本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。
(記事総数 3,120 件)
- 分類は、『日本美術年鑑』掲載時のものを元に、本データベース用に新たに分類したものです。
- なお『日本美術年鑑』掲載時の分類も、個々の記事中に括弧書きで掲載しました。
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没年月日:1985/07/14 「快傑黒頭巾」「まぼろし城」などの挿絵で知られる挿絵画家伊藤幾久造は、7月14日午前10時19分、心不全のため東京都文京区の東京健生病院で死去した。享年84。明治34(1901)年7月13日東京日本橋区に生まれ12歳の頃松本楓湖門下で四条派の画家中山秋湖に入門するが飽き足らず、16、7歳で伊東深水に学び始める。大正9年、深水の紹介で博文館発行の『講談雑誌』に大仏次郎作「鞍馬天狗-御用盗異聞」の挿絵を描いてデビュー。同11年頃より講談社の『少年倶楽部』に執筆を始め、時代物を中心に活躍。満州事変以降は戦争画にも筆を奮い、昭和11(1936)年『講談社の絵本』第1号に池田宣政作「乃木大将」の挿絵を描いて『講談社の絵本』の型式を定着させた。同じ頃『少年倶楽部』に高垣眸作「快傑黒頭巾」「まぼろし城」の挿絵を描き原作の怪奇的イメージを巧みに絵画化して人気を博した。第二次世界大戦中は歴史的人物、特に戦国武将の伝記の挿絵を担当。戦後も主に少年向け雑誌に時代物やSFの挿絵を描いたが、同35年頃からの漫画ブーム以後は一線を退いた。代表作として、他に白井喬二作「神変呉越草紙」、海野十三作「火星兵団」「地球要塞」などがある。
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没年月日:1985/07/05 独立美術協会会員の洋画家山田栄二は、7月5日午後3時30分、甲状せんがんのため、福岡市の九州がんセンターで死去した。享年73。明治45(1912)年6月4日福岡県福岡市に生まれ、昭和5(1930)年県立修猷館を卒業。同8年二科展に初入選。翌9年第4回独立展に「静物」で初入選し、以後同展に出品を続ける。同13年第8回展に「貝殻」「恐怖」を出品して独立賞受賞。同18年同会会友、同22年同会員に推される。同28年渡欧しパリに学んで32年に帰国。同年の独立展に滞欧作を特別陳列する。翌年毎日新人展、朝日秀作展に出品。同48年再渡欧。フランスで個展をたびたび開く一方、49、51、52年に個展などのため一時帰国。同57年滞欧15年を記念して福岡で大個展を開く。絵画は純粋になる程に抽象性を増すが、人間の感性は自然から離れることはできないとし、具体的モチーフを用いながら実物写生から離れた色彩、構図を持つ詩的な作風を築いた。クレー、ミロ、シャガール等の影響が認められる。没後の昭和61年遺作画集が刊行され、福岡市美術館で遺作展が開かれた。独立展出品略歴-5回(昭和10年)「窓際」「魚」、15回(同22年)「魚のある静物」「憩ひ」、20回(同27年)「月夜」「桐の実」「魚」、25回(同32年)「秋の巴里郊外」「静物」「旅愁」「花と廃屋」「黒の中の花」「シューブルーズの冬枯れ」「窓の花」「花と夜」「秋愁」「黄昏のカーニュ、シュールメール」「南欧の夢」「宵」「紫の花」「モンテカルロ」「赤の花」「群花」、30回(同37年)「作品A」「作品B」、40回(同42年)出品せず、45回(同52年)「花と教会」「菊一輪と果実」、50回(同57年)「花祭りの夜」「赤い空」
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没年月日:1985/06/13 二紀会委員の洋画家宮嶋美明は6月13日午後8時41分、急性心不全のため千葉県船橋市の済生会船橋済生病院で死去した。享年72。大正元(1912)年9月5日新潟県北蒲原郡に生まれる。本名正一。昭和17年第12回独立美術協会展に「赤とんぼ」で初入選し以後同展に8回出品するが、同28年より二紀会に移り「夕暮の街」「工場」を出品、同32年第11回同展に「消えてゆく川」「街の母子」を出品して同人賞、翌年第12回展に「たそがれの家路」「死刑台に死す」「街に狂える人」「夜なかの客」「娘の父は死す」を出品して同人努力賞、翌34年同第13回展に「死」「癌」「喰」「魚」「涙」「夢」を出品して同人優賞、同45年第24回展に「心臓移植」「研究と失敗」を出品して黒田賞を受賞する。人体をモチーフとして現代社会の悲哀を描き問題を提起する。暖かい灰色を基調とする柔らかい色彩と静かな構図の中に強靭な主張を込め、代表作に「生命」のシリーズがある。二紀展出品略歴 10回(昭和31年)「都会の裏街」、15回(同36年)「歌」、20回(同41年)「人工授精」、25回(同46年)「やすらかに」「無情」、30回(同51年)「別れ」「離婚」、35回(同56年)「蝕」「飢」
