成之

没年月日:1969/06/30

女子美術大学学長、文化財保護審議会専門委員、加藤成之は、6月30日、肺気腫のため順天堂病院で死去した。享年75才。加藤成之は、明治26年(1893)東京都に生まれ、大正6年学習院高等科を卒業、同9年東京大学文学部美学美術史科を卒業、同10年大学院を終了した。大正10年東京美術学校講師となったが、大正11年~14年のあいだ、文部省より依嘱されてヨーロッパにおける美学教育を調査のため渡欧した。帰国後は、昭和3年私立東京高等音楽院、同5年私立日本音楽学校講師、同6年女子美術専門学校講師をつとめ、昭和9年には貴族院議員に選出された。昭和10年東北大学法文学部講師、同15年には女子美術専門学校副校長となり、同24年女子美術大学長になったが、同年辞職して昭和21年以降講師をつとめていた東京音楽学校校長に就任した。昭和27年以後は東京芸術大学音楽部長をつとめたが、同32年辞職して女子美術大学理事長兼学長に就任し、逝去まで在職した。長期のあいだ、音楽、美術の両域にわたる芸術教育へ貢献し、昭和41年には、勲二等瑞宝章をうけた。

小林剛

没年月日:1969/05/26

奈良国立文化財研究所所長の小林剛は、5月26日午前1時40分脳出血のため奈良市の自宅で死去した。6月4日午後2時から同研究所葬が行なわれ、従三位勲三等を賜わった。明治36年10月1日水戸市に生まれ、大正15年3月水戸高等学校文科甲類を卒業し、同年東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学、日本美術史を専攻した。昭和4年3月同校を卒業し、同年9月、東京帝室博物館美術課に入り鑑査官補となりこの頃から日本彫刻史の本格的研究に専心した。この頃の論文には昭和5年1月の「漆と工芸」344号に発表した「唐招提寺金堂本尊昆盧舎那仏像の作者について」がある。同5年2月には入営したが、11月には除隊となり、同6年1月には、日本美術の宝庫である奈良帝室博物館に転勤した。これより「東洋美術」「美術研究」に多くの論文を発表したが、殊に同8年11月に奈良帝室博物館から発行した「鎌倉彫刻図録」と同9年7月に岩波書店より発行した岩波講座「鎌倉時代の彫刻」はその頃の研究の成果を示すものである。 昭和10年6月には、再び東京帝室博物館にもどり、11年10月には、欧米に出張、翌12年7月に帰京した。昭和13年には帝室博物館鑑査官となり、これより昭和13年10月に臨時召集によりソ満国境に行くまでの3年間に発表した代表的な論文としては、14年5月発行の画説29にのせた「貞観彫刻の様式に関する一考察」や、同年9月発表の「建築史」1の5所載の「室生寺の貞観彫刻について」、同年8月発行の「考古学雑誌」30の8所載の「白鳳彫刻史論」等がある。単行本としては16年10月地人書館発行の「日本彫刻史」がある。 その後、大東亜戦争の勃発と共に同氏は再度、召集され、昭和20年10月8日に復員し、国立博物館調査課に勤務した。日本彫刻史の研究も、精力的に行なわれ、21年9月には、「国華」654に、及び655に「東大寺三月堂の研究」を発表し、22年7月には、「御物金銅仏像」の大著を国立博物館から出し、同年12月には、それまで書いた論文をまとめた「日本彫刻史研究」を養徳社から出版した。昭和25年9月には、東京国立博物館より文化財保護委員会保存部美術工芸課に移り、重要文化財の指定や保存の仕事に従事したが、奈良に新たに奈良文化財研究所が出来るに及び、同所の美術工芸研究室長として再び奈良におもむいた。この間発表した代表的論文としては26年3月発行の「仏教芸術」11号に「室町時代に於ける椿井仏所」、26年12月発行の「国華」717号所載の「仏師法印長勢」等があり、27年7月には藤田経世氏と共に、創元社より「日本美術史年表」を編集し、学会に寄与した。昭和28年12月には「日本彫刻史における仏師の研究」により文学博士となり、同36年2月には文化財専門審議会専門委員、同年7月には奈良国立文化財研究所所長となった。この間は最も研究活動の活発な時期で、代表的論文としては、28年3月発行の「大和文華」9号に「仏師法眼院覚」、同年4月には「国華」733、734号に「三条仏師明丹」、同年9月の「大和文華」11号に「円成寺の阿弥陀如来像と大日如来像」、同年10月発行の「大和文化研究」1号には「椿井仏師舜覚房春慶」、同年12月「大和文華」12号には「大仏師法印湛慶」等を発表した。さらに29年12月には、「仏教芸術」23号に「俊乗房重源の肖像について」、30年5月発行の「南都仏教」2号には「東大寺の天平彫刻雑考」、同年12月発行の奈良国立文化財研究所学報3には「国中連公麻呂」、32年3月発行の「仏教芸術」31号には「仏師善円、善慶、善春」、33年11月発行の「国華」800号には「六波羅蜜寺の十一面観音像について」、35年1月発行の「大和文化研究」21号には「東大寺中性院の弥勒菩薩立像」、同年2月発行の奈良国立文化財研究所学報8には「室生寺金堂五仏について」、37年5月発行の「大和文化研究」49号には「興正菩薩叡尊の文殊信仰とその造像」を発表した他、美術全集、日本歴史大辞典、世界大百科事典等の解説等多数執筆した。またこの時期の単行本としては29年9月奈良国立文化財研究所発行の「仏師運慶の研究」、31年3月同所発行の「西大寺叡尊伝記集成」等がある。昭和36年7月には奈良国立文化財研究所所長に就任、その後いくつかの委員を兼務し、文化財行政にたずさわった。すなわち38年11月には奈良国立博物館評議員、43年7月には文化財保存審議会専門調査会臨時専門委員、44年3月には日本万国博覧会協会美術展示委員会委員等がそれである。こうして多忙なうちにも研究活動は続けられた。38年2月には近畿日本叢書の「東大寺」に東大寺の彫刻」を発表、39年8月発行の同叢書「飛鳥」には「飛鳥地方の彫刻」を発表、41年10月「仏教芸術」62号には「西大寺における興正菩薩叡尊の事蹟」、42年5月の「仏教芸術」64号には「唐招提寺金堂の諸尊像」、43年12月発行の「仏教芸術」69号には「唐招提寺の鎌倉復興」を発表した。この間の単行図書としては、37年5月に奈良国立文化財研究所発行の「巧匠安阿弥陀仏快慶」、39年11月に宝山寺より刊行された「宝山湛海伝記史料集成」、40年奈良国立文化財研究所から刊行された「俊乗房重源史料集成」等がある。なお、同氏の研究業績の全貌は「故小林剛先生著作目録稿」として奈良国立文化財研究所有志により昭和44年6月に出版されている。

