中沢啓治

没年月日:2012/12/19
分野:, (漫)
読み:なかざわけいじ

 漫画家中沢啓治は、12月19日肺がんのため広島市内の病院で死去した。享年73。
 1939(昭和14)年3月14日広島県に生まれる。国民学校1年生のとき被爆、日本画家の父、姉、弟と死別する。江波中学卒業後、看板業に就く。61年上京、一峰大二のアシスタントとなる。63年「スパーク1」を『少年画報』に発表、デビューする。65年、辻なおきのアシスタントとなる一方、月刊の少年誌に読み切りを発表していく。66年母が亡くなり、被爆体験をもつ殺し屋の漫画「黒い雨にうたれて」を描くが、『漫画パンチ』に掲載されたのは2年後だった。<黒いシリーズ>などを青年誌に続けるうちに、73年25号より『週刊少年ジャンプ』に「はだしのゲン」の連載が開始(第1部は1974年39号まで)される。同誌の創刊編集長長野規の説得に応じて連載を始めたが、広島への原爆投下による惨劇を少年誌に掲載することは当時としては異例なことであった。主人公の少年のコミカルな表現をもって、本来のテーマである「踏まれても踏まれても強く生きる麦なれ」が基礎にあったこそ成功したといえよう。新聞記事や単行本化、海外への翻訳(英語版は1978年)、ノベライズ化、アニメ化や実写映画化されるうちにこの漫画は、被爆体験を描いた貴重な資料として注目をあびるようになる。スポーツ漫画として『広島カープ物語』(全2巻、汐文社、1994年)などを発表、映画監督作品に「お好み八ちゃん」(1999年)がある。2002(平成14)年に谷本清平和賞受賞。09年からは白内障のため漫画執筆活動は途絶えた。11年に原画や単行本など10500点余りが、広島平和記念資料館に寄贈された。
 著書に、『「ヒロシマ」の空白 中沢家始末記』(日本図書センター、1987年)、『「はだしのゲン」自伝』(教育史料出版会、1994年)、『はだしのゲン わたしの遺書』(朝日学生新聞社、2012年)がある。またカメラマンの大村克巳によるノンフィクション『「はだしのゲン」創作の真実』(中央公論新社、2013年)、ドキュメンタリー映画に「はだしのゲンが見たヒロシマ」(石田優子監督、2011年)がある。

出 典:『日本美術年鑑』平成25年版(425頁)
登録日:2015年12月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「中沢啓治」『日本美術年鑑』平成25年版(425頁)
例)「中沢啓治 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/204411.html(閲覧日 2024-11-03)

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