本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





上原卓

没年月日:1986/07/27

創画会会員で京都市立芸術大学教授の日本画家上原卓は、7月27日午前5時2分呼吸不全のため京都市北区の京都警察病院で死去した。享年60。大正15年5月6日京都府に生まれる。本名同じ。京都市立美術工芸学校を経て、昭和23年京都市立美術専門学校日本画科を卒業する。24年創造美術展に「幻想」が初入選し、26年創造美術が新制作派協会と合流して新制作協会日本画部となって以後同会に出品。29年第18回新制作展に「麦(A)」「麦(B)」「午後」を出品し、新作家賞を受賞する。続いて、33年同第22回展「風船」「家族」「樹精」、34年第23回「水辺」「木」「丘」、35年第24回「池」「花と栗」「蓮池」により、3年連続して同じく新作家賞を受賞。36年同会会員となるとともに、同年の第25回新制作展出品作「竹林」は文部省買上げとなった。また現代日本美術展、日本国際美術展にも出品し、41年第7回現代日本美術展「草曼荼羅」は優秀賞を受ける。49年新制作協会日本画部が独立して創画会を結成して以後は、同会に出品した。この間、38年京都市立美術大学講師、45年京都市立芸術大学助教授、50年同教授となり、後進の指導にあたった。51年にはイタリアで中世フレスコ画を模写している。身辺な自然を題材に写実的描写の作風を展開した。

塙賢三

没年月日:1986/07/25

ピエロの画家として知られた二科会理事の洋画家塙賢三は、7月25日午後3時29分持病の気管支ぜんそくのため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年70。大正5(1916)年3月31日茨城県新治郡に生まれる。生家は菓子の製造卸し商を営み、父は菓子職人であった。昭和4(1929)年土浦尋常高等小学校を卒業し家業を手伝う。同7年上京して電器店の店員となり東京電機大学の夜学に通って電機工学を学ぶ。同12年帰郷して郷里に塙電業社を興す。同18年藤島武二に師事した洋画家福田義之助を知り、アトリエに出入りして油絵を学ぶ。翌19年第1回日本アンデパンダン展に「日の出る街」「森」で初入選。20年には「初秋の丘」で白日展に初入選。翌21年第31回二科展に「風景」で初入選し以後二科展に出品を続ける。24年第34回二科展に「希望」を出品して岡田賞を受け、家業を廃して画業に専念する。25年同展に「埋葬」ほかを出品して二科会創立35周年記念賞受賞。28年二科会友となる。29年より銀座の数奇屋橋公園の路上で作品を展観するロード展を伊賀勇高らと行ない、33年には北海道から九州への日本縦断路傍展を敢行。同年夏渡米し34年にはニューヨークで個展を開催。ヨーロッパ、エジプト、中近東を経て同年帰国する。昭和30年代後半よりサーカスやピエロを画題とするようになり、37年二科会員となる。49年第53回二科展に「語らい」「球に乗った道化」を出品して会員努力賞受賞。45年春、渡仏しスペイン、モロッコなどを巡遊して制作する。童心を失なうことをおそれ、童画的な夢のある作風の中で喜びや悲しみを表わそうとし、幅広い支持を得る。54年二科会評議員となり、61年5月末同会理事に推挙される。没後の63年東京銀座松屋で塙賢三遺作展が開かれ、画集『道化に生きる』が刊行された。

福井良之助

没年月日:1986/07/09

淡雅、静謐な画風で広い支持を得た洋画家福井良之助は、7月9日午前8時32分、クモ膜下出血のため神奈川県相模原市の北里大学病院で死去した。享年62。大正12(1923)年12月15日、東京日本橋に生まれる。昭和11(1936)年聖学院中学校に入学し、光風会会員であった島野重之に師事。19年東京美術学校工芸科鋳金部を卒業する。21年第41回太平洋画会展に「みちのくの冬」で初入選、一等賞を受賞し、29年第18回自由美術家協会展に「窓」を出品して佳作賞を受ける。のち団体から離れ無所属となる。34年日本橋画廊で孔版版画による第1回個展を開きアメリカの画商らに認められ、37年ニューヨークのウエイ画廊で個展を開いたのをはじめとして海外でも作品を発表。36年より日本国際美術展、37年より現代日本美術展、東京国際版画ビエンナーレ展、38、40年リュブリアナ国際版画展に出品するなど版画家として知られるようになる。また、40年より国際形象展、47年より潮音会展に油絵を出品。渋く淡い色彩で花、風景、少女を描いて枯淡な詩情ある作風を示し、その素描力には定評があった。50年代には舞妓のシリーズを制作し虚実あいなかばする幻想的な美しさで新境地を開いた。『福井良之助作品集』(43年美術出版社、48年求龍堂、56年講談社)、素描集『鎌倉の道』(58年日本経済新聞社)が刊行されている。