北川桃雄

没年月日:1969/05/19

美術史家で共立女子大学教授の北川桃雄は、19日血清肝炎のため虎ノ門病院溝ノ口分院で死去した。享年70才。明治32年東京芝に生れ、東京芝中学から大正10年仙台二高を経て、大正13年京都帝国大学経済学部を卒業した。経済学研究に従事し、また昭和12年まで京都第一工業学校教員をつとめ、昭和13年東京に移った。東京帝国大学文学部美術史科を昭和16年卒業、この年共立女子専門学校講師となり、昭和21年同女子大教授となり現在に至った。おもな著書に「法隆寺」昭17(アトリエ社)「秘仏開扉」昭19(矢貴書店)「斑鳩裸記」昭18(文芸春秋社)「禅と日本文化」(翻訳)昭15(岩波書店)「古塔巡歴」昭和22(東京出版社)「石庭林泉」昭27(筑摩書房)「中国美術の旅(一)古都北京」「中国美術の旅(二)大同の古寺」昭44(中央公論美術出版社)「いかるがの里・法隆寺」昭37(淡交新社)「敦煌美術の旅」昭38(雪華社)「室生寺」昭和38(中央論公美術出版)などがある。

新村出

没年月日:1967/08/17

文化勲章受章者・学士院会員・文学博士新村出、号重山は8月17日老衰のため京都市北区の自宅で死去した。享年90才。10月7日京都市名誉市民として市の公葬が営まれた。明治9年10月4日山口市で県令関口隆吉次男として生れた。22年新村猛雄に養子入籍した。29年7月第一高等学校卒業。32年7月東京大学文科大学博言学科卒業。35年2月より東京高等師範教授のかたわら東大大学院で国語学を専攻し、37年8月より同学文学部助教授として教鞭をとった。40年1月京都帝大助教授。同年3月より42年4月まで英・仏・独に留学し、帰国後42年5月より昭和11年10月停年退官まで京大教授。その問43年文学博士を授けられ、44年10月より京大図書館長となる。大正8年9月より10月にかけて中国旅行、10年5月より12月、および昭和7年3月より7月に欧米旅行を行う。昭和3年1月帝国学士院会員、9年12月より国語審議会委員を勤めた。以後昭和12年音声学協会、13年日本言語学会、17年日本民族学協会、25年日本ダンテ学会、26年日西文化協会等の会長を歴任した。昭和19年には学術会議会員となり、31年には文化勲章授章。言語学、国語学の分野における数多くの業績については「東方言語史叢考」(昭和2年)、「東亜語源表」(昭和5年)、「国語学叢録」(昭和18年)などの他、「広辞苑」(昭和30年)などの例をまつまでもなく、ここで立入る必要はないが、美術関係では「摂津高槻在東氏所蔵吉利支丹遺物」(京大考古学研究報告7大正12年)「日本吉利支丹文化史」(地人書院 昭和16年)、「吉利支丹研究余録」(国立書院 昭和23年)などの「キリシタン」関係のみならず、「船舶史考」中に載録された「エラスムスと貨狄」「エラスムス貨狄考拾遺」などに見られるように16・17世紀のヨーロッパ文物交渉史関係全般にわたって基礎的な研究を残したことを記さなければならない。

