本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





三輪晁勢

没年月日:1983/09/07

日本芸術院会員の日本画家三輪晁勢は、9月7日午前11時46分、下咽頭ガンのため京都市上京区の京都第二赤十字病院で死去した。享年82。明治34(1901)年4月30日新潟県三島郡に生まれ、本名信郎。田村宗立や小山正太郎に洋画を学んだ父大次郎の影響を受け、大正3年に与板尋常小学校を卒業した後京都に出て絵を学ぶ。同10年京都市立美術工芸学校絵画科を卒業後、京都市立絵画専門学校に入学し、同校に在学していた堂本印象に師事した。同13年同校卒業、超世と号し、昭和2年第8回帝展に「東山」で初入選する。同6年第12回帝展「春丘」は特選を受賞、翌年号を晁勢と改め、同9年第15回帝展で「舟造る砂丘」が再度特選となる。師印象の画塾東丘社の中心的存在として、同13年以来の東丘展にも出品する。同14年華中鉄道の招聘により中支、南京、杭州などを視察し、同年師に随伴して朝鮮慶州の石窟や楽浪なども回る。同17年には海軍報道班員としてフィリピン、ジャワなど南方諸島を巡り「キャビテ軍港攻撃」などの戦争記録画を制作した。戦後、京都市展、関西総合美術展、日展などでたびたび審査員をつとめ、同35年日展評議員となる。この間、同34年に京都市文化使節として3ケ月間欧米11ケ国を訪問、単身メキシコにも足をのばし、また同41年には佐和隆研らと共にインドの仏蹟を視察、45年にもオーストラリア、ニュージーランド等を巡る。同36年第4回日展出品作「朱柱」により翌37年第18回日本芸術院賞を受賞、同44年日展理事、同52年参与、同55年顧問となり、また同49年京都市文化功労者、同50年郷里の新潟県与板町の名誉町民推賞、同54年には日本芸術院会員となり勲四等旭日小綬章を受章した。また堂本画塾の東丘社を引継ぎ主宰し、小説の挿絵や舞台装置、壁画なども手がけた。風景、花鳥と幅広い画題を扱い、華やかな色彩による装飾的な画風をよくし、代表作に上記のほか「有明」(1947年)「木屋町」(1956年)「高原初秋」(1968年)「杉」(1974年)「朝の雪」(1975年)「開花鳥語」(1979年大津市西教寺壁画)などがある。同56年銀座松屋ほかで三輪晁展開催。略年譜1901 新潟県三島郡与板町に、父三輪大次郎、母頊の長男として生れる。父は翁山と称する洋画家であった。1915 京都市立美術工芸学校予科入学。1917 京都市立美術工芸学校絵画科入学。1921 京都市立美術工芸学校卒業。京都市立絵画専門学校入学。堂本印象に師事する。1923 日本美術展覧会に「静物」出品。1924 京都市立絵画専門学校卒業。超世と号する。1927 第8回帝展に「東山」初入選。1928 堂本ミツと結婚する。1931 第12回帝展に「春丘」出品、特選となる。1932 第13回帝展に「祖谷の深秋」出品。雅号を晁勢と改める。1934 第15回帝展に「舟造る砂丘」出品、特選となる。大阪高島屋で個展開催。長男晁久誕生。1936 文展に「林檎実る」出品。大阪時事新報に掲載の中山慶一作「節から出る芽」のさし絵を担当する。二女桃子誕生。1937 梅軒画廊及び大阪大丸で個展開催。新文展に「海女」出品。1939 伊東深水、上村松篁、池田遥邨らとの南京、蘇州、鎮江、抗州を視察する。師印象と伴に朝鮮の慶州、平壌を視察する。週刊朝日掲載の土師清二作「恋の象限儀」のさし絵を担当する。1940 東京三越で個展開催。1941 天理事報に掲載の松村梢風作「大和の神楽歌」のさし絵を担当する。三女桂子誕生。1942 海軍報道班員としてフィリピン、セレベス、ジャワ、スマトラ、シンガポール、仏印を視察する。大阪、京都大丸で個展開催。週刊朝日掲載の沢写久孝作「皇国頌詞」のさし絵を担当する。長谷川伸作「米艦の日本士官」のさし絵を担当する。1944 戦時特別文展に「竜田の神風」出品。1946 京都新聞に掲載の舟橋聖一作「田之助紅」のさし絵を担当する。1947 第3回日展に「有明け」出品。読物時代に掲載の吉井勇作「京洛春講」のさし絵を担当する。1949 第5回日展に「ひまわり」を招待出品。名古屋松坂屋、京都ギャラリーで素描展を開催。1950 第6回日展に「白樺の森にて」を招待出品。1951 東京丸善、京都府ギャラリーで個展開催。第7回日展に「月光の道」出品。審査員に任命される。京都新聞連載の土師清二作「利久手まり」のさし絵を担当する。1952 第8回日展に「瑠璃溪」を招待出品。1953 東京丸善、京都大丸で個展を開催。第9回日展に「岩壁」を招待出品。サンデー毎日に掲載の海音寺潮五郎作「田舎みやげ」のさし絵を担当する。同じくサンデー毎日に掲載の白井喬二作「黒田姫」のさし絵を担当する。1954 第10回日展に「家」出品。1955 第11回日展に「丘の家」出品。毎日新聞に掲載の「日本のコント」のさし絵を担当する。サンデー毎日に掲載の立野信之作明治大帝」のさし絵を担当する。1957 第13回日展に「桂・松琴亭」出品。東京高島屋で個展開催。1958 社団法人第1回日展に「古庫」出品。大阪高島屋で個展開催。1959 5月から3ケ月間、京都市文化使節として、高山市長、千宗室と共に欧米11ケ国を訪問する。第2回日展に「古橋」出品。1960 第3回日展に「土」出品。東京白木屋、京都大丸で個展開催。1961 第4回日展に「朱柱」を出品。1962 「朱柱」(日展出品作)により第18回日本芸術院賞を受賞。第5回日展に「緑窓」出品。1963 第6回日展に「トキ」出品。1964 第7回日展に「白涛」出品。大阪大丸で個展開催。1965 第8回日展に「山湖」出品。1966 佐和隆研を団長に数名と伴に印度各地を視察旅行。1967 第10回日展に「白い道」出品。1968 第11回日展に「高原初秋」出品。外務省買上げとなる。1969 日展理事に任命される。第1回改組日展に「仲秋」出品。1970 オーストラリア、ニュージーランド、フィジー、タヒチ等を旅行する。第2回日展に「仏法僧」出品。1971 第二期日展理事に任命される。第3回日展に「游」出品。1972 第4回日展に「マンゴーの女」出品。1973 新潟総合テレビ文化賞を受賞する。第5回日展に「水のほとり」出品。1974 日展理事に再任される。第6回日展に「チチの実」出品。京都市文化功労者の表彰を受ける。1975 生地、新潟県三鳥郡与板町の名誉町民第一号に推せんされる。第7回日展に「静かなるたに」出品。日展常任理事になる。1977 第9回日展に「朱いトキ」出品。京都府美術工芸功労者の表彰を受ける。1978 第10回日展に「紫陽花咲く」出品。1979 日本芸術院会員に推せんされる。勲四等旭日小綬章を受ける。第11回日展に「くるみの雨」出品。1980 日展顧問になる。第12回日展に「菖蒲」出品。1981 銀座松屋、大阪大丸、京都大丸で回顧展「華麗なる色彩の世界、三輪晁勢展」を開催する。(特集「三輪晁勢の芸術」三彩403より)

松田忠一

没年月日:1983/07/31

一水会常任委員の洋画家松田忠一は、7月31日午前4時45分、脳出血のため大阪市の自宅で死去した。享年89。明治27(1894)年4月19日、島根県出雲市に生まれ、大正7年東京美術学校図画師範科を卒業する。同14年より2年間フランスに留学、昭和6年にもフランスに渡り1年間滞在。翌7年帰国して「騎士と二人の女」「馬と女」を第19回二科展に出品し初入選する。翌年から石仏や仏像を描いた作品を同第23回展まで出品。同11年に有島生馬、石井柏亭らによって創立された一水会に第1回展から出品し、同22年同会会員となる。同29年同第16回展に「阿修羅」「伎芸天」を出品して会員優賞を受賞し、同35年同会委員となり、同55年まで出品を続けている。日展にも出品しており、同29年第10回展では「阿修羅」で特選。同31年第12回展では「三月堂内陣」で岡田賞を受け、翌年より無鑑査、同41年には審査員をつとめた。一貫して京都、奈良の古仏をモチーフとし、背景に神像や飛天を描きこんで仏世界を表わしている。水墨画、書もかき、大湖とも号した。