田村孝之介

没年月日:1986/06/30

二紀会理事長、日本芸術院会員の洋画家田村孝之介は6月30日午後9時45分、胃かいようのため東京都渋谷区の中央鉄道病院で死去した。享年82。明治36(1903)年9月8日、大阪市に生まれる。本名大西孝之助。大正9年上京して太平洋画会研究所に学ぶが、翌年大阪に帰り小出楢重に師事。同13年小出らが信濃橋洋画研究所を創立すると同所で修学し、ひき続き小出、鍋井克之の指導を受ける。同年第1回大阪市美術協会展に「静物」を初出品、同15年第7回中央美術展に出品し中央画界に登場する。昭和2年第14回二科展に「裸婦立像」「風景」で初入選。同11年同展に「薄衣」「噴水」「海風」を出品して奨励を受賞。翌12年二科会員に推される。戦後は二科会再建に参加せず宮本三郎らとともに9人の創立会員をもって二紀会を結成し、以後同会に出品を続ける。27年渡欧しフランス、オランダ、ベルギー、イタリア、スペインなどを巡って翌年帰国、同37年渡米し、7ケ月滞在の後ヨーロッパをまわって38年10月帰国する。以後たびたび渡欧し、ヨーロッパ風景を多く描く。49年宮本三郎の死去に伴い二紀会理事長に就任。59年日本芸術院会員となり、60年文化功労者として顕彰された。フォーヴ的な明るい色彩と装飾性を特色とする。著書に『スケッチの技法』(昭和33年、美術出版社)、『大阪 わがふるさとの……』(藤沢恒夫と共著、同34年、中外書房)があり、52年には『田村孝之介画集』(日動出版)が刊行された。

宇治山哲平

没年月日:1986/06/18

郷里大分県にあって独自の歩みを続けていた国画会会員の洋画家宇治山哲平は、6月18日午後零時40分、悪性リンパ腫のため大分県別府市の国立別府病院で死去した。享年75。明治43(1910)年9月3日、大分県日田市に生まれる。本名哲夫。昭和3(1928)年県立日田中学校を卒業し、家で画作に熱中。同5年日田工芸学校描金科に入学し蒔絵の技術を習得して同6年に卒業。同年大分県日田漆器株式会社に入り漆工・木工のデザインを担当する。同7年第2回日本版画協会展に「水郷の夏」で初入選。10年第10回国画会展に版画「秋酣」で初入選。13年「山肌A、B、C」ほかを出品して新興美術家協会賞を受け同会会員となる。14年より国画会展に油絵を出品するようになり、同17年第17回国画会展に「山峡紅葉」「山」を出品して褒状受賞。18年国画会会友、19年同会員となる。22年に12年より勤務していた西日本新聞社を退社し大分県立日田工芸試験所に入所する。25年、国画会の杉本健吉、香月泰男らと型生派美術協会を結成する。この頃、福島繁太郎に認められ、26年より34年までフォルム画廊で毎年個展を開く。飛鳥、天平の美術にひかれ、古典美術の研究を進め、中国、アッシリア、エジプトなど世界の古美術へと視野を広め、39年オリエントからエジプトへと遊学。このころから円や三角形などの幾何学的形体による画面構成を始め、「絶対抽象の世界」を目ざすようになる。46年第12回毎日芸術賞受賞。48年第32回西日本文化賞を受賞。油絵具に方解石を混ぜた独自のマチエールで白地に明快な図形をちりばめ、静かで明るい、リズミカルな抽象画を描く。36年大分県立芸術短大教授となってより長く美術教育に従事し、46年同大学長に就任、48年同大を退いたのち別府大学教授となった。61年東京赤坂のサントリーホールの壁画「響」を制作、同年の国画会展に出品した「大和心」が最後の作品となった。著書に『美について想う』(45年、壱番館画廊刊)などがある。

