本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。
(記事総数 3,120 件)
- 分類は、『日本美術年鑑』掲載時のものを元に、本データベース用に新たに分類したものです。
- なお『日本美術年鑑』掲載時の分類も、個々の記事中に括弧書きで掲載しました。
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没年月日:2019/10/13 読み:あづまひでお 漫画家の吾妻ひでおは10月13日食道癌のため死去した。享年69。 1950(昭和25)年2月6日、北海道十勝郡浦幌町に生まれる。本名吾妻日出夫。65年浦幌高校入学。石ノ森章太郎の入門書を読み、漫画家を志し、同人誌に参加。68年高校卒業後、印刷会社に就職し上京するも、漫画を描ける環境を求め、板井れんたろうのアシスタントになる。69年「リングサイド・クレージー」(『月刊まんが王』12月号)でデビュー。70年初の連載「二日酔いダンディー」(『月刊まんが王』)を発表。74年『週刊少年チャンピオン』に4年間連載の「ふたりと5人」が人気を得て、この頃やわらかな丸みをおびた描線を特徴としたスタイルが定着し、「かわいいエロ」の描写がうかがえる。以後、筒井康隆や星新一に傾倒していた吾妻は、ギャグ、SF、不条理、美少女、ロリコンなどをモティーフに、少年少女誌、青年誌をはじめ、自販機本といったところに出没し、マニアックな人気を得、70年代の漫画シーンの一角を担う。79年エロマンガ誌『劇画アリス』連載の「不条理日記」は、SFでは国内で一番古い星雲賞の第17回でコミック部門での受賞。1989(平成元)年に1回目の失踪をし、その体験を描いた『失踪日記』は評価が高く、92年「夜を歩く」(『夜の魚』掲載)から、2回目の失踪を描いた99年の「街を歩く」(『お宝ガールズ』掲載)、98年のアルコール依存症治療を描いた2005年「アル中病棟」(前2作を含む書き下ろし、イーストプレス)の3部作は、第34回日本漫画家協会賞大賞、2005年度第9回文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞等を受賞している。2010年までの全作品リスト(倉田わたる作)掲載の『文藝別冊吾妻ひでお』(河出書房新社)がある。
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没年月日:2019/04/11 読み:もんきー・ぱんち 漫画家で大手前大学教授だったモンキー・パンチは4月11日肺炎のため死去した。享年81。 1937(昭和12)年5月26日北海道厚岸郡浜中町霧多布に生まれる。本名加藤一彦。幼少時代一時愛媛県で過ごす。中学時代に4コマ漫画を漫画雑誌に投稿し、原稿料をもらう体験をする。この頃は手塚治虫の影響が大きい。霧多布高校(定時制)卒業後、58年上京。東海大学附属通信工学校(後・東海大学短期大学)卒業。新聞配達所の住み込みや、商事会社に勤務しつつ漫画同人誌に参加した。59年加東一彦(かとう和彦)名義で貸本漫画『死を予告する鍵』(文洋社)でデビュー。貸本漫画誌に多くの作品を執筆する。この頃アメリカの漫画雑誌『MAD』の影響を受ける。66年双葉社の『漫画ストーリー』にムタ永(栄)二(マニア・ぐるうぷ)名義で短編「人類学プレイボーイ入門」、モンキー・パンチ名義で「呪われたダイヤ」や表紙絵等を描き、67年『週刊漫画アクション』創刊時から「ルパン三世」の連載を開始する。以後同誌に「ルパン三世 新冒険」(1971―72年)、「新ルパン三世」(1977―81年)等を発表。指先までの丁寧な線描、身体のしなやかな描線はイラスト風で軽妙、コマ絵を思わせる。多くの作品を発表したが「ルパン三世」は別格で、テレビアニメで繰り返し放映され、映画化、宝塚での舞台化、パチンコ台にも「ルパン三世」のキャラクターは登場した。また、デジタル漫画の可能性に着目、デジタルマンガ協会の会長を務め、東京工科大学大学院でマルチメディアを学び、自らは2005(平成17)年から大手前大学で漫画を指導した。貸本漫画時代から08年までの作品リストを収録した『追悼、モンキー・パンチ。』(双葉社、2019年)がある。
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没年月日:2019/03/06 読み:すながわしげひさ 漫画家で音楽エッセイストの砂川しげひさは3月6日うっ血性心不全で死去した。享年77。 1941(昭和16)年10月11日沖縄県那覇市に生まれる。本名砂川恵永。中学、高校時代から新聞へ投稿をしていた。60年兵庫県立尼崎高校卒業。農業関連業界紙の会社を経て、『新大阪新聞』のカットなどを手がけ、「すたみなコイさん」の連載漫画をもつ。64年上京。69年『週刊漫画サンデー』に連載したナンセンス時代物「寄らば斬るド」が好評を博す。軽快な描線とデフォルメによる風刺のきいた内容は新鮮だった。71年同上作と「ジュウベー」「テンプラウエスタン」で第17回文藝春秋漫画賞受賞。「しのび姫」(『小説新潮』1978年から93年)、「おんな武蔵」(『小説現代』1980年から94年)等の長期連載もある。新聞や週刊誌、中間小説誌の誌面の一角に大人の漫画を描き続けた。2007(平成19)年「タマちゃんとチビ丸」で第36回日本漫画家協会賞大賞受賞。クラシック音楽への造詣が深く、ラジオのパーソナリティーをはじめ、「なんたって」や「コテン氏」が頭につくシリーズのエッセイ集を数多く著した。