山口長男

没年月日:1983/04/27

わが国抽象絵画の開拓者の一人である洋画家、武蔵野美術学園長の山口長男は、4月27日脳こうそくのため東京小平市の昭和病院で死去した。享年80。戦前から非具象的表現を行い、戦後も一貫して独自の抽象表現を展開した山口は、明治35(1902)年11月23日現在の韓国ソウル市に生まれた。父太平衛は鹿児島県出身である。中学時代から絵画に親しみ、大正10年上京後本郷洋画研究所へ通い、翌11年には川端画学校にも通学し、同年東京美術学校西洋画科に入学する。美校では3年から和田英作の教室に学んだ。昭和2年同校を卒業、同期生である猪熊弦一郎、牛島憲之、岡田謙三、荻須高徳らと上杜会を結成する。また、同年帰国中の佐伯祐三を訪ね、9月に荻須とともに渡仏。パリでの最初の一年間は佐伯の制作態度に大きな刺激を受け、同3年から5年までの間はしばしば彫刻家ザッキンのアトリエへ通い、その影響を示した立体派風の作品「室内」「二人像」(昭和5)等を制作する。同6年1月帰国し、同年の第18回二科展に「二人像」「彫像」が入選。同8年、第20回展を期に前衛的な作品が集められた二科展第九室に「卓上A」「卓上B」が陳列される。この頃までに独自の抽象表現に達しており、同11年の第22回二科展出品作「態」「臥」で特待。同13年二科会会友に推挙され、同年、吉原治良、桂ユキ子らと九室会を結成し翌年第1回展を開催する。戦後は同20年に再建された二科会の会員となり、同37年まで出品する。同29年第1回現代日本美術展に「作品(かたち)」を出品し安井曽太郎とともに優秀賞を受賞、その後も現代展及び日本国際美術展に出品を続け、戦後の抽象絵画開花期に強い発言力を持つに至った。また、同28年に村井正誠らと日本アブストラクト・アート・クラブを結成、翌年同会員として第18回アメリカ抽象美術展に出品したのをはじめ、サンパウロ、ヴェネツィアの両ビエンナーレ展、グッゲンハイム賞美術展などの国際展のほとんどに出品し、海外からも高く評価された。同37年には、昭和36年度芸術選奨文部大臣賞を受ける。この間、同29年から武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)教授となり同49年までつとめた。限られた色しか用いず形を厳しく追求した山口独自の抽象表現は、戦後の同28年頃から黒の地色に黄土、赤茶色一色のみで象形文字風の形を描き始めることから出発し、ついで同30-32年にかけては垂直、水平によるかたちの組合せ(「構成」同30年)の時期を経て、同33年からは格子状のかたちがより広い色面の矩形のかたちの組合せに発展(「形の組合せ」同33年)し、次第にこのかたちが黒地のなかに大きくなり「象」(同36年)のような作品へとの展開を見せた。さらに同45年以後は、黄土色や赤茶色のかたちは画面の枠を越えた広がりを見せ、「紋」(同47年)などの作品を生んだ。同55年には、東京国立近代美術館で「山口長男・堀内正和展」が開催された。略年譜1902年 11月23日、京城府に山口太平衛の長男として生れる。父太平衛は鹿児島県川内平佐の出身。1915年 3月、京城公立日出尋常小学校を卒業する。4月、京城中学校に入学する。秋、有島武、生馬父子、京城に立寄る。有島武と父太平衛とは同郷の出で、昵懇の間柄であった。1918年 このころ、3歳年上の中村昇のスケッチ・ハイキングに同行し、水彩画を試みる。1919年 母かめ没。1921年 4月、上京し、本郷春木町の親戚が経営する下宿から本郷洋画研究所に通う。ここで横手貞美、大橋了介と知り合う。1922年 1月、東京美術学校へ入る準備のため、川端画学校にも通う。4月、東京美術学校西洋画科に入学する。1年のときは長原孝太郎による石膏デッサン、2年で小林万吾による人体デッサンの指導を受け、3年から和田英作の教室に入った。1923年 信濃町の親戚宅に移る。夏、京城に帰省して夏期休暇を過す。秋、笹塚に下宿を変える。「風景(笹塚付近)」はこのころの作品。1924年 夏ころ、池袋の姉の家に移る。1925年 7月、同級と朝日連峰を歩き、続いて中西利雄らの後を追って南アルプスに行き、甲斐駒ケ岳、仙丈岳などに登る。1926年 9月、第13回二科展に特別陳列された佐伯祐三の第一次渡仏作19点を見て感動する。1927年 3月、東京美術学校西洋画科卒業。同期生に、猪熊弦一郎、牛島憲之、岡田謙三、荻須高徳、小磯良平らがおり、彼らと上杜会を結成する。4月以降7月以前、荻須高徳と佐伯祐三を下落合のアトリエに訪ねる。9月20日、同行の荻須高徳とともに横浜からアトス2号に上船する。偶然、横手貞美と同室になり、また神戸から大橋了介が乗り込んでくる。11月初旬、パリ着。数日後ブールヴァール・デュ・モンパルナスのアトリエに佐伯祐三を訪ねる。この月、おそらく27日に藤田嗣治の誕生日のパーティに招かれる。1928年 2月、佐伯祐三、荻須高徳、横手貞美、大橋了介と、ヴィリエ・シュル・モランとサンジェルマン・シュル・モランに写生旅行をする。春、パリ市の西南の外れにあるポルト・サンクルーに移る。6月23日、佐伯祐三がパリ郊外のセーヌ県立エブラール精神病院に入院する。佐伯入院後、その看護の疲労で発熱して10日間静養し、離床後、椎名其二に案内され、中仏ドルドーニュに旅行する。ローマ時代の遺跡や洞窟内の動物壁画や線彫を見る。8月16日、佐伯祐三没。この頃、先輩の西村叡の紹介で彫刻家のオシップ・ザッキンと知り合い、その後帰国のためパリを離れるまで、ほとんど毎週のように土曜日の午後の面会日にザッキンのアトリエに通う。秋、椎名其二夫人の紹介で、横手貞美、大橋了介の三人でヴェトイユの空別荘を1年契約で借りる。石彫を試みたのは、ヴェトイユにおいてである。1930年 11月末、一時帰国のつもりで、フランスを発つ。1931年 1月、横浜に着いた後、20日程を東京の姉の家で過し京城に帰る。油絵20点。石彫6、7点を持ち帰る。3月22日、横手貞美が病没。5月、横手貞美の霊を弔うため長崎に行き、遺作展の作品選定を手伝い、また『故横手貞美滞欧遺作集』(山口長男撰、横手貞護・横手貞致編)に「横手君を想ひて」を寄稿する。9月、有島生馬に口添えを依頼して作品10点を送り、そのうち「二人像」と「彫像」が第18回二科展に入選。1932年 9月、第19回二科展に「風景」を出品する。1933年 9月、第20回二科展に「卓上A」「卓上B」を出品し、この年から前衛的な作品が集められた第9室に陳列される。1934年 9月、第21回二科展に「庭」「卓」を出品、第9室に陳列される。12月10日、父太平衛没1935年 9月、第22回二科展に「池」を出品し、第9室に陳列される。この年、在朝鮮の二科展出品者の展覧会のために京城に来た東郷青児と初めて会う。東郷青児は山口家の2階に1カ月滞在する。1936年 9月、第23回二科展に「熊」「臥」を出品し、特待となる。この時上京して初めて二科展を見る。1937年 5月、第10回上杜会展(東京府美術館)に「庭」を出品。9月、第24回二科展に「三人」「群」「杜」を出品。12月、山本発次郎氏所蔵佐伯祐三遺作展に際して、『美之図』第13巻第4号に「追懐」を寄稿。1938年 9月、第25回二科展に「象A」「象D」「象E」を出品し、会友に推挙される。10月5日、峰岸義一、吉原治良、山本敬輔、広幡憲、高橋迪章、桂ユキ子とともに発起人となり、東郷青児、藤田嗣治を顧問として九室会を結成し、その創立総会を新宿中村屋で開く。1939年 5月、九室会第1回展(日本橋・白木屋)に「作品A」「作品B」を出品する。また『九室』第1号に「感想」を寄稿する。9月、第26回二科展に「作品A」「作品B」を出品。9月20日から24日まで、油絵15点による山口長男近作展を銀座の青樹社で開く。1940年 3月、九室会第2回展(銀座・三越)に「作品1」「作品2」を出品。同月、上杜会第13回展(東京府美術館)に「作品」を出品。8月、第27回二科展に「白い円」「緑の環」を出品。10月、紀元二千六百年奉祝美術展覧会(前期)に「双輪」を出品。1941年 戦時情勢が緊迫してきたため、京城から作品を送るのが困難となり、二科展出品を中止する。1942年 札幌市出身の野村きよと結婚する。1945年 6月30日、召集され、第20師団79連隊に配属され、1カ月程訓練を受けて釜山西方の漁村三千浦に配備され砲座を築く作業に従ううち終戦を迎える。10月、二科会再結成され、新会員に挙げられる。1946年 1月8日、妻子をつれ京城を発ち日本に引き上げる。1カ月余り熊本市呉服町の親戚に仮寓した後、2月末上京して姉婿の港区芝車町75の丹宗敬陽方に落着く。この年から3年間二科会の事務を担当する。9月、第31回二科展に「線A」「線B」「線C」を出品。1947年 6月、第1回美術団体連合展(毎日新聞社主催、東京都美術館)に「象(A)」「象(B)」を出品。9月、第32回二科展に「A」「B」「C」「D」を出品し第1回会員努力賞を岡田謙三とともに受賞。同月、日本アヴァンギャルド美術家クラブが創設され、入会する。11月、「岡田謙三の作品を観る」を『みづゑ』第505号に寄稿。1948年 5月、第2回美術団体連合展に「空A」「空B」を出品。9月、第33回二科展に「作品A」「作品B」を出品。1949年 4月、二科春季展(日本橋・三越)に「楕円」を出品。5月、第3回美術団体連合展に「双ツ」を出品。9月、第34回二科展に「三ツノ円A」「三ツノ円B」を出品。この年、杉並区上高井戸1-186の知人の家に移る。1950年 4月、「想うこと」を『アトリエ』第279号に寄稿。5月、第4回美術団体連合展に「象(かたち)」を出品。9月、第35回二科展に「A」「B」を出品。1951年 5月、第5回美術団体連合展に「作品」を出品。1952年 3月、二科春季展に「作品」を出品。9月、第37回二科展に「作品」「作品」を出品。12月、国立近代美術館が開館し、その第1回展覧会「日本における近代絵画の回顧と展望」に「かたち」(1950年)を出品。この年から合板(ベニヤ板)を使い始める。1953年 5月、春季二科展に「作品A」「作品B」を出品。6月、恩地孝四郎、村井正誠、吉原治良、滝口修造らと日本アブストラクト・アート・クラブを創設する。9月、第38回二科展に「作品A」「作品B」を出品。12月、国立近代美術館の「抽象と幻想」展に「象(かたち)」を出品。この年暮に北多摩郡小平町大沼新田343藤岡別荘内(現、小平市美園町343)へ移る。1954年 3月、ニューヨークでの第18回アメリカ抽象美術展(Riverside Museum,New York)に日本アブストラクト・アート・クラブの会員として出品。4月1日、武蔵野美術学校教授となる。同月、春季二科展に「作品A」「作品B」を出品。5月、第1回現代日本美術展(毎日新聞社主催、東京都美術館)に「作品(かたち)」「作品(かたち)」を出品し、安井曾太郎とともに優秀賞を受賞する。9月、第39回二科展に「五つの線」「二つの形」「二つの組合せ」を出品。1955年 1月、「プリミティーフから近代造形へ」を『美術手帖』第90号に寄稿する。同月、1954年度選抜第6回秀作美術展(朝日新聞社主催、日本橋・三越)に「作品(かたち)」を出品。2月、国立近代美術館の「19人の作家-戦後の絵画、彫刻-」展に「かたち」(1949年)「かたち」(1951年)「二つ」(1953年)「作品A」(1954年)「かたち」(1954年)を出品。また第3回サンパウロ・ビエンナーレ展(7月開催)の日本の代表作家の一人に選ばれ、上記展覧会と併催された「サンパウロ・ビエンナーレ展出品作品展示」に「二つの組合せ」(1954年)「構成」(1955年以下同じ)「五つの線」「赤い線」「黄色いかたち」を出品。2月19日、国立近代美術館の土曜講演で「絵についての私の考え」と題して講演。4月、国立近代美術館の日米抽象美術展に「構成A」「構成B」を出品。5月、第3回日本国際美術展(毎日新聞社主催、東京都美術館)に「構成(赤)」「構成(黄)」を出品。9月、第40回二科展に「黄色い組立」「四角い構成」を出品。1956年 3月、第28回ヴェネツィア・ビエンナーレ展(6月開催)の出品作家に選ばれ、国立近代美術館での国内展示に「作品B」(1954年、以下同じ)「二つの組合せ」「かたち」「かたち」「二つのかたち」を出品。5月、第2回現代日本美術展に「平易な四角」「歪んだ四角」を出品。9月、第41回二科展に「囲繞」「散開」「曲折」「象形」を出品。11月、世界・今日の美術展(朝日新聞社主催、日本橋・高島屋)に「作品」「(組立て)」を出品。1957年 5月、第4回日本国際美術展に「抽象」を出品。9月、第42回二科展に「赤い角」「黄色い角」を出品。1958年 1月、1957年度選抜第9回秀作美術展に「黄色い角」を出品。