原精一

没年月日:1986/05/03

裸婦の作家として知られた洋画家原精一は、5月3日午後6時57分、急性肺炎のため東京都世田谷区の関東中央病院で死去した。享年78。明治41(1908)年2月27日、神奈川県藤沢市の遊行寺・真浄院住職の長男として生まれる。大正12(1923)年6月、藤沢の藤嶺中学校(現・藤沢高校)在学中に第1回円鳥会を見、萬鉄五郎の作品に感嘆して間もなく萬に師事するようになる。同年川端画学校にも通う。翌13年第3回円鳥会に「風景、水彩」を初出品。昭和元(1926)年藤嶺中学を卒業。同年より中学の先輩である鳥海青児に絵を学び、同年新設された国画創作協会洋画部に「四月風景、水彩」で初入選。同2年には第5回春陽会に「冬田」で初入選し以後同会に出品を続ける。同11年第14回同展に「シュミーズの女」など13点を出品して春陽会賞受賞。翌12年同会会友に推される。同年応召し、翌13年「戦場スケッチ」により第2回佐分賞受賞。同17年中国より帰還し、第20回春陽会展に「胡弓」など9点を出品して同会会員に推される。同18年再び応召し21年タイでの抑留生活を終えて帰国する。同23年国画会に推薦会員として入会。以後、国画会展、現代日本美術茨、日本国際美術展などに出品。同42年国画会を退会。47年、38年の第2回展より出品していた国際形象展の同人となる。この間、同32年4月より翌年10月までの渡欧を皮切りに40年、45年と渡欧を重ねその後もヨーロッパ、東南アジア等へ旅する。50年には女子美術大学教授に就任し、美術教育にもたずさわった。一貫して裸婦を描き、女体の力動感を描き出そうとした。素速く適確なデッサンには定評があり、『原精一デッサン集』(40年、美術出版社)、『原精一素描集』(54年)、『原精一画集』(58年、日動出版)が刊行されている。

岡本唐貴

没年月日:1986/03/28

戦前の前衛美術及びプロレタリア美術運動の推進者の一人として活躍した岡本唐貴は、3月28日急性心不全のため東京都線馬区の自宅で死去した。享年82。岡本は明治36(1903)年12月3日、岡山県倉敷市に生まれる。本名登喜男。大正9年上京し、同11年東京美術学校彫刻科塑造部に入学するが、翌年中退した。同12年第10回二科展に立体派の影響を示す「静物」他で初入選。同13年には前衛集団アクションに加わり、アクション第2回展にデ・キリコやカッラの形而上絵画を参考にした「失題」を出品する。同年、三科造形美術協会結成に参加し、翌14年第1回三科展に「ペシミストの祝祭」(昭和48年復元)、第2回展に「ルンペンプロレタリアA」「同B」を出品。三科解散後は浅野孟府、矢部友衛らとグループ造型を結成する。昭和4年、日本プロレタリア美術家同盟(PP)結成とともに中央委員となり、同年の第2回プロレタリア美術大展覧会に「争議団の工場襲撃」を出品、同作は300号位の大画面で、ダイナミックな群像表現に成功したプロレタリア美術の一例とされる。同8年には小林多喜二のデスマスクを制作した。翌9年、PPの後身のJAPが解散し、以後は研究グループを結成し活動する。戦後は、同21年現実会を結成、また日本美術会の創設にも参加し、日本アンデパンダン展、平和美術展などに出品する。同37年全ソ美術家同盟の招きでソ連を訪問。翌38年日本橋・白木屋で回顧展を開催する。同43年、丸木位里らと創作画人協会を結成するが、同45年には退会し、以後は旧作の復元に同49年まで費した。漫画家白土三平(本名岡本登)は子息である。

山本正年

没年月日:1986/03/14

日展評議員の陶芸家山本正年は、3月14日午前0時58分、胃ガンのため千葉県鴨川市の亀田総合病院で死去した。享年73。大正元(1912)年9月20日北海道後志支庁に生まれる。本名同じ。昭和10年東京高等工芸学校工芸彫刻部を卒業、京都国立陶磁器試験場研究生となる。京都市立工業研究所、京都市立第二工業学校窯業科などに勤務しながら、昭和15年京都山科の辻晋六工房に入り作陶生活を始めた。23年千葉県安房郡富山町に築窯し、28年第9回日展に「花生」が初入選し、31年第12回日展で「花生踊」が特選を受賞する。32年第13回日展に「花器」を無鑑査出品し、33年第1回新日展に「パネル踊り」を委嘱出品。また、国際陶芸展、日本陶芸展にも第1回より招待出品したほか、日本の現代工芸の外国展にもしばしば出品した。71年文化使節として9ケ国を歴遊している。35年日展会員となり、また光風会や千葉県美術協会の理事、評議員などもつとめた。

石本秀雄

没年月日:1986/03/09

日展参与、佐賀大学名誉教授の洋画家石本秀雄は、3月9日心不全のため佐賀市の県立病院好生館で死去した。享年77。明治41(1908)年12月8日、長崎県西彼杵郡に生まれる。昭和3年長崎東山学院中学を卒業し東京美術学校師範科に入学、同5年一九三〇年協会第5回展に「我が家」他で入選、翌6年美校図画師範科を卒業した。同年、佐賀県立小城中学校に赴任し、以後教鞭をとる。同9年第2回東光会展に「冬の女」他を出品しK氏奨励賞を受賞、また第15回帝展に「校庭の春」で初入選した。同13年東光会会員、同18年からは佐賀師範学校で教え、同24年新制佐賀大学発足にともない教育学部教授となる。戦後は東光会展、日展に制作発表し、同26年第7回日展に「画家の家族」で特選、朝倉賞を受け、同35年には改組第4回日展に「対話」で菊華賞を受賞、同38年日展会員となった。この間、佐賀大学教育学部に特設美術科を開設することに尽力する。同43年には佐賀美術協会理事長に就任。同49年、佐賀大学を停年退官し名誉教授の称号を授与された。後年は男性的な力強い筆触による一連の風景画に独自の造形力を発揮し、「熔岩桜島」(昭和52年)、「桜島晩夏」(同58年)、「黒神雨後」(同59年)などの作品がある。佐賀新聞文化賞、西日本文化賞なども受賞した。

