本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





改田昌直

没年月日:1995/09/26

読み:かいだまさなお  漫画家の改田昌直は9月26日午後3時30分、心不全のため東京都新宿区の都立大久保病院で死去した。享年71。大正12(1923)年10月28日高知県室戸市に生まれる。帝国美術学校日本画科を中退して昭和24年漫画集団に入る。同25年から34年まで日本経済新聞に「パクさん」「ぼっちゃん」「あさぼら家」などの四コマ漫画を連載。同35年から38年まで高知新聞に4コマ漫画「茶の間さん」を連載。同年35 年から41 年まで『漫画読本』「週間漫画」などに作品を発表し、同41年作品集『ミステリー・カクテル』(コダマ・プレス)を出版する。同50年から63年まで共同通信社へ政治漫画を寄稿する一方、研究社の英和辞典の挿し絵等も描く。同60年、都市風俗と風景を風刺的に描いた作品集『アーバン世界』(思索社、同59年)により日本漫画家協会大賞を受賞した。

田河水泡

没年月日:1989/12/12

代表作「のらくろ」で広く知られる漫画家田河水泡は12月12日午前2時半、肝蔵ガンのため神奈川県相模原市の北里大学病院で死去した。享年90。明治32(1899)年2月10日、東京市本所区に生まれる。本名高見澤仲太郎。同44年深川区立臨海尋常小学校を卒業。1歳で母に、15歳で父に死別し伯母のもとで育てられ、従兄の高見澤遠治が浮世絵版画師であったところから、その仕事を手伝ううち絵に興味を持ち油絵を描き始める。大正8(1919)年陸軍に入営。同11年除隊し、同年日本美術学校図案科に入学する。翌12年村山知義らを中心とする前衛美術運動MAVOに参加するが、同14年日本美術学校を卒業後は高澤路亭の名で新作落語の台本作家として活躍。昭和2年漫画にも筆を染めるようになり、同6年講談社の雑誌『少年倶楽部』新年号に「野良犬黒吉」を主人公とする漫画「のらくろ」を発表。自らの体験を投影し、不遇の野良犬が明るく生きていくユーモアとペーソスあふれる内容と、大胆に簡略化した黒い体と独特の顔を持つ斬新なキャラクターで人気を博し、軍部の禁止令によって停止させられる同16年10月号まで連載を続けた。戦後は同36年から雑誌『丸』に「のらくろ中隊長」の連載を始め、のらくろの後日譚を描いた。同42年『のらくろ漫画全集』の刊行により再評価の熱が高まり、同55年の「のらくろ喫茶店」まで、大戦をはさんで約半世紀の間、同一のキャラクターを描き続けて人気を保った。このほか「凸凹黒兵衛」「蛸の八ちゃん」などの漫画でも知られる。また、関野凖一郎にエッチングを学び昭和26年第1回東京ビエンナーレ展に入選したほか一線美術展にも出品。同34年に同会委員となった。著書に『人生面白説法』『滑稽の構造』『滑稽の研究』などがある。長谷川町子、滝田ゆう、永田竹丸らの後進を育て、児童漫画の礎を築くとともに現代漫画の育成にも寄与した。夫人は評論家小林秀雄の妹で文芸評論家の高見澤潤子(本名富士子)。

秋好馨

没年月日:1989/03/25

新聞4コマ漫画「轟先生」で親しまれた漫画家秋好馨は、3月25日午後9時15分、肺ガンによる呼吸機能不全のため、神奈川県鎌倉市の自宅で死去した。享年76。明治45(1916)年、東京に生まれる。中学校在学中に胸を病んで2年間休学し、この間に描いた漫画が雑誌に認められて昭和10(1935)年、「フレッシュマン神童君」でデビューする。同12年、横山隆一などの所属する「新漫画派集団」に入り、同16年近藤日出造主宰の雑誌「漫画」に「轟先生」を発表して注目された。中学教師を主人公とし、世相を敏感に反映した同作品は、戦後の同24年から読売新聞夕刊に4コマ漫画として連載され始め、同26年からは朝刊に移って同48年2月まで、通算7762回にわたって続けられた。主要作品としては、他に「ますらを派出夫会」「あわもり君」などがある。晩年は油絵に親しみ、個展なども開催している。

