本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。
(記事総数 3,120 件)
- 分類は、『日本美術年鑑』掲載時のものを元に、本データベース用に新たに分類したものです。
- なお『日本美術年鑑』掲載時の分類も、個々の記事中に括弧書きで掲載しました。
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没年月日:1971/12/09 行動美術協会会員の洋画家、田辺三重松は、12月9日午前11時30分、東京都練馬区の自宅で心臓喘息発作のために死去した。享年74才であった。田辺三重松は、明治30年(1897)9月1日、函館市の商家に生まれ、大正5年(1916)北海道庁立函館商業学校を卒業した。その後洋画を独習、昭和3年(1928)15回二科展に二点が初入選、また道展に入選、長官賞をうけた。石井柏亭、安井曾太郎、児島善三郎らの指導をうけ、二科展に出品を続け、昭和18年(1943)二科会会員に推挙された。戦後は、昭和20年(1945)同志と行動美術協会を設立し、雄大な北海道風景を大きな筆勢で描いた風景作品を発表してきた。略年譜昭和3年(1928) 「荷揚げ場」「花草」の二点が二科展(15回)に初入選。昭和4年 「夏の曇り日」「港の午後」(二科展)昭和5年 「造船場町」(二科展)昭和6年 「北国早春の展港」「寿子立像」(二科展)昭和7年 「トラピスト修院の夏」「ハリスト教会堂」(二科展) 昭和9年 「五稜廊」「白き溶岩と駒ヶ岳」(二科展)昭和10年 「チキユ岬」「淀泊」(二科展)昭和11年 「初秋大沼」「飛沫」(二科展)、この年二科展特待となる。昭和13年 「夏の洞爺湖畔」「羽黒山参道」「北洋の荷揚げ」二科会会友に推される。昭和14年 「有珠岳」「燈台の見ゆる岬」(二科展)。大陸前線部隊報道班からの依頼により、野戦絵画展覧会に特別出品する。昭和15年 「新緑の港」「入江夏景(北海道有珠湾)」(二科展)。紀元二千六百年奉祝展に出品。昭和16年 「初夏の山容」「船」(二科展)昭和17年 「岬の午後」「晩春の耕地風景」、二科賞を受ける。昭和18年 「湿地と這松」「残雪のある漁港」、二科会会員に推挙される。北部軍報道部員として北千島派遣部隊に従軍し、新聞紙上に北方通信を連載する。昭和20年 11月、行動美術協会創立に参加する。全北海道美術協会創設に参画する。昭和22年 「緑の池畔」「おつけの浜」「夏の展望」(行動2回展)昭和24年 北海道文化賞を受賞昭和25年 北海道新聞文化賞を受賞する。昭和26年 「原始林」「雪影」「時雨ふる山湖」(行動6回展)昭和28年 「碧い湖(摩周)」「白い林(阿寒)」「朝霧(阿寒)」(行動8回展)昭和30年 「湖畔の白樺」「大雪山と山峡」(行動10回展)昭和31年 「函館港風景」「秋の草原」「断崖の海」(行動11回展)。厚生省の依頼により国立公園「夏の中禅寺湖」を制作する。昭和32年 「夏の大雪山」(行動12回展)。この年、函館市より東京練馬区に転居する。昭和33年 「開墾地」「秋晴るる山湖」「白い裸樹」(行動13回展)昭和34年 「黒い林」「芦の湖畔」「白い断崖」「噴煙の山」(行動14回展)昭和35年 「雌阿寒噴煙」「夏の横浜港」(行動15回展)。「昭和新山」文部省買上げとなる。昭和37年 「草原」「はまなすの砂丘」「白い砂浜」(行動16回展)昭和38年 「積丹の海」「夏の雌阿寒岳」(行動17回展)昭和38年 国際具象派展に出品、6月~12月アメリカを経てヨーロッパへ旅行する。昭和39年 「グランドキャニオン」「フィヨールドの船着場」(行動19回展)昭和40年 「支笏湖」「燈台のある草原」(行動20回展)。東京日本橋高島屋にて個展「スイスとノルウェーの山」を開催する。昭和41年 「黒岳と桂月(大雪山)」「霞沢岳と梓川」(行動21回展)昭和42年 網膜剥離症を病み、右眼失明。昭和43年 「日高の浜」「氷海」(行動23回展)昭和44年 「神威岬」「十勝岳」(行動24回展)昭和45年 「昭和新山」「照りかげる裏大雪」(行動25回展)。東京銀座彩壺堂において個展を開催する。昭和46年 「噴煙桜島」「早春富士」(行動26回展)。12月9日死去し、14日東京築地本願寺において行動美術協会葬として葬儀が行なわれた。
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没年月日:1971/11/28 日本水彩画会々員の藤江志津は、11月28日東京都世田谷区の自宅で死去した。享年76歳。明治28年2月15日都下青梅市に生れた。高等女学校卒業後、大正9年藤江醇三郎に嫁し台湾台北市に住まった。昭和5年から東京都世田谷区の現住所に居住。昭和9年第21回日本水彩画会展より昭和45年第58回同展にいたるまで連続出品した。また戦前昭和13年二科会第25回展より第29回展まで数回入選。その他、朱葉会展や白日会展にも出品、終始、水彩画に専心し、水彩画界の古参作家として認められていた。