黒田鵬心

没年月日:1967/03/18

美術評論家黒田鵬心、木名朋信は3月18日脳軟化症のため都内世田谷区の自宅で死去した。享年82才。明治18年1月15日世田谷区に生れ府立一中、第一高等学校を経て明治43年7月東京大学文科大学哲学科を卒業した。明治44年2月から大正3年2月まで読売新聞社勤務、同年より6年9月まで「趣味の友」社、児童教養研究部主宰、7年8月より13年8月にかけて三越勤務、同8月より黒田清輝の推挙で日仏芸術社をフランス人デルスニスH.D’oelsnitzと共同主宰した。日仏芸術社は昭和6年まで9回にわたってフランス美術展を日本各地と満洲国で開催して新旧のヨーロッパ美術の輸入をはかり、かたわら雑誌「日仏芸術」(大正14年7月創刊、第2巻1号(通巻7号)より荒城季夫編集)を発行して美術の啓蒙に貢献するところが大きかった。昭和4年5月から9月に同社主宰のパリ日本美術展には代表として渡欧した。一方大正14年4月から昭和24年3月まで文化学院、東京女子専門学校教授、24年4月から41年10月まで東京家政大学教授として美学・美術史学を担当した。この問都市の美観や美術に関する時事的な問題について新聞等に投書して卒直な意見を表明することがしばしばあった。(主要著書、「奈良と平泉」(大正2年)「趣味叢書」(大正3年)「美学及び芸術学概論」(大正6年)「大日本美術史」(大正13年)「芸術概論」(昭和8年)「日本美術史概説」(昭和8年)「美学概論」(昭和9年)「日本美術史読本」(昭和9年)「黒田鵬心選集」十巻他。

野間清六

没年月日:1966/12/13

文化財専門審議会専門委員、女子美術大学教授野間清六は、12月13日、脳軟化症のため東京信濃町の慶応病院で逝去した。享年64才。野間清六は明治35年2月12日、滋賀県、青山立愍の二男として生れ、のち野間家の養子となった。昭和5年、東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業、翌年帝室博物館(現東京国立博物館)に鑑査官補として入り、以後、定年で東京国立博物館学芸部長を辞す迄同館に勤続していた。その後は女子美術大学教授となり、また以前からの文化財専門審議会専門委員の職にあった。その間、大学講師、展覧会審査員などもしばしばつとめ、著書も多い。略年譜明治35年2月12日 滋賀県蒲原郡、青山立愍の二男として生れる。幼名次郎。明治38年 野間家の養子となる。昭和5年 東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業。昭和6年 帝室博物館鑑査官補昭和13年 帝室博物館鑑査官となる。昭和26年 東京国立博物館美術課長昭和29年 桑港日本美術展のため渡米。東京国立博物館普及課長昭和32年 東京国立博物館学芸部長シュヴァリエ・ド・ノワール勲章を受く。昭和34年 文化財専門審議会専門委員となる、埴輪展のため渡米。昭和38年 パリ日本古美展のため渡欧。昭和39年 東京国立博物館を定年退職。昭和41年12月13日 脳軟化症にて逝去、従四位勲三等旭日中綬章を賜る。(著書)日本古楽面(昭和10年)、日本美術大系-彫刻(16年)、日本彫刻の美(18年)、日本仮面史(18年)、古仏の微笑(21年)、美を慕う者へ(22年)、日本の名画(26年)、御物金銅仏(27年)、日本美術辞典(27年共著)、日本の面(28年)、日本の絵画(28年)、土の芸術(29年)、墨の芸術(30年)、飛鳥、白鳳、天平の美術(33年)、日本美術(33年)、日本美再発見(38年)、続日本美再発見(39年)、金銅仏(39年)、小袖と能衣裳(39年)、装身具(41年)、インターナショナル日本美術(41年)。

上田英次

没年月日:1966/10/26

奈良国立博物館学芸課美術室長兼資料室長の上田英次は、10月26日午後11時25分、京都第一赤十字病院で後腹膜部しゅようのため死去した。享年56才。上田英次は、明治43年(1910)7月17日、奈良市に生れ、奈良市立第一椿井小学校を経て郡山中学校を卒業、昭和6年京都市立絵画専門学校に入学、同10年同校を卒業。翌11年院展に「観測所の朝」を出品入選したが、昭和22年国立博物館奈良分館(現、奈良国立博物館)学芸課に勤務、同32年文部技官に任官、同年普及室長に任ぜられ、同39年資料室長、同40年美術室長兼資料室長を命ぜられた。その間、「西方寺蔵十王図」解説(大和文化研究第2巻第4号)、「柳里恭展観作品目録」「柳里恭印譜・落款」(大和文化研究第4巻第5・6合併号)、「長谷寺の肖像画」(大和文化研究第5巻第2号)などを執筆し、「聖徳太子絵伝展」(昭和40年・奈良国立博物館)の企画展観に参画した。なお、昭和37年以降は正倉院古裂調査員をつとめ、また奈良市史編纂調査員の役にあった。

板垣鷹穂

没年月日:1966/07/03

東京写真大学教授、美術評論家の板垣鷹穂は、7月3日午前零時35分、ボーエン氏病のため東京・信濃町の慶応大学病院で死去した。享年71才。板垣鷹穂は明治27年(1894)10月15日、東京に生れ、独協中学、第一高等学校を経て東京帝国大学文学部(美学専攻)に入学、在学中の大正9年、東京美術学校講師(西洋美術史、西洋彫刻史担当)となり(大正15年まで)、大正10年東京大学を中退、大正13年文部省在外研究員としてヨーロッパに留学、西洋美術史を研究し、大正14年帰国した。著作活動は、大正12年「新カント派の歴史哲学」(改造社)にはじまり、近世ヨーロッパ美術の研究を中心とした研究を数多く発表した。中期以後は、建築・都市・写真・映画などの新しい表現分野についても積極的に評価し、広い視野にたった評論活動を展開し、戦後は、東京大学講師、武蔵野美術大学講師、早稲田大学教授、東京写真大学教授などを歴任し、美学、美術史を講じて後進を指導、晩年は芸術家のの構造解釈に深い関心をよせ、最後の論文は「INDIVIDUALITY AND SOCIETY-A Methodological Essay on the History of Italian Art(個性と社会)」(ANNUARIO 3、ローマ日本文化館)であった。主要著作年譜新カント派の歴史哲学(改造社・大正12)、西洋美術主潮(岩波書店・大正12)、近代美術史潮論-民族性を主とする(大鐙閣・大正15)、フランスの近代画、西洋美術史要、K・シュミット:現代の美術(訳書)、芸術と機械との交流(岩波書店・昭和4)、国民文化繁栄期の欧州画界、イタリアの寺(芸文書店)、現代日本の芸術(信正社・昭和12)、ミケランジェロ(新潮社・昭和15)、造型文化と現代、建築(育生社弘道閣・昭和17)、芸術観想(青葉書房)、写実(今日の問題社)、レオナルド・ダ・ヴィンチ(新潮社・昭和20年)、芸術概論(理想社・昭和23)、肖像の世界(六和商事出版部・昭和25)