那須良輔

没年月日:1989/02/22

痛烈な風刺のきいた政治漫画で近藤日出造、清水崑と並び称された日本漫画家協会会員、日本ペンクラブ会員の那須良輔は、2月22日午後1時、ぼうこうガンのため神奈川県の自宅で死去した。享年75。大正2(1913)年4月15日、熊本県球磨郡に生まれる。中学校在学中に洋画家を志し、上京して太平洋美術学校に学ぶ。同校卒業後、昭和9(1934)年講談社刊行の雑誌「日本少年」に「のんきな殿様」を発表して漫画家としてデビュー。新漫画派集団に所属し、昭和15年、近藤日出造の主宰する漫画誌「漫画」に執筆し始め、この頃から政治漫画に筆を染める。戦中は参謀本部の秘密機関の大田天橋の下で嘱託として外地向けの漫画謀略のビラを描くなどの仕事に従事し、同19年出征地より帰国。同25年より毎日新聞の嘱託となって政治漫画を担当。国会記者席からオペラグラスを使って議員、政治家の写生を行ない、洋画修学を基礎とした巧な似顔絵を用いて動感ある溌刺たる画風に鋭い批判、風刺をこめた。同33年にロンドンで開催された第1回国際政治漫画展に出品し、国際的にも認められる。主な政治漫画集の著作に『吉田から岸へ』(昭和34年、毎日新聞社)、『漫画家生活50年』(同61年、平凡社)などがある。また、水墨画、随筆もよくし、諷刺随筆『魚眼レンズ』(同42年、雪華社)、『かまくら素描』(同51年、かまくら春秋社)、『釣り春秋』(同53年、大陸書房)などを著した。

手塚治虫

没年月日:1989/02/09

「鉄腕アトム」「リボンの騎士」「火の鳥」などで日本の漫画史に大きな足跡を残した手塚治虫は2月9日午前10時50分、胃ガンのため東京都千代田区の半蔵門病院で死去した。享年60。昭和3(1928)年11月3日、大阪市に生まれる。本名治。同10年、大阪府立池田師範付属小学校(現、大阪教育大学附属池田小学校)に入学。田河水泡の漫画を好むとともに昆虫に興味を持ち、オサムシという名の虫を知ったことから、同14年頃から「治虫」のペンネームを用いる。同16年同小学校を卒業して大阪府立北野中学(現、北野高校)に入学。美術班と地歴班に属し、昆虫を題材にした漫画など、好んで漫画を描く。同20年北野中学を卒業して大阪大学附属医学専門部に入学。同年敗戦色の濃い中で映画「桃太郎海の神兵」を見、子供向け漫画映画の制作を志す。同21年『少国民新聞関西版』に4コマ漫画「マアチャンの日記帳」を連載し始め漫画家としてデビュー。翌22年酒井七馬原作の長編漫画『新宝島』を刊行し40万部を売りつくす。翌23年単行本『ロスト・ワールド』宇宙編及び地球編を刊行。同25年『漫画少年』に「ジャングル大帝」を連載し始め、同年から毎日放送で「手塚治虫アワー」が連続放送されて放送界をも活動の場とするようになる。また同年島田啓三を中心に馬場のぼるらが東京児童漫画会(児漫長屋)を結成すると同会に参加する。同26年大阪大学医学部専門部を卒業。翌年医師国家試験に合格したのち上京して本格的な制作活動に入る。同年より「鉄腕アトム」を、翌年より「リボンの騎士」を描き始め、爆発的人気を博す。同33年「びいこちゃん」「漫画生物学」で第3回小学館漫画賞受賞。同34年3月からフジテレビで「鉄腕アトム」がドラマ化され放映される。同35年頃自作の停滞感から一時漫画を離れ奈良県立医科大学で医学研究に従事し、36年1月「異型精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究(タニシの精虫の研究)」により医学博士の学位を取得。同年6月、手塚治虫プロダクション動画部を設立、翌年虫プロダクションと改称して「鉄腕アトム」のアニメーション・フィルムの制作を開始する。同38年国産初のテレビアニメシリーズ「鉄腕アトム」のテレビ放映が開始され、高視聴率をあげ、同年アメリカでも放映される。この作品は以後、英、仏、独、オーストラリア、台湾、香港、タイ、フィリピンなどでも放映され、国際的に広く知られるところとなった。また同年、前年に完成した手塚治虫原案、構成の映画「ある街角の物語」で第17回芸術祭奨励賞、第13回ブルーリボン教育文化映画賞受賞。同40年国産初のカラーテレビアニメシリーズ「ジャングル大帝」の放映が開始される。翌41年「ジャングル大帝」で厚生大臣児童福祉文化賞受賞。同年12月、雑誌『COM』が創刊され、同誌に「火の鳥」の連載を開始。その後も、同42年「展覧会の絵」で芸術祭奨励賞、ブルーリボン教育文化映画賞、劇場版「ジャングル大帝」でベネチア国際映画祭サンマルコ銀獅子賞及びアジア映画祭特別部門賞、同45年「やさしいライオン」で児童福祉文化賞、同50年「ブラック・ジャック」で日本漫画家協会賞特別優秀賞、同55年「火の鳥2772」でサンディエゴ・コミック・コンベンション・インクポット賞、ラスベガス映画祭動画部門賞など次々と漫画、動画の優作を生み出して受賞を続け、「鉄腕アトム」では同40年に厚生大臣による表彰を受けたほか、同60年には東京都民栄誉章受章、同63年、戦後漫画とアニメ界における創造的な業績によって朝日賞を受賞した。戯画、カリカチュアの流れをひく大人向けの漫画に対して子供を対象とする空想、物語の世界を表わした子供漫画の領域を確立し、動感あふれる描法、一貫した物語を追う長編物を打ち出すなど新たな試みを行なって、今日に至るテレビ、映画のアニメーション漫画の隆盛を導いた。没後、漫画家としては初めての公立美術館での個展として東京国立近代美術館で「手塚治虫展」(平成元年7月)が開かれた。(年譜、事蹟、作品刊行などの資料は同展図録に詳しい。)