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没年月日:1985/05/21 日本画院同人の日本画家押田翠雨は、5月21日午後5時25分、肺不全のため東京都新宿区の慶応病院で死去した。享年92。明治25(1892)年9月29日東京小石川に哲学者井上哲次郎の次女として生まれ、本名スガ子。同44年東京府立第二高等女学校(現都立竹早高校)を卒業し、永地秀太に師事、洋画を学ぶ。大正13年二科会信濃橋(大阪)研究所に入り、同15年赤松麟作に師事。昭和3年には岡田三郎助の研究所に入り、また7年小林萬吾に師事する。戦後日本画に転じ、22年水上泰生に学び、26年より野田九浦に師事、日本画院に入会する。以後同会に出品し40年第25回日本画院展で記念賞を受賞した。56年11月新宿三越で「押田翠雨日本画展」を開催、6曲1隻の屏風「孝女白菊」(東京都近代文学博物館)を出品する。これは絵の上に「孝女白菊詩」全文を書いたものであったが、明治21年歌人落合直文が発表した長編の新体詩がよく知られる同詩の原作が、父井上哲次郎であることを示し、話題となった。
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没年月日:1985/05/07 フランス、ドルトーニュに住んで制作を続けていた新制作協会会員の洋画家田中修は、5月7日午後1時、脳こうそくのため静岡県下田市で死去した。享年82。明治36(1903)年3月3日愛媛県温泉郡に生まれる。本名修。昭和3(1928)年東京高等師範学校を卒業、翌4年第16回二科展に「廃園」で初入選。同7年より16年まで同展に入選を続ける。同17年より新制作協会へ出品。同19年第9回同展で新作家賞を受賞、同26年第15回展では「牛」「林」「馬」を出品して岡田賞を受け翌年同会会員となる。同29年11月渡仏。同32年7月帰国し翌年白木屋で個展を開くが同年9月再渡仏。以来フランスに住んで風景画を描き続けた。広やかな田園に建つ白壁の家などを柔らかく滋味ある色彩で描き、アンチームな田園詩を謳った。同59年夏に発病し、帰国して療養していた。 新制作展出品略歴-10回(昭和21年)「兎」「庭」「名園」「山」「夕」、15回(同26年)「牛」「林」「馬」、20回(同31年)「鍵居」「セゴヴィア」、25回(同36年)「作品」、30回(同41年)「落書の壁」「きづた」、35、40、45回出品せず
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没年月日:1985/04/18 春陽会会員の洋画家田中寿太郎は4月18日午後5時20分、肺気しゅのため相模原市の田名病院で死去した。享年80。明治37(1904)年8月30日岡山市に生まれる。葵橋洋画研究所、川端画学校で洋画を学ぶ。林重義に師事。昭和5(1930)年第8回春陽展に初入選し同8年第11回展より毎回同展に出品。同14年第17回展に「ベレー帽の男」「挙闘」「夜の肉店」「サーカス」を出品して春陽会賞受賞。翌年同会友に推挙され、同22年同会会員となる。同39年7月より11月まで欧州を巡遊。初期には静物、風景と広く画題を求めたが、馬を描くことを好み馬と人物を組み合わせた作品は初期から晩年まで一貫して描かれた。主要なモチーフのみを描き、周囲の状況や背景を捨象して簡潔ななかに詩情漂う画風を示した。 春陽展出品略歴-11回(昭和8年)「花」「崖と入江」「石切山に通ふ道」、15回(同12年)「夏の花壇」「温室」、20回(同17年)「腕を組む男」「花」「婦人像」、30回(同28年)「漁船」「漁船」「静物」、35回(同33年)「馬と人」「馬上」「白い馬」、40回(同38年)「馬上」「採石」「馬と少年」、45回(同43年)「サーカス」、50回(同48年)「サーカス」、55回(同53年)「工場風景」、60回(同58年)「農夫と家族」、63回(同61年)遺作「北大植物園」「サーカスの少女」「秋庭」「パンジー」「馬上」