阪本文男

没年月日:1986/02/26

モダンアート協会会員の洋画家阪本文男は、2月26日午後零時5分、肺ガンのため川崎市の市立川崎病院で死去した。享年51。昭和10(1935)年2月14日、東京都港区に生まれる。19年に新潟県柏崎市に疎開し、同28年柏崎高校を卒業するまで居住。高校在学中絵画部に入り油絵を始め、同校で教鞭をとっていた国領經郎に学ぶ。29年東京芸術大学油画科に入学し、小磯良平教室に学んで33年卒業。34年第9回モダンアート協会展に「記号」で初入選。36年同会会友、38年会員となる。初期から抽象画を描いたが、この頃より人体の一部が幾何学的にモティーフの中に組みこまれる「ヘルマフロディトス」の連作を始め、42年国際青年美術家展に「ヘルマフロディトス-青い帯」を出品してストラレム優秀賞第一席を受賞。43年より安井賞展、現代日本美術展にも出品する。45年頃より水色を背景とし、紙のしわや乾いた花・果物、剥製の鳥などをモティーフとする独自の画風を展開。「アリスの遊び」「バラの座」などのシリーズを制作、発表する。58年、代表作となった「余白の系」を制作するが、59年に肺ガンで入院して以後入退院をくりかえしていた。枯れゆくものの中に存在の本質の顕在化を見出し、明快で乾いた幻想的作風を示した。没後の63年4月横浜市民ギャラリーで「阪本文男回顧展」が開催された。

山本丘人

没年月日:1986/02/10

日本画革新運動の旗手として知られ文化勲章受章者の日本画家山本丘人は、2月10日午後10時50分、急性心不全のため神奈川県平塚市の杏雲堂平塚病院で死去した。享年85。明治33(1900)年4月15日東京市下谷に生まれ、本名正義。父昇は東京音楽学校事務官だった。上野桜木町に育ち、大正4年東京府立第3中学校から東京府立工芸学校に転入する。7年第1回国画創作協会展を見て日本画を志し、8年卒業後、東京美術学校日本画科に入学。松岡映丘に師事して大和絵を学び、2年生より日本画科選科に移った。13年同科を卒業、映丘の木之華社に入り、新興大和絵運動に加わる。昭和2年第7回新興大和絵会展に「画人の像(松岡映丘)」が入選し、4年同第9回展で「五月雨」が新興大和絵賞を受賞。同会会友となった。この間、昭和3年第9回帝展に「公園の初夏」が初入選、以後帝展に入選を続け、11年の文展鑑査展で「海の微風」が選奨となる。また5年より丘人と号し、7年銀座資生堂ギャラリーで初の個展を開催。6年新興大和絵会の解散後、9年杉山寧ら映丘門下の同志と瑠爽画社を結成し、13年の解散まで展覧会を行なった。18年には川崎小虎を中心とする国土会の結成に参加する。19年奥村土牛とともに東京美術学校日本画科助教授となり、同年第4回野間美術賞を受賞。戦後22年には女子美術専門学校教授(26年まで)となった。また日展で審査員をつとめたが、23年上村松篁、吉岡堅二らとともに創造美術を結成、「世界性に立脚する日本絵画の創造」を目指す。24年第2回創造美術展出品作「草上の秋」により、翌25年第1回芸能選奨文部大臣賞を受賞した。26年創造美術が新制作派協会と合流して新制作協会日本画部となって以後は同会に出品し、さらに49年日本画部が同協会を離脱し創画会を結成して以後、同会に出品した。36年第25回新制作展「夕焼け山水」、38年第27回「異郷落日」、39年第28回「雲のある山河」などダイナミックで骨太な風景画から、次第に、45年第34回「狭霧野」、49年第1回創画展「流転之詩」、51年第2回春季創画展「残夢抄」など、再び大和絵的な優美な感性の作風へと移行した。また、未更会、五山会、椿会、遊星会などへの出品のほか、26年第1回サンパウロ・ビエンナーレ、27年第1回日本国際美術展、第26回ヴェネツィア・ビエンナーレなどの国際展にも出品。34年にはフランス、イタリア等を巡遊している。39年「異郷落日」により日本芸術院賞を受賞し、52年には文化勲章を受章した。32年ブリヂストン美術館、39年日本橋高島屋、47年渋谷東急で個展を開催、没後62年横浜そごう美術館で遺作展が行なわれた。