宮尾しげを

没年月日:1982/10/02

子供漫画の開拓者で民俗芸能研究や随筆家としても知られる宮尾しげをは、10月2日午後7時21分、心不全のため東京都豊島区の自宅で死去した。享年80。1901(明治34)年7月24日、東京・浅草区に生まれ、本名重男。生家は士族商法の鼈甲細工師であったが、大正初年華々しい活躍をしていた漫画家岡本一平に憧れ、漫画家を志す。17才の時岡本一平に師事し、その後新聞社に入社、時代物の冒険談を描いた4コマの連載子供漫画「漫画太郎」を毎夕新聞に掲載する。これは団子串助の前駆を為すもので、23年6月毎夕社出版部より単行本として刊行された。25年、現在の子供漫画のシリーズ形式の走りとなった代表作「団子串助漫遊記」を連載し日本古来の講談世界のナンセンスを展開、100版以上を重ねるベストセラーとなった。この後も歌舞伎や落語等、市井文化を反映させた時代物の子供漫画を発表、大正末から昭和初年にかけて「軽飛軽助」「一休さんと珍助」「今弁慶」等のヒットを飛ばす。大らかな人柄そのままに、とぼけた絵を得意とし、また32年には、音が出たり怪物が飛び出したりする立体的な動く漫画本『あっぱれ無茶修業』を創作した。戦時中、中国を旅行し店の看板ばかりを集めたスケッチ集「支那街頭風物」を出している。しかし、欧米のナンセンス漫画の影響や軍人ファッショの台頭などにより、次第に漫画から離れていく。戦中より戦後は、随筆や民俗芸能の研究を幅広く手がけ、殊に江戸小咄や川柳、文楽人形芝居、郷土芸能などを研究、「文楽人形図譜」「日本祭礼行事事典」「江戸小咄集」「文楽人形」「東京昔と今」「日本の民俗芸能」「芸能民俗学」「江戸街芸風俗誌」「江戸川柳の味い方」「地方狂言の研究」等多数の著書を残した。また文化財保護審議会専門委員、国立劇場専門委員、日本民謡協会顧問、日本民族芸能協会・日本歌謡学会の各理事などをつとめ、日本文芸家協会・日本民俗学会・日本近世文学会・日本演劇学会・日本風俗史学会等の会員でもあった。絵画にも戦後は主に文筆や評論の側から係わり、著書『日本の戯画』(67年)のほか、日本漫画家協会名誉会員、日本浮世絵協会・日版会の理事などをつとめた。65年社会教育功労賞、69年紫綬褒章を受け、75年勲四等に叙せられた。