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没年月日:1985/03/20 読み:すぎもとてつろう 日本画家杉本哲郎は、3月20日午前8時14分、急性呼吸不全のため京都市山科区の音羽病院で死去した。享年85。明治32(1899)年5月25日滋賀県大津市に生まれ、初め隣家の山田翠谷に絵の手ほどきを受ける。大正2年山元春挙の画塾早苗会に入塾、また同年京都市立美術工芸学校3年から京都市立絵画専門学校に入学し、同9年卒業する。11年第4回帝展に「近江富士」が初入選。翌年研究会白光社を結成し、これを機に早苗会を離れる。東洋古美術の研究を志し、同12年朝鮮、満州、中国を旅行。昭和10年には仏教美術の研究に着手し、高楠順次郎、松本文三郎に学ぶ。12年外務省文化事業部嘱託としてインドのアジャンタ洞窟壁画の模写に従事し、翌年セイロンのシーギリヤ岩崖壁画を模写、15年には満州史跡調査員としてモンゴルのワーリン・マンハ慶陵壁画模写に従事する。18年東本願寺南方仏教美術調査隊としてインド、クメール、タイ、スマトラ、ジャワなどの仏教美術を調査、26年インド・シャンチニケータン大学客員教授として教鞭をとる。44年東本願寺津村別院壁画「無明と寂光」を完成後、同年福岡市メシア教本部から万教帰一の壁画「世界十大宗教」壁画の制作を依頼される。仏教より制作に着手し、46年ネパールからイラン、トルコ、イスラエルなど各地を巡り、ゾロアスター教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などを研究取材。12年をかけて制作を続け、53年十大宗教壁画の中心となる「神々の座-ヒマラヤ」を完成。すべてのシリーズを終えた。この間51年ブラジルより国際文化勲章(メーダラ・デ・メリート・インチグラシオ・ナショナール」を受章、59年京都市文化功労者となった。著書に『杉本哲郎画集及び画論』(昭和9年 東京アトリエ社)『私の幼少年代』(38年京都白川書院)『こころの風景』(44年初音書房)などがある。
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没年月日:1985/03/04 独立美術協会会員、武蔵野美術大学名誉教授の洋画家中間冊夫は3月4日脳卒中のため東京都杉並区の自宅で死去した。享年76。明治41(1908)年10月10日鹿児島県川辺郡に生まれる。私立高輪中学校卒業。川端画学校に学び、二科展に出品、また昭和5年5回一九三〇年協会展に「母子」など5点を出品し、H氏奨励賞を受賞する。独立美術協会展には同6年の第1回展に「母子」「四人」を出品したのをはじめ毎年出品を続け、同11年6回独立展に「海の人物」「漁夫三人」「丘上」を出品し独立賞を受賞、独立美術協会会友となり、同15年の10回独立展には「蒙彊」3点を出品し会員に推挙された。戦後は独立展の他、美術団体連合展、日本国際美術展、現代日本美術展、国際形象展などに出品し、また、欅会、十果会を結成する。この間、同37年武蔵野美術大学教授に就任、同58年同学名誉教授の称号を受けた。重厚なマチエールによる半具象的な裸体表現に独自の作風を示し、戦後の具象絵画における一傾向を提示した。作品は他に「青い人」(同40年)などのほか、「うずくまる」の連作がある。
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没年月日:1985/02/24 無所属の洋画家で安井賞受賞作家有元利夫は、2月24日肝がんのため東京都文京区の日本医科大学病院で死去した。享年38。将来を大いに嘱望されながら38歳の若さで急逝した有元は、昭和21(1946)年9月23日疎開先の岡山県津山市に生まれたが、生後間もなく一家が東京都台東区の実家へ戻ったため、以後没年までのほとんどを谷中で生活した。小学校低学年の頃からゴッホに強い興味を抱いたとされ、都立駒込高等学校在学中同校で教えていた中林忠良の指導を受け東京芸術大学進学を決意する。同44年東京芸術大学美術学部デザイン科に入学、在学中の同46年ヨーロッパを旅行し、とくにイタリアでフレスコ画に接して深い感銘を受けた。この体験は帰国後、日本の古画、仏画へと目を向けさせることにもなり、また、フレスコ画と同質の質感をもとめて岩絵具を用い始めることにもなった。同48年芸大を卒業、卒業制作「私にとってのピエロ・デラ・フランチェスカ」は芸大買上げとなった。同年電通に入社しデザインの仕事に携わる側ら制作し、翌年にはみゆき画廊で二人展、同50年には同画廊で個展を開催した。翌51年大阪フォルム画廊東京店で「有元利夫展-バロック音楽によせて-」を開催、同年電通を退社し東京芸術大学非常勤講師をつとめながら画業に専念するに至った。美術団体に所属せず、明日への具象展、具象現代展等に出品したが、同55年からは彌生画廊での個展で専ら制作発表した。この間、同53年21回安井賞展に「花降る日」「古典」を出品し、この年のみの特別賞となった安井賞選考委員会賞を受賞し注目され、同56年には安井賞展に出品した「室内楽」「厳格なカノン」の前者の作品で第24回安井賞を受賞した。同58年2回美術文化振興協会賞受賞。版画、彫刻、陶芸にも独自の才能を発揮し、同53年最初の銅版画集『7つの音楽』を刊行したのをはじめ、『一千一秒物語』(同59年)に至るまで幾つかの銅版画集を出した。また、バロック音楽を愛し、自らもリコーダを吹いた。岩絵具、箔、金泥などを用いた独特の油彩技法と、素朴な画情をたたえた作風は、洋画界に新領域を拓くものとして期待されていた。画文集に『有元利夫 女神たち』(同56年)、『もうひとつの空』(同61年)がある。