岸田日出刀

没年月日:1966/05/03

東京大学名誉教授・工学博士の岸田日出刀は、5月3日午後3時30分、心筋こうそくのため山梨県山中湖畔の別荘で死去した。享年67才。岸田日出刀は、昭和4年以降東京大学工学部建築学科教授をつとめ、建築意匠に関する論文を多数発表し建築の造型意匠の権威として知られ、また前川国男、丹下健三など現代日本建築界に活躍している建築家を育成した功績も大きく、日本建築学会会長、文化財専門審議会第二分科会専門委員、東京オリンピックの施設特別委員長などを歴任した。手がけた主要な作品には、故内田祥三との共作東大安田講堂(1922-25)、東大図書館(1928)、衆・参院議長公邸、高知県庁、西本願寺津村別院などがある。著書も多く主要なものに、「日本建築史」(昭和7年)「欧州近代建築史」(昭和8年)「第11回オリンピック大会と競技場」(昭和12年)「薨」(昭和12年)「堊」(昭和13年)「過去の構成」(昭和13年)「熱河遺跡」(昭和15年)「扉」(昭和17年)「日本の城」(昭和19年)「焦土に立ちて」(昭和21年)「窓」「縁」などがある。略年譜明治32年(1899) 2月6日、福岡市に生れる(郷里は鳥取県)大正5年 東京府立第三中学校卒業。大正8年 第一高等学校二部甲類卒業。大正11年 東京帝国大学工学部卒業。大正12年 東京帝国大学工学部講師。大正14年 東京帝国大学工学部助教授となり、ヨーロッパ諸国に出張(1年間)昭和4年 東京帝国大学工学部教授・工学博士。昭和11年 ヨーロッパのヴェルクブント運動に刺激されて創設された日本工作文化連盟に参加。昭和23年 日本学術会議会員に選ばれる。昭和25年 建築界につくした功績によって昭和24年度日本芸術院賞を受賞。昭和34年 東京大学工学部教授を定年退職。昭和41年 5月3日午後3時30分死去。

中井宗太郎

没年月日:1966/03/16

元京都市立絵画専門学校校長、立命館大学教授の中井宗太郎は、3月16日逝去した。享年87才。明治12年(1879)9月19日、京都市下京区に生れ、生家は代々油商を営み、はじめ家業に従事したが、学業を志して上京し、中学・第四高等学校を経て、東大文学部哲学科を卒業し、明治42年京都市立絵画専門学校講師に就任、以後、昭和35年立命館大学教授を退職するまで51年のあいだ、京都にあって日本、東洋美術史研究、美術教育、美術評論に活躍した。その間には、国画創作協会による近代日本画運動に協会の鑑査顧問として参加し、特に村上華岳と深い親交関係をもち、晩年には福田平八郎と特に親しい関係にあった。また、立命館大学においては奈良本辰也、林屋辰三郎、北山茂夫らによる日本史研究会に参加、民主主義科学者協会に属した。晩年は中国文化の研究に進み、現代中国に対して深い関心を示していた。 略年譜明治12年 9月19日、京都市に生れる。明治38年 東京大学文学部哲学科(美学美術史専攻)に入学。明治41年 卒業、大学院に入学。明治42年 京都市立絵画専門学校講師となり、美術史を講義する。大正3年 結婚。大正7年 1月、国画創作協会発会、竹内栖鳳とともに顧問として参加。大正8年 京都市立絵画専門学校教授に就任。大正9年 中国各地を視察旅行し、主として竜門石窟を研究、朝鮮を経由して帰国。大正11年 2月、ヨーロッパに留学、入江波光同道。大正12年 英・独・仏・伊・スペインの美術を調査研究し、8月帰国。大正14年 朝鮮美術研究のために出張。昭和17年 京都市立絵画専門学校校長に任命される。昭和23年 京都市立絵画専門学校教授を退職。昭和24年 立命館大学文学部講師となり「日本史研究会」グループに参加。昭和29年 立命館大学教授となる。昭和35年 立命館大学教授を退職。昭和41年 3月16日死去。著作:一立斎広重 大正5年 浮世絵研究会。東洲斎写楽 大正9年 浮世絵研究会。近代芸術概論 大正11年 二松堂書店。氷河時代とエジプト芸術 大正12年 市川美術図書出版部。ギリシャ芸術 大正14年 市川美術図書出版部。大同石仏について 大正14年 市川美術図書出版部。永徳と山楽 昭和2年 中央美術社。日本風俗画大成(桃山篇) 昭和4年 中央美術社。日本名画譜仏画篇解説 便利堂。司馬江漢 昭和17年 アトリエ社。華岳作品集 昭和17年 春鳥会。絵画論 昭和23年 日本科学社。京都の美術教育 高桐書院。浮世絵(岩波新書) 昭和28年 岩波書店。