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没年月日:2018/08/15 読み:さくらももこ 漫画家、エッセイスト、作詞家のさくらももこは、8月15日乳がんのため死去した。享年53。 1965(昭和40)年5月8日静岡県清水市(現、静岡市清水区)に生まれる。本名三浦美紀。生家は八百屋業。86年静岡英和女学院短期大学国文科卒業。84年在学時に「教えてやるんだありがたく思え!」が『りぼんオリジナル』(秋の号、集英社)に掲載されデビュー。卒業後出版社勤務を経て、『りぼん』誌に「ちびまる子ちゃん」を連載(1986年8月号~96年6月号)、漫画家活動を本格化する。「ちびまる子ちゃん」は昭和40年代末の清水の町を舞台に親子3世代が暮らす家庭を中心に、永遠の小学3年生の主人公まる子(作者自身も投影)たちの仄々とした日常が描かれていく。1989(平成元)年、同漫画で第13回講談社漫画賞受賞、90年、フジテレビ系列でテレビアニメ化され爆発的な人気となり(番組は休みもあったが、日曜日夕方6時、「サザエさん」の前枠で2020年現在も放映中)、主題歌の「おどるポンポコリン」の作詞も手掛け、第32回日本レコード大賞を受賞する。91年、初のエッセイ集『もものかんづめ』(集英社)は、文庫版も併せて250万部のベストセラーに、92年のエッセイ集『さるのこしかけ』(集英社)で第27回新風賞受賞、93年エッセイ集『たいのおかしら』(集英社)もベストセラーになる。94年、メルヘンの国でシュールなギャグが繰り広げられる「コジコジ」を『きみとぼく』(ソニー・マガジンズほか)に連載を開始、代表作のひとつにあげられる。2000年、書き下ろし雑誌『富士山』(新潮社、全5集)では編集長を兼ね、企画、取材、執筆をこなした。11年個展(名古屋タカシマヤほか)。14年個展(阪急うめだギャラリーほか)。この頃、桑田佳祐、八代亜紀、和田アキ子らの楽曲に作詞を提供した。 「ちびまる子ちゃん」には、昭和の懐かしい風景と作者の鋭い観察眼からなる冷笑、ユーモアが軽快で親しみやすい絵柄で描かれ、テレビや映画などメディアミックスとしても成功し、さくらももこは国民的人気漫画家となった。参考文献として『太陽の地図帖38 さくらももこ『ちびまる子ちゃん』を旅する』(平凡社、2020年)がある。
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没年月日:2017/02/11 読み:たにぐちじろー 漫画家の谷口ジローは2月11日、多臓器不全で死去した。享年69。 1947(昭和22)年8月14日、鳥取県に生まれる。本名治郎。66年鳥取県立鳥取商業高校卒業後、会社務めの傍ら漫画を描き続ける。67年上京、石川球太のアシスタントになる。70年「声にならない鳥のうた」(『デイリープログラム』)でデビュー。72年絵本『ぐじゃ ままにたら』(文・桂里歩、自費出版)を発表。74年から集英社の学習漫画「シートン動物記」の作画を4巻分担当。79年、初期の代表作で探偵ものの「事件屋稼業」(原作・関川夏央、『漫画ギャング』)が連載開始、掲載誌休刊後82年『漫画ゴラク』にて再び連載される。80年、ボクシング漫画の傑作「青の戦士」(原作・狩撫麻礼、『ビッグコミックスピリッツ』)を発表。84年の「超戦闘犬ブランカ」は、谷口の動物ものとアクションものの描写力を併せ持つ作品となった。描線を多用する画風からはなれ、中期の傑作となったのが、関川夏央との共作「坊ちゃんの時代」で、87年から『漫画アクション』に連載(単行本全5巻、双葉社)、夏目漱石、森鴎外、石川啄木ら明治の群像が描かれる。同作は国内外で多くの漫画賞を受賞。1994(平成6)年からは後にTV番組にもなった「孤独のグルメ」(原作・久住昌之、『月刊PANjA』)の連載がはじまり、谷口の名は一般にも知られるようになる。さらに「歩く人」(1990年)、「犬を飼う」(1991年)など日常生活の機微を丁寧かつ静謐に描く作品も多くなる。さらに故郷を舞台にした「父の暦」(1994年)、「遥かな町へ」(1998年)などでモチーフを広げていく。2000年発表の「神々の山嶺」(原作・夢枕獏、単行本全5巻、集英社)は、谷口の独断場といっていい山岳もの傑作で、後期の代表作といえよう。90年代半ばからフランス、スペイン、ドイツなど海外での受賞が続き、10年ベルギーで「遥かな町へ」が映画化、12年フランスでインタビュー集が刊行され、14年ルーヴル美術館からの依頼で蔵品の絵画をモチーフにした「千年の翼、百年の夢」を手掛けるなど、谷口の漫画は一挙に国際的になる。16年初の画集『谷口ジロー画集』(小学館)を刊行。17年から18年にかけて、日仏会館ギャラリーと鳥取県立博物館で回顧展が開催された。参考文献として『谷口ジロー 描くよろこび』(〓凡社、2018年)がある。
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没年月日:2016/11/14 読み:たかいけんいちろう 漫画家の高井研一郎は11月14日、東京都内で肺炎のため死去した。享年79。 1937(昭和12)年7月18日、長崎県佐世保市生まれ。幼少期を上海で過ごす。高校時代『漫画少年』への投稿漫画で、赤塚不二夫、石ノ森章太郎と知り合う。20歳のとき、手塚治虫の薦めで漫画家を目指し上京。56年「リコちゃん」(『少女』)でデビュー。手塚治虫、赤塚不二夫のアシスタントを務める。とくに60年代の赤塚の仕事への貢献度はたかく、キャラクターの造形化をはじめ、下書き線のきれいなことは評判だった。86年林律雄原作で「総務部総務課山口六平太」(『ビッグコミック』)の連載を開始、人気を獲得。大手自動車会社で繰り広げられるサラリーマンもので、主人公の山口は社内の様々な問題を飄々とこなしていく。彼の特技は高井の趣味である手品のようで、口にくわえた吸いかけの煙草を舌でくるっと口のなかへ巻き取る。サラリーマンの応援歌ともいわれた同作は、単行本で80巻(731話)に及んだ。また武田鉄矢原作で「プロゴルファー織部金次郎」(『ビッグコミックスペリオール』)は、17年間勝ちがないゴルファーの悲哀を、中原まこと原作で「ソーギ屋ケンちゃん」では、継ぐはずではなかった家業をもり立てていく男を描いた。映画「男はつらいよ」の漫画版を林律雄の脚色で描き、桂三枝原作「桂三枝の上方落語へいらっしゃ~い」(『コミックヨシモト』)や「百年食堂」(少年画報社)など様々なジャンルを手掛けた。
