本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





福田新生

没年月日:1988/01/09

一水会委員、日展参与の洋画家福田新生は、1月9日午後4時45分、自然気胸のため東京都八王子市の陵北病院で死去した。享年82。明治38(1905)年3月3日、福岡県小倉市に生まれる。大正11(1922)年福岡県豊津中学校を卒業。13年第11回光風会展に初出品し、14年第12回同展に「洗足の丘」「白き温室の見える風景」を出品して光風賞受賞、15年同展に「静物」「帽子のある静物」を出品して再び光風賞を受け、翌昭和2(1927)年にも同賞を受賞する。この間の大正15年川端画学校修了。同年第7回帝展に「静物」で初入選。また、同年より槐樹社に出品する。昭和4年槐樹社の解散により旺玄社の会員となるが9年に退会。15年より一水会展に出品を始め同年の第3回展に「日向葵」「喇嘛廟」を出品して岡田賞受賞。21年同会会員となり、25年第12回展に「哀しい平和」「巷の女たち」を出品して会員佳作賞、27年にも「鉄骨作業」「白い建物」で同賞を受け同年一水会委員に推される。また、23年には第4回日展に「戦おわる」を出品して特選となる。30年渡欧し翌年帰国。日展審査員をたびたびつとめ、35年日展会員となる。45年第2回改組日展に「土蔵の前で」を出品して内閣総理大臣賞受賞。55年日展参与となる。農漁村で労働する人々を好んで描き、生活の力強さを画面に表した。著書も多く、『北満のカザック』『拓け行く満州』『人民の日本美術史』『美術と思想の話』『レーピン伝』『抽象美術の解体』『画家の日記』『土に生きる画家たち』などを著している。 帝展、新文展、日展出品歴大正15(1926)年第7回帝展「静物」、昭和2(1927)年(8回)「支那壷のある静物」、3年(9回)「酒場」、4年(10回)不出品、5年(11回)「渓流」、6~13年不出品、14年第3回新文展「カザックの娘」、16年(4回)「北満の農夫たち」、17年不出品、18年(6回)「牧草刈り」、21年第1回日展不出品、同年(2回)「男体山を望む」、22年不出品、23年(4回)「戦おわる」(特選)、24年(5回)「小春日」、25年(6回)「復興させ給え」、26年(7回)「冬濤ひびく」、27年(8回)「新宿零時」、28年(9回)「職場の娘」、29年(10回)「鵜飼図」、30~32年不出品、33年第1回社団法人日展「北九州風景、小倉」、34年(2回)「英彦山」、35年(3回)「コロンボの少年たち」、36年(4回)「足摺岬の朝焼」、37年(5回)「ヴェトナムの農夫」、38年(6回)「種いも撰り」、39年(7回)「白鷺の藪」、40年(8回)「祈り」、41年(9回)「釜ケ崎のタロー君」、42年(10回)「メコン・デルタ」、43年(11回)「帆曳船の若者(霞ケ浦)」、44年第1回改組日展「山の老人」、45年(2回)「土蔵の前で」、46年(3回)「なまはげ」、47年(4回)「炉ばたの人」、48年(5回)「朝市の女」、49年(6回)「しょいこ(背負い子)」、50年(7回)「老いたる海女」、51年(8回)「馬橇が往く」、52年(9回)「運ぶ女たち」、53年(10回)「漁村にて」、54年(11回)「春耕」、55年(12回)「稲架かけの農婦」、56年(13回)「豚を飼う農婦」、57年(14回)「英彦山・南岳」、58~62年不出品