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没年月日:1971/11/28 春陽会会員の洋画家、伊川鷹治は、11月28日午前零時、皮膚ガンのため東京・築地の国立ガンセンターで死去した。享年72歳。伊川鷹治は、明治31年(1898)12月28日、長野県小県郡に生まれ、中学校を卒業後、大正6年(1917)上京して赤坂葵橋の白馬会洋画研究所に入所して5年間黒田清輝に師事し、その後、白滝幾之助、山形鼎らの指導をうけた。昭和5年(1930)春陽会8回展に「あんこうなど」が初入選、以後同会展毎回出品、昭和11年(1936)から木村荘八、中川一政らの指導をうけ、昭和18年同会18回展に「文楽人形」「花」「風景」「魚貝」を出品、春陽会賞をうけ、翌19年「文楽の楽屋」「風景」などによって春陽会会友に推された。一方、昭和7年(1932)、銀座資生堂において第1回個展、以後、昭和23年までに5回同所において個展を開催した。昭和23年(1948)春陽会会員に推挙され、美術団体連合展などにも出品した。主要作品に、上記のもののほか、「秋庭」「馬込別れ坂」「菜園の秋」(昭和23)、「春の庭」(昭和23)、「桜行く頃」(昭和24)などがある。
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没年月日:1971/11/17 元示現会創立会員の吉原甲蔵は、11月17日死去した。享年72歳。明治32年1月22日佐賀県東松浦郡に生れる。昭和2年数え29歳の時から画道に入り、太平洋画会研究所に学んだ。戦中は太平洋美術学校講師をつとめた。昭和3年第9回帝展に「自画像」が初入選してより官展に出品、同11年文展鑑査展に「母と子供」が入選、この作品は東西両朝日新聞のカレンダーに採用された。同14年第35回太平洋画会展出品の「室内」で太平洋画会賞を受け、同会会員に推挙された。戦後昭和23年示現会創立に際し参加、会員となったが、晩年は同会から離れた。
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没年月日:1971/11/07 春陽会会員の洋画家、関四郎五郎は、11月17日午後、心筋梗塞のため長野県東筑摩郡の自宅で死去した。享年63歳。関は明治41年(1908)4月23日、長野県松本市に生まれ、昭和10年(1935)春陽会13回展に初入選、昭和13年に上京して二科会研究所に入所して熊谷守一の指導をうけた。春陽会展に出品をつづけ、また昭和18年(1943)6回文展、同21年1回日展にも出品入選している。昭和16年、18年と満州へ学生旅行、昭和19年(1944)に浅間温泉に疎開し、アトリエを建て、以後、同地に居住し、昭和25年に洋画研究所を開設し、同23年からは長野県展審査員を数度つとめ長野県地方の美術振興にも尽力した。昭和22年(1947)春陽会会友、同31年同会会員に推挙された。日本橋三越で前後6回個展を開き、昭和43年(1968)同所において画業35年展を開催した。主要な作品に、「春雪」(1956)、「春寒」(1965)、「アルプスの空」(1967)、「朝の太陽」(1971)などがある。
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没年月日:1971/11/05 日展評議員、光風会理事の洋画家、大沢海蔵は、11月5日午後3時32分、心筋コウソクのため東京・中野の中野総合病院で死去した。享年65歳。大沢海蔵は、明治39年(1906)11月1日、名古屋市に生まれ、愛知県立明倫中学校を卒業、大正13年(1924)川端絵画研究所に入り、岡田三郎助、辻永に師事した。国展、中央美術展、白日展にも出品したが、昭和3年(1928)、光風会15回展に出品、光風賞を受賞、同年9回帝展に「庭」入選、以後、光風展、官展に出品をつづけ、昭和4年光風会会友、同9年会員に推挙され、同15年には岡田賞をうけた。昭和13年2回文展において「草むら」特選となる。昭和27年日展審査員、以後、5回審査員をつとめ、同31年ヨーロッパ各国を旅行、昭和36年、4回日展では「ホルンのある静物」で文部大臣賞をうけた。上記作品のほか、「庭」(昭4)、「秋晴」(昭9)、「初秋の高原」(昭21)、「信に楽し」(昭24)、「円テーブル」(昭26)、「風薫る」(昭29)、「ローマ」(昭32)などがある。