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没年月日:2016/04/20 読み:よしのさくみ 漫画家の吉野朔実は4月20日、東京都内で病のため死去した。享年57。 1959(昭和34)年2月19日大阪府生まれ。熊本県、千葉県で過ごす。短期大学卒業。80年「ウツよりソウがよろしいの!」(『ぶ~け』、集英社)でデビュー。83年大学生の群像を描いた「月下の一群」(同上)、85年「少年は荒野をめざす」(同上)が本格的連載となり、目元の描き方も繊細になりタッチも変化する。同作は、中学生で小説家女子が理想の男子像を高校の先輩にみるキャンパス青春物で、吉野が繰り返し描いていく人物の鏡像関係や心理的な作術がすでに見られる。88年美大を舞台にした双子の物語「ジュリエットの卵」(同上)、1991(平成3)年毎月50頁のオムニバス的連載「いたいけな瞳」(同上)、93年心理カウンセラーの女性と双子の男性を軸にした「エキセントリックス」(同上)などで人気を不動とする。以後、小学館のメディアに発表を続け、2001年大学卒業後就職しない女性1名、男性2名の関係を描いた「瞳子」(『週刊ビッグコミックスピリッツ』)、03年現代の家族をテーマにした「period」(『月刊IKKI』)は、14年までの長期連載。16年「いつも緑の花束に」(『月刊フラワーズ』)が最後の作品となった。また、エッセイも手掛け、『本の雑誌』で本に関するエッセイを連載。『お父さんは時代小説(チャンバラ)が大好き』(本の雑誌社、1996年)などにまとめられている。映画について『こんな映画が、吉野朔実のシネマガイド』(パルコ出版、2001年)がある。
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没年月日:2016/04/03 読み:もちづきみきや 漫画家の望月三起也は4月3日、肺腺がんで死去した。享年77。別名牧英三郎、M・ハスラーで活動。 1938(昭和13)年12月16日、神奈川県横浜市生まれ。57年神奈川県立神奈川工業高校卒業。建築会社に就職するも、漫画家へなるべく、1年余りで退社する。出版社に持ち込み原稿をするなかで、60年「特ダネを追え」が『少年クラブ』に掲載されデビューとなる。その後堀江卓、吉田竜夫(タツノコプロダクション)のアシスタントを勤める。62年「ムサシ」(『少年画報』)、63年「隼」(『少年キング』)、64年「秘密探偵J」(同上)、「ケネディ騎士団」(『少年ブック』)などで、60年代のマンガシーンにヒット作を送る。「秘密探偵JA」と「ケネディ騎士団」 は、当時の映画007シリーズの人気もあり、国際色豊かな物語とアクションシーンに見られるダイナミックな構図などで人気を得た。また望月は、65年「適中突破」(『少年ブック』)67年「タイガー陸戦隊」(『少年キング』)など戦記漫画での資料を駆使する力量やメカニックの描写の精巧さをもって、読者を魅了していった。60年代後半は最も連載が多い時期だが、69年の「ワイルド7」は代表作となった。かつて犯罪を犯した者たちが警察組織の一部となり、「眼には眼を」にならって悪党たちに刑を実行していく。やがて権力抗争に巻き込まれ、非情な抗争劇が展開する。約10年に渡る連載中、72年テレビ版、2011映画版も製作されるなど長い人気をもつ作品であり、87年に「新ワイルド7」、1995(平成7)年に「続・新ワイルド7」を発表している。73年「ダンダラ新撰組」(『週刊少年ジャンプ』)で、第1回愛読賞を受賞。以降は女性誌や一般週刊誌にも活動をひろげ、73年「バラのイブ」(『女性セブン』)、81年「サムライ教師ボギー」(『週刊プレイボーイ』)などを連載、2000年代初頭まで活躍した。没後の2016年、第45回日本漫画家協会賞特別賞を受賞。熱狂的なサッカーファンとしても知られた。
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没年月日:2015/11/30 読み:みずきしげる 漫画家の水木しげるは、11月30日多臓器不全のため東京都内の病院で死去した。享年93。 1922(大正11)年3月8日大阪に生まれ、鳥取県境港市で育つ。本名武良茂(むらしげる)。境小学校高等科在学中に教員が水木の絵のうまさに驚き個展を開催したという。美大を目指すがかなわず、1941(昭和16)年日本大学附属夜間中学に入学。43年召集。南方の最前線ニューブリテン島へ配属、ラバウル、ココポ、バイエンを転戦、マラリアにかかり、さらに空爆で負傷し左腕を失う。敗戦後もラバウル近郊に滞留し、現地のトライ族と親しくなる。この体験が後の南方との交流となる。46年3月復員。48年武蔵野美術学校に入学するも、生活できず、51年神戸で紙芝居の仕事につく。50年代前半の紙芝居時代に後の「鬼太郎」や「河童の三平」のモチーフを見出している。50年代後半、紙芝居の衰退から貸本漫画へ転向、57年上京。58年『ロケットマン』(兎月書房)でデビュー。この1年間に17冊を刊行、SF、戦記、怪奇といったジャンルを確立していく。60年代前半は貸本漫画も斜陽なメディアとなり生活も苦しくなる。64年青年漫画誌『ガロ』が創刊され短編を発表しつつ、65年『別冊少年マガジン』に「テレビくん」が掲載され、第6回講談社児童漫画賞を受賞する。66年東京都調布市の自宅に水木プロ設立、週刊誌、学年誌に連載が始まり売れっ子となる。画風は、代表的なキャラクター「ねずみ男」に見られるように顔は面長が多く、背景は資料に基づく細密描写が群を抜き、ベタはもちろん背景を描き込む黒いマンガの代表格であろう。ビンタのオノマトペ「ビビビビン」は戦時中の体験からの発想か、特色を示す。