梅原龍三郎

没年月日:1986/01/16

昭和洋画の巨匠、文化勲章受章者の梅原龍三郎は、1月16日肺炎のため東京都新宿区の慶応病院で死去した。享年97。故安井曽太郎とともに昭和洋画界の双壁をなし、恵まれた資質が自ら成熟し豪華絢爛たる独自の芸術境を拓いた梅原は、明治21(1888)年3月9日、京都市下京区に、染呉服業を営む梅原長兵衛の子として生まれた。兄姉は七・八名いたというが多くは早世し、事実上次男、末子であった。はじめ龍三郎、のち良三郎と改め、26歳のとき再び龍三郎を名のった。同36年、京都府立第二中学校を三年で中退し、伊藤快彦の画塾鐘美会で洋画の手ほどきを受け、同年聖護院洋画研究所設立にともない鐘美会も併合されたため、同研究所、さらに同39年創設の関西美術院を通じ安井曽太郎らとともに浅井忠の指導を受ける。同41年田中喜作とともに渡欧し、パリのアカデミー・ジュリアンでバッセの教室に通うが、到着早々その作品に接し感動したルノワールを、翌年カーニュに訪れ以後師事した。同年、ルノワールに勧められブルターニュに赴き、同地で斉藤豊作、和田三造と交友、秋からはアカデミー・ランソンに通った。同44年ピカソを知りそのアトリエを訪問、また、プラド美術館でティツィアーノ作品の自由模写などを行う。翌45年から帰国直前にかけて盛んに制作した。大正2年、ルノワールの影響を示す初期の代表作「首飾り」を制作し帰国。同年、白樺社主催で梅原良三郎油絵展覽会をヴィーナス倶楽部で開催、滞欧作110点他を出品し画壇に大きな衝撃を与えた。翌3年二科会創立に会員として参加、また、新設された巽画会洋画部の審査員をつとめる。その後、一時画風を模索したが、同5年作の「ナルシス」あたりで独自の画風をつかんだ。同6年二科会を退会。同9年再渡欧し、サロン・ドートンヌのルノワール回顧展に接した。翌年帰国後鎌倉市に居住し、長与善郎、岸田劉生との親交をはじめる。同11年春陽会創立に会員として参加したが、同14年劉生の意見に同調し春陽会を脱会、翌年川島理一郎らと国画創作協会に入り第2部(洋画部門)を創設し、さらに昭和3年同協会第1部(日本画)解散にともない、国画会を結成し主宰するに至った。同8年、後藤真太郎が組織した清光会に安井らと会員として参加し、以後同展へも出品する。同10年、帝国美術院会員(12年帝国芸術院会員)となり、同19年には東京美術学校教授に就任、また、帝室技芸員に任じられた。この間、同8年から台湾、鹿児島、同14年に北京をはじめて訪れ、とくに北京へは同17年まで5回赴き、国画会展に「桜島(青)」(10回)、「竹窓裸婦」(13回)、「雲中天壇」(15回)、「北京秋天」(18回)など戦前の代表作を発表した。戦後は、同21年の第1回日展審査員をつとめたが、翌年から国画会の日展不参加を表明した。また、同26年には国画会名誉会員となって会の運営から離れた。翌27年安井とともに東京美術学校を退官、同年共に文化勲章を受章する。同年、第26回ヴェネツィア・ビエンナーレ展の国際審査員をつとめた。戦後間もなくから、富士と浅間を題材にとりくみ、琳派や南画の伝統を摂取した豊かな装飾性と自在なフォルムによる、生命感あふれる絢爛たる画風を展開、安井の写実主義との画風の対照を示しながら、安井・梅原時代を築きあげた。同31年第30回国画会展に久しぶりに出品し、絵具をチューブから絞り出し直接描く手法をみせ話題を呼んだ。同32年、前年作「富士山図」で第27回朝日文化賞を受賞。一方、同年日本芸術院会員を辞任した。日本国際美術展、現代日本美術展へもそれぞれ第1回から出品し、また、同27年以来しばしば渡欧し、ヴェニスやカンヌの景観を好んで描いた。同44年東京国立近代美術館へ自作「自画像」など14点を寄贈、同48年にはフランス政府からコマンドール勲章を授与され、翌年、ルノワール作品ほかの愛蔵品を国立西洋美術館などに寄贈した。同35年の画業50年記念回顧展をはじめ、多くの回顧企画展が開催され、画集も数多く刊行された。同59年、文集『天衣無縫』を出した。没後自筆の遺言状が明らかにされ、「葬式無用弔問固辞する事 梅原龍三郎 生者は死者の為に煩わさるべからず」とあった。この遺言に従い公的な葬儀、告別式は行われず、1月18日午後1時から東京都新宿区の自宅で冥福を祈る集いが行われた。また、遺作の管理、遺作展の開催などについては、故人の遺志により河北倫明に一任され、昭和63年3月初期から晩年までの作品187点による梅原龍三郎遺作展が東京国立近代美術館で開催された。