森田亀之助

没年月日:1966/02/21

前金沢美術工芸大学長で美術史家の森田亀之助は、2月21日脳出血により金沢市の自宅で死去した。享年83才。号亀之輔、煙無形、冥霊子、光明、華明。明治16年1月20日東京京橋区に生れ、同39年東京美術学校西洋画科本科を卒業した。同校在学中とくに教授岩村透に就き西洋美術史と英語を修め、旁ら東京神田国民英学会、芝区セントアンドレウス夜学校で英語を修めた。美術学校卒業後は同校助手となり英語授業を分担し、大正4年には英語の外美術史担任となり、同6年助教授となった。大正14年欧州留学を命ぜられ、昭和2年帰朝したが、昭和4年再び暑中休暇を利用し欧州古写本絵飾調査の為渡欧し、同年教授となった。昭和19年東京美術学校を退職し、同年沢藤電機株式会社青年工員教育顧問として聘せられたが翌年これも退職した。同年戦災を蒙り家屋、書籍等悉く灰燼となったが、翌21年偶石川県金沢市において、美術工芸専門学校創立され、その校長として招かれたため金沢市に移住した。同25年同専門学校が短期大学になったので、その学長となった。美術学校卒業後同校勤務の外東京女子高等師範学校、多摩帝国美術学校、東京府立第一高女高等科第2学年等を兼務している。又金沢に在っては、金沢美術工芸大学長のほか、石川県文化財専門委員、北陸美術文化協会長などを兼ね北陸美術界のため活躍した。なおまた明治42年より美術学校勤務の余暇雑誌「美術新報」の編輯に参与し、大正3年頃迄毎月海外美術界消息、外国美術家評伝を執筆した。その他新聞雑誌等に美術関係の研究評論等を多く執筆している。主な寄稿誌は次の通りである。美術新報、美術週報、美術、芸術、中央美術、美術新論、アトリエ、南画鑑賞、旬刊美術新報、日伊文化研究、回教世界、中外、図画教育等。著書「芸術家と芸術運動」(大正4年)趣味之友社。「岡田三郎助作品集」本文評伝。(昭和21年)美術書院。

式場隆三郎

没年月日:1965/11/21

ゴッホの研究家で異色芸術家の紹介者としても知られた医学博士式場隆三郎は、11月21日東京お茶の水順天堂病院で胃癌のため死去した。享年67才であった。精神病理学を研究し、大著「ファン・ホッホの生涯と精神病」2巻の他、数多い著作や講演、複製展など多面的な活動によって、ゴッホを日本に紹介した。それ以外にも武者小路実篤の「新しき村」運動を支持したり柳宗悦の影響下に「月刊民芸」を刊行したが、「二笑亭綺譚」に見られるように多少なりとも精神病理学的な芸術を研究対象とするところに独自性がある。世紀末芸術の鬼才ビアズレーやロートレック、あるいは18・9世紀スペインのゴヤの紹介活動もその一連のものと見ることができる。精神薄弱児童の教育活動からは山下清をクローズ・アップしたことも、特異児童に対する社会の偏見の一部を啓蒙するものとして貢献があった。略年譜明治31年(1898) 7月2日新潟県生大正10年 新潟医大卒。昭和4年 医学研究、ゴッホ研究のため欧州視察、西欧の民芸の基礎的調査中、医学博士の学位をうける。昭和7年 静岡脳病院長として勤務中「ファン・ホッホの生涯と精神病」2巻を聚楽社より刊行。昭和9年 「バーナード・リーチ」(建設社)、「テオ・ファン・ホッホの手紙」(向日庵)。昭和10年 ポール・ガッシェ編『印象派画家の手紙』翻訳昭和11年 市川市国府台に式場病院を創立。昭和14年 「月刊民芸」を刊行、「二笑亭綺譚」(昭森社)。昭和15年 文化映画「琉球民芸」「琉球の風物」。昭和16年 「焔と色」(S,ポラチェック著ゴッホ伝記小説翻訳、牧野書房)。昭和17年 「ロートレック、生涯と芸術」(二見書房)。昭和18年 「宿命の芸術」(昭和刊行会)昭和21年 日刊新聞「東京タイムズ」創刊。日本ハンドボール協会会長に就任。昭和23年 「長崎の鐘」(永井隆著、日比谷出版)を世に出す。昭和24年 厚生省中央優生保護委員、日本精神病院協会理事に就任。昭和25年 東京社会保険協会、労働省婦人少年局委員となる。「ゴヤ(H.ストークス著の抄訳)」(山雅房)。昭和26年 ゴッホ伝記小説「人生の情熱」(三笠書房)。劇団民芸公演ゴッホ劇「炎の人」製制委員長、ゴッホ展、ロートレック50年祭展を開催。総理府青少年問題協議会委員となる。昭和27年 P.ラミュール著ロートレックの伝記小説翻訳「ムーラン、ルージュ」(新潮社)。前年より創芸社近代文庫に「ゴッホの手紙」全4巻を翻訳刊行。昭和28年 ゴッホ誕生100年記念祭を開催。ゴッホ記念展。「ゴッホ巡礼」「ゴッホ画集」(3巻)昭和29年 「ヴァン・ゴッホ」(新潮社)、国立松方コレクション美術館建設連盟副会長に就任。募金のためゴッホ展。ロートレック展。講演会を開催。昭和31年 「山下清画集」(新潮社)。昭和30年 山下清作品展全国各地で開催はじめる。昭和33年 「はだかの大将」(東宝映画)監修。「山下清ぶらりぶらり」(文芸春秋社)。昭和34年 「ロートレック」(現代伝記全集30、日本書房)。昭和36年 山下清をつれて渡欧。滞欧作品展。「ヨーロッパぶらりぶらり」(文芸春秋社)。昭和39年 財団法人日本近代文学館に白華文献千余冊寄贈。昭和40年 「炎の画家ゴッホ」(角川写真文庫)。決定版「二笑亭綺譚」(今野書房)。藍綬褒章授与さる。他に著書として「ビアズレー・生涯と芸術」、「マルキ・ド・サド、(評伝)」(昭森社)、「サド侯爵夫人」「ゴッホの素描(評伝と画集)」(アトリエ社)、「夜の向日葵(テオの手紙・向日庵版の増訂版)」(畝傍書房)、「ヴァン・ゴッホ(研究・戯曲・画集)」(美術発刊所)「光の信者・上(デ・フリース著レンブラントの伝記翻訳)」(冬至書店)、「琉球の文化」(日新書院)、「天才の発見」(山雅房)。