68年、『週刊少年マガジン』に連載の「墓場の鬼太郎」が「墓場」は暗いので「ゲゲゲの鬼太郎」と改題されテレビアニメとなり、さらに「河童の三平・妖怪大作戦」が実写版でテレビ放映され、妖怪ブーム到来、中心人物としてメディアへの露出が多くなる。73年日本民俗学会に入会(1999年評議員)。同年、戦記漫画の傑作とされる『総員玉砕せよ!聖ジョージ岬・哀歌』(講談社、現在講談社文庫、同書は2009年フランスのアングレーム国際コミック・フェスティバルで遺産賞、2012年アメリカのウィル・アイズナー賞最優秀アジア作品賞を受賞)を刊行。この頃から、妖怪、幽霊、妖精などの画集、入門書の刊行が多くなる。74年からアジアを中心に年末は海外旅行を行なうようになる。1989(平成元)年、『コミック昭和史』(講談社、1988年)で第13回講談社漫画賞受賞。91年紫綬褒章受章。93年境港市にキャラクターの人形を設置した「水木しげるロード」がつくられる。95年、妖怪人類学会設立、後に世界妖怪協会となる。2003年境港市に水木しげる記念館開館。同年手塚治虫文化賞特別賞受賞、旭日小綬章受章。04年鳥取県立博物館他9カ所で「水木しげる展」が巡回。07年アングレーム国際コミック・フェスティバルで「のんのんばあとオレ」が最優秀コミック賞を受賞。10年文化功労者となる。13年より講談社から『水木しげる漫画大全集』(第2期まで68巻、第3期35巻が2017年刊行中)が出版されている。伝記に『妖怪と歩くドキュメント・水木しげる』(足立倫行著、文春文庫、1997年)など。自伝に『ねぼけ人生』(ちくま文庫、1986年)などがある。年譜については『文藝別冊KAWADE夢ムック、水木しげる』(2016年)に収録されている関東水木会・平林重雄編「水木しげる年譜」が詳しい。また10年、妻の武良布枝著『ゲゲゲの女房』(実業之日本社、2008年)がNHK朝ドラマとなり大ヒットした。
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没年月日:2015/04/14 読み:こじまこお 漫画家の小島功は、4月14日脳出血のため東京都港区内の病院で死去した。享年87。 1928(昭和3)年3月3日東京府東京市下谷区(現、台東区)に生まれる。本名功(いさお)。家は洋服仕立業。西尾久小学校卒業。小学校時代、図画の教員にデッサンの大切さを説かれた。16歳頃から画家を志し、川端画学校に学び、戦時中は夜間に太平洋美術学校に通った。先輩に加藤芳郎がおり、異なる作風を模索する。『小国民朝日』、『科学グラフ』や漫画投稿欄のある雑誌に投稿を頻繁に行なう。女性像に定評があった杉浦幸雄の作風に影響を受ける。小島のマンガは大人向けであり、一コマないしは1頁が基本、線描でみせる。47年、久里洋二、長新太らと独立漫画派を結成。48年創刊の『新漫画』に1コマ漫画を描く。鼻筋がとおり、顎がすっきりとしたグラマーな女性像は「昭和の美人画」の一例として大衆的な人気を獲得、乾いたエロチシズムを醸し出している。56年久里洋二、針すなおらと同人誌『がんま』発行。同年10月より8コマ漫画「仙人部落」を『週刊アサヒ芸能』に連載、59年間2681回におよんだ代表作となる。週刊誌を舞台に活躍、「俺たちゃライバルだ!」『週刊漫画サンデー』(1960年から連載)、「あひるヶ丘77」『週刊サンケイ』(1960年から連載)、「うちのヨメはん」『週刊現代』(1966年から連載)と60年代に人気が定着する。60年『週刊漫画サンデー』の表紙画を手がける。64年日本漫画家協会設立に参加。65年からは日本テレビ放送網の深夜番組「11PM」にレギュラー出演、また同時期東京12チャンネル(現、テレビ東京)の「朝日新聞・ワイドニュース」のコメンテーターとなる。68年「日本のかあちゃん」(『週刊漫画サンデー』)で第14回文藝春秋漫画賞受賞。73年加藤芳郎とマンガ専門誌『ユーモリスト』を発行。74年河童のキャラクターで知られる日本酒の黄桜の広告を清水昆より引き継ぐ。70年代の代表作として「ヒゲとボイン」『ビックコミックオリジナル』(1974年から連載)がある。80年『朝日新聞』に政治漫画を連載。1990(平成2)年紫綬褒章受章。92年日本漫画家協会理事長に就任(2000年まで)。2000年勲四等旭日小綬章受章。2010年漫画家協会名誉会長に就任。作品集に『小島功美女画集画業六〇年 喜寿記念』(青林堂、2005年)があり、「仙人部落」はアニメ化されDVDがでている。
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没年月日:2015/03/07 読み:たつみよしひろ 漫画家の辰巳ヨシヒロは、3月7日悪性リンパ腫のため亡くなった。享年79。 1935(昭和10)年6月10日、大阪府大阪市天王寺区に生まれる。本名辰巳嘉裕。中学時代に手塚治虫の漫画に出会い、また手塚宅を何度か訪ねたことから本格的に漫画を描くようになり、『漫画少年』などに投稿をする。52年に描いた『こどもじま』(鶴書房、1954年)で単行本デビュー。54年、大阪の貸本漫画出版の八興社・日の丸文庫でスリラー『七つの顔』を発表、以後同出版社でスリラーものを手がけていく。56年、日の丸文庫が刊行した短篇誌『影』に主要な描き手として活躍、後に編集にも関わる。同年上京。57年頃に貸本漫画界は探偵・推理ものブームとなり、辰巳は、少年向けの楽しい、明るい、笑いを中心とした漫画と自分たちの系譜を分けるために「劇画」という名称を打ち立てる。59年に東京・国分寺ことぶき荘で「劇画工房」の設立に参加、短編誌の発行と自主出版を目指したが1年ほどで解散となる。63年出版社「第一プロダクションを」を設立。60年代末からの劇画ブームのなかで、自身の位置を模索しつつ、週刊誌で原作付き連載をこなすが、辰巳本来の特徴を示すのは、「おれのヒットラー」(『劇画マガジン』、1969年)などにみられるように、おもに社会の下層労働者や鬱屈した人々を描いた暗いムードの作品である。