梶原緋佐子

没年月日:1988/01/03

美人画で知られる日本画家梶原緋佐子は、1月3日午後8時10分、老衰のため京都市北区の自宅で死去した。享年91。明治29(1896)年12月22日京都祇園の造り酒屋に生まれ、本名久。大正3年京都府立第二高等女学校卒業後、竹内栖鳳門下で同校で教えていた千種掃雲の勧めにより画家を志望し、菊池契月に入門。木谷千種、和気春光らとともに、契月塾の三閨秀と称される。同7年第1回国画創作協会展に「暮れゆく停留所」を出品し、選外佳作となる。次いで、9年第2回帝展に「古着市」が初入選し、以後10年第3回帝展「旅の楽屋」、13年同第5回「お水取りの夜」、14年第6回「娘義太夫」、15年第7回「矢場」など、下層に生きる女性風俗を題材に社会性の強い作品を描く。昭和に入り、5年第11回帝展「山の湯」、6年第12回「いでゆの雨」、8年第14回「機織」など、師契月の画風を受けた明澄な作風へと移行。戦後、22年第3回日展で「晩涼」が特選、27年同第8回「涼」が白寿賞を受賞する。30年頃より舞妓や芸妓を多く題材に、上村松園亡きあとの京都画壇の美人画の伝統を守り続けた。また昭和5年大阪府女子専門学校の日本画講師となり、8年韓国、10年中国、43年欧州を旅行。43年日展評議員となり、49年より同参与をつとめた。また51年京都市文化功労者となり、54年には画業60年記念「梶原緋佐子展」が開催された。早くより吉井勇に師事して和歌も学び、歌集『逢坂越え』(大正13年)なども出版している。

内藤隶

没年月日:1988/01/03

官展を中心に活躍した洋画家内藤隶は、1月3日午後2時27分、老衰のため千葉県大原町の自宅で死去した。享年87。明治33(1900)年4月21日、東京都江東区に生まれる。本名能福。東京府立第三中学校を中退して本郷絵画研究所に入り岡田三郎助に師事。大正15(1926)年第7回帝展に「花畑」で初入選し、9回帝展には「初秋の丘と庭」、10回展には「初秋」を出品。新文展にも第1回展から「木蔭の池」で入選し官展に出品を続ける。庭に取材した作品が多く、色彩豊かで穏やかな作風を示す。春台美術展に参加して同会会員、委員となり、また千葉県美術会創設委員となって郷里の美術振興に尽くし千葉県展名誉会員となる。晩年は無所属となって画壇を退いた。

河野秋邨

没年月日:1987/12/03

社団法人日本南画院会長・理事長の日本画家河野秋邨は、12月3日午前6時50分、急性心不全のため京都市上京区の自宅で死去した。享年97。明治23年8月8日愛媛県新居浜市に生まれて本名循。明治40年京都に出て、45年京都の田辺竹邨に師事し、南画を学ぶ。大正4年日本美術協会に出品した「赤壁舟遊図」が伏見宮買上げとなった。同6年第11回文展に「夏雨新霽」が初入選、帝展にも15年第7回展より入選し、昭和2年第8回帝展「月下敲門」、3年第9回「山光欲暮」などを出品する。この間、大正10年水田竹圃らと発起し、富岡鉄斎を顧問として、田辺竹邨、山田介堂、池田桂仙ら京都南画壇の元老とともに日本南画院を結成。同人として出品する一方、その運営にあたる。同院は昭和11年に解散となったが、松林桂月、矢野橋村らとともに35年日本南画院を再興、理事長となった。また大正12年中国を巡遊して以後、たびたび中国、朝鮮半島に渡航。戦後43年にはアメリカ各地で講演と実技指導を行なう。日本南画院再興後は、46年パリ、47年ボストン、53年オーストラリアのシドニー、キャンベラ、58年ブエノスアイレスなどで日本南画院展を開催。このほか、57年日中国交回復10周年記念合同展、58年、60年の日ソ合同美術展、61年日中ソ三国合同展の開催など、国際文化交流にも大いに尽力した。「寒影湛」「寒風嶺」(以上40年)、「富獄騰霊」「幻想★湖」など大作を多く描き、近年は「コーカサス紀行」など、ソ連コーカサス地方の風景を描いている。51年日本学士会名誉会員となり、59年京都府文化功労賞を受賞した。没後の同年5月中国東方美術交流協会より最高栄誉賞を受賞した。