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没年月日:1985/02/05 春陽会会員の洋画家宮脇晴は2月5日午後11時14分、前立せん肥大に肺炎を併発し、名古屋市の名古屋大学附属病院で死去した。享年82。明治35(1902)年2月23日名古屋市に生まれ、大正9(1920)年名古屋市立工芸学校図案科を卒業。春陽会会員の洋画家大沢鉦一郎に師事し、同9年第2回帝展に謹直な写実をみせる「自画像」で初入選。昭和2(1927)年より大調和美術展に木彫の能面を出品。同7年第13回帝展に「孫を抱ける老母の像」で再び入選する。翌8年第11回春陽展に「少女立像」で初入選し以後同展に出品を続ける。同17年第5回新文展に「子供達と母」で入選。翌年の同展では「子等遊ぶ谿」で特選となる。戦後の同22年春陽会会友、同28年同会員に推される。子供を描くことを好み、初々しく溌刺たる生命感を明るい色調で表わした。 春陽展出品略歴-第11回(昭和8年)「少女立像」、15回(同12年)「樹上姉弟図」「瀧に遊ぶ」「朝の海を見る」、20回(同17年)「モンペを穿く女」、30回(同28年)「黄衣由美」「ミルクを飲む幼児」、35回(同33年)「T」「S」「C」、40回(同38年)「ポニーと少女」「鳥笛」、45回(同43年)「たき火」「月と薄」、50回(同48年)「挽く」「藍の中の座像」、55回(同53年)「横たわる裸婦」、60回(同58年)「今年竹」、62回(同60年)遺作「犬をひく自画像」「夜の自画像」「ミス・ホディス」
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没年月日:1985/01/15 村松梢風作「近世名勝負物語」の挿絵などで知られる挿絵画家富永謙太郎は、1月15日午前4時51分、心筋梗塞のため東京都杉並区の河北総合病院で死去した。享年80。明治37(1904)年2月12日静岡県に生まれる。高等小学校卒業後上京、絵看板屋などで働きながら絵を学ぶ。昭和2年独立し友人と商業美術工芸社を設立、絵看板を描く。6年島田啓三を知り、ポケット講談社で子供雑誌の挿絵を描き始める。7年『ポケット講談』に書いていた作家藤森順三の紹介で菊池寛の知遇を得、認められて『日の出』に菊池寛の短編「妻は見たり」の挿絵を描く。翌8年には読売新聞に載った菊池寛「結婚街道」の挿絵を描き、また江戸川乱歩「地獄の花嫁」など現代小説や探偵小説の挿絵を多く手がける。竹田敏彦、長田幹彦、久米正雄、横溝正史、富田常雄らとの仕事も多く、写実的な美男美女の挿絵を得意とした。代表作に、菊池寛の少女小説第一作「心の王冠」、読売新聞で28年から8年間続いた村松梢風「近世名勝負物語」、江戸川乱歩「地獄の道化師」などがある。作家クラブ名誉会員で岩田専太郎、志村立美とともに挿絵界の三巨匠として知られた。
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没年月日:1985/01/14 挿絵画家寺本忠雄は、1月14日午前零時21分脳梗塞のため、東京都練馬区の練馬総合病院で死去した。享年83。明治34(1901)年2月15日東京市深川区に生まれる。独学で絵を学び、大正8年『少年倶楽部』『武侠少年』などの少年雑誌でデビュー。のち『オール読物』『講談倶楽部』『富士』『サンデー毎日』ほか、大衆雑誌、婦人雑誌の現代小説に挿絵を描く。大正13年より新聞小説も手がけ、朝日新聞、読売新聞、報知新聞、国民新聞などに挿絵を描いた。この間、大正10年荒木十畝に師事、日本画を学び、読画会に入る。菊池寛、久米正雄、直木三十五らとのコンビによる小説挿絵を多く担当し、代表作に昭和7年菊池寛作「妖麗」(『講談倶楽部』)、同年中村武羅夫作「薔薇色の道」(『富士』)、同10年小島政二郎作「感情山脈」(朝日新聞)の挿絵がある。写実的な美人画をよくしたが、戦後、時代小説に転向、江戸川柳を絵画に描くなど、独自の境地を拓いた。『夫婦草紙』『夫婦絵草紙』など3冊の著書を残している。