青年漫画誌『ガロ』や自身の出版社「ヒロ書房」を舞台として発表を行なう。楕円形の顔立ちの無口な男性主人公が多く、とくに短編集『人喰魚』(ヒロ書房、1970年)は、ブルーフィルムの「写し屋」、ラッシュアワー電車の「押し屋」、籠の鳥に自分をみる男の「ひも」、タレントに異常な恋慕をする男の「事故死」など、彼の劇画色が発揮されている。同書は72年第1回日本漫画家協会賞努力賞受賞。90年代にはひろさちや原作で仏教漫画に取り組む。2000(平成12)年以降、海外での評価も高まり、主な作品が英語、フランス語をはじめ8カ国語に翻訳出版されている。大人の漫画をつくった功績により、05年にはフランスのアングレーム国際コミック・フェスティバルで、06年にはサンディエゴ・コミック・コンベンションで特別賞を受賞。11年にはシンガポールの映画監督エリック・クーによって辰巳の作品を原作としたアニメーション『TATSUMI』が製作されている(日本公開2014年)。自身の伝記的要素を踏まえた『劇画漂流(上下)』(青林工藝社、2008年、のち講談社漫画文庫、2013年)は、『まんだらけマンガ目録』などに12年にわたり連載された劇画史を描いた力作で、09年手塚治虫文化賞大賞、10年アイズナー賞最優秀アジア作品に選出された。『劇画漂流』の活字版といえる『劇画暮らし』(本の雑誌社、2010年、のち角川文庫、2014年)もある。
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没年月日:2014/08/28 読み:なかじまのりひろ 漫画家の中島徳博は、8月28日、大腸がんのため神奈川県横浜市の病院で死去した。享年64。 1950(昭和25)年7月12日、鹿児島県鹿児島市に生まれる。小学校のとき赤塚不二夫の少女マンガに感動し、漫画家を志す。鹿児島実業土木科2年次在学時に貸本マンガでデビュー。69年に卒業後、大阪にでて看板製作会社に住み込みで働きながら制作を続け、70年「悪友伝」が『週刊少年ジャンプ』(以下『ジャンプ』)の新人賞に準入選し、上京する。『ジャンプ』に72年39号より、遠崎史朗の原作を得て「アストロ球団」の連載を開始、76年26号まで続いた(全5巻、1999年、太田出版)。「超人」たちが繰り広げる「1試合完全燃焼」試合ではクライマックスが毎週のように続く。本作は、「巨人の星」以後の野球漫画に描かれてきた「スポ根」の系譜だが、次第に超人たちの奇想天外なプレイが熱狂的な読者を獲得し、70年代初期の「ジャンプの傑作」である。その後、77年から79年まで、『ジャンプ』に四国土佐を舞台に男気を描いた学園もの『朝太郎伝』(全11巻、集英社、1978年)、77年から79年まで、『月刊少年ジャンプ』にはみ出し刑事のコンビのアクション劇『バイオレンス特急』(全5巻、同、1979年)を発表。青年漫画誌『週刊プレイボーイ』に「バイオレンス・ロマン」をキャッチに九州男児の喧嘩道を描いた『がくらん海峡』(全5巻、集英社、1979年)等を手がけた。中島の漫画は決して洗練された描画とはいえないが、勢いのある画風が特色で、特にアクションシーンのスピード表現における線の重層的な黒さが持ち味である。
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没年月日:2013/10/13 読み:やなせたかし 漫画家、詩人、デザイナー、イラストレーター、絵本作家など多くのジャンルで活躍したやなせたかしは、10月13日心不全のため東京都内の病院で死去した。享年94。 1919(大正8)年2月6日東京府北豊島郡滝野川町(現、東京都北区)に生まれる。本名柳瀬嵩。自身は故郷については幼少期を過ごした高知県香美郡在所村(現、香美市)としていた。5歳のとき新聞記者だった父が32歳で亡くなり、父母の故郷高知県へ移る。小学校2年のとき母の再婚に伴い、以後伯父夫婦に育てられる。中学時代財布を落とし、15キロも歩いて帰宅途中、友人の母親からアンパンをもらったことが、後のアイデアとなる。1937(昭和12)年東京高等工芸学校(現、千葉大学工学部)に入学、40年田辺製薬宣伝部に入社、41年召集され、中国を転戦、実際の戦闘体験はなかった。終戦後、高知新聞社に入社、漫画を執筆。『月刊高知』にも4コマ漫画やイラストを掲載。47年妻となる小松暢子を追って上京、三越宣伝部に入社、また「漫画集団」に所属、しだいに漫画での収入が安定し、53年フリーとなる。54年ニッポンビール(現、サッポロビール)の広告漫画「ビールの王さま」、56年から『週刊漫画TIMES』では表紙などもてがけ活躍する。60年、ミュージカル「見上げてごらん夜の星を」の美術を担当、それが縁で「手のひらを太陽に」を作詞(作曲いずみたく)する。64年から3年間NHKテレビ「まんがの学校」の講師を務める。66年処女詩集『愛する歌』(山梨シルクセンター[現、サンリオ])を出版。69年手塚治虫監督のアニメ「千夜一夜物語」の美術とキャラクターを担当、70年に虫プロでアニメ「やさしいライオン」を監督し、同作で大藤信郎賞を受賞する。73年『詩とメルヘン』を創刊し、30年間編集長を務める。同年「あんぱんまん」を『キンダーおはなしえほん』に掲載、当初書店販売はなく、幼稚園などへの直販だった。「あんぱんまん」は幼児からしだいに人気となり、88年「それいけ!アンパンマン」がテレビ放映へ、翌年文化庁こども向けテレビ用優秀映画賞を受賞、1989(平成元)年からは劇場用アニメも制作された。また同漫画は90年日本漫画家協会大賞を受賞、さらに2009年、単独のアニメでは最多キャラクターを制作したことでギネス世界記録の認定を受ける。08年、やなせたかし展が山梨県立美術館ほか9館を巡回。70歳代からは病を抱えながらもそれまで以上にさまざまな活動を展開、92年から高知県が主催する「まんが甲子園」の審査委員長、2000年から日本漫画家協会理事長、12年からは会長を歴任した。 著作に『まんが入門』(華書房、1954年)、『アンパンマンの遺書』(岩波書店、1995年)、「やなせたかしアンパンマンの心」『ユリイカ』(2013年8月臨時増刊)、没後の作品集に『やなせたかし大全』(フレーベル館、2013年)などがある。また、故郷の香美市に「やなせたかし記念館、アンパンマンミュージアム」(1996年開館)がある。