江藤純平

没年月日:1987/11/16

日展参与、光風会名誉会員の洋画家江藤純平は、11月16日午後10時43分、脳出血のため東京都三鷹市の杏林大学病院で死去した。享年89。明治31(1898)年3月25日大分県臼杵市に生まれる。大正7年東京美術学校西洋画科に入学し、岡田三郎助に師事して同12年同校を卒業。同年第5回帝展に「アトリエにて」で初入選。昭和3年第9回帝展に「S氏像」、翌年第10回帝展に「F君の像」を出品し、2年連続特選となる。同8年第14回帝展出品作「室内裸婦」でも特選受賞。同12年光風会に会員として参加。戦後、日展、光風会展に出品し、44年第1回改組日展に「小豆島」を出品して内閣総理大臣賞を受ける。50年より日展参与となる。戦前は人物画を中心に研究したが、戦後は風景画を多く描く。セザンヌに傾倒し、その画風は「セザンヌの草書風」とも評される。

藤沢典明

没年月日:1987/11/11

二科会理事で和光大学教授をつとめた洋画家藤沢典明は、11月11日午後2時24分、胆のうガンのため東京都新宿区の国立医療センターで死去した。享年71。大正5(1916)年1月16日福井県勝山市に生まれ、郷里での在学中に福井県美術協会や北荘洋画展に出品し受賞する。昭和10(1935)年福井師範学校卒業。翌11年第1回新制作派協会展に「遊園地風景」を出品、以後21年まで同展に出品する。12年に上京し、18年神田今川国民学校図工科に通う。21年東京美術学校に研究派遣生として入学し安井曽太郎に学ぶ。22年より26年まで美術文化協会に出品し会員となるが27年に退会。29年アートクラブ会員となる。30年第40回二科展に「脱出」「かけ」を初出品し二科賞受賞。34年同会会員となり、40年第50回同展に「夜明け」を出品して会員努力賞受賞。41年第18回国際美術教育会議日本代表として渡欧、43年より和光大学人文学部芸術学科で教鞭を取る。初期にはシュール・レアリスム風の作品を描いたが、昭和30年代に抽象へと移行し、抽象表現主義的作風から40年代後期には幾何学的図形による都市図へと展開し、50年代には正方形によって画面を構成する幾何学的抽象画を描いた。59年二科会理事となる。60年福井県立美術館で「藤沢典明の世界展」を開催。61年第71回二科展に「道諦」を出品して総理大臣賞受賞。小学校教員の経験から子供の美術教育にも関心を持ち財団法人教育美術振興会理事、美育文化協会理事、幼児造形教育委員、色彩教育研究会理事などをつとめ、『造形教育のこれから』『子どもの美術』などの著書がある。

杢田たけを

没年月日:1987/08/08

独立美術協会会員の洋画家杢田たけをは8月8日午前2時1分、胆管がんのため東京都千代田区の日大駿河台病院で死去した。享年77。明治43(1910)年2月25日兵庫県豊岡市に生まれる。昭和2年今里中学校を卒業、僧侶で日本画家でもあった祖父の影響で画家を志し小泉勝爾に日本画を学ぶ。日本美術学院にも通い、のち洋画家須田国太郎に師事する。同10年第5回独立展に「鉄屑等ある風景」で初入選し、以後同会に出品を続ける。同22年独立賞を受け、24年同会会員に推される。38年上京。朝日秀作美術展(26年~32年)、日本国際美術展(28年~36年)、現代日本美術展(29年~42年)などにも出品。初期には穏やかな田園風景を多く描いたが、のち前衛的な制作へと移行し、板、布、金属などの廃材を使ったアッサンブラージュで知られた。没後の63年練馬区立美術館で遺作が特別陳列された。

木村忠太

没年月日:1987/07/03

元独立美術協会会員でパリに在住しフランスを中心に活躍した洋画家木村忠太は、7月3日午前3時(日本時間同日午前10時)、肝硬変のためパリのサンタントワーヌ病院で死去した。享年70。大正6(1917)年2月25日香川県高松市に生まれる。昭和5年香川県立工芸学校に入学するが病気のため中退する。同11年画家を志して上京し洋画研究所に通う。翌12年独立展に初入選。同17年独立賞受賞。同18年高畠達四郎の推薦により帝国美術学校本科に入学。同23年独立美術協会会員となる。28年渡仏し、以後パリに定住する。30年にコタボやフサロらと共に具象画の新鋭としてフランスの画界にデビューし、鮮やかな色彩と即興的な筆致で東洋的油彩画として注目される。41年日本で初めての個展を開き好評を博す。44年のサロン・ドートンヌ出品作「ル・クロ・サンピエールの家」がパリ国立近代美術館買上げとなり、45年にはサロン・ドートンヌ会員となった。パリを中心にニューヨーク、スイスの主要都市、東京などで個展を開催。50年には『木村忠太画集』(日動出版)が出版された。58年フランス政府よりシュヴァリエ・ド・ロルドル・デ・アール・エ・デ・レトル勲章が贈られた。