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没年月日:1985/01/10 洋学家で安井曽太郎記念会理事の小野末は、1月10日脳血栓のため東京都千代田区の東京警察病院で死去した。享年74。明治43(1910)年4月10日新潟市に生まれる。本名末吉。昭和9年新潟師範学校卒業後上京、安井曽太郎に師事しその内弟子となった。同13年2回一水会展に初入選、同18年7月一水会展で「早春」などで一水会賞を受賞する。戦後の同21年一水会会員となる。同23年10回一水会展に「華街展望」で一水会優賞を受賞。また、同24年一燈園新人賞、同25年第1回アトリエ新人賞を受けた。同26年一水会委員となるが、同47年には一水会を退会した。この間、一水会展、個展の他、現代日本美術展などに出品、同34年には国際具象派協会創立に参画した。同35-38年の間渡欧、同40年には東南アジア、エジプト、ギリシャ、同47、49、50年の三度にわたりメキシコを訪れた。また、同31年に設置された安井曽太郎記念会の運営に携わり、安井賞の評議員、運営委員もつとめた。同53年東京セントラル美術館と梅田近代美術館で回顧展を開催する。同56年、東京、大阪の高島屋で個展「砂漠の歌」を開催、「乾いた湖」「カボルカの砂丘」など大作15点を発表し、翌年この個展により昭和56年度芸術選奨文部大臣賞を受賞した。安井写実主義から出発し、一時フォンタナなどの抽象絵画にもひかれたが再び写実に徹し、自然の厳しい凝視から生まれた緊迫感のある画面をつくりあげた。作品は他に、「闘牛」「岩山」などがある。
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没年月日:1984/12/07 小島善太郎の死後、独立美術協会創立会員の最後の一人となった鈴木亜夫は、12月7日午前7時30分、老衰のため、東京都調布の自宅で死去した。享年90。明治27(1894)年3月26日、工学博士鈴木幾弥太の次男として大阪に生まれる。同45年、東京の芝中学に入学、葵橋洋画研究所に学び東京美術学校西洋画科に入る。同校在学中の大正5(1916)年第3回二科展に「ターンテーブル」で初入選。以後、同会に出品を続ける。同10年、東美校を卒業し、同研究科に進み、藤島武二に師事する。万鉄五郎を中心とする円鳥会、および中央美術展に参加し、「葡萄と女」で中央美術賞を受賞する。昭和4(1929)年、一九三〇年協会に参加。同5年、里見勝蔵らの同志と独立美術協会を創立。フォービスム的色彩と自由な筆使いをとり入れつつ、日本的油絵を追求する。同19年、陸軍省の依嘱によりビルマに赴き記録画「ラングーンの防空とビルマ人の協力」を制作。戦後も独立美術協会に出品。同41年渡欧し翌年日動画廊で個展を開いてその成果を発表する。同57年には銀座、ギャラリーミキモトで米寿記念回顧展を開く。風景、静物のほか、人物をモチーフにとり入れた象徴的作品などを描き、詩情ある画風を築いた。 二科展出品歴 第3回(大正5年)「ターンテーブル」、4~6回出品せず、7回「花篭」、8回(同10年)出品せず、9回「赤日傘の女」「肩を拭く女」、10回「静物」、11回「花と少女」「風車のある丘」、12回出品せず、13回(同15年)「黒い船」「裸婦立像」「裸婦臥像」「硝子戸の中の少女」「花を生ける女」、14回(昭和2年)「樹蔭読書」「裸婦座像」「夏」「碇泊」、15回「バルコン」「編物するM子」、16回「露臺母子」「樹蔭午睡」「日傘さす婦人」「読書する少女」「グロキシニヤ」「龍洞院の百日紅」、17回(同5年)「母性」「池畔緑陰」「支那服の少女」「蕃布を配せる静物」「Y楽長補の像」 独立展出品歴 第1回(昭和6年)「鴨」「ヴァリエテ」「サーカスの娘達」「卓上静物」「女の顔」、2回「巌」「子供の顔」「二人の曲芸師」「少年と軍楽手」「女の顔」「渓流」「テレジーナの踊り」「伊豆下田風景」「オランダ人形」、3回「白馬」「牛に騎る女」「夏の少女」「舗道」「雨」「豹」「馬ト野獣」、4回「裸婦立像」「薔薇」「狩獵」「幼年像」「月と白馬」「薔薇」「人形を造る」、5回(同10年)「撮影」「馬と噴火口」「牡丹」、6回「猿と踊り子」「牡丹」「麦秋」「乗馬」「人形」、7回「草上画作」「競馬」「樵夫」、8回「TUBA」「丘の上」「桜」、9回「闘ひの譜」、10回(同15年)「渚」、11回「山湖秋色」「海濱の午後」「駒ケ岳新雪」「峠路」、12回「穂高初秋」「二人のアンコ」「朝岳」「上高地初秋」、15回(同22年)「海のアンダンテ」、16回「街の楽団」、18回(同25年)「お茶時」「裸婦習作」、20回「廃船」「志賀島風景」、21回「老婦人像」「手風琴」「化粧」、22回「室内婦人」「日傘」、23回(同30年)「朝顔A」「芋」「朝顔B」、24回「水をやる」「ばらの花」、25回「夏の午後」「夏の日」、26回「赤い牛舎」「ミサイル」「