音部幸司

没年月日:1985/12/05

国画会会員の洋画家音部幸司は12月5日午前7時54分肺炎のため名古屋市瑞穂区の新生会第一病院で死去した。享年67。大正7(1918)年2月28日愛知県蒲郡市に生まれる。杉本健吉に師事し、昭和18(1943)年第18回国画会展に「春日」で初入選。以後同会に出品を続ける。戦後の同22年第21回同展に「椿と梅」「裏の道」「池畔雪景」を出品して国画奨学賞受賞。同24年同会会友、同28年同会員に推される。初期には風景画を多く描いたが、昭和30年代中頃から抽象画を国画会展に出品する。名古屋に住み、昭和26年中部美術展最高賞受賞、40年代中頃には中部国際形象展に出品。同26年より28年まで名古屋金城女子大学美術講師をつとめるなど美術教育にもたずさわった。

伊勢正義

没年月日:1985/11/18

新制作協会会員の洋画家伊勢正義は、11月18日腎不全のため東京都目黒区の東邦医大付属大橋病院で死去した。享年78。明治40(1907)年2月28日秋田県鹿角郡に生まれる。昭和6年東京美術学校西洋画科卒業。藤島武二に師事。同8年20回光風会展に「女性」他3点を出品しK夫人賞を受け、翌九年光風会会員となり、同年の15回帝展に「カルトン」が初入選する。同10年22回光風会展に「無花果のある静物」他2点を出品、最初の光風特賞を受賞した。同10年松田改組に伴う第二部会展に「集ひ」を出品し、特選、文化賞を受けたが、翌年同志と官展を離れ、同年猪熊弦一郎、佐藤敬らと新制作派協会を結成、第1回展に「バルコン」「キャバレー」を出品した。同12年日動画廊で初の個展を開催。その後新制作協会の主要メンバーとして同協会展に制作発表を行い、近年はアラブ、アフリカの生活を題材にした作品で知られていた。また、日本貝類学会会員、国際教育振興会理事でもあった。

浜田観

没年月日:1985/10/06

日本芸術院会員、日展顧問の日本画家浜田観は、10月6日午前1時半、肝臓ガンのため京都市右京区の花房病院で死去した。享年87。明治31(1898)年2月20日兵庫県姫路市に生まれ、本名仙太郎。神戸の画家大谷玉翠に絵の手ほどきを受けた後、大正8年頃大阪に移り、洋画も学ぶ。昭和4年金島桂華の紹介で竹内栖鳳に入門。また同8年京都市立絵画専門学校に入学し、16年同校研究科を修了する。この間、同8年第14回帝展に「八仙花」が初入選し、12年より新文展に出品。同12年栖鳳門下で葱青社を結成する。また15年春、紀元2600年奉祝日本画大展覧会(大阪毎日主催)で「南紀梅林」が大毎東日賞、秋の同展で蒼穹賞を受賞した。戦後第2回より日展に出品し、22年第3回日展「芥子」、24年第5回日展「蓮池」が特選となる。翌25年より依嘱出品、買上げとなった31年第12回日展「樹映」を経て、33年第1回新日展より評議員をつとめた。38年同第6回「朝」が文部大臣賞を受賞し、39年第7回出品作「彩池」により翌40年日本芸術院賞を受賞する。46年日展理事、48年同参与、55年参事に就任、その後同顧問となった。一貫して花鳥画の世界を追求し、幽遠な画境を拓いた。49年京都府美術工芸功労者、50年京都市文化功労者、59年日本芸術院会員となった。 出品歴:昭和8年第14回帝展「八仙花」、12年第1回新文展「初夏の花」、13年第2回「花芥子」、14年第3回「牡丹」、15年紀元2600年展「罌粟」、16年第4回「花菖蒲」、17年第5回「芥子」、18年第6回「紅蜀葵」、21年第2回日展「朝」、22年第3回「芥子」(特選)、23年第4回「牡丹」、24年第5回「蓮池」(特選)、25年第6回「白椿」(依嘱)、26年第7回「芥子」(依)、27年第8回「牡丹」(審査員)、28年第9回「黄蜀葵」(依)、29年第10回「牡丹」(依)、30年第11回「菖蒲」(依)、31年第12回「樹映」(審、買上げ)、33年第1回新日展「細雨」(審、評議員)、34年第2回「晨」(評)、35年第3回「朝」(評)、36年第4回「池」(審、評)、37年第5回「蓮池」(評)、38年第6回「朝」(文部大臣賞、評)、39年第7回「彩池」(評)、40年第8回「芙蓉」(評)、41年第9回「蓮池」(評)、42年第10回「双鯉」(評)、43年第11回「朝の庭」(評)、44年第1回改組日展「晨明」(評)、45年第2回「鯉」(評、審)、46年第3回「芥子」(理事)、47年第4回「古壷再び」(理)、48年第5回「午の花」(参与)、49年第6回「湖底」(参)、50年第7回「陽影」(参)、51年第8回「花菖蒲」(参)、52年第9回「鯉」(参)、53年第10回「清晨」(参)、54年第11回「鯉」(参)、55年第12回「花芥子」(参事)、56年第13回「湖底」(参)、57年第14回「初夏」(参)