麻田鷹司

没年月日:1987/07/01

創画会会員、武蔵野美術大学教授の日本画家麻田鷹司は、7月1日午後零時6分心不全のため、東京都板橋区の帝京大学附属病院で死去した。享年58。昭和3年8月8日京都市に日本画家麻田弁次の長男として生まれ、本名昂。父に絵を学び、京都市立美術工芸学校絵画科を経て、24年京都市立美術専門学校を卒業。この間、23年第1回創造美術展に「夏山」が入選し、同年より雅号を「鷹司」とした。25年第3回創造美術展で「ボートを造る」が奨励賞を受賞、翌26年創造美術が新制作派協会と合流し、新制作協会日本画部となって以後、同会に出品する。34年第5回日本国際美術展出品作「小太郎落」は文部省買上げとなり、35年第4回現代日本美術展「雲烟那智」は神奈川県立近代美術館賞を受賞した。42年法隆寺金堂壁画再現模写に従事し、第7号壁を担当。49年新制作協会日本画部が同協会を離脱、新たに創画会を結成して以後、同会に出品した。金箔、銀箔、金泥などを多用し、ナイーヴな感性と堅固な画面構成の風景画を制作、47年第36回新制作展「天橋雪後図」、49年第1回創画展「松嶋図」、50年同第2回「厳島図」の日本三景や、佐渡、琵琶湖、沖ノ島など各地に取材した作品を発表する。また、10年がかりの予定の京都シリーズの第1回展として56年「洛中洛外・麻田鷹司展」(洛東編)を京都の何必館・京都現代美術館で開催、洛東風景の新作10点等を発表した。この間、38年ヨーロッパ、54年日中文化交流協会代表団の一員として中国をそれぞれ旅行。54年作「雲崗石窟仏」により第4回長谷川仁賞を受賞している。また、41年武蔵野美術大学講師となって以後、43年同助教授、45年教授となり、後進の指導にあたった。『新潮』の表紙原画(53~54年)や、記念切手(59年「銀閣」、62年「奥の細道シリーズ・華厳」)なども制作。35年以来たびたび個展を開催し、52年日本橋高島屋「麻田鷹司-わが心の京都」、54年銀座松屋「麻田鷹司-今日と明日」を開催。没後63年何必館・京都現代美術館で「追悼・麻田鷹司素描展」が開かれた。画集に『麻田鷹司画集』(50年、講談社)がある。

笹岡了一

没年月日:1987/06/08

日展評議員、光風会常任理事の洋画家笹岡了一は、6月8日午前5時、心不全のため千葉県松戸市の恩田病院で死去した。享年79。本名秋元了一、明治40(1907)年8月23日、新潟県中蒲原郡に生まれる。新潟県三條中学校卒業。昭和5(1930)年第7回白日展に「みそれの後」で初入選。同6年第8回同展に「風景」3点と「粟島と冬の海」を出品して白日賞受賞。同年第12回帝展に「三人の少女」が初入選したのをきっかけに上京し、同郷の洋画家安宅安五郎に師事する。同7年第9回白日展に「海辺風景」「晴れたる大夫濱」を出品して再び白日賞を受賞する。同8年同会会員となる。同12年佐分賞受賞。同15年白日会を退会し翌年創元会の第1回展に「降伏」を出品して受賞する。21年光風会会員となる。帝展、新文展、日展と官展への出品を続け、34年日展会員となる。53年第10回日展に「ウィリアム物語」を出品して内閣総理大臣賞を受賞。聖書の物語を主題とし、中世キリスト教絵画を思わせる画風を示す作品、また、中国、西欧を描いた風景画で知られる。日比谷図書館壁画を描いたほか、朝日秀作展、国際具象展にも出品。戦後は千葉県に住んで千葉県美術会に参加し常任理事をつとめるなど同県の美術振興にも尽くした。