1月、ヨーロッパ巡回日本現代絵画展(外務省、国立近代美術館、毎日新聞社主催)の出品作家に選ばれ、日本橋高島屋での国内展示に「丸と線」(「B(組形)」1957年)を出品。5月、第3回現代日本美術展に「作品赤」「作品黄」を出品。なおこのときグラン・プリ作家(山口長男、安井曾太郎、脇田和、岡鹿之助、福沢一郎)の特別陳列が行われ、「かたち」(1948年)「かたち」(1949年)「かたち」(1950年)「かたち」(1954年、受賞作)「五つの線」(1954年)「交錯」(1954年)「丸と四角」(1955年)「歪んだ四角」(1956年)「黄色いかたち」(1957年)「丸と四角」(1957年)を出品。6月、第2回グッゲンハイム賞美術展(ニューヨーク・グッゲンハイム美術館)に「作品・黄」を出品。同月、国立近代美術館の「抽象絵画の展開」展に「池」(1936年)「庭A」(1936年)を出品。9月、第43回二科展に「形の組合せ」「二つの枡目」「二つの交又」「立形」を出品し、会員努力賞を受賞。同月、オーストラリア、ニュージーランド巡回日本現代美術展(外務省、国立近代美術館、毎日新聞社主催)の出品作家に選ばれ、国立近代美術館での国内展示に「丸と線」(「B(組形)」1957年)を出品。1959年 1月、国立近代美術館の「戦後の秀作」展に「かたち」(1953年)を出品。5月、世界の中の抽象イタリア・日本美術展(朝日新聞社主催、日本橋・白木屋)に「双つの山」を出品。同月、第5回日本国際美術展に「四角い目」を出品。6月、「色いろの告白私は何故茶色を使うか」を『芸術新潮』第10巻第6号に寄稿。9月、第44回二科展に「堰形」「門形」「衝立」を出品。1960年 1月、1959年度選抜第11回秀作美術展に「四角い目」を出品。5月、第4回現代日本美術展に「凝形」「展形」を出品。9月、第45回二科展に「丘形」「地形」「野形」を出品。1961年 1月、1960年度選抜第12回秀作美術展に「展形」を出品。5月、第6回日本国際美術展に「象」を出品。9月、第46回二科展に「遠心」「翔態」を出品。12月、戦後初めての個展を南画廊で開き、「転」「座」「置」「立」「重」「層」「構」「匍」などを出品。1962年 1月、1961年度選抜第13回秀作美術展に「遠心」を出品。2月、国立近代美術館の「近代日本美術代表作品シリーズ4現代絵画の展望」(会場、日本橋・三越)に「転」(1961年)を出品。4月、昭和36年度芸術選奨文部大臣賞を受賞。5月、第5回現代日本美術展に「幅」「量」を出品。6月、国立近代美術館の「近代日本の造形-油絵と彫刻」展に「転」(1961年)を出品。8月、唐津市役所のため陶板壁画「遊」を制作し、それを玄関ホールに飾る新庁舎が落成する。9月、第47回二科展に「坦」「扉」を出品。10月、1回日本アブストラクト・アート展(兜屋画廊)に出品。同月、第1回サイゴン国際美術展に2点出品。1963年 1月、1962年度選抜第14回秀作美術展に「置」を出品。3月、第7回サンパウロ・ビエンナーレ展(9月に開催)の出品作家に選ばれ、ブリヂストン美術館での国内展示会に「拡がった形」「幅」(1962年)「扉」(1962年)「方」(1963年以下同じ)「拡」「累」「充」「溢」「影」「浮」「聳」「伏」を出品。同月、ニューヨーク日本橋画廊で個展を開く。4月、国立近代美術館京都分館の「現代絵画の動向」展に「転」(1961年)を出品。5月、第7回日本国際美術展に『屏形」を出品。6月5日、「私のかたち」を読売新聞夕刊に寄稿。9月、この年から二科展出品を中止し、後に二科会から退会する。12月、神奈川県立近代美術館の「昭和初期洋画展」に「人」(1930年)「室内(B)」(1932年)「庭(A)」(1936年)を出品。1964年 1月、第15回記念選抜秀作美術展に「作品(かたち)」(1954年)を出品。5月、第6回現代日本美術展に「漠」「築」を出品。10月、国立近代美術館の「オリンピック東京大会芸術展示近代日本の名作」に「象」(1961年)を出品。1965年 2月、チューリッヒ市立美術館における「現代日本の絵画」展に「作品(かたち)」(1954年)を出品。4月、ニューヨーク近代美術館のウィリアム・リーバーマンとドロシー・ミラーが組織した「新しい日本の絵画と彫刻(The New Japanese Painting and Sculpture)」展に「遠心」(1962年)を出品。5月、第8回日本国際美術展に「連」を出品。7月、国立近代美術館の「近代日本の油絵-所蔵作品による」展に「象」(1961年)を出品。9月、国立近代美術館京都分館の「前衛絵画の先駆者たち」展に「二人像」(1930年)「人」(1930年)「庭」(1936年)「池」(1936年)「空」(1939年)を出品。11月、個展を南画廊に開き、「劃」「割」「聚」「寄」などを出品。1966年 5月、第7回現代日本美術展に「帳」「翼」を出品。6月、神奈川県立近代美術館15周年記念の「近代日本洋画の150年展」に「庭」(1936年)「平面」(1958年)を出品。1967年 5月、第9回日本国際美術展に「対」を出品。12月、「彫刻の詩人…オシップ・ザッキンのこと」を『三彩』第223号に寄稿。1968年 1月、東京国立近代美術館の「近代日本の油絵」展に「転」(1961年)、「象」(1961年)を出品。5月、第8回現代日本美術展に「劃(黄)」「劃(赤)」を出品。6月、瀬戸慶久の訪問を受けて「私の思うこと」を語り、これが武蔵野美術大学発行の『武蔵野美術』第66号に掲載される。7月、武蔵野美術大学美術資料図書館で「山口長男教授作品展」が開かれ、「人」(1930年)「二人像」(1930年)「室内(B)」(1932年)「庭(A)」(1936年)「池」(1936年)「5つの塊」(1940年)「かたち」(1954年)「赤い線」(1955年)「散開」(1956年)「堰形」(1959年)「丘形」(1960年)「立」(1961年)「浮」(1963年)「複」(1965年、以下同じ)「互」「垂」「景」「方」の油絵18点と墨の素描11点、陶磁の絵付6点を出品。9月、東京国立近代美術館の「東西美術交流展」に「転」(1961年)を出品。同月、立正佼成会団参会館地階ロビーのタイルの壁画制作を依頼される。同会館は翌年9月に竣工する。10月、日動画廊発行の『繪』第56号に佐伯祐三についての「追憶」を寄稿。12月、個展を南画廊で開き、「弧」(面-四角)「垂(赤)」「長方形-横」「竝」「軌」「紋形」「脈」などを出品。1969年 2月、「あしあと」を『芸術新潮』第230号に寄稿。5月、第9回現代日本美術展の「現代美術20年の代表作」に「かたち」(1954年)を出品。1970年 3月、大阪万国博美術展に「脈」(1968年)を出品。6月、個展を鹿児島市の山形屋で開く。同月、「佐伯と四人の画学生」を『芸術新潮』第246号に寄稿。7月、麻生三郎・大沢昌助・山口長男展(ギャラリーセゾン)。1971年 4月、東京国立近代美術館の「近代日本美術における1930年」に「二人像」「作品」を出品。同月、神奈川県立近代美術館の「戦後美術のクロニクル展」に「平面」(1958年)を出品。5月、第10回現代日本美術展の「抽象-構造としての自然」の部に「黒」「黄」「赤」を出品。9月、兵庫県立近代美術館での「開館1周年記念・毎日新聞創刊100年記念今日の100人展」に「座」(1961年)を出品。1972年 3月、ミラノでの「日本の現代美術(Arte Contemporanea del Giappone 1972)」展に「軌」(1968年)を出品。12月、個展を南画廊で開き、「紋」「黄」「赤」「漠」「画」「覆」「開」などを出品。1973年 2月、乾由明との対談「ディアローグ」が『みづゑ』第816号に掲載される。3月、麻生三郎・大沢昌助・柳原義達・山口長男四人展(ギャラリーセゾン)。5月、現代日本美術展-現代美術20年の展望(毎日新聞社主催、東京都美術館)に「黄色い組立」(1955年)と「垂」(1965年)を出品。この年、シドニーのニュー・サウス・ウエールズ美術館(Art Gallery of New South Wales,Sydney)での「表面の美術-現代日本美術の展望(The Art of Surface-A Survey of Contemporary Japanese Art)」に出品。1974年 3月、武蔵野美術大学教授を定年退職する。5月、デュッセルドルフ市立美術館(Stadtische Kunsthalle,Dusseldorf)での「日本 伝統と現代(Japan Tradition und Gegenwart)」に「分」(1966年)「弧」(1968年)「和」(1972年)を出品。同月、麻生三郎・大沢昌助・柳原義達・山口長男展(ギャラリーセゾン)。9月、デンマークのルイジアナ美術館(Louisiana Museet,Humlebaek)でのJapan pa Louisianaに「置」(1961年)「方」(1965年)「垂」(1965年)「分」(1966年)「弧」(1968年)「軌」(1968年)「和」(1972年)を出品。同月、山口長男、津高和一二人展(大阪、ギャラリー本田)。10月、『美術ジャーナル』復刊24号の座談会「絵画に於ける新しさ 画家はそれをどう考えるべきか」に、津高和一、乾由明、本田泰士、村田好夫とともに出席する。11月、スエーデンのエーテボリ美術館(Goteborgs Konstmuseum med Konsthallen)のJapan i Bildに「置」「方」「分」「弧」「軌」「和」を出品。この展覧会は翌年1月から3月までHenie-Onstad Kunstsenterでも開催される。1975年 6月、麻生三郎・大沢昌助・柳原義達・山口長男四人展(ギャラリーセゾン)。10月兵庫県立近代美術館の「開館5周年記念近代100年名画展」に「置」(1961年)を出品。11月、個展を南画廊で開き、「合」「宇」「疏」「注」「座」「撤」「偏」「塁」「接」「遮」「文」「明」「示」「侍」「伴」「軌」の16点を出品。12月、「楽しい個展」(大阪ギャラリー芦屋)に陶板画、小品の油彩、水彩、スケッチを出品。1976年 4月、個展を大阪のカサハラ画廊で開く。5月、東京都美術館の「戦前の前衛展」に「庭・B」(1934年)「White Painting」(1940年)「二人像」(1930年)を出品。6月、上杜会五十周年展(日動サロン)に「過」「貌」を出品。また同展覧会図録に「上杜会を省みる」を寄稿。1977年 2月、岡山県総合文化会館の「第15回名作展-日本の抽象絵画-」に「景」(1965年)を出品。5月11日、「作家のことば(ものに学ぶ)」を『新美術新聞』に寄稿。6月、東京セントラル美術館の「現代美術のパイオニア展」に「庭A」を出品。10月、「あれこれの想い出」を『芸術新潮』第334号に寄稿。同月、栃木県立美術館の「日本の現代美術展-国内美術と国際美術と-」に「赤」(1971年)「宇」(1975年)を出品。1978年 8月、「佐伯さんと私たち」を東京国立近代美術館ニュース『現代の眼』第285号に寄稿。10月、個展をスズカワ画廊で開く。11月、「楽しい個展」(ギャラリー芦屋)。1979年 5月、第1回非具象の世界展(佐谷画廊)に出品。同月、個展を盛岡市のMORIOKA 第一画廊で開き、「丸と線」(1957年)「置」(1961年)「寄」(1965年)「方」(1965年)「分」(1966年)「軌」(1968年)「竝」(1968年)「和」(1972年)「地」(1973年)「点」(1974年)「宇」(1975年、以下同じ)「注」「匍」「文」「遮」「過」「明」「偏」の18点を出品。6月、個展を世田谷区成城の緑蔭小舎で開く。7月、山口長男と7人の新人展(ギャラリー・ジェイコ)に出品。9月、東京都美術館の「近代日本美術の歩み展」に「かたち」(1954年)を出品。10月、神奈川県立近代美術館の「巨匠展シリーズ3現代美術・戦後展」に「平面」(1958年)「垂」(1965年)を出品。11月、福岡市美術館開館記念の「近代アジアの美術-インド・中国・日本-」展に「転」(1961年)を出品。同月、植木茂・山口長男二人展(ギャラリートーシン)が開かれ、「竝」「軌」「弧」(以上1968年)「宇」「疏」「注」「匍」「偏」(以上1979年)の油絵8点の他水彩6点を出品。1980年 4月、東京国立近代美術館と朝日新聞社の共催により「山口長男・堀内正和展」が開催される。9月、北九州市立美術館で「山口長男展」開催。1981 10月、個展をギャラリー芦屋で開く。1982 6月、小品展を緑蔭小舎で開く。11月、個展をギャラリー芦屋で開く。1983 4月27日、東京小平市の昭和病院で没。本年譜は、浅野徹編「山口長男略年譜」(「山口長男・堀内正和展」図録、東京国立近代美術館、1980年)を転載したもので、一部を添削した。