春日部たすく

没年月日:1985/09/16

水彩連盟の創立会員春日部たすくは、9月16日東京都豊島区の要町病院で死去した。享年82。昭和初年以来一貫して水彩画を描いた春日部は、明治35(1903)年5月26日福島県会津若松市に生まれた。本名弼(たすく)。会津中学校卒業後、大正13年に上京、川端画学校洋画部に学ぶ。昭和3年日本水彩画会展に入選。翌4年10回帝展に水彩画「山湖」が初入選し、同年日本水彩画会会員となる。同5~8年の12~14回帝展に連続入選、同11年の文部省美術展に「早春」、同13年の2回新文展に「五月の高原」が入選するなど、官展における水彩画家として活躍した。同15年小堀進、荒谷直之介、小山良修、萩野康児ら7名と水彩連盟を結成、以後官展、日本水彩画会への出品を止め戦後も水彩連盟及び個展で制作発表を行った。水彩連盟委員の他、日本美術家連盟委員、日本山岳画協会会員、日本ガラス絵協会会員でもあった。水彩画壇を代表する作家の一人で、風景画を得意とし鮮かな色彩と情趣ある画情を持ち味とした。代表作に「回想の四季」「たそがれ」などがある。

鴨居玲

没年月日:1985/09/07

元二紀会委員の洋画家鴨居玲は9月7日午前4時半頃自宅で死去した。享年57。持病の狭心症によるものと見られる。孤独な人間を卓抜な描写力で描いた鴨居玲は、昭和3年2月3日長崎県平戸に生まれた。姉はデザイナーの鴨居羊子。新聞記者であった父の赴任に伴って、韓国京城で小学校卒業、金沢の旧制中学を経て、同地に疎開中であった宮本三郎に師事。同23年金沢美術工芸大学洋画科在学中に、第2回二紀会「青いリボン」で初入選し、翌年同大を卒業。同年第3回二紀会で褒賞を受け同会同人に推される。同29年第8回同展に「空気の層」「あるく」を出品して同人努力賞受賞。同34年渡仏。同36年パリのジュヌ・パントゥールに入選して帰国する。同40年ブラジルへ渡り、のち渡欧。翌41年イタリアより帰国。同43年二紀会会員に推挙される。翌44年「静止した刻」で第12回安井賞受賞、同年昭和会優秀賞受賞、翌年より52年までスペイン、フランスに滞在。この間の同48年第27回二紀展で文部大臣賞を受けるが、同56年会員でありながら長く出品していなかつた同会を退く。同59年在住地である兵庫県より兵庫県文化賞受賞。素描集『酔って候』を54年刊行し、『鴨居玲画集夢候 作品1947-1984』が60年7月に刊行されて間もなくの急逝であった。酔っぱらい、廃兵、流し、老婆など人生の悲哀を滲ませるモチーフを、褐色や暗い青緑色などの染み入るような色彩と洗練されたタッチで描き、長い滞欧中に培った確かな素描力にはスペインの画家ゴヤ、ベラスケスらの影響が指摘されていた。二紀展出品歴 第2回(昭和23年)「青いリボン」、4回「赤い裸婦」、5回「夜」「夜の風景」、6回「三人」「二人」、7回「不安」、8回「空気の層」「あるく」、9回(同30年)「順を待つ」、10回「時計」「コワレタ時計」、11回「喜劇日本(B)」「喜劇日本(C)」、12回「腕時計」「食事時」「夜の海」「昼寝」、13回「ひるね」「象使い」「月と魚」「鳥」、14~19回(同35~40年)出品せず、23回「サイコロ(A)」「サイコロ(B)」、24回(同45年)「ドアはノックされた(アンネの日記より)」、25~30回(同46~51年)出品せず、31回「ダイス(A)」「ダイス(B)」、32回「教会(A)」「教会(B)」、以後出品せず。