西本順

没年月日:1965/09/12

東京芸術大学教授西本順は、9月12日午前10時42分、新宿区の国立第1病院で胃かいようのため死去した。享年53才。明治45年(1912)2月5日、広島県に生れ、昭和5年広島県立広島第1中学校を卒業し、6年京城帝国大学に入学、11年京城大学法文学部哲学科美学専攻を卒業した。卒業論文「来迎芸術の研究」。11年4月京城大学助手を命ぜられ、法文学部美学研究室に勤務したが、12年兵役に入り、13年陸軍少尉に任官して中国の戦地で軍務に服した。15年戦地より帰還、召集解除、16年1月文部省教学局に勤務した。17年多賀工業専門学講師となったが、再び召集、19年解除となり多賀工専教授となる。戦後、21年東京美術学校教授、24年東京芸術大学助教授となり、美学、芸術学を講義した。38年教授となる。昭和31年「世界美術辞典」(河出書房)の美学関係項目を執筆、36年には玉川百科辞典「西洋美術」篇、美学事典(弘文堂)に執筆、主要論文に「現代造型の美学」(雑誌・理想・昭和39年3月現代芸術の美学特集号)がある。

松村政雄

没年月日:1965/05/17

奈良国立博物館美術室長松村政雄は5月17日、奈良市西浦病院で脳出血のため死去した。享年61才であった。京都絵画専門学校専攻科を卒業後、宮内省諸陵寮で模写事業にたずさわり、傍ら新文展に出品した。のち東京帝室博物館などで鑑査官補を勤め、昭和29年には奈良国立博物館鑑査委員、ついで資料室長、美術室長を歴任した。美術史学における研究の中心は垂迹美術であり、昭和37年4月、同博物館で開催された「神仏融合美術展」およびそれをまとめた大著「垂迹美術」はまさにライフワークの結晶であった。略年譜明治37年(1904) 1月3日福井市に生れる。大正12年 京都市立美術工芸学校卒。昭和2年 京都市立絵画専門学校専攻科卒。菊池契月に師事した。昭和3年 宮内省諸陵寮で古美術品の模写に従事。昭和11年 2月の第1回改組新帝展に「長雨のあと」が松村正雄として入選。昭和13年 東京帝室博物館に転任。昭和14年 第3回新文展に「牛」入選。昭和18年 4月帝室博物館鑑査官補に任ぜられる。昭和19年 10月奈良帝室博物館に転任。昭和20年 3月正倉院監理官補を兼任。昭和21年 4月帝室博物館出仕、正倉院監理署出仕を兼任。昭和22年 5月国立博物館奈良分館文部技官となる。昭和26年 2月同館学芸課長事務代理。昭和29年 同館は27年奈良国立博物館となり、この年8月同館陳列品鑑査委員に任ぜられる。昭和32年 5月同館資料室長。昭和36年 11月同館美術室長。昭和40年 5月没す。没後正六位勲五等瑞宝章を受けた。他に京都奈良文化財買取協議会協議員、奈良県文化財専門審議会専門委員、奈良市史編纂委員などを勤めた。主 著 論文春日宮曼荼羅(大和文華20号 昭和31年)新出の春日水谷社の衝立絵(同上26号 昭和33年)柿本宮曼荼羅図(同上32号 昭和35年)らくがき絵(同上35号 昭和36年)南倉和琴の所謂★★画について(書陵部記要7号 昭和31年)厨子扉絵天部2人物図(国華858号 昭和38年)春日大社、興福寺の絵画(春日大社興福寺 昭和36年近畿日本鉄道株式会社)垂迹美術(奈良国立博物館 昭和39年 角川書店)