中村善策

没年月日:1983/04/27

日展参事、一水会運営委員の洋画家中村善策は、4月27日脳血栓のため東京都千代田区の東京警察病院で死去した。享年81。本名善作。一貫して風景画を描き、明快で澄んだ色調と軽快な筆触で独自の画風を築いた中村は、明治34(1901)年12月29日北海道小樽市に建築請負業中村駒吉の四男として生まれた。大正5年から海運会社に就職の側ら小樽洋画研究所に学び、同7年に神戸在勤中は神戸YMCA外国語学校英語科にも学ぶ。同13年上京し川端画学校へ通い、同年第5回中央美術展に初入選。翌14年、第12回二科展に「風景」が初入選、また、同年道展の創立会員となり、以後二科展、中央美術展、道展に制作発表を行い、昭和6年には新美術家協会に加わり同展にも出品を続ける。同11年第23回二科展に「白い燈台」「獨航船」を出品し二科特待賞を受けたが、翌12年安井曽太郎、石井柏亭らによって創立された一水会第1回展に「けむり」、「山と渓流」他を出品し一水会会員に推され、以後同展に出品するとともに、安井に大きな感化を受けた。同16年第4回新文展に「豊穣」を無鑑査出品、同18年の第6回文展では審査員をつとめる。同20年4月空襲により二科時代の作品全てを焼失した。戦後は、一水会展、日展に出品したのをはじめ、美術団体連合展、日本国際美術展、現代日本美術展にもそれぞれ第1回展から出品する。同42年第10回日展に「石狩湾の丘の邑」で文部大臣賞を受賞、翌43年の第11回日展出品作「張碓のカムイコタン」で日本芸術院賞を受けた。晩年に至るまで現場での制作を身上とし、出生地である北海道や信州地方の景色を多く描いた。この間、同33年日展評議員、同44年同理事、同48年同常務理事となり、同52年からは参与、同55年からは参事をつとめ、同53年には勲四等旭日小綬章を受章した。北海道美術協会名誉会員、大谷短大美術科教授でもあった。戦後の作品には「リンゴの花」(同27年、第1回日本国際美術展)、「Port Kobe」(同29年、第1回現代日本美術展)、「信濃」(同36年、第4回日展)、「海裳の花咲く」(同38年、第7回国際展)、「秋の散歩道」(同46年、第3回日展)、「新雪の頃」(同52年、第39回一水会展)などがある。