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没年月日:1971/11/04 パリ在住のサロン・ナショナル会員の洋画家平賀亀祐は、11月4日午前10時(現地時間)、心臓発作のため、パリ市の自宅で死去した。享年83才。平賀亀祐は、明治22年(1889)三重県に生まれ、青年時代に移民としてアメリカへ渡り、絵画を勉強しその後フランスへ移り、生涯のほとんどもフランスですごし、フランスの官展で活躍した。略年譜1889 明治22年 9月25日、三重県志摩郡に生れる。1906 明治39年 9月、三重県移民として渡米。サンフランシスコ美術学校に入学。1909 明治42年 サンフランシスコの加州大学美術科に転校。1914 大正3年 カリフォルニア美校全生徒の作品展にて1、2、3等受賞。特待生となり学費の免除を受ける。1915 大正4年 同校卒業。1916 大正5年 この年より1925年までロスアンゼルスに居住して苦学する。1925 大正14年 渡仏、アカデミー・ジュリアンで2年間学び、ルシアン・シモンに師事する。1926 大正15年 ル・サロンに2点入選。パリ モンマルトル、ディアム画廊で個展を開く。1927 昭和2年 サロン・ナショナルに風景画入選。サロン・ドームに3点入選。帰米、ロスアンゼルスにて第1回個展を開く。金門学園社交室にて作品展開く。オリンピック・ホテルにて個展を開く。ポートランド、淀川亭にて作品展を開く。1929 昭和4年 帰米、第2回展をロスアンゼルスにて開く。滞欧中の作品を金門学園社交室にて展観する。スタンフォード大学のアート ギャラリー常盤クラブにて作品展を開く。アンバサイダーホテル広間にて作品展を開く。1930 昭和5年 ニューヨーク ミルチ アートギャラリー、パリ シャルパンチエール画廊にて個人展を開く。フランス政府買上げ、ロアン美術館買上げ。1932 昭和7年 帰米、第3回個展をロスアンゼルスにて開く。フィラデルフィア、デンバー、ニューヨークを訪れる。ニューヨーク ミルチ アートギャラリーにて作品展を開く。1934 昭和9年 パリ、春のル・サロンにて銅賞を受ける。1935 昭和10年 4月、三重県山田駅前県立商工奨励館別館にて個展を開く。1938 昭和13年 ル・サロンにて銀賞を受ける。1941 昭和16年 第2次世界大戦おこる。敵国人として半年以上収容される。1945 昭和20年 大戦終る。戦時中サロン・ドートンヌ(秋季展)レクスポジション・ユニヴェセル(世界展)などに出品する。1954 昭和29年 ル・サロンにて金賞ならびにコロー賞を受ける。美術文化勲章、学士院賞を受ける。4回つづいて入選のため会員に推薦される。1955 昭和30年 50年ぶりに日本に帰国、朝日新聞社主催「平賀亀祐滞仏作品展」をブリヂストン美術館で開く。大阪高島屋にて作品展を開く。横浜市紅葉ケ丘県立図書館にて作品展を開く。東京交詢社にて作品展を開く。高知市にて個展を開く。1960 昭和35年 帰朝、東京、大阪ほか日本各地で個展を開く。1961 昭和36年 日本政府より勲三等に叙勲される。1962 昭和37年 浜名湖老人ホーム建設資金として作品を寄贈する。1963 昭和38年 東京日本橋 造形ギャラリーにて、造形主催の個展を開く。1964 昭和39年 高知市にて個展を開き、伊勢市にて個展を開き、札幌にて作品展を開く。1965 昭和40年 3回目の帰国、造形ギャラリーにて個展を開く。1966 昭和41年 「平賀亀祐喜寿記念」展が東京、日本橋三越にて開催される。「画集・平賀亀祐」出版される。(平賀亀祐喜寿記念展目録より転写)
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没年月日:1971/10/06 日本芸術院会員、日展顧問、新世紀美術協会名誉会員の洋画家、川島理一郎は、10月6日午前6時10分、脳出血のため、東京・品川区の昭和医大病院で死去した。享年85才。川島理一郎は栃木県足利市の機屋の家に生まれ、19才のとき渡米、ついでフランスに渡り、藤田嗣治らとフォーヴィスム、キュービスム以後の美術運動の渦中で学び、同地で第一次大戦を経験して帰国、その後も数回にわたり渡欧、作風は初期にはキュービスムの影響をうけたが、フォーヴィスムを基調として幾度か変転した展開をみせた。一時期は、蘭を好んで題材し、戦後には抽象的傾向となった。随筆をよくし『緑の時代』『旅人の眼』『美術の都パリ』などの著書がある。略年譜明治19年(1886) 3月9日、足利市に生まれる。明治23年(1890) 祖父母と東京に居住する。明治38年(1905) アメリカへ渡り、ワシントン、コーコラン美術学校に学ぶ。明治39年(1906) ニューヨークのナショナル・アカデミー・オブ・デザインに特待生として学び、褒状をえる。明治44年(1911) フランスへわたる。パリのアカデミー・ジュリアン、ついでアカデミー・コラロッシュに学ぶ。大正元年(1912) サロン・ドートンヌに入選する。フォーヴィスム、キュービスムなどの新運動の刺戟をうけ、ピカソ、レジェ、ザッキン、藤田嗣治などと交友、原始洞窟絵画、古代エジプト、ギリシャ、ローマの遺跡をたずねる。