猩々の舞い」、27回「北海山湖(摩周湖)」「アイヌの長老」「地球岬」、28回(同35年)「廃船」「船のある静物」「船のある静物(桜島)」、29回「土器」「土偶」、31回「無人灯台」「人魚のいる風景」、32回「湖騒の村」「獅子」、33回(同40年)「能登の寒冷前線」「静物」、34回「メニール・モンタンの坂道」「巴里の壁」、35回「トレドの驢馬」「籘椅子に寄る」、36回「マルケン島の女」「石の馬(無力の抵抗)」、37回「槍」「新聞を読む人」、38回(同45年)「妖雲」「巴里の花屋」、39回「シャルトルへ行く」「実りの行進」、40回「暁雲白馬」「みどりの庭」、41回「亜夫山荘遠望(会津芦の牧温泉)」「ムウムウの満里子」、43回(同50年)「石狩川赤陽」「楽譜持てる少年」、44回「風紋」「室内」、45回「あじさい」「牡丹」、46回「桜島赤照」「薔薇図」、47回「五島大瀬崎の灯台」「砂丘」、48回(同55年)「紫陽花」、「葡萄実る頃」、49回「紫陽花の庭」「紫陽花」、50回「葡萄の秋」、51回「椅子に依るK夫人」、52回「甲斐駒ケ岳」
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没年月日:1984/12/05 二科会監事の洋画家、堀越隆次は、12月5日午前6時50分、貧血病のため愛知県瀬戸市の陶生病院で死去した。享年68。大正5(1916)年6月26日、茨城県土浦市に生まれる。土浦中学を経て、昭和14(1939)年東京高等工芸学校(現千葉大学)を卒業。同年名古屋市日本陶器(現ノリタケ)に入る。服部正一郎に師事。同15年東満州に於て兵役に服し、同18年帰国。同年第30回二科展に満州風景「氷河」で初入選する。以後、ノリタケ・カンパニーに勤務する一方で同展に出品を続け、同26年第36回二科展「母と子と」(A)、(B)、(C)、三部作を出品して二科賞を受け、翌年同会会友となる。同30年第40回二科展には「罰」「母と子」を出品し会友賞を受賞。同39年二科会員となる。同41年第51回二科展に「とりとひと-B」を出品して会員努力賞を受賞。同54年同会評議員、同59年同会監事となる。同46年より53年まで中部国際形象展、同54年から56年まで中日展にも出品。社会の矛盾に耐えて生きる人々の生活に深いまなざしを注ぎ、プリミティブな味わいのある画風を示した。 二科展出品歴–30回(昭和18年)「氷河」、31回「筑波遠望」「水郷」、32回「家路」、34回「家族」、35回(同25年)「風の吹く日に」、36回「母と子と」(A)、同(B)、同(C)、37回「家族B」、同C、38回「路傍A」、同B、同C、39回「よる」「こまった」、40回(同30年)「母と子」「罰」、41回「母子A」、同B、42回「工場の母子」、43回「家族A」、同B、44回「枷B」、45回(同35年)「ささえるA」、同C、46回「傷ついた人(A)」、48回「母子」、49回「ぎせい」「白いみち」、50回(同40年)「鳥と人」、51回「とりとひと-B」、52回「鳥と人とA」、53回「はれた日」、54回「ある家族」、55回(同45年)「ある家族A」、56回「ある家族」、57回「ピエロ……たち」、58回「こわれた人形」、59回「家族」、60回(同50年)「どこへ」、61回「ささえる」、62回「廃船」、63回「回想」、64回「集積」、65回(同55年)「余★」、66回「サン・ミゲルの母子」、67回「ふたりと二人」、68回「聖家族」
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没年月日:1984/11/22 洋画家で挿絵画家として著名な生沢朗は、11月22日心筋こうそくのため東京都目黒区の東邦医大付属大橋病院で死去した。享年78。本名正一。明治39(1906)年9月12日兵庫県に生まれる。昭和3年日本美術学校を卒業後、台湾で壁画の模写に従事したのち報知新聞社に入社し、政治漫画を執筆する側ら帝展へ出品。同11年には第23回二科展に「ラグビー」が入選する。戦後は、同21年行動美術協会結成に際し会友となり、同23年第3回展に「埠頭付近」「河畔」他を出品し会員に推挙された。行動展への出品作には「競馬場風景A」(4回)、「鳩を囲む裸婦」(9回)などがあり、フォーヴィスム的な作風を示した。一方、同26年の「週間朝日」「月刊読売」に表紙絵を描くなど挿絵画家としても活躍し、同33年行動美術協会退会後は新聞、雑誌等の挿絵に腕をふるった。同44年立原正秋『冬の旅』(読売新聞)、同45年大岡昇平『愛について』(毎日新聞)をはじめ、井上靖『氷壁』『化石』『星と祭』(朝日新聞)など新聞連載小説の挿絵を担当、都会的でかつ陰影にとむ独特の持ち味で一躍流行児となった。同46年には井上靖らとシルクロード、ヒマラヤを訪れ、そのスケッチを中心に『生沢朗画集-ヒマラヤ&シルクロード』を同48年に刊行した。スポーツマンとしても知られ、晩年は水墨画に親しんでいたという。『氷壁画集』(同32年)、『生沢朗さし絵集』(同49年)などがある。