朝井閑右衛門

没年月日:1983/04/23

洋画家朝井閑右衛門は、4月23日心不全のため鎌倉市の恵風園胃腸病院で死去した。享年82。油彩の厚塗りで強烈な個性を発揮し、野人画家でもあった朝井は、明治34(1901)年1月24日大阪市南区に生まれ幼名を實といった。大正9年父の死去により家督を相続し、同年、陶芸家河野公平とともに上京、本郷洋画研究所に学び、この頃から転々と友人間を流浪する生活となる。同15年第13回二科展に「廃園に於て」が初入選、昭和5年第17回二科展にも「少女K」が入選するが、同9年には第21回光風会展と第15回帝展に共に入選し、以後戦前は光風会展(同12年会員)、官展へ出品した。同11年文展鑑査展に500号の大作「丘の上」を出品し文部大臣賞を受賞。同13年には上海軍報道部の委嘱を受け上海戦線記念絵画制作のため中村研一、小磯良平、向井潤吉らと同地に赴き、同20年にも上海を訪ね同地で終戦を迎えた。戦後は同22年に井手宜通、川端実、須太剋太らと新樹会を結成し第1回展に「雨の日」などを出品、同展には同51年の第30回展後解散に至るまで、精力的に出品を続けた。一方、戦後の日展には同25年に審査員となるが出品せず、同年光風会からも離れた。日本国際美術展、現代日本美術展にはともに第1回から出品し、同37年には鳥海青児、海老原喜之助、岡鹿之助らとこの年に組織された国際形象展の同人となり、第1回展から出品した。晩年に至るまでその制作意欲は衰えず奔放な厚塗りに独自の生彩を盛った。しかし、戦前戦後を通じ常に画壇の第一線で活躍しながら画集もなく、また本格的な個展も開催することがなく、特異な生涯を貫いた。略年譜1901(明治34年)1月24日、大阪府大阪市南区に、父浅井繁熊母ヒサの長男として生まれる。幼名實。1913(大正2年)12歳3月、恵美第一尋常高等小学校尋常科を卒業。1920(大正9年)19歳1月、広島市に於て、父の死去(享年44)に伴い家督を相続。この前後から家には寄り付かず、交流していた陶芸家河野公平と後に上京、東京府北豊島郡日暮里町(現在の荒川区)の叔父方、木村家に寄寓して本郷洋画研究所に学び、この頃から、友人の間を転々とする流浪の生活となる。1925(大正14年)24歳この頃、西宮市の清水保雄宅に半年ほど逗留した後再び上京し、東京市下谷区集明館の二階を借り、アトリエに当てる。1926(大正15年)25歳9月、第13回二科に『廃園に於て』が初入選。この時、二科の出品票は、東京府豊多摩郡。1928(昭和3年)27歳この頃、神奈川県足柄下郡桃源寺の借家に住み、また早川沿いの山麓に貸別荘を借り、アトリエに当て制作する。ここで牧野信一、川崎長太郎、福田正夫、牧雅雄等を知る。1930(昭和5年)29歳9月、第17回二科展に『少女K』が入選。1932(昭和7年)31歳この頃、平岡権八郎の知遇を受け同家のアトリエに寄宿するようになる。1934(昭和9年)33歳2月、第21回光風会展に『素描する人』が入選。10月、第15回帝展に『目刺のある静物』が入選。1935(昭和10年)34歳2月、第22回光風会展に『若き弁護士の像』が入選。10月、第二部会第1回展覧会に『考古学者と其家族』が入選し、文化賞特選。1936(昭和11年)35歳4月、第23回光風会展に『画家像』『ロリルの踊り』が入選し、光風会々友となる。この頃、板橋区の通称“練馬のアトリエ村”に住むようになる。10月、昭和11年文展・鑑査展に、500号の大作『丘の上』が入選し、文部大臣賞。1937(昭和12年)36歳2月、第24回光風会展に『ナルシース』『ギタリスト』『星を高ふピエロ』を出品し、光風会々員となる。同年の光風会展目録の住所は、再び下谷区谷中真砂(島)町1-2集明館内。10月、第1回新文展に『通州の救援』が入選。1938(昭和13年)37歳2月、第25回光風会展に『放浪者』『五月のエスキース』『唄ふ人』を出品(評議員)。同展出品目録の住所は、板橋区。5月、上海軍報道部の委嘱により上海戦線記念絵画(戦争記録画)を制作のため、中村研一、小磯良平、江藤純平、柏原覚太郎、向井潤吉、南政善、鈴木栄二郎、脇田和、長坂春雄等と上海に赴く。10月、第2回文展に『生還特務隊』が入選。この年、日本大学芸術科の講師となる。1939(昭和14年)38歳7月、第1回聖戦美術展に『楊家宅望楼上の松井最高指揮官』を出品(招待・無鑑査)。10月、第3回文展に『良民救助』が入選。1940(昭和15年)39歳この年、大河内信敬、南善政と中国へ赴く。10月、紀元2600年奉祝美術展に『黎明へ』を出品。1941(昭和16年)40歳2月、第28回光風会展の審査員となるが同展は不出品。この年、永富花子(31歳)と結婚し、東京市大森区にあった永富家に大アトリエを構える。しかしこのアトリエは、やがて戦時の強制疎開により取り毀しとなる。1942(昭和17年)41歳6月1日、長女祐子が生まれる。1943(昭和18年)42歳10月、第6回文展(東京都美術館)に『春』(招待無鑑査・現在京都市美術館蔵)を出品。この年、上海に赴き、歯科医横田東一宅に寄宿する。1944(昭和19年)43歳5月13日、二女三喜が生まれる。11月に『豊取(誉ノ家族)』を出品。1945(昭和20年)44歳この年春、上海に赴き、ブロードウェイマンション714号室に住む。ここで敗戦を迎へ、翌年の引揚げまでの間を施高塔路大陸新邨に滞在する。1946(昭和21年)45歳この年春、上海から引揚げ、しばらくの間引揚寮に滞在した後、友人の間を転々とするようになるが、この頃、咽喉の疾患により横須賀の副島医院に入院し、手術回復後もしばらくの間は同院長の副島昇宅に滞在する。また秋から翌年春にかけて静岡県三島の杉本英一宅に逗留。1947(昭和22年)46歳この年、横須賀市に二軒長屋を求め、1軒をアトリエに改造し1人で住むようになる。2月、第33回光風会展の審査員となるが同展は不出品。3月、井出宜通、川端実、須田剋太等と「新樹会」を結成。5月、新憲法実施並に東京都美術館開館20周年記念・現代美術綜合展に『小港』を出品。6月、第1回新樹会油絵展に『雨の日』など9点を出品。10月、第3回日展に『灯ともし頃』を出品(招待)。この年、文芸雑誌「文體」第1号に掲載の高見順著「わが胸の底のここには」に挿絵を描く。1948(昭和23年)47歳3月、第34回光風会展に『水車』『港』を出品(審査員)。5月、第2回美術団体連合展に『古呉の景』を出品。7月、第2回新樹会展に『ばら』『ガラス台鉢』などを出品。この年、「文體」第2号の高見順著「わが胸の底のここには」続稿と、同誌第3号の北原武夫著「背徳者」続編3に挿絵を描く。1949(昭和24年)48歳5月、第3回美術団体連合展に『静物』を出品。7月、第3回新樹会展に『秋画室』などを出品。1950(昭和25年)49歳5月、第4回美術団体連合展に『新開地』を出品。7月、第4回新樹会展に『電線風景(A)』『電線風景(B)』『静物』を出品。この年、第6回日展の審査員となるが出品せず、また光風会々員名簿から、この年かぎりで消えている。1951(昭和26年)50歳1月、第2回選抜秀作美術展に『新開地』(連合展)が選抜される。8月、第5回新樹会展に『電線風景(A)』『電線風景(B)』『電線風景(C)』『ガラス台鉢』『マジョリカ台鉢』『街頭』『プラットホーム』『マーケット横』を出品する。1952(昭和27年)51歳5月、第1回日本国際美術展に『マジョリカ台鉢』『やけ跡』『シャンパンとブロンズとテラコッタ』を出品。7月、第6回新樹会展に『シャンパン瓶』『ガラス台鉢(A)』『ガラス台鉢(B)』『電線風景(トンネル)』『電線風景(ガード)』『電線風景(A)』『電線風景(B)』を出品。1953(昭和28年)52歳5月、第2回日本国際美術展に『ガラス台鉢』を出品。8月、第7回新樹会展に『電線風景』『ガラス台鉢』『ガラス台鉢とテラコッタ』『蓬莱(A)』『蓬莱(B)』『蓬莱(C)』『蓬莱(D)』の7点と『ガラス台鉢とテラコッタ(エスキース)』を3点出品。1954(昭和29年)53歳5月、第1回現代日本美術展に『ドン・キホーテの没落』を出品。8月、第8回新樹会展に『人形使いの肖像』『ばら(A)』『ばら(B)』『ばら(C)』『ばら(D)』を出品。1955(昭和30年)54歳5月、第3回日本国際美術展に『奇しきヘロデ王の怒りとサロメ』(3部作)を出品。8月、第9回新樹会展に『ガラス台鉢(A)』『ガラス台鉢(B)』『ドン・キホーテの没落』『ばら(A)』『ばら(B)』『ばら(C)』『ばら(D)』『スカパンとクリスパン』を出品。この年から昭和32年にかけて、東京都中央区鈴木医院の新築別棟(鈴木良純方)の2階をアトリエに提供されて制作する。なお田浦のアトリエには気の向くまま時々帰っていた。1956(昭和31年)55歳5月、第2回現代日本美術展に『ドン・キホーテ』を出品。8月、第10回新樹会展に『道化(恋)A』『道化(恋)B』『ばら(A)』『ばら(B)』『ばら(C)』『港(嵐)』『港(帰らぬ船)』を出品。この年、「文芸」1月号、「文学界」3月号、「雲母」5月号、9月号、10月号などの表紙を描く。1957(昭和32年)56歳1月、第8回選抜秀作美術展に『道化(恋)B』(新樹会)が選抜される。5月、第4回日本国際美術展に『道化』を出品。7月、第11回新樹会展に『ばら(A)』『ばら(B)』『ばら(C)』『ばら(D)』『ばら(E)』『仁王(紅葉)』『道化』『ガラス鉢と人形』を出品。この年、「週刊新潮」に掲載の高見順著「愛と死」「春本考」「生と性」「エロスの招宴」と、「文芸」2月号の「春の随筆全集」などに挿絵を描く。1958(昭和33年)57歳1月、第9回選抜秀作美術展に『ぱら』(新樹会)が選抜される。5月、第3回現代日本美術展に『バラの図』を出品。8月、第12回新樹会展に『新秋』『道化』などを出品。この年、中山恒明著「随筆集・学園の骨片」の表紙、扉の装訂をする。1959(昭和34年)58歳5月、第5回日本国際美術展に『紅葉水車』を出品。8月、第13回新樹会展に『バラ』『ガラス台鉢』『花束』『ファルス(A)』(現在神奈川県立近代美術館蔵)『ファルス(B)』を出品。この年、「雲母」3月号の表紙を描く。1960(昭和35年)59歳1月、第11回選抜秀作美術展に『ファルス(A)』(新樹会)が選抜される。5月、第4回現代日本美術展に『電線風景(A)』『電線風景(B)』を出品。8月、第14回新樹会展に『詩人山本太郎像』『詩人三好達治像』『詩人草野心平像』『詩人山崎栄治像』『バラ(A)』『バラ(B)』『バラ(C)』『プール』『ガラス鉢』を出品。1961(昭和36年)60歳5月、第6回日本国際美術展に『廃園において』を出品。8月、第15回新樹会展に『バラ(A)』『バラ(B)』『バラ(C)』『バラ(D)』『バラ(E)』『バラ(F)』『ドン・キホーテとサンチョパンサ、シリーズ』『ドン・キホーテ(坂)A』『独身主義の人魚とキューピッド、シリーズ(D)』を出品。1962(昭和37年)61歳5月、第5回現代日本美術展に『出発』を出品。この年春、「国際形象展」が組織され、鳥海青児、海老原喜之助、林武、森芳雄、野口彌太郎、荻須高徳、岡鹿之助、高畠達四郎、山口薫と共に同人となる。8月、第16回新樹会展に『バラ(信楽壷)』『若き萩原朔太郎』『バラ(夜明け前の)』『石と梅の実、室生犀星(われはうたへど)』『バラ(アイルランド壷)』を出品。10月、第1回国際形象展に『ガラス台鉢のある静物』『ある逃走者』『晴来る』『誘惑』を出品。1963(昭和38年)62歳1月、第14回選抜秀作美術展に『ある逃走者』(新樹会)が選抜される。5月、第7回日本国際美術展に『善雲と悪雲』を出品。8月、第17回新樹会展に『パン(A)』『パン(B)』『パン(C)』『パン(D)』『アトリエに於ける木内克』を出品。10月、第2回国際形象展(日本橋・三越)に『ドン・キホーテ』『仮面なしでは生きられない』を出品。1964(昭和39年)63歳1月、第15回記念・選抜秀作美術展に『仮面なしでは生きられない』(国際形象展)が選抜される。6月、第18回新樹会展に『序曲』『絵本(綱渡りの法の)』『パリスのさいばん』『台所(のら猫)』『パリスのさいばん』『仕事場(メキシコ犬のある)』『春(A)』『春(B)』を出品。7月、第1回太陽展(銀座・日動画廊)に『朝』『バラ』を出品。9月、第3回国際形象展に『光を求めて』『夜の旅(A)』『夜の旅(B)』『コールネシヤ』『ロバとサンチョ』『或るドン・キホーテの像』を出品。この年、新潮現代文学14、高見順著『いやな感じ・死の淵より』の装画を描く。1965(昭和40年)64歳5月、第8回日本国際美術展に『行進曲(鬼の念仏と鼻くらべ)』を出品。7月、第2回太陽展に『愛の森』『バラ』を出品。8月、第19回新樹会展に『ギター弾(A)』『ギター弾(B)』『三人の道化』『サーカス人形』『黄昏』『薔薇』『犬とピエロ』を出品。9月下旬から10月初旬まで横須賀国立病院に、10月初旬から11月下旬には東京の厚生年金病院に入院する。10月、第4回国際形象展に『ピエロ』『ピエロの行進(ミラノの参加せる)』『高く大きく』『ピエロの行進A(アンダルシヤ)』『ピエロの行進B(アンダルシヤ)』『ついにスーザホルンを持ち出した彼ら』『最後の病床における高見順』『追憶の高見順』を出品。1966(昭和41年)65歳7月、第3回太陽展に『朝・逗子鐙摺ヨットハーバーA』『朝・逗子鐙摺ヨットハーバーB』『花』を出品。8月、第20回新樹会展に『栄誉人間と人形(A)』『栄誉人間と人形(B)』『中山教授之像』『バラ』を出品。9月、高見順展(新宿・伊勢丹、日本近代文学館・毎日新聞社主催)に『最後の病床における高見順』『追憶の高見順』を出品。10月、第5回国際形象展に『偉そうな服を着た道化(A)』『偉そうな服を着た道化(B)』『逃げる道化』『頑固なろばと道化』『ろばと道化(A)』『ろばと道化(B)』『ろばと道化(C)』『二人の道化(A)』『二人の道化(B)』『二人の道化(C)』『二人の道化(D)』の11点を出品。この年、20年に亙って住んだ“田浦のアトリエ”を引き払い、鎌倉市に土地家屋を求めて転居する。この家屋は興の趣くまま徐々に改築を重ね、昭和50年にアトリエはほぼ完成する。1967(昭和42年)66歳3月、朝井閑右衛門自選近代油絵十題展(大阪・大丸)に『バラ(マイセン壷)』他14点を出品。5月、第9回日本国際美術展に『道化の埋葬』を出品。7月、第4回太陽展に『ドン・キホーテ』を出品。8月、第21回新樹会展に『白雪姫(1)』『白雪姫(2)』『白雪姫(3)』『白雪姫(4)』『白雪姫(5)』『白雪姫(6)』『白雪姫(7)』『白雪姫(8)』『白雪姫(9)』『白雪姫(10)』『キューピッド』を出品。11月、第6回国際形象展に『ばら』『小鳥と遊ぶピエロ』『上陸』『口笛のロベルト』『東方への旅』『町廻り』『宵月(A)』『宵月(B)』『春(A)』『春(B)』を出品。1968(昭和43年)67歳4月、永年に亙って別居を続けていた妻花子と協議離婚をする。5月下旬、5日間ほど東京女子医大消化器病センターへ入院する。7月、第5回太陽展に『水泳競技事始(大正12年芝公園)』『ばら』を出品。8月、第22回新樹会展に『遠い旅(A)』『遠い旅(B)』『遠い旅(C]』『遠い旅(D)』『遠い旅(E)』『サーカスに来たドン・キホーテ(A)』『サーカスに来たドン・キホーテ(B)』『打合せ』『大虎を逃がすな』を出品。10月、第7回国際形象展に『記念像制作(創生記)』『サーカス(A)』『サーカス(B)』『サーカス(C)』『サーカス(D)』『サーカス(E)』『サーカス(F)』『サーカス(G)』『サーカス(H)』『夕月(A)』『夕月(B)』『夕月(C)』『夕月(D)』『夕月(E)』の14点を出品。11月19日、戸籍氏名の「浅井實」を雅号の「朝井閑右衛門」に変更する。1969(昭和44年)68歳7月、第6回太陽展に『バラ』を出品。8月、第23回新樹会展に『ドン・キホーテ(A)』『ドン・キホーテ(B)』『ドン・キホーテ(C)』『ドン・キホーテ(D)』『ドン・キホーテ(E)』『ドン・キホーテ(F)』『ドン・キホーテ(G)』『ドン・キホーテ(H)』『ドン・キホーテ(I)』『ドン・キホーテ(J)』『ドン・キホーテ(K)』『ドン・キホーテ(L)』『ドン・キホーテ(M)』の13点を出品。10月、第8回国際形象展に『シラノ・ド・ベルジュラック(A)』『シラノ・ド・ベルジュラック(B)』『シラノ・ド・ベルジュラック(C)』『独身主義の人魚(A)(エロスに狙われる)』『独身主義の人魚(B)(エロスに狙われる)』『独身主義の人魚(C)(エロスに狙われる)』『人形図(A)』『人形図(B)』『人形図(C)』を出品。1970(昭和45年)69歳7月、第7回太陽展に『東方への道』を出品。8月、第24回新樹会展に『祭礼サーカス(1)』『祭礼サーカス(2)』『祭礼サーカス(3)』『祭礼サーカス(4)』『祭礼サーカス(5)』『祭礼サーカス(6)』『祭礼サーカス(7)』『ハナズナマック(1)』『ハナズナマック(2)』『祭礼花祭』を出品。10月、第9回国際形象展に『旅へ行く人(A)』『旅へ行く人(B)』『春』『偉大なる慈悲の物象』『春』を出品。1971(昭和46年)70歳7月、第8回太陽展に『ドン・キホーテ』を出品。8月、第25回新樹会展に『海辺の子供(A)』『海辺の子供(B)』『海辺の子供(C)』『海辺の子供(D)』『海辺の子供(E)』『バラ(紅ギヤマン瓶)』『薔薇之図(法華手楽人文壷)』を出品。9月中旬から10月初旬にかけ神奈川県の湯河原胃腸病院に入院する。9月、第10回国際形象展に『海辺の遊び』を出品。1972(昭和47年)71歳2月、「戦後日本美術の展開-具象表現の変貌」展(東京国立近代美術館)に『仮面なしでは生きられない』(1963)が出品される。6月、第9回太陽展に『ロミオとジュリエット』を出品。8月、第26回新樹会展に『練習』『悪霊と道化』『道化への道』『砂糖壷のある静物』を出品。9月、第11回国際形象展に『道化家族』『フラッテリー三兄弟』『3人の道化』を出品。1973(昭和48年)72歳7月、第10回太陽展に『森の奥』を出品。8月、第27回新樹会展に『作品(A)』『作品(B)』『作品(C)』『作品(D)』『作品(E)』『作品(F)』『ガラス台鉢』『奇蹟(甦る行路病者)』と他に『夕月』10点を出品。1974(昭和49年)73歳6月、第11回太陽展に『雪の上の祭り』を出品。8月、第28回新樹会展に『バラ(明法華壷)』『フリュートを吹く菊盛者』『フラッテリーニ』『高僧絵ノ内(A)』『高僧絵ノ内(B)』を出品。1975(昭和50年)74歳6月、第12回太陽展に『海辺の部屋(ハヤマ)』(現在ひろしま美術館蔵)『宵月』を出品。8月、第29回新樹会展に『デモンストレーション(A)』『デモンストレーション(B)』『人形(A)』『人形(B)』『人形(C)』『人形(D)』『人形(E)』『人形(F)』『バラ(法華手壷)』を出品。9月、第14回国際形象展に『ファンタジア(C)』『ファンタジア(R)』『ファンタジア(七福神の内)』『鶴亀』『とら』を出品。1976(昭和51年)75歳4月初旬から同中旬にかけて鎌倉市稲村ガ崎の恵風園胃腸病院に入院する。6月、第13回太陽展に『フランス人形』を出品。8月、第30回新樹会展(最終回)に『バラ』『絵本のある静物』『ガラス台鉢(1)』『ガラス台鉢(2)』『ガラス台鉢(3)』『ガラス台鉢(4)』『ガラス台鉢(5)』『遁走者』『FOUの像(ある生活の記録)』『ばら』『フランス人形』『薔薇(法華手楽壷)』『電線風景(1)』『電線風景(2)』『大いなる慈哀者のけい争』の15点と、旧作の“詩人の像シリーズ”から『草野心平像』『山本太郎像』『三好達治像』『萩原朔太郎像』『晩年の室生犀星』『病苦より天上へ高見順像』、また“学者の像シリーズ”から『ヨットの上の中山恒明教授』と新作の『脇村義太郎先生の像』の計23点を出品。昭和22年から続いた「新樹会」は、この年をもって解散する。9月、第15回国際形象展に『ピカソ人形の居る静物』『バラ(法華壷)』『バラ』を出品。1977(昭和52年)76歳6月、第14回太陽展に『誘惑』を出品。9月、第16回国際形象展に『祭(1)』『祭(2・おきつね)』『祭(3・鶴岡)』の3部作を出品。1978(昭和53年)77歳6月、第15回太陽展に『薔薇』を出品。この年9月、自宅の風呂場で転倒しその際右脚を捻挫する。右脚は一時回復したものの再び転倒して痛め、その後は歩行に支障をきたすようになる。1979(昭和54年)78歳4月、日本秀作美術展に『牡丹』(第10回潮音会)が出品される。6月、第16回太陽展に『薔薇(法華壷)』を出品。1980(昭和55年)79歳6月、第17回太陽展に『薔薇図』を出品。9月、第19回国際形象展に『バラ』を出品。この年、神奈川県立近代美術館の運営委員を委嘱される。1981(昭和56年)80歳6月、第18回太陽展に『薔薇』を出品。10月、第20回国際形象展に『薔薇之図』『薔薇』『薔薇』を出品。この年、草野心平詩集「第百階級」限定19部の表紙肉筆19葉を描く。1982(昭和57年)81歳6月、第19回太陽展に『バラ』を出品。この年、小品の加筆程度で、制作は殆んど行なわず「病苦百八十七日・気分快適と言う日無し」であったと言う。1983(昭和58年)82歳2月末、死の予感を訴える。狭心症の発作は頻度を増すが、3月末から『薔薇』10号の加筆に取り掛り、10回余りで仕上げ、絶筆(第20回太陽展出品)となる。翌4月19日、稲村ガ崎、恵風園胃腸病院に入院する。4月23日午後7時35分死去する。遺言により葬儀は行なわず、6月10日、鎌倉の極楽寺に埋葬される。(本年譜は、『朝井閑右衛門追想-草野心平、匠秀夫編、昭和59年、日動出版-収載の大塚信雄、門倉芳枝編「朝井閑右衛門略年譜」の一部を削除し作成したものである。)