大正4年(1915) 第一次大戦下、藤田、ザッキンらと赤十字に参加したが、病をえてスペインのマラガに静養する。大正8年(1919) アフリカ、モロッコを旅行、アメリカを経由して帰国。個展を開催。大正9年(1920) 再渡仏し、コルシカ島へ旅行、サロン・ドートンヌに入選。2年間滞在する。大正11年(1922) 滞欧作200点をたずさえて帰国したが、関東大震災のため焼失。大正13年(1924) 三度目渡欧、フランス、イタリア、スペインを旅行。大正15年(1926) 梅原龍三郎とともに国画創作協会第二部(のち、国画会)を創設。昭和4年(1929) 4回国展に「森の朝」「ニースの祭日」「魚」他、パステル、デッサンを出品。昭和6年(1931) 6回国展に「裸婦スパニッシュ」(1~3)、「ニースの家」「ニースの海浜」「窓・エトルタ」「ルクサンブルグの朝」(1~2)他1点を出品。昭和7年(1932) 「池上早春」「ボスケ、デュロナード」他2点を国展に出品。昭和8年(1933) 「相思樹」「台湾歌妓」(1~5)を国展に発表。昭和9年(1934) 「巨木」「林間」「巨人踊の夕」(国展)昭和10年(1935) 「花」「森」(国展)、この年国画会を脱会する。昭和11年(1936) 女子美術学校の教授となる。昭和12年(1937) 文展審査員を依嘱される。昭和13年(1938) 陸軍嘱託となり従軍画家として北支に派遣される。2回文展に「九竜壁(北京)」を出品、文展審査員。昭和14年(1939) 再度北支へ派遣される。昭和16年(1941) 泰・仏印(タイ国、ヴェトナム)派遣される。昭和17年(1942) 泰国首相へ贈呈画使節として派遣される。昭和18年(1943) 8回文展に「南方の蘭花」を出品。陸軍省より記録画製作のためフィリッピンへ派遣される。昭和23年(1948) 日本芸術院会員に推挙される。昭和24年(1949) 5回日展「多摩川」昭和26年(1951) 7回日展「香港」昭和30年(1955) 新世紀美術協会の創立に参加し、名誉会員となる。「巴里現代美術館の浮彫」(11回日展)昭和31年(1956) 「中禅寺湖」(12回日展)、「らん花」(1回新世紀展)昭和34年(1959) 「蘭花」「巴里」「蘭花」「ポン・ヌフ」「嵐山にて」「窓」「マチスのアトリエ」(4回新世紀展特別陳列)、「鎌倉山風景」(2回日展)昭和36年(1961) 「鎌倉山」(日展)、「牡丹」(6回新世紀展)昭和39年(1964) 「浮世絵の誘惑」(7回日展)昭和41年(1966) 「雨と風の詩」(9回日展)、「太陽にうたう」(11回新世紀展)昭和44年(1969) 「浮世絵の誘惑(その二)」(改組1回日展)、「ルナ幻想」(14回新世紀展)
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没年月日:1971/09/19 自由美術協会々員の文挾克明は、9月19日腸閉そくのため死去した。享年66歳。明治38年7月1日栃木県今市市に生れ、本名勝太郎。昭和18年までは勝と号し、以後克明と号した。画家を志して上京、大正11年川端画学校修了、大正15年日本美術学校を卒業した。昭和4年から種々の美術団体展に出品しはじめ、終始超現実主義傾向の独自な画境を示した。略年譜昭和4年~8年 国際美術内国展、白日会、1930年協会、槐樹社、東光会などの各展に入選。昭和6年~23年 独立美術協会展の第1回より第16回まで連続入選。昭和14年 陸軍従軍画家として中支へ渡る。河北新報に支那事変の絵と文、連載。昭和17年 独立美術協会会友に推挙される。昭和23年 「冷たき暴威」で独立美術賞受賞。昭和24年 「栄光の体型」を日本アンデパンダン展に出品。昭和25年 独立美術協会から自由美術家協会へ移籍。同時に受賞し、自由美術家協会会員に推挙される。昭和25年 胃癌の手術をうける。昭和33年 「抽象絵画の展開」展(国立近代美術館)に招待出品する。昭和44年 腸閉塞の手術をうける。昭和45年 朝日新聞紙上に東大名誉教授大塚久雄「わが道」のカットを担当連載する。昭和46年 2月、腸閉塞再手術。9月19日同病悪化で死去。
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没年月日:1971/08/12 もと日展依嘱で無所属の洋画家小野彦三郎は、8月12日午前、肺ガンのため死去した。享年59才。小野彦三郎は明治45年(1912)2月11日、宮崎県諸県都に生まれ、宮崎県立小林中学校をへて、昭和13年(1938)帝国美術学校(現・武蔵野美大)を卒業、昭和17年5回文展に「鏡」が入選、戦後日展に連続入選し、昭和24年6回展で特選となった。昭和28年(1953)から2年間、留学生としてフランス滞在、帰国後、昭和30年から日展依嘱となった。一時、創元会に属したが昭和33年退会して同志と十一会を結成し、38年にはこれを退会し、無所属となり、昭和39年以降は毎年個展を開催(主として日本橋高島屋において)して作品を発表していた。日展出品作品略年譜昭和21:「午後」、昭和22:「頸節」、昭和23:「あじさい」、昭和24:「静思」(特選)、昭和25:「百日紅」、昭和26:「河」、昭和27:「門」、昭和30:「マロニエ」、昭和31:「樹」、昭和32:「三月堂」、昭和32:「舟」。