宮永岳彦

没年月日:1987/04/19

鹿鳴館シリーズなどの華麗な女性像で知られる洋画家宮永岳彦は、4月19日午前8時50分、消化管出血のため東京都港区の東京専売病院で死去した。享年68。大正8(1919)年2月20日、静岡県磐田郡に生まれる。昭和11(1936)年名古屋市立工芸学校を卒業し、松坂屋に勤務しながら制作を続け、16年より正宗得三郎に師事。17年第29回二科展に「いもん」で初入選。18年第6回新文展に「いもん」で初入選する。戦後は二紀会に参加し22年第1回展に「鏡」を出品して褒賞受賞。同年二紀会同人となる。25年日本宣伝美術協会の創立に参加。29年第8回二紀展に「裸婦A」「裸婦B」を出品して同人努力賞受賞、32年同会委員、47年理事に就任する。豪華、華麗な西欧の王朝風の美人画で知られ、49年日伯文化協会の要請により「皇太子殿下、同妃殿下肖像」を描き、同年ブラジル国公認サンフランシスコ最高勲章グラン・クハース章受章。また同年第28回二紀展に「ROKUMEIKAN 煌」を出品して菊華賞受賞。52年第31回同展出品作「碧」で53年東郷青児美術館大賞を受賞し、53年第32回同展出品作「鵬」で53年度日本芸術院賞を受ける。61年には二紀会理事長に就任した。30年代にはポスターや新聞・雑誌の挿絵でも活躍。広く大衆的人気を博した。『宮永岳彦・現代の美人画』(52年講談社)、『宮永岳彦画集』(54年実業之日本社)が刊行されている。

大森啓助

没年月日:1987/03/31

国画会会員の洋画家大森啓助は3月31日午前零時48分、心不全のため、東京都杉並区の河北総合病院で死去した。享年89。明治31年(1898)年3月15日、神戸市に生まれる。本名多満四郎。大正9(1920)年関西学院高等部を卒業して上京し、金山平三に師事しつつ川端画学校に通う。同15年、フランスへ留学し同年のサロン・ドートンヌに初入選する。サロン・ザンデパンダンなどにも出品し、昭和7(1932)年、欧州巡遊を経て帰国する。同8年第11回春陽会展に「團樂」ほか10点を初出品。同9年同展に「裸婦」ほかを出品して春陽会賞を受賞し同会会友となる。同11年春陽会を退会して国画会に入会。同12年再び渡欧し1年間滞在する。同18年国画会会員となる。装飾的な人物像を得意とし、師金山と同じく歌舞伎絵を描くことでも知られる。文筆もよくし、訳書にモロオ・ヴォチェー著『絵画』(昭和17年)、J・G・グーリナ著『画家のテクニック』(同26年)、著書に『ヴァン・ゴッホ』(同24年)、『印象派の話』(同27)年などがあるほか、随筆にも筆をふるった。

小山敬三

没年月日:1987/02/07

一水会創立会員、日本芸術院会員、文化勲章受章者の洋画家小山敬三は2月7日午後10時34分、心不全のため神奈川県平塚市の杏雲堂平塚病院で死去した。享年89。明治30(1897)年8月11日長野県小諸市の旧家に生まれる。大正4年旧制上田中学校を卒業。慶応大学予科に入学するが画家を志して中退。川端画学校に通い藤島武二に学ぶ。同7年第5回二科展に「卓上草花図」などで初入選する。父の友人であった島崎藤村の勧めで同9年渡仏しシャルル・ゲランに師事。同11年サロン・ドートンヌに初入選する。同12年春陽会客員、翌13年同会会員、同15年サロン・ドートンヌ会員となる。昭和3年に帰国し、翌4年第7回春陽会展に滞欧作を特別陳列する。同8年春陽会を退会して二科会員となるが、11年には同会をも退き安井曽太郎らと一水会を創立。同12年再渡仏。1年ほど滞在した後、第二次大戦の激化のため帰国する。戦後は一水会、日展に出品し、34年に白鷺城をモチーフとする一連の作品によって日本芸術院賞受賞、35年日本芸術員会員および日展理事となる。45年文化功労者として顕彰され、50年度文化勲章を受章する。浅間山を好んで描き「紅浅間」など重厚で高雅な風景画を多く残す。著書に『ゴッホ静物篇』『来し方の記』、訳書にヴォラール著『画商の想出』がある。47年に郷里小諸に美術館を建て小諸市に寄贈する。また、油彩画の技法、修復技術の研究の必要を認識し、最晩年に私財を投じて小山敬三美術振興財団を設立し、小山敬三記念賞による油彩画家の表彰、油彩修復技術者の海外派遣を行なうこととするなど洋画の発展に寄与するところが大きかった。