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没年月日:2013/03/06 読み:いわしげたかし 漫画家いわしげ孝は、3月6日病気のため死去した。享年58。 1954(昭和29)年12月31日鹿児島県鹿児島市に生まれる。本名岩重孝。鹿児島県立鹿児島工業高校を経て、二松学舎大学卒業。70年『週刊少年ジャンプ』の第5回新人漫画賞で「小さな命」が入選し、翌年同誌に掲載されデビューする。その後、高校生ながらも、集英社の手塚賞に「スクラップ」、「ブルースを歌う少女」が佳作入選するが、学業を優先し執筆活動を控え、大学へ進学する。78年第2回小学館新人コミック賞に「忘れ雪」が選ばれ、本格的デビューを果たす。80年の短篇「土用前」では、鹿児島男子高校生3人と先生、東京からきたその彼女がおりなす一夜の出来事をコミカルに描き、いわしげが得意とした男子の「恥」を朗らかに捉えている。同年創刊直後の『ビッグコミック』に「ぼっけもん」を連載、上京男子の都会での青春成長物語が大ヒットとなり、第31回小学館漫画賞を受賞する。その後、ボクシングを描いた『二匹のブル』(ここまで岩重孝名義、瀬叩龍[雁屋哲]原作、全10巻、小学館、1988年)、高校を飛び出し南米にエルドラドを求める探検活劇『ジパング少年』(全15巻、小学館、1989年)、自身の体験を活かした10年半にわたる柔道漫画『花マル伝』と『新・花マル伝』(両者合わせて38巻、小学館、1993年~2003年)は、中学からのライバル同士が世界大会で決勝を戦うという、代表作のひとつとなる。「ぼっけもん」の大人編とも言える『単身花火-桜木舜の単身赴任・鹿児島』(全5巻、小学館、1993年)『上京花火-花田貫太郎の単身赴任・東京』(全7巻、同、2013年)を『ビッグコミック』に連載していたが、後者は2010(平成22)年には病気のため休載、再開後の12年2月分が絶筆となった。他に、『まっすぐな道でさみしい種田山頭火外伝』(講談社、2003年)、『青春の門-筑豊篇』(五木寛之原作、同、2005年)などがある。
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没年月日:2012/12/19 読み:なかざわけいじ 漫画家中沢啓治は、12月19日肺がんのため広島市内の病院で死去した。享年73。 1939(昭和14)年3月14日広島県に生まれる。国民学校1年生のとき被爆、日本画家の父、姉、弟と死別する。江波中学卒業後、看板業に就く。61年上京、一峰大二のアシスタントとなる。63年「スパーク1」を『少年画報』に発表、デビューする。65年、辻なおきのアシスタントとなる一方、月刊の少年誌に読み切りを発表していく。66年母が亡くなり、被爆体験をもつ殺し屋の漫画「黒い雨にうたれて」を描くが、『漫画パンチ』に掲載されたのは2年後だった。などを青年誌に続けるうちに、73年25号より『週刊少年ジャンプ』に「はだしのゲン」の連載が開始(第1部は1974年39号まで)される。同誌の創刊編集長長野規の説得に応じて連載を始めたが、広島への原爆投下による惨劇を少年誌に掲載することは当時としては異例なことであった。主人公の少年のコミカルな表現をもって、本来のテーマである「踏まれても踏まれても強く生きる麦なれ」が基礎にあったこそ成功したといえよう。新聞記事や単行本化、海外への翻訳(英語版は1978年)、ノベライズ化、アニメ化や実写映画化されるうちにこの漫画は、被爆体験を描いた貴重な資料として注目をあびるようになる。スポーツ漫画として『広島カープ物語』(全2巻、汐文社、1994年)などを発表、映画監督作品に「お好み八ちゃん」(1999年)がある。2002(平成14)年に谷本清平和賞受賞。09年からは白内障のため漫画執筆活動は途絶えた。11年に原画や単行本など10500点余りが、広島平和記念資料館に寄贈された。 著書に、『「ヒロシマ」の空白 中沢家始末記』(日本図書センター、1987年)、『「はだしのゲン」自伝』(教育史料出版会、1994年)、『はだしのゲン わたしの遺書』(朝日学生新聞社、2012年)がある。またカメラマンの大村克巳によるノンフィクション『「はだしのゲン」創作の真実』(中央公論新社、2013年)、ドキュメンタリー映画に「はだしのゲンが見たヒロシマ」(石田優子監督、2011年)がある。
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没年月日:2012/06/13 読み:はたなかじゅん 漫画家で東京工芸大学教授の畑中純は、6月13日腹部大動脈瘤破裂のため東京都の病院で死去した。享年62。 1950(昭和25)年3月20日福岡県に生まれる。68年小倉南高校卒業後、上京し東京デザインカレッジ漫画科に入学するが、同校は倒産。さまざまなアルバイトをしながらマンガを描き続ける。74年一枚漫画集『それでも僕らは走っている』を自費出版。77年『話の特集』に一枚漫画「月夜」の連載でデビューする。木版画の肌合いをいかした画面は独自の味わいを持ち、自分の絵は他人に触らせず、アシスタントを使わない作画を通した。畑中といえば、79年『週刊漫画サンデー』に連載した「まんだら屋の良太」であり、10年間にわたる人気漫画となった。単行本は53巻(実業之日本社)にのぼる。北九州と思われる温泉郷九鬼谷を舞台に、旅館の息子良太17歳と幼なじみの月子を中心に、芸者、ヤクザ、ストリッパー、物書き、役者らが繰り広げる艶笑譚。