松山文雄

没年月日:1982/03/03

日本美術会(日本アンデパンダン)、日本童画会、日本漫画家協会に属した漫画家まつやまふみおは、3月3日午後0時48分急性心不全のため東京都渋谷区の代々木病院で死去した。享年79。1902(明治35)年5月18日長野県小県郡に生まれ、17(大正6)年大門村高等小学校を卒業後、25年東京・本郷絵画研究所に入り絵を学んだ。翌年から日本漫画家連盟に参加、29(昭和4)年には「戦旗」に徳永直『太陽のない街』の挿絵を描く。プロレタリア運動に参加し諷刺漫画を描き、1931年共産党に入党。翌年6月から35年2月まで3年間、治安維持法違反で入獄した。45(昭和20)年共産党に再入党し「赤旗」に政治漫画を描き始める。46年、日本美術会、日本童画会の創立に参加。戦前、戦後を通じて生涯、民衆を愛し、民衆の中に入っていこうとする態度を崩さず、ドーミエ、ロートレックらの伝統の上に漫画を位置づけ、芸術としての漫画、童画を目指した。主要作品に、画集『漫画でみる戦後史』(67年、新日本出版社)、『画集まつやまふみおの世界』(80年、愛真出版)、『漫画でみる現代史』(80年、新日本出版社)、絵本『まけうさぎ』(斎藤隆介作、71年、新日本出版社)、『かさこじぞう』(松谷みよ子作、73年、童心社)、自伝『赤白黒-諷刺画40余年』(69年、造形社)がある。

南部正太郎

没年月日:1976/11/05

漫画家南部正太郎は、脳内出血のため11月5日兵庫県宝塚市の大室病院で死去した。享年57。大正7(1918)年11月23日大垣市に生まれ、昭和12年大阪市立都島工業学校建築科を卒業した。卒業後置塩建築事務所に勤務し、戦後漫画家となる。昭和20年代の関西漫画界の第一人者で、当時、大阪新聞と朝日新聞に連載した「ヤネウラ3ちゃん」は人気を得、代表作となった。作品にはそのほか「アブ山8之助」「のんびり君」などがあり、日本漫画家協会(関西支部)に所属する。生涯独身。

須山計一

没年月日:1975/04/17

一水会会員、日本美術会員の洋画家、また漫画家、漫画研究家の須山計一は、4月17日午後11時58分、脳出血のため東京世田谷奥沢の大脇病院で死去した。享年69歳。須山は、明治38年(1905)7月17日、長野県下伊那郡に生まれ、昭和5年(1930)東京美術学校西洋画科を卒業。在学中は藤島武二教室に属し、一方、松山文雄にさそわれて麻生豊、柳瀬正夢らの日本漫画連盟に参加、昭和2年(1927)、柳瀬、松山の紹介でプロレタリア文芸連盟美術部に加盟し、学内では研究会五月会にはいって活躍した。その間に発表した作品には宇野計の名で出品した昭和3年(1928)第1回プロレタリア美術展「トーマを排撃せよ」、翌4年第2回プロ美術展「戦争」「宗教」「社会民主主義者A、B、C」、5年第3回展には無産者新聞連載の漫画「アジ太プロ吉世界漫遊記」、6年第4回展「アムステルダムの手先共」、7年第5回展「祖国」「村」などがある。美術学校卒業制作は「労働者」(のち、昭和38年“昭和初期洋画展”神奈川県立近代美術館、昭和46年4月“近代日本美術における1930年”展に出品された)であった。昭和8年ヤップ(日本プロレタリア美術家同盟)書記長、コップ(日本プロレタリア文化連盟)書記局員などをつとめ、同年12月検挙され、治安維持法違反で起訴、約1年間の未決生活をおくり、懲役3年執行猶予5年の判決をうけた。昭和16年(1941)第5回一水会展に「宿駅」入選、その後毎年出品し、昭和21年一水会会員となった。また、昭和12年には満州・朝鮮旅行、また、昭和17年には石井柏亭が主宰した双台社の同人となっている。戦後は、一水会展に出品すると同時に、昭和22年日本美術会会員となり同会主催日本アンデパンダン展に毎回出品、昭和34年には同志と草炎会を結成した。昭和36年にモスクア、レニングラードで開催された現代日本美術展に「伊那の山村」「出漁の朝」を出品、同40年には招待されて新中国を旅行した。一水会展への出品は一時中断したが、昭和46年以後再出品している。漫画評論、漫画史研究にもたづさわり、『現代世界漫画集』(昭和11年)、『ドーミエ、政治風俗漫画』(昭和28年、青木書店)、『漫画の歴史』(昭和30年、美術出版社)、『日本漫画100年』(昭和31年、鱒書房)、『日本の戯画』(昭和35年、社会思想社)、『漫画博物誌・世界、日本』2冊(昭和47年、番町書房)などの著書がある。一水会展出品作品略年譜昭和16年(1941)5回展「宿駅」、17年6回展「山の道」、18年7回展「仕上げの女達」「伊那谷の初夏」、22年9回展「志賀の渓流」「山池」、23年10回展「街」、24年11回展「ミシンをかける妻」、25年12回展「焼跡工場から」、26年13回展「姨捨駅」、27年14回展「絵をかく子供」「伊那谷の生家」、28年15回展「六郷橋畔」「造船所付近」、29年16回展「瓦斯橋の辺り」「南信駒場の宿」、30年17回展「南信の夏」「伊那の山村」、31年18回展「峠の部落」「大平街道」、32年19回展「馬籠への道」、33年20回展「荷揚げ場」、46年33回展「竜門石窟」、47年34回展「奥信濃の火祭」、48年35回展「天竜渓谷の村」、49年36回展「白樺林とつつじ」。