村山徑

没年月日:1987/01/23

日展理事の日本画家村山徑は、1月23日午後11時38分、肺気腫のため神奈川県足柄下郡の厚生年金病院で死去した。享年70。大正6年1月21日新潟県柏崎市に生まれ、本名勲。昭和10年児玉希望に師事し、18年第6回新文展に「子等」が初入選する。戦後25年、希望門下の国風会と伊東深水門下の青衿会により組織された日月社に出品、3度にわたって受賞し、委員もつとめた。また27年より日展に出品し、30年第11回日展「たそがれ」、31年同第12回「風景」など、知的で堅固な画面構成の風景画を出品。33年第1回新日展「残雪の高原」、翌34年同第2回「白浜」が、ともに特選・白寿賞を受賞する。続いて、36年第4回新日展「溜」が菊華賞、53年第10回改組日展「朝の火山」が総理大臣賞となり、59年同第16回展出品作「冠」により翌60年日本芸術院賞恩賜賞を受賞した。この間、40年日展会員、47年評議員、60年より同理事をつとめた。

向井久万

没年月日:1987/01/20

創画会会員の日本画家向井久万は、1月20日午前2時47分、肺気腫のため東京都文京区の日本医大付属病院で死去した。享年78。明治41(1908)年12月14日大阪府泉佐野市に生まれる。大正15年大阪府立岸和田中学校卒業後、京都高等工芸学校図案科に学び、昭和4年卒業する。同年丸紅に勤務し、9年の退勤まで図案を担当した。11年西山翠嶂に入門、画塾青甲社に学ぶ。14年第3回新文展に舞妓を描いた「妓筵」が初入選し、翌15年の毎日新聞社主催紀元2600年奉祝日本画展で「新春」が佳作となる。続いて、16年長男の誕生を描いた「男児生る」が第4回新文展で特選を受賞、18年同第6回「紙漉き」も再び特選となった。戦後23年、新しい日本画の創造を目指して結成された創造美術に参加、創立会員となり、24年「娘達」などを出品する。26年創造美術が新制作派協会と合流して新制作協会日本画部となって以後は同会に出品する。この頃、26年「立像」、30年「堕ちる」など裸婦にとり組む。49年新制作協会日本画部が同協会を離脱し創画会を結成して以後、会員として同会に出品した。近年は、48年「如意輪観音」、54年第6回創画展「星宿」などのほか、「普賢と文殊」「十二天」「准胝仏母」など、古典に学んだ明快な描線による格調高い仏画に、多くの秀作を生んだ。