野崎利喜男

没年月日:1985/09/04

元一水会会員でフランスでも活躍した洋画家野崎利喜男は、9月4日午後3時42分、肺がんのため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年75。明治42(1909)年11月21日横浜市に生まれ、昭和4(1929)年本郷絵画研究所、二科技塾などで洋画を学ぶ。翌5年硲伊之助に師事。同12年フランスに渡り翌年より第二次世界大戦勃発によって同15年に帰国するまでアンリ・マチスに師事する。帰国の年第4回一水会展に初出品し、同22年同会会員に推される。同27年第14回同展に「朝食の後」「春雨」を出品して会員佳作賞(1賞)受賞。同33年同志数名と斑会を結成。同41年10月再び渡仏し、同年12月のニース南仏展でグランプリ金賞を受ける。翌42年一水会を退会。同年のカンヌ・ビエンナーレ国際美術展に「ロゾレンの家」を出品してグランプリ・カンヌ市賞を受賞する。同43年帰国し三越等で滞欧作展を開く。同51年第3回目の渡欧。同年のコート・ダジュール国際美術展に招待出品する。初期には師硲伊之助の影響を強く見せたが、渡仏後フォービスムに学んで明るい色彩を使うようになり、陽光の降り注ぐヨーロッパ風景を穏やかな筆致で描いた。代表作に受賞作のほか「卓上静物」「飛翔」などがある。 一水会出品略歴-第10回(昭和23年)「きび」「むくげ」、15回(同28年)「嵐」「吾が家族」、20回(同33年)「桜並木」、25回(同38年)「三宝寺の水蓮」

土岐国彦

没年月日:1985/09/02

二紀会参与の洋画家土岐国彦は、9月2日午後5時、肺炎のため兵庫県西宮市の熊野病院で死去した。享年78。明治40(1907)年1月13日福岡県小倉市に生まれる。小倉中学校卒業後、太平洋画会研究所に学んで昭和11(1936)年第23回二科展に「黄昏れ」で初入選。以後同展に出品を続けるが、同22年二紀会の創立に参加して同会同人となり二科会を退く。同37年渡欧しパリのアカデミー・グラン・ショーミエールに学びアメリカを経由して帰国。同47年第26回二紀展に「若草山」「斑鳩」を出品して菊花賞、同51年第30回二紀展に「東大寺」「三月堂」を出品して総理大臣賞を受賞する。同56年より二紀会参与をつとめる。風景を主に描き奈良などの古い鄙びた社寺や家を好んだ。柔かいオークル系の色調で歴史を思わせるモチーフを描きしみじみとした趣を画面に漂わせた。 二紀展出品略歴-第5回(昭和26年)「朝のバルコニー」「あぢさい」「静物」、10回(同31年)「杉の木」「森」、15回(同36年)「円形劇場」「壁の断片」「コロセウム」、20回(同41年)「村の中」「田園」、25回(同46年)「東大寺残照」「若草山と東大寺」、30回(同51年)「東大寺」「三月堂」、35回(同56年)「陽だまり」「土蔵と柿の木」

吉仲太造

没年月日:1985/07/26

前衛芸術家として常に実験的制作を行なってきた吉仲太造は、7月26日午前3時40分、食道静脈りゅう破裂と肝硬変のため東京目黒区の東邦大学医学部付属大橋病院で死去した。享年56。昭和3(1928)年11月8日京都市に生まれ、京都の行動美術研究所に学ぶ。同21年第1回行動展に出品。同26年同会会友に推され、同28年第8回展に「作品A」「作品B」「作品C」を出品して行動美術賞受賞。同29年瀧口修三の選考による初個展を開催。翌年岡本太郎の招きにより行動美術協会を退会して二科会会友となり九室会に参加する。同31年神奈川県立近代美術館「今日の新人」展に「白い物体」「いきものK」を出品。32年世界今日の美術展に「作品6」を出品する。同36年岡本太郎とともに二科会を退き、以後団体に属さずに独自の活動を展開。同36年国立近代美術館の「現代美術の実験」展、40年の「今日の作家」展(横浜市民ギャラリー)、「現代美術の動向」展(京都国立近代美術館)などに招待出品。同41年朝日秀作展に出品。同43年第8回現代日本美術展に「真昼のエロス」「昼間の改惨」を出品。同49年第11回日本国際美術展に「空白」を出品する。同50年横浜市民ギャラリーに於て「吉仲太造55-75」展を開催。晩年はモノトーンの表現の可能性をさぐり同56年個展「非色の逆説」を開催した。代表作に「生きものK」「生きものH」「地球人」「窮鼠」「カルナー」「死の売り声」「或る時空間」などがある。

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