九鬼谷は作者が敬愛した宮沢賢治のイーハトーブから想を得たユートピアであり、一話完結の構成はエログロ・ナンセンス、さらに古今東西の名作を渉猟した千夜一夜的な豊饒さをもった傑作となった。81年同作で日本漫画家協会賞受賞。 初期作品集に『田園通信』(日本文芸社、1986年)。他に『百八の恋』(全8巻、講談社、1990年)、『オバケ』(全4巻、講談社、1992年)、『愛のエトランゼ』(全2巻、主婦と生活社、1992年)、『玄海遊侠伝 三郎丸』(全15巻、実業之日本社、1993-96年)など多数。宮沢賢治原作で絵本『どんぐりと山猫』(筑摩書房、1997年)、『セロ弾きのゴーシュ』(響文社、2005年)がある。著書に『1970年代記「まんだら屋の良太」誕生まで』(朝日新聞社、2007年)、『「私」畑中純 まるごとエッセイ』(文遊社、2008年)なども発表した。2007(平成19)年より東京工芸大学芸術学部マンガ学科教授を務めた。
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没年月日:2012/04/05 読み:かげまるじょうや 漫画家影丸穣也は、4月5日膵臓癌のため死去した。享年72。 1940(昭和15)年1月3日大阪府に生まれる。本名久保本稔。中学卒業後自動車整備会社に勤めるが、体調を崩し退社。貸本漫画を読み、独学で作画を研究する。久保本稔名で57年単行本『怪獣男爵』(あたみ書房)でデビューする。以後、大阪の貸本漫画で活動し、貸本漫画誌『影』に発表の頃には影丸譲也のペンネームを使用。後に「穣也」とする。61年「拳銃エース」を『冒険王』に発表、少年誌にデビューする。63年上京。影丸の名前が有名になったのは68年『週刊少年マガジン』で連載した横溝正史原作の「八つ墓村」である。横溝の小説では「悪魔が来りて笛を吹く」(『東京スポーツ』)も手がけ、こちらは映画の画面を漫画に起こしている。また高校で番を張り、不良で剣の使い手氷室洋二が繰り広げる教師や大人たちとの抗争から少年院での闘いまでを描いた「ワル」(真樹日佐夫原作、『週刊少年マガジン』、70年4/5合併号から73年2号)は、異色の学園ものとなった。つづいて梶原一騎の原作で極真空手の創始者大山倍逹の半生を描いた実録漫画「空手バカ一代」(『週刊少年マガジン』)を先発のつのだじろうの後を受けて、73年48号から77年52号まで作画、この連載は空手ブームを巻き起こした。NHKの番組「プロジェクトX」や大河ドラマ「義経」などの漫画化も手がけた。全体的には梶原一騎原作が多く、劇画調といえる黒い画面にハードボイルドなストーリー、いわゆる「男っぽい」硬派な作品を得意とした。
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没年月日:2011/03/07 読み:むらのもりび 漫画家の村野守美は、3月7日心不全のため東京都府中市の病院で死去した。享年69。 村野(本名、佐藤守)は1941(昭和16)年9月5日、中国の満洲(現、中国東北部)の大連に生まれた。48年に引き上げ、幼少期を福島県会津若松で過ごした。高校を中退後、上京し手塚治虫に師事する。一時期手塚の虫プロダクションで働き、「鉄腕アトム」などの原画を描いた。60年『少年』の夏増刊号にロボットものの「弾丸ロンキー」でデビューする。78年、『週刊漫画アクション』に連載した「ボクサー」が高い評価を得る。また79年『ビッグコミックオリジナル』におてんばな老婆を主人公にした「垣根の魔女」を連載、ともに代表作といわれる。「草笛のころ」や「だめ鬼」など彼の多くの作品は青年誌に掲載されていった。日常をきめ細かく取材する視点から紡ぎだされるストーリー、そしてやわらかな美しい輪郭線にみられる確かな画力により、多くのファンを持った。漫画家永島慎二は村野を「人間の心を読ませる事の出来る数少ない作家の一人」といった。アニメーションも手がけ、「佐武と市捕物帳」や「ムーミン」の制作演出にも携わり、「ユニコ―魔法の島へ」(1983年)は、脚本・監督をしている。童話や絵本も多数上梓しているが、80年代半ばから、宮沢賢治や高村光太郎などへモチーフを広げていき、外国の古典、「ピーターパン」「シンドバットの冒険」などを描いた。90年代、「神々の指紋」で著名なグレーアム・ハンコックを原作とした作品、また池波正太郎の江戸ものを手がけた。
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没年月日:2008/08/02 読み:あかつかふじお 漫画家の赤塚不二夫は8月2日午後4時55分、肺炎のため東京都文京区の順天堂医院で死去した。享年72。1935(昭和10)年9月14日、旧満州(中国東北部)熱河省灤平県(現、中華人民共和国河北省)に生まれる。本名藤雄。45年奉天で敗戦を迎え、翌年、母の実家のあった奈良県生駒郡郡山町(現、大和郡山市)へ引き揚げる。もとより漫画家を志望していたが、引き揚げ後に貸本屋で借りた手塚治虫「ロストワールド」を読み、プロの漫画家となることを決意する。49年にはSF漫画「ダイヤモンド島」を描き下ろし、大阪の出版社へ持ち込むが不採用。同年シベリア抑留を解かれた父とともに新潟で暮らすこととなり、51年には新潟市内の塗装店に就職。この頃から、『漫画少年』(学童社)に赤塚不二夫のペンネームで投稿を始める。53年上京。54年工場勤務のかたわら、東日本漫画研究会(石森章太郎主宰)同人誌『墨汁一滴』に参加。56年少女漫画「嵐をこえて」(曙出版)で単行本デビュー。同年トキワ荘に移る。当時のトキワ荘には寺田ヒロオ、藤子不二雄、石森らが入居しており、これらのメンバーと新漫画党を結成(ちばてつや、松本零士、つのだじろうらも参加)。この頃の赤塚は『少女クラブ』(講談社)、『少女ブック』(集英社)、『りぼん』(同)といった少女漫画雑誌に短編を発表していた。58年には『漫画王』(秋田書店)に読み切りとして描いた「ナマちゃんのにちよう日」が好評を博し、同誌翌月号より「ナマちゃん」として連載が開始される。