中原淳一

没年月日:1983/04/19

服飾雑誌「それいゆ」「ひまわり」の挿絵で知られ、服飾美術家として活躍した中原淳一は、4月19日午後2時25分、脳こうそくのため、千葉県館山市の館山病院で死去した。享年70。大正2(1913)年2月16日、香川県に生まれ、間もなく徳島に移り住む。小学校2年生で父と死別。少年期から、文学、戯曲を耽読し、また、画家を志す。日本美術学校在学中の昭和7(1932)年2月、自作のフランス人形約30点を展示した個展を銀座松屋で開き、好評を得る。この個展の特集が雑誌「少女の友」に掲載されたのがきっかけとなって、同誌の挿絵、表紙を描くようになる。同誌には、吉屋信子、川端康成などが寄稿していた。中原の描く、黒目がちでうるんだような大きな瞳を持つ感傷的な少女像は「昭和の夢二」として一世を風靡する。同15年5月同社を退き、海軍に応召し、終戦後間もなく帰国。戦後の婦人たちに夢を与える雑誌をめざしてひまわり社を設立し、季刊誌「それいゆ」を創刊。同22年1月に月刊少女雑誌「ひまわり」の出版を始める。これらに発表された服飾、室内装飾、髪型などのデザインは、戦後の自由な空気の中で、次々と新しい流行を生み出した。同26年4月から1年半パリに留学。帰国後、「ひまわり」を廃刊し、「ジュニアそれいゆ」を創刊する。同34年8月、過労から来る心臓発作にみまわれ、2年間の入院と約10年にわたる療養生活を余儀なくされる。同45年、隔月雑誌「女の部屋」を創刊して再起を期したが、再び病に倒れ、1年で廃刊。そののちは、館山市で療養生活を続けていた。雑誌の他に、『愉しく、新しく』(昭和28年)、『あなたがもっと美しくなるために』などの単行本も著し、視覚芸術にとどまらず、美しく生活するための総合的なアイデアを提起して、独自の足跡を残した。

常盤大空

没年月日:1983/04/14

日本美術院同人の日本画家常盤大空は、4月14日脳軟化症のため東京都杉並区の前田病院で死去した。享年70。大正2(1913)年10月20日福島県東白川郡に醤油醸造業の家に生まれ、同7年県立石川中学校卒業後上京、川端画学校日本画科に入り、主に岡村葵園の指導を受け同12年に卒業する。昭和15年再興院展第25回に「木の間の秋」が初入選、同18年にも「さいかちの虫」で入選するが戦時下のためいったん帰郷し教職につき、翌年応召する。戦後も教職に復帰したが、同25年画業に専念するため再上京、同25年の第37回院展に「麦秋」が入選、この頃から堅山南風に師事し以後院展への出品を続ける。同35年第45回院展出品作「古代頌」は、終生のライト・モチーフの出発を示唆したもので、翌年第46回展に「伝承」で奨励賞を初受賞。同37年第47回展には中国殷時代の青銅器をモチーフとした「殷賦考」を出品、古代祭器の抽象的な文様を独自に再構成する表現を示し日本美術院賞を受賞する。同38年第48回展には「西域碑」でモチーフを中国から西域シルクロードへと拡大し、翌年の第49回展に「長安の人」で二度目の日本美術院賞を受賞、その後も連続受賞を重ね同42年日本美術院同人に推挙される。以後も独自のモンタージュ手法による白描風の表現を展開、題材も中央アジアからオリエント世界へと拡大された。同49年第59回展に「怒号(蒙古襲来)」で文部大臣賞を受賞する。再興院展出品目録昭和15年 木の間の秋昭和18年 さいかちの虫昭和27年 麦秋昭和28年 岩礁昭和29年 磐梯昭和30年 甲子谿昭和33年 陵原昭和35年 古代頌(左・右)昭和36年 伝承 奨励賞(白寿賞)昭和37年 殷賦考 日本美術院賞(大観賞)昭和38年 西域碑 奨励賞(白寿賞・G賞)昭和39年 長安の人 日本美術院賞(大観賞)昭和40年 流砂想々 奨励賞(白寿賞・G賞)昭和41年 讃正倉院 奨励賞(白寿賞・G賞)昭和42年 華厳 奨励賞(白寿賞・G賞)/同人推挙昭和43年 天馬将来叙昭和44年 胡歌昭和45年 黒飆(カラブラン)昭和46年 ’72東京昭和47年 赤い芥子(サマルカンド叙事詩)昭和48年 天山を越えて(シルクロード抄)昭和49年 怒号(蒙古襲来) 文部大臣賞昭和50年 カイバル峠(アレキサンダー大王印度遠征)昭和51年 果て遠き琵琶歌昭和52年 壮大なる白日の詩(ペルセポリス)昭和53年 逃避昭和55年 西方浄土変相讃賦