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没年月日:1971/08/12 二紀会同人の堀沢好一は、8月12日死去した。享年61歳。明治43年7月10日大阪府枚方市に生れた。大阪府池田師範学校卒業。中之島洋画研究所で国枝金三、鍋井克之に師事。昭和7年二科第19回展より第29回展まで出品。昭和22年二紀会展より同展に出品、同年第二紀会同人となった。
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没年月日:1971/08/03 太平洋美術会々員、日本水彩画会会友の丸山栖鶯は、8月3日、日光へ写生旅行中に脳出血のため急逝した。享年71歳。明治33年1月11日、水彩画家丸山晩霞の長男として長野県小諸市に生れた。本名節。大正13年3月東京美術学校彫刻科選科塑造部を卒業。その前大正11年第4回帝展に彫塑作品「恍」で初入選した。大正15年陶器彫刻研究のため大倉陶園に入社。昭和2年聖徳太子奉賛展賞を受け、翌3年には東久邇宮より銀盃を給わった。同5年には秩父宮家に作品御買上。同19年大倉陶園退社、長野へ移転し、同22年陶彫研究所を開設した。同26年長野県小諸より上京し絵画に専念することになった。同39年~46年、太平洋展へ出品、会員となった。同41年からは日本水彩画会展へも出品を続け、同45年には三宅氏賞を受け、会友となった。
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没年月日:1971/07/09 一水会委員の洋画家・松田文雄は、7月9日午前11時45分、東京港区の慈恵医大附属病院において、ジン不全のため死去した。享年63才。松田文雄は、明治41年(1908)3月9日、京都市に生まれ、まもなく三重県出身の書家松田舒(号・南溟)の養子となり、東京、麻布小学校をへて大正9年(1920)東京府立第一中学校に進み、同14年同校を卒業、翌15年(1926)東京美術学校西洋画科に入学した。はやくから宗教・哲学書にしたしみ、早熟で、印象派以前の西洋絵画の官学派へ接近を試み、一方、児童画でも好評をえた。生涯を独身でとおし、晩年は半身不随と右眼失明などになやまされ闘病生活のなかで制作していた。略年譜1908 明治41 京都に生る1908 明治41 三重県人、松田舒の養子となる1920 大正9 東京府立第一中学校(東京都立日比谷高等学校)入学1923 大正12 関東大震災、麻布区にて罹災1924 大正13 牛込区二十騎町に移転1925 大正14 東京府立第一中学校卒業、川端画学校でデッサンを学ぶ1926 大正15 東京美術学校西洋画科(東京芸術大学)入学、牛込区河田町に移転1928 昭和3 美術学校三年、和田英作教室に編入され、同教授の教えを受く、同年帝展に「T嬢立像」を出品初入選す1929 昭和4 2月6日義父舒死去1920 昭和5 帝展に「夕暮れ」出品1931 昭和6 東京美術学校卒業1932 昭和7 上海事変勃発、海軍従軍画家として上海に赴き同年帰国1934 昭和9 帝展に「老母の像」出品1938 昭和13 5月6日義母綏子死去1939 昭和14 文展に「大陸の子」出品1940 昭和15 紀元2600年奉祝展に「老鍛治屋」発表、一水会展に「萩咲く庭」「青衣座像」等を出品し、山下新太郎、石井柏亭の知遇を受く1941 昭和16 文展に「猫を抱く小孩」双台社展に「青衣」出品1943 昭和18 文展に「家鴨と小孩」双台社展に「雪国の少女」出品す1944 昭和19 陸軍美術展に「忠烈」「硫黄島決戦」「軍神山崎部隊長像」等を出品、この頃に藤田嗣治との交流あり、戦火をさけて世田谷区八幡山の農家に疎開1945 昭和20 東京大空襲により河田町のアトリエ焼失1946 昭和21 日展1月「小春日」10月「草に座す」出品、一水会会員に推挙さる1947 昭和22 日展に「庭にて」出品1950 昭和25 日展に「童女と仔犬」出品、新宿区若松町68の新画室に移転1951 昭和26 日展に「老漁夫」出品1953 昭和28 日展に「雪崖」出品1955 昭和30 一水会展に「荒天の犬吠岬」出品1956 昭和31 5月25日カトリックの洗礼を受く1957 昭和32 一水会展に「清流」出品1958 昭和33 一水会展に「風薫る」出品1960 昭和35 一水会展に「林檎の花咲く」日展に「庭に立てる」出品1961 昭和36 一水会展に「泉湧く」出品、会員優賞を受く1962 昭和37 