59年には週刊誌ブームを背景として、小学館から『週刊少年サンデー』が、講談社から『週刊少年マガジン』が同日創刊され、週刊という枠の中で、漫画雑誌は新たなステージを迎えつつあった。その流れの中で赤塚は62年『週刊少年サンデー』で「おそ松くん」の連載を開始。同年『りぼん』で「ひみつのアッコちゃん」の連載も始まり、人気作家となる。64年石森、藤子、つのだ、鈴木伸一の設立したスタジオ・ゼロに参加。65年には新宿区十二社にフジオ・プロダクションを設立し、長谷邦夫、横山孝雄、古谷三敏、北見けんいち、高井研一郎らが参加する。この他、赤塚のもとには後に人気作家となる漫画家が多く在籍していた。同じく65年「おそ松くん」で第10回小学館漫画賞を受賞。67年『週刊少年マガジン』で「天才バカボン」、『週刊少年サンデー』で「もーれつア太郎」の連載を開始(「天才バカボン」は69、70年の一時期、ライバル誌『サンデー』に連載されるが、71年『マガジン』で連載再開)。71年『サンデー』で「レッツラ☆ゴン」の連載開始。72年には「天才バカボン」で文芸春秋漫画賞受賞。同年『週刊文春』で「ギャグゲリラ」の連載開始。70年代以降も多くの連載をこなす一方、テレビ、映画、演劇、パフォーマンス、執筆など、漫画家としての枠を超えた活動を展開する。あわせて、65年のアニメ「おそ松くん」のテレビ放映に続いて、69年には「ひみつのアッコちゃん」と「もーれつア太郎」が、71年には「天才バカボン」がテレビ放映されるが、数度のリバイバルを経て、以後も多くの作品がテレビアニメ化される。「ギャグ漫画」という一分野を確立した赤塚作品の制作は、「アイデア(会議)」と呼ばれるミーティングによってネーム等のおおよそのアウトラインが決められたことが、赤塚自身や周囲の発言から知られる。この「アイデア」は赤塚始め長谷、古谷らフジオ・プロのメンバーと担当編集者を主な構成員とし、赤塚作品を彩る個性的なキャラクターの数々もこの席上で生まれたものが多かったという。赤塚による分業制とも言うべき作品完成へのプロセスは、戦後日本における漫画制作の現場の一端を知る上で重要である。また、73年末からの数ヶ月間、全ての作品を「山田一郎」名義で執筆するなど、実験的な表現方法を展開する。1997(平成9)年には「まんがバカなのだ! 赤塚不二夫展」(池田20世紀美術館)、「これでいいのだ! 赤塚不二夫展」(上野の森美術館)を開催。同年、第26回日本漫画家協会文部大臣賞受賞。翌年紫綬褒章受章。2000年には『赤塚不二夫のさわる絵本 よーいどん!』(小学館)、02年には『赤塚不二夫のさわる絵本 ニャロメをさがせ!』(同)という点字絵本を刊行。03年には青梅市に赤塚不二夫会館がオープン。没後の09年「赤塚不二夫展 ギャグで駆け抜けた72年」(松屋銀座他)が開催された。
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没年月日:2001/11/08 読み:よこやまりゅういち 漫画「フクちゃん」で知られる漫画家の横山隆一は、脳梗塞のため神奈川県鎌倉市の湘南鎌倉総合病院で死去した。享年92。1909(明治42)年5月17日、高知県高知市堺町に生まれる。1927(昭和2)年、高知城東中学校を卒業後、同年上京した。翌年、川端画学校に通いはじめ、同郷の彫刻家本山白雲に弟子入りした。この頃から、アメリカの雑誌に掲載されたナンセンス漫画に惹かれて、漫画を描きはじめ、雑誌に投稿するようになる。30年、体力的な不安から、彫刻を断念する。31年、雑誌「新青年」に表紙画、挿絵、漫画が採用されるようになる。翌年、近藤日出造、杉浦幸雄とともに「新漫画派集団」を結成。36年1月、朝日新聞東京版に「江戸っ子健ちゃん」を連載、この漫画に脇役として登場させた「フクちゃん」の人気がたかまり、同年10月より、「養子のフクちゃん」として連載を再スタートした。38年、「フクちゃん」に対して、日本文化協会より第1回児童文化賞を受賞。44年、アニメーション映画「フクちゃんの潜水艦」を制作。45年、終戦後、連絡のとれた26名の漫画家たちとともに「漫画集団」を再発足させる。46年、永井龍男、小林秀雄に勧誘され、「新夕刊」に「フクちゃん」を連載。48年11月、毎日新聞朝刊に「ペ子ちゃん」を連載、翌年12月、同紙に「デンスケ」を連載、同漫画は55年まで連載2000回を数えた。51年、サンフランシスコ対日講和会議取材のため、毎日新聞より派遣され、渡米。3ヶ月の滞在中、ウォルト・ディズニー、スタインベルクに会う。54年、月刊「漫画読本」(文芸春秋社)に漫画集団として寄稿。56年1月1日より、毎日新聞に「フクちゃん」の連載を開始。同年、アニメーション制作のために「おとぎプロダクション」を設立、翌年アニメーション「ふくすけ」を完成させ、この作品によって同年のブルーリボン賞、58年の毎日映画コンクール教育文化映画賞を受賞。66年、まんが集「勇気」(日本YMCA同盟出版部)によって、同年の毎日出版文化賞特別賞受賞。71年、「フクちゃん」、連載5534回を記録して終了した。74年、紫綬褒章を受ける。79年、まんが集「百馬鹿」(奇想天外社)を出版、これにより同年の日本漫画家協会漫画大賞を受賞。1992(平成4)年、日本漫画家協会漫画賞特別賞として文部大臣賞を受賞。94年、漫画家として初めて文化功労者となる。96年、高知市名誉市民、鎌倉市名誉市民となる。戦前からの長きにわたる漫画家としての活動のなかから、「フクちゃん」に代表される国民的なキャラクターを生み、つねにユーモアと諷刺にあふれた作品を描きつづけた。没後の2002年4月、高知県高知市に横山隆一記念まんが館が開館し、多数の漫画とともに、横山のユーモアにみちたユニークなコレクションと資料が展示されている。
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