龍一之介

没年月日:1983/03/24

新芸術協会会長の洋画家龍一之介は3月24日午前7時35分、肝臓ガンのため東京都新宿区の国立病院医療センターで死去した。享年70。大正2(1913)年2月25日福岡県三池郡に生まれる。本名一。福岡市住吉小学校を卒業し、同15年父と共に上京。武蔵商業に入るが中退。太平洋美術学校で絵を学び、昭和10年第22回光風会展に「静物」で初入選。翌年第13回白日会展に「新宿風景」で初入選、また第4回旺玄社展にも初入選し同展には第8回展まで出品を続ける。この間、同13年から牧野虎雄に師事。同15年より戦地に赴き、18年帰国し中島飛行機荻窪写真部長となる。同21年同志と新生派美術協会を創立、同23年には同会を発展解消して現代美術協会を創立する。同25年渡仏し抽象画を研究。同40年新芸術協会を創立し、同50年同会長となる。同53年には同会員と共にフランス、ル・サロン展に出品し翌年同会員となった。自由な画風で知られ、代表作には「トレドへの道」「雲の桜島」などがある。没後同59年9月ギャルリ・アルカンシエルで回顧展が開かれた。

米良道博

没年月日:1983/03/16

一陽会創立会員の洋画家米良道博は、3月16日脳こうそくのため大阪府羽曳野市の城山病院で死去した。享年79。号道伯。明治36(1903)年11月10日和歌山県東牟婁郡に生まれ、大正12年和歌山師範学校を卒業、昭和2年大阪へ出て信濃橋洋画研究所に学び、小出楢重、鍋井克之らに指導を受ける。同4年第16回二科展に初入選し以後同展に出品、同14年第26回展に「結髪」「夏の夕」を出品し特待となり、同16年の第28回展に「街道市」を出品し二科会会友に推挙さる。戦後、同22年の二科展から復帰し翌年二科会会員となる。同30年に二科会を退会し、鈴木信太郎、野間仁根、高岡徳太郎ら同志と一陽会を結成、同年の第1回展に「壷のある静物」を出品する。以後、同展に出品するとともに、同35年からは全関西美術展の審査に携わった。また、同50年には那智山青岸渡寺三重の塔の壁画を完成した。初期一陽展への出品には「室内裸婦」(3回)、「窓と裸女」(4回)などの裸体表現や、「富嶽日輪」(9回)などの富士の連作がある。

狭間二郎

没年月日:1983/02/21

独立美術協会会員の洋画家狭間二郎は2月21日午後9時30分、急性肺炎のため神奈川県相模原市の相愛病院で死去した。享年81。明治36(1903)年1月29日宮城県栗原郡に生まれる。本名菅原芳助。大正8年宮城県築館中学校を卒業し早稲田大学第二高等学院に入学。同校在学中、川端画学校へ通う。昭和5年早稲田大学文学部英文科を卒業。翌年河北新聞社記者となる。同9年東北展に油絵「鯔」、木版画「鷽」を出品し初入選。同12年「風景」で独立展に初入選し、以後同展に出品を続ける。同13年より林武に、15年より野口弥太郎に師事。同17年第12回独立展に「東北の野」「林間」を出品し前者で独立賞を受賞。翌年兵役につき樺太、中支に赴く。同21年復員し郷里一迫で制作を再開し、同23年独立美術協会会員となる。同25年仙台独立グループを結成し、同28年河北美術展委員、同30年同展顧問となり、同39年には東北独立展を開くなど仙台を中心とする洋画の発展に寄与する。同41年病を得、右半身不随、言語障害となったが左手に絵筆を持って制作を続ける。同46年上京。翌年以降独立展に出品していないが、制作は続けた。代表作に第11回独立展出品作「東北(A)」、同第21回展出品作「砂丘」などがある。

高橋進

没年月日:1983/02/21

行動美術協会会員の洋画家高橋進は、2月21日午前4時35分、急性心不全のため、東京都町田市の伊藤病院で死去した。享年72。明治43(1910)年7月29日、韓国の大邸市に生まれる。本名金昌徳。昭和5年大阪中之島洋画研究所に入り小出卓二らに師事。同10年「ふたり」で第22回二科展に初入選し、同展および全関西美術展に出品を続ける。同22年第2回行動展に「立てる子供」「井戸端」「樹下」を初出品して友山荘賞を受け、翌年同会会員となり、以後同展に出品を続ける。「アジアの悲しみのようなテーマを描きたい」と語り、働く人々、戦争などの社会問題に苦しむ人々を主題として、線を生かした柔かい色調の画面をつくり上げる。同42年第22回行動展出品作「切れたテープ」は創立賞を受賞、太陽展などにも出品していたが、同48年病に倒れ、第28回行動展に「432」「ふたり」を出品したのを最後に長期療養生活を送っていた。

富取風堂

没年月日:1983/02/12

日本美術院監事の日本画家富取風堂は、2月12日急性気管支炎のため千葉市の国立千葉東病院で死去した。享年90。本名次郎。晩年は穏やかな花鳥画で知られた富取は、明治25(1892)年10月1日東京日本橋に生まれ、同38年歴史画を得意とした松本楓湖の安雅堂画塾へ入門する。同画塾は放任主義教育であったとされ、今村紫紅、速水御舟ら新傾向の作家を輩出したことで知られる。大正3年、楓湖門の先輩紫紅が結成した赤曜会に加わり、自らも目黒に居住する。同会は翌年3回の展覧会を開催し、急進的な日本画の研究会として注目されたが、大正5年紫紅の死をもって解散した。大正4年、再興院展第2回に「河口の朝」が初入選し、その後官展へも出品したが、同9年の院展第7回に入選した「鶏」で草土社風の厳しい細密描写による作風を示し、以後同展へ連続入選を果し、同13年日本美術院同人に推挙された。その後、昭和12年第24回院展出品作「葛西風景」あたりから、その作風は素朴な趣を見せ始める。戦後は、同33年財団法人となった日本美術院の評議員となり、同41年第51回院展に「母子の馬」で文部大臣賞を受賞、同44年には日本美術院監事となる。この間、同42年に千葉県文化功労者として表彰された。また、同51年からは横山大観記念館常務理事をつとめた。没後葬儀は日本美術院葬として執行され、同美術院理事長奥村土牛が葬儀委員長をつとめた。再興院展出品目録大正4年 河口の朝大正9年 鶏大正10年 北国の冬大正11年 芍薬大正12年 漁村早春/山邑首夏大正13年 踊の師匠/唄の師匠(同人推挙)大正14年 枯梢小禽図大正15年 細流青蘆/石橋釣客/雛妓納涼図昭和2年 野菜図昭和3年 遊鯉(其一)(其二)昭和4年 さくら/柳昭和5年 芍薬昭和6年 朝光(葛飾二景の内浦安)/薄光(葛飾二景の内中川)昭和7年 軍鶏昭和8年 雪後争鳥昭和9年 もみぢづくし昭和10年 花蔭昭和11年 斜陽(夏すがた其一)/夜(夏すがた其二)昭和12年 葛西風景昭和13年 厩舎昭和14年 丘の畑昭和16年 午日/潮騒昭和17年 漁村の初夏昭和18年 秋の草昭和21年 朝顔/夕昭和22年 村荘晩春/暮雨/夕映昭和23年 沼畔残照昭和24年 仔馬昭和25年 漁港の朝昭和26年 夕顔昭和27年 洋蘭昭和28年 花昭和29年 花篭昭和30年 初秋昭和31年 群魚昭和32年 花昭和33年 秋彩/蟹昭和34年 残照昭和35年 夕昭和36年 駅路昭和37年 暮色昭和38年 雨の花昭和39年 親子猿昭和40年 河畔昭和41年 母子の馬(文部大臣賞)昭和42年 群魚/厩二題昭和43年 ばら園昭和44年 朝昭和45年 樹映昭和46年 麦秋昭和47年 初夏昭和48年 池畔昭和49年 秋の畑昭和50年 うすれ陽昭和51年 初夏昭和52年 残雪昭和53年 猿と葡萄昭和54年 緑雨

武井武雄

没年月日:1983/02/07

大正期に童画のジャンルを確立した童画家で児童文学者の武井武雄は、2月7日心筋こうそくのため東京都板橋区の自宅で死去した。享年88。明治27(1894)年6月25日長野県岡谷市に生まれ、長野県立諏訪中学校を経て大正8年東京美術学校西洋画科を卒業。1年間同校研究科に在籍し、この頃から児童文学雑誌「赤い鳥」に挿絵を描き始めて童画に専念、大正13年に「武井武雄童画展」を開催するに及んで「童画」の名称を定着させた。その後、昭和9年の絵日記「赤ノッポ青ノッポ」の新聞連載や「戦中気侭画帳」、「戦後気侭画帳」などの独特な絵と文で人気を集めた。また、昭和10年頃から紙質、装丁、印刷技術を全て自分で工夫したハガキ大の「刊本」製作に情熱を注ぎ、没年までに百三十種を刊行するに到った。代表作に童画集「廃園の草」「妖精伝奇」などがあるほか、郷土玩具の収集、研究家としても知られ著書に『日本郷土玩具』がある。戦前は日本童画家協会、戦後は日本童画会の創立にあたり、昭和34年紫綬褒章を受章した。

緑川廣太郎

没年月日:1983/01/30

独立美術協会会員の洋画家緑川廣太郎は1月30日午後5時、急性肺炎のため東京都世田谷区の玉川病院で死去した。享年78。明治37(1904)年3月18日、母親の療養先であった横浜市に生まれる。父、緑川南甫は東京柳橋で紺屋を営む染色家。柳橋で育ち、私立明治中学校を中退。大正9年より本郷洋画研究所に学ぶ。のち小島善太郎の門をたたき師事する。昭和8年第3回独立展に「風景」で初入選し、以後同展に出品を続ける。同15年第10回展に「黄土」を出品して独立賞を受け、同17年同会々友、同24年同会員となる。戦前は官展にも参加し、同18年第6回文展に「朝」を、翌年戦時特別展に「漁夫」を出品して二年連続特選となる。同38年日本国際美術展に招待出品。同41年第34回独立展に「祈る」「祈る人」を出品して児島賞を受ける。同44年から翌年にかけシルクロードを訪れ以降たびたび同地に取材してその風景を描き続けた。同52年紺綬褒賞を受けている。代表作には前期の受賞作のほか昭和30年代の「サーカス」「水門」、東京芸術大学資料館蔵「西城の月」、法政大学蔵「高砂族の人々」などシルクロード関係の作品がある。