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没年月日:1984/11/02 二科会理事、日本水彩画会理事の洋画家山本不二夫は、11月2日午前0時10分、脳血栓のため、千葉県八千代市の新八千代病院で死去した。享年79。明治38(1905)年2月1日、千葉県佐原に生まれる。千葉県立佐原中学校を経て、大正15(1926)年東京商科大学(現一橋大学)専門部を卒業後、昭和7年まで旅館、運送業を自営する。のち、同13年まで内務省土木部に務め、大戦中は海軍省の嘱託となる。この間、同9年に二科展、日本水彩展に初入選。以後同展への出品を続け、同14年日本水彩展に「佐原風景」「高楼聴蝉」を出品してキング賞を受賞、同16年同会会員、および二科会会友となる。戦後、本格的に制作に専念し、再編された同二団体に参加。同25年、再編後の新制度下の二科展で再び会友に推挙され、同30年同会会員となる。同36年、フランスのサロン・コンパレゾンと二科展の交流のため渡欧し、5カ月間美術品を視察。同38年二科展に「樹から生れた女」「ねんりん」を出品して会員努力賞を受け、同40年二科会50周年記念展では「あしたの女達」で総理大臣賞を受賞、同44年の同展には「山の湖で」を出品し青児賞を受ける。同45年ポルトガル、モロッコ及びヨーロッパを訪れる。水平線、垂直線を基調とする構図に女性の単身像あるいは群像を配し、抒情的作風を示した。二科展出品歴-21回(昭和9年)「佐原風景」、22回(同10年)「水辺(水彩)」、23回「監督船就航」、24回「佐原河港」、25回「総領息子」、26回「静か」、27回(同15年)「外堀線」「美しき佐原河港」、28回「陽気な女車掌」「佐原の跳橋」、29回「元気なエンヂさん」、31回(同21年)「夕陽の佐原」「十六島の娘」、32回「R夫人像」、34回「横臥裸婦」「帳りの中の裸婦」「二人のニンフ」、35回(同25年)「いこひ」、36回「森」「花と裸女」、37回「花をくわえた女」「二人」、38回「暗い海岸」「目覚めたる女」、39回「崩れゆく夢」、40回(同30年)「野のなやみ」「断想」「山のいのち」、41回「麦愁」「青い気圧」「岩の芽」、42回「静かなる谷間」「鳥と語れば」、43回「腰かける裸婦」「二人の裸婦」「立てる裸婦」、44回「朝粧」「花をもてる妖女達」「花にくちづけす」、45回(同35年)「土麗都」「楼夢」、46回「積寥」「組寂」、47回「黒い気流」、48回「樹から生れた女」「ねんりん」、49回「樹層」「巌の華」、50回(同40年)「あしたの女達」、51回「あじさいの咲く頃」、52回「三人の舞妓」、53回「霧は流れる」、54回「山の湖で」、55回(同45年)「あるつどい」、56回「赫い道」、57回「残雪の消える頃」、58回「猫を飼ふ女」、59回「髪」、60回(同50年)「梳づる女」、61回「鳥と戯れる」、62回「海の見える丘」、63回「紫陽花を愛す」、64回「月光のある部屋」、65回(同55年)「めざめ」、66回「集り」、67回「静かなる」、68回「砂の床」、69回「花をかざす」
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没年月日:1984/10/29 晨鳥社顧問、日展参事の日本画家麻田辨自は10月29日午前4時、肝不全のため京都市上京区の京都府立医大附属病院で死去した。享年84。明治32(1899)年12月14日京都府富本村に生まれ、本名辨次。大正7(1918)年京都市立絵画専門学校に入学、在学中の10年第3回帝展に旧姓中西辨次の名で「洋犬哺乳」が初入選する。13年卒業と共に研究科に進学、昭和2年より麻田辨次の名で帝展に出品している。4年西村五雲に師事し、帝展と共に五雲画塾の晨鳥社展にも出品、また創作版画も手がけ、5年第11回帝展に日本画「こな雪の朝」と共に「燕子花其他」の版画作品を出品する。戦前の作品としては9年第15回帝展「南瓜畑」、12年第1回新文展「たにま」、15年紀元二千六百年奉祝展「白秋」などがあるが、概して師五雲風の練達した画風の小品に佳作を見る。13年師五雲死去の後暫時低迷するが、戦後、風景画に新境地を開き、25年第6回日展「樹蔭」が特選、27年第8回日展「群棲」が特選・白寿賞を受賞。28年以後たびたび審査員をつとめ、34年第2回日展「風霜」は文部大臣賞、更に36年第7回日展出品作「潮騒」により翌年第21回日本芸術院賞を受賞した。