オノサト・トシノブ

没年月日:1986/11/30

抽象画家オノサト・トシノブは11月30日、急性肺炎のため桐生市の自宅で死去した。享年74。本名小野里利信。明治45(1912)年6月8日長野県飯田市に生まれ、大正11年から群馬県桐生市に住む。昭和6年津田青楓洋画塾に入り、同10年第22回二科展に初入選する。同年、津田洋画塾出身の野原隆平、浅野恒、山本直武と4名で黒色洋画展を結成したが、翌年展覧会開催後退会し、同12年自由美術家協会の創立に参加した。同15年の制作「黒色の丸」は、当時試みられることの少なかった構成主義的内容をもつ作品として注目された。翌16年応召し、戦後は同23年迄シベリアに抑留された。帰国後、錯視的な空間をつくる独特な抽象画を展開、同28年タケミヤ画廊で初の個展を開催した。同29年の国立近代美術館主催「抽象と幻想」展、同31年の「世界・今日の美術」展などに出品。また、同31年には自由美術家協会を退会し、以後個展を中心に制作発表を行った。同38年、第7回日本国際美術展に「相似」で最優秀賞を受賞する。同39年にはグッゲンハイム賞国際美術展、第34回ヴェネツィア・ビエンナーレ展、翌40年にはニューヨーク近代美術館の「新しい日本の絵画・彫刻展」、チューリッヒ市立美術館の「現代の日本美術展」への出品をはじめ、海外展へ数多く出品し国際的評価を得た。同53年、文集『実在への飛翔』(叢文社)を刊行する。

高光一也

没年月日:1986/11/12

文化功労者、日本芸術院会員、日展顧問の洋画家高光一也は、11月12日午後4時41分、くも膜下出血のため石川県河北郡の金沢医大病院で死去した。享年79。明治40(1907)年1月4日、石川県金沢市に生まれ、大正14年石川県立工業学校図案絵画科を卒業。小学校教師を経て、昭和4(1929)年第16回二科展に「卓上静物」で初入選。同年より中村研一に師事する。7年第13回帝展に「兎の静物」で初入選し画業に専念する。12年第1回新文展に「藁積む頃」を出品して特選となり、14年第1回聖戦美術展に「叢中忘己」を出品して陸軍大臣賞受賞。21年光風会会員となり、同年金沢美術工芸専門学校(現・金沢美術工芸大学)の創立に参加する。22年第3回日展に「南を思う」を出品して特選となる。27年第38回光風会展に「裸婦」を出品して光風相互賞受賞、28年金沢市文化賞受賞。29年渡欧し翌年帰国する。38年第6回新日展に「収穫」を出品して文部大臣賞受賞。39年再び渡欧する。46年、前年の第2回改組日展出品作「緑の服」などにより日本芸術院賞受賞。48年スペイン、50年ポルトガル、53年サウジアラビア、55年にはフランス、イタリア、ギリシア等を旅行して取材し、得意としていた人物像に異国趣味を導入する。59年石川県立美術館、東京大丸デパートで回顧展を開催。61年文化功労者に選ばれた。また、昭和22年金沢美術工芸専門学校講師となり、以後26年金沢美術工芸短期大学教授、30年金沢美術工芸大学教授となり44年同校を退官して名誉教授となるまで長く美術教育にも尽くした。日展に出品を続け46年日展理事に就任。文筆もよくし、仏教書『生活の微笑』(37年)、『近作画集と歎異鈔ノート』(49年)などを著し、『高光一也自選画集』『高光一也画集』を刊行している。