伊藤廉

没年月日:1983/01/24

東京芸術大学名誉教授、愛知県立芸術大学客員教授の洋画家伊藤廉は、1月24日午後0時3分、肺炎のため名古屋市の国立名古屋病院で死去した。享年84。明治31(1898)年10月7日、愛知県名古屋市に生まれる。本名廉。大正6年愛知県立第一中学校を卒業し明治大学文学部に入学するがすぐに中退。同9年東京美術学校西洋画科に入学する。同科在学中の同12年第10回二科展に「室内」で初入選。同14年同校を卒業する。昭和2年から5年まで滞欧し、帰国の年第17回二科展に滞欧作15点を特別出品して二科賞を受けるが、同年同会を退き、翌6年林武らと独立美術協会を結成。同会には創立会員として力作を発表し続けるが同12年第7回展の出品を最後に脱会。同18年第18回国画会展から同会に会員として参加する。また、同33年からは国際具象派展にも出品。初期には人物画を多く画いたが、1930年代初頭から静物画に転じ、物の存在について追求を始め、戦後の同26年に胸を患ってのち一層その思索的傾向を強めた。無花果や密柑などを落ち着いた色調で描き、独自の静謐な画風を示す。同21年東京芸術大学講師に就任して以来美術教育にも尽くし、同29年に同大教授、同36年には同美術学部長となり、同41年停年退官して同大名誉教授となる。同年からは愛知県立芸術大学美術学部長をつとめ、同47年停年退職し同客員教授となる。また、同33年より第2、3、6-8、11回安井賞選考委員をつとめた。『セザンヌ覚書』『絵の話』ほか多数の著書があり、同56年には『伊藤廉画集』が刊行されている。没後「伊藤廉記念賞」が設定された。団体展出品歴1923 第10回二科展 「室内」1924 第11回二科展 「楽器のある静物」「卓上静物」1925 第12回二科展 出品せず1926 第13回二科展 「少年」「腕組める裸婦」「花などの静物」「裸婦習作」1927 第14回二科展 「裸婦」「画室のモデル」「静物」「蔓性薔薇など」1928、29 出品せず(滞欧)1930 第17回二科展 特別出品「フオトイユにねむる女」「M・B・Cの肖像」「緑色のジレ」「フオトイユに休む女」「窓による女」「肖像」(3点)「静物食卓」「窓に近く」「レ・フラテリエ」「ある労働者の肖像」「パンフレをよむ女」「ヨッパラヒ」1931 第1回独立展 「新聞をよむ女」「肖像」「風景海」「裸体習作」「労働者区料理店」「頭」「窓による」「ナポリの浮浪者」「水浴構図」「半身」1932 第2回独立展 「手紙をかくブルトンヌ」「海(エトルタ)」「夏」「ギター奏手」1933 第3回独立展 「岩山」(5点)「登山用具静物」1934 第4回独立展 「虎」1935 第5回独立展 「雨霽(熊野川)」「静物」1936 第6回独立展 「群猿」1937 第7回独立展 「生蕃」1943 第18回国展 「雉子」1944 第19回国展 「柘榴静物図」1946 第20回国展 「佛頭不動明王鬼面百点の内」1947 第21回国展 「赤い卓」「雨上り」1947 第22回国展 「八角瓶と柘榴」「雨上る」1948 第23回国展 「硝子器」「桃と水差し」「鳩と水差し」1949 第24回国展 「牛と静物」「牛のゐる風景」「窓辺静物」1950-55 出品せず1956 第30回国展 「無花果一顆」1957 第31回国展 「無花果五ツ」1958 第32回国展 「蜜柑」1959 第33回国展 「蜜柑五箇」1960 第34回国展 「葉上無花果」1961 第35回国展 出品せず1962 第36回国展 「西洋梨」「柚子」1963 第37回国展 「レモン」「円卓レモン」1964 第38回国展 「洋梨」1965 第39回国展 「静物」1966 第40回国展 「レモンとイチジク」1967から出品せず73年11月退会。

川本末雄

没年月日:1982/12/24

日展参事の日本画家川本末雄は、12月24日午前7時33分、心不全のため鎌倉市の自宅で死去した。享年75。1907(明治40)年熊本県玉名市で生まれる。29年東京美術学校日本画科に入学し、33年卒業、松岡映丘に師事する。38年映丘が没したため、翌39年より山口蓬春に師事、48年第4回日展に「水辺薄日」が初入選、翌29年第5回日展で「夕映」が特選、53年第9回日展「朝の渓谷」が特選・白寿賞・朝倉賞を受賞する。その後依嘱出品を続け、58年以来数度にわたって審査員をつとめる。59年日展会員、68年評議員となり、71年第3回改組日展「新秋譜」が文部大臣賞、また75年第7回日展出品作「春の流れ」で翌76年日本芸術院賞恩賜賞を受賞した。いずれも大和絵の伝統に現代的解釈を加えた清雅な風景画である。77年日展理事、80年同参事となる。また54年以来現代日本美術展にも数次出品、80年には東大寺昭和大納経で揮毫、82年勲四等旭日小授章を受章する。主な作品は上記のほか「浜風」(64年第7回社団法人日展)「雪の並木」(68年第11回日展)「秋耀」(70年第2回改組日展)など。日展出品歴1948 4回日展 「水辺簿日」1949 5回日展 「夕映」特選1950 6回日展 「早春の朝」依嘱1951 7回日展 「晩秋」1952 8回日展 「杉木立の風景」1953 9回日展 「朝の渓谷」特選、白寿賞、朝倉賞1954 10回日展 「倒影」依嘱1955 11回日展 「虹鱒」依嘱1956 12回日展 「秋瀑」依嘱1957 13回日展 「晨湖」依嘱1958 1回社団法人日展 「錦秋」審査員1959 2回社団法人日展 「冬日」会員1960 3回社団法人日展 「残雪」1961 4回社団法人日展 「鶏頭」1962 5回社団法人日展 「月明」1963 6回社団法人日展 「広野」審査員1964 7回社団法人日展 「浜風」1965 8回社団法人日展 「沼」1966 9回社団法人日展 「宵」1967 10回社団法人日展 「うしお」審査員1968 11回社団法人日展 「雪の並木」評議員1969 1回改組日展 「暁光」1970 2回改組日展 「秋耀」1971 3回改組日展 「新秋譜」文部大臣賞、審査員1972 4回改組日展 「湿原の夏」1973 5回改組日展 「朝」1974 6回改組日展 「苔樹」審査員1975 7回改組日展 「春の流れ」翌76年芸術院恩賜賞1976 8回改組日展 「流れ」1977 9回改組日展 「凍沼晨」理事1978 10回改組日展 「山の朝」審査員1979 11回改組日展 「峡谷」

山中信夫

没年月日:1982/12/14

美術という枠組そのものについて再考し、斬新な活動を続けていた山中信夫は、ニューヨークにおいて現地時間12月14日、敗血病のために客死した。享年34。1948(昭和23)年3月20日、大阪府に生まれ、69年多摩美術大学油絵科に入学する。大学紛争により、同年、同大学は全学封鎖され、山中はこの中で美術家共闘会議を結成し、70年より「美術史評」の同人となり同誌の編集にたずさわる。同年、多摩美術大学を除籍される。71年、第1次美共闘REVOLUTION委員会に参加し、1年間美術館、画廊の使用を中止する。同年、多摩川の川面に川の流れを撮った16ミリ映画を映写する「川に川を写す」という作品を発表し、注目される。72年、第2次美術史評社に参加。同年ピンホール・カメラによる作品を発表する。74年、第2次美共闘REVOLUTION委員会に参加し、1年間制作・発表を中止するが、翌年より活発に個展を行ない、ピンホール・カメラによる作品を展開させる。76-77年パリに、79-80年ブラジルに住む。82年パリ・ビエンナーレに出品して好評を得、パリ、ニューヨークでの個展が決まり、その下見の為に渡米中の客死であった。

野口昻明

没年月日:1982/11/15

時代小説の挿絵画家として知られる野口昻明は、11月15日午後10時58分、心筋コウソクのため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年73。1909(明治42)年8月17日名古屋市に生まれ、本名久夫。26年愛知県立工業学校図案科を卒業、その後上海に赴き、30年帰国、上京して挿絵画家小田富弥に師事する。35年中里介山の依頼により代表作「大菩薩峠絵本」の挿絵を描き、以後、伊東深水に入門し美人画も学んだ。44年日月社賞を受賞、49年第5回日展に「群像」が入選する。この後、日本経済新聞、毎日新聞、産経新聞、講談社、文藝春秋、新潮社、週刊読売、週刊朝日等に連載物の挿絵を担当、時代小説の挿絵画家として活躍した。挿絵の主な作品に、『大菩薩峠絵本』のほか池波正太郎の『堀部安兵衛』、今東光の『弁慶』、永井路子『王者の妻』、藤沢周平『孤剣抄』、杉本苑子『孤愁の岸絵巻物』などがある。東京、大阪、神戸等で個展開催。また日本作家クラブ、東京作家クラブに所属。

仁平有美

没年月日:1982/10/04

元近代日本美術協会副理事長仁平有美は10月4日午後6時50分、心不全のため水戸市の自宅で死去した。享年69。本名丹下豊明。1912(大正元)年11月12日茨城県水戸市に生まれ、28(昭和3)年茨城中学校を卒業する。33年日本美術学校洋画科を卒業。この頃、詩人小森盛、坂本七郎らと詩作活動を活発に行ない、詩誌「歴程」に投稿する。また、高村光太郎のアトリエに出入りし、草野心平らと交友する。35年帝展の改組に伴い第二部会が結成され、同展に「裸婦二容」を出品する。1938年美術誌「詩と美術」社に入社し、40年同社編集長となる。43年から45年まで応召、46年より曾宮一念に師事し、47年第21回展より国画会に出品。同会には49年第23回展までは仁平豊明の名で、50年24回展からは仁平有美の名で、56年第30回展まで出品を続ける。この間49年水戸において洋画団体「茨城洋画会」の創立に参加する。71年「花摘雲」で第三文明賞受賞。73年「日本民話」でル・サロン展銅賞受賞、また、フランス国際展に「桜島」を招待出品する。75年「ノルマンディの月」で近代日本美術協会大賞を受け、77年同会副理事長となる。80年同展に出品した「釧路湿原の丹頂」で内閣総理大臣賞を受賞。茨城美術協会理事、県芸術祭審査員をつとめる。

沢宏靱

没年月日:1982/09/24

創画会創立会員の日本画家沢宏靱は、9月24日病没した。享年77。1905(明治38)年3月18日、滋賀県長沼に生まれ、本名日露支。20年西山翠嶂に入門し、その後一時上京、独学した後、京都市立絵画専門学校選科に入学し、34年卒業する。この間31年の第12回帝展に「機」が初入選し、以後「牟始風呂」(34年)「管春」(38年)「芙渠」(40年)「考古学教室」(42年)等の花鳥・風俗画を帝展・新文展に出品、43年第6回文展で「夕映」が特選を受賞する。また40年の日本画大展覧会(大阪毎日新聞社主催)で「斜影」が大毎・東日賞、43年には野間美術奨励賞を受賞している。戦後、48年創造美術協会結成に参加し、51年には新制作派協会と合流、新制作協会日本画部の会員となり、更に74年新制作を離脱し創画会設立に参加、創立会員となった。新制作での作品に「礁」(53年)「歴層」(62年)「海の対話」(70年)等、また創画展では「寂寥の海」(75年)「染茜」(79年)「鳴門」(81年)などがある。80年京都府美術工芸功労者として表彰を受け、81年滋賀県文化賞を受賞。

to page top