岡直巳

没年月日:1964/08/28

文学博士岡直巳は8月28日胃癌のため死亡した。享年60才。明治37年4月22日宮城県宮城郡に生れ、昭和5年慶応義塾大学文学部美術史学科卒業。同8年8月同学大学院(東洋美術史専攻)修了。同13年4月高野山大学文学部仏教芸術科教授に就任し、17年には同学を退職して慶応義塾大学嘱託となり福沢全集の編集に協力した。19年に三十三間堂の仏像研究に体して日本諸学振興委員会より研究助成金を受ける。33年8月文部技官として国立博物館奈良分館に勤務し、その後同館は奈良国立博物館と名称を変えたが、36年4月に同館学芸課長となった。主要論文として昭和37年3月に東北大学より文学博士を与えられた「神像彫刻の研究」(参考論文「鎌倉時代彫刻論」)があり、他に「神像彫刻の一考察」(仏教芸術33、昭和32年9月)、「神像彫刻に就て」(古美術3、昭和38年10月)、「東大寺技楽面考」(大和文華研究47、昭和37年3月)のほか彫刻史関係で34の論文があり、また主として昭和13年ごろまに執筆した近世絵画に関するもの25編がある。著書は「興福寺の彫刻」(近畿日本叢書6、昭和37年4月)、「仏教彫刻」(鹿鳴荘、昭和26年10月)ほかである。

原田治郎

没年月日:1963/07/25

元東京国立博物館職員原田治郎は病気療養中のところ、肺炎を併発し、東京都台東区の自宅で逝去した。享年84才。明治11年12月2日山口県に生れた。若くして、米国カリホルニヤ大学に学び、同38年名古屋高等工業学校の講師となり、のち同校及び第八高等学校教授として英語を指導した。昭和2年帝室博物館の嘱託となって以来、戦後国立博物館の事務官に任ぜられ、28年にわたって、英文列品目録や解説の編集事務や渉外事務にあたった。この間、明治37年の米国セントルイズ万国博覧会はじめ、同43年の日米博覧会、大正3年の桑港博覧会、或いは第二次大戦後の再度にわたる米国に於ける日本古美術展覧会に要員として出張を命ぜられ、さらに昭和10年には交換教授として米国オレゴン大学に赴き、同時に諸大学、美術館に於いて、日本文化に関する講演を行い、オレゴン大学から名誉文学博士の称号を受けた。かように、その生涯の大半を日米文化の交流に献げた。その主なる著書に“Garden of Japan”London;1926“Hiroshige”London;1929“English Catalogue of Treasures in the Imperial Repository Shosoin”Tokyo,1932“Examples of Japanese Art in the Imperial Household Museum”Tokyo;1934“The Lesson of Japanese Architecture”London;1937“A Glimpse of Japanese Ideals”Tokyo;1937.

石川公一

没年月日:1963/05/30

学習院大学助教授で元国立近代美術館渉外調査係長、石川公一は5月30日原因不明の脳内出血の為、都下小金井市桜町の桜町病院で急逝した。享年42才、石川公一は大正10年1月10日東京府小石川区に生れた。昭和17年山形高等学校を卒業、同年京都大学法学部政治に学科入学した。翌18年12月、召集を受け海軍に入り、19年9月応召中のまま、京大法学部を卒業、20年に復員すると更に東大文学部哲学課に入学して美学を専攻した。卒業後は大学院において造型美術の理論を専攻、主にドイツ現象学派の美学を学んだ。27年に国立近代美術館調査渉外係長に就任、その後、陳列保存係長に代ったりしたが、38年3月迄同館に勤務、38年4月、学習院大学助教授として転任し同校の哲学科、史学科また大学院での講義を担任していた。尚33年から35年へかけてドイツに留学、ミュンヘン大学でゼーデルマイヤーに師事す、帰国後は、一層美学、美術史の問題に深い関心と研究を進めていたところで、その急逝が惜しまれる。略年譜大正10年1月10日 東京府小石川区に生る。昭和17年4月 京都大学法学部政治学科入学昭和18年12月 応召により海軍に入隊昭和19年9月 京都大学法学部卒業(応召中)昭和20年9月 海軍中尉として復員昭和21年4月 東京大学文学部哲学科入学(美学専攻)昭和24年3月 同卒業、4月大学院入学昭和27年11月 大学院退学し、国立近代美術館調査渉外係長に就任昭和33年12月~35年3月 ドイツ学術交換学生として渡独、ミュンヘン大学美術史研究室またバイエルン中央美術研究所等に学ぶ。昭和38年4月 学習院大学助教授に就任昭和38年5月 5月30日没。主要論文、著書等流行について(被服文化26年1月~27年5月)。作品の構造(美学8号、27年4月)、現代の美意識-近代芸術の変貌(文化服装学友会誌20号、27年3月)、未開芸術の問題(美学9号、27年7月)、明治大正の洋画(みづゑ4月号、28年)、表現の問題としてのリアリズム、その一(美学22号、24号、30年、31年)「近代洋画の歩み」(今泉篤男共著)東都文化出版昭和30年、「デーゼルマイヤー:近代芸術の革命」(美術出版社32年、絵画の時間性(文芸日本、32年1月)、浪漫主義の美術(近代思想史講座4巻、弘文堂33年)、浪漫主義の絵画(前同、4巻、34年)、抽象美術(前同、8巻、34年)、カンディンスキー(美術手帖7・8月号、35年)、前田寛治のリアリズム(みづゑ11月、35年)「ドイツ美術」(前川誠郎と共著)講談社37年〔翻訳〕「ゼーデルマイヤー:中心の喪失」(阿部公正と共訳)美術出版社近刊、「L.Venturi:Painting and painters-How to look at the picture」(和光功と共訳)みすず書房近刊、