一水会展に「奥黒部西沢小沢」出品1963 昭和38 一水会展に「奥黒部棒小屋沢」出品1964 昭和39 日展に「白い道」出品1965 昭和40 日展に「初秋の庭にて」出品1966 昭和41 5月27日半身不随となる、日展に「断崖」鈴木貫太郎記念館(千葉県関宿)に「大演習御召艦長門艦上の図」完成納入、一水会展に「新雪の剣岳」出品1967 昭和42 一水会展に「黒部の秘境祖母谷」日展に「木曾晩夏」出品1968 昭和43 一水会展に「秋立つ朝」日展に「雪原牧馬」出品、一水委員に推挙される1969 昭和44 1月糖尿性脱疽にて厚生年金病院入院、右足指一本切断、3月退院、一水会展に「夏の牧場」出品1970 昭和45 1月病気再発、慈恵医大病院入院、4月退院、7月友人石井光雄・五味悌四郎・佐藤保春・田中志郎と共に、日本自然派美術会を結成、7月末念願のイタリア旅行出発、ローマ法王に謁見す、8月帰国、9月慈恵医大病院入院、日を追って病状悪化し数回の手術を受く、12月第1回“日本自然派美術会展”開催1971 昭和46 7月9日慈恵医大病院にて死去、享年63才墓所、三重県鳥羽市天真寺に埋葬す、養父母の墓(碑銘、比田井天来揮毫)の側に友人一同記念碑を建立す(碑銘、比田井天来の息、南谷揮毫)1972 昭和47 7月6日から12日まで遺作展を新宿・小田急百貨店で開催(遺作展目録・年譜より)
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没年月日:1971/06/08 新制作協会洋画部会員で時代小説の挿絵でも活躍した中尾進は、6月8日、癌性腹膜炎のため東京・阿佐谷の河北病院で死去した。享年55才。中尾進は、本名鈴木益吉、大正5年(1916)5月27日、栃木県宇都宮市に生まれ、栃木県安蘇郡植野村尋常高等小学校を卒業、川端画学校、本郷研究所で学び、昭和15年(1940)荻須高徳に師事し、翌16年新制作派6回展に「古い家」が初入選した。翌17年5回文展に「日和」入選、同18年以後は新制作展に出品をつづけ、昭和21年(1946)10回展に「敗屋」「本郷湯島附近」「松坂屋のみえる風景」を出品して新作家賞をうけ、同31年(1956)「座す」「鳩」を出品。新制作協会会員に推薦され、昭和39年4月~7月欧米を旅行した。昭和30年(1955)前後から新聞雑誌の挿絵を描きはじめ、柴田錬三郎作「乱世流転記」(京都新聞)、司馬遼太郎作「城塞」(週刊新潮)など多くの時代小説の挿絵を担当した。その他、油彩作品には、「信濃の道」(昭和18)、「工場」「四谷駅」(同24)、「話」「鏡」(同26)、「生」(同28)、「滑走路」「赤い椅子の夢」「NOA NOA」(同30)、「弱法師」(同34)、「白」「黄」「赤」(同37)、「アクロポリス」(同39)、「風の影」「イスパニア」「黒い陽」(同40)などがある。
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没年月日:1971/06/04 一水会々員、日本水彩画会々員の飯島敏三は、6月4日あたかも銀座・銀彩堂にて前年に引続いての第2回目の個展開催中、心筋梗塞のため急逝した。享年59歳。明治45年1月4日埼玉県に生れ、昭和18年東京高等師範学校研究科を卒業した。まず水彩画からはじめ、昭和21年第10回大潮展特選、同25年第38回日本水彩画会展で受賞し、翌年第39回同展で水彩画会賞を受けると共に会員に推挙された。同34年一水会展で佳作賞を受け同36年一水会々員に推挙された。田崎広助に師事、日展には昭和26年初入選以来同45年まで10回の入選を重ねた。油絵、水彩共に穏健な写実的風景画に特色を示した。
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没年月日:1971/05/25 もと日展出品の洋画家津田耕造は、5月25日動脈破裂のため死去した。享年79才。津田耕造は明治25年(1892)3月15日福岡県に生まれ、和田英作に師事、大正10年(1921)東京美術学校西洋画科を卒業。その後、病のため右足を切断し長く画業を休んでいたが、昭和5年前後から再び描きはじめ、主として肖像画を制作した。主要な作品に、「楢橋渡氏令嬢像」「島津忠承氏肖像」などがある。