清水崑

没年月日:1974/03/27

漫画家、清水崑(本名幸雄)は3月27日午後8寺30分、ロク膜炎のため東京都文京区の東京医科歯科大学附属病院で死去した。享年61歳。大正元年9月長崎県に生まれた。長崎商業在学中から漫画に情熱をもやし、昭和5年、画家を志して上京、街頭で似顔絵かきをやるうち岡本一平に認められ弟子入りし漫画家への道を踏み出した。戦後、横山隆一、近藤日出造らと漫画集団をつくり、新聞、雑誌に政治漫画を連載、一躍人気作家となった。毛筆による鳥羽絵風の軽妙な絵が得意で、漫画では「かっぱ天国」「かっぱ川太郎」などの“かっぱもの”の代表作に多くの支持者を得たが、とくに優れた技を似顔絵に発揮したといえる。

西川辰美

没年月日:1971/03/07

漫画家西川辰美は3月7日食道静脈癌破裂のため新宿区東京医大病院で死去した。享年54才。東京の四谷に生れ、昭和9年京華商業卒業後、味の素株式会社に入社し20年までその広告部に在籍したが、12年から徴兵され、幹部候補生として陸軍中尉となる。昭和6年から漫画の投稿欄に採用されていたというが、京華商業在校中に近藤日出造の下に出入した。戦争末期から胸部の難病に苦しみながら漫画を描き、22年から漫画集団に参加した。25年から「主婦之友」誌上に「おトラさん」を連載し「文芸春秋漫画読本」にも同じシリーズを載せ続け読売少年版に「ゲンキ中学」、産経時事夕刊に「おかあちゃん」を連載する一流の流行作家となった。テレビ番組のレギュラー司会者としても活躍する多彩な才能をもっていた。

清水対岳坊

没年月日:1970/06/19

漫画家清水対岳坊は、6月19日心筋硬そくのため東京都北多摩郡の自宅で死去した。享年86歳。大正、昭和初期に活躍した漫画界の草分けで、講談社の「キング」「少年倶楽部」「講談倶楽部」のさし絵や、新聞の政治漫画などで知られた。

六浦光雄

没年月日:1969/06/12

漫画家六浦光雄は6月12日脳出血のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年56才。大正2年2月23日東京の墨田区に生れ、前には漫画集団会員であった。昭和38年第9回文芸春秋漫画賞を受賞した。近年いわゆる漫画の概念が拡大されてきたが、彼の漫画も滑稽さを目的とする従来の漫画と異って、戦後の混乱期における庶民生活の哀歓をうたった一種の風俗画的な傾向が強く、社会派漫画に分類されることもあるが、銅版画のような線の交錯による陰影の濃いその画面は民衆的な正義感にデカダニスムの混り合った独特の雰囲気をもっていた。