小林太市郎

没年月日:1963/05/06

神戸大学文学部教授小林太市郎は5月7日狭心症のため京都市の自宅で急逝した。享年61才明治34年12月27日西陣の織元の家に生れ、染織中学に進んだが、同志社中学に転じ、京都大学文学部哲学科選科からフランスに留学してソルボンヌ大学で三年の課程を終えた。帰国後東方文化学院研究嘱託、大阪市立美術館学芸員を径て、昭和25年5月神戸大学文学部教授となり、この間29年度には京都工芸繊維大学工芸学部講師、33年度には広島大学文学部講師をつとめた。氏は和漢洋の豊富な語学力と駿博な知識及び深い洞察に基いて広汎な著作活動を行い、別表の如く多彩な内容を示している。37年3月31には「大和絵史論」により文学博士の学位を授けられたが、同書はまた第一回の毎日出版文化賞の受賞図書でもあった。なお神戸大学文学会編「研究」の34号は氏の追悼特集号である。主要著作目録ベルグソン「精神力」訳 (昭和7年 第一書房)支那と仏蘭西美術工芸 (昭和12年 弘文堂)ダントルマール「中国陶瓷見聞録」訳註 (昭和18年 第一書房)王維の生涯と芸術 (昭和19年 全国書房)柿右衛門と伊万里図説 (昭和19年 大雅堂)北斎とドガ (昭和 全国書房)大和絵史論 (昭和21年 全国書房)禅月大師の生涯と芸術 (昭和22年 創元社)漢唐古俗と明器土偶 (昭和22年 一条書房)中国絵画史論孜 (昭和22年 大八洲出版社)乾山・京都篇 (昭和23年 全国書房)東洋陶磁鑑賞録中世篇 (昭和25年 便利堂)乾山「過凹凸★記」訳注考証美術史34.25 (昭和34年35年)マラルメの詩論 美学42(昭和35年)芸術の理解のために (昭和35年淡交新社)光琳と乾山(世界の人間像) (昭和37年角川書店)王維(絶筆 集英社)

脇本楽之軒

没年月日:1963/02/08

東京芸術大学名誉教授、文化財専門審議会専門委員脇本楽之軒(本名十九郎)は2月8日老衰のため逝去した。享年80才。明治16年9月19日山口県防府市の生れ。京都市立美術工芸学校に入学したが中途退学して上京。明治35年ごろから藤岡作太郎に国文学、中川忠順に美術史を学んだ。大正4年美術攻究会を創立し、美術史研究のかたわら万朝報、東京朝日新聞に現代美術評論を執筆した。大正6年より同9年まで文部省嘱託として国宝調査に当り、同11年から昭和12年まで国宝全集の編集に従事、昭和6年より同8年まで美術研究所嘱託となり、「美術研究」に多くの論文を発表した。昭和11年美術攻究会を東京美術研究所と改め機関誌「画説」(のち「美術史学」と改題)を刊行、絵画、陶磁器等に関する研究論文、作品解説、史料紹介の筆をとった。昭和20年東京美術研究所を閉鎖、東京美術学校講師、同22年教授となり日本美術史を講じた。同24年国立博物館次長となったが間もなく辞任。同25年東京芸術大学教授となり、同34年停年退職。同37年名誉教授の称号を授与された。なお、昭和12年重要美術品等調査委員、同20年国宝保存会委員、同25年文化財専門審議会専門委員となり文化財保護行政にも功績があった。同37年古美術研究および現代美術評論に関する業績により紫綬褒章を授与され、逝去に際し正4位勲4等瑞宝章を贈与された。水墨画・文人画および京焼の研究に業績が大きく、著書に「平安名陶伝」(大正10年洛陶会)がある。主な論文次の通り、破墨の意義の変遷について 美術研究 14「雑華室」鑑蔵印記について 美術研究 22日本水墨画壇に及ぼせる朝鮮画の影響 美術研究 28足利義満と宋元画 美術研究 38戦国武人画家山田道安 1~3 画説 10~12慶思か慶忍か 画説 15信貴山縁起の研究 画説 30仁阿弥道八 陶磁 2の4仁清と京焼 京都博物館講演集 13

鷹巣豊治

没年月日:1962/04/16

東京国立博物館調査員、東洋陶磁会理事鷹巣豊治は、4月16日久留米市に出張中、脳内出血のため急逝した。享年71。明治23年11月20日佐賀県西松浦郡に生まれ、有田工芸学校陶画本科に学んだ。のち東京美術学校日本画本科に入学し、大正5年3月卒業、さらに研究科に学んだ。その後日本画家として自活するかたわら、板谷波山の作陶をたすけた。同14年4月東京帝室博物館雇員となり、美術課に勤務して以来、終生同館に勤務した。昭和6年5月鑑査官補、同15年2月鑑査官となった。同22年国立博物館官制の制定により文部技官に任ぜられた。同29年3月東京国立博物館学芸部美術課長となり、同30年11月に至った。この間、ハワイのホノルル美術館で開催の日本古美術展に出張した。同33年4月本官を辞し、以後調査員として在職した。帝室博物館入館以来、同館の模本の調査にあたり、これを整理した功績は大きい。絵画史、陶磁史に造詣深く、著書に「柿右衛門・鍋島」(昭和36年平凡社)がある。また晩年には陶画にも手を染めた。

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