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没年月日:1971/05/07 イタリア、ローマ在住の洋画家、阿部展也は5月7日午前7時30分(ローマ時間、6日午後11時30分)、ローマのサルバドール・ムンディ病院で脳出血のため急逝した。享年58才であった。阿部展也は本名を芳文、大正2年(1913)2月4日、新潟県に生まれ、東京・小石川の京北中学校を4年で中退し、以後、独学で絵画を学び、はじめ独立展に出品、昭和12年詩画集『妖精の距離』(春鳥会刊)を出版、昭和14年(1939)には福沢一郎を中心とする超現実主義の団体、美術文化協会の結成に参加し同人となった。昭和15年ころ満州・蒙古に旅行、昭和16年(1941)からフィリッピンに滞在して、日本軍報道部の仕事に従事しポスター、写真、その他の諸企画にあたった。昭和21年(1946)帰国、美術文化協会に復帰したが、昭和27年(1952)同会を脱退、無所属となった。昭和26年(1951)サンパウロ・ビエンナーレ展、翌27年カーネギー国際美術展、28年インド国際美術展、30年ニューヨーク、ブルックリン美術館主催国際水彩画展、その他国内の国際展にも出品して活躍し、28年(1953)のインド国際展には日本美術家連盟代表として渡印し、約7ケ月インドに滞在した。昭和32年(1957)9月、渡欧してユーゴのドゥブロニックで開かれた国際造型芸術連盟第2回総会に日本代表として出席し、執行委員に選出され、昭和34年(1959)以降はローマに定住した。2期6年間、国際造型芸術連盟執行委員をつとめ、その間、重要事項採決にあたっては東洋諸国代表の中心的存在となって意向をまとめ、西欧諸国の独走をふせぐ役割をはたし、昭和35年(1960)には、グッゲンハイム賞、リュブリアナ国際版画ビエンナーレ展国際審査員にあげられた。昭和38年(1963)サン・マリノ・ビエンナーレ展、40年(1965)アメリカでの「日本の新しい絵画彫刻」展に出品、そのほか、ローマ、ミラノ、ヴェニスなどイタリア各地でグループ展、個展で作品を発表し、知的な探求心、旺盛な活動力と批評活動によって作品はつねに前衛的な作風を保持し、初期の超現実主義から晩年は抽象主義的作風へ移行した。かたわら、ブルガリアからアイルランドの各地を旅行してロマネスクの教会美術を調査し、数多くの写真資料を残している。遺体はローマのサン・ロレンツォ・バジリカ教会近くのカンポ・ベラノ墓地に埋葬された。作品略年譜昭和7年 「風景・道」(独立展)昭和9年 「静物」(独立展)昭和10年 「作品」(独立展)昭和11年 「作品A」『作品B』(独立展)昭和12年 「ムーヴマン」(独立展)昭和13年 「トルソ」「顕花植物」(独立展)昭和14年 「芽」「茎」(独立展)昭和15年 「地球創造説」「ひとで」「デッサン」(美術文化展)昭和16年 「支那芝居の顔」「内蒙古バタカルスム壁画模写」(美術文化展)昭和22年 「月環」(美術文化展)昭和24年 「アダム・イヴ」「生誕」(美術文化展)昭和26年 「デッサンA、B、C」「オタスケ」「アクロバット」「バレー」「ナメクジ」「航空機」(美術文化展)昭和27年 「神話(判字絵)」「一人相撲」「裸像」「夜明け」(美術文化展)、「埋葬」シリーズ3点(1回東京国際展)昭和28年 「座像」「顔」(2回東京国際展)昭和29年 「雨が降る」「予言者」(1回現代展)昭和30年 「体操」「人間」(3回東京国際展)昭和31年 「人間」「人間」(2回現代展)昭和32年 「Blind」(4回東京国際展)昭和34年 「作品」(5回東京国際展)昭和35年 「作品1」「作品2」(4回現代展)昭和36年 「作品1・マスプロダクション」「作品2・落ちる」(石版)昭和47年 京都、東京国立近代美術館『ヨーロッパの日本作家』展に「作品」「こだま」「R-15」「R-14」「R-23」「R-49」「R-4」の7点が陳列される。
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没年月日:1971/04/29 新制作協会会員の洋画家、太田忠は急性心不全のため、4月29日に広島県三次市の三次中央病院で死去した。享年63才。太田忠は、明治41年(1908)3月2日、広島市に生まれ、大正12年(1923)4月、広島において国鉄に就職、昭和13年三次市に転任、昭和38年(1963)定年退職した。少年時代から絵を好み、勤務のかたわら描き続けていたが、昭和12年ころ、機関車好きの故中西利雄に認められて小磯良平を紹介され、以後、小磯良平の指導をうけ、すすめられて新制作展に出品、昭和13年、新制作派協会3回展に「丘を走る汽車」が初入選、昭和16年6回展「雪景」「牛市場」「発電所の見える雪景」で岡田賞をうけ、同23年12回展に「巨木のある風景」「池畔の森」「道」を出品して新作家賞を受賞、同26年15回展「ガードのある風景」「K村の朝雪」「備後の風景」によって新制作協会15周年賞をうけ、昭和27年、会員に推薦された。そのほか、美術団体連合展1~5回(昭和22~26年)、日本国際美術展(昭和28、30年)、日本現代美術展(昭和29、31年)、秀作展(昭和27年)などに出品、外遊二回、機関士出身の特異な画家として知られた。作品略年譜(新制作展出品作)昭和14年 「汽車の見える風景」「鉄橋を走る汽車」昭和15年 「巨木のある風景」「汽車の走る風景」昭和17年 「炭屋」「水車小屋」昭和18年 「雪景」「山村」昭和21年 「備後の牧場A、B」「雪景」昭和22年 「小奴可村」「池畔雪景」昭和24年 「道後山雪景」「小奴可村」「巨木」昭和27年 「トンネル風景」「橋のある風景」昭和28年 「工場のある風景」「汽車の見える風景」昭和34年 「村のサーカス」「農家」「山村」昭和36年 「山村の秋」「飛騨の山A、B」昭和37年 「備後の山A、B、C」昭和39年 「村の遊園地」「雪景」「夕照」昭和40年 「村の市場」「山村の秋」「雪景」昭和42年 「雪景暮色」「山村秋景」昭和44年 「農村の秋A、B」昭和45年 「農村の秋オーベルニュ地方A」「農村の秋」