宍戸左行

没年月日:1969/02/03

戦前漫画を描き、戦中より水墨画を主とした画家宍戸左行(本名嘉兵衛)は2月3日悪性腫瘍のため東京都世田谷区の自宅で死去。享年80。福島県伊達郡に生れ、20才ごろアメリカに渡り、自活しながらキャノンなる画家の画熟に通って油絵を学んだ。約8年間の滞米生活中の観察はユーモラスな絵と文で、(平凡社)に「アメリカの横腹」が描かれている。その後毎夕新聞、東京日日新聞(のちの毎日新聞)などに政治漫画を執筆、昭和5年には読売新聞漫画部に入社、15年11月婦人部に属し、18年4月に退社した。この間児童漫画では「スピード太郎」を創作している。第二次世界大戦中に郷里福島に疎開すると水墨による風景を描くことが多く、また晩年は山路閑古著「柳話的釈尊伝」や水野弘元著「経典物語」などの挿絵などの挿絵および雑誌「大法輪」には昭和6-7年来より未完成となった「玄奘三蔵絵伝」を連載して仏教関係の仕事が増加していた。日本漫画家協会名誉会員(参照昭和44年2月14日読売新聞記載、宍戸三沙子「父・宍戸左行のこと」)

麻生豊

没年月日:1961/09/12

漫画家麻生豊は9月12日に心臓衰弱のため浦和市の自宅で死去した。64歳。彼は1898(明治31)年大分県宇佐郡に生れた。1923(大正12)年より5年にわたって報知新聞に勤務し、1924年から「ノンキナトウサン」を連載し好評を得た。1929(昭和4年)より読売新聞社、1932(昭和7)年より朝日新聞社勤。この間「人生勉強」「只野凡児」を連載し、わが国の新聞連載漫画の草分けの一人となった。

茂田井武

没年月日:1956/11/02

日本童画会々員茂田井武は、11月2日心臓喘息のため東京都練馬区の自宅で逝去した。享年48歳。明治41年9月29日東京に生れ、太平洋研究所、川端画塾に学んだ。昭和5年フランスに留学、スイス、英国を経て昭和8年帰国、挿絵をかきはじめた。第二次大戦中は報導部員として広東に駐留、のち入隊し中支に転戦、20年帰還した。作品は漫画、児童向絵本物語などで、昭和29年小学館児童文化賞、絵画賞をうけた。「絵本セロひきのゴーシュ」「三百六十五日の珍旅行」などの著書がある。

北沢楽天

没年月日:1955/08/25

漫画界の長老北沢楽天は、8月25日大宮市の自宅で脳出血のため逝去した。享年79歳。明治9年7月20日生。本籍は埼玉県大宮市。大幸館絵画研究所において松室重剛、堀江正章に師事した。最初横浜の英字週刊誌ボクス・オブ・キューリアスに入社して絵画を担当したが、明治33年時事新報社に入つて漫画を描いて認められた。同38年4月漫画週刊誌「東京パック」を創刊し、漫画の普及につくした。昭和2年から同4年までヨーロッパを巡遊したが、この間も漫画を描いて毎週送り、またロンドンにおいて個展を開催した。帰国後「楽天全集」7巻、「楽天パック」を刊行し、また「家庭パック」を発行した。終戦後は大宮市郊外に隠棲し、筆硯を楽しんでいた。

小野佐世男

没年月日:1954/02/01

二科会所属の漫画家小野佐世男は2月1日心筋硬塞のため神田駿河台日大付属病院で急逝した。享年48歳、葬儀は漫画集団葬を以て、4日世田谷区の自宅で行われた。明治38年横浜市に生れ、東京美術学校に入学し岡田三郎助の教えをうけた。昭和5年同校卒業後は春台美術に加わつたが漫画の投書が縁で報知新聞に入り漫画で活躍した。戦時中は報道班員としてジャワに従軍し、戦後は女性姿態に独特の筆をふるい、ジヤーナリズムの人気を集めていた。新漫画派集団、出版美術家連盟二科会に属し、著書に「女体戯語」「サルサル合戦」「女神の絵本」等がある。

安本亮一

没年月日:1950/11/06

漫画家安本亮一は食道癌のため11月6日長野市の自宅で死去した。享年50。明治34年東京浅草に人形師安本亀八の長男として生れ、大正13年東京美術学校彫刻科塑造部選科を卒業した。建畠大夢、池部鈞、岡本一平に師事し、春陽会展、帝展等に入選した。東京朝日新聞社学芸部に嘱託として紙上に漫画を画くなど主として漫画界に活躍した。

村山しげる

没年月日:1949/09/13

新漫画派集団同人村山しげるは9月13日東京麻布の実兄宅で心臓麻痺のため死去した。享年39。本名を繁といい、明治44年に東京に生れ、新鋭漫画グループ・新漫画派集団等によつて雑誌等に活躍した。

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