荻須高徳

没年月日:1986/10/14

パリ在住の洋画家荻須高徳は、10月14日午前2時(日本時間同10時)パリ市18区の自宅近くのアトリアで制作中死去した。享年84。戦前・戦後を通じ半世紀以上フランスに滞在し、パリの古い街並などを描き続け、フランスで最もよく知られた日本人画家の一人であった荻須は、明治34(1901)年11月30日愛知県中島郡に生まれた。愛知県第三中学校を卒業し、大正9年画家を志して上京、川端画学校で藤島武二の指導を受け、翌10年東京美術学校西洋画科に入学した。同期に小磯良平、牛島憲之、猪熊弦一郎、山口長男、岡田謙三らがいた。卒業の年の同15年、フランスから帰国中の佐伯祐三を山口長男と訪ね、佐伯に鼓舞されてフランス留学を決意し、同年山口とともに渡仏した。パリでは佐伯の側らで制作を進め、当初は画風の上で佐伯の強い影響を受けて出発した。しかし、昭和2年佐伯没後は、ユトリロの作品に強くひかれる。翌3年からはサロン・ドートンヌ、サロン・デ・ザルティスト・アンデパンダンに出品を続け、同11年サロン・ドートンヌ会員となる。この間、同6年にパリのカティア・グラノワ画廊で個展を開催したのをはじめ、以後ジュネーヴ、ミラノなどでも個展を開いた。また、同11年作の「プラス・サンタンドレ」がフランス政府買上げとなり、翌12年のサロン・ドートンヌ出品作「街角」がパリ市買上げとなった。同14年第2次世界大戦勃発にともない翌年帰国し、新制作派協会会員に迎えられ、同年の第5回同協会展に滞欧作が特別陳列された。同17年には陸軍省嘱託として仏領インドシナなどに派遣される。同23年、日本人画家としては戦後はじめてフランスへ渡り、以後パリを中心に制作活動を展開、同26年、サロン・ド・メに招待出品したのをはじめ、サロン・ド・テュイルリやヨーロッパ各地での個展で制作発表を行う。パリの街角を独自の明快で骨太な筆触で描き続けた作品は、広くパリ市民にも愛された。同31年、フランス政府からシュヴァリエ・ド・レジオン・ドヌール勲章を受章、同49年にはパリ市からメダイユ・ド・ヴェルメイユを受けた。同54年、パリ市主催でパリ在住50年記念回顧展が開催される。また、松方コレクションの日本返還やゴッホ展日本開催に協力するなど、日仏文化交流にも尽した。一方、日本では同29年第5回毎日美術賞特別賞を受賞、同30年に神奈川県立近代美術館、翌年ブリヂストン美術館でそれぞれ回顧展が開催され、同37年には国際形象派結成に同人として参加した。また、同40年、17年ぶりに一時帰国した。同55年、東京新聞紙上に連載したパリ生活の回想をもとに『私のパリ、パリの私』を刊行、中日文化賞を受けた。翌56年、文化功労者に選任される。同58年、郷里の稲沢市に稲沢市荻須記念美術館が開館した。戦後の作品に「サン・マルタンの裏町、パリ」(同25年)、「路に面した家・パリ」(同30年)などがある。葬儀は10月17日モンマルトル墓地で執行され、画家のジャン・カルズー、アイスビリー、カシニョル、ワイスバッシュ、シャプランミディをはじめ、本野盛幸駐仏大使ら在パリ日本人会など三百人余が参列した。また、没後日本政府から文化勲章が追贈された。

池辺一郎

没年月日:1986/10/13

一水会常任委員の洋画家池辺一郎は、10月13日午後4時15分、老衰のため東京都千代田区の日比谷病院で死去した。享年81。明治38(1905)年6月11日、東京に生まれる。麻布中学校を卒業し、昭和7年に渡仏。アカデミー・グラン・ショーミエールなどで学び13年に帰国する。21年一水会に参加して会員となり一水会賞を受ける。27年第14回一水会展に「けやき並木」「けさん夫妻と牛」「東京風景」を出品して会員優賞を受賞し同会委員に推される。同年第8回日展に「三人」を出品して岡田賞受賞。以後も日展、一水会展に出品を続ける。フォービスムの影響を受けた明るい色彩を用い、人物画にはドラン風の、風景画にはゴーギャン風の作風がうかがえる。文筆もよくし、著書に『近代絵画のはなし』(40年、南窓社)、『ルドン』(50年、読売新聞社)などがある。

樋笠数慶

没年月日:1986/09/23

日本美術院評議員の日本画家樋笠数慶は、9月23日正午、急性心不全のため東京都町田市の自宅で死去した。享年70。大正5(1916)年3月18日、香川県高松市に生まれ、本名数慶。高松第一中学校を卒業後、郷倉千靭に師事する。昭和16年第28回院展に「雨季」が初入選。戦後、日本美術院内部の研究会和泉会で、前衛芸術や抽象芸術なども研究した。31年第41回院展で「夕暉」が奨励賞を受賞し、32年第42回院展「鵜」は日本美術院賞を受賞。続いて、33年同第43回「白映」が日本美術院次賞、35年第45回「華翳」が奨励賞、36年第46回「春雪」は再び日本美術院賞を受賞し、36年日本美術院同人に推挙された。自然の移ろいを静視した風景・花鳥画を描き、37年第47回院展「懼」、38年第48回「神話」などを出品。47年第57回「暉晨」が内閣総理大臣賞、58年第68回「春潮」は文部大臣賞を受賞した。また日本美術院評議員をつとめていた。

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