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没年月日:1971/04/28 医学博士で国画会会員の洋画家、宮田重雄は、4月28日午後4時45分、ジン硬化症による尿毒症のため東京・田無市の田無病院で死去した。享年70才。宮田重雄は明治33年(1900)10月31日、名古屋市の13代続いた医師の家に生まれ、愛知第一中学をへて慶応大学医学部にすゝみ、大正14年(1925)卒業した。愛知一中時代から伊藤廉らと共に絵を描きはじめ、草土社の画風にひかれ、慶応大学在学中の大正12年(1923)、春陽会第1回展に「横浜風景」が入選した。その後、梅原龍三郎に師事、大正14年国画会洋画部発足と同時に国画会展に出品したが、昭和2年(1927)パリに留学しパスツール研究所で血清研究のかたわら絵を描き、ユトリロ、アンリ・ルッソーの影響をうけ、昭和5年(1930)帰国、国画会展に作品を発表、翌6年会友に推され、また昭和7年医学博士となる。昭和8年中島飛行機製作所田無病院に勤務、昭和13年(1938)、北支派遣軍見習士官の軍医として北中国にいき、大同に駐屯し石仏を描き、帰国後、個展を開催、このときの作品が生涯を通じての代表作となった。この年国画会会員となる。昭和16~17年(1941~42)には満州へ派遣された。戦中・戦後田無病院長をつとめ、戦後は、ラジオ放送「廿の扉」のレギュラーメンバーとなって広く知られ、また、獅子文六の新聞連載小説「自由学校」、「箱根山」、「てんやわんや」、「青春怪談」などの挿絵を担当、その他、日曜画家の集団チャーチル会の主要な指導者であり、俳句、小唄をもよくし多方面に活躍した。著書に「ユトリロ」「フランス近代名画撰」「大同小異」などがある。作品略年譜国画会展出品作品-「波止場」「赤坂風景」(昭5・5回)「ヴィリエ・シュル・モラン」(1~2)「ヴィルフランシュ」(1~3)、「ヴィリエのエグリーズ」「ギョームの門(シャルトル)」「長崎風景」他9点(昭6、6回)、「ヴィルフランシュ」「カーニユ、ホテル」「郊外」「掛角」「土場」(昭7、7回)、「少年」「静物」(昭8、8回)、「卓上」「花」(昭9、9回)、「牡丹」「城」(昭10、10回)、「少女」「日蓮崎」「堂ケ島の朝」(昭12、12回)、「松と入江」(昭13、13回)、「雲崗第十一窟」「雲崗石仏」「雲崗石仏頭」(昭15、15回)、「微笑仏(大同)」「遅日」(昭16、16回)、「金堂内陣」(昭18、18回)、「読書」(昭22、21回)、「ボレロの娘」(昭23、22回)、「ミモザ裸婦」「ミモザ卓上」(昭24、23回)、「旅日記」(昭29、28回)、「恩師細谷教授像」(昭30、29回)、「長崎の丘」(昭33、32回)、「ヴエンス海岸通」(昭35、34回)、「焼岳晩秋」「石庭新緑」(昭38、37回)、「山桜」(昭44、43回)
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没年月日:1971/04/20 二科会会員の洋画家伊東静尾は、4月20日午後、尿毒症のため福岡県久留米市の小野外科医院にて死去した。享年68才。伊東静尾は明治35年(1902)10月25日、福岡県浮羽郡に生まれ、大正4年福岡県立明善中学校に入学、大正8年(1919)同校を中退して上京、日本美術学校に入学、同12年(1923)卒業、郷里へ帰った。昭和4年(1929)、坂本繁二郎に師事し、昭和10年(1935)22回二科展に「高良台」が初入選、以降、二科展に出品をつづけ、昭和25年(1950)会友に推挙され、同29年(1954)同会会員となり、昭和41年フランス、サロン・ド・コンパレゾン展、42年サロン・ドートンヌ展、44年コペンハーゲン国際展などにも出品した。二科展出品作品略年譜昭和25年 「交響」「素朴なる状景」昭和26年 「村童と馬」「情熱の花房」昭和27年 「馬屋」「村内」昭和29年 「作品A・浮立」「作品B写型」昭和30年 「流転」「激動」昭和31年 「結合」「分裂」「交響」昭和35年 「道(溜)」1~3昭和36年 「土」「土」昭和41年 「土」昭和42年 「土と共に」「土と共に」昭和43年 「石紋1」「石紋2」
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