33年より日展評議員、47年理事、52年参与、55年参事となり、52年より名を辨自としている。また晨鳥社顧問をつとめ、38年、48年の2度にわたりヨーロッパを訪遊する。49年京都市文化功労者、50年京都府美術工芸功労賞を受賞、京都府美術工芸功労者となる。著書に『巴里寸描』(52年求龍堂)がある。 主要出品歴大正10年 第3回帝展 「洋犬哺乳」大正11年 第4回帝展 「遊鶴図」大正15年 第7回帝展 「鷲」昭和2年 第8回帝展 「花鳥」昭和5年 第11回帝展 「こな雪の朝」「燕子花其他」昭和6年 第12回帝展 「洋犬図」昭和7年 第13回帝展 「グレーハンド」昭和9年 第15回帝展 「南瓜図」昭和11年 第1回文展鑑査展 「土に遊ぶ」昭和12年 第1回新文展 「たにま」昭和13年 第2回新文展 「霧雨」昭和14年 第3回新文展 「花かげ」昭和15年 紀元二千六百年奉祝展 「白秋」昭和18年 第6回文展 「澤辺」昭和21年 第2回日展 「馬」昭和23年 第4回日展 「たにま」昭和24年 第5回日展 「暮雪」昭和25年 第6回日展 「樹蔭」(特選)昭和26年 第7回日展 「樹間」(無鑑査)昭和27年 第8回日展 「群棲」(特選・白寿賞)昭和28年 第9回日展 「澗」(審査員)昭和29年 第10回日展 「樹園」昭和30年 第11回日展 「飛鴨」(依嘱)昭和31年 第12回日展 「水光」(審)昭和32年 第13回日展 「沼辺」(依)昭和33年 第1回新日展 「新樹」(評議員)昭和34年 第2回新日展 「風霜」(文部大臣賞、審、評)昭和35年 第3回新日展 「魚紋」(評)昭和36年 第4回新日展 「沼」(評)昭和37年 第5回新日展 「鴛」(審、評)昭和38年 第6回新日展 「無月」(評)昭和39年 第7回新日展 「潮騒」(評)昭和40年 第8回新日展 「山湖」(評)昭和42年 第10回新日展 「夕虹」(評)昭和43年 第11回新日展 「暈」(評)昭和44年 改組第1回日展 「曲水」(審、評)昭和45年 改組第2回日展 「飛鴨」(評)昭和47年 改組第4回日展 「虹立つ」(審、理事)昭和48年 改組第5回日展 「遠雷」(理)昭和49年 改組第6回日展 「馬」(審、理)昭和52年 改組第9回日展 「静謐」(参与)昭和53年 改組第10回日展 「聖火」(参与)昭和54年 改組第11回日展 「唐崎之松」(参与)昭和55年 改組第12回日展 「暮雪」(参事)昭和56年 改組第13回日展 「藤なみ」(参事)昭和57年 改組第14回日展 「樹木」(参事)昭和59年 改組第15回日展 遺作「樹下」(参事)
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没年月日:1984/09/24 元女子美術大学教授の洋画家高須靱子は、9月24日午後5時、老衰のため、東京都青梅市の青梅藤ケ丘病院で死去した。享年75。明治42(1909)年1月7日、鳥取市に生まれる。本名川澤雪枝。女子美術専門学校を卒業し、昭和4(1929)年に1930年協会展に出品。のち、独立美術協会に出品、同30年「花A」「花C」で独立賞を受賞、同34年、同会々員となる。また、同21年11月に設立された女流画家協会には、創立時から会員として参加し、のちに委員もつとめる。同23年までは、斎藤雪枝と称した。初期から花を描くことを好み、自由なタッチと豊かな色彩で装飾的な画面をつくりあげたが、同30年代後半から抽象的な傾向を示した。晩年は団体展への出品が少なくなり、同57年には独立美術協会会員を退いている。同30年より女子美術大学芸術学部で教鞭をとり、同46年より同49年まで同学部教授をつとめた。
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没年月日:1984/09/12 春陽会会員の洋画家角南松生は、9月12日脳こうそくのため東京都新宿区の駒ケ峰病院で死去した。享年92。本名松三郎。明治24(1891)年12月1日岡山市に生まれる。昭和8年から春陽会洋画研究所で学び、木村荘八、中川一政の指導を受けた。春陽会へは第10回展から出品し、同15年第20回展に「花」で春陽会賞を受賞、翌年春陽会会友、同22年春陽会会員となる。戦前の新文展には第4回から出品、戦後も第1回日展に出品したが翌22年には日展を離れた。同27、35、38、52年の4回にわり欧米を巡遊する。作品に「福沢諭吉像」(現慶応志木高蔵)などがある。また、村武らと浅草で天洋画会を設け、活動写真時代の映画館宣伝の草分